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49 L Indifférent La vie contemporaine et Revue parisienne réunies (1) 1993 (2) L Ange de la nuit Proust et l ind

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首都大学東京 機関リポジトリ

Title

Author(s)

川原, 雄太

Citation

人文学報. フランス文学(377): 49-60

Issue Date

2006-03-00

URL

http://hdl.handle.net/10748/4590

DOI

Rights

Type

Departmental Bulletin Paper

Textversion

publisher

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マルセル・プルーストが青年時代に書いた短編に、L’Indifférent 『つれない男』 という作品がある。若く美しい未亡人が、何の魅力もない青年に突然恋に落ちて しまう。しかし恋の相手である青年は彼女に何の関心も持たないため、ヒロイン は苦しむ、という話である。この短編は、処女作品集『楽しみと日々』(1896 年 7 月)の出版と同じ年、雑誌『現代生活』La vie contemporaine et Revue

parisienne réunies(1896 年 3 月 1 日号)に発表された。その後、その存在が忘 れられていたが、1978 年、フィリップ・コルブの序文付きで再発表され(1) 1993 年には、フォリオ版『楽しみと日々』に補遣として収録された(2)。コルブは、 この短編の執筆時期を、1893 年7月から 1894 年 9 月頃までと推定している。 また、コルブは、1910 年、『スワンの恋』を執筆していた時期にプルーストがこ の短編が「必要になった」と人に探させている事実に注目して、この短編に描か れた恋の結晶化作用は『スワンの恋』のテーマを先取りするものとして高く評価 した。 しかし、ジョヴァンニ・マッキアは、評論集『夜の天使』L’Ange de la nuit の 中の論考「プルーストと無関心」Proust et l’indifférence でコルブのこの説に対 して否定的な立場をとっている(3)。マッキアは、青年期に書かれたプルースト作 品の中で「女性の立場から見た恋の結晶化のプロセスを描いた」もうひとつの短 編作品として、1893 年 7 月の日付を持つ La Mélancolique villégiature de Mme

de Breyves 『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』を挙げている。この短編は、 若く美しいヒロインのド・ブレーヴ夫人が平凡で退屈でとるに足らない男を愛し てしまうという筋の作品で、マッキアは、この短編が『つれない男』と「同じよ うな登場人物、同じ状況設定」を持っていると主張する。マッキアは、ふたつの

プルースト初期作品における

結晶化作用の描写について

川 原 雄 太

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作品の類似性を指摘することで、『つれない男』は、『スワンの恋』につながる作 品というよりはむしろ、プルーストの青年期特有のテーマである indifférence 「無関心/つれなさ」のテーマが扱われている作品だと主張している。二つの作品 のヒロインは、男の旅立ちによって、彼が自分に対して全く indifférent「無関心」 であることが分かって、狂おしい情熱を憶えるのだ。二つの作品においては、恋 愛対象の無関心が恋の結晶化作用を引き起こす役割を果たしている。マッキアに よれば、『つれない男』は、プルーストが初期作品の中で取り上げ、そしてその 後の作品では見られなくなる青年期「唯一の主題」である「無関心/つれなさ」と いうテーマを持っているというのだ。 二人の議論はその後、省みられていないが、この「無関心/つれなさ」というテ ーマは、プルーストの創作活動の中にどのように位置づけるべきだろうか。 ミッシェル・クルーゼは、『ジャン・サントゥイユ』以降のプルースト作品に、 スタンダールの結晶化作用の理論がどのように影響しているかを分析している(4) それによると、プルーストはスタンダールの結晶化作用の理論を批判しながら独 自の理論を打ち出したという。『ジャン・サントゥイユ』の中の断章「恋愛につ いて」の冒頭で、「スタンダールはひどく物質主義的な人間」として批判されて いる(5)が、クルーゼによると、プルーストにとって、スタンダールは「客観主義 者」であり、「快楽と対象の関係を信じていた」人間と考えられていたというの だ(6)。また、『囚われの女』の中の一節でも、スタンダールに対する批判が見られ る。ある牛乳売りの女の容貌が語り手を不快な気持ちにさせる。ところが、語り 手は「恋を始めるにはそれで十分なのだ」と考えるのだ。そして、「美は幸福を 約束すると言った人がいる。だが逆に快楽の可能性が美の始まりにもなりうるの だ」と考察する(7)。「美は幸福を約束する」というのはスタンダールの『恋愛論』 の中の有名な一節だが、クルーゼは、この一節を引き合いに出した語り手の意図 は明らかだ、と言う。クルーゼによると、恋には対象の美が必要だとするスタン ダールの立場に対して、プルースト自身は恋を生む主観的な原因、たとえば「快 楽の可能性」という原因があれば十分だと言うのである。ただ、クルーゼは、ス

