蜑民の源流・人口・地域分布に関する一考察
王 歓 歓* はじめに 中国華南における水上居民である蜑民の存在は古くから知られている。唐宋以来、彼らは両広(現 在の広東省・海南省1・香港・澳門・広西チワン族自治区)及び福建の沿海域・河川域に集中している。 蜑民は白水郎・泉郎・曲蹄・龍戸・盧亭・蜑戸・蛋民・艇家・疍民とも呼ばれている。蜑民の職業 は多様であり、主に魚類を獲って生活を営んだ。また、彼らは採珠を生業とし、その他には貨物の 搬送・渡船で生活する蜑民がおり2、売春に従事する蜑婦もいた3。なお、彼らは交通輸送など多方面 で重要な役割を果たしていたが、生活習慣や良民の偏見などの原因によって、古くから蜑民は差別 の対象とみなされた4。さて、蜑民を語る際、源流・人口・地域分布は避けられない基本問題である。 そこで、本研究はこの基本問題を明らかにすることを目的とする。 さて、20世紀前半から柳田国男〔「家船」(初出は1921年の講演)『日本民俗文化資料集成(3)漂 海民-家船と糸満』(三一書房、1992年)〕、何格恩(「蜑族的来源質疑」『嶺南学報』第 5 巻・第 2 期、 1936年)、林耕〔「蛋家の来歴とその生活」『アジア問題講座(第 9 巻)』(創元社、1939年)〕、羅香 林〔「蜑民源流考」(初出は1940年)『百越源流與文化』(国立編訳館中華叢書編審委員会出版、1978 年)〕、陳序經などの学者が蜑民に関心を持って調べ始め、比較的まとまった研究がおこなわれた。 特に民国の陳序經が著した『疍民的研究』(商務印書館、1946年)は、蜑民に関する初の単行本で ある。この著作では、国民党政府がおこなった広州市の人口調査資料と実地調査資料を用いて、広 州市を中心に蜑民の起源・人口・婚姻・日常生活など多方面的にわたる考証がなされた。しかし、 広州市以外の蜑民については一部しか記録されていない。一方、1950年代以来の蜑民を対象とした * 岡山大学大学院社会文化科学研究科博士後期課程 1 海南省は元々広東省に属したが、1988年に広東省から分離した。 2 周凱修・凌翰等簒『(道光)厦門志』巻15・俗尚(成文出版社、1967年)、326頁:玉沙坡釣艇家人,婦子長 年舟居,趁潮出入,日以為常。……港之内,或維舟而水處,為人通往來、輸貨物,浮家泛宅。俗呼曰五帆, 五帆之婦曰白水婆。自相婚嫁。…… 施鴻保撰・来新夏校『閩雜記』巻 9 ・五帆船(福建人民出版社、1985年)、149頁:興、泉、漳等處海汊中, 有一種船,專運客貨與渡人來往者,名五帆船。其中婦人名曰白水婆,自相婚配,從不上岸。…… 3 呉高梓「福州疍民調査」(初出は『社会学界』第 4 巻、1930年)李文海等編『民国時期社会調査叢編』 1 編・ 底辺社会巻・下(福建教育出版社、2004年)、576頁;鄒德珂・項孝挺「福州市台江区小船戸各種統計及其生 活狀況的調査」(初出は『社会研究』第 1 巻第 1 期、1935年)同書『民国時期社会調査叢編』 1 編・底辺社 会巻・下、587頁。 4 拙稿「雍正帝の賎民解放令にみる蜑民」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第48号、2019年)、 193・202頁。研究は著しく進んでおり、さまざまな論著が発表されている。蜑民の源流・人口・地域分布に関わ る先行研究を簡単にふりかえってみると次のとおりである。 まず、蜑民の起源については、陳碧笙「関於福州水上居民的名称、來源、特徴以及是否少数民族 等問題的探討」(『厦門大学学報』第 1 期、1954年)、韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史 来源」(『厦門大学学報』第 5 期、1954年)、蒋炳釗「蛋民的歴史来源及其文化遺存」(『広西民族研究』 第 4 期、1998年)などの論考が発表された。陳は福州蜑民の起源に関する諸説を分析し、古蜒族説・ モンゴル人南下説及び陳友諒部族説を批判した。韓もまた福建蜑民の呼称・由来・起源などの問題 に言及している。蒋は、蜑民の起源を論じ、トーテム崇拝と入れ墨の風習が蜑民の中に存在するこ とを紹介した。 蜑民の人口に関する主な論説としては、可児弘明『香港の水上居民―中国社会史の断面』(岩波 書店、1970年)、傅貴九「明清疍民考略」(『史学集刊』第 1 期、1990年)や徐心希「閩、粤、台三 地疍民歴史考略―以福州疍民為中心」(『福建歴史学研究30年回顧與展望学術論壇論文集』、2008年) 等がある。以上の三論考において、蜑民の人口に関する貴重な情報が見られる。 蜑民の地域分布に関わる専論は、林蔚文「福建蛋民名称和分布考」(『東南文化』第 3 期、1990年)、 詹堅固「宋代蜑民考略」(『黒竜江社会科学』第 5 期、2012年)に代表される。林によれば、「福建 蜑民は漳州・泉州・厦門・龍岩などの地区に分布する」という。詹は、「宋代における蜑民の居住 範囲は、西は広西から広東を経由して、東は福建・浙江の江海域にまで広がる」と主張した。 蜑民の源流・人口・地域分布に関して、以上の諸論考は大変有益な参考を提示してくれるが、全 面的に検討した研究業績はないようである。特に、研究対象となる地域には顕著な偏りがある。そ のため、本稿では先行研究に若干の修正と補足を加えつつ、蜑民の起源・人口・地域分布について 全面的に明らかにする。 Ⅰ.蜑民の源流 1.蜑(蜒)の出現 蜑(蜒)5という語の文献上の初出は東晋においてであり、常璩の『華陽国志』巴志6に見られる。 その後、蜑(蜒)という語は『南斉書』・『周書』・『隋書』などの史籍に散見している。ところが、 それら史書に見える蜑(蜒)と後代の史料に見える水上蜑民には相違がある7。例えば、『隋書』巻 5 張玉書等『康熙字典』申集中・虫部・蜑條(中華書局、1958年)、13頁:蜑……一作蜒或作蛋。 6 常璩『華陽国志』巻 1 ・巴志(斉魯書社、2000年)、 4 頁:其属有濮、賨、苴、共、奴、獽、夷、蜑之蠻。 7 この説に関して研究者は共通の理解を得ている。主な論著として、陳序經『疍民的研究』(商務印書館、1946 年)、46-47頁;韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」(『厦門大学学報』第 5 期、1954年)、172頁; 小川博「中国史上の蜑-蜑(蛋)についての諸学説の沿革について(五)」(『海事史研究』17号、1971年)、 83-84頁;傅貴九「明清疍民考略」(『史学集刊』第 1 期、1990年)、16頁;蒋炳釗「蛋民的歴史来源及其文化 遺存」(『広西民族研究』第 4 期、1998年)、78頁等。
29・地理志上に「蜀郡(現在の四川省成都市)にはさらに獽狿蠻賨がいる」8、巻31・地理志下に「長 沙郡にはさらに夷蜒が入り混じってあって、その名は莫徭という」9と書かれ、同じく巻82・南蠻伝 には「南蠻の雑類は、華人と錯居して、蜒といい、獽といい、俚といい、曰獠という。……山洞に 随って居住しており、その祖先は所謂百越である」10とある。以上より、東晋から隋に至るまでの 蜑(蜒)は穴居野所の少数民族であり、水上居住者の意味は全く見出されない。その居住地帯も巴 蜀と華中にもっとも集中しており、閩粤桂に限られていない。即ち、荊湘巴蜀における陸居の蜑(蜒) と華南に生きる蜑民ないし水居の蜑民とは、系譜的につながらないものと考えられる。 2.蜑民の起源 蜑民の起源をめぐって民国・陳序經の『疍民的研究』は次のように述べている。蜑民の起源伝説 は約三十種あり、以下の六つに分類できる。①蜑民の体格や船舶の形状から起源を説明するもの。 ②蜑の字から起源を説明するもの。③特定の動物が起源だとするもの。④特定の地方から来たとす るもの。⑤特定の時代に出現したとするもの。⑥特定の民族の別名や支流とするもの11。しかしな がら、学界では蜑民の起源をめぐって論争が続き、十分に説明できるような証拠はなく、いまだに 定説がない。