沖縄文化の危機と変容-1990年の主な出来事を通し
て-著者
比嘉 佑典
著者別名
HIGA Yuten
雑誌名
アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻
25
ページ
45-70
発行年
1990
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00010130/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja沖
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年 の 主 な 出 来 事 を 通 し て │ │ て 九O
年・揺れる沖縄 ベルリンの壁の崩壊はあっという聞の事件であり、東西ドイツの統一も また一瞬の出来事であった。世界をあげて何かが変わりつつある昨今、 九九O
年は沖縄にとっても、﹁世がわり﹂を恩わせるようなさまざまな出来 事が起こっている。文化的にも経済的にも、かつてないほど大きな節目を 迎えているのである。それは、本土復帰以来のことだと筆者はとらえてい る 。 本土復帰以後の沖縄の歩みは、政治的にも経済的にも、また教育の上に おいても本土と一体化と系列化の方向で進んできたといえよう。こうした 中で、今日島自体がこうした路線に対して、新たな矛盾をかかえ、大きな 問題が島民に重くのしかかり、県民は自らの進路について選択をせまられ ている。そのあがきにも似たようなことがらが、 一 九 九O
年という年をめ ぐってさまざまな展開を見せたのであった。 その一点は、経済的な問題としての﹁リゾート開発﹂と抱き合わせた島 沖縄文化の危機と変容上
七
嘉佑
典
の生き残りという問題であった。それは、本土大型資本の投入と、過疎化 していく地域の活性化とが抱き合わせになっていることが多く、その開発 によって逆に島の自然や文化が崩壊の危機にさらされるという問題が新た に登場してきたことであった。 リゾート開発は、広大な島の自然を敷き崩し、そこにホテルや ゴルフ場といったレジャー施設をつくるのだが、そのことによって、敷き 例 え ば 、 崩されたところから雨によって流出する赤土が海を汚染し、珊瑚を死滅さ せるという赤土汚染の問題を生み出している。しかも、自然を敷き崩すこ とにより、そこにあった先祖以来の聖域とされる御獄(うたき)が壊され てしまうという、自然破壊のみならず伝統文化の崩壊に決定的な打撃を与 えているからであった。 第二点は、まちゃ村の活性化をめざすまちずつくり、村おこしのイベント である。九O
年はかつてないほどに、全島(県) レベルの行事から各市町 村レベルの行事に至るまで、全島あげて H 島ぐるみフェスティバル μ の し 、 きおいであった。﹁世界のウチナ i ンチュ大会﹂はその頂点にあったといっ 四 五沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 て よ い だ ろ う 。 その祭りや大会行事の意味するものは、島おこしとイベントの一体化で あり、そのことによって島を活性化する試みであるが、 そのイベントの内 容のほとんどが琉球の伝統文化に根ざしたものが多く、 その展開は新しい 形と方向に大きなうねりが生じているということである。 第三点は、琉球文化研究の課題と広がりの問題である。 九
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年は多彩な催し物が行われることによって、劇場、博物館、資料館 その他の文化に関係する諸施設が建てられた年でもあった。島内のみなら ず 、 ハ ワ イ に も 、 ハワイ移住九十周年の記念事業として﹁ハワイ沖縄セン タ l ﹂の開設をみている。 一方学会関係では、沖縄ではじめて日本民俗学会が開催された。その民 俗学会開催を前にして、久高島のイザイホ 1 の中止が伝えられるという一 大ショッキングな出来事がおきている。その他に、沖縄民芸運動五十年を 記 念 し た 、 日本民芸夏季学校の開催。新しい沖縄文化の課題をになった、 全国風水研究者会議も開催され、沖縄が風水研究のメッカとして注目をあ びた。また、終戦直後の沖縄の文化と教育の再興に尽力したハンナ博士の 来島は、特筆にあたいする出来事であった。 広く目を海外へ転ずると、﹁国際フォーラム・沖縄史と文化﹂がハワイ、 ホノルル市で聞かれ、沖縄研究学会として注目された。北米圏における琉 球研究も盛んで、 ア ジ ア 山 7 T A E、 アジア北アフリカ国際学会等で琉球研究が 行われている。このように、九O
年は沖縄の歴史と文化研究の領域でも、 かつてないほど多くの関心が向けられた年でもあった。 第四点は、沖縄県知事選であった。沖縄においては、それは単なる政治 四 六 決戦ではなく、沖縄の今後の方向を決定する一大イベントだったといえる だろう。それは、沖縄の明日の政治・経済・文化まるごとかかえた島の進 路を決める、県民による意志決定の儀式だったといっても過言でない。保 守、革新のかかげた政策が、 その根底において沖縄文化の問題と深くかか わっていたからであると同時に、基地をかかえる沖縄の平和の問題をも含 んでいたのであった。しかも、両候補が政策の上ではっきりと分かれてい ただけに、県民ひとりびとりが投ずる一票は、島の文佑・平和の明日を占 う試金石でもあった。 一 九 九O
年 、 その年にこだわって言うなれば、 その年こそ、すべての出 来 事 を 通 し て 、 島の諸相がリアルにはっきりと見えた年であり、1
世 ts わ り μ を予感させる年でもあった。それはいってみれば、過去のあらゆるエ ネルギ 1 が噴出し、矛盾という引き金によって地殻変動をおこしているよ うに筆者にはみえたのであった。 ( I ︺ 筆者はかつて﹁沖縄文化とパーソナリティー研究﹂で指摘したように、 沖縄問題は文化問題だと主張した。対外国に対しても、国内、島内におい ても、出現する問題の背後には常に島の文化の問題が存在しているのであ る。かつての本土政府がとった﹁同化政策 L 、米軍のとった﹁宣撫政策﹂は、 現象としては政治政策であったが、行き着いたところ、 つまり本質におい ては文化の問題であったのである。 こ の 九O
年の出来事どれ一つ取ってみても、 その根っこにおいて﹁文化 を生かすか、殺すか﹂にかかわっているのである。島・沖縄にとって、こ の文化の問題はさけて通ることのできない N 試金石 μ な の で あ る 。 このような観点に立って、九O
