定家の歌一首--「踏迷ふ山なしの花」の歌の解釈を
めぐって
著者
赤羽 淑
雑誌名
清心語文
号
3
ページ
41-53
発行年
2001-08
URL
http://id.nii.ac.jp/1560/00000348/
会 学 文 本 日 語 本 日 学 大 子 女 、し 一 圭目 、︶﹂ー ム ダ ル ト ー ノ 月
8
年 01 20 号3
第 文 語 、し 一 圭目 、︶﹂1定家の歌一首
﹁踏迷ふ山なしの花﹂
踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲一注−一 この歌は﹃拾遺愚草﹄には見えないが、﹁定家卿百番自歌合﹂に定家 自身によって九十五番左に﹁内裏詩歌合﹂と題して撰ばれている。右 の歌は、これも﹁内裏詩歌合﹂の﹁はしたかのとがへる山路越えかね てっれなき色の限をぞみる﹂という歌であり、判者である順徳院は右 の歌を勝としている。この﹁内裏詩歌合﹂は残存していないが、建暦 二年︵一二二一年、五十一歳︶の頃、順徳院が詩歌合に定家の歌を頻 りに召されたという記事が﹃明月記﹄にみられるので、この頃の作か もしれない。ともかく建保四年︵二二六年、五十五歳一二月、﹁定家 卿百番自歌合﹂を結番した時点で、彼の代表作として撰んでいるので、 定家自身も気にいっていた歌であったのであろう。 この歌の中心的イメージとなっている﹁山なしの花﹂は﹁山桜﹂に 較べて歌に詠まれることが少なく、僅かに取り上げられたとしても、の歌の解釈をめぐって
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、マ それは花の美しさのゆえではなく、次にあげるように、﹁隠れる山がな い﹂﹁山なしの花﹂というように掛けて用いられ、遁世的な傾向の歌に 詠まれた。 よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花 ︵近江御息所歌合・一五、古今和歌六帖・山なし・四二六八︶ 定家は、この﹁山なしの花﹂にかつて見られなかった美的存在と意味 を与えた。否定的な用法を逆転させて、ほのかに明るい夢想の空間を 創りあげた。 この歌には、不思議な空問が描かれている。定家のそれまでの歌に 詠まれた空問とも少し趣きを異にしている。今までだれも踏みこんだ ことのない空問、見知らぬ世界が表現されている。﹁山なしの花﹂がこ んなふうに詠まれたことはかつてなかったし、ことばの一つ一つが、従 来のかたちや用法と変わっている。少しずつそれている。そしてその異 化の仕方は定家が説いてきた本歌取の方法とも違い、また、伝統的な 題詠の方法からも逸脱している。一体この歌の主題はなんであろうか。 かつてわたしはこル歌を﹁旅の歌﹂として捉えてみた一注2一。しかしこ ■ 41 ■こで描かれる旅人は、都を振り返りもしないし、行く先を急ごうとも しない。﹁旅の歌﹂の本意では把握しきれない何かが残るのである。そ れでは﹁眺望﹂であろうか。それもすこし違うようである。﹁眺望﹂な ら視線が外の世界に向かうのに対して、この歌の視界は、途中で﹁や へのしら雲﹂によって遮られ、深さの方向へ往還する。﹁内裏詩歌合﹂ としてあるので、詩歌合特有の題はあったに違いない。この時期に行 われた詩歌合の題を見ると、建仁三年八月一日に良経第で行われた詩 歌合は散逸しているが、﹃拾遺愚草下﹄に﹁轟中眺望﹂と題して、 秋の日のうすき衣に風たちて行く人またぬをちのしら雲 ︵摂政殿詩歌合・轟中眺望・二六八四︶ という歌がみられ、同じ時の﹃拾遺愚草下﹄に収められた歌一二一五 三一の詞書に、﹁摂政殿にて歌を詩にあはせらるべしとて、同題を二首 よませられし詩歌合とかやの初也、此後連連有此事﹂とあることによ って、この頃から﹁詩歌合﹂は流行したらしい。元久二年六月の﹁元 久詩歌合﹂の題は、﹁水郷春望﹂と﹁山路秋行﹂の二題であり、散逸し ているが、承暦二年五月十一日の﹁内裏詩歌合﹂の題は、﹁山居春 曙﹂・﹁水郷秋夕﹂・﹁羅中眺望﹂の三題であり、建保元年二月の ﹁内裏詩歌合﹂の題は、﹁山中花夕﹂と﹁野外秋望﹂の二題である。と すると、この詩歌合の題もそれに類するものであったろう。 