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科第趙家と官僚貴族の成立

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科第趙家と官僚貴族の成立

福 島 繁 次 郎

..国出島藍島。騨”..︵甘言重星︶”昌ユ葺㊦国⑳富ず剛一昏冨㊦曇。跡目霞$琴冨諭obユ90嘉酒駐 ω試Φq&貯。司自画二藍目牌 1 闘、 O西天水西県と断言  唐書、巻七三下、宰相世系表には、趙氏の起源を次の如く伝えている。   趙詳知肖感量。焼岳畜孫伯益、帝舜賜以臨姓。十三世偽造父、周魔王噛癖趙   城、 因以為氏Q茸田地河東・永安県、 是也0山ハ冊一意奄一父、具7造意、 生協帯、 去皇軍   空文侯。五二孫夙、晋献公賜采邑於歌。河東皮氏県有取郷、是也。叢生共孟、   共器量衰、字子余、夏日成鳥。成季十八世孫遷、為至仁滅。趙人立無風嘉為代   王、後端於秦。秦使嘉子公輔主西戎Q西戎懐之、号日趙王。戴立二戸天水西   県。公民十二世孫融、面長、後漢右扶風聞二重。融七世遜埆。 世系表の記事は、元和魚雷、巻七に基き、更に史記、巻五、秦本紀と、同、巻四 三、趙世家とに関連していて、秦と趙との関係は、趙世家の巻頭に﹁趙氏先藁薦共 祖﹂とあり、其の秦本紀には﹁右心先、帝必須之苗畜﹂とあるし、﹁舜賜姓臨氏﹂ ともある。伝説的部分を含めた系譜が何時頃創作されたものか、叢書の宰相世系表 の諸姓には此の種の神話的系譜に起源するものが多い。各地の重氏が同祀であると し、又他の醤族諸姓にもかかる記録をする元和姓纂や世系表は、同姓同族との結合 意識の強い社會の一の琵物である。ここに趙族の起源と関連した地として、盛代の 河東永安県、河東皮氏県があり、更に語意天水山県を挙げている。河東と朧西の地 は古くから有力な趙族の分散居住する本拠であった。  世系表に、趙族は﹁世居朧西天水西県﹂とあって、豊代の著姓である趙族の本居 の地としている。辞源に、漢代の西土は今の甘粛白天水県が其の故城に当ると解釈 している。大よその現在の位躍を知る事が出来る。此の地と趙氏との関係は、史書 にも多く散見していて、例えば北史の列伝に、趙交表︵巻六九︶・趙腹︵巻七五︶・趙 券︵巻七五︶などは天水でも、﹁天水西人也﹂として西県に⋮出自する家系である事を 示している。重代以来の天水に於ける趙氏の勢力構成と、其の地から三族が分離移 住したとする記録を信じると、確しかに天水の地は趙族の本居で、大族であり、豪 族と言える。以下此の点を概説するとして、世系表に見る﹁朧西天水西県﹂の呼称 は、階⋮書、巻二九、地理志にも、零露書、巻四〇、地理志にも無い。元和姓纂、巻 七には、﹁朧西郡天水西県﹂とあるが、此れも不都合な書き方である。薄書の地理 志に見ても、天水郡と朧西郡とは本来異った二郡の名である。唐では天水郡を秦州 と言い、朧西郡を信州と称している。時に名称の改廃はあっても、地域を異にした 地名であるにはかわる事が無い。且つ階唐の二郡の地に州県なる県名の存在しない 事も確実である。してみると﹁朧西天水霜県﹂とは亀甲には行れていない呼称であ るが、如何にしてかく使用されるに至ったのであろうか。蓋し、西哲の呼称は秦漢 に遡って、暴言の起源と関係し、趙族の出自を示すには、西浜の改廃にかかわらず 世間に通じて呼称されていたものの様であるQ  史記、巻五七、周勃伝に、﹁破聖誕﹂とあって、此の本文の注に、   集解。徐広日、天水有爵県。         .   正義。括地志云、西県故城在奏州上都県西南九十里。本態西遠地。破感量丞。 とあって、天水右西県とし、叉、諸県の位置を述べている。史記、巻九五、,焚檜伝 に、﹁別撃西丞白水北﹂の注文にも、   集解。当絵日、朧西有態県。白水青苔都。︵下略︶ としている。徐広の注釈では、﹁天水有西田﹂とし、叉、﹁朧西有西県﹂、 とあって

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科第趙家と官僚貴族の成立 (福島)          し 二様であるが、西県そのものに二地あるわけでは無い。  朧西も天水も郡名である。秦代以来朧西と称して漢も同様であるが、前漢武帝の 元鼎三年に天水郡を銀幕した。王葬は墳戎と言ったと言う翫べき名を伝えるが、後       ︵1︶ 漢では更に天水郡に属する鯨道県を分って南安郡を立てている。朧西とは、漢書、 巻二八、地理志下に此の語の起源を次の如くに注釈する。        む  む   秦置。葬日済戎。応召日、有単層在園西也。師忌日、朧埆謂朧阪、即今之空山   也。既郡在朧鯛麺、故日工西。抵音底。 とある。顔師古によると、唐初の頃、朧山の西に在る郡として朧西郡と称すとの解 釈が一般的に行れていたのである。西県はこの朧西郡に所属している。前漢上帝が 天水郡を分置して以後も、朧西郡に所属していた事は、前漢書、巻二八、地理志下の 朧西郡の所属県十一の申に西県は属している。従って㎜,朧西有西県﹂とあるのは、 前漢に於ては不都合は無いことである。とすると徐広の﹁天水有西県﹂とあるは、 前漢の地理名を以て注釈したもので無いこととなる。とすれば注文の性質上徐広の 時に行れた呼称を述べたもので、天水郡に西県が所属した事のあるを証明する。徐 広の解⋮釈を引用した史記集解、即ち其の注釈者である宋の藩論も之れを認めてい る。これは西県が天水郡に属していた以上不都合の無い注文である。然るに斐騒の 時も徐広に観ても、﹁朧西右本県﹂との郡県の関係は存在しない、前者が事実であ り、、愚禿なる県名は一瓢である限り存在しない、此の様な不合理な注文を両者共に 承認しているのである。漢代の郡県関係に基く注文と言うよりも、現実に朧西に西 県ありとか、 天水に西南ありとの呼称用語が行れていたと考えねばならぬ。 この 際、巽西の意は、厳密に秦漢2朧西郡を指した意思ではなくして、黒山以西の地を 称したものと解すべきでは無いか。かかる解釈は後漢の応召以来、唐代にも行れた のである。既に顔師古は朧西を前掲の如くに解釈しているが、史記、巻九五、奨噛 伝の﹁撃西丞﹂の注文に、   索隠、案、二二朧西之西県。白水水芸、出丸都経西県東南流。︵下略︶ とある。索隠は唐の司馬貞の史記の注釈書であるが、﹁朧西之西県﹂と言っている。 朧西は秦漢の郡名であるが、朧山以西の地を指す名詞でもあり、厳密な行政上の呼 称では無い。辞源に、今、甘粛省を称して朧西と言うとあるがそれは鯉山の西に在 るの故からだ、と述べている。かかる用語は、其の由来は遠いと言わねばならぬ。  かく解釈することによって、朧西天水西県の朧雲の意昧を明かにしたつもりであ る。    註① 旧唐書、谷四〇、地理志。大清一統志、巻二百に、後漢中平五年分罎       南安郡。又、南安治獺道、睡西治裏武Qとある。  次に唐には西県は無い。西県の位置は、唐の張守節の正義では、﹁西県故城在秦 州上郵県西南九十里﹂とし、司馬貞は、白水が武都を禺て西県を経て東南流すると して、西県は白水に臨むことを述べている。武都は蜀から天水に出る要道に位置し ている。天水郡難局と言われるに至ったのは何時からであろうか2  先に前漢武帝の時に、朧西郡の地に天水郡を分遣したQ後漢の唖聾永平十七年に 漢陽郡と改めた。此の時朧西郡に所属した県が漢陽樹に所属している。   上邦、故属薩西。   四、故霊芝西。有態家山、西崎水。         とある。此れが徐広の注交の西県と同じであるは、︽徐広日岡之土質︾と、後漢書 の注文に見えている。︵後漢朝、巻三三、郡国志︶。五官伝︵澱韻糖ド︶には、﹁漢戴立県入也﹂とあ って、士族本拠の西県であるを証している。  三国志︵蜀志、巻五、巻一四︶に、   ︵諸葛︶ 亮抜西無畜余家、町営訪中。 との語がある。之れと関連して、時に南安・天水・安定の三郡は魏に叛いて亮に応 じ関中響応する、とある。南安郡は、後漢の霊帝中平五年鵬に天水郡頚道県を分っ て立てた郡である。蜀漢では漢陽郡と︼言わず天水郡と旧名に復し、西県は天水郡に 所属したのである。  下書、巻一四、地理志では、漢武の天水、後漢の漢陽の品名を改めて再び天水郡 と称したとある。此の島上都県の外に指事県がある。大清一統志、巻百出の西県故 城の条に、始昌県を立てて、西県を廃止した事を述べている。旨意の条に、       む む む む     孝武時、域諾唯購求制天水之西県、属墨池郡。蓋故県営。 とある。晋代、西県の県名は廃止しても、天水西県の用語は存在していたのであ る。南朝宋の斐騒も、徐広も、以上にもとづいて注釈していたこととなる。大清一 書志、巻百十、秦黒表に見ても、西町の県名は、行政的には三国時代までで、晋代 には廃止されたこととなっている。然し天水西人は、天水郡西縣の人の意である が、南朝に用いられ、北史にも散見すること上述の如くであり、晴唐に至っても使 用されている。史書に、朧西西県と言わず天水西県と称し、朧多野氏と言わず天水 趙氏と称する。蓋し天水西県の著姓である趙族は、秦漢には既に此の地に定著して 良家の名が高いが︵漢書、巻六九、趙充国伝︶、後漢に至って大姓豪族として発展し