主に古越人後裔説(古越族後裔説)、盧循残党説さらにモンゴル・色目人種説(元番 種説)、陳友諒部下説や李自成残党説などの代表的な学説がある。以下に各学説の内容をまとめる。 古越人後裔説 越人(越族・百越)は古代中国の南方及び南東方に居た先住民の総称である。越 人の分支として、於越は浙江、閩越は福建、揚越は江西、南越(秦末の西甌を含む)は嶺南、西甌 (西嘔・西越)は広西、駱越は安南にある12。 戦国時代、周顯王四十六年(前323)に楚威王は越王の無彊を殺した。その後、諸子がそれぞれ 君主となり、楚の脅威を逃れるため江南海上に散在し、楚に服従したという。この事件が閩越の庶 民が海上生活するようになった始まりという。ついで、無彊の七世孫の無諸と搖は漢が項羽を討っ た際、越人を率いて漢を助けた。漢高帝五年(前202)に無諸は再び立てられて閩越王となる。そ の後、閩越王の郢に至り、南越を攻撃した。そこで、漢武帝は王恢・韓安国を命じて閩越を征討し た。最後には郢の弟の余善が郢を殺す結果に終わった。余善は自立して王となり、反乱したため、 漢武帝は韓説を派遣して平定し、元封元年(前110)に閩越国(無諸国)を滅ぼし、その民を移住 8 魏徴等『隋書』巻29・地理上(斉魯書社、1982年)、830頁:蜀郡……又有獽狿蠻賨。 また、狿の字をめぐって、『康熙字典』(巳集下・犬部・狿、16頁)の記す、あるいは蜒に作る。 9 前掲『隋書』巻31・地理志下、898頁:長沙郡,又雑有夷蜒,名曰莫徭。 10 前掲『隋書』巻82・南蠻伝、1831頁:南蠻雑類,与華人錯居,曰蜒,曰獽,曰俚,曰獠,……随山洞而居, 古先所謂百越是也。 11 前掲『疍民的研究』、 1 頁。 12 陳国強・蒋炳釗等『百越民族史』(中国社会科学出版社、1988年)、 1 - 2 頁。また、欧大任『百越先賢志』(欽 定四庫全書影印本)の提要には次のように書いてある。其著者,嶺南為南越,自東冶至漳泉為閩越,永嘉為 甌越,自湘灕而南為西越,牂牁西下邕雍綏建為駱越,統而名之,謂之百越。
させることとした13。そこで一部の閩越人が海川に逃げて水上居住を始めて蜑民となったという起 源説がある14。 また、紀元前221年から214年にかけて始皇帝は屠睢・趙佗に南越・西甌を征討させ、桂林郡・象 郡・南海郡をおいた。秦の嶺南征服については『淮南子』に「秦始皇が国尉・屠睢を派遣して50万 の卒を発して五軍とし、……監祿に糧食を運搬させた。また卒を以って渠を掘って糧道を通じた。 越人と戦って西嘔の君・譯吁宋を殺した。越人はみな草叢に入って禽獸と一緒に生活し、秦の虜と なる者はなかった」とある15。後世の地方志などに見える両広蜑民の起源に関わる記事は『淮南子』 を参考にしたうえで、若干の変更を加えたものである。例えば、明嘉靖年間の『惠州府志』16にお ける蜑民の起源の記事(注18を参照)を読むと、前半部は『淮南子』と似ている部分があるが、後 半部には「秦の虜となろうとしない遺民は魚を釣ることを楽しみとし、船を以て家となす……」と 加筆されている。なお、両広蜑民が古越人(南越・西甌)の遺民を起源とすることは、明代以後の 地方志において豊富な記事が存在する。しかしながら、明代以前の文献に記載されている古越人後 裔説は今のところ見当たらない。そのため、明代に入ってこの説が出現したと推測される。 13 司馬遷『史記』巻41・越王勾踐世家第11(中華書局、1981年)、1747-1751頁:句踐卒,子王鼫與立。王鼫與卒, 子王不壽立。王不壽卒,子王翁立。王翁卒,子王翳立。王翳卒,子王之侯立。王之侯卒,子王無彊立。…… 王無彊時,越興師北伐齊,西伐楚,與中國爭彊。……楚威王興兵而伐之,大敗越,殺王無彊,盡取故呉地至 浙江,北破齊於徐州。而越以此散,諸族子爭立,或為王,或為君,濱於江南海上,服朝於楚。…… 同書『史記』巻114・東越列傳第54、2979-2984頁:閩越王無諸及越東海王揺者,其先皆越王句踐之後也,姓騶氏。 ……漢擊項籍,無諸、搖率越人佐漢。漢五年,復立無諸為閩越王,王閩中故地,都東冶。……至建元六年, 閩越擊南越。……兵未踰嶺,閩越王郢發兵距險。其弟餘善乃與相、宗族謀曰:「王以擅發兵擊南越,不請,故 天子兵來誅。今漢兵衆彊,今即幸勝之,后來益多,終滅國而止。今殺王以謝天子。天子聽,罷兵,固一國完; 不聽,乃力戰;不勝,即亡入海。」……乃遂俱殺餘善,以其衆降橫海將軍。……於是天子曰東越狹多阻,閩越 悍,數反覆,詔軍吏皆將其民徙處江淮閒。東越地遂虛。 前掲『百越先賢志』提要:南方之国越為大,自勾踐六世孫無疆為楚所敗。諸子散處海上,各為君長。 14 朱景星修・鄭祖庚簒『(光緒)侯官県郷土志』版籍略1・人類・疍族(海風出版社、2001年)、383-384頁: 疍之種為蛇,有謂成色目人者,盖附会之詞也。其人以舟為居,以漁為業,浮家泛宅,遂潮往來,江干海澨, 隨處栖泊。各分港澳,不相凌獵。間有結廬岸上者,蓋亦不業商賈,不事工作,習於卑跣,不齒平民。閩人皆 呼之為曲蹄,肖其形也。視之如奴隸,賤其品也。……按疍為蛇種,盖即無諸国之遺民也。…… また、前掲韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」、163頁;前掲蒋炳釗「蛋民的歴史来源及其文 化遺存」、82頁。 15 劉安等編・何寧集釋『淮南子集釋』巻18・人間訓(中華書局、1998年)、1288-1290頁:秦皇挾錄圖,……乃 使尉屠睢發卒五十萬,為五軍,……使監祿無以轉餉。又以卒鑿渠而通糧道,以與越人戰,殺西嘔君譯吁宋。 而越人皆入叢薄中,與禽獸處,莫肯為秦虜。…… 16 李玘修・劉梧纂『(嘉靖二十一年)惠州府志』巻12・外伝・蛋(書目文献出版社、1991年)、145頁:蛋長,又 稱蛋家里長。其種不可知,考之秦始皇使尉屠睢統五軍,監祿鑿河通道。殺西甌王,越人皆入叢薄中,與禽獸處。 莫肯為秦意者,即入叢薄中之遺民邪。……但其籍則繫河泊所,在興寧者則編属縣下六都,立其中甲首甲以領矣。 然課額猶稱河泊焉,曰蛋民乃水居者也。隻船支槳衣不蓋膚,計舟納課。…… 姚良弼修・楊宗甫纂『(嘉靖三十五年)惠州府志』卷14・外志・徭蛋(嶺南美術出版社、2009年)、518頁:蛋, 其來莫可考。按秦始皇使尉屠睢統五軍,監祿鑿河通道。殺西甌王,越人皆入叢薄中,與禽獸處。莫肯為秦意者, 此即入叢薄中之遺民耶。以魚釣為樂,以舟為宅。(『淮南子』との類似箇所は で示している。)
さらには、越人は蛇種と呼ばれることもあった17。彼らは操舟に優れ18、入れ墨の習慣がある19。こ れらの風俗から見れば、蜑民と似ている20。これも後世の学者21が古越人後裔説を支持した理由の一 つである。 盧循残党説 東晋安帝の時、軍閥貴族の内乱が相継ぎ、隆安三年(399)に孫恩・盧循(孫恩の 妹婿)をはじめ、天師道を奉ずる信徒たちの叛乱が起こった22。大亨元年(402)、孫恩は臨海郡(現 在の浙江省の南東部)の攻撃に失敗して海に身を投じて自殺した。孫恩の死後、盧循が指導者となっ た。彼は九陽及び広州を占拠したが、交州(現在の両広の大部及びベトナムの北部)を攻める時に、 交州刺史杜慧度に敗れて自殺した。残党の一部は水上に逃げ込んだという。そのため、蜑民は盧循 の部下の子孫であったという伝説が存在していた。例えば、唐末劉恂の『嶺表録異』巻上・盧亭條 には「盧亭というのは、盧循が昔広州を占拠し、(杜慧度に)敗れ、その余党が海島に逃れて居住 したものである」23という。さらに、『太平寰宇記』巻102・江南東道14・泉州風俗の條に、「泉郎と は即ちこの州の夷戸である。または遊艇子という。これは盧循の余党である。晋末、盧循が反乱し たが、劉裕に滅ぼされ、その残党が裏切って逃げて山海に散居した。今でも多くの種族がある」24 と述べられ、南宋方信孺の『南海百詠』盧循河南故城に、「盧亭、蛋戸はみな盧循の遺種である」25 とある。また盧循残党説は、明・清人によってしばしば引用されている。