年のできごとを現地の新聞﹁沖縄タイムス﹂(たまたま講読している関係上)の関連記事を手がかりとして、沖縄の 文化の問題を検討してみたいと思う。また単にそのことのみにとどまら ず、筆者自身島に分け入り、自分の足で調べたことも含めて考えてみたい と 田 ? っ 。 二、リゾート開発と文化の危機 リゾート乱開発と生活の危機 県は四月二日づけの新聞に、リゾート法に基づく﹁リゾート沖縄マス ( 2 ) タ l ズプラン全体構想図﹂を発表した。それによると、沖縄のほぼ全域の 十地区をリゾート振興地区に指定し、沖縄全体をスーパーメガリゾートと して位置付け、整備を図る方針をうちだした。 このマスターズプランは、ほぼ計画通り進められ、県は十月二十三日に、 総合保養地域整備基本構想(沖縄トロピカルリゾート構想)の国への申請 に向け最終準備に入ったことを伝え、重点整備地区の整備万針や自然環境 への配慮事項など基本構想の全体概要を明らかにした。 しかし、こうした県のリゾート開発基本構想をよそに、以前から本土の 大手不動産業者を中心とした土地の買いあさりはすさまじく、 リゾート開 発をあてこんだ投機的取引が水面下で行われたために、地価の急上昇、ぁ れよあれよという間に土地価格がつり上がってしまった。 県企画開発部は、十月二日までに地価高騰抑制強化として監視区域を大 ( 4 ) 幅拡大し、三十四市町村に拡大する方針を固めたが焼け石に水。たまりか ねて、さらに十月二十六日づけの新聞で﹁リゾート乱開発規制と土地対策﹂ に つ い て 、 一面全体を使って監視区域指定を強化するとともに、 リゾート 沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 沖縄マスタープラン運用に関する市町村通達を相次いで打ち出した。無秩 序なリゾート開発が周辺地価の高騰を引き起こし、自然環境や地域社会と の調和に悪影響を及ぼしかねないという危機感からであったが、時すでに 遅く問題はすでに表面化し、県のリゾート基本構想がまとまる以前に、 lま ゃくもリゾート開発への疑問が指摘され、地域活性化の掛け声に促されて 始めたこのリゾート開発構想は、自然破壊、赤土汚染、地価高騰といった さまざまな問題をかかえ、はやくも暗礁に乗り上げつつある。 例えば、県内で最も多くリゾート開発が行われている思納村では、すで に十件の営業中の施設をかかえ、さらに開発許可済みが十件、開発相談が 約六十件あるといわれる。昨年(八十九年)の村内の大手リゾート五施設 を利用した客の数は百三十八万人。それ以外の施設の客も合わせると、
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百万人を軽く超えたといわれている。村の人口約九千人。年間に、村の人 口の二百倍を超える計算になる。その結果は、廃棄物、水道、交通渋滞な し、(ど う立村 。 の キ ヤ ノY 、/ ア イ を は る か 上 回 り 村は悲鳴を上げている状態だと おまけに、この村の背後には琉歌で名高い恩納岳があるが、この美しい 山も米軍の実弾演習にあってあわれな姿になってしまっている。そこへ もってきて、最近さらに自衛隊と米兵による新たな合同演習場を設置する ことになり、住民とのトラブルが絶えない。テレビで全国に放映され、話 題になったばかりである。しかも、赤瀬川の赤土汚染はワーストワンであ る。
この思納村は、海はリゾート開発の波に押し寄せられ、山は軍の演習に 荒らされ、そのはざまで苦しんでいる。いってみれば、そこは多くの矛盾 四 七沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 をかかえた、いわば沖縄の縮図ともいえるところである。 リゾート開発は本土においても、 さまざまな問題を引き起こした。 ゾlトマンションの乱開発は、地域の活性化どころかむしろマイナスに働 き、各地域が開発規制をはじめだしたところである。 こうしたリゾート開発の問題が、全国的にみて最もきびしい状態におか れているのが沖縄である。現地の新聞紙上でも、連日リゾート開発につい て議論が展開されたが、 ﹁ サ ン デ ー 評 論 ﹂ (沖縄タイムス十月七 その中で 日)の記事が、沖縄の一つの心を伝えているように思われる。投稿者の浦 島悦子氏は、次のように述べている。 ﹁先ごろ行われた全国自然保護沖縄大会に参加、 リゾート開発の進む思 納村、読谷村を現地視察し、地一五の人々の芦を聞く機会を得たが、 リ ゾ l ト開発による海浜の破壊・汚染、地元住民の締め出し、土地の高騰、深刻 化する水やゴミ処理の問題(リゾート施設が大量に使う水、大量に出すゴ ミの処理が村財政を圧迫し、村民に負担がしわょせされる)、生活環境・教 育環境の悪化:::などなど、知れば知るほど N ツ ケ μ の大きさにため息が 出るばかりであった。 いつもその前を通りすぎるだけだったリゾート・ホ テルの一つに入ってみて、がく然、とした。 一瞬、自分がどこにいるのかわ からなくなった。東京をそっくりそのまま持ってきたような庖がずらりと 並 び 、 H 亜熱帯 μ をわざとらしく強調した国籍不明の庭園をぬけると、自然 の浜とは似ても似つかぬ人工島を配した人工ビlチに出る。わたしは得体 の知れない意心地の悪さに耐えながら、そこで喜々として遊んでいる若い 観光客をながめた。彼らはおそらく、空港からここに直行し、ここで食事 を と り 、 買 い 物 を し 、 人工ビlチで遊んで、 ﹂こから一歩も出ないまま 四 八 帰っていく。そして﹁沖縄に行ってきたのよ﹄と言うのだ! 観光がもし、その字のとおり、﹁光を観る﹂ことであるならば、その土地 の自然や歴史や人々の生活 ( H 光)に触れ、学ぶ ( H 観る)ことによって、 その光で自らの生活、生きかたを照らし出し、明日に向かって進む糧とな るべきものであろうと思う。迎え入れる側にとっても、経済的なメリット だけでなく、遠来の客のもたらす異なった文化と交流することによって、 お互いが精神的にもより豊かになっていくはずだ。現実はしかし、まさに その正反対である。自然、を踏みにじり、歴史や伝統を無視し、人々の生活 と無縁のところで営まれるリゾートは、﹃旅の恥はかき捨て﹂とばかりに傍 若無人のふるまいを生み、地元とのあつれきを生じ、ゴミの山をつくるば か り 。 ﹂ 村の活性化が、こんな形で進められたとしたら、 一体全体村はどうなっ ていくのだろうか。経済的な﹁生き残り﹂というそのことだけでつっ走る のは、危険きわまりないといえよう。 このように問題が表面化する中で、大がかりなリゾート開発と無縁だっ た座間昧島でも、本土系資本によるリゾートホテル建設の即時中止を求め ( 6 ) る抗議集会が聞かれた。施工側から地元住民に何の事前説明をもなく、突 然整地作業が始まった時に計画を知った住民は、地元の﹁自然を守る会﹂ を中心に、建設の即時中止を求める抗議集会を聞いている。また、宮古の 上野村でも対立が表面化している。 ) 2 ( 乱開発と聖域の崩壊
このリゾート開発は、とりわけ沖縄にとってもう一つの最も深刻な事態 を引き起こしていた。それは開発による、神々の住む聖域(御獄) の破壊 で あ っ た 。 リゾート開発について問題が指摘されているさなかに、重要なレポート が世間の注目を集めた。それが、 やがて社会問題にまで波及していった。 それは、九月三日から沖縄タイムスに連載された、﹁揺れる聖域││リゾ l ト開発と島のくら