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5 5 9 1 号 4 第﹂ 要 紀 大 i敏 3 たのでは無いか。天水と言えば貴族趙氏を称し、趙族と言えば天水を思はしめるに 至ったQこの豪族構成は後漢の風潮であり、長く六朝につづく。かくて前漢の呼称 も、雪下代に改称した隆昌県との県名も用いずして、後漢以来の用語を其のままに 使用することとなったのである。天水の大族は生末に至るも政治的祉会的勢力を存 続し、趙族の麦族は各地に移住発展して、其の出自を天水西県と称している。時代 を異にして、天水西県から分離移住した各氏族は、一の天水西県を称することによ って、時代を絶して宗支の関係を貫き得たのである。趙族に関係する記録に、天水 西人の名があるのは、この豪族構成に関係したものと言える。  巽西天水西面とは、大姓暮露の定著、発展と関連し、其の同族構成の本貫を示す にふさわしい歴史的な用語として使用されて、唐末に至ったものと言えよう。  趙氏の住地は、西県に限っていたわけでは無い。旧親書、巻二二八、趙憬伝に、   天水醗西人也 とある。選書、巻七四、趙仲卿伝にも天水朧西入也とある。天水郡醗西県の人の意 に解釈すると、清書、巻二九、地理志にも、旧唐書、軽四〇、地理志でも、随西砂 は朧西郡に所属して天水郡に属する事は無い。譜面時代に天水郡朧西県の呼称は不 適当な用語と言う外は無い。旧唐車、巻足〇、地理志の滑州朧西県の項に、   朧西。漢独暗道地、属天水郡。       ず とあって、漢代の天水郡に属した獺道県の地を後に隠避県と改称したと言うのであ        ︵2︶ る。此の事は括地塊や元和志の如き唐綿の地理書にも出ている事実である。晴代に は天水郡の独道県を指すのみでなく、三代天水郡に属していた平鞘県の地︵清の通 溜県︶をも薩西県に入れている。現在の朧西県の西南に当る地であると。晴唐の朧 西県の地は、漢代の天水郡の地であること明かであるが、其の後本名には改変があ った。大功一統志、巻二百、の輩下府表に、漢の天水郡、後漢で漢陽郡、魏晋後魏 北周では南安郡と夫々称し、晴唐では朧西郡と称しているQかうした行政的な郡県 名とは別に天水勤皇の用語が各時代に在った様である。史記、倉庫、秦本紀の﹁為 附庸邑之秦﹂の注文に、          む   集解。徐広日、今天水朧西県秦亭也。 とある。今とは徐広の宋代であるが、天水飾編の呼称があり、晴代の趙仲謬伝、唐 の趙憬伝に見る如くに玉代の呼称に因んで呼ばれていたのである。    註② 大清一統志、巻二百、獺道故城の条       ︵3︶  北周の頃、趙貴と趙拠なる官僚がある。共に天水南安入と伝えている。趙腿の家 系は北魏の頃に曽平筆が中山郡守となって代郡に転居し、趙貴は祖仁が武川に転居        む む む している。 官職の地に定住したのであって、趙貴伝には仁に就て一,以良家子鎮武  川、因家焉﹂と伝えている。良家の子とあって、庶族ではなく名族の出たると示し ているが天水の趙族と同祖であるとする明証は無い。南安とは漢の天水郡の地に、 後漢霊帝の時に分置した南安郡の地である。  天水下県と言い、天水聖主と言い、天水南安と称する名称は常代に因くのである が、この弧燈には後世活躍する有力な趙姓の者が定著していた。総じて天水郡は趙 族の本拠で、﹁天水趙氏﹂との用語は、唐代多く散見する。天水の語は、天下各地. に分布した趙族の、同族構成の中核的地域として、趙氏に冠して呼称したのであ るQ  元和姓纂、巻七には、天水華族が、内地に分散離住した幾多の地名を挙げて、拭ハ        ︵4︶ の地の趙族の系譜を伝えている。憲宗元和の頃には、門閥の本源から各地に分散し たかの如き門閥擬制の意識が強く働いていた時代である。かかる意識は、憲宗に始, るのでなく唐代に限るのでも無いが、安史乱後の混乱は特に氏族の混溝を来して、 門閥擬制が流行したのである。此の論文は、支族の分離を究めるのが目的では無 い。然し天水の趙族は、朝焼や酒泉、張披などの東西交通路の要地にも定著してい る。広く朧西の要地に居住して豪族的勢力を形成している。二胡との接触と言う点 からも注意すべき姓族であった。    註③ 翌々、軍票六九、北周書三三。趙貴、北史五九、北周書⋮六。    註④ 元和姓本巻七、①下邨 ②金城 ③扶風 ④平原 ⑤河閥姦吾県 ⑥       申山 ⑦新安 ⑧南陽穣県 ⑨酒泉 ⑩陳郡河北 ⑪汲郡 ⑫河東       ⑱長平 ⑭信都 ⑮諸郡逸出 に分類している。  世系表に、趙融は後漢の右扶風大鴻櫨であったとある。皇帝の時、曹操が典軍校 尉であった際、趙融と凋芳は助軍校尉となった、と三国徳、黒八、張揚伝の注文に 見える。落掌と関連して相当な人物であった事を推察するのであるが、叉同書、巻 六、震紹伝の注文に、嚢松之は九州春秋を引いて、趙融のなした葦葺の人物評を伝 えている。   紹︵震紹︶延徴北海郷玄、而不燃。趙融聞遅日、迎撃者君子之望也、不礼賢、是   失君子之望也。夫有為之君、不敢失万民之歓心、況於君子乎。失君子之望、難   乎以有爲突。 とあ・る。