例えば、解縉等奉敕纂『永 樂大典』(巻11907)・陳夢雷『古今図書集成』(巻1308)・顧祖禹『読史方輿紀』(巻95)がある。盧 循の乱は東晋末期の反乱であるが、その後に編纂された『北史』・『周書』・『隋書』などにはその残 党の末裔が水上生活者となった記述は存在しない。従って、盧循残党説の信憑性には問題がある。 モンゴル・色目人種説 蜑民の祖先はモンゴル人であるとの伝説がある。チンギス・カンが中国 を支配した時、モンゴル人を各省に移住させたが、明の興起にあたって、モンゴル人は漢人に駆逐 17 許慎『説文解字』13上・虫部(中華書局、1978年)、282頁:閩,東南越,蛇種。從虫門聲。 18 班固『漢書』巻64・嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳第34上(中華書局、1983年)、2778頁:臣聞越非有城郭邑里也, 處谿谷之間,篁竹之中,習於水鬬,便於用舟,地深昧而多水險,中国之人不知其埶阻而入其地,雖百不當其一。 19 前掲『漢書』巻28・地理第 8 下、1669頁:……文身斷髮,以避蛟龍之害。(應劭曰:常在水中,故斷其髪, 文其身,以象龍子,故不見傷害也。)後二十世,至句踐稱王,與呉王闔廬戰,敗之雋李。……後五世為楚所滅, 子孫分散,君服於楚。後十世,至閩君揺,佐諸侯平秦。漢興,復立揺為越王。 20 李調元『粤風』巻 1 ・蛋歌、張智編『中国風土志叢刊』(廣陵書社、2003年)、16頁:蛋有三:蠔蛋、木蛋、 魚蛋。寓潯者乃魚蛋,未詳所始。或曰蛇種,故祀蛇于神宮也。 前掲『(光緒)侯官県郷土志』版籍略 1 ・人類・疍族、383頁:疍之種為蛇,有謂成色目人者,盖附会之詞也。 屈大均『広東新語』巻18・舟語・蜑家艇(中華書局、1997年)、486頁:昔時稱為龍戸者。以其入水輒繡面文身, 以象蛟龍之子。行水中三四十里,不遭物害。 21 例えば、羅香林『百越源流與文化』(国立編訳館中華叢書編審委員会出版、1978年)、223頁。 22 宮川尚志「孫恩・盧循の乱について」(『東洋史研究』第30巻第 2 ・ 3 合併号、1971年)、161頁。 23 劉恂『嶺表録異』巻上・盧亭(広西民族出版社、1988年)、60頁:盧亭者,盧循昔拠広州,既敗,余党奔入海島 野居。…… 24 楽史『太平寰宇記』巻102・江南東道14・泉州風俗(中華書局、2007年)、2030頁:泉郎,即此州之夷戸,亦 曰遊艇子,即盧循之餘。晋末,盧循暴寇,為劉裕所滅,遺種叛逃,散居山海,至今種類尚繁。 25 方信孺『南海百詠』盧循河南故城(広東人民出版社、2010年)、39頁:其盧亭、蛋戸,皆盧循之遺種也。
された。黄河以北に居る者はすべて内外モンゴルへ逃げ帰ったが、黄河以南に住んだ者は逃げるこ とができずに殺された者が多く、その一部が水上に逃げて水上生活をすることとなったという26。 また、色目人は西域出身の人々であり、元朝廷は色目人を利用して漢人を監督させた。元の滅亡の のち、漢人に追い出された色目人の一部が水上に逃避して蜑民となったという説もある27。 モンゴル・色目人種説は民国期に見られるが、それ以前の文献には見えない。さらに、新中国の 建国初期の本格的な粤東蜑民の調査報告によれば、モンゴル・色目人種説は蜑民自身の口頭伝承に すぎないという28。なお、元の泰定帝が広州・福建などの採珠の蜑戸を罷め民としたことが『元史』29 に見える。また、『(光緒)侯官県郷土志』に「蜑民を色目人とすることはおそらく附会の話にすぎ ない」30とも書いてある。従って、モンゴル・色目人が水上に逃げて蜑民となったという説には問題 がある。 陳友諒部下説・李自成残党説 元末、陳友諒が鄱陽湖で戦に負けた時、その部下は東に敗走した。 その後、明太祖朱元璋は彼らが再び陸居することを許さなかったので蜑民となったという31。一方、 『(光緒)嘉応州志』によると、「陳友諒の部下には多くの水軍を含む。陳友諒の敗北により、彼ら は再び漁を生計の手段とするようになった。嘉応州(現在の広東省梅州市及び興寧市の大部分)の 麦・濮・蘇・呉・李という蜑戸は友諒の部下である。ゆえに、沿岸に陳友諒の祠堂を建てた。これ も附会の話である。……また『州志』の顏槦(南宋開禧年間の人)伝に云う、梅州(現在の広東省 梅州市)の蜑家は宋以前から存在していた。陳友諒が原因で漁戸となるようなことがあろうか。そ 26 盛敍功『福建省一瞥』(商務印書館、1927年)、93頁。 「粤東疍民社会調査」(初出は「粤東蛋民調査材料」広東省人民政府民族事務委員会、1953年)広東省民族研 究所編纂『広東疍民社会調査』(中山大学出版社、2001年)、69-70頁。 27 「福建蛋族復權之請願」『申報』中華民国元年三月廿二日第七版:蛋族為蒙古色目人種。元末時,閩人斥之不 使踐土者。有謂元末閩人約於除夕燒火砲柴為號,殺盡韃子,中有一家被酒忘其事,而韃子之郭、倪二姓遂乘 間逃水濱,欲借舟而遁,事為人所覺,欲殺之,以其力求免死,遂許其在水中討生活,終身不得登岸,今遂成 為蛋族焉。又有謂蛋族為李自成舊部流入閩中,而自儕於奴隸者。 徐珂『清稗類鈔・ 4 冊』種族類・蜑人條、(中華書局、1984年)、1905頁:或謂蜑族為色目人種。元末時,閩人 斥之不使踐土者。或又謂元末閩人約於除夕燒火柴為號,殺盡韃子,中有一家被酒忘其事,而韃子之郭、倪二 姓遂乘間逃水濱,欲借舟而遁,事為人所覺,欲殺之,以其力求免死,遂許其在水中討生活,終身不得登岸, 後遂成為蜑族者。或又謂蜑族為李自成舊部流入閩中,而自儕於奴隸者。 28 前掲『広東疍民社会調査』、70頁。 29 宋濂等撰『元史』巻29・泰定帝本紀一(中華書局、1976年)、649頁:泰定元年七月癸卯,罷廣州、福建等處 採珠蜑戸為民,仍免差税一年。 同書『元史』巻30・泰定帝本紀二(中華書局、1976年)、672頁:(泰定三年八月辛丑)詔諭廉州蜑戸使復業。 30 注14を参照。 31 陳文濤『福建近代民生地理志』(福州遠東印書局、1929年)、 3 - 4 頁:蜑族常在水上操舟為業,相傳乃陳友諒 敗兵,為明所驅迫者。……
の説が荒唐無稽なことがわかる」と記してある32。 また、一説に明末の李自成の死後、その残党が福建の水上に流入して蜑民となったと伝える33。 李自成残党説については民国以後の学者らが「まったく臆説である」と主張している。なお、前に 掲げた北宋期の『太平寰宇記』にはっきり蜑民のことが記録されているので、李自成残党説と前述 したモンゴル・色目人種説及び陳友諒部下説に信をおくことはできない。 1950年代、全国的に民族識別工作34が実施され、蜑民は漢民族と認定された。一方、蜑民は操舟 や入れ墨などの風俗において古越人と相似している所が多く、地理上の分布において古越人と一致 するところがあると見られる。古文献にも蜑と蛮夷の名称とが並べ称され、その影響を受けて蠻蜑 という言葉も使用されている。ゆえに、古来から蜑民は蛮族・非漢族とみなされてきた。まさに柳 田国男の指摘のように、中国の蜑民は水上生活を営む特種民族と言える35。ただし、蜑民は古越人 であったという結論を出すことはできない。その原因としては、古代南方民衆の大部分は華北より 南下した民衆と同化した人々の後裔であるから、古越人にも漢人の血脈があることを否定できない。 また、北方民衆の南方移住36に伴って蜑民に同化した漢人または少数民族が居るかもしれない。さ らに、蜑民の中には盧循の残党、モンゴル・色目人や陳友諒の部下、李自成の残党が含まれている ことを排除するものではない。要するに、生活習慣・風俗が共通し、地理的な分布が重なることを 根拠に、蜑民の起源は土着の古越人とする可能性が比較的高いと思われるものの、時間の推移に伴っ て蜑民の中には複雑な多種の人々が含まれていったと考えられる。 Ⅱ.蜑民の人口 船上生活者の人口統計は昔から難物とされてきた37。これまで蜑民の人口を対象にした研究はい くつか見られるが、十分な考察がなされてきたとは言いがたい。