山中に踏み入るという主題と、﹁眺望﹂題は、新古今時代に特に好ま れたものであった。しかし、この﹁踏み迷ふ﹂という歌の世界はそう いう類いの題では処理しきれないものを内包している。これらの歌に はなぜ、どのようにして山に入るのか、どこから、なにを眺望するか という、動機や視座が提示されるが、この﹁踏み迷ふ﹂の歌には現実 とのつながりを示すものはなにもないのである。では、定家が若い頃 から求めてきた詩的空問への志向の延長として捉えてみたらどうであ ろうか。 五十になった定家の描く空問は、若い頃に創り出した空問とはその 構想力においてだいぶ隔たりが認められる。二十代前半の壽永期から 二十代後半の文治期にかけて見られたのは、次の歌のように、古里の 庭の片隅に取り残されたように咲いている童や花橘であり、閉ざされ た空問、過去の世界に置き去りにされた空問が描かれている。そこに は内密性への志向が顕著に見られた。 ふるさととあれゆく庭のっぽすみれただこれのみや春をしるらん ︵拾遺愚草員外・堀河題百首・春廿首・六八六、二十一歳︶一注3一 ふるさとは庭もまがきもこけむして花たちばなの花ぞちりける 一拾遺愚草上・閑居百首・夏十五首・三二六、二十六歳一一注4一 若い頃の一﹂のような空問への志向には、逆に作者の孤独や寂蓼が表明 されていた。しかしこの﹁踏み迷ふ﹂の歌にはもはやそのような退嬰 の緊りはない。 また、三十代後半に制作された有名な一首、 春の夜の夢のうきはしとだえして峯にわかるるよこ雲の空 一仁和寺宮五十首・春十二首・一七三八、三十七歳一 と、この﹁踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲﹂を ’ 42 −
比較してみると、第三句が﹁て止﹂で﹁よこ雲の空﹂・﹁やへのしら 雲﹂で終る表現のかたちはよく似ており、空問構成も似ているようで あるが、どこかが違うのである。﹁春の夜の﹂の歌において﹁とだえし て﹂は孤立した時間一注、一に迷い込むのであり、この﹁道たえて﹂は 隔絶した空問に踏み迷うのである。 ﹁踏み迷ふ﹂という冒頭から、一首の世界は日常の世界と距離をも つ場所で展開される。つづく﹁山なしの花﹂は山中に白く咲いている 花の風景なのだろうが、実際の風景というよりは、山なしの花だけが クローズアップされ、白いイメージとして抽象されている。つづく ﹁遺たえて﹂という表現は、ますますこの空間を隔絶したものにし、山 ○ なしの花を孤立させ、際立てる。末句﹁やへのしら雲﹂という表現は O ﹁やまなしの花﹂と音韻の上からも交響し呼応しながら、同時に山なし の白いイメージと八重の白雲を重層させることによって、この空問内 の密度を濃いものにしている。また﹁行さき﹂は﹁とほき﹂でなく、 ﹁ふかき﹂であるところにも、現実世界の方向に水平に向かうのではな ○ ○ く、深さの方向へと向かうのである。そして﹁ふかき﹂は初句の﹁ふ みまよふ﹂と音韻の上でも響き合って、現実との距離をますます隔て ている。読み終えてわれわれが感ずるのは、山なしの花とそれを幾重 にも包む白雲のイメージである。そして遥かな世界に心を解放しえた 自由な気分であり、さらにふかぶかとした安らかさである。そこには かつての定家が描いた空間の息苦しいような閉塞感は認められないの である。それはなぜであろうか。以下表現に即しながらその理由を解 明してみたい。 二 ﹁ふみまよふ﹂は、山中などに踏みこんで道に迷うことである。古 くは﹁ふみまどふ﹂として用いられており、﹁惑う﹂︵心が混乱する︶ という意味と、道に迷うという意味を両方かけて用いることが多かっ たが、道に迷うという意味だけをもたせるのは定家の頃からである。 ﹁ふみまどふ﹂の例をっぎにあげてみる。 ﹃後撰集﹄に、﹁大輔がざうしに、あっただの朝臣の物へっかはしけ るふみをもてたがへたりければ、っかはしける﹂として次のような贈 答が見られる。 道しらぬ物ならなくにあしひきの山ふみ迷ふ人もありけり ︵後撰・雑三・一二〇五・大輔︶ 返し しらがしの雪もきえにし葦引の山ぢを誰かふみ迷ふべき ︵同・一二〇六・敦忠朝臣︶ ﹃新編国歌大観﹄の索引では両首ともに﹁ふみまどふ﹂とよんでい る。﹁ふみ﹂︵文︶を届ける曹司を間違えたことを﹁山ふみ迷ふ﹂と比 瞼仕立てにした。この﹁迷ふ﹂の読みを﹃日本国語大辞典﹄では、﹁ま よふ﹂と﹁まどふ﹂と両様に読んでいる。すなわち敦忠の歌を﹁ふみ まよう︵踏迷︶﹂の用例の中に、大輔の歌を﹁ふみまどう︵踏惑一﹂の . 43 ’