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科第趙家と官僚貴族の成立 (福島)  蓑紹が大儒郷玄を徴召して礼を尽さない態度に対する批判である。後漢には儒教 的政治思想が徹底し、知識階級も、豪族階級も降れを支持している際に、震紹の反 礼教的態度は為す有る者の態度とは言い難い、と言うのである。兎も角、天水趙族 の祖とされる魚津は、後漢末に出た有力な人物であった事を知る。  三国志、巻=二、王粛伝の斐注によると、後単組魏にかけて﹁天水四姓﹂と言わ れる大族があり、趙族は其の大姓であった事を伝へている。一般に後漢に於ける豪 族の盤捺と、其の地方専断の傾向とに矛盾するものでなく、又その有力な一事実を 提供するものと言える。左に掲げると、   蘇夏、字去声、天水人也。博学有海、天水旧有姜閻任趙四姓、常推於親中、而   夏為単家、不為降屈。四姓欲共治之。夏乃游逸、東詣京師。太祖宿聞其名、甚   礼遇之。後四姓又使囚遙引夏關、移頴川、収捕観音、時太祖已在造影、聞夏為   本部所質、撫聖日、夏無罪也、漢陽児輩直欲殺之耳。︵下略︶ 四姓の語が出ているが、北越の頃の用語は崔、盧、鄭、王の如き天下に冠たる望族 を称するのが普通である。天水郡の四姓に姜、閻、任、趙の四姓があって、﹁常三 宝郡中﹂とある様に、郡中最高の望族で、笑力ある大族であったO此の四姓の勢力 者が単家たる蘇夏を圧迫したのであり、別に大した理由のあったのではなく、単家 でありながら四姓に降屈しないと言う程度の理由であるらしいQ天水郡に寝て、四 姓の麦配する秩序に服従しない無礼者たるの理由であって、四姓は遡れを治するこ とも、収捕繋偏することも出来たのである。逮捕裁判する権利を持っていたのであ る。四姓の如き大族が、地方の秩序を維持する具体的な例である。ここに単家とあ るが、斐注の同所に、つづけて院号の家を、﹁世尊家﹂としている。幾代も宗族の 発展のなかった姓族たるを意匠している。聚落構成の上からは、同族の無い単家で あるから、勢力などある筈は無い、三国の頃、趙族はかかる単磁では無く、単葉を 麦配する天水郡四姓の大族として既に成立していたのである。 二、風薬と同族三眠官僚  ︵こ 罫書、巻七三下、宰相世系表では、趙融七世孫の趙職の本貫を朧西天水干 県にあてているが、元和姓纂、巻七は﹁隣郡河北県﹂とする。この族系の置引本伝 (畑 b童。︶には、﹁隣州河北青鷺﹂とあって、河北の趙族とも言うべき支族である。定 著の何時かは明かで無いが、讐敵は後半の河北太守であるからこの頃既に此の地の 支配者的氏族であった。晴代の河北県は唐の平陸県であって、唐の河北県は茜州に 属していたが貞観元年陳州に所属する。丙州は茜城と河北の二軍からなっている 胆、この河北県である。現在では平陸と茜州は山西省に属して黄河の北岸に在り、 朝州は河南省に在って河の南岸に在る。黄河北岸の地は所謂河東と言われる地であ る。河東は趙姓の起源説話と関連していて、趙姓の多い地域である。仁本が隣州河 北県の人であるとあるのは、河東に定住した諸藩の一系とも思わしめるが、仁本の 曽孫で、徳宗剃の宰相であった趙憬伝︵旧唐牌=二八︶には、﹁天水朧西人也﹂と明記してい る。趙瑞の系統を天水の趙族として、河北県の転居地を記録しないのは唐書世系表 も同様であるが、唐初はそうでは無く、徳宗朝のことである。屋宇は北魏の河北大 守であったが、曽孫の乾⋮實は階⋮の幽州刺史陽武公であった。其の子の一極は唐の揖 州刺史で、玄極の子が仁本で、高宗朝の宰相である。門閥官族として北魏以来固定 した家系であって、河北県を根拠地とした勢力が知られるのである。それが趙憬に 至って河北人たるを称せず、天水朧西入也と言う、其の理由は明かで無いが、徳宗 朝の人たる事から安史の乱による社会の混乱に基く転住とも考えられる。徳宗朝に 天水系の趙族が多数官僚となって、同族官僚群を形成するが、その棟領たる地位に 在る趙憬が天水の出自を明かにしているのは、門閥意識と同族意識による結果とも 解釈される。確しかに徳宗朝以後には、支族は分離した転住地を称せずに、天水三 二の著望に関係した呼称をする者が多い。これは後に論及するであろう。  仁本は夷雪中、殿中侍御史となり、車止乾封二年研同東西台三品となり、威亨元 年㈱に罷めている。父祖共に晴唐に亘って州刺史であり、仁本は旧門遡航に出て有 学の士であって、唐創業に際しては、義寧以来の詔勅は皆自ら纂録し、事に臨では 皆曇れを暗記していたとある。詔勅はその時々の政令である。唐画、巻五八、芸文        ︵5︶ 志に、﹁趙黒本法例二巻﹂とある。法令に通達した治入の士であった事を知る。徳. 宗の宰相趙憬も亦少くして好学の士で、志行修潔、聞達を求めずとある。︸,選賢能、 務節倹、薄賦緻、寛刑罰﹂とある政治の根本方針や、審官歴議の献策には儒教的弓. 養か知られる。家学とも称すべき旧族の家庭の学が伝えられ、官僚輩出の要件を継 承していたのである。貞元八年に同時に宰相となった陸贅は進士第であるし、費耽r と語論も当時知政事であったが両者共に明経科の出身である。然し書下に関して は、科第の有無は伝えられておらず、憬の初任当時を﹁後連予州従事、試江夏尉、 累遷監察御史﹂と伝えて、科第に及ばない。憬の父の道先も、又祖父の誼に点ても・ 同様である。趙憬には四子︵宣誓、全亮、元亮、承亮︶あるが、﹁皆以門綴錦官﹂と あって、憬の顕貴のため門蔭の制で授官されたのであり、科第の事を伝えていな

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5 5 9 1 月・ 4 第 要 紀 大 了敏 5 い。    詫⑤ 唐書散文志、趙粛等周律二十五巻Q趙粛︵北史七〇、周μH.一一︶は河       南洛陽人である○  河北趙氏は、高宗・徳宗の翌朝に仁本、憬と黒影の宰相を出し、又、北魏以来牧 守卿の顕官に至って有学の士を出し、諸趙の中でも著系であるが、科芸者を伝えて いない。北魏以来の閥族であって、唐代の高官として、門蔭の制で授官されてい た。門蔭は授与の制度の一であるが、門閥制の余習と言うか、著しく特権世襲の封 建的性絡を持つ制度である。これによって官途に就いたのであり、又これが認めら れる著系でもあった。  ︵二︶ 中宗から玄宗にかけて、科第に顕著に進出する趙族は、世系表に鰍煤趙氏 とあるものと、定州鼓城の趙氏とである。  幅朧西の地では、西県や朧西新、南安県には趙族が分散居住していて、望細心氏の 本地であるが、更に西方に進出して、骸燈、開披、酒泉の地にも同系の趙族が分散 居住していたのである。晴轡、巻六五、趙才伝に、﹁張披酒泉人﹂とあるが、趙才 の子の道興は唐初の人で、首州酒泉入と称している。才も道興も、そして道興の子 の咬も、皆武候大将軍となり、﹁凡三代執金吾、為町所称﹂と伝えている。晴から 唐初にかけての将軍の家で、酒泉が本貫であるQ世系表に、天水趙氏の同族として 骸娘⋮趙氏に、﹁子遷−武蓋一彦昭﹂、の三代を挙げる。旧唐書、巻九二、趙彦昭伝に は、言州張被人也とあって、骸燵から張披に転住したことを示している。此の地域 が漢人と西霞との接触地である関係上、西胡の勢力の消長に影響されて、漢族は転 住を余儀なくされる事はあり得るし、この地の部族に武入の呈出たる者が多くあっ て、櫓囲二本晴の鷹揚郎将であったが、この地の者として、自衛のため自然そうな ったのであろう。他面、重宝は徽煤、酒泉、張披の西域交通の要地に進出して、漢 人の著族として其の地位を推持し、更に内地の中央にも進出しているのには、其のす ぐれた経済的優越を認めねばならぬ。先に西之本は高専朝の知政事となり、威亨元 年㎝罷めた事を述べたが、此の時右相であった許敬愛と相容れなくてその甑構を受 けたのであった。当時、敬宗は又真下長講であって辺人の信望厚い趙持満︵細糖儲︶を 謳溝して陥している。趙持番は何れの系統か明かで無いが、太平広記、巻一〇二に は、蘭州長史ともあって河西の地に関係深く、辺人のよく心服していた所を見る        ︵一5U と、この力面の趙族とも思われ、旦つ趙持満は外戚の長孫々忌の姻籍でもあった。 著姓たる天水の趙族でも勢力ある系統の者であったらしい。涼州長史にして許敬宗 を恐れしめたものは、中央との連係もさる事ながら河西地方に形成した勢力を考・捲 ねばならぬ。西域交通線上に在って、政治的に、経済的に、実力を持つた趙族の一 例であるが、此の方面への発展は、古来理由ある事であるが、ただ西胡の勢力に左 右されながらも、此の交通線の要地を守って転住したのであって、それも遠隔の内 地に移住することは無かった。    註⑥ 太平広記、巻二三五、引新語  科第は世系表の上蓋に始まる。旧聖書、巻九二には逆上に作る。そして武孟に就 ては次の如く伝へている。   ︵趙彦昭︶父武孟、初以馳騨佃猟為事。嘗獲肥鮮以遺母。母泣H、汝不読書、而   佃猟如是、吾無望突。党不食其膳。武孟感激勤学、遂博通経史、挙進士。官至.・   右台侍御史。撰河西人物志十巻。 とある。粗野な環境に育つた者が慈母の垂訓で読書と科第に向つたのである。母の 熱願は、当時の門閥貴族一般の家庭の関心を伝えたものである。武孟に﹁河西人物 志十巻﹂の撰がある。唐書、巻五九、芸文志には、﹁名家類﹂の項に分類している。 河西の地に長く定著した者のよく撰し得るものであり、趙族自らが閥族名家の一た るを誇示する内容のものである。後に進士趙櫓が﹁郷籍一篇﹂を著して河東人物の 盛を誇示したのとよき対照をなすものと言える。強い族人意識と同郷意識に出たも・ のである。  武孟は挙進士であるが、子の彦昭も進士である。旧愚書、巻九二には記録はない が、唐様、巻一二三に、﹁及進士第、翼端南部尉﹂とある。細細昭は中幅の景龍三 年㎜に中書侍郎、同中書門下平面事となり、兼ねて修国史、修丈館学士であった。 容宗朝、出でて涼州都督、宋州刺史となり、入って吏部侍郎、又刑心慮書、関内道. 持節巡足使、検校左御史台太夫となる。郭書振、張説等と友善し、蒲至忠等の伏諌、 の功で、刑部農書、封歌国公、賜実封一百戸とある。挑崇が相に入ると、江州雲斎 に殿された。中幸容宗論に顕貴に達している。趙族の中で、面懸登第者で宰輔に至、 つた第一例であるが、かつて軍書昭が知貢挙の時に感心の者が登科し、又この頃に 至って趙族の科第の盛を伝えているQ元和姓纂、巻五七に、   後周信州長史曹達孫協生香盤。実前生不器。不器生夏日、和溶出、冬蟻、安貞、   古墨、彙貞、顕貞。兄弟七人挙進士。自傷符至冬蟻安貞孫鄭、又五代進士。 とある。同様な記事が唐代の登科記に見えて、これを広卓異記、巻十九、百選の条       ︵7︶ に引用している。