ここでは先行研究を踏まえた上で、 蜑民の人口についての既存史料を改めて整理して、その人口検討を試みる。 32 呉宗焯修・温仲和纂『(光緒)嘉應州志』巻17・祠祀(成文出版社、1968年)、282頁:謂友諒部卒多為水軍, 友諒敗,復以漁自活。州之蛋戸麦濮蘇呉李即其部伍,故所至沿岸建友諒祠,此亦附會之語。……又『州志』: 顏槦開喜間任梅州知州,祀名宦,本傳云:贛賊陳三槍率眾迫梅城四十二日,槦合蛋船布水陣攢矢射之。則梅 之有蛋家,已在宋以前,何得因陳又諒有漁戸。其為無稽可知矣。 33 注27を参照。 34 民族識別工作は1950年から1990年まで中国全国で行われ、社会調査を通じて中国国内のエスニック集団の言 語や文化、歴史的な特徴を明らかにしようとするものである。これに基づいて民族を認定した。黄光学『中 国的民族識別』(民族出版社、1995年)、111-112頁。 35 谷川健一編『日本民俗文化資料集成(3)漂海民-家船と糸満』(三一書房、1992年)、318頁。 36 北方の南方移住の主な段階について、①秦始皇は兵五十万を派遣して百越を攻撃した。五十万の大軍は北方 へ帰らず当地の越人と融合した。②漢武帝は南越・閩越を滅ぼし、一部の民衆が南方に移住した。③西晋永 嘉の乱から五胡乱華の期間に北方民衆が戦禍を逃れるため南下した。④安史の乱から唐末五代まで中原の 人々が南下した。⑤北宋を滅ぼしたのち、北方民衆が南部中国に移住した。葛劍雄『中国移民史(第 1 巻)』(福 建人民出版社、1997年)、181・191・222・226・229・237・244・273-292・315-317頁。 37 可児弘明『香港の水上居民―中国社会史の断面』(岩波書店、1970年)、 7 頁。
蜑民人口の統計を取ろうとする試みは唐代にまで遡ることができる。唐王朝は蜑民人口を把握す るとともに、これによって徴税の基礎を構築することを目指した38。しかしながら、人口数を記録 した戸籍冊などの文献はみあたらない。宋は唐の制度を引き継いだが、蜑民人口の記録については 一箇所が残存するのみである。『永樂大典』巻5343引『(南宋)三陽志』に、南宋期における潮州府 の戸口数として、「総課税戸(主客戸)と蜑戸をあわせた戸数が一十三萬五千九百九十八戸、一十 四萬五千七百三十二丁口39である。……本州(潮州府)三県(宋のとき、潮州府は海陽・潮陽・掲 陽の 3 県を管轄した)の主客戸は一十一萬六千七百四十三戸、一十四萬七千五百七十口丁口であ る」40とある。よって南宋潮州府における蜑民の戸数は19225戸となり、全体戸数の14.1%を占めて いる。ただ、末尾にある主客戸の丁口数(147570)が主客戸と蜑戸を合計した数(145732)より多 い、その原因については、書き間違いか、それとも統計の誤りか、今のところ把握できない。 明初には朝廷が蜑民の戸籍を作り、蜑民の人々の中で里長を立て、洪武十六年(1383)に河泊所 を設けて蜑民の魚課を収めさせた41。残念なことに戸籍冊に相当する里甲冊は現存しないが、『明實 録』と広東の地方志の記述が洪武年間の蜑民の戸数・人口数を考えるのに役立つ。 まず、洪武十五年(1382)に明太祖が南雄侯趙庸に命じて10000人の広州蜑 を水軍に編入させた という42。また次の表 1 から読みとれるように、洪武年間に高要県の蜑民は800戸、潮陽県の蜑民は 41戸、香山県の蜑民は2620戸と記録されている。もう一つは『明英宗實録』正統十二年(1447)十 二月戊午の条に引用された河泊所の上奏文である。これによれば、統計の時期は明記されていない ものの、広東儋州(現在の海南省儋州市)の蜑民は元々2200余戸であったという43。儋州に河泊所 を置いたのは洪武十六年のことであり44、加えて現存の史料による限り、建文より正統年間にかけ 38 阮元修・陳昌斉纂『(道光)廣東通志』卷330・列伝63・嶺蠻(上海古籍出版社、2002年)、713頁:蜑戸,… …以舟楫為家,捕魚為業。……自唐以來,計丁輸糧。前掲拙稿「雍正帝の賎民解放令にみる蜑民」、195頁。 39 中国の五代から宋にかけて、丁口は20歳から60歳までの成年男子を指す。宋代の戸籍統計は戸数と丁口数の みを統計する。詳しくは以下の論文を参照。詹堅固「宋代蜑民考略」(『黒竜江社会科学』第 5 期、2012年)、 20頁。 40 解縉等奉敕纂『永樂大典(第59冊)』巻5343・潮・潮州府・戸口(中華書局、1960年)、21頁:比歳以來,総 税客戸與蛋戸言之,以戸計者,一十三萬五千九百九十八。以口計者,一十四萬五千七百三十二,較之於古, 不啻百倍,自今以往,不其愈盛哉。本州三縣主客戸,總一十一萬六千七百四十三戸,總一十四萬七千五百七 十口。 41 王贄纂修『(康熙)瓊山縣志』巻 3 ・賦役志・魚課(書目文献出版社、1992年)、423頁:洪武癸亥(十六)年, 設河泊所統蜑戸,歳辦魚課米六百四十九石九斗九升。また、注16を参照。 42 台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明太祖實録』巻143・洪武十五年閏二月癸亥(中文出版社、1984年)、 2252頁:命南雄侯趙庸籍廣州蜑戸萬人為水軍。時蜑人附海島,無定居,或為寇盜,故籍而用之。 43 台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明英宗實録』巻161・正統十二年十二月戊午(中文出版社、1984年)、 3125頁:廣東儋州河泊所奏:本所蜑民原額船網等業二千二百餘戸,後因充軍逃故。…… 44 唐冑修『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課(嶺南美術出版社、2009年)、152頁:国朝洪武十六年,本府除 安定、樂會二縣,共設河泊所凡一十一處。…… また、明清代に瓊州府は瓊山・澄邁・臨高・安定・文昌・會同・楽会・昌化・陵水・感恩・儋州・萬州・崖 州の13県を管轄した。
ての戸数統計は存在していない。よって、儋州蜑民の戸数統計は洪武年間に実施された可能性が高 い。以上をまとめてみると、洪武年間もしくは明初における広東の高要・潮陽・香山・儋州四県の 蜑民は合計約5661戸となり、広州の男性蜑民は少なくとも10000人であった。さらに、正統〜萬曆 年間の蜑民の人口に関する記事で今日に伝わるものは、表 1 に示すように、広東には合計約3000戸、 広西容県には約300戸がいる。 表 1 :明代以降の地方志による蜑民の戸数・人口数統計 * 本表の依拠した地方志と論文は次の通り。郭汝誠修・馮奉初纂『(咸豊)順德県志』巻 6 ・経政略 1 ・蛋戸(成 文出版社、1966年)、503頁;易紹悳修・封祝唐纂『(光绪)容県志』巻28・水蛋(成文出版社、1974年)、1138 頁;傅貴九「明清疍民考略」(『史学集刊』第 1 期、1990年)、22頁;蔡人奇『藤山志』巻10・叢錄・蛋戸(上 海書店出版社、1992年)、34頁;福建省廈門市地方志編纂委員会整理『(民国)廈門市志』巻17・実業志(上海 書店出版社、2000年)、379頁;劉抃纂修『(康熙)饒平県志』巻 4 ・戸口(海南出版社、2001年)、227頁;張 地区 年代 戸数 人口数 地区 年代 戸数 人口数 樂會(広東) 明正德七年 112 —— 饒平(広東) 明成化十八年 1 —— 明嘉靖元年 114 —— 明嘉靖五年 1 —— 明嘉靖二十一年 106 —— 明嘉靖四十二年 3 —— 明嘉靖三十一年 106 —— 徐聞(広東) 明天順六年 291 —— 明萬曆十一年 110 146丁 明成化十八年 80 —— 瓊山(広東) 明正德七年 183 —— 明萬曆四十一年 188 —— 臨高(広東) 明正德七年 221 —— 靈山(広東) 明嘉靖十一年 5 15 文昌(広東) 明正德七年 230 —— 欽州(広東) 明嘉靖十一年 11 104 會同(広東) 明正德七年 88 —— 興寧(広東) 明正德年間 38 —— 儋州(広東) 明正德七年 