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タンダールの「美」は、プルーストが想定しているような対象の客観的な美のこ とではなく、恋する人間の想像力が生む主観的な美を指しているので、二人の立 場はそれほど違わないとも言う(8)。プレイヤッド版の注では、『囚われの女』のこ の箇所に、恋する人間は恋人の欠点をも美と見做すという結晶化作用を説明した 『恋愛論』第 17 章を引き合いに出している。しかし、プルーストがおそらく念頭 に置いているのは、『恋愛論』第 10 章であると思われる。スタンダールは、そこ で、「なぜ、美 . が恋の発生に必要であるか、わかる。醜さが障害となってはいけ ないのだ。(…)恋が生まれる前には、美が看板 .. として必要である」と言ってい るからだ(9)。つまり、主観的であれ客観的であれ「美」の不在はスタンダールの 結晶化作用の最初の段階で障害になるのだ。これに対して、『囚われの女』の一 節では、語り手は牛乳屋の女に不快な印象を持ち、また、『スワンの恋』では、 スワンはオデットが「彼にとっては興味の持てない類の美しさ」の女と感じてい る(10)。つまり、プルースト作品では、対象の美への不快感は、なんらその後の結 晶化作用を妨げていないのだ。この点でプルーストはスタンダールと立場を異に すると言える。では、スタンダール批判を通じてプルーストが意図したことは何 か。それは、恋愛は主観のエゴイスムが生む幻想で、恋する人間の情熱とその対 象との関係は全くないということだとクルーゼは言う(11) では、『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』と『つれない男』という初期の 二短編でのヒロインの恋の描写においても、このようなプルースト独自の結晶化 作用の展開が見られるだろうか。 『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』のヒロインのフランソワーズは、恋の 相手のジャック・ド・ラレアンドに不快な印象を覚える(12)。フランソワーズのこ の第一印象は、スワンの第一印象や『囚われの女』の語り手の印象と共通してい る。これはすでに述べたように『恋愛論』の考えに反している。また、『恋愛論』 では恋の相手が「自分のことを愛している」と確信が持てるとき、恋が生まれ、 結晶化作用が始まる(13)。それに対して、プルーストのこの短編では、ヒロインの