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と題する集材記事であった。 レ ポ タ は リ 1 ライターの安里英子氏(﹁地域の目﹂舎主宰)である。氏は、リゾート 開発地域を駆け回り、 リゾート開発によって生じた御嶺(うたき)の破壊 の状況・問題を、くまなく調べて報告したのである。それは、大きな反響 を 呼 ん だ 。 安里氏は、﹁県内でリゾート開発が予定されている場所を地図におとし てみた。御識やグスク、遺跡などの分布と照らしあわせでみると、 みごと に重なってしまうことがわかった。復帰後の急激な開発によっても、かろ うじて残されてきたのが、これらの御巌や墓などの聖域、あるいは霊域で ( 7 ) あった。だが今やその聖域がリゾート開発の標的になっている。しというの で あ る 。 そういえば御獄といわれる聖域は、 そこから海が見える美しいところに ある。神人(カミンチュ)たちは、 そこから海に向かい、海のむこうにニ ライカナイの神々を視たところである。ながめのいいこの聖域は、観光に も最適な場所であり、 リゾートの立地条件にかなったところである。そこ が、ねらわれたのだ。 その御蔵のある聖域は、神人やムラの人々によって守られてきた重要な 沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 場所であり、祖先以来ムラ(共同体)の伝統的行事、祭り及び生活の中心 をしめていたところであった。沖縄が﹁神々の島しといわれるゆえんは、 この聖域と神人に由来し、古くは﹁天下るオナリ神しに起源をもち、女性 優位(母系性社会) のオナリ信仰によって、聞得大君を中心に神女組織を 形 成 し その末端に地方神女としてのノロを配して、島の神々及びニライ カナイの神々と通じていたのであった。そして、地方のノロたちは、御獄 フ を拠点にして神事を行っていたのでる。そして男性も含めたムラの人々に とって、聖域は精神的とりでであり、 ムラのアイデンティティーをそこに 求めていたところでもあった。その聖域が、 リゾート開発によって破壊さ れることは、島の伝統文化の崩壊を意味することであり、かつオナリ神に つらなる女性優位の歴史が息絶えることである。神人にとって、有史以来 の危機であった。 宮古島では、数百人の神人たちが立ち上がった。宮古には、神人といわ れている人たちが六百人以上いるともいわれている。こうした神人たち が、開発から御撮を守るという祈願を行った。平良市には、神人たちを中 心にした御嶺神童会があって、何かの時には三百人が集まるという。 この御嶺神道会は、復帰前後のころから活動している。関係者によると、 ﹁復帰前後のころから、開発によって島の御識が破壊されはじめた。そのこ ろから神人たちが御巌を守るために集まりはじめた。東急ホテルの建設の ときは二百人ほどが集まって行動をおこした。宮古では歴史的にも神力 民 で あ っ て 、 一番、宮古を支えたのは農 ( 8 ) その農民を支えたのは神人たちであった。﹂といっている。 リャ!(神人)たちに弾圧が加えられてきた。 その後、神人たちの具体的行動は、東急ゴルフ建設による赤埼御獄が 四 九沖縄文化の危機と変容 フェンスで固まれるという事態がおこったとき、猛烈な反撃に出た。その 結果、業者側に御嶺への通路を聞けさせ、ゴルフ場内に埋められた井戸も 復 元 さ せ て い る 。 九
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年七月、乱開発のため﹁島の神々が泣いている﹂という神人の訴え で、開発によって破壊されようとしている御獄を守るための祈願をしてい るが、神人のひとりはこう語っている。 ﹁神さまが泣いていらっしゃる。人間は平気で機械を使って神さまを殺 しているけれど、神さまが生命を支えている。今、生きている大人はいい が、これからの子供は何を食べていくのか。海がないから、山がないから、 ( 9 ) 畑がないから、何をつくって食べていくのか。﹂ タイムス八月十三日の論壇、 ﹁ ゴ ル フ 場 建 設 で 危 険 ﹂ は、知念半島のリ ゾ l 卜開発と聖域の危機について訴えている。投稿者は知念村文化財保護 審議会長によるものだが、氏の論調は、沖縄の過去と現実の姿をするどく 指 摘 し て い る 。 ﹁沖縄本島南部地域は四十五年前、﹁鉄の暴風﹄に襲われ、地面は弾痕だ らけのアパタとなり、山石山は傷痕生々しいカンパチをつくった。イシのカ ンパチも消え失せぬ聞に、また第二の鉄の暴風ともいうべき﹁リゾート開 発の波﹄が押し寄せてきている。恩納岳は連日の実弾射撃で山肌は完膚な きまでにやられている。赤くはぎとられた山々に雨が降る度に赤い流血を サンゴの海に注ぎこむ。いたる所で侵海地の新開地がみられる。:::歴史 的遺産と一体となったすばらしい白然環境を残してきた知念半島にもゴル フ場建設の計画が忍び込み、住民を渦中に巻き込んでいる。沖縄全島の門 中の人たちの﹃東郷廻り(アガリウマ l イ)﹄の聖地は、ゴルフ場の﹃コ 1 五 O ス回り﹄の人が取って代わろうとしている。:::沖縄戦で無傷のまま残さ れた知念半島の自然はリゾート開発の名のもとに消え失せようとしてい る。東り方神の里はだれが守ってくれるのか﹂ o 先の安里氏の﹁揺れる聖域﹂の記事は、全島に波及し、 リゾート開発を めぐって新たな警鐘を打ち鳴らしたため、﹁開発か自然(御嶺)破壊か﹂の 議論が沸騰した。議論中最も代表的な言い分は、宮古の池間島問題におけ る﹁開発か自然保護か﹂の意見であった。その意見は、安里氏の﹁揺れる 聖域﹂の記事に対する意見という形で述べられているが、開発派の意見に よると、﹁現在の池間島の人口およそ一千人。これに対して六十五歳以上の お年寄りが三十四%を占め、超高齢化の社会に若者の U タ l ンの気配はな く将来の無人化が懸念されている。こうした老人化の島の実情を少しでも 打開するために住民は自立的・内発的にリゾート誘致に模索しながらも腰 を上げ、住民一致のコンセンサスに取り組んでいる。今では、圧倒的に誘 致 推 進 派 が 多 く 、 リゾートと抱き合わせの活性化・自立立島経済確立へと 弾みがついた。リゾート側との土地売買交渉も水面下では順調である。と ころが今回の安里氏の記事で事態は急転直下。リゾート誘致は幻で終わる の か 、 といういぶかりの風聞が島内をかけめぐり、 混乱の事態収拾に戸 惑 っ て い る 。 ﹂ と い う 。 土地買収の相手は本土大手の三井不動産である。記事の最後を、﹁島人は 神聖な過去を再現することを心待ちしており、何人にも聖域の開発を断固 として許すわけがない。原初の森は永遠に保存・保護の立場である。しとし め く く っ て い る 。 一方、保護派の意見は、これも安里氏の記事に思う意見として、池間島を守り発展させる会連合会長の投稿である。