333 —— 會來(広東) 明萬曆三十一年 1 —— 昌化(広東) 明正德七年 12 —— 潮陽(広東) 明洪武二十四年 41 —— 萬州(広東) 明正德七年 77 —— 明嘉靖四十五年 15 —— 崖州(広東) 明正德七年 349 —— 香山(広東) 明洪武二十四年 2620 —— 感恩(広東) 明正德七年 56 —— 明成化八年 181 —— 陵水(広東) 明正德七年 100 —— 高要(広東) 明洪武十四年 800 —— 海康(広東) 明天順六年 291 —— 明成化年間 180 —— 明萬曆四十一年 188 —— 韶州(広東) 明嘉靖年間 297 —— 澄邁(広東) 明正德七年 152 —— 仏岡(広東) 清道光年間 108 415 明嘉靖元年 152 —— 三水(広東) 清康熙年間 496隻 —— 明萬曆三十年 152 —— 南海(広東) 清乾隆年間 63 —— 清順治十年 58 —— 清嘉慶十九年 2137 —— 容県(広西) 明萬曆年間 約300余 —— 清道光十年 1166 —— 清康熙四十年 約80余 —— 順德(広東) 清咸豊年間 約5000 約25400 北流(広西) 清乾隆年間 約50余 —— 增城(広東) 清乾隆年間 27 —— 蒼梧(広西) 清嘉慶年間 298 —— 藤山(福建) 民国 1000以上 —— 厦門(福建) 民国 —— 5000余
允觀纂修『(乾隆)重修北流県志』紀事志巻 9 ・餘錄(海南出版社、2001年)、67頁;管一清纂修『(乾隆)增 城県志』巻 3 ・品族・徭蛋(海南出版社、2001年)、366頁;符錫纂修『(嘉靖)韶州府志』巻 3 ・都坊(嶺南 美術出版社、2007年)、38頁;鄧遷等纂『(嘉靖)香山県志』巻 3 ・政事・漁塩(嶺南美術出版社、2007年)、 44頁;鄭玟纂修『(康熙)三水県志』巻14・外志(嶺南美術出版社、2007年)、361頁;魏綰修・陳張翼纂『(乾 隆)南海県志』巻 6 ・雜課(嶺南美術出版社、2007年)、164頁;唐冑修『(正德)瓊台志』巻10・戸口(嶺南 美術出版社、2009年)、121頁;龔耿光纂修『(道光)仏岡庁志』巻 2 ・食貨志・戸口(上海書店出版社、2013年)、 33頁。 * 表左の列の広東省に属する府県は、現在の行政区画ではいずれも海南省に属する。表右の列の靈山・欽州の両 県は、現在の行政区画では広西省に属する。本表の地域区分は新中国建国前の行政区画に依った。 *藤山とは倉山の古称、現在の福州市倉山区に当たる。 ついで、清初の制度は多く明のそれを継承しており、河泊所でもって蜑民を統べていた。清の雍 正帝の頃、蜑民に良民と同じく甲戸に列することを許した。ただし、蜑民の人口数に関する戸籍冊 などは依然として残されていない。ところが、表 1 の通り、両広の蜑民人口の記録は各府県志に もみえている。加えて、趙翼(1727-1814)の『簷曝雜記』に広州珠江の蜑船の数について記して いる45。趙翼は、乾隆三十五年(1770)に広州府の知府となったが、翌年貴西道の道台に移った。彼 の記述によると、乾隆三十五年ないし乾隆三十六年における広州珠江の蜑民は7000、8000戸を下ら ないという。以上の二種類の文献からわかるように、広東の蜑民は仏岡108戸・三水496戸・南海63 戸(乾隆朝)/2137戸(嘉慶朝)/1166戸(道光朝)・澄邁58戸・増城27戸・順德約5000戸・広州 珠江の水域 7、 8 千戸以上となり、広西の蜑民は容県約80戸・北流約50戸・蒼梧298戸となる。要す るに、清代における広東蜑民の合計は少なく見積もれば約12752戸、多く見積もれば約15826戸であ る。広西蜑民の合計戸数は約428以上ということになる。 その一方、清末・民国になると、ある宣教師によれば、広州市には蜑船が40000隻あり46、また一 説には広州市に84000隻の蜑船があったと言われている47。1906年、英米両国の宣教師により設立さ れた南中国キリスト教艇舶伝道会の一員であるアメリカ人ドルー宣教師は、福音船上に20余年過ご した人物である48。ドルーの報告によると、「広州蜑民の人口は約30万人である」という。また、広 州海関のある外国人職員が推測した広州の蜑民は50万人であった49。さらに、蜑民の人数推測に関 しては、清末以来の文人と研究機関から幾つかの情報が得られる。例えば、梁啓超は両広と福建の 蜑民は100万を下らないと述べている50。陳文濤が撰した『閩話』によれば、福建の蜑民は10万を数 45 趙翼『簷曝雜記』巻 4 ・廣東蜑船(中華書局、1997年)、62頁:廣州珠江蜑船不下七八千,皆以脂粉為生計, 猝難禁也。…… 46 前掲『疍民的研究』、57頁。 47 姚賢鎬『中国近代対外貿易史資料(1840-1895)第一冊』(中華書局、1962年)、304頁。 48 羽原又吉『漂海民』(岩波書店、1963年)、197頁。 49 前掲『疍民的研究』、58-59頁。 50 前掲『疍民的研究』、58頁。
えるという51。嶺南社会研究所は、両広と福建の蜑民は少なくとも200万人以上だと指摘している52。 陳序経はすでに1946年出版の著作『疍民的研究』において、両広および福建の蜑民は100〜200万人 と推定している53。だが、以上の推定を証拠だてるものは何もないようである。他にも、1928-1934 年に燕京大学社会学系と嶺南大学社会研究所は福州市、広州市沙南・三河水に住む蜑民について現 地調査を実施したが、蜑民の実際の人口に関する有益な情報はほとんどなかった。 さて、民国政府は複数回全国的に人口調査を行ったが、蜑民人口に関する報告は甚だ乏しく、わ ずかに民国十七年(1928)の記録が残されているのみである。この調査において注意すべきは、広 州市と福建省47県2市の統計記録があるのみで、それ以外のデータは残欠になっている点である。 内政部統計司の説明によると、福建省政府が47県2市のみで調査を行ったのは政治的な理由があっ たためである54。1927年に中国共産党が江西省で解放区を設置しており、データが欠落している福 建省の17県はこの地区と隣接している。そのため調査が実施できなかったのであろう。なお17県は 福建省の内陸部に位置し、河川に頼る蜑民は極めて少ないと予想される。また、広西省政府は調査 を行わなかったが、広東省(広州を除く)のデータが残欠している理由に関して内政部は説明して いない。 以下に民国十七年「福建省各県戸数統計表」と「福建省各県人口統計表」両表から関連のデータ を抽出して表2に纏めた。福建省47県2市の蜑民合計は7097戸で、34991人である。厦門市の蜑民は 0 戸となっているが、『(道光)厦門志』55の記述から厦門市に蜑民がいたという事実がわかる。加え て、民国の『廈門市志』にも本市の蜑民は5000余人(表 1 を参照)であると記録されている。さ らに、蜑民は水上を自由に移動するので、調査は難しいうえ、蜑民によっては人口調査の存在さえ も知らず、理解を得られなかったと予想される。以上のことから、民国期の福建省においては少な く見積もって約 4 万の蜑民がいたと推察される。 なお、民国十七年の人口調査の結果によると、広州市の人口は総計176599戸、812241人であるが、 蜑民の人口は総計19332戸、61944人(表 3 を参照)である56。広州市の総人口に対する比率をみると、 蜑民は 8 %近くとなる。 51 徐心希「閩、粤、台三地疍民歴史考略―以福州疍民為中心」(『福建歴史学研究30年回顧與展望学術論壇論文集』、 2008年)、84頁。 52 嶺南社会研究所「沙南疍民調査」(初出は『嶺南学報』第 3 巻第 1 期、1934年)李文海等編『民国時期社会 調査叢編』 1 編・底辺社会巻・下、589頁。 53 前掲『疍民的研究』、60頁。 54 前掲『民国史料叢刊(第763冊)』、153頁:「該省共有六十四縣,此次户口調查,已辦埈者計四十七縣,其餘 十七縣,因匪擾之故,未能辦竣,故缺。」とある。 55 注 2 を参照。 56 前掲『民国史料叢刊(第763冊)』、51頁。