用例の中に入れており、統一がとれていなくておかしいと思われる。 ちなみに手元にある﹃後撰集﹄を見ると、ノートルダム清心女子大学 蔵黒川文庫本一注6一にも、鳥取県立図書館蔵承安三年奥書本一注7一にも ﹁ふみまとふ﹂とある。﹃日本国語大辞典﹄は読みの誤りだけでなく、 語釈にっいても納得のいくものではない。﹁ふみまどう﹂の項には﹁ふ みまよう一踏迷︶に同じ﹂とあり、﹁ふみまよう﹂の項にはやや詳しい 語釈があって﹁踏みまどう﹂と結んでいる。﹁まどう﹂と﹁まよう﹂は 現在では混同して用いられているが、和歌においては元来別の語であ ったので、古歌の用例について﹁同じ﹂というのがそもそもおかしい のである。 ﹁まどふ﹂は、恋の山路に惑うというように、恋の歌に用例が多く みられ、また、﹁人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるか な﹂︵後撰・雑一・一一〇二・兼輔一のように、﹁心の闇﹂に惑うとい う用法もみられる。﹃千載集﹄の頃には﹁こひぢにまどふ﹂と﹁こひぢ にまよふ﹂は両方用いられるようになるが、﹁まとふ﹂と﹁まよふ﹂の 原義は別の意味を持っていたようである。 ﹃万葉﹄に﹁まとふ﹂の用例として、 現にか 妹が来ませる 夢にかも 我か惑へる 恋の繁きに ︵巻十二・二九一七︶ ﹁惑流﹂と記し、﹁恋の激しさのために夢を見て惑乱している﹂さまを 表している。一方﹁まよふ﹂の用例としては、 今年行く 新島守が 麻衣 肩のまよひは 誰か取り見む ︵巻七・二一六五︶ ﹁間乱﹂と記して、衣服の﹁ほつれ﹂を意味している。﹃和名類聚抄﹄ 一二一︶﹁給布類﹂には﹁枇 万与布、一云与流﹂とある。この﹁よる﹂ というのは織糸がゆるんで一方に寄るということなのであろうか。も う一首﹁まよふ﹂の例をあげてみよう。 風の音の 遠き我妹が 着せし衣 手本のくだり まよひ来に けり ︵巻十四・三四五三︶ 遥かに遠い妻が着せてくれた衣の手首のあたりがほつれはじめた、と いう意で、これも防人などの歌である。このように﹁まとふ﹂と﹁ま よふ﹂は語源が違うのである。 ﹁ふみまどふ﹂は定家以前の用例はほとんど﹁踏み﹂と﹁文﹂を掛 けて使われている。 いくたびかふみまどふらんみわの山すぎあるかどはみゆるもの から︵宇津保・二 藤はらの君、新千載・恋一・よみ人しらず一 ﹁文﹂と﹁踏み﹂を掛けて求婚者たちの懸想文に対して、あて宮の 返歌がない歎きの歌である。 妹背山ふかき道をばたづねずてをだえの橋にふみまどひける 一源氏・﹁藤袴﹂巻・柏木︶ 法の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな ︵同・﹁夢浮橋﹂巻・薫︶ ﹃源氏物語﹄の二例をあげてみたが、前の歌は、玉葛と姉弟である ことも突きとめないで、文をおくり、遂げられない恋の道に踏み惑っ ■ 44 ’
た柏木の述懐であり、後の歌は僧都を法の師として訪ねてきた山道で あったが、思わぬ恋の路に踏み惑ってしまった薫の述懐であろう。こ の﹁ふみまどふ﹂も比楡的表現である。 ﹁ふみまよふ﹂の用例が勅撰集に見えるのは、﹃新千載﹄と﹃新拾 遺﹄だけであり、この二例もっぎに見るように、和歌の道に迷うとい う比瞼である。 和歌の浦にかよふばかりの道はあれど昔の跡にふみまよふかな 一新千載・雑中・一九九三・藤原雅顕一 しき島の道はたたしき道にしも心づからやふみまよふらん ︵新拾遺・雑中・一七七六・院一 二首とも述懐の歌であり、前の歌の作者雅顕は、飛鳥井雅明の男で 一二七八年に没している。後の歌は弘長元年一一.二六一︶に為家と贈 答したものの返しであり、当時の院は後深草院である。ちなみに為家 の歌は、 伝へくる庭のをしへのかたばかり跡あるにだにまよひつつ である。ここであげた二首は定家の以後である。定家はまったく新し い詞を、新しい用法で使った、ということができる。 勅撰集以外の用例も次に挙げてみるが、定家以後のものである。 