歌舞伎四百年のあゆみ
はじめに
歌舞伎は、江戸時代に庶民の芸能として誕生し、能楽・人形浄瑠璃とともに三大国劇のひとつです。舞楽以来、田楽・能楽・能
狂言・人形浄瑠璃・民間音楽などを凝集したもので、それが庶民化され、近世化され、様式化された総合的かつ集大成的な演劇
です。また《歌舞伎》という漢字表記は、《歌》(音楽性)、《舞》(舞踊性)、《技》(技芸・物真似)をそれぞれ意味する当
て字ですが、独特な様式的演劇である歌舞伎の特質をうまく表現し得ています。江戸時代には初期の遊女歌舞伎時代に作られた
《歌舞妓》と表記されていましたが、明治以後、現在の文字が使われるようになりました。
語源的には、「かぶく(傾く)」という動詞の連用形が名詞化したもので、並外れたもの、常軌を逸した行動や逸脱した振舞い
をするものといった意味で、その他、異風異装、流行の先端をいく髪型や服装、さらには乱暴、狼藉な行動など広く用いられた
語で、そうした身なりや行動をする若者たちを「かぶき者」と呼んでいました。
歌舞伎のはじまり
室町時代末期、戦乱で非業の死を遂げた人たちの魂を祀る宗教行事に伴って、きらびやかに飾りたてて踊る〔風流踊〕が京の都
を中心に大流行していました。〔歌舞伎踊〕は、この風流踊を母胎とし、中世的な舞とは違って仮面をつけず振りを揃えて踊る
舞台芸能として、後々大人気を集めます。その最初は出雲大社の巫女と称する出雲の阿国が、京都で〔ややこ踊〕と呼ぶ芸能を
演じたのが始まりとされ、単純な小唄踊を美しく歌い踊った芸能でした。やがて北野神社の境内で小屋がけした阿国の一座は、
当時、巷を横行していたかぶき者の風俗を舞台に採り上げた〔歌舞伎踊〕を踊って、貴賤大衆から熱狂的な支持を受けました。
阿国は、男装して伊達なかぶき者に扮し、猿若と呼ぶ道化役を従えて、女装した狂言師が扮する茶屋の女と戯れる様子を官能的
な舞で演じてみせました。舞台は能と同じものを用い、楽器も笛・小鼓・大鼓・太鼓だけでした。それらが記録に記されたのが
慶長八年(一六〇三)五月、奇しくも江戸幕府開幕の年でした。
踊から演劇へ
こうした歌舞伎踊を遊女たちが真似た『遊女歌舞伎』も人気を博しますが、芸能を表看板とする売春の温床になるとの風俗的な
理由から、寛永六年(一六二九)全ての女歌舞伎が禁止されました。代わって年少の美男子による『若衆歌舞伎』が脚光を浴びま
すが、これも美しい容色を売り物にする風紀上の問題から、承応元年(一六五二)禁止となります。
度重なる幕府の禁令によって歌舞伎は、若衆の象徴である前髪を剃って野郎頭になること、扇情的な舞や踊ではなく〈物真似狂
言尽〉を演ずることの二条件を受け入れ、翌年再開が許されました。これ以降、舞台には前髪を剃り落とした野郎頭の者ばかり
が登場することとなったので『野郎歌舞伎』と呼ばれました。また若衆は女に扮するときは紫の帽子を額において、女方(女形)
の美しく艶かしい雰囲気を工夫しました。同時に歌舞伎は、能や狂言から物語や歌謡と共に舞台機構も取り入れ、やがて独自に
引き幕を生み出し、長編戯曲を演じる土壌を築いてゆき、演劇への道を自覚的に歩み始めます。
歌舞伎の開花
元禄時代(一六九〇年代前後)、庶民文化の開花とともに、歌舞伎でも江戸と上方それぞれで独自の様式が創られ、内容の複雑化
に伴って役者の役柄も分化、整備され演技術が確立します。新たに武士階級を中心に形成された江戸では、初代市川団十郎が
《荒事》と呼ばれる豪放な力感溢れる様式を創始し、上方では京の坂田藤十郎に代表される初期歌舞伎の「傾城買い」の狂言から
《和事》と呼ばれる柔らかな台詞や身のこなしを基本とする演技、演出様式が確立されました。また元禄期には、近松門左衛門や
富永平兵衛などの独立した作者が登場するとともに、お家騒動などの写実的な芸が重んじられ、その趨勢のなかで女方芸が完成
されました。同時に敵役や道化方の芸も確立され、歌舞伎は演劇として飛躍的な発展をみせました。
享保・寛永期の歌舞伎
元禄期の歌舞伎を支えた名優たちの没後、享保から寛永(一七一六~一七五〇年頃)にかけて歌舞伎は、人形浄瑠璃の全盛に圧倒
されます。しかし、人形浄瑠璃の脚本も音楽も演出法もそのまま移入して演じる《義太夫狂言》が上方で定着し、次第に江戸に
も拡がっていきます。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』など、現在の歌舞伎を代表するこれらの作品は、
このとき移入されたものです。
人形浄瑠璃から戯曲構成や演技に大きな影響を受けた歌舞伎は、宝暦期(一七五一~一七六四)に入ると、《セリ》や《廻り舞
台》など独時の劇場機構を発展させて、再び活力を取り戻します。とりわけ人形浄瑠璃から転じた上方の並木正三は、義太夫狂
言と歌舞伎狂言を融合させたダイナミックな世界を、スペクタクル性ゆたかに描き上げていきました。
同じ頃、女方専有のレパートリーとして、《所作事》(長唄による舞踊劇)が確立され、『京鹿子娘道成寺』や『石橋』は、後
世に残る作品となって多くの書き換え舞踊がつくられました。