要約してみると次の通りであ る 本土に追いつけ、追い越せという掛け声は聞いて久しい。その本土とは 何 か ? 今や経済大国の姿そのものである。この日本経済の躍進とは、太 古より今日まで日本を日本たらしめた全国津々浦々の村々や、島々を過疎 の問題に直面させた深刻な事態と引き換えられるという犠牲のもとに躍進 した。そのことは、池間島特有の事ではない。とりわけ池間島の危機とは 何か、不動産業者が人口約一千人、面積約七十万坪の土地を一大リゾート 基地にしようとしていることであり、 その結果一部の人々の収入源になっ ても、大多数の住民にとってそれとは無縁である。今や海の彼方から訪れ る人々に守礼の民としておおように対する時ではなく、招かざる客人たち は、何を意図する人々か、彼らは一体どんな活動をし、生活をし何をもっ て生きがいとしている人々であるかを非礼になっても良いから問い詰めな ければならない。かつて、 ヨーロッパの国々の聞には、尊貴無上のものへ の人間の限りなき渇望と引き換えに、 いやその布教とワンセットで経済的 収奪を国策として推進した歴史的事実があるが、わが先人たちには海の彼 方より訪れた人々の真の姿を看破する英知があった。単なる故事としては ならない沖縄県下の今日的命題である。その意味で池間島は、まさに人間 生存の聖域が危機に直面している、といった意見でる。 海の彼方からきた大手不動産会社は、島民の前にはその姿を現さない。 安里氏の調べでは、実際に島を買うために奔走しているのも沖縄人であれ ば、島を売ろうとしているのも沖縄人であり、 その背後にいる企業は一切 顔を出さずお金だけをパラまいているという。企業が自らの身を犠牲にし 沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 てまでも、島の活性化をはかるとは思えない。企業はあくまで営利追及が 目的であり、常に資本の論理で武装しているのである。 開発派は、﹁断固として聖域を守る﹂としているが、九月の定例県議会で 可決した﹁海浜条例﹂は何を意味するのだろうか。県議会は﹁海浜を自由 に使用するための条例案﹂を全会一致で可決した。同条例は企業による ピーチの占有化に歯止めをかけるのが狙いで、来年四月一日から全国でも 初めて施行されることになった。同条例決議の背景には、リゾートホテル などが海浜を占有し、入場料を徴収するなど一般の県民の使用が制限され ていることから﹁公衆の自由な海浜利用を確保し県民の健康で文化的な生 活に寄与する﹂との目的で決議したものであった。 い っ て み れ ば 、 リゾート開発が進行すると、このような問題も起こりま すよ、ということをさしている。島の人は、島人でありながら島の海で泳 げなくなるのである。現に思納村の場合の問題点も含めると、島の住民は 追い出される危機感はぬぐえない。今やリゾート法は、本土においても悪 法の異名をとりつつある。慎重にならないと、 とんでもない落とし穴が まっているかも知れない。 安 里 氏 は 、 レポートを終わるにあたって、次のように述べている。 ﹁しかし、今後私たちがそれぞれの島で生きていこうとするとき、なにを もって自らの支柱としていくのかということを考えてみなければならな ぃ。それは島の神々の言葉、土地でうまれた思想、あるいは共に生き抜く 場(土地、空間)、エコロジカルな言い方をすると刀土 μ ということになる。 この人と土(自然)と神との関係が断ち切れたとき、島の生命は枯渇する ことになるだろう。また、神の存在を、現代風に精神とか思想というふう 五
沖縄文化の危機と変容 に置き換える場合もあるが、私は神と思想とは別のものとして考えたい。 思想は人の思考の枠の中で語られるものであり、島
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自然 l 宇宙の神々の 深さや神秘性にははるかに及、はない。:::土地日島は生命である。神人た ちの言葉では島は神の肉体であり、 神 の 家 、 屋 敷 で も あ る 。 また人間に とっては、空気を吸い食べ物を得る生存の場でもある。このまま乱開発が ( 臼 ) つ 。 つ け ば 、 島 の 砂 漠 化 は さ け る こ と は で き な い だ ろ う 。 ﹂ ) 内 ペ υ ( 赤土汚染と自然保護 赤土汚染問題は以前から社会問題になっているが、最近ではリゾート開 発によるゴルフ場の開発がそれに拍車をかけている。土地改良事業と無秩 序な乱開発が原因で、九O
年に赤土汚染は深刻な状況になり、連日新聞等 で赤土汚染の被害状況が報道された。 県公害衛生研究所が一九八三年十一月から八九年八月にかけて調査した ﹁赤土汚濁の現状﹂(二十九市町村、二百二十九海域、四百二地点)による と、本島北部、久米島、八重山を中心に、本島中南部、北部離島と広範囲 に汚濁は広がっているという。特に恩納村赤瀬は、その中でもワーストワ ンの地点で、サンゴは死に絶えている。その主要な原因は、土地改良事業、 戦車道や都市ゲリラ訓練場など強化される米軍演習場、土木工事、ゴルフ 場などリゾート開発によるものと指摘している。この赤土汚染は、本土復 帰後の自然環境破壊としては、最大規模のものだといわれている。こうし た折りから十月十七日、県町村議会議長会総会はつ赤土流出防止対策しを 決議するという事態にまでなった。 また時を同じくして、自然保護をめぐる問題がもちあがった。それは、 五 第四十四回全国植樹祭をめぐる会場の問題をめぐってであった。戦後の荒 廃した国土の緑化を臼的として始まったこの植樹祭も四十有余年を経過 し、全国一巡して沖縄の地で最終回を迎える。県は、その植樹祭の場所を、 北明治山県有林で行うことを予定した。県では、この植樹祭を復帰二十年 の意義ある記念行事と位置づけ、積極的に準備を進めた。 式典会場の明治山約八ヘクタールの樹木が伐採されるとの計画が明らか になると、それをめぐって自然保護団体ばかりではなく、広く県民の聞か らも﹁植樹祭で貴重な森を切るとは本末転倒﹂との批判の声が高まった c 新聞紙上に、県民からさまざまな意見の投稿が寄せられているさなか、 第二十回全国自然保護大会沖縄大会(九月二十二1
二十四日)が、那覇市 をメイン会場として県下各地域で開催された。大会のメインテーマ﹁守ら な地球環境、残さなうるま島、島ん人の心﹂をかかげて、自然保護の立場 から反対決議を行った。 また北明治山を見る会代表の西尾市郎氏は、﹁返還地は自然林として成 熟したりっぱな林だ。自然の営みでできた林の価値を、私たちも含めて十 分には理解してないのではないか。植樹祭の意味からいっても、木を切り、 表土をはがすのはおかしい。本土と同じ林業がなりたつのか、きちんと整 ( 日 ) 理すべきだ﹂と反論している。戦後の荒廃した国土の緑化を目的に始まっ たこの植樹祭は、近年、既成の森を犠牲にする形の式典になっているとの 指 摘 も あ る 。 この植樹祭も、会場の選定をめぐって自然保護の問題に発展、賛否両論 新聞紙上で取り上げられるとともに、県議会でも論議された。時あたかも 土 地 改 良 事 業 、 リゾート開発と自然環境の破壊の問題の嵐が吹き荒れる中で問題になっただけに、大きな社会問題となっていったのであった。 以上みてきたように、九