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恋が決定的になるのは愛される希望が否定される時で、男の旅立ちの知らせを受 け、その時までは無自覚だった希望が根こそぎ奪われた時、彼女は恋を諦めるど ころか、完全に恋の虜となってしまう(14)。また、『恋愛論』において、恋とは 「好ましく思い、また自分を愛してくれる対象を、全感覚で、出来るだけ近くで、 見たり、触れたり、感じたいという欲望を持つ」とされる(15)。『スワンの恋』の 先行テクストとしての『ジャン・サントゥイユ』を分析しているアルマ・サレダ ールによれば、「相互性を奪われた恋というのはスタンダール作品では生まれよ うがない。恋の誕生の段階を実現する前に、活気を失い、死んでしまう」という(16) それに対して、フランソワーズは社交界から身を引き、孤独の中で、遠く旅に出 た男を思い続けることになる。さらに、スタンダールの結晶化作用では、恋愛対 象は「無数の美点」で飾り立てられ、自分の理想に仕立て上げられる。ところが、 フランソワーズは、自分のものにならないとわかっている男への想いが募る一方、 逆に、愛した男が自分の理想に叶ったものでないという苦い認識を深めていく。 フランソワーズは孤独の苦悩の中で叫ぶ。 私は、彼が平凡な男だということを知っているし、ずっとそう思ってきた。これ がまさに彼についての私の判断だし、それは変わりはしない。その後、心に動揺が 生じたが、この判断は変わらなかった。これは本当につまらないことだが、私はま さにこのつまらぬことのために生きている。私はジャック・ド・ラレアンドのため に生きている!(17) フランソワーズの中には、恋の相手に対する低い評価と、彼への激しい情熱が 同居している。恋人が自分のものにならないと絶望し、また恋人の現実の姿から 眼を逸らすこともできず、フランソワーズは、それでも男がいつか自分のものに なるのではないかという儚い夢想に執着する。『恋愛論』では、「私が敢えて結晶 .. 化作用 ... と呼ぶこの現象は、(…)恋愛対象の美化とともに快楽が増加するという 感情と、彼女は私のものだという考えから生まれる」とされている(18)。プルース トが『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』の中で描くヒロインの恋愛の進展は、 スタンダールの結晶化作用の進展とまるっきり正反対だということがわかる。で は、この奇妙な恋愛は何故生まれたのか。『楽しみと日々』収録時に削除された ワーグナーの『ワルキューレ』を下敷きにした一節が、彼女のこの奇妙な恋愛の

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起源を明らかにしている。 彼女はこの幻想に彼女自身のあまりに真実な苦しみと、否定しようのない悦楽の 現実性を与えていた。ああ、彼女はこの場に恋人として、どんなに彼を欲したこと だろうか、ジークリンデのようにどんなに彼に次のように言いたかったことだろう か、「ああ、いつの日か、その寛大な友がやって来て、虐げられた女を解放してく れるなら、不安な私の魂の絶え間ない責め苦、その全ては忘れられ、私の心は失っ たものを取り戻すでしょう!嘆いたものは取り戻されるでしょう、私の腕の中で、 ああ、限りない喜びよ!この英雄を抱くことが出来たときに」。彼女にジークムン ドのように彼が答える、「あなたの不幸を全てお忘れなさい、私はあなたの夢の復 讐者なのだ(…)」(19) フランソワーズが恋の情熱に結びつけるワーグナーの『ワルキューレ』のイメ ージは、傷つけられた自尊心の痛みを紛らわせようとする欲求が生んだものであ る。「虐げられた女」とはヒロインであるフランソワーズであり、自分に全く関 心を払わない男が「いつの日か」、自分を「解放するために来てくれるなら」、彼 女の心は「失ったものを取り戻す」だろうというのだ。取るに足らない凡庸な ド・ラレアンドに袖にされた彼女が望むのは、彼が彼女に恋の告白をしに来るこ とである。ド・ラレアンド以外の他の男たちでは彼女を救うことが出来ない。彼 女を救うことが出来るのは、彼女の自尊心を傷つけた彼しかいない。この悲劇的 な恋愛の理由は、恋愛対象の価値に関わるのではなく、彼女自身のエゴイスムに 関係しているのだ。無関心な男を愛する苦悩は、恋する人間のエゴから生まれる。 この情熱は『恋愛論』の定義に従えば、情熱恋愛というよりもむしろ虚栄恋愛に 近いと言える。この奇妙な情熱の「結晶化作用」も、情熱が現実と全くかかわり が無い、というプルーストの命題を浮き彫りにしている。 現実と欲望の二つの世界が平行している、二つの世界が交わることは有り得ない、 あたかも物体がその影とひとつになることが有り得ないように。その感情が、彼女 をはっとさせる(20) というのだ。 『つれない男』でも、プルースト流の結晶化作用が描かれる。『つれない男』の