表 2 :民国十七年(1928)福建省47県 市蜑民の戸数・人口数統計 * 「福建省各県戸数統計表」と「福建省各県人口統計表」〔前掲『各省市戸口調査統計報告(1928)』『民国史料 叢刊(第763冊)』、153-156・293-297頁〕をもとに、筆者が加筆したもの。 次に、広州・香港・梧州の三地を対象とし、『民国史料叢刊』、陳「広州市公安局民国十七年至二 十一年広州市河面船戸人口統計」や可児「香港の総人口と水上人口」などを参照して表 3 を作成 した。この表から窺えるのは、香港と梧州市より広州市の記録が豊富であるが、統計の方法に問題 点もあるということである。表 3 が示しているように、民国十七年に蜑民は61944人、十八年に 49450人、十九年に30837人、二十一年に65752人となる。十八年に至ると人数が激減しており、十 九年にかけて減少が続き、二十一年には増加に転じているように、変動があまりに激しい。また、 二十一年の広州市公安総局の統計数は、広州市に属する四分局の報告数合計と一致しないことが明 らかである57。その理由としては次の二つが考えられる。まず、前述したように蜑民は移動性の高 さゆえ、正確な人数については考定しがたい。もう一つは陳の研究によると、広州市公安局によっ て実施された人口調査は民衆が自発的に公安局へ来て、登記料を自払うものであったという。公安 局が積極的に調査を行うのではなく、登記者が現れるのを待つという統計方法で得られる人口統計 データは必然的に不正確になると指摘されている58。 なお、民国二十一年に広州市社会局人口調査委員会が本格的な人口調査を行った。この調査は実 態をほぼ忠実に反映していると言われている59。そのため、この報告の結果を利用して広州市の蜑 民人口について考察していきたい。表 3 から、広州市の蜑民の総人数は101236人となっている。 57 前掲『疍民的研究』、67頁。 58 前掲『疍民的研究』、61頁。 59 前掲『漂海民』、189頁。 県別 戸数 人口数 県別 戸数 人口数 県別 戸数 人口数 県別 戸数 人口数 福州 1397 7540 邵武 —— —— 歸化 —— —— 漳平 —— —— 厦門 —— —— 南平 174 811 建陽 23 29 寧洋 —— —— 閩侯 1286 6062 尤溪 —— —— 泰寧 1 11 龍溪 2119 11063 閩清 42 264 松溪 —— —— 漳浦 —— —— 清流 —— —— 平潭 —— —— 建甌 244 498 海澄 30 82 連城 —— —— 古田 36 125 光澤 17 57 南靖 95 537 羅源 80 382 永泰 —— —— 政和 —— —— 長泰 —— —— 南安 —— —— 福清 —— —— 將樂 —— —— 平和 158 1763 晉江 —— —— 屏南 —— —— 順昌 1 6 詔安 325 2885 惠安 —— —— 寧德 978 2777 思明 —— —— 東山 —— —— 壽寧 —— —— 同安 91 99 仙遊 —— —— 上杭 —— —— 莆田 —— —— 建寧 —— —— 龍嚴 —— —— 金門 —— —— 大田 —— —— 華安 —— —— 総計 7097 34991
また、民国期の広西省には多くの蜑民が集まっていたが、惜しいことに梧州市の記録しか残ってい ない。即ち民国二十二年には2080戸、9490人である。さらに、香港の蜑民は民国二十年には70093 人と記録されている。以上、既存の記載より福建省・広州市・香港・梧州市の蜑民人数を合計すれ ば、およそ22万人となる。 表 3 :民国時期政府把握による広州・香港・福州・梧州蜑民の戸数・人口数統計 * 前掲『疍民的研究』、60-90頁;可児弘明『香港の水上居民―中国社会史の断面』(岩波書店、1970年)、 6 頁; 秦璞・徐桂蘭『河疍与海疍珠疍』(黒竜江人民出版社、2009年)、17頁;張研等編『民国史料叢刊(第763冊)』(大 象出版社、2010年)、27・155・293頁;同掲『民国史料叢刊(第766冊)』、181・183頁。 最後に、1953年の民族識別の調査によると、広東省の蜑民総数は90万人前後といい、閩江60下流 の10キロの沿岸(福州市の大部分)には3731戸/17235人、長楽・永泰・南平などの 7 県には4219 戸/10369人、梧州市には3441戸/18994人の蜑民がいる。また、香港における1961年センサスによ れば、蜑民は20572戸/136802人であった61。以上の合計は約1083400人である。しかし、この数字 は広東省、福建省の一部、香港・梧州に住んでいた蜑民の人数にすぎない。また、1930年代後半以 降の戦乱で多数の流民が発生したため、新中国の初期は1920-1930年代に比べて蜑民人口がすくな かったと思われる。従って、梁啓超・陳序経が民国期の蜑民の概数を100〜200万人と述べていたが、 本稿もこれと同意見である。 以上をまとめておこう。南宋を除いて、明代以前の各時代には蜑民の人口に関する記述はない。 明清の頃は両広の河川に河泊所を置いて蜑民を治めたため、いくつかの県志に蜑民の戸数が記載さ 60 閩江は福建省最大の河川で、上流は建渓、富屯渓、沙渓の三河からなり、いずれも西部の仙霞嶺、武夷山に 発する富屯渓と沙渓は南平市の付近で合流して北東に流れ、剣津で建渓を合わせ、それより下流を閩江と呼 ぶ。東海に注ぎ、河口近くに福州がある。大中書局編『最新中国分省地図』(大中書局、1956年)、24頁。 61 前掲『広東疍民社会調査』、17頁;前掲徐心希「閩、粤、台三地疍民歴史考略―以福州疍民為中心」、84頁; 秦璞・徐桂蘭『河疍与海疍珠疍』(黒竜江人民出版社、2009年)、17頁;岸佳央理「香港の「都市化」と水上 居民:1961年センサスを中心に」(『人間文化創成科学論叢』第14巻、2011年)、52頁。 地区 調査年/調査機構 戸数 人口数 広州 民国十七年/公安局 19332 61944 広州 民国十八年/公安局 15717 49450 広州 民国十九年/公安局 9171 30837 広州 民国二十年/公安局 18308 60839 広州 民国二十一年/公安局 総局:18621 四分局の合計:17724 総局:65752 四分局の合計:123910 広州 民国二十一年/社会局 21099 101236 広州(警区) 民国二十四年/公安局 24149 77426 香港 民国十年/政庁 —— 71154 香港 民国二十年/政庁 —— 70093 梧州 民国二十二年/公安局 2080 9490
れている。なお、広西よりも広東の記載が更に豊富であることがわかる。即ち、明初期における広 東の高要・潮陽・香山・儋州四県の蜑民は合計約5661戸となり、正統〜萬曆年間における広東の蜑 民は合計約3000戸、広西容県は約300戸となる。清代における広東蜑民の合計は少なく見積もれば 約12752戸、多く見積もれば約15826戸であり、広西蜑民の合計戸数は約428以上であった。民国に なると、従来ほとんど記載されなかった福建蜑民の人口記録も残っている。即ち、福建省47県 2 市の蜑民合計は34991人である。また、広州政府が蜑民に対して何回も人口調査を実施したが、比 較的信頼できるとみなされる社会局人口調査委員会の統計は101236人となっている。さらに、香港 と広西梧州の蜑民人口の報告も残存している。即ち、梧州の蜑民は民国二十二年には9490人、香港 の蜑民は民国二十年には70093人となる。1950年代、民族識別調査によって広東省、福建福州の大 部と長楽・永泰などの 7 県、及び広西梧州に生きる蜑民の人口を把握したが、合計は約93万人以 上となった。しかし、統計の結果は依然として実態を十分に反映していない可能性がある。 Ⅲ.蜑民の地域分布 本章では主に地方志の分析を通じて、福建と両広における蜑民の地域分布を検討する。 