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科第趙家と官僚貴族の成立 (福島)   一家八人進士及第。趙不器。右按登科記、趙不器子夏日、冬蟻、和壁、安貞、   居貞、願望、藁貞、父子八人皆進士及第。春冬蟻、安貞、神龍二年考功崔︵一   本作趙︶彦昭下兄弟二人及第。時人謂墨型第骨身。 ︵前妻異記、巻十九。本文   に就ては註交参照のこと︶ とある。此の趙族の進出は時人を驚嘆せしめるものがあったと見えて、唐代の両文 献に見えているし、両々書にも採録し、旧唐書、巻一〇二、章岸伝には章氏と趙氏 を対比して記している。五代進士、父子八人挙進士と言う驚異的な記録を止めた趙 実符の家系、趙書起の下で兄弟二人も登科した此の家系は時代を騒がせた家系であ るが、世系表には其名を見ない。これは此の家系の分離が他の系統と関連が遠く疎 縁で、且つ、唐代に宰相を出さなかったのに理由があろう。    註⑦ 広卓異記、二十巻、遜敏堂叢書所収本。・この本に、﹁毛書二年考功崔       彦昭﹂とあるが徐松の引く広卓異記には趙彦昭とあり、唐糠、百、唐詩       記事にも、蘇令之は神竜二年趙彦昭下及第とある。又崔彦昭は、宣宗       大中三年の進士及第で、時代を異にする。  此の家系を唐書に求めると、唐書、巻二百、趙冬蟻伝に、﹁定州戴立人﹂とあり、 唐書、巻一七〇、趙昌伝には﹁天水人﹂とあるQ趙昌は冬蟻の弟の居貞の子であ る。矢張り天水の趙族で、定州鼓城県に居住した麦畠と考えられるのであるが、元 和姓纂、巻七、申山の趙族に、   称本自天水徒中山曲陽。今定州鼓城県。       ︵$︶ とある。辱仲勉氏は、千唐趙夏日誌を引用して、   其先天水人。七世祖崇、東魏問︵開︶府儀同三司、封下曲陽公。因家之。至父不   器為監察御史、徒居河南。故今為河南県人也。 とある。両記録は共に唐後期のもので、天水趙族との関連を強調しているし、回書 の趙昌伝にも天水人と述べている。漢代は下曲陽県と称して鉋鹿郡に属した、同郡       ︵9︶ 内の常山に上曲陽県があってこの県と区別すると、唐の顔師古は注釈している。晴 唐では野壷県と言い、現在の河北省晋県に故城があると言われる。東魏の頃に此の 地に土著したとあるが、封地に定著する事は例の多いことであり、封戸を得ていた 点からしても曲陽に於ける封建的土著勢力は強大なものがあったと考へ得る。晴唐 の政治的変革があるが、唐初、趙不器が監察御史となって河南県に転居した。不器 の子の野崎は、玄宗朝の国子祭酒に至っている、尚﹁当世新城人﹂と称して、河南        ︵−o︶ 見入を称することなく、又天水の趙族とも言わない。鼓城は父祖以来の墳墓の地で あると共に、社会的経済的な関係が考えられ、半漁に至って天水入たるを呼称する、  一 理由には、鼓城とも河南とも別して、著塁上氏の本源に関連させたものであって、 前掲の両文献の撰されたのと、杖会的背景を一にするものがある。 一註⑧零氏、元和姓纂四校記、二、六五七頁。  … @⑨漠書、巻二八、地理志注文。     ⑩ 太平広記、三九〇、趙冬職の頃に、築城について、﹁先人瀧夜鼓城県ト       として合祀の事を伝へている。鼓城を墳墓の地としていたのてあるQ        ︵11︶  今、鼓城の趙族の系譜と科挙、官職を表示すると次の如くなる。 趙達 後周信州長史 臼実符 ○ 協一 進士︵姓︶ 第)

疑危  LP (表 。不疑 不器 進士、監察 二更︵姓︶ 考功員外 良公  太子舎入 夏日進士、寧王丈学︵瓜記︶

1冬蟻1一湛

埋土一賢良方正 進士、屯田郎巾  科11左補闘︵旧・ 国子祭酒︵姓︶  九八︶、 国子  祭酒︵玄察︶ 1影壁進士 i安貞進土、給事史姓∀ 一三貞 進士、比部員外、呉郡太 守採訪使︵姓︶ 螂進士︵鮒︶  工部尚書、逢引刺史︵姓∀ 昌  憲二重楊州大都督 1願貞 進士、員外職方郎中、

i彙貞進士

三酉都護    註⑭ ︵姓︶元和姓纂、巻七 ︵広記︶太平広記、巻.二三二 ︵旧︶旧裏書    ■     ⑫元和姓纂、巻七には、﹁協孫大疑、不疑、考功員外。選良公、太子舎.      人﹂と見えている。  系譜で、不器の七子の順序には問題があろう。自分は広卓異記︵巻一九︶に引用し た登科記が、趙不器の子として次第したものを取ったが、唐書、巻二百、趙冬蟻伝 に見える順序とも同じである。元和姓纂、巻七や旧唐書、巻一〇二、堂述伝に見え る記録とは一致しない。        む  む  旧回書、巻一〇二、歯型伝では夏日の事を、﹁趙冬日兄冬日﹂に作るが何等かの 錯誤である。奇僻勉氏は趙夏日誌に、﹁万世以秀才進士見用﹂、とあるを引くが、夏