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ヒロイン、マドレーヌが恋に落ちる原因も、恋の相手であるルプレの魅力それ自 体にあるのではなく、彼がマドレーヌに対して示す無関心な態度にある。空気を 突然奪われた喘息の子供のように、恋愛経験での挫折を知らないマドレーヌは激 しい苦痛に襲われる(21)。フランソワーズが『ワルキューレ』に喩えて恋の実現の 儚い夢想に耽るように、マドレーヌも身勝手な妄想で自分の傷心を慰めようとす る(22)。しかし、マドレーヌも、恋に落ちはしても、その相手が理想的な恋人だと は到底思えない。ルプレを愛してはいるが、ルプレの中に恋の根拠はない。「彼 女の愛の根拠は彼女の中にあ」るからだ(23)。彼女の情熱を支えているものは、現 実とは関係がない。そのため、マドレーヌは、ルプレといると現実と自分自身の 情熱との落差を思い知らされることになるのだ。 このように、恋愛対象の「無関心」によって生じる結晶化作用の展開は、スタ ンダールの『恋愛論』で紹介される結晶化作用の進展とは大きく異なったものと いえる。では、コルブが言うように、『つれない男』の結晶化作用の進展は『ス ワンの恋』の先取りと言えるだろうか。 先に挙げたミッシェル・クルーゼの論文は、『ジャン・サントゥイユ』と『ス ワンの恋』における結晶化作用についての分析を行っている。それによると、ジ ャンの S 夫人に対する恋や、スワンのオデットに対する恋では結晶化作用は二段 階で進行するが、これはスタンダールを批判的に踏襲した結果だと言う。スタン ダールでは、最初の結晶化作用は「美」によって生まれるが、二度目の結晶化作 用は恋する人間の「疑惑」から生まれる。 ジャンの場合、スタンダールの結晶化作用を踏まえて、恋人の美への感嘆から 恋が始まる。ところが、恋愛対象の拒絶にあって希望を失うと、その恋は自己本 位な形に変質する。「相手に対するこの明確な希望の不在が、彼の思いを恋する ことの満足へと向けさせた。彼は、恋人よりも恋そのものを楽しんでいた」(24) 「恋することの満足に向けられる」。これがスタンダールと袂を分かつプルースト 流の結晶化作用の道行きとなる。クルーゼの言葉を借りれば、この恋は、「完全

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に受身で主観的な恋愛」、「戦略的な嘘と装われた無関心で覆われた、(…)無感 動な、エゴイスティックな恋愛」ということになる(25)。この恋愛の第一段階では、 ジャンは、恋人のつれない仕打ちから生じる不安や絶望から身を置き、自己本位 な恋愛に幸福を感じることが出来る。しかし、愛する女性に対する疑惑や疑念が 生じたとき、事情は一変してしまう。「疑惑」が恋の情熱を決定付ける第二の結 晶化作用を生むのだ。「あの人は他の男(他の女)を愛しているのではないか」とい う際限のない疑惑が始まる。逢引の約束を断られると、「心臓の真ん中に一撃」 を受けたようになり、窓の光に浮かび上がった影で、女が他の男といるかのごと く勘違いする。この勘違いがジャンの嫉妬を決定づけるのだ。 この嫉妬による結晶化作用は、『スワンの恋』にも見てとれる。最初、スワン がオデットに紹介されたとき、彼はオデットの美しさを「彼にとっては興味を持 てない類の美しさ」と考える。しかし、スワンもジャンのように自己本位な恋愛 態度でオデットとの恋を楽しむ。スワンはオデットに何ら欲望を感じないが、彼 がオデットと持つ親密さは第二の結晶化作用を準備することになるとクルーゼは 指摘する。「オデットの写真の代わりにボッティチェリの複製に感嘆する」エゴ イスティックで作為的な美化作用が、スワンの中で第一の結晶化作用を進行させ る。そして、「欲望の不在に基づい」たこの幻想はいつの間にかスワン自身をも 欺くことになってしまう(26)。スワンもまた、惰性的な恋愛関係に生じた不意の出 来事によって、激しい情熱にとらわれるのだ。ヴェルデュラン家のある夜の夜会 でスワンはいつもいるはずのオデットがいないことに気がつく。すると、オデッ トの不在が生んだ不安・疑惑が、スワンに激しい恋愛感情を生むのだ。この展開 はまさにジャンのS夫人に対する恋の展開と同じものだ。 コルブは、『つれない男』については、「この短編のヒロインが、平凡な男に対 して突然、抗うことのできない愛情に囚われるというこの状況は、オデット・ ド・クレシーに恋に落ちるスワンのものと同じである」と言う(27)。しかし、二つ の作品の相違は明らかだ。『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』や『つれない 男』には『ジャン・サントゥイユ』や『スワンの恋』での二段階の結晶化作用が 存在しないからである。『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』や『つれない男』 のヒロインは、嘘や偽りの無関心で相手の気を引くことができず、相手に拒絶さ れて恋に落ちる。ジャンやスワンのように、情熱の第二段階に移行する前提がフ