ふみまよひたつきもしらぬ山人の袖もしをりの雨のゆふ暮 ︵建保二年九月、月卿雲客妬歌合・廿一番右・深山雨・雅経朝臣︶ ふみまよふやまぢのこけの色ぞこきわがそでほさぬはるさめのころ 一光経集二一二一︶ ふみまよふたけのはやまのゆふまぐれいりてはしげきこひのみち かな ︵浄照房集・二一 ふみまよふすゑのの原は遠けれどっっみのこさぬ夕立の雲 一寂身集・二一二一一 ふみまよふ山もかぎりの有りければなれぬる雲に袖ぞわかるる ︵同・六〇〇︶ 定家の子の世代の歌人たちのこれらの歌において﹁ふみまよふ﹂のは 山や野であり、時刻は夕暮れである。仏道や恋の道に迷う意も掛けて あるが、それらは背後にかくれ、その風景の中をさまようことにむし ろ安んじているようなところがある。後二首は遠い雲が点景として描 かれており、はるかな別世界にまぎれこんだ感がある。定家のこの歌 の方法を受け継いだものと考えてよいのではなかろうか。 以上のように、平安朝の和歌においては﹁まよふ﹂と﹁まどふ﹂は 別のことばであった。さすがに﹃新編国歌大観﹄の索引は、﹃千載集﹄ 以前の和歌については、﹁まどふ﹂と読み、﹁まよひ﹂と区別している。 しかし﹁まよひ﹂の項には﹁まとひ﹂も見るようにと指示している。 ﹁まよふ﹂の勅撰集の初出は﹃千載集﹄である。闇に﹁まよふ﹂︵九九 八︶・︵一〇二一︶のように﹁まどふ﹂と同じようなものもあるが、 意味をはっきり区別して用いているものもみられるようになる。 雪つもるみねにふぶきやわたるらむこしのみそらにまよふしら雪 ︵千載・冬・四五五・二条院︶ あしたづの雲ぢまよひしとしくれて霞をさへやへだてはっべき . 45 ■
︵同・雑中・一一五八・俊成︶ あしたづはかすみをわけてかへるなりまよひし雲ぢけふやはるらん 一同・同・一一五九・定長一 なおテキストの文字を読み誤る例として、平安時代の和歌における ﹁まよふ﹂と﹁まどふ﹂を取り上げて論じた小松英雄氏の精細な考察が ある一注呈。 三 ﹁踏迷ふ山なしの花﹂という詞つづきは、﹁山﹂が掛詞になって、山 道に迷って山なしの花に出遭ったとも、山なしの落花のために道を踏 み迷ったともとれる。ここには視覚的なイメージと心理的なとまどい との交錯が見られる。 ﹁やまなしのはな﹂は、世問から遁れて身を隠そうとしても隠れる 所一山一がないという意味で詠まれることが多かった。﹁山なしの花﹂ の早い時期の用例として先にあげた、 よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花 という歌が見られるが、﹃古今和歌六帖﹄第六・木部において、﹁なし﹂ は三首、﹁山なし﹂題は一首だけである。ちなみに﹁さくら﹂は六十七 首、その中、﹁やまざくら﹂も十四首みられる。﹃枕草子﹄には﹁花の あふち 木ならぬは﹂︵三八段︶の中に、﹁棟の木。山橘。山梨の木。椎の木﹂ とあって、花が咲かない木、また花が咲いても目立たない木の中に名 前だけが並べられている。 ﹃源氏物語﹄﹁総角﹂巻に大君が部屋に忍び込んだ薫から身を隠す場 面に、 さは げに何の障りどころかはあらむ、ほどもなくて、かかる御住まひ のかひなき、山なしの花ぞのがれむ方なかりける。一注9一 とある。部屋も狭く、問仕切りも頼りなく、女房たちも薫の味方とい う状態では、大君の逃れるすべがないのである。ここでものがれる山 がない︵山なし一と掛詞的に用いられている。 次は平康頼の﹁後白河院法花堂にまかりて、なしのはなのちりける を見て﹂という題の歌である。 しばしだに身をかくすべきかたぞなきなどちりぬらむやまなしの はな ︵万代集・二八一四︶ この歌の発想も何処にも身を隠す場所がないという厭世的な観念がも とになっている。しかし、実際に花の散るのを見て、﹁などちりぬら ん﹂と詠んでいるので、咲いていれば身を隠すことも出来たのにとい うニュアンスがあって、わずかであるが花のイメージが喚起される。 定家も若い頃︵建久元年︶に、 あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる ︵拾遺愚草員外・一句百首・春三十首・一二七︶ と詠んでおり、山なしの花に﹁身をかくすべき﹂と、伝統的な意味を 付しているが、﹁ちりしきて﹂の表現には、康頼の歌よりももっと豊か に白い花のイメージがある。花が咲いている時には、その木の下にす − 46 一