唐代では、容州(現在の広西容県)と邕州(現在の広西邕寧県)に蜑民の足跡が残っている62。 北宋の頃、『太平寰宇記』63と『宋史』64によると、広州新会県、廉州(現在の広西合浦県廉州鎮)及 び泉州・漳州・興化軍(現在の福建泉州市・漳州市・莆田市)にも蜑民がいた。南宋では、広州番 禺県、廉州合浦県(現在の広西チワン族自治区合浦県)、欽州(現在の広西チワン族自治区欽州市)、 海南島瓊州の瓊山県・澄邁県・臨高県・文昌県・楽會県、福州に分布している。趙汝适『諸蕃志』 には「瓊山・澄邁・臨高・文昌・楽会にみな市舶がある。船舶は三等に分け、上等は舶、中等は包 頭とする。下等は蜑船と名づける」65とあり、また范成大『桂海虞衡志』66、周去非『嶺外代答』67と『(淳 62 韓愈『韓昌黎全集』巻27・清河郡公房公墓碣銘(世界書局、1935年)、364頁:貞元末,王叔文用事,材公之為, 舉以為容州經略使,……林蠻洞蜒,守條死要,不相漁劫。 前掲『嶺表録異』巻中・箣竹笋(広西民族出版社、1988年)、100頁:……邕州舊以為城,蠻蜒來侵,竟不能入。 63 前掲『太平寰宇記』巻102・江南東道14・泉州風俗・漳州風俗・興化軍風俗、2030・2033・2037頁:泉郎,即 此州之夷戸,亦曰遊艇子,即盧循之餘。晋末,盧循暴寇,為劉裕所滅,遺種叛逃,散居山海,至今種類尚繁。 同書『太平寰宇記』巻157・嶺南道 1 ・広州新会県、3021頁:蜑戸,縣所管,生在江海,居於舟船,随潮往来, 捕魚為業。若居平陸,死亡即多。似江東白水郎也。 64 脱脱等撰『宋史』巻31・高宗本紀(中華書局、1986年)、586頁:閏十月丙午、罷廉州貢珠,縱蜑丁自便。 65 趙汝适『諸蕃志』下巻・海南・瓊州(中華書局、1996年)、217頁:屬邑五:瓊山、澄邁、臨高、文昌、樂會, 皆有市舶。於舶舟之中分三等,上等為舶,中等為包頭,下等名蜑船。 66 范成大撰・嚴沛校注『桂海虞衡志』巻 8 ・志蟲魚(広西人民出版社、1986年)、65頁:珠,出合浦海中,有珠 池。蜑戸没水採蚌取之。 67 周去非『嶺外代答』巻 3 ・蜑蠻(中華書局、1999年)、115-116頁:廣州有蜑一種名為盧停,善水戰。同書『嶺 外代答』巻10・鱘鰉魚(中華書局、1999年)、390頁:……余東歸,將至番禺,有蜑急棹就舟。
熙)三山志』(『長楽志』)68によれば実際にそれらの地域に蜑民が存在したことがわかる。次いで『元 史』に「泰定元年(1324)七月癸卯に広州、福建などの採珠の蜑戸を罷めて民となし、なお一年分 の賦税を免徐する。……泰定三年(1326)八月辛丑に泰定帝が詔諭を発して蜑民を本業(採珠)に 復帰させる」69という。これより、元代で広東の広州・廉州、福建に蜑民が存在していることがわ かる。従来の研究は概ね清代の地方志と筆記から着手するが、それらの文献は二次史料が多い70。 そこで、以下では明・清両代の蜑民分布の内容を一類にまとめて、考察を試みる。 まず、明清代における福建蜑民の分布の検討から始めよう。福建の地方志の記述から見ると、以 下の五府に蜑民が存在する。 以上の記載から、明清代における福建蜑民が閩江河口の閩県・侯官県と福寧府・泉州府・漳州府・ 68 梁克家『三山志』卷 6 ・地理類 6 ・海道(海風出版社、2000年)、64-65頁:白水江。舊記:県東北百七十里。 寰宇記:白水郎,夷戸也。亦曰游艇子,或曰盧循餘種,散居海上。 69 注29を参照。 70 饒宗頤「説蜑」『選堂集林:史林(中)』(中華書局香港分局、1982年)、940頁。 (1)福寧府〔雍正十二年(1734)に福寧州は福寧府と改呼〕の福鼎県 『(弘治)八閩通志』巻12・地理・福寧州:白水江。舊記云:閩之先居海島有七種,盧亭、白水郎、樂山、莫徭、 游般子、山夷、雲家之屬是也。此江在州西南一百七十里,先是白水郎停舟之處,因名。按州志謂:昔閩人先居海島 者有七種,或云白水郎乃盧循餘種,散居海上,以船為家,衝波逆浪,略無懼憚。 『(嘉慶)福鼎県志』巻 2 ・山川:白水江,由董江而入。三山志舊記:在長溪県(霞浦県の古称)東北百七十里。寰 宇記:白水郎,夷戸也。閩書昔人徙居海島者七種,盧亭、白水郎、樂山、莫猺、遊般子、山黃、雲家之屬是也。或 云白水郎乃盧循餘種,散居海上,以船為家,此江乃其停舟處。 (2)福州府の閩県・侯官県 『(光緒)閩県郷土志』版籍略 1 ・人類・疍人:県有一種之人,以舟為居,能久伏深淵,俗呼曲蹄,盖叩蜑戸也。蜑 亦省作蛋。 『(光緒)侯官県郷土志』版籍略 1 ・人類・疍族:疍之種為蛇,……閩人皆呼之為曲蹄,肖其形也。 (3)泉州府の同安県厦門 『(道光)厦門志』巻15・俗尚:港之内,或維舟而水處,……俗呼曰五帆,五帆之婦曰白水婆。 (4)漳州府の龍渓県 『(光緒)新增龍溪県志』巻10・風俗・雜俗:南北之溪有水居之民焉,終歳舟居,俗呼之曰泊水。 (5)台湾府の台湾県 『(乾隆)重修臺灣県志』巻 4 ・賦役志・雜餉:按船制大小不等,名目各異。……一曰當家船,又名蛋家船。漁人眷 屬,悉住其中,無登岸結廬者,浮家也。皆往來各港采捕,并鹿耳門、安平鎮生理。 『(乾隆)續修臺灣府志』巻 5 ・賦役 2 ・水餉・附考:船制大小,咸資水利,名目各異。……一曰當家船,俗訛為蛋 家船。漁人眷屬,悉住其中,無登岸結廬者,蓋浮家也。皆往來各港采捕并鹿耳門、安平鎮生理。
台湾府の沿海域に最も集中することが明らかである。 次に、明清代における広東(海南を含む)蜑民の分布に関する地方志の記事は次のとおりである。 (1)潮州府の潮陽県・揭陽県・澄海県・饒平県・大埔県 『(康熙)潮陽県志』巻10・風俗志・山畬水蛋:西南江上又有蛋戸。 『(雍正)揭陽県志』巻 4 ・風尚:蜑戸,舟居捕魚為業。 『(嘉慶)澄海県志』巻 6 ・風俗・生業:擇老練者為長年至洋,長年居中,眾蜑群而聽命焉。 『(康熙)饒平県志』巻 4 ・戸口・附蛋人:觀其蛋家神宮蛇像,可見世世以舟為居,無土著。 『(康熙)埔陽志』巻 2 ・政紀・賦役:今開県百年,難行撥補之儀矣。外有程郷蛋船,裏役一名。 (2)嘉応州の程郷県・興寧県 『(康熙)程郷県志』巻 3 ・版籍志・戸口:国朝順治八年,……蜑丁并民戸小口,倒不編差。 『(咸豐)興寧県志』巻12・外志・徭蛋:正統間知県朱孟德奏革,以其人附貫下六都籍,每歳納魚課米若干,蜑民備 甚。……雍正七年,……與民一體,編甲以稽査。 (3)恵州府の歸善県・博羅県・長寧県・海豊県・興寧県・龍川県 『(康熙)歸善県志』巻20・雜志・徭蛋:蛋其來莫可考。……歸善有河泊所,有蛋戸。 『(乾隆)博羅県志』巻 9 ・風俗志・物産:筐箕之屬,則蛋人世其業。 『(乾隆)長寧県志』巻 7 ・人物志・徭蛋:蛋其種莫考。……前明計戸驗船徵魚課米,県設河泊所,官隸之。惟長寧。 『(乾隆)海豊県志』巻10・雜志・徭蛋:蛋種莫可考。……海豐七港在在有之。 『(嘉靖)興寧県志』巻 2 ・地理志上・沿革:六都析其羸,益以徭人、蜑人之有税者,置為七圖,遂為編戸七里。 『(嘉慶)龍川県志』巻 8 ・編年:(康熙)四十八年己丑,知県王孫熊革除蜑民私徵。 (4)広州府の南海県・番禺県・順徳県・東莞県・新安県・新寧県・增城県・香山県・新會県・三水県・花県 『(乾隆)南海県志』巻 6 ・雜課:蛋戸以捕魚為生,其於水道最熟。……蛋民系河泊所。 『(同治)番禺県志』巻 6 ・輿地志 4 :諸蛋以艇為家,是曰蛋家。 『(咸豐)順德県志』巻 6 ・經政略 1 ・蜑戸:県境蜑民統屬埠保三十三名,約共五千餘戸,男婦約共二萬五千四百餘口。 『(民国)東莞県志』巻22・經政略 1 :康熙五十年,……通県共戸八千六百七十四(民竈匠僧蛋俱在内)。 『(嘉慶)新安県志』巻 2 ・輿地略 1 ・墟市:蛋家蔭墟,今廢。 『(乾隆)新寧県志』巻 1 ・民俗・海蛋:近奉諭旨招徠蛋戸,仍許其登陸以居。 『(乾隆)增城県志』巻 3 ・品族・徭蛋:其漁課則分西圓埠、上下排,共蛋民二十七戸,照原額折徵。 『(嘉靖)香山県志』巻 3 ・政事志・魚鹽:蛋戸六圖,里甲如縣制。 『(康熙)新會県志』巻 5 ・地理志:至如業食繪門,蛋民之利。 『(嘉慶)三水県志』巻 3 ・賦役:附蛋埠。按舊志,蛋埠有青江埠……共十埠。今現存沙草埠……共六埠。 『(康熙)花県志』巻 3 ・物産:蛋民幼子,以其殼系腰,取僕水不沈,易拯取也。 (5)仏岡庁 『(道光)佛岡廳志』巻 2 ・食貨志・戸口:蜑民壹佰零捌戸。
