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田島 高志 : 尖閣問題「中国側は話し合いを控えたいとし、日本側は聞きおくに留めた」

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Academic year: 2021

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日中関係が揺れている。日本と中国は、 2000 年の交 流を持つ隣国同士であり、世界第 3 位と第 2 位の経済大国 であるが、政治制度も歴史条件も異なり、時に問題が起こ ることは自然である。とは言っても、世界各国の相互依存 関係が深化した現在、東アジアの大国である日中両国が安 定 し た 協 力 関 係 を 維 持 し 発 展 さ せ る こ と は 両 国 の み な ら ず 、 ア ジ ア お よ び 世 界 に と り 緊 要 で あ る こ と は 論 を ま た な い 。 現 に 、 1972 年 の 日 中 国 交 正 常 化 以 降 40年 間 、 両 国 は、その実現を目指し懸命な努力を重ね、相当な成果もあ った。それが、 2010 年に続き 2012 年にも尖閣問題 で 両 国 関 係 は 緊 張 し 、 異 常 な 事 態 に 直 面 し て い る 。 両 国 は、共に冷静に知恵を出して戦略的互恵関係を維持進展さ せるべく、 舵 かじ の方向を定め直さなければならないと思う。 さに 35周 的互 させ

Takashi T

ajima

元駐カナダ大使・元中国課長

田島高志

1935年生まれ。東京大学教養学部卒 業、1959年外務省入省。アジア局中国 課長、大臣官房文化交流部長、駐ブル ガリア大使、駐ミャンマー大使、駐カ ナダ大使を経て外務省を退官。東洋英 和女学院大学大学院客員教授、国際教 養大学客員教授等を歴任。 たじま・たかし

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一点視界

中国の主張には国際法上の無理がある

尖閣問題は、いつなぜ発生したのか。日中両国それぞれ の公式見解表明の経緯を振り返ると、 1971 年に台湾お よび中国が、それぞれ外交部声明を発表し、尖閣諸島の領 有権を初めて公式に主張したことが問題の発端である。そ れまでは台湾も中国も尖閣諸島について何の公式発言もし たことは全くない。上記両者の声明は、共に 1968 年国 連のECAFEが東シナ海の海底調査を行い、 1969 年 石油埋蔵の可能性を発表したことに触発されたものであっ た 。 1972 年 の 日 中 国 交 正 常 化 交 渉 の 際 、 周 恩 来 総 理 は、田中総理に対して「尖閣について今は話したくない。 石油が出るから台湾も米国も(筆者注:米国とは米国在住 の 華 僑 を 指 す と 解 さ れ る ) 問 題 視 し た 」 と 発 言 し 、 尖 閣 問 題 は 石 油 と 関 連 し て 発 生 し た も の で あ る こ と を 率 直 に 述 べ た 。 日本政府は、 1885 年に日本の民間人から無人島であ った尖閣諸島の借地願いがあったので、清国の領有地では ないことを 10年間も時間をかけて慎重に調査し、清国の領 土であるとの国際法上の証拠はないことを確認して、 1 8 95 年に国際法上の無主物先取の法理に基づき、日本の領 土とすることを閣議決定し、民間人に借用を許可した。そ れ以来今日まで、尖閣諸島は日本の領土である。第 2 次世 界大戦後のサンフランシスコ平和条約に基づき、 1 9 5 1 年から 1972 年までは米国の信託統治地域の一部として 施政権が米国に与えられたが、日本の領有権は一貫して現 在 ま で 続 い て い る 。 そ の 意 味 で 、「 尖 閣 諸 島 は 日 本 の 固 有 の領土である」というのが日本政府の立場である。 中国は、古文書によれば尖閣諸島が明朝時代に中国の防 衛 地 域 に 入 っ て お り 、 領 有 地 で あ っ た と 主 張 す る 。 し か し 、 明 朝 の 正 史 、『 明 史 』 で は 、 台 湾 は 外 国 扱 い さ れ て お り、清朝の乾隆帝時代に勅命で編纂された『大清一統志』 で は 、「 台 湾 府 の 沿 革 は 、 古 く よ り 荒 服 の 地 で あ り 、 中 国 と は 通 ぜ ず ( 中 略 )、 明 の 天 啓 時 代 に は オ ラ ン ダ に 占 拠 さ れ た が 、 日 本 に 属 し て い た 」 と の 記 述 が あ る 。 そ れ な ら ば、大陸からは台湾よりさらに遠方に離れた尖閣諸島が中 国に属していたとは言えない。琉球は、かつて日本と中国 の双方に頻繁に朝貢使を派遣し、中国あるいは日本からも 時には使者が琉球を訪問した。尖閣諸島は、琉球と中国大 陸との航路の途次の目印として重要であったが、その島の 位置や様子については、琉球人の方が頻繁な通行による詳 しい知見を有していたため、中国側は琉球人から情報を得 ていた様子が古文書に書かれている由である。釣魚島との