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5 5 9 1 号 4 第 要 紀 大 滋 7 日掛ら六代前から科第で官僚となったとすれば、元和姓纂、巻雲には、華実符から 郵に至る五代進士と称しているので、実符から更に三代を遡ることとなる。       ︵13︶  冬蟻の伝は唐書、巻二百に出で、其の他に散見する。進士科第の後に更に賢良力 正科に応じた、校書郎翌冬蟻は乙第となり左補閾に擢授されている。更に藻思清華 科に登第する。三度も登科したのであって、染入を驚かすに足るものがあった。兄 弟七入中に最も出色のある人物で、国子祭酒に終っている。趙親中で、甑爆の趙彦 昭に代るべき人物であった。集賢上上学士となって、中書下張説や章述、張九月、 孫子など当時の交学の士で政治家と深い交友のあった事を伝えている。    註⑬ 唐書、巻二百。旧唐書、巻一〇二、章二目、太平広記、巻三九〇、又       巻一四九。旧唐書、巻九八、韓休伝。  確しかに非才から出谷宗、玄宗にかけての寸寸の科第は驚くべきものがあって、時 人か科掛倒家と称したとあるは理由ある事である。旧唐書、巻一〇二、章述懐に   中書令下説専島島院事。引述為直学士、遷起居舎入、説電詞学之士、述薦張九   齢、許景先、震暉、趙冬蟻、孫遡、王幹常遊其門。趙久蟻兄冬日、弟知璽、居   貞、安貞、願貞等六人、述弟遽、逼、泡、迄、巡亦注入、並無学登科。説口、   五二昆季、今之杞梓也。 とある。中書令張説が集当院学土知塵事となったのは開元+三年である︵旧唐胴巻九七︶。当 時章述と趙冬蟻の兄弟の楽派が顕著で、﹁今之杞梓也﹂と学説をして嘆称せしめてい る。章族は著名な門閥であるが、当時の出早述一族の栄達を、   知者云、自門己来、氏族之盛、石馬於章氏。︵旧唐土、巻一〇二︶ として顕貴無比の苗族著姓であったことを論定している。この牽族と比較し並称さ れる趙族の盛なることも思い知るべき事で、太平広記︵巻三九〇︶に、紀聞を引き、   ︵華陰太守︶冬蟻兄弟七人、皆秀才、有名当世。四人至二千石 と伝えている。  以上論じた如く、廠燥趙氏と鼓慧智氏とは、時を同じくして一族科第に傾注し て、其の結果登科し官入となった。張説と趙彦昭、張説と趙冬蟻などの関連から両 者に同族的な親和な関連が無かったのでは無く、趙彦昭の知貢挙の下に、冬晦兄弟 は登第している。坐主、門生の関係にもある。宰相趙彦昭は、趙族最初の科第宰相で あり、その下に同族の科第官僚群を形成して、羽翼的な進出をしているわけで、巌 煙の趙族と中山の趙族とは、同時代に多くの科第者を醸して、従来の閥族的遺制か ら転換しているのであり、唐初の河北感量とは著しく異った傾向である。かかる傾 向は、趙や章に限らず、他の多くの閥族を例示し得る享である。嘱望門閥から多数 の科第者を輩出しているのは、三族が自家維持のために、それだけに全力を傾注し た事を示すものに外ならない。世襲特権的な門閥制の余習から、実力主義の科第官 僚貴族に転身した事を示したもので、麿朝政野上、貴族益会の推移を示すものであ る。後にも見る如く呈出の科盛者は、玄宗前よりも粛宗以後に多い。唐登科記総目 によって、全唐各期の進士科第者数を表示すると次の如くである。

A

B

各年間進 士登第数

高野中宗92軍配−玄宗好

一七〇〇

趙族[

崔  族 鄭  族 四 四

;二六

八 _.し・ ノ、 五 一

細註三+九年偏踪判螺

。 ノく 九 九 八

︵型

 二一二 ︵二四︶ (∼

m

豊津

一1一 一N

A

rl一 ノ、富., 一一.A )一  趙、⋮崔、鄭の各組は登第年次の明かなもののみを取ったもので単なる一部分で、       ︵14︶ もとより此の数に止まるものではない。然しA表は略々正確なものであって、B表− は大体これと並行しているのである。玄宗朝に漸増し、粛宗以後には登第数は一段, と増加している。然し、玄宗前と玄宗後の年数は殆ど相半する。かくて此の表に 推定し、後に論証する如く、玄宗朝は科第官僚貴族の形成期であって、やがて玄宗 朝の登第者の地位の固定する時期、玄宗後期から粛宗以後に於ては、門閥を含めた 唐朝貴族は、官僚貴族として固定する。同族官僚群を形威してその地位を安定する が、互角官僚は、官僚構成の中核的な地位を持つ事となる。  趙族の科第は、此の大勢と一致するのである。    註⑭ 東洋史学論集、第三輯、﹁唐登科記総目の諸科に就て﹂の拙稿を参照       のこと。表の︵︶数字は年次不明なるも、二期には分ち得るもの。  ︵三︶ 世系表に、   爾陽趙氏宿世居宛県。後徒平原. とあって、平原の趙族とも言うべき系統を立てて後魏の太常卿学監以来の系譜を伝 えている。北史、巻五五、雄飛山伝に、       む   趙畳韻薄歯、南陽宛人。漢墨壷烹︵姓纂重三︶之後。高祖父身為、播州清河太守、有   恵政、下家.焉Q清河後改為平原。故尊慮原人也Q

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科第趙家と官僚貴族の成立 (福島) とある。濃墨は北斎の曇空、司徒となって武平七年粥没している。この家系の者が 南陽から平原に転住したのであるが、難為も彦深も趙監の系譜には見えない。元和 姓纂︵巻七︶には、彦深︵作環︶の系統を平原の趙族とし、趙監を南陽穰県の趙族とす る。両者は族系を異にし、南陽の居住地も異るのである。監の系統の趙嘩伝︵湘品 玉七︶に、   郡州穣人、其先自天水徒焉、 とある。天水趙族の支族であって、﹁鄙州穰県﹂に移住したものと伝えている。南 陽宛県と郵州穰県とはどんな関係に在るのであろうか。回書、巻三〇、地理志中の 南陽郡の条に、          南陽郡、旧置三州、志州初台為勢州。 とあって、南陽郡を鄙州と言った事を記し、郡内には、穣県の外に南陽県があるが、       む む   南陽、旧日上阻、置南陽郡。後周併宛県入型名至嘱。開塁初郡廃、又改為南陽 とあって、宛県は南陽県に併入されて、其の一部の地名となっている。穰県と宛県 とは、本来別なのである。唐では開皇初年の如く二黒と称したのであり、趙族は宛 県と呼ばれた地や穰県の地に居住していたのであるが、両者は本来は糸譜を異にし ていたらしい。これ等の地の趙族が共に清河、後の平原の地に、移住したのであ る。同祖であっても、系統を異にした一一の支族であるが、両者は、同族的意識が強 くて、結合の強い条件を持っていたと解すべきである。  穣県の趙族は、後魏の太常卿趙監︵観懸作︶に出でて、階には庫部侍郎趙栄がある。 栄の子徳言は、唐太宗の主客員外郎となり、以後は代々唐の官僚として固定してい る、徳言の子に景と仁泰とがあって、二つの家系にわかれる。  ︵A︶は、﹁景一数先−騨−宗儒﹂、の系統である。景は好時令、激先は敬先ともあ り︵三二害谷一八七下︶、殿中侍御史である。騨は他本に嘩とも作る︵揃︶。開元中の挙進士で、 孫逐が考功の時に、天水趙市町第、と全唐文、巻三一五に見えている。襲爵は前掲の 寒冬蟻と交友のあった人で、科第迎車を広く解すると更にこの趙騨をも加へ得る時 代に在る。騒は、陳留探訪使郭納の採訪支使としてあり、安豫山が陳留を陥した時 に賊に没し、粛宗乾元初に晋江尉に疑された。此の大乱を経て徳宗朝秘書女監に終     ヨ っている78。旧唐書の同人伝には、﹁早掘高名﹂とあって、天空中に、﹁拝顔柳陸離 李郡趙﹂と呼ばれた交友を以て称された。殿寅、顔重ハ卿、柳芳、陸換⋮、講⋮頴士、李 下、郡珍の義である。忠義伝に列する如く、清倹寡慾の逸話を伝えている。この騨 の子が宗儒で、挙進士である。   宗儒挙進士。初石弘文館校書郎。満歳。又以書判入高等、補陸渾主簿。︵州婿翻俗∀ とある。宗儒は徳宗朝の宰相となった人物である。    書は、﹁仁泰i慎己.慎庶i甲渉.渾﹂、とつながる。仁泰は南和金慎己は 亀.還騒は親機毒参軍である。そして慎庶は撃侍御史であって、歴代官族と して地位を固めている。苓仲勉の考証に由ると、駅の子渉と渾以下の系譜は世系表幽 の奮・糞るものの如くで獄鋤.即ち次に示すと・    註⑮ 界仲勉撰。元和姓纂聞済記、二、六六〇頁 ○瓢 一表  ︵唐書七三F、世系表︶ (第二表) 京兆士 長室軍 渉 待御史 一落 爆 大理丞 欝イ1昭」【.  几 燐字沢章 1禅話幾頚 −墳字群牙