っぽりと隠れることが出来たが、今は花が散ってしまって、木の本に、 落花が白い輪を描いている。﹁身をかくすべき道やたえぬる﹂には﹁踏 迷ふ山なしの花道たえて﹂の世界へ一歩を進めている。しかしこの ﹁道やたえぬる﹂には消極的な困惑の気持も感じられて、まだこの境地 に安らぎはない。 実際に山なしの花を詠んだものとして、能因の﹁かひにて山なしの はなをみて﹂と題する次の歌が見られる。 かひがねにさきにけらしな足曳のやまなしをかの山なしのはな 一能因集・四二︶ この歌は、甲斐国で山梨の花を見て詠んだものであるが、﹁櫻花咲き にけらしな足曳の山のかひより見ゆる白雲﹂︵古今・春上・五九・貫之︶ という歌と、花を遠望しての推定とい・︸一で同じパターンである。また、 ﹁山梨岡の山梨の花﹂という繰り返しの技巧も新しいものではない。 花そのものの美しさで山梨の花を詠んでいるものに俊頼の次のよう な歌がある。﹁なしのはなさかりなりけるを見てよめる﹂という詞書が あって、 桜あさのをふのうらなみ立ちかへりみれどもあかぬ山なしの花 ︵散木奇歌集・春部・一八三、新古今・雑上・一四七三、第四句 ﹁みれどもあかず﹂︶ 定家以後の歌に﹁山なしの花﹂が詠まれている例をあげておこう。 咲きぬともたれかはしらん春霞たなびくかたは山なしの花 一土御門院御集・木名十首・三二一一 山なしの花のしら雪ふるさとの庭こそさらに冬ごもりけれ 一夫木和歌抄・梨・弘長四年毎月一首中・二二九四四・為家︶ これらは人に知られずに咲いている花を詠んでいる。次にあげる ﹃古今和歌六帖﹄題による﹃新撰和歌六帖﹄の歌にも定家の影響が見ら れる。 足びきの山なしの花さきしよりたなびく雲のおもかげぞたっ ︵新撰和歌六帖・やまなし・二四〇六・家良︶ さきわたるおもかげ見えて春雨の枝にかかれるやまなしのはな ︵同・二四〇七・為家一 いとひてもいづくにしばしやどからんうき世のほかの山なしのはな ︵同・二四〇八・知家︶ しかすがに世をいとひえぬかくれがよなにぞはありてやまなしの はな ︵同・二四〇九・信実︶ これら定家の弟子たちの歌を並べてみると、定家の﹁踏み迷ふ﹂の 歌の﹁山なしの花﹂がどのように読まれ、解釈されていたかが窺われ る。これらの歌には、定家の歌にはなかった﹁おもかげぞたつ﹂﹁おも かげ見えて﹂などの表現がみられ、この﹁おもかげ﹂は定家の歌がも たらした幻想であり、それは﹁山なしの花﹂に新しいイメージを添え ている。と同時にかれらは、定家のこの歌に次にあげる俊成の歌に共 通するものを感じ取り、それを重ねて理解していたのではなかろうか。 おもかげに花のすがたをさきだてていくへこえきぬ峰の白雲 一新勅撰・春上・五七、崇徳院近衛殿にわたらせ給て、遠尋山花と ■ 47 ’
いふ題を講ぜられ侍りけるによみ侍りける・俊成︶ もしそうだとすると定家の﹁踏み迷ふ﹂の歌は、﹁遠尋山花﹂に近いイ メージの世界として受けとられていたのであろう。 山野に花を訪ねて道に迷うという発想は、﹃古今﹄以来伝統的なもの であった。次に貫之の歌三首をあげてみよう。 あづさゆみはるの山辺をこえくれば道もさりあへず花ぞちりける 一古今・春下・一一五・貫之︶ 春ののにわかなっまむとこしものをちりかふ花に道はまどひぬ ︵同・一一六・貫之︶ やどりして春の山辺にねたる夜は夢の内にも花ぞちりける ︵同・一一七・貫之︶ 二首目は、落花のために道がわからなくなったというのであるが、 落花の乱れ散るイメージが美しく、困惑よりもその世界の中に浸って いるようである。第三首目の春の山辺に寝た夜の、闇の中にも夢の中 にも花が散るというのも幻想的な風景の中に陶酔している様子が表現 されている。第一首目は志賀の山越をした時に遇った女性たちに贈っ た歌であり、第三首目も、山寺に詣でた時によんだものである。第二 首目には﹁寛平御時きさいの宮の歌合の歌﹂と詞書があり、これも現 実の花である。 これらの歌とさきにあげた俊成の歌﹁おもかげに花のすがたをさき だてていくへこえきぬ峰の白雲﹂を比較してみればおのずとその違い が浮き出てくるであろう。