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ランソワーズやマドレーヌの恋には存在しない。当然、ジャンやスワンの情熱を 決定する要素、「疑惑」や「嫉妬」も存在しない。したがって、『つれない男』と 『スワンの恋』では、恋に落ちる状況も、情熱を決定付ける要素も根本的に異な っているのである。 『ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活』や『つれない男』の執筆時期に当たる 1893 年から 1894 年頃までのプルースト作品の中では、「無関心」というテーマ が恋愛描写の中心となっていて、「疑惑」や「嫉妬」というテーマは確認するこ とができない(28) プルースト作品の中ではじめて「疑惑」や「嫉妬」というテーマが扱われるよ うになるのが、1894 年 10 月発表の La Mort de Baldassare Silvande, vicomte

de Sylvanie 『シルヴァニー子爵バルダサール・シルヴァンドの死』と、1896 年 の『楽しみと日々』ではじめて発表された La Fin de la jalousie 『嫉妬の終わり』 である(29)。この二つの短編は、『楽しみと日々』の冒頭と末尾を飾る作品で、『楽 しみと日々』の中で最も遅くに書かれたと考えられる作品である。 『シルヴァニー子爵バルダサール・シルヴァンドの死』の主人公は、たしかに それまでの他の作品の登場人物たちと同じように恋愛対象の無関心に苦しむ人間 であるといえる。しかし、死期の迫るバルダサール・シルヴァンドにとって、愛 する女性である「ピアの無関心」が生む苦悩は、彼が愛されない苦しみばかりで なく、同時に、ピアが他の男を愛することに対する「嫉妬」をも意味している。 シラクサの小公女、ピア。彼[=バルダサール・シルヴァンド]は今でも全感覚を 持って彼女のことを心から愛していたが、彼女自身は打ち負かすことの出来ない狂 おしい愛でカストルッチオを愛していた。彼女の無関心、ただそれだけが、彼に 時々、より残酷な現実を思い出させたが、彼は忘れようと努めていた。人生最後の 日が近づいた時でさえ、彼はいくつかの祝宴に参加したが、そんな時、彼女の腕に 寄り添って歩きながら、彼はライバルを侮辱していると信じていた。しかし彼女の 傍で歩くその時でさえ、彼女の深い目が別の愛にぼんやりとしているのを彼は感じ た。病人に対する彼女の哀れみだけが彼にそのことを隠そうとしていた。しかし今