1偽

判名償字徳融

1信

兼監察御史 二表︵筆者訂正表︶    o 魏朝制騒 郡散策 司太登一 馬夫科  散士 御  太及_史  夫第 侍朝進渉

1渾⋮

 大理財 滲 進士、制科及第 監察御史

.仇一三

進士及第 進士、 監察御史  監察御央

1伸

 進士  償  科第

   −珪

−信   郷挙  進士、  度支郎中     1 鄭京進王苗 尉兆一hハ  府 一表と、二表の訂正表との顕著な相違は、渉と渾との系譜の誤りである。訂正表は 墨伸勉の考証に基いて筆者が表示したものである。訂正の典拠となるのは、趙珪誌 である。趙珪は仇の第三子であるが、宣宗大中元年躍四十二で没していて、没後次卜 兄の横が撰したものと言われる。さる上は典拠たるに値する根本的な史料であるの はゴ吾うまでも無い。世系表が、仇を渾の子とし、狂暴を誤脱している。仇の子に 燐、一墳、珪の三子であるが、世系表は燐、漣、墳とし、元和姓纂、巻七、に﹁主婦 項漣﹂とあって、燐を瞬に作るが、趙珪誌には世系表の如く燐に作る。次に世系表. では漣と墳の順序を異にする。寄仲勉は、趙珪誌を引いて漣と珪の同一人なるか∼        を推定している。然し漣の字は幾類であるし、珪の字は子達とある。殆ど同一人と

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.5 .5 9 i 号 4 第 、要 紀 大 滋. 9 はなし難い。仇に四子あったとの記録はなく、世系表も、元和姓纂、巻七、も、趙珪 誌も、三子であり、更に早耳勉の引く仇の野獣の柳尊師の碑文にも﹁有子男三人﹂ として、長を瑳、次を瑛、幼を珪として記している。漣字幾類の存否の問題は筒残 るが、二表の如く訂正すべきである。趙珪誌には、二表に見る如き科第の事実を次        ︵16︶ の如く伝へている。      む   ω 脊︵慎之古字︶己、生煮祖府君子蜘⋮、制策登科。先様大夫、魏郡司馬。   個 司馬生呈祖毒煙諜渉、進士及第。雪降大夫、侍御史。   圖 世以進士相貴重、自習皇祖、皇考、伯滲、叔伸、叔︵倍叔?・︶償及落昆仲、       サ    む  む  む     む  む     愛豊中外、威以十能光顕記冊。 とある。    註⑯ 零氏前掲書。       む り     む    玄宗以前に於ける定州鰐革の趙族に比類する科第の系譜である。﹁威以科名光顕 む  む 記冊﹂とある。導入が記冊に其の名を録して栄誉を伝えたのであるが、ここには此 れを引いて、其の栄誉を自負した趙族の意図をも示している。かくて此の系統の趙 滲が、⋮崔氏登科記に序交を撰し、趙滲登科記を撰した背景を考え得るのである。元 和姓纂、巻七の南陽穰県の趙族の科第は目覚しい者があるが、最も顕位に至って、 同族官僚の代表的な地位に在ったのが、A系即ち景の系統の宗儒である。趙監の直 系である。徳宗貞元十二年に同中書門下玉章事を拝している。始め極量が骨拾造、 翰林学士の時、父の購⋮は秘書少監で、父子命一日に出でて当時湿れを栄としたとあ る。趙族では父子共に高官に至ったのである。徳宗朝には、趙族の中央に於ける多 くの政治的活躍を伝えている。建旧年聞には趙聖なる者がある。徳宗華中三年中書 舎人で知貢挙となったが、後に、戸部侍郎−戸部侍郎志度支となって、財政の任に 当って、新政策を実施している。時に節度使の勢力が強大で、特に河北節度使は横 暴で王を称する者もあった時である。徳宗は強圧政策を立てたが、歳入が不足して 財敷が退れに伴わない。かくて趙⋮貿は除晒銭とか聞架税の新税法を案出している。 悪税としての世評の高いものであったが、宰相盧杞や白繭貞等と共に賊魁されて播 州司馬とされた。言はば、それだけに政治的な活動をする入物であった。軽質は河 東趙族であって、趙叡沖の従祖系統で兄の趙匡は洋州刺史で、族人趙良弼等は権力 ある官僚群をなしていた︵河東条参照︶。彼の失脚と共に河北系の趙憬が湖南観察使 となって擾賦している。翌旦の頃翼州の趙漏が尚書左丞としてあった。趙漏︵覗鮪嘱 糖暗︼︶は、天宝初、挙進士、螂城尉に補せられ、代宗朝監察雪辱、徳宗朝省書左 軸、親方前妻となり、興元元急卒して戸部璽・を贈られ、子博宜も亦進士登第者 である。趙憬は徳宗の門下侍郎平章事となり、貞元十二年八月に没している。趙悪 鳥は、趙憬の没後、名族の出たる国損と同日に同中書門下平理事を拝している。崔 損は開元十八年の進士第である。宗儒は典型的な科第官僚で、改宗の時、礼戸吏刑 兵の各都の爾書を歴任し、爾書右僕射に至る。又防禦、観察、節度等の外使に任じ た。穆陣雲には、特に検校右弁駁守太常客、太子少量を、敬宗朝には、司空太子太 保を、交宗朝に司空となり、太和六年掛八十七で卒し、司徒を贈られる。代宗から 徳宗、順宗、穆宗、敬宗、諸宗の各朝に歴任して内外の要職を占めている。  趙憬や趙宗儒等が台閣に列して顕要の地位を歴劃していた時に、他の諸趙は其の 科第が示す如くに、科第官僚として其の地位を占めていた事は表に見ても其の一班 を知るのである。徳宗本紀に、﹁諸蜜﹂の語がある。徳出不貞元八年、中書侍郎平章        む 事の賓辞が敗勢別駕に艇され、墨書は干飯司戸に疑された時に、これ等と共に﹁諸 む   む 賃皆既﹂の語が見えている。諸餐は、同族官僚群を意味し、その主たる賢参が失脚 すると、彼に附した同族構成の諸餐官僚が皆失脚左遷されたのである。之れに代っ て陸賢と趙憬が知政事となる。餐も陸も趙も共に唐朝の代表的な閥族で、下部に同       ︵17︶ 族官僚群がある。趙民の分散居住する各軽量は、徳宗頃になると、天水の趙氏を称 して、分離した支族の居住地を称していない。宗麦の関係を密にし、同族的意識を 強めて、同族官僚として進出したのである。諸思事り、博陵の士族量り、太原の王 族然りで、五族一般の傾向であったと︼言えよう○科第はかかる宮僚構成の基礎的要 件をなすものであった。官僚階級に有利な科第の関門を作り、此の登第者は難関突 破の輿論の承認の下に官僚たる者である。かくて明輝官僚階級は多.数の科国者を出 し、多数の同族官僚群を構成して、政治的にも経済的にも優越した地歩を確立して ゆき、旧来の如くその門望を誇示し得るに至ったのである。    註⑰ 墨書宰相世系表、巻七一、簑氏、巻し一.一下、華氏。  ︵四︶ 新安から京兆奉天に転住した五族がある。新安は河南府の一儲で、洛陽を 中に東に老師、西に薪安の関係に在る。旧唐書、巻一八八、の趙弘智伝に、洛⋮州新安人

・ある。弘智は蠣の署で︵隔霧徴這の粛は後魏の車騎編年父の玄軌鰭

の険州刺史である。新安に定住した官族であった。この地から京兆奉天、今の隣西 省道県に転住したのである。趙隠は此の系統の者であるか、旧唐書、巻’七八に、 「,梺尓天人﹂とある。彼は諮宗の時に、天水音盤、食邑七百戸に封ぜられている。 天水趙族との関係を示すものと見て良い。