﹁おもかげの花﹂は現実の花ではない。花を 求める心にうかぶ心象の花である。末句﹁峰の白雲﹂は花のおもかげ と重なるが、同時に無限に憶れる心をも表している。 ﹁花のおもかげ﹂を詠んだ先雌として、経信の次の歌が挙げられる。 故郷の花のさかりはすぎぬれどおもかげさらぬ春の空かな 一新古今・春下・一四八・題しらず・経信︶ 経信の﹁花のおもかげ﹂と俊成の﹁おもかげの花﹂の系譜を受けなが ら定家の歌は漢詩のイメージも加わって更に新たな展開を見せている。 ﹁道たえて﹂も新古今時代以前はあまり用例を見ることが出来ない。 似た表現に﹁あとたえて﹂というのがあるが、﹁道たえて﹂と﹁あとた えて﹂はかなり意味が違う。﹁あとたえて﹂の﹁あと﹂は、﹁跡﹂であ って、人の訪れが絶えることを意味している。﹁あとたえて﹂は、雪が 降ったり、住人が不在になったりして訪れる人が絶えるのであって、 そこには時問的な経緯が含まれるのに対して、﹁道たえて﹂は空問的な 隔絶を意味する。とくに第三句にある場合にそれは強調される。先に 挙げた定家の歌に、 あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる の末句に﹁道やたえぬる﹂があるが、この場合と第三句に﹁道たえて﹂ がある場合を較べると、断絶感がまったく異なる。また﹁道たえて﹂ が初句にある場合も第三句ほどは強くない。 ■ 48 ’
﹁堀河百首﹂の、 道たえてひともたづねぬ松の戸に冬の夜すがら籔おとなふ ︵堀河百首・譲・九三二・師頼︶ という歌が初句に﹁道たえて﹂があるもっとも古い例としてみられる が、初句にあるので、第三句にあるほどは断絶感がない。新古今時代 に入って初句に﹁道たえて﹂がある例はわずかにみられるが、あと二 例示してみよう。 みちたえて野もせとあれし庭の面に秋のあはれは尋ねきにけり 一治承二年・廿二番歌合・閑庭秋来・一四・因幡︶ 道絶えてまだ雪きえぬ山ざとは花はさくやととふ人もなし ︵正治初度百首・春・一二一四・隆信︶ これらの例は﹁あとたえて﹂とあまり変わらない用法であり、第三 句の﹁道たえて﹂ほどの断絶は感じられない。第三句に﹁道たえて﹂ がある例が定家にもう一首みられる。 もろともにゐなのささ原道たえてただふく風の音にきけとや ︵拾遺愚草・初学百首・恋・七七︶ これは恋の通い路が途絶えたのである。定家より少し古いところでは、 重家の歌に、 冬をまつをののすみやきみちたえてかへりてゆきをいとふころかな ︵重家集・二二二一 とあり、雪のために道が不通になって、炭焼きにとって歓迎すべき冬 の雪が厭わしいものになったというのであり、﹁あとたえて﹂とあまり 変わらない用法である。 おもひいでしをのへのつかのみちたえてまつかぜかなしあきのゆ ふやみ ︵聞書集・一一〇・はかにまかりて一 秋の夕闇のなか、墓に詣でて詠んでいる。塚の道が絶え、死者との 通路も絶たれたのであろう。 さみだれのふりにしさとはみちたえてにはのさゆりもなみのした くさ ︵秋篠月清集・治承題百首・五月雨・四二一︶ 古里の庭の小百合は下草に覆われ、五月雨に降り込められて外界か ら孤立している。閉ざされた空間である。 うつのやまうつつかなしきみちたえてゆめにみやこの人はわすれず ︵同・一四四一、水無瀬殿恋十五首歌合・轟中恋・四八七一 思ひとくこころの末もみちたえて猶ゆめふかし雪のあけぼの ︵拾玉集・五四三五・左大将殿一 二首ともに良経の歌である。前の歌は、恋人との音信が絶えた旅中の 現実と、ギれ故に広がる夢の世界を表し、後の歌は、良経の乳母の尼 が亡くなった年の雪の朝、慈円と交わした哀傷である。東山の墓地が 雪に埋もれたために、かえって夢の世界が深いものになるというので あろう。現実の道が絶えたところから展開される別次元の世界である。 ふみ分くるをざさがすゑも道たえて庭も離も苔生ひにけり ︵壬二集・正治二年院百首・山家・四八七︶ 雪つもるみねの山寺みちたえて軒ばの樒もとつはもなし ︵同・前内大臣家・山寺雪・二六六四︶ . 49 −