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年という年は沖縄の環境破壊 H 自然破壊の問 題が、かつてないほどクローズアップされた。中でもとりわけリゾート開 発による聖域の崩壊は、沖縄古代からの伝統文化・御嶺信仰を根絶しよう とするものであった。 また一方、自然破壊とは関係のない離島においては、時代の流れといお うか、人は島離れしていく。その中で島の伝統行事・祭もその姿を消しつ つある。久高島のイザイホの中止は、﹁後継者がいない﹂という理由からで あった。御山獄(聖域)は守られていても、それを後継する神人(若い女性) がいないという悩みもでている。孤島苦(島びちゃ)は、今世がわりをせ まられているのだろうか。 二、世界のウチナl
ンチュ大会・その広がりを求めて 開発か環境保護(自然保護)かをめぐって島が揺れ動いている中、島で は島をあげてのもう一つのエネルギーが爆発した。それは、八月二十三日 から二十六日まで開催された﹁世界のウチナ l ンチュ大会﹂の一大イベン トであった。真夏の島に、海外(世界)に移住していったウチナ l ン チ ュ (沖縄の人)を集めて、御万人(ウマンチュ)が熱く燃えた祭りであった。 このようなイベントは、全国各地でも花ざかりである。地域の活性化を 目的とする催し物は、各地で盛んに行われている。八十八年から九十年に かけては、さまざまな博覧会ブ l ム で わ い た 。 しかし、この世界のウチナ│ンチュ大会は、多くのイベントの中でも特 異の催し物、独特のイベントだったといってよいだろう。﹁沖縄・人l
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そ 沖縄文化の危機と変容 の広がりを求めて﹂の名の通り、島の人聞を中心に世界にウチナ 1 ン チ ュ のネットワークづくりを試みるこのイベントは、沖縄の沖縄たる由縁から の発想であった。資源や経済的に之しい沖縄にとって、最大の資源は人で あり文化だという自覚に立って、物より人に重点を置いたところに沖縄ら しいところがある。普通行われている博覧会などは、物が中心で、見物客 を集めるという形式だが、 ウ チ ナ i ンチュ大会は、人が主役というところ にその特徴がある。物 H 経済を優先させることよりも、人 H 命どう宝を重 んずあらわれであろう。 沖縄は、有数の移民県である。現在県内人口の約二割に相当する、 十 七万の沖縄県人が世界に広がっている。世界各地で生活するウチナ l ン チュは、南米・ブラジルの十二万人、 アメリカ合衆国(ハワイ四万五丁人 を含む)六万五千人、 ベ ル l 四 万 人 、 アルゼンチン二万五千人、ボリビア 五千百人、カナダ千二百人、 メキシコ七百人、そのほか一万人で、 ア ル ゼ ンチンやペルーでは、 日系人の約七割を沖縄県人系が占めているといわれ て い る 。 世界のウチナ i ンチュ大会は、こうした東西南北、縦横無尽に海外へ雄 飛していった人々、 そ し て な お 、 ウチナ l ンチュスピリットを失わない 人々を大切な財産と考え、 その人々を母県に迎えて、世界のウチナ l ン チュ同士が語り合い結び合うことにより、心の交流の輪が世界に広がって いくよう願うと共に、母県沖縄を核として国際的なネットワーク。つくりの 契機になるようにと計画された一大イベントであった。 ﹂の大会の大きな目玉は、 ﹁ ウ チ ナ 1 ンチュ民間大使﹂ の認証式であっ た。十九ヶ国三十六地域の百人の人々が民間大使に認証された。これは、 五沖縄 E リ 人 化 の 危 機 と 変 容 この大会を単なる一過性のイベントとして終わらせるのではなく、永続的 で発展性のあるものにしていこうと計画されたもので、民間大使は﹁沖縄 を要(かなめ)とする有機的人的ネットワークの確立﹂を進展させる役割 として設置されたものであった。 これら民間大使の任期は二年で、ボランティアとして行うが、その役割 は世界の二十七万人のウチナ l ンチュネットワークの核として①各国での 沖 縄 の 紹 介 、 イメージアップ②沖縄に関したいろいろな分野での国際交流 の仲介、促進③各国からの情報提供などである。県はこれらをパックアッ プするため、資料提供、 ウチナ l ンチュデータベース作りなどで支援して いく方針だという。 県では、数年前からこの大会を企画してきたが、このイベントの背景の 一つには、海外の同胞への感謝の気持も含まれていた。 つまり、貧しさゆ えに海外へ移民した人たちが異国で辛苦に耐え頑張ったこと、また郷里沖 縄が戦場となり打ちひしがれた時には暖かい手をさしのべてくれたことに 対して、今日経済大国日本の末端につながる沖縄、今度はこちらの万から 海外県人に恩返しをしたいとの気持がはたらいていた。 大会数日前から、海外のウチナ l ンチュたちがぞくぞくと島に帰ってき た。それぞれが、自分たちの育ったムラにもどって行った。各市町村では、 ムラあげての歓迎会が聞かれた。 いろいろな歓迎の催し物が企画され、連 日新聞でそれらのイベントが報道され、村でもまちでもウチナ│ンチュの 心の交流が行われ、海外の人々の労をねぎらつた。 八月二十三日、﹁世界のウチナ 1 ンチュ大会﹂が、沖縄コンベンションセ ン タ l で閉幕。万国津梁の鐘(海外に雄飛し、活躍するウチナ l ンチュス 五 四 表1 8/24日(金) 8/25日(土) 8/26日(日) 展示棟 空手道・古武道世界交流祭 空手道・古武道世界交流祭 フィナーレセレモニー 10 : 30 ~ 18 : 00 10 : 30 ~ 18 : 00 18 : 00 ~ 20 : 30 劇場棟 沖縄芸能交流祭 沖縄芸能交流祭 ミュージックコンサー卜 13 : 00 ~ 17 : 0。 13・00~ 17: 00 14 : 00 ~ 17 : 00 会議棟 シンポジウム ワーlレド・ジュニア・サミット 武道サミット 12 : 30 ~ 16 : 00 10・00~ 12: 0。 13 : 00 ~ 15・。。 空手道・古武道資料展 経済フォーラム 空手道・古武道資料展 10 : 00 ~ 20 : 00 13 : 00 ~ 16 : 00 10 : 00 ~ 20 : 00 空手道・古武道資料展 10 : 00 ~ 20 : 00 宜野湾市立体育館 世界のウチナー展 世界のウチナー展 世界のウチナー展 10 : 00 ~ 21 : 00 10 : 00 ~ 21 : 00 10 : 00 ~ 21 : 0。 沖縄の美術展 沖縄の美術展 沖縄の美術展 10 : 00 ~ 21 : 00 10: 00 ~ 21 : 0。 10 : 00 ~ 21 : 00 多目的広場 世界のウチナーパザール 世界のウチナーバザール 世界のウチナーバザール 10 : 00 ~ 21 : 00 10 : 00 ~ 21 : 0。 10 : 00 ~ 21 : 00 花火大会 20: 40 ~ 宜野湾市立 記念ゲートボール大会 記念ゲートボール大会 総合運動公園 10 : 00 ~ 17 : 00 10・00~ 17 : 00