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では、彼女と一緒に歩くことさえ出来なくなっていた(30) 恋愛対象の「無関心」が恋する人間の「嫉妬」を呼び起こすというテーマは、 それまでの作品では全く存在しなかった。バルダサール・シルヴァンドは、プル ーストの描く登場人物の中で初めて、愛する女性が他の男を愛していることに嫉 妬する人物として描かれるのだ。実は『つれない男』は、『シルヴァニー子爵バ ルダサール・シルヴァンドの死』という短編が執筆された為に、『楽しみと日々』 への収録が見送られた、という経緯がある(31)。1894 年 10 月、『シルヴァニー子 爵バルダサール・シルヴァントの死』が執筆されたことは、同時にプルーストの 恋愛の中心テーマが「無関心」から「嫉妬」に移行したことの象徴と考えること ができる。 さらに、『楽しみと日々』の末尾を飾る為に書かれた『嫉妬の終わり』で、恋 人に対する「疑惑」のテーマが初めて「嫉妬」のテーマと結びつけられることに なる。『嫉妬の終わり』の主人公オノレは、恋人との幸福な関係に浸りきって有 頂天になっているまさにその瞬間に、友人の何気ない一言によって、際限の無い 疑惑と嫉妬を吹き込まれる。後に『ジャン・サントゥイユ』や『スワンの恋』で 中心テーマとして展開される「疑惑」と「嫉妬」が、この『嫉妬の終わり』で結 びつくのである。この『嫉妬の終わり』という作品は、後年のプルーストが、唯 一『失われた時を求めて』に近いイメージを持っていると認めている(32)。それは この作品が、青年期にそれまで書いてきた他の作品には見られなかった「疑惑」 と「嫉妬」のテーマを全面的に展開しているからに他ならない。 『シルヴァニー子爵バルダサール・シルヴァントの死』と『嫉妬の終わり』は、 『楽しみと日々』の冒頭と末尾に置かれているが、この二つの短編は『失われた 時を求めて』での恋愛描写に近く、後のプルースト作品の最初の萌芽であると言 える。 『つれない男』が執筆されながら、『楽しみと日々』に収録されなかった背景に は、『シルヴァニー子爵バルダサール・シルヴァンドの死』執筆による「嫉妬」 のテーマの発見がある。その後、「疑惑」と「嫉妬」というテーマが結び付けら れた『嫉妬の終わり』執筆へとつながる。この一連の流れには、「無関心」から 「疑惑」「嫉妬」のテーマへの移行という、プルーストの小説の発展段階が隠され

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ていたと考えられる。 以上により、『つれない男』は、コルブが主張しているように、『スワンの恋』 の直接の先行作品だと言うことはできないが、この短編がもつ「無関心」のテー マは、マッキアの主張のように、たんに青年期特有のテーマというだけではなく、 後のプルースト作品につながる発展的な要素を持っていた、と言えるのである。 駐

(1) L’Indifférent, préface de Philip Kolb, Gallimard, 1978.

(2) Les Plaisirs et les Jours, suivi de L’Indifférent, édition Thierry Laget,

Gallimard,1993 (以下、PJ).

(3) Giovanni Macchia, L’Ange de la nuit, sur Marcel Proust, traduit de l’italien

par Marie-France Merger, Paul Bédarida et Mario Fusco, Gallimard, 1993ÅD

(4) Michel Crouzet, « le “ Contre Stendhal ” de Proust ou cristallisation stendhalienne et cristallisation proustienne », in Stendhal Club, no140, 15 juillet 1993.

(5) Proust, Jean Santeuil, précédé de Les Plaisirs et les Jours, édition Pierre

Clarac et Yves Sandre, Gallimard, 197, (以下、JS), p.745.

(6) Michel Crouzet, op.cit., pp.319-320.

(7) Proust, A la Recherche du temps perdu III, édition publiée sous la direction de

Jean-Yves Tadié, avec , pour ce volume, la collaboration d’Antoine Compagnon et de Pierre-Edmond Robert, «Bibliothèque de la Pléiade», Gallimard, 1988, p.647.

(8) Michel Crouzet, op.cit., p.316.

(9) Stendhal, De l’amour, texte établi, avec introduction et notes par Henri

Martineau, Garnier Frères, 1959, p.27.

(10) Proust, A la Recherche du temps perdu I, sous la direction de Jean-Yves Tadié,

avec, pour ce volume, la collaboration de Florence Callu, Francine Goujon, Eugène Nicole, Pierre-Louis Rey, Brian Rogers et Jo Yoshida, «Bibliothèque de la

Pléiade», Gallimard, 1987, pp.192-193. (11) Michel Crouzet, op.cit., p.320. (12) Proust, PJ, p.116.

(13) Stendhal, op.cit., p.8. (14) Proust, PJ, pp.121-122. (15) Stendhal, op.cit., p.8.

(12)

Swann » dans « Jean Santeuil », Minard, 1980, p.62.

(17) Proust, PJ, p.125. (18) Stendhal, op.cit., p.9.