この家隆の二首は、現世から隔てられた山家であり、さらに雪によ ってこの山寺はますます孤立したものになる。 夕暮は雲にしをりの道たえて名をだにしらぬ鳥の一こゑ 一寂蓮法師集・御室五十首・二五六、御室五十首・旅・八五三・初 句﹁行末は﹂一 いほりさすふもとは雲に道絶えてなほしもいかにみねの白雪 一建仁元年二月老若五十首歌合・冬∴二八九・寂蓮一 寂蓮の前の歌は見知らぬ世界に迷いこんだ旅の夕暮れの不安であり、 後の歌は麓の庵は雲に囲まれて道がたえ、峰には白雪が降りはじめて、 これからの冬の孤立が思いやられるというのである。次の歌も薄を植 えた人は故人となって、過去と現在の道が絶たれたのであろう。 たがうゑし一むらすすき道たえて虫の音しげきのべと成るらん 一建仁元年八月和歌所影供歌合・故郷虫・一八八・家長一 定家と同時代に第三句﹁みちたえて﹂の用例が急に多くなり、それ は中世を通じて見られる傾向である。旅の歌や、山家などの題の歌に 多く見られる。山家と里との道、都と旅先との交信が絶え、昔と今、 夢と現、心と心の通路などがとだえる。﹁みちたえて﹂の様相はさまざ まであり、それは、孤高や寂蓼を求める求道者や旅人の道なのである が、っきっめてゆけばそれはまちがいなく死に至る道なのでもある。 そしてそれは、中世が辿ることになる無常への道程でもあった。 このように﹁みちたえて﹂の考察をしたあとで、定家の﹁踏迷ふ山 なしの花道たえて﹂の歌にもう一度もどってみよう。この歌は﹁内裏 詩歌合﹂の一首として作られた。残存していないが、漢詩的な題があ り、左には漢詩が番えられているはずである。当然のことながら漢詩 文の世界と共通するなにかがあるであろう。たとえば﹃文選﹄上﹁遊 覧﹂にみられる沈休文の﹁遊沈道士館﹂﹂一注10一の末尾に 二 す じんけい た 都令人運絶﹂ 都べて人運をして絶えしめ、 二 たうんろ ?つ 唯使雲路通。 唯だ雲路をして通ぜしむ。 二 しは とある表現などを想起させる。この詩は、外物に累られることなく、 おもい 念を﹁玄空﹂に解放する仙境を求めたものである。定家はこのような 中国の詩文を愛読していたから、和歌の山路に花を訪ねるという伝統 的な美の境地を重ね合わせたのであろう。 ここでおなじような詩歌合で詠まれた歌、 秋の日のうすき衣に風たちて行く人またぬをちのしら雲 ︵摂政殿詩歌合・轟中眺望・二六八四一 を想起してみよう。わたしはかつてこの歌を取り上げて、素材となっ た歌語は、和歌的な叙景としてではなく、自然現象から抽出されて形 而上的な方向へ向かうものとして使用されていることを指摘したこと がある一注11一。光・風・雲などは極度に単純化され、エレメントのよう なことばになっている。それは漢詩の文脈に即した読み方をしたこと によるとして、漢詩文の典拠を指摘した。﹁踏み迷ふ﹂の歌には具体的 に対応する漢詩文はないが、伝統的な歌語の用法を少しずつ変容し、 異化して見知らぬ空間を創り出す構想力は、やはり漢詩から学んだも のであろう。また、第三句が﹁て止﹂であることも漢詩からのなんら − 50 ■
かの影響があるに違いない。見尾久美恵氏は筆二句が﹁て﹂の場合の 表現について、八代集の使用例の推移を調べ、﹃新古今﹄、とくに定家 に多くなることを指摘し、そこに漢詩の対句表現との関わりを論じて いる一硅一。 第三句が﹁て止﹂の場合、上句と下句が対句的になるという指摘は、 定家の表現の構造を考える上で、かなり有効である。定家の場合、上 句と下句が同時的な並列文であって、それをさらに統合する視点が構 えられるという内部構造をもつ歌がかなりあって、この歌もその例で ある。第三句末の﹁て﹂や﹁して﹂は従来、継起的な連続性において 解釈がなされてきたが、そのような時間構造では定家の歌は解明され ないであろう。 る。﹁ゆくさきとほき﹂という表現が為家の妻、阿佛尼の﹃十六夜日 記﹄に見られる。 うちしぐれふるさとおもふ袖ぬれて行くさきとほき野路のしの原 ︵十六夜日記・三︶ 旅の歌であれば当然水平の方向に視線は向かうであろう。﹁ふかし﹂ は垂直の方向を指すものである。山なしの花の咲いている山中のこの 空問は次につづく﹁やへのしら雲﹂によって幾重にも包み込まれてい るのであり、その方向感覚が深さを感じさせるのである。それはこの 空問の密度の濃さでもあろう。われわれは﹁霧が深い﹂生言い、﹁闇が 深い﹂ともいう。