ピリットの象徴)の除幕式と打鳴式が行われ、四日間の大会が聞かれた。 イベントであった。 島あげてのこの大会は、沖縄の移民の歴史上はじまって以来の歴史的一大 時同じ頃、高校野球甲子園大会で、沖縄水産高校が決勝戦に進出すると いうこともあって、島全体が熱気につつまれた。準優勝の快挙は、世界の ー の 通 り で あ る 。 ウ チ ナ l ンチュ大会に花をそえることとなった。大会のプログラムは、表 この大会は、文通り沖縄文化一色の催し物でうまった。海外からのウチ ナ l ンチュにとって、琉球文化を堪能させるには充分であった。筆者も当 日その場に居合わせた一人だが、心底から自分がウチナ 1 ンチュであるこ とをかみしめたものであった。島を出て二十年余、なにかしらいいしれぬ 胸の高鳴りを覚えたのであった。 振り返って思うに、琉球文化が持つ力強さは、島の活性化になくてはな 図1
国際交流の進め方
(数字は%) 沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 らないものであり、その文化を今にもっているという事実は、これからの 島の未来にとって重要な鍵であると認識を新たにしたものである。 世界のウチナ 1 ンチュで沸き返った大会は、四日間の全日程を終了し、 二十六日に閉幕した。当初海外からの参加予想人数五百をはるかに上回 る、二千人余の海外のウチナ 1 ンチュの参加に、大会本部はうれしい悲鳴 であった。島内の参加者を十五万人と見込んでいたところへ、四十二万余 人が押し寄せ、こちらも大誤算であった。 沖縄タイムス杜は、世界ウチナlンチュ大会に参加した海外ウチナ 1 ン チュのうち、百人を対象としたアンケート調査を行っているが、﹁沖縄との 今後の国際交流のすすめ方﹂について図 l の通り回答している。文化・芸 能交流が最も高く、交流に沖縄の文化を重視していることがうかがえる。 教育交流では、留学生の枠の拡大を希望しておザ、人材育成も重要な課題 の一つだろう oy 文化・芸能、教育、情報の交流を合わせると七六・九%。 それにスポーツを加えると八五・八%。こうした文化、教育、情報、スポ l ツが、経済交流をはるかに上回っているということは、経済よりもウチ ナlンチュとしてのアイデンティティーを確認する﹁心の交流﹂を強く望 んでいるということがうかがえる。 こうしてみると、沖縄にとって今後は、国際交流に力点を置く必要があ ろう。かつての移民県から国際交流先進県へと発展していくことが重要で あり、これだけの世界のウチナlンチュネットワークづくりができ、また 民間大使を設置したのだから、今後の国際交流発展の可能性はきわめて大 き い で あ ろ う 。 大会終了後、今大会について各方面の紙面座談会が行われた。例えば、 五 五沖縄文化の危機と変容 各国の県人会会長による座談会﹁世界のウチナ l ンチュ大会を終えて﹂や、 海外の学識者をかこんでの﹁国際的視野から沖縄研究を展望﹂及び、ウチ ナ 1 ンチュ大会取材班による﹁盛り上げた H 沖縄パワ
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などの座談会で あ る 。 それらの座談会で取り上げられた評価はさまざまだが、要約してみると 次のようなことがいえると思う。 ﹁すばらしい大会だった。大会を今岡限りにせず継続してほしい﹂ ﹁海外のウチナ 1 ンチュ二千人余りが一堂に会したのを目の当たりにし て、沖縄パワーを感じずにはいられなかった﹂ ﹁沖縄と海外のネットワークマつくりに大きく貢献するだろう﹂ ﹁特にジュニア・サミットは、次代を担う若い世代同士の交流を深める よい企画だったと思う﹂ ﹁一世にとっては懐かしさでいっぱいだろうけど、一一・三世、特に中・南 米からの若者にとっては、沖縄から何かを学びたい、という気持ちが強 かった様子 L ﹁民間大使百人が集まってこれからの具体的活動について協議したり、 県に提言する場がほしかった﹂ ﹁海外のウチナ l ンチュ同士がじっくり話し合う場がほしかったし 中でも、研究者座談会は沖縄研究の課題も含めて、今後の沖縄県のあり 方に示唆的な内容のものが多かった。 ﹁沖縄系移民は日系人移民の中でも、独自の歴史、文化、心情を持ってい る。それは他県と違う独自性で、今回の参加でその独自性を体験できたの は素晴らしかったし 五 六 ﹁人的・知的ネットワークこそ、二十一世紀の交流のあり方だと思いま す。たとえば将来、移民研究の学会を沖縄で聞くことも一つのアイデアだ と 思 い ま す ﹂ ﹁沖縄県はまた全国一の貧乏県ですから、 やはり教育に力を入れるべき で す 。 レジャー地帯にしてお金もうけするのもいいですが、沖縄県はもう 少し一生懸命勉強すべきじゃないかと思うのですが。沖縄から優秀な人材 をもっと輩出して沖縄をもっと発展させたらどうかというのが私の夢で す し ﹁沖縄県は第三次振興計画の準備に入っていますね。リゾート、川、山、 海岸をどうするのかのハードな面にのみ重点を向けて、大事な点を忘れて はいないだろうか。特に教育行政に力を入れてほしいですね﹂ 以上のような意見が出されている中で、特に注目しておきたいのは、 フ ランクリン・王堂氏(ハワイ大学教授・広島系三世) の次の発言である。 ﹁ただ長年、ハワイのウチナ l ンチュコミュミティーを研究する中で、ウ チナ!ンチュのエネルギーについてずっと考え続けています。仮説です が、ウチナ l ンチュのエネルギーの発生源は独立国だという歴史でしょう ね。戦前の沖縄人の解放運動、戦後の復帰運動は沖縄人の独立を求めるエ ネルギ 1 に支えられていたからでしょう。政治的には日本の一県に組み込 まれてしまったが、文化的には独自性を保とうとする強い傾向があると思 います。だから二千人余の海外ウチナ l ンチュが参加したのはけっして驚 くべきことではないですね。 ハワイの県出身別人口では、沖縄は広島、山 口、福岡につぎ四番目です。 ハワイで本土出身者から差別を受けたのは沖 縄県出身者だけで、逆にそのことが団結心を固めたと思います。:::また、広島県、山口県、福岡県には独立目だったという歴史を持つてないことで す。だから本土出身者は皆、 日本人ですよ。沖縄人が持っている強いウチ ナ l ンチュアイデンティティー、県民意識はないわけです。沖縄スピリッ トは親切さ、あたたかさではないでしょうか。初期の日本人移民で、 ノ ¥ ワ イの先住民と気軽に接触できたのは大和人よりもウチナ!ンチュなんで す。