(19) Proust, La Revue Blanche, tomeIV, deuxième semestre 1893, Slatkine reprints, Genève, 1968. cf.PJ, p326. プルーストは自身の注として「ワルキューレ第一幕第五場」としており、プレイヤ ッド版、フォリオ版の注ともそのことについては何も触れていないが、現行台本で は『ワルキューレ』の第一幕に第五場は存在しない。対応すると思われる箇所は第 一幕第三場の一節にある。以下はジークリンデの台詞の抜粋である。「ああ、今日、 ここでその友を見つけられたら、彼が憐れなことこの上ない女のもとへ異境からや って来てくれたら!かつて私が激しい苦しみのなかで蒙ったすべて、私を恥辱と屈 辱のなかで苦しめたすべて、甘美きわまる復讐がそれらすべてを償ってくれるでし ょう!失ったすべてを私は取り返すでしょう、私が涙して嘆いたすべてが取り戻さ れるでしょう、その聖なる友を見つけて、この腕がその勇士を抱くことができたな らば」(ワーグナー 『ニーベルングの指環(上)』、高辻知義訳、p.164)。この台 詞の少し先にはジークムントの台詞として「ああ、甘美この上ない悦び!こよなく 有り難い女よ!」(同上、p.170)という台詞がある。プルーストはこれらの台詞を 自由に引用したのではないだろうか。 (20) Proust, PJ, p.130. (21) Ibid, p.258. (22) Ibid, pp.259-260. (23) Ibid, p.262. (24) Proust, JS, p.747.

(25) Michel Crouzet, op.cit., p.321. (26) Ibid., pp.321-322.

(27) Philip Kolb, in Correspondance de Marcel Proust(以下、Corr.),texte établi,

présenté et annoté par Phlip Kolb, t.X, pp.198-199.

(28) 『楽しみと日々』に収められた断章にも、恋愛対象の無関心に苦しむ登場人物が 描かれている(PJ, pp.185-186.)。この断章に登場するのは、『ド・ブレーヴ夫人の 憂鬱な別荘生活』や『つれない男』とは違って男性の登場人物である。マッキアも 指摘しているが、この「無関心」というテーマは、女性の立場からだけではなく、 男性の立場からも描かれているのだ。『楽しみと日々』の作品だけでなく、この時 期のプルーストの他の創作活動においても、この「無関心」のテーマが存在する。 例えば、同人誌バンケの第一号(1892 年 3 月)に掲載された書評の形を取ったエ ッセイにも、「無関心」というテーマが登場する(Le Banquet, nº1. mars 1892, pp15-17. Contre Sainte-Beuve, précédé de Pastiches et Mélanges et suivi de

Nouveaux Mélanges, édition P.Clarac et Y.Sandre, Gallimard, 1971.,

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年、1893 年夏に友人と試みた書簡体小説の共同作業の中でも、「無関心」のテーマ にプルーストがこだわりを見せていることがわかる(Ecrits de jeunesse

1887-1895, Institut Marcel Proust International, 1991, p.225-271. cf. Giovanni

Macchia, op.cit., pp.39-43.) 。

(29) この二つの作品で取り扱われる「嫉妬に苦しむ主人公の死」という、プルースト にとって「まったく新しいトポス」の登場は、トルストイの影響が大きい、とアン ヌ・アンリは指摘している。cf. Anne Henry, Marcel Proust, théories pour une

esthétique, Klincksieck,1981, p.33.suiv.

(30) Proust, PJ, p58.

(31) 注1のコルブ版『つれない男』の序文にその経緯が説明されている。

(32) cf. 1904 年 4 月、アンリ・ボルドー宛ての書簡(Corr., t.IV, p.104.)、1913 年 8 月 1 日頃のジョルジュ・ド・ローリス宛て書簡(Corr., t.XII, p.251.)、1913 年 11 月 6 日から 8 日の間に書かれたと推定されるロベール・ド・フレール宛ての書簡 (Corr., t.XII, p.298.)。cf. PJ, p.344. Giovanni Macchia, op.cit., p.34.

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