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科第趙家と官僚貴族の成:立 (福島)    註⑱ 唐書芸交志によると、趙粛等周律二十五巻、趙弘智集二十巻、又、弘      智は、禽書正義、周易正義、傷心正義の撰に関係す。  ﹁徳冑︵回楽令︶一景旦︵普安A愚一語然︵城平令︶一壷︵嶺南節度使、検校工期尚書︶﹂ の問は、登科の記録が無い。植は徳宗朝の人であるが、存約は穆宗長銀元年鋤の進 士登第である。越畑の時に賊害に会ったの趙隠は父の死後、十余年杜門読書して、 宣宗太中三鎚進士に登第し福︶彼は・響・古書郎給事中、州刺史、河事、         戸兵二部侍郎、塩鉄転運等使を累遷し、灘隙孔通末に、同中書門下平些事、加中書 侍郎兼礼部爾書、持進天水伯、食邑智伯戸となり、僖宗の乾符中に、相を罷めて、 検校兵部慢心、潤州刺史、漸西観察等使となり、太常卿となり、脚部罫書に転じ、 尚書左僕射を加へ、僖宗広明中脚に卒している。科第の後、三十年聞多彩な官歴を 践むこと南陽趙族の趙唾壷と比肩し、宗儒の後に、諸趙の中心となった入物と言え る。此の系譜を表示すると次の如くである。 (表三笠) 植 公儀 ⋮遵約 ⋮仁約 −選書  進士  押元従事 一従一 一漢 隠i一光逢進士、後難宰相 離嫉鞠鵬!光畜逡士、知制諮 尚害左凶事i光胤︵旧丑代史作光差︶ 一階 光遠 進士、後唐宰相 進士、華州刺史   ○光庭 昭宗光啓三年進上 溝関防禦鎭国軍等史 ○趙昌翰、同右  隣も亦進士登第、準則大中末には、兄の隠と並んで省閣を践むとある。繋宗の 時、兵部員外郎で知遺勲となり、忌中、中書舎人、権知貢挙、礼部侍郎、御史中 丞、華州刺寅などを歴遷している。唐末の諸帝に仕へて政治に関係しているが、趙 隠の子の光逢は、僖宗無難五年登進士第、三尉の昭宗に仕へ、唐の亡びて後は後梁の 宰輔となり斉国公となっている。光窩は、光啓三年餅進士擢第、昭宗に仕へて知制        昭宗大順二野趣進士諮となる。﹁兄弟対掌内外制命、時人栄之﹂とある。光胤は、        ︵0“伽︶ 登第。唐の滅亡後は後梁に仕へ、後図に至って宰相となった。    註⑲ 草書、巻一八二、雲隠伝、離離会上中、擢進土第。とある。旧上書と       異る。    註⑳ 趙光逢、困民、光胤については旧五代史︵巻五八︶参照Q  唐末から五代にかけて、新安の趙族が政治的発展をし、趙隠は特進天水伯で、封 戸七百戸、諸趙の中心で、同族官僚の主領となっている。今まで見て来た如くに、 科第の人物を多数輩出していることも記録に明かである。楽史の広卓異記、巻十九 に、﹁趙氏科名録﹂なる書物を引用し、﹁三世十三膀十四人登科、趙存約﹂として、 趙存約の家系に就て次の如く伝えている..        む   右按華氏科名録、存約之子隠位相、乃撰此宮阜、三世十三榜十四人登科。銀光   啓三年放︵蘇諮契夫婦、再従夢人駿及第。即昌測光庭也。内三入知貢   挙。  光啓三年謝は僖宗末で、前表の趙光商が進士弁理した年である。右の記録でも明 かな如くに、趙隠の撰した趙氏科名録と言う書物があって、趙氏科第の盛なるをた たえた内容のものであった。南陽の趙族に﹁趙惨登科記﹂があったが、新安の趙族 では、宰相たる隠が﹁趙氏科名録﹂を薯したのである。滲も隠も共に科第者であ る。三世、十三榜十四人の登科が一々何人であるかは明かにし難い。十三樗は一年一 榜の放選で、光啓三年脚を前後する民族三代の年代である。新安趙族の科第の記録 に適合する年代である。趙植に副子あり、ここでは存約の系統をのみ明かにし、たま       む む   む たま光啓三年87に光衛の科第が明かなのみである。﹁再従弟両人同年及第﹂とある         のは、趙光庭と趙昌翰にあてているが、再従弟たる者の系譜は明かで無い。再従弟 とある弟は撰者たる隠を基準として言ったものであるし、叉、趙光畜の及第してい る事実と、其の年齢を考えると、再従弟の関係は矢張り趙植の六子の系統の者であ ろう。して見ると唐末の科第を誇る新安趙族の者であって、植・存約・隠の三世に 十三榜十四人の科第を出したのである。吾々は私家の科第録と言うものが、如何な る内容を持つものかを、趙隠撰の趙画質名録で知ることが出来る。趙隠は科第宰相 であるが、趙族科第の盛を誇示したもので、強い同族意識の現れである。この記録 が他の寒々の族人にまで及んだものか否かが問題であるが、十三榜十四人の一団は 再従兄弟を含む親族群を一団としたのである。趙植の子孫の同族官僚群が如何に多 数な構成となるものか、又繋れに白黒の姻族を加へる時、一層拡大された官瞭群と なるであろう。かくて膝隠の同族内での政治的地位も明かとなるが、それは広く天 水諸趙の同族と関係あるものであったであろう。其の著した趙巨鐘名録は、撰著の 背景となる同族官僚の構成と成立とを離れては考えられぬが、其の書名の如く、全族

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5 5 ◎V 1 4 第 要 紀 大 滋 11 人の科第者に及ぶものであった。此の事は耳翼儒の場合も全く同様であって、同代 の構成員である趙滲や趙燐が登科記を撰している。同族官僚は血族の親疎に限るの でなく、同じく南陽の趙族でも、宗儒と傍、鱗とは玉代乃至六代前の祖を同じくす る関係である。かくて登科記も亦撰著の訳無の族人はもとより、天水諸趙の同族科 第者に亘ったものと考える。それは天水趙族の強い同族意識の表れであり、又新な 同族結合の象徴となるものであった。諸姓の撰した私家の科目記は、既の点に特色 のあるものである。宣宗の時、趙瑳は諸家科名記十三巻を撰したが、これは諸姓の 科目記を統一して全氏族的なものに発展させたのであって、言わば私家科目記は、       ︵1の一︶ その発展への前段階的な関係に在るもので、同族全体にわたる登科の記録であった のであるQ    註⑳ 第三節、登科記の表、及其の説明の条参照。  ︵五︶ 河東は趙族の起源の地とされ、河東永安県、皮氏県歌郷は、その説話と関係 した土地である。元和姓纂、巻七に、唐監察御史趙君照の系統を載せ、天水から河 東に移住した事を載せている。虞郷倉が河東趙族の本拠であった。古筆は前掲書に