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島名も元来琉球人(八重山島民)の使用した通称であった との説がある。 そもそも、中国の古文書や地図にあちこちの島の名前が 書かれていたとの理由だけでは、それらの島が中国の領土 であったとの国際法上の証拠には成り得ない。仮にそのよ うな理由が認められるならば、中国以外の他の国を含む類 似の主張をも誘発し、世界のあちこちで領土紛争が発生し て大混乱になるであろう。 1870 年代に、日本人 30人以 上が台湾で殺傷された事件が起こり、日本政府が清国政府 に謝罪と賠償を求めたところ、清国側は「彼の地は化外の 地である」として、日本側の要求を拒否したという外交記 録がある。ましてや台湾より遠方にある尖閣諸島が清国の 支配下にあったとの証拠は見られない。 さらに、中国は、下関条約により日本が清国より割譲を 受けた「台湾および付属 島 とう 嶼 しょ 」には、尖閣諸島も含まれて いたと主張するが、尖閣諸島は台湾よりかなりの距離で離 れており、下関条約の交渉において尖閣諸島が取り上げら れた記録はない。 また、中国は、 1943 年のカイロ宣言および 1 9 4 5 年のポツダム宣言で、尖閣諸島は台湾の付属島嶼として中 国に返還されたとも主張する。しかし、第 2 次世界大戦後 の日本領土は、 1952 年のサンフランシスコ平和条約で 法的に確定され、日本はカイロ宣言に言及された台湾およ び 澎 ほう 湖 こ 諸島を同平和条約に従い放棄した。しかし、カイロ 宣言およびポツダム宣言には尖閣諸島の領有権を変更する 記 述 は な く 、 尖 閣 諸 島 は 、 日 本 が 領 有 権 を 持 つ 南 西 諸 島 ( 琉 球 諸 島 お よ び 大 東 諸 島 ) の 一 部 と し て 米 国 の 信 託 統 治 地域に含まれ、米国には施政権のみが与えられた。 さらに、注目すべきは、 1970 年までは中国自身が尖 閣諸島は台湾の付属島嶼ではなく、琉球諸島の一部である と認識していたことを示す事実が幾つもある。例えば、 1 920 年に中国の漁民が尖閣諸島で遭難し、それら漁民を 救助した日本の石垣島民に対して、中華民国の長崎駐在領 事 が 贈 っ た 公 式 の 感 謝 状 に は 、「 日 本 帝 国 沖 縄 県 八 重 山 郡 尖閣列島」と明記されている。また、 1953 年 1 月 8 日 付 『 人 民 日 報 』 に 、「 琉 球 群 島 人 民 は 、 米 国 の 占 領 に 反 対 運動」と題する記事があり、その解説欄に、 「琉球群島は、 尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島(中略)など 7 組の島嶼からなる」との記述がある。中国は中国共産党の 独裁国家であり、同党の機関紙『人民日報』の解説は、中 国の公式の認識を示したものと言えよう。さらに、 1 9 7 0 年以前の中国および台湾で出版された諸種の地図では、

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一点視界 日中間の国境線が、台湾を西側に置き、尖閣諸島を東側に 置いた中間の海上に引かれ、同諸島を琉球諸島の一部とし て示し、日本名で尖閣諸島と記していた。