そういう感覚が﹁行さきふかきやへのしら雲﹂では なかろうか。別世界にまぎれこんだような不思議な感覚である。 ・ 51 ■ 六 ﹁行さきふかき﹂は定家のこの歌以外の用例を﹃新編国歌大観﹄か ら検索することはできない。為家の次の歌に﹁行さきふかし﹂の例が 見られるが、河の縁で言っているのであって、﹁やへの白雲﹂というつ づけ方には定家独自のものが認められる。 五月雨は行さきふかしいはた河わたる瀬ごとに水まさりつつ 一為家集上・夏・康元元年熊野山廿首・三七八︶ とあり、同じ歌が﹃歌枕名寄﹄第三十三に、﹁紀伊国﹂の部に入集して いる。旅の歌として詠まれ、そのように受け取られていたとおもわれ ﹁やへのしらくも﹂が勅撰集に初めてみえるのは﹃新勅撰﹄の和泉 式部の次の歌である。 こしかたをやへのしらくもへだてっっいとど山ぢのはるかなるかな ︵新勅撰・轟旅・題しらず・五〇六・和泉式部一 この歌は﹃和泉式部集﹄︵一九一︶に﹁遠き山を人こゆ﹂とあり、同 じ集の︵八四九一に﹁権中植言の屏風のうた﹂の八首目に﹁とほき山 を一人ゆく﹂と題してみえる。﹃新勅撰和歌集抄﹄は、 山遠雲埋行客跡 山遠うして雲行客の跡を埋む
︵和漢朗詠集・巻下・雲・作者未詳︶ と、韓愈の、 雲横秦嶺家何在 雲は秦嶺に横たわって家何くにか在る ︵左遷されて藍関に至り姪孫湘に示す︶ を挙げているので、漢詩的なイメージをもっことばであったのであろ う。ほかに、 みわたすにやへの白雲かかれるはみやこのかたの山にはあらずや ︵嘉言集・一〇二・ゐ中へまかるに、かはじりにて︶ さくらさくならのみやこを見わたせばいづくもおなじやへのしら くも 一江帥集∴二〇・ならの京の花一 みよしのの花咲きぬらしこぞもさぞ嶺にはかけし八重の白雲 ︵林葉集・一〇八︶ かへり見るやまははるかにかさなりてふもとのはなもやへのしら くも 一秋篠月清集・九六〇、院句題五十首・深山花・六二︶ あだならぬ花のよそめを人とはばたかまの山のやへの白雲 一拾玉集・三五八二一 これらの歌は桜の花が幾重にも咲いているさまであって、天象とし ての雲ではない。次の歌は詩歌合の歌であるので、やはり漢詩的なイ メージがある。 しるべせよ山とびこゆる秋の雁跡なき嶺のやへのしら雲 一元久詩歌合・山路秋行・廿五番右・家長、左﹁峡猿一叫旅人思雁 幾行遊子心﹂・在高一 このように﹁やへのしらくも﹂も歌語としてはめずらしく、あきら かに漢詩の影響をうけた表現である。 定家はこのことばを好んで用いている。次に用例を示しておこう。 かずかずにさきそふ花の色なれや嶺のあさけのやへの白雲 ︵拾遺愚草・中・院句題五十首・朝見花・一八三二一 ︵長歌上略︶いくとしどしを へだっとも やへのしら雲 ながめ やる 都の春を となりにて一下略︶ ︵同・下・雑・二七四〇・大僧上慈円の歌への返し一 おのづからあはれとかけんひとこともたれかはつてんやへの白雲 ︵同・下・恋・二六四九・﹁とほき所に行きわかれにし人に﹂の七 首目、玉葉・恋三・一五七六・第三句﹁二言に﹂一 前二首は、花の雲であるが、三首目は、遠く行き別れた恋人を想い やった歌である。
七
﹁踏迷ふ﹂から﹁やへのしら雲﹂まで読みを進めてきて、最後にわ れわれはふかぶかとした安らぎと、はてしない解放感を覚えるであろ う。定家が早くから求めてきた空間の詩学がここまで到達したのであ る。それは伝統的な美意識と漢詩文のもつ思想性や構想力との結合に ほかならなかった。﹃万葉﹄の昔、赤人の、 春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける . 52 ■︵巻八・一四二四︶ を挙げるまでもなく、自然のなかに風雅を求めるのは、わが国古来の 習わしであった。﹃古今﹄の貫之が山野に花を尋ねて詠んだ歌は既に指 摘した。定家のこの歌の花は、桜ではなく、歌に詠まれることの少な い﹁山なしの花﹂であるところから、伝統を承けながら、すこし逸れ てめずらしさを加えた。それは、中国の桃源郷や仙境ほどの超絶的な 別世界ではない。どこかにありそうな場所である。定家は、われわれ の夢想を満たしてくれる詩的空問を乱世の代に作りあげた。世の中が こぞって無常を云々している時に、定家は一首の中に独自の世界を構 築したのである。 注1