此の家委考証・てい・噸晴に始め・︵牌欝誕鵜照︶・

   謹⑳  爾今鱒仰勉、 前掲書、 hハ山ハ四H留貝O三門瓢四通士心、 巻九二、 晒聴骨州一刺史、 鳥餌一国       場之沖碑、贈太子少傅趙良器碑、贈揚州大都督趙良弼碑、叉太子重詰       子兼御史中丞趙復碑をのす。   趙顕聯︵階平束将軍潤源公。︶1起立︵脚牌騰瀾猫︶一罪煕一徴︵醗斑鞘法︶一毫沖︵規制鮒史︶。 とあって、叡沖は武后の時、寺詣大礼科に第し、隣県尉となった。階⋮唐に亘って顕 著な官族である。この叡沖の子に良器と良弼があり、良器は開元七年目文義脚麗科 に登科し、開元中に中書舎入で卒し、良弼は粛宗朝、隣心当摂州刺史、御史中藍、 節度使、太子賓客となり、良器に六子︵密謡言団扇嚢︶あって、﹁威摺才業、官成 三署とある︵平津読碑面、巻髪︶。郎官となった意で、顕著な同族官僚の例で、復の 子元陽は除州刺史、真長は監察御史であり、趙匡・趙賛も族人である。徳宗前後の ことであるが、一入として科第を伝えない。仕官の当初も明かでなく、徐松の登科 記考も伝えない。山導石刻叢編、巻七に、﹁累代華顕、門籍勲閥、為虞郷望族。﹂と のべている。然るに代謝の中書舎入趙復の孫、趙櫓の兄弟を次の如く伝える。唐語 林、巻四に、   進士趙櫓著郷籍一篇、誇河東人物合盛。皆採録也、同郷中、趙氏軒墨交塁審   著。題号、祖父世掌論諮。櫓昆弟五入進士及第。皆歴台省Q とある。中書舎人良器の六出は、﹁官成三署﹂とあり、櫓兄弟流人は、﹁皆露台省﹂ とある。夫々毘季の官僚群であるが、科第の有無に大きな差異がある。徳宗以後に 河東趙族も計器に熱中して、科第官僚として家門を固めたのである。  進士趙櫓は鍔際⋮一篇を著して河東人物の盛を誇ったとある、多数の高官を出[し、 今多数の科第者を出した。強い同族意識に基く撰著である。 三、科第官僚貴族の成立  諸節の科第官僚群の成立と構成を見て来たのである。此の官僚群の同族的結合の 有無が問題となる。官僚群の構成は科慌者に限らない。趙族は着初以来、内に高位 高官の者を含めた多数の同族分子で官僚群を構成している。宰相趙彦昭と関連した 鼓城の趙族、趙宗儒を含めた平原の趙族、或は趙隠を出した新安の趙族などは上来 見て来た如くである。此の同族官僚群の継続的存在が閥族趙氏の存続と発展を支へ たものである。この官僚構成が、六朝時代の特権的な門閥制度によるのでは無くし て、科第に特色のある唐朝の律令制の選挙に在る点に根本的な相違がある℃趙族は よく此の政治的推移に順応転身して総構としての地位を維持発展せしめたのであ る。天水趙氏の門望は同族の官僚貴族としての発展に維持されたのであるが、同房 内の官僚群の構成、その相互依存は史料に穿つまでもなく明白であるが、分家した 諸趙の宗族的な結合と相互扶助があったのであろうか。  張抜の趙彦昭は知貢挙となり、鼓城の管長の冬蟻と安貞が登第し、趙彦昭と趙冬 蟻には同族的な関連を思わしめる事実に就て既に述べた。又、彦昭が申宗の宰相と なり、吐蕃に使せんとするを止めた司前里趙履温は京兆万年の人であるが、同族の 助言と解される。南陽宛県の趙族と、穰県の趙族が共に平原に移住した如きは、分 家した諸趙の同族的な強い結合を示すものである。官僚となった諸趙の聞に同族的 な相互依存のあった事は推知されることである。唐の高宗の頃の李敬玄の伝には、 同族官僚群の形成を次の如く伝えている。   上元二年、拝吏都邑書。準依旧兼太子左庶子、監修国史、同中書門下三品.敬       む         む む   玄久居選部、人恩師之.、前後三嬰皆山東士族。叉與趙郡李氏合譜。故台臨要   職、麹奪郵駅嚢。高宗不悦。然猶不善過。︵旧唐書、巻八一、直書、巻一〇六︶  李敬玄を中心に、同族、婚購の家の官僚群が形成されていた。李敬玄の政治的な 権勢による構成であるから、世の批判を受けるは当然である。山東土族との婚嬰と 言い、趙郡李氏との同族を根拠づける合譜と言い、門閥制の余習が此の官僚群には

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科第趙家と官僚貴族の成立 (福島) 横浴しているが、趙族のそれは科第が条件となったもので、天下の容認する、又、 せざるを得ない官僚構成である点に、顕著な重代差、社会の推移がある。その構成 の手段は異るが、本質的には、同族婚購の官僚群が存在し、相互に依存関係の存在 したであろう事は、何時の時代もあることで、諸富に於ても言い得るであろう。  仁井田博士は、家族結合の象徴として、﹁一つは祖先祭祀を行うべき祠堂・宗祠 であり、又、他の一つは一宗一族の系図・記録等を記した宗譜・族譜である﹂とさ    翁︶ れている。    註⑳ 仁井田陞著、支那身分法史、 一四一頁。  宗族結合は、第一に同源意識に基く舞踊の共同祭祀に現れる。先ず趙族の此の点 に託て述べよう。古書の宰相世系表に挙げた如くに、河東は趙族の起源の地として 説かれ、有力な諸富の分布地であること又上述の如くである。史記、巻四三、趙世 家、にく趙武が程嬰と公孫杵臼とを祭った記事がある。        む         趙武服斉衰三年、為之祭邑、春秋祠之、世世勿絶。 とあって、史記正義に、   む   今河東菜畑祠先人、薫別醤一座、祭二士突。 と注している。唐の張.守節が自ら当時の事実を伝えたもので、河東趙氏が祖先祭祀 を行っている事と、遠い祖先に関連した趙武以来の祭祀を継承して、唐に至っても 同族間に行っていると言う祭祀の継続維持の風習である。史記には趙族の春・秋の 祭祀を伝える○時代も地域も異るが、索書、巻七七、李士遺伝には、河北の趙郡三 夜で、李±謙の宗党が、春・秋二社には必ず高富極記した事を伝えている。こうし た風景は蓋しつきものであって、祖先と、祖先にまつわる功業を語って、歓を尽し て同族的自覚を強めたものと解し得る。河東の諸趙は、遠く先聖の趙武にまつわる 儀礼を維持しているが、其の間の宗族の繁殖は思い知るべきで、かかる諸支族は、 共同祭祀により同族結合を固めていたのである。山西通志、巻九二︵金石記紀︶の、 河東趙族の贈爵州刺史、太常磁趙叡沖稗に、叡沖が,其二子、良器、良弼を誠めた 語がある。   告其二子良器・良弼日、吾祖成季︵注黙劇︶、宣孟︵注趙盾︶忠勲嫡著、遺詠吏部   筒書融、晋黄門侍郎胤︵允︶細頚劇穰憲章、拝衛王室。 と。遠い先祖の功業を語って、家門の維持と同族の繁栄とを期待したものであっ て、趙氏のみならず旧族門閥の一般の傾向であった︵山右石刻叢編、巻七参照︶。河 東諸趙の一とも言える趙仁本の後の趙憬伝には、牲高趣で儒教的人格を伝えている が⋮、 一所得俸入先駄置針蔓立馨藁薦。︵旧唐吾、巻;天︶ として、俸入を寄進する暮暮が別に在って、其の祭職を敬重重視した事を伝えてい る。廟は王公官入の家の祠堂を称する。第馬田産を立てるよりも祖先祭祀と宗族結 △﹄を重大視したのであって、家族制に於ける族長たる巨鯨の意図をよく示したもの と一セえる。共同祭祀は趙族に限らず他族にも行れていた。金唐文、巻五四五に、河    東の王氏は四県に分住していたが、毎年一月七目を以て一所に集合して共同祭爬を 行う事を述べている。それが干業動いてから廃止されるに至ったとあるQ此の文の 撰者王顔は徳宗貞元年間の入である。趙搬と同時代であり、河東の混乱が考えられ る。趙王二輪に見る河東血族の此の種の祭祀は一般に行れていたのである。李大亮 は唐初の高祖太宗に仕へた創業の臣の一人であるが、旧廿里、巻六二に、﹁本居朧 西狭道、代為著姓﹂とあり、雍州書癖に転居した。彼は宗家として、五葉の宗族で 子孫無き家三十余家を収葬したとある。画配瑳は玄宗即位当初の延和元年㎎に入十 六で没しているが、旧唐書、巻九三に、家財数十万金で大いに螢域を開き、五服の 親を礼葬したとある。京兆郡始平県の旧藩である。此れ等は宗家が応諾を祭祀した の.である。宗家を中心に各血族の共同祭祀のあった事は考えられる事である.、趙族 は各地域に於て、各賊塞が夫々祭祀によって同族結合を行っていたと言い得るであ ろう。仁井田博土は、﹁宗族全体又は宗族の麦派全体の宗祠を宗族の住地にーーそ れは移住地でも差立ない一建設することも往々行れた﹂とされ、又、﹁宗族共同の 遠祖を祠るのを大宗祠といった﹂とある。天水に諸趙の大宗祠があったか否かは明 かで無いが、河東差前の春秋の祭祀は此の種の範疇に入る。  王顔は安史の乱訴、河東の王氏の共同祭祀が中絶した事を歎くが、宗族意識がな くなったわけでは無い。移住した諸趙はその居住の地を本貫と称した者が、唐中葉 以後の子孫では往々天水を称していることが列伝に見えている。河東の趙叡断の碑        ︵24︶ に、天水菅公神道碑︵大音四年五月置︶とあり、又、趙不器の兄弟七人︵挙進士︶ を、一、天水趙氏之七子者﹂と称し、又、天水趙居貞、天水趙騨、の如く天水を冠し た呼称が文献に見える。趙不器は宗州開城に居住し、面面は南陽穰県に居住する。 既に分離居住すること久しい事であるが天水を称している。其の宗族意識の存在と 結合を推して知るべきである。かかる呼称は自称よりも他の杜会人の呼称で、宗支 の結合を第三者的に立証したものと言える。唐.書、巻九冗、高士聞伝の賛に、コ盲 李悉出朧西、言劉悉出彰城﹂として社会の混乱と面立の混鴻を伝えている。同族意 し

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