なぜかについては、今後研究しなければはっきり言えませんが、沖縄 の文化に起因すると思います o ﹂ この王堂氏の発言は、 ウチナ 1 ンチュスピリット及、びウチナ l ン チ ュ の アイデンティティーを考える上で示唆に富んでいると思う。 つ 土 品 わ え ウ チ ナ l ンチュのエネルギーの発源は独立国だったという歴史、また沖縄スピ リットは親切さ、あたたかさだという指摘、そして、それらは沖縄文化に 起因すると思うとする発言は、今後の島の活性化のエネルギーになりうる と思うのである。 そしてまた、学問研究でも﹁沖縄文化とパ l ソナリ テ ィ l 研究﹂に道を開くものと思う。文化的独自性というのは、人間の文 化的主体性と密接にかかわっているものである。 つ ま り 、 カルチャーアイ デンティティ l は、沖縄人の主体性の確立に欠くことのできないものであ る 四、島おこしフェスチパル ) -( 村にもまちにもフェスチパル 沖縄において祭りは、村おこしにつきものである。戦後の荒廃した焦土 からの村おこしも、伝統文化の祭りによってたてなおされた。 今日、終戦直後の村おこしを思わせるようないきおいで、村にもまちに 沖縄文化の危機と変容 もお祭りさわぎである。それは、新世紀に向かっての沖縄のあがきなのか、 再び祭りが島をおいつくし何かを生み出そうとしている。 毎年行われている行事については割愛することにして、 九
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年にはじめ て行われた催し物について二、三取り上げてみたい。 ひときわ目を引いたのは、浦添市制二十周年の記念行事である。太陽と みどりにあふれた国際性ゆたかな文化都市﹁てだこの都市・浦添﹂と名 うっての一連の行事は、地域の活性化の見本ともなろう。歴史的に浦添は かつて海外交易の盛んなところであり、この地の活性化をムラの歴史と結 びつけて行ったのが第一回海人祭(浦添宜野湾漁協設立十五周年記念) で ある。海の男たちのイベントとして五月十九、二十日にわたって行われた。 海人祭プログラムは多彩で、御願ハ l リ l 、 職 域 ハ l リ l 、 転 覆 ハ l リ l 、 若獅子太鼓、獅子舞、棒術、中国武術、民謡ショ!といった伝統的なもの ロックコンサート、お笑いショーなど ( 幻 ) 現代的なものまで含め、盛りだくさんの催し物が行われた。 ( 辺 ) 岡市は、八月二十二日にも、市民郷土芸能祭を行い、宮古のクイチャ 1 、 クンジャン 八重山のトウバラ l マ、宜野座の京太郎(チヨンダラ 1 ) 東村の国頭サパ か ら エ ア ロ ビ ク ス 、 ジ ャ ズ 、 ダ ン ス 、 クイ、七年ぶりに復活した沢抵の組み踊り﹁花売の緑﹂や諸団体によるパ ラ エ テ ィ l に富んだ芸能祭を展開している。 浦添市の注目すべきことは、祭りのみならず、市立図書館に﹁沖縄学研 究室﹂の開設と、﹁浦添市美術館しを設置し、琉球漆工芸の歴史を再現する 全国初の漆の美術館として開館した。また、 日本民族舞踊団を招いたり、 中国との武術交流をはかるなど国際性をめざすために﹁芸能外交﹂を行っ ている。こうした催し物は、これからのマチマつくりと国際化に一つのモデ 五 七沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 ルを示したものとして評価してよいだろう。 その他の地域で行われている祭りに、その地域の歴史上の人物や特色を 取り入れたものもある。例えば、嘉手納町の﹁野園纏管まつり﹂(琉球の三 恩人のひとり)、宜野湾市の﹁はごろも祭り﹂(伝説羽衣降臨の地)などで あ る 。 このように、全島各地でそれぞれの祭りが盛んに行われている。その内 容は、沖縄の伝統文化に根ざした芸能を中心に、現代の新しいものもいろ いろ取り入れた内容になっている。 ) 2 ( 全島大会花ざかり ムラでの祭りが繰り広げられる一方で、世界のウチナ│ンチュ大会をは じめ全県あげての
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全島大会も、年を追うごとに盛んになってきてい ヲ 匂 。 三線文化フェスティバル、第一回全沖縄民踊フェスティバル、青年ふる さとエイサ l 祭り、全島獅子舞フェスティバル、かりゆし県民フェステイ パル、県芸術祭など多彩な祭りが行われる一方、実年のスポーツと文化の 祭典﹁サントピア﹂(県外参加者を含めて約二十五万人)をはじめとする、 さまざまなスポーツ行事が開催された。 九O
年という年にこだわっていうならば、第一回全沖縄民踊フェスチパ ( お ) ルは、圧巻であったといえよう。六月十日に行われたこの祭りは、これま でのプロ級の問で行われた芸術選賞選抜芸能祭に代表される芸術祭とは異 なり、民衆による芸能祭であり、﹁踊るあなたが主役﹂として、踊りの輪を 人の和に結びつけ、民血液芸能の振興と健康増進をめざした一大イベントで 五 八 あった。参加者は婦人団体、民踊愛好会、老人会、青少年団体など五一の グループ、総勢二千人が趣向を凝らした楽しい踊りを披露。老いも若きも 会場いっぱい踊りの輪で広がり、﹁踊りの輸は人の輪﹂と幾重にも輪をつく りフィナーレをかさった。プログラムは表 2 の 通 り で あ る 。 毎年伝統行事として行われている﹁青年ふるさとエイサl祭り﹂(今年で 二十六回を数える)や、﹁全島獅子舞フェスティバル﹂(第五回)は、ムラ の活性化という点から見逃せない祭りである。これらの祭りは、島の明日 を占う鏡であるといってよいだろう。 明日のムラの活性化のカギをにぎるのは、青年たちである。経済も重要 な決め手だが、人心の精神文化的活性化は若者にかかっている。多くの過 疎地をみると、青年の地域離れが引き金になっているところが多い。若者 の 不 在 は 、 いってみれば村を継ぐ者がいないということであり、 ムラ白体 の危機につながる。それに加えて、現在の若者は伝統的な文化に対しても、 伝統文化離れの傾向にある。﹁若者の後継者なし﹂の嘆きは、伝統工芸の領 域では深刻である。その点沖縄に関していえば、離島をのぞき本島各地で は、多くの若者が伝統工芸に取り組んでいる姿を目にした。このように青 年の力がまだ、この地域に生きているということである。 青年ふるさとエイサ l 祭りは、その代表的なものである。筆者らも、当 日(八月二十六日)奥武山総合運動公園で発見学した。夕方とはいえ、ま ぶしく暑い中で若者のエネルギーは沸騰した。青年たちの勇壮と、踊りの 猛々しさに圧倒された。全島の獅舞フェスティバルにしても、青年を中心 とする伝統の舞で、 その雄々しさは地域文化振興、 ム ラ J つくりのエネル ギーを感じさせた。ム フ ク “ ロ 12.45 1.00 1. 20 1.30 識名老人センタ一民踊教室 浦添市民踊愛好会 あゆみ民踊会、名護市老人かりゅしクラブ 中部地区高齢者民踊研究会、嘉手納町老人クラブ、名護ら んクラブ 東風平町民踊愛好会、沖縄市老人クラブ連合会 那覇民踊かりゆし会、南風原町字津嘉山長寿会民踊 室川老人センタ一民踊教室 西原町老人レクサークノレ 那覇市末吉老人福祉センター 出 演 琉 球 島 唄 協 会 2.00 5 長寿音頭 6 かりゆし雨小 7 島造い 8. 