明和・天明・寛政期の歌舞伎
江戸庶民文化の成熟が頂点に達した明和から寛政期(一七六五~一七九〇頃)に、歌舞伎はさらに完成を迎えます。それまでは
女方の領分だった舞踊を立役も勤めるようになり、江戸の作者、金井三笑や桜田治助は舞踊の作詞に優れ、劇舞踊の全盛をもた
らします。特に桜田治助は、機知を重んじる江戸の気風に則り、大らかで洒落た天明の歌舞伎を主導しました。また《生写し》
と後によばれる、風俗や所作の写実的傾向が芽生えるのもこの頃で、立役で最初に舞踊を努めた初代中村仲蔵は、初代尾上菊五
郎や四代目市川団十郎の精神を受け継いで、旧作に新しい視点を持ち込んだ演出を確立しました。
写実的な精神は歌舞伎をめぐる絵画にもおよび、役者絵を似顔で描くことが勝川春章の一門によって始められ定着していきます。
東洲斎写楽の奇才も、この写実の系譜上に生まれたものでした。
上方では、実録や講談を取り入れた重厚な時代物が上演されるようになり、人形浄瑠璃へ移入されることもしばしばありました。
そして、寛政七年、上方の作者の並木五瓶は三代目沢村宗十郎と共に江戸に下り、合理的な上方の作劇を江戸劇壇に持ち込みま
す。これが、以後の歌舞伎の変容を象徴してゆくことになります。
しかし、中村座・市村座・森田座の江戸三座すべてが業績不振から控えの座に興行を譲る事態が起きるなど、興行的には厳しい
時代が続きました。
文化・文政期の歌舞伎
十九世紀初頭の文化・文政期は、江戸の作者の四代目鶴屋南北が最下層の現実を生々しく活写した《生世話》とよばれる写生劇
を洗練するとともに、因果物の見世物や葬式の棺桶など、従来の歌舞伎が目を背けた題材を積極的に利用しながら、笑いに転じ
る劇作で新風を起こしました。そして奇抜な趣向や仕掛けを大胆に駆使した怪談劇や多くの世界を混交させて展開する《綯い混
ぜ》の手法にも長じ、『東海道四谷怪談』『隅田川花御所染』などの名作を生みだしました。また、思う男のためには悪事も犯
す《悪婆》という新たな女性像も作りあげるなど、名実共に文化・文政期の歌舞伎の底辺を支えました。
また早変わりや仕掛けを多用したケレンが盛んになり、その影響を受けて、舞踊でも一人で七役も八役も兼ねて踊る《変化舞
踊》が流行します。因みに今日上演される風俗舞踊の小品は、ほとんどが変化舞踊のひとこまを独立させたものです。その他、
義太夫狂言でもさまざまな演出法が確立され、近現代にまでつながる型の基礎がこの期に築かれました。そして、こうした変革
すべてに参画した七代目市川団十郎は、天保十一年(一八四〇)能楽をそのまま歌舞伎化した破天荒な新作『勧進帳』を初演す
るとともに、『歌舞伎十八番』の制定を宣言して、団十郎家の古典を定めました。
幕末期の歌舞伎
幕末の歌舞伎は天保の改革により、江戸の中村座と市村座の火災をきっかけに江戸三座は浅草猿若町へ移転を命じられ、役者も
東西問わず贅沢な生活をしているとの理由から数名が追放を命じられるなど、幕府の厳しい弾圧受けます。しかし、上方出身の
四代目市川小団次と“白浪作者”の異名をとる河竹黙阿弥の活躍で苦難の時代を乗り切ります。特に河竹黙阿弥は、写実的な生
世話物を土台としながら、七五調の美しい台詞を交え、下座音楽や浄瑠璃などの音楽的演出を細部にわたって磨き上げたところ
に特色があり、明治維新後も活躍を続け「江戸演劇の大問屋」と称されました。
近代歌舞伎
明治維新を迎え新政府によって推進された欧化政策は、歌舞伎にも影響を及ぼし、非合理的な筋立てや好色な内容を改めて、高
尚で合理的な新時代の演劇へと生まれ変わることを迫られます。こうした「演劇改良運動」によって、史実に基づき故実風俗を
正した新史劇《活歴》と、明治の新しい世相や風俗の写生劇である《散切物》、能楽を直接移入した舞踊劇《松羽物》などが生
まれましたが、活歴と散切物は広く支持を受けるには至りませんでした。明治天皇の天覧を機に歌舞伎役者の社会的地位は向上
しますが、日清戦争以降、新興の新派劇の参入を受けた歌舞伎は同時代性を失い、古典化を速めます。特に九代目団十郎と五代
目菊五郎の両名優が、この時期に総合して確立した演技、演出が後の古典歌舞伎の規範と仰がれるようになってゆきます。
明治三十六年(一九〇三)、団・菊両優が相次いで没すると古典歌舞伎の固定化はさらに進みますが、同時に坪内逍遥や岡本綺
堂ら、劇場外の作家が戯曲を提供する機会が増え、西洋的な思潮を伝統的な演技に則って新展開する《新歌舞伎》と呼ばれる
ジャンルを形成するに至ります。
関東大震災(一九二三)の復興後、娯楽の主座にあった歌舞伎は、太平洋戦争によって再び甚大な被害を受け、さらに戦後の検
閲によって忠義や敵討を主題とする演目が禁止された時期もありました。
価値観と娯楽が多様化するなかで、歌舞伎は幾度となく危機を叫ばれながら、そうした困難を乗り越えて現代に至ります。この
間、明治三十五年、初代鴈治郎との提携を機に今日まで松竹株式会社がほぼ全ての興行と経営を担い、今なお商業演劇の中心と
して世界無形文化遺産にも登録され、国際的にも高い評価を受けています。