78年鄧小平・園田会談の真相

中国は、 1972 年の日中国交正常化交渉および 1 9 7 8 年の日中平和友好条約交渉それぞれの際に日中双方が、 尖閣問題については話し合いの「棚上げ」に合意した、と 主張し、日本は、そのような合意はない、としている。 実際の会談記録を見ると、 1972 年には、田中総理に 対 し 周 恩 来 総 理 が 「( 尖 閣 問 題 に つ い て ) 今 は 話 し た く な い」と応えたので、話し合いは行われなかった。 1 9 7 8 年には、鄧小平副総理が尖閣問題に触れたので、園田外相 が「尖閣問題についての日本の立場は閣下のご承知のとお りであり、先般のような事件(筆者注:その年 4 月に起き た中国漁船の尖閣諸島領海侵犯事件を指す。その際、中国 政府は、これは中央政府の意図したものではなく、偶発事 件であると釈明して落着した経緯がある)を 2 度と起こさ な い で 欲 し い 」 と 述 べ た の に 対 し 、 鄧 小 平 副 総 理 は 、「 中 国政府としてはこの問題で日中間に問題を起こすことはな い 」 と 述 べ る と と も に 、「 こ れ は 数 年 、 数 十 年 、 百 年 で も 脇に置いておいてもよい。日中条約の精神に基づいて将来 じっくりと双方が受け入れられる方法を見つければよい。 われわれの世代には知恵がない。次の世代、あるいはその 次の世代には知恵があろう」と応えた。これは、その会談 に同席した私自身が聞いた内容である。 すなわち、中国側は話し合いを控えたいとし、日本側は それを聞きおくに留めた、というのが事実である。日本側 としては、尖閣諸島を自国領土として実効支配している情 況がそのまま続き、中国が問題を起こさないのであれば、 何 も 不 都 合 は な く 、 尖 閣 諸 島 は 明 々 白 々 に 日 本 領 土 で あ り、他国と争う余地のある領土問題は存在しないという日 鄧小平中国副首相来日。出迎えの園田直外相(右)とタラ ップに立つ鄧小平中国副首相。後ろは卓琳夫人〔1978年10 月22日〕(東京・大田区の羽田空港)(写真/時事)

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本 の 立 場 か ら は 、「 棚 上 げ 」 に 合 意 す る よ う な 筋 合 い の 問 題ではなかったのである。 た だ 、 日 本 側 は 、「 棚 上 げ 」 に 合 意 は し な か っ た が 、 中 国側に異なる見解があることは認識した。それで、尖閣諸 島を実効支配する態様については、中国側との摩擦が発生 する事態を避けるために、可能な限り平穏で慎重な管理を 行う方針をとり、建造物の設置や一般人の上陸を制限して きた。これは、当時、園田外務大臣が国会でも説明した通 りである。 そ れ に 対 し て 、 中 国 側 の 行 動 を 見 る と 、 中 国 側 の い う 「 棚 上 げ 」 つ ま り 「 現 状 維 持 」 を 、 中 国 自 身 が 次 々 に 破 っ てきた。まず、 1992 年に中国は領海法を制定し、一方 的に尖閣諸島を中国領と規定した。次に、 2008 年 12月 に 中 国 公 船 が 何 の 前 触 れ も な く 尖 閣 諸 島 の 領 海 に 侵 入 し た。さらに、 2010 年 9 月に尖閣諸島の領海内で、中国 漁船が故意に日本の海上保安庁監視船に衝突してきた。 2 012 年 9 月からは、中国の公船が尖閣諸島の接続水域お よび領海に侵入を繰り返し、公機が領空を侵犯し、日本側 を挑発している。中国側は「棚上げ」どころか、正式に話 し合いの申し入れもせず、いきなり実力行使による現状変 更を試みている。これが中国のいう「平和的発展」の道な のであろうかと考えてしまう。 ここに見る通り、 「棚上げ」の合意があった、なかった、 あるいは潜在的な合意があった、などの議論は真の問題で はなく、お互いに平和的な協力関係を維持発展させるため に、尖閣をめぐり、いかなる行動を採ってきたかが真の問 題であろう。

“現状維持”を壊した中国の領海法制定

中国は、 2012 年 9 月に日本政府が尖閣諸島を日本の 民間人から購入したことに対し、強い不満と憤りを表明し ている。しかし、日本政府の行為は、中国との摩擦の発生 を避け、友好関係を維持するために採った措置であり、そ れはあらかじめ中国側にも説明してあった。ただ、日本の プレスが、購入の措置を「国有化」との言葉を使って報道 したことによる誤解によるものかもしれないが、日本政府 の真意を理解しなかった。 問題の発端は、 2012 年 4 月に尖閣諸島の所有者(民 間市民)の売却希望に応じて、東京都が購入の方針を発表 し 、 し か も 船 だ ま り の 造 成 な ど 現 状 変 更 の 意 図 を 表 明 し た。そのため、日本政府は、中国との摩擦回避の目的で、 政府自身が同島を買い戻し(筆者注:同島は元来政府の所