(6)韶州府の曲江県・英徳県・保昌県・乳源県 『(嘉靖)韶州府志』巻 3 ・都坊:曲江,嘉靖年,蛋戸二百二十四戸。英德,嘉靖年,蛋戸二十二戸。保昌,嘉靖年, 蛋戸二十二戸。 『(同治)韶州府志』巻28・宦績錄・王溥:王溥,同陵舉人。宏治十七年知乳源県,兼謹平恕。時蛋民漁課難於納米, 申請折納本色,民甚便之。 (7)肇慶府の四會県・新興県・高明県・封川県・高要県・恩平県・徳慶州・陽春県 『(光緒)四會県志』編 1 ・猺蜑:邑蜑戸分兩埠,一金雞埠,至張、黃、石三姓。……一詩書埠,亦稱雜埠,姓不一。 『(乾隆)新興県志』巻26・蛋戸:雖小艇扁舟,亦編船甲管束,而蛋戸之籍久已相忘矣。 『(康熙)高明県志』巻18・外志・蛋:高明蛋家在大江則沿海以居,在小水則依河而處。 『(天啓)封川県志』巻 4 ・事紀:嘉靖十一年春二月,革河泊所。蛋戸統於縣,立總一人,徵納課税料價,曰蛋甲。 『(宣統)高要県志』巻 5 ・地理 5 ・風俗:沿江有蛋家。 『(道光)恩平県志』巻16・物産・禽屬:鸕鶿,俗呼水老鴉,骨可治魚鯁,蛋人畜之,使捕魚。 『(光緒)德慶州志』地理志第 6 ・風俗・方言:蛋為娼,舟居者曰水雞,陸居者曰山柴。 『(康熙)陽春県志』巻18・蛋附:邑之蛋有二:一編竹為筏,一捕魚裝載稻穀為業。 (8)羅定州の西寧県 『(民国)西寧県志』巻33・前聞 3 :蜑戸亦久奉諭旨聽其登岸居住,一體編列甲戸。 (9)高州府の茂名県・電白県・化州・石城県 『(康熙)茂名県志』巻 3 ・財經・賦役・外額徵:高州河泊所魚課米叁佰伍拾肆石捌鬥壹升。 『(康熙)電白県志』巻 1 ・里圖:里共一十有四,上保寧郷一圖。郷為山後、蛋埠、前藍、……。 『(乾隆)化州志』巻 4 ・賦役・田産・外額徵:一岸民、水蛋兩項,魚課米共貳佰陸拾伍石叁鬥肆升。 『(民国)石城県志』巻10・紀述志下・事略:県原於附海地方設烏兔多、浪龐村埠以居蜑民,捕魚辦課,後為流商所 煽,造船盜珠。 (10)雷州府の海康県延和郷・遂渓県 『(萬曆)雷州府志』巻 4 ・地理志 2 ・都鄙:延和郷。七都。九都。(……存其二十二蜑圖。)……遂溪之郷五,…… 蜑圖一。 (11)廉州府の合浦県 『(康熙)合浦県志』巻14・外紀志:合浦大洸港有潮西道,名九河江。江口有赤羊墪,蛋人取蚝於此。 (12)欽州 『(嘉靖)欽州志』巻 3 ・食貨 2 ・田賦・魚課:欽州原額蛋民丁九十九,……實在八十一丁,……蛋民貧,難追徵。
以上の記載より読み取れるように、広東の蜑民の分布範囲は広いが、特に珠江流域に集中してい る。具体的には韓江水系の潮州府(大埔・饒平・揭陽・澄海・潮陽)と嘉応州(程郷県・興寧県)、 東江水系の恵州府(歸善・博羅・長寧・海豊・興寧・龍川)に分布し、北江水系の韶州府(曲江・ 英徳・保昌・乳源)と仏岡庁にも広がっている。また、西江水系の羅定州にも蜑民が集まっていた。 さらに、広州府の番禺・南海(現在の広州市)を中心にして、珠江デルタの三水・東莞・順徳・新 安(割譲と租借以前の香港は新安県の一部)・香山(割譲以前の澳門は香山県の一部)・新会などの 県にも蜑民が多数集まっていた。その他、南部の沿海域及び海南島の雷・欽・廉・瓊・崖にも分布 している。さて、康熙帝の時代に広州に海関が置かれ、広東十三行を指定し、乾隆二十二年(1757) になると外国との交易を広州一港に限定した。それゆえ、広州は中国最大の港として発達して、貨 物の集散地となった71。すると、貨物輸送のための渡船と運搬労力の需要が急速に増加したと予測 される。蜑民が貨物運搬に従事した可能性は強く、清代中期の広州に多数の蜑民が集まる要因となっ たであろう。 最後に明清代の広西蜑民の分布を検討してみよう。広西の蜑民は元々西江水系の梧州府を中心に して潯州府・思恩府に広がっていた。北は桂林府・平楽府・柳州府に蜑民がいるが、南は南寧府・ 鬱林州にも分布する。 71 前掲『漂海民』、185頁。 (13)瓊州府の瓊山県・澄邁県・臨高県・文昌県・會同県・樂會県・儋州・昌化県・萬州・陵水県・崖州・ 感恩県 『(正德)瓊臺志』巻10・戸口:正德七年,蛋戸一千九百一十三戸。瓊山県:蛋戸一百八十三、澄邁県:蛋戸一百五 十二、臨高県:蛋戸二百二十一、定安県:無、文昌県:蛋戸二百三十、會同県:蛋戸八十八、樂會県:蛋戸一百一十 二、儋州:蛋戸三百三十三、昌化県:蛋戸一十二、萬州:蛋戸七十七、陵水県:蛋戸一百、崖州:蛋戸三百四十九、 感恩県:蛋戸五十六。 (1)桂林府 『(雍正)廣西通志』巻128・藝文・雜記:桂林、象郡秦漢始𨽻𨽻職方。其地多危巒,怒江虎蹲電激。其人多山猺水蜑, 被卉食生,往往阻聲教而尋干戈。 (2)平楽府の平楽県・賀県信都郷 『(康熙)平楽県志』巻 6 ・猺獞・附蜑戸:蜑一作䗺,……洪武初將蜑人編戸立長,屬河泊所。 『(民国)信都県志』巻 3 ・賦税:蛋戸,魚油魚課銀十九両八厘。
アヘン戦争後、南京条約によって広州・厦門・福州・上海・寧波五港を開き、香港を割譲したこ とは蜑民の生活に新しい段階を開き、港湾への依存度を高くさせた72。すると、清末になって福建 と広東の蜑民は厦門・福州・広州・香港により多く分布するようになった可能性がある。民国にお ける蜑民の地域分布について、陳序經は「福建では沿海と閩江に蜑民が存在し、福州が最も多い。 広東では蜑民の地理的分布は三つにわけられる。第一は珠江流域、広州を中心として、珠江の本流 である西江・東江・北江にまたがり、その地域で蜑民が多いのは番禺・南海・三水・順徳・香山・ 新會・東莞の各県にわたる。第二は沿海一帯、東は汕頭より西は北海に及び、海南島の沿海一帯な 72 前掲『漂海民』、185頁。 (3)梧州府の蒼梧県・藤県・容県 『(雍正)廣西通志』巻113・藝文・国朝・疏:梧州一府,居兩廣之中,扼三江之要。設有官兵一千名,應留五百名守 護策應,應調五百名直抵潯南一帶,設立哨船汛防河道,此為全省之襟喉,各府之脈絡,最為喫緊。且猺獞蜑賊往往沿 河截刼。…… 『(嘉慶)廣西通志』巻279・列傳24・諸蠻 2 ・蜑:蒼梧蜑人計二百九十八戸,有蜑頭二名領之。 『嘉慶重修一統志』巻469・梧州府・苗蠻・蜑:在蒼梧県計二百九十八戸,有蜑頭二名領之。 『(同治)蒼梧県志』巻 6 ・風土志下・附猺獞・附蜑戸:原分八甲,梧城甲、沙尾甲、長行河口甲、平埇甲、泗化洲甲、 榕樹潭甲、黎埠喙甲、(界外)安平江口甲。按蜑戸今聚泊於梧城、戎墟、下郭、泗化洲、榕潭等處。 『(雍正)廣西通志』巻93・諸蠻・蠻疆分隷:藤県,瀕河者曰漁蜑,操舟獵魚為業。 『(光绪)容県志』巻28・水蛋:国初郡城多故,運載軍需籍蛋戸為水軍,禁遏魚艇,令改舟合戰。 (4)鬱林州の北流県 『(乾隆)重修北流県志』紀事志巻 9 ・餘錄:蛋戸者以其艇小而圓,故謂之蛋。約五十餘家,泊居河干。 (5)柳州府の象州 『(乾隆)象州志』巻 4 ・諸蠻・蛋:蛋人涉海而居,或浮家江濱,世世以舟為家。 (6)潯州府の桂平県 『(民国)桂平県志』巻31・風俗・附猺獞種族攷・蜑家:論今日之蜒,浔州兩江有住家之船,名為五篷船,大小不等。 各處步口,又有小漁舟,皆住眷屬,本處人呼為蜑家。 (7)南寧府の宣化県・新寧県 『(雍正)廣西通志』巻93・諸蠻・蠻疆分隷:宣化県……蜑人有五姓,麦、濮、呉、蘇、何,以舟為居,無土著,唯 捕魚裝載以供食。 『(嘉慶)廣西通志』巻279・列傳24・諸蠻 2 ・蜑:宣化蜑人有五姓,麦、濮、呉、蘇、何,以舟為居,以魚為食。 『(光緒)新寧州志』巻 4 ・諸蠻:蜑則瀕水而居,操舟為業,不事耕織,平日惟捕魚供食者也。……蜑則沿江有之。 (8)思恩府の賓州 『(萬曆)賓州志』巻 4 ・徭役:蜑戸李姍等,遞年送納魚油銀貳兩貳錢。