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一点視界 有 地 で あ っ た )、 平 穏 な 管 理 を 継 続 す る 方 針 を 採 る こ と に した。この日本政府の友好的で善意のある説明を中国側は 納得せず、購入手続き終了の直前に、中国首脳よりも反対 表明があった。しかし、日本政府は東京都による現状変更 を阻止するための唯一の合法措置として、やむを得ず政府 購入を実施した。中国側は激烈な対日批判や暴力で日本企 業の施設を破壊して世界を驚かした。中国側は、指導者の 面目がつぶれたとも伝えられたが、それらはすべて誤解に よる過剰な反応であった。

不満あるなら威圧でなく対話で

中国側から見て、尖閣諸島の現状に不満があり、変更を 求めたいのであれば、まず平和的な話し合いで解決を図る ことを考えるべきだ。今回のように暴力で反日運動を起こ し、実力で相手国の領海を犯して威圧する態度は、国連憲 章や平和友好条約の精神に完全に反することは明らかだ。 中国側から正式に話し合いの申し入れがあれば、日本政府 は当然それを受けて立つであろう。しかし、現在の緊迫し た情況を早期に抜け出すためには、日本は成熟した民主主 義国として、日本側から冷静に話し合いを提起してもよい と思う。むしろ、そうした方が、日本は国際社会から評価 されるであろう。安倍新政権は、公明党山口代表の訪中に 際し、首相親書を託し、すでにその姿勢を見せている。最 近 中 国 の 友 人 は 私 に 対 し 、「 2010 年 の 事 件 は 、 日 本 の 公船が中国漁船に衝突して来たものであり、しかも日本は 『国内事件』扱いをした。 2011 年には尖閣を国有化し、 日本の実効支配を強化しようとした。中国はこれらの動き を絶対放置できないと考えた」旨述べた。これは中国が日 本とは全く逆の解釈で対応していることを示す。双方の意 思 疎 通 の パ イ プ を よ り 太 く す る こ と が 重 要 な 課 題 だ と 思 う。 今回の摩擦の経験を通じて痛感したことは、日中間には 相互信頼と相互理解が依然として全く不足している面があ ることであり、まことに残念なことである。しかも、それ は非常に危険なことでもある。 中国は、いまや世界第 2 位の経済大国であり、軍事大国 でもある。それを背景に「海洋権益」 「海洋強国」を唱え、 「 中 国 は 主 権 と 領 土 保 全 を 守 る 『 自 信 と 能 力 』 を 有 し て い る 」 と 強 調 し 、 ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 高 揚 さ せ て い る 。 こ れ は、かつての帝国主義時代を想起させ、現在の世界協調時 代の責任ある大国の言動にはふさわしくない。 日本は、中国の首脳も認めたように、第 2 次大戦後、平

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和国家として経済成長に成功し、世界全体の安定と繁栄に も積極的に貢献してきた。特に日中関係は、現下の国際情 勢において最も重要な 2 国間関係の一つであり、日本は過 去 40年間中国の経済建設を支持し、質量ともに大きな援助 と協力を行ってきた。中国のWTOへの加盟も積極的に支 持した。東シナ海についても中国と共に「平和、友好、協 力の海」の建設を実現すべく日中協議の継続を提案してい る 。 中 国 は 、 軍 事 力 の 増 強 に よ ら ず 、「 平 和 的 発 展 」 の 方 針を実際上も堅持して、日中平和友好協力関係の発展およ び世界の安定と繁栄に貢献する道を選ぶべきである。

「小異を残して大同につく」

1978 年の会談で鄧小平副総理は、園田外相に対して 次 の よ う に 述 べ た 。「 両 国 間 に は 問 題 は あ る が 、 多 く の 共 通点がある。一緒に仕事をすることがたくさんある。小異 を残して大同につき、より多くの共通点を求めることに意 を用いるべきである。互いに協力し、互いに助け合うべき である。日中平和友好条約は、この共通点を肯定する性質 を有するものである」 。 この言葉は、現在でも有効ではなかろうか。今年は正に 日中平和友好条約締結 35周年を記念すべき年にも当たる。 日 中 両 国 が 、 条 約 の 精 神 に 基 づ き 、 エ ネ ル ギ ー 、 環 境 保 護、防災復興、金融、貧富の格差是正、少子高齢化等々、 両国が経験を共有し互いに協力すべき多くの課題にこそ真 剣に取り組むことを期待したい。  ( 2013 年 1 月 26日記) 日中条約の批准書交換を終え、抱き合って喜ぶ鄧小平副首相と福田赳夫首相。手前では握手する黄 華、園田直日中両国外相〔1978年10月23日〕(東京・首相官邸)(写真/時事)

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