汗水節 9 だんじゆかりゆし O島唄・民謡コ ナー (3) 一般の部 1.繁昌節・白保節 胡屋民踊愛好会、与儀レクレーションクラブ、上問民蹄愛 好会 浦添市農協婦人部 佐敷町婦人会民踊クラブ、大宜場村民踊愛好会、沖縄市セ ンタ一民踊愛好会、若草民踊愛好会、豊見城村婦人会 識名民踊愛好会、石田民踊愛好会、寄宮民踊サークル、国 頭地区民踊研究会 沖縄県フォークダンス連盟 安里民踊愛好会・与儀公園おはよう会、名護市うらわ民踊 愛好会、与那原町民踊愛好会 国領村みどり会、首里地区民踊サークノレ、枕志民踊会 神原民踊会、南風原町民踊レク愛好会、玉城村民踊愛好会 本部町民踊愛好会、青葉民踊愛好会、石川市民踊愛好会、 さくら民踊会 仲井真民踊愛好会、浦添市民踊愛好会、宜野湾市レク愛好 メ込 コ'" O岩国音頭 沖縄県民踊研究会 10.繁昌節・白保節 那覇市婦人団体民踊研究会 11.国頭サパクイ 西原町民蹄愛好会 12.パーランクー 中頭地区民踊団体連絡協議会 。島唄・民謡コ ナー 沖縄民謡協会〔湧川明と北谷研究所) 5.50 一一一一一民踊総おどり (多目的広場) 第一部 0 1みんなで踊ろうJ..全員 0島唄・民謡コーナー 出演 。新曲民踊紹介 。「たのしく照ろう」音曲・地謡民認鷺組 。島唄・民謡コーナー 出演琉球民謡保存会 0 1みんなで踊ろうJ…全員 フィナーレ 2.パラダイスうるま島 3 芋の時代 3.30 3.40 ふ も ム ﹂ 4 b ム ﹂ 、 このエイサ 1 は何に起源をもつのだろうか、あれほど現在も たらしい。その意味で、豊年祈願と密接な関係がありそうだという考察に プ オープニング「黒潮太鼓」 開会式 民踊総おどり「祝い節J1めでたい節j (1)少年少女の部 l パーランクー 商原町子ども会民踊愛好会73人 2 豊年音頭 名護杉の子保育園 3. 子どもエイサ一 糸満市子ども会育成連絡協議会 4. パーランクー 伊波小ふるさと子ども会 。島唄・民謡コーナー 出演上原政雄と黒潮太鼓 O祝賀の舞沖縄県民踊研究会 (2)高齢者の部 1.島造い 2.長寿音頭 3 七 月 で び る 4. 島造い 沖縄文化の危機と変容 多くの部落でのウンジャミ・シヌグの目、 盛んに行われているにもかかわらず、その起源はさだかではない。わずか ( お ) な文献具志堅要氏の﹁エイサ l 幻想﹂考をみてもはっきりしない。山原の 4. 七月エイサ 6 稲しり節 7 十七八節 8.パラダイスうるま島 9.伊計はなり節 宜野湾支部 琉球民謡協会 第二部 第三部 。フォークダンス 5. 八重山音頭 とどまっている。それが現在では、 ムラの生活の行事を離れて全島エイ つまり古代の年越しの祭りにあ サ l 大会(青年ふるさとエイサ 1 祭り)に変化してきている。いずれにし たる日に、収穫の感謝と新しい年への祈りの翌日にこのエイサ l が踊られ て も 、 エ イ サ l は伝統文化の危機を乗り越えて、変容しつつも現代の若者 の中にたくましく生きつ寸つけているのである。 五 九
沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 ) η ペ υ ( 伝統芸能祭と芸能外交 一 九 九
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年度沖縄タイムス芸術選賞選抜芸能祭(主催・沖縄タイムス 社、協賛・沖縄芸能協会、琉球放送、 NHK 沖縄放送局)は、伝統芸能の 最高位をめざす本格的な芸能祭りの一つである。古典音楽斉唱や独唱、舞 踊や組踊といった演目に、各界のベテランたちがいどんだ。今年度は、全 県規模で大きな芸能公演が行われた後だけに、これまでにない盛況ぶりで あった。十月二十七日から四日間聞かれたこの芸能祭は、琉球の伝統芸能 の粋を極めるもので、本年度の選考会では過去最高の延千人の出演者が腕 を競った。入賞者の数も、過去最高を記録している。 毎年恒例になっているこの行事は、伝統文化の継承と発展に大きな役割 をはたしてきた。世界のウチナlンチュ大会の芸能祭の迫力は、そうした ベテランの芸能家たちが本領を発揮した結果でもあった。 九0
年度の沖縄芸能界は、それにふさわしい年であった。琉舞玉城流の 始祖、沖縄芝居の偉大な先達、玉城盛義生誕百年を迎え、生誕百年祭(十 一一月八日)が盛大に行われた。流派を超えて、多くの芸能家が出演し盛義 師の功績をたたえている。 このように、盛況だった伝統芸能は、今日広く海外にまで波及した。九O
年は、海を越えて諸外国とも文化交流をはかつていく、︿芸能外交﹀の 時代に入ったといえよう。タイムス紙は、﹁琉球舞踊花、ざかり 海外、本土 公演相次ぐ﹂の見出しで次のようにふれている。 ﹁芸術の秋を迎えているせいか、沖縄の伝統芸能の一つ、琉球舞踊の公演 ラッシュが続いている。それも、県内ではなく本土や海外での公演とあっ 六O
て、関係者はうれしい悲鳴。十月から十一月にかけて主な公演だけでも九 つ を 数 え 、 そのうち海外公演は三つ。すでに終わった二つのヨーロッパ公 演では予想以上の好評を博し、本土公演も盛況とあって、﹁沖縄の伝統芸能 に対する理解と関心が高まっている﹄と実演家。沖縄の伝統芸能が世界の ( お ) 舞台に羽ばたこうとしている。﹂ 外務省依頼の文化使節としてヨーロッパ公演を行ったのは﹁沖縄舞踊 団﹂(玉城正保団長、十月) で 、 チ ェ コ 、 ドイツ、イタリア、ポルトガル、 スペインの五ヶ国九都市で公漬。芸術に対して厳しい評価を下すといわれ ているミラノ公演では、 一時間前から観客が詰め掛け、立ち見客も出るほ どの盛況だったという。 また、在仏日本大使館主催の日本総合紹介週間に出演した﹁琉舞フラン ス公演団 L ( 川島博団長以下六十人)も十月に公演したが、副団長の棚原忠 徳氏は、公演をふりかえって次のように語っている。 ﹁開演三十分前には一千人の客席が満ぱい。閉幕は、師匠六人によるかぎ やで風。王朝時代の古典舞踊、明治、大正の雑踊、 そして最近の創作舞に 至るまでバラエティーにとんだ十三番、 二時間のプログラムは満席の観衆 に感動を与えることができた。最後のカ i 一 ア ン コ ー ル は カ チ ャ l シ l で 、 観衆と共に舞台いっぱい、留まるところ知らず次から次へと長時間に渡っ て交流が続けられた。終了後、市役所とオディシュッド劇場主催による パーティーが聞かれ、多くの方々に会い、好評を聞くことができた。館長 のロング氏はお世辞ぬきにして話したいと前置きして﹃こんな素晴らしい 日本代表ということで日舞の感覚しかなかったが全く 芸能を初めて見た。 違う。完成された音楽、舞踊、 それに美しい衣装と三拍子そろった芸能は( 却 ) 素晴らしい﹄とベタ褒めだった。 L そ の 他 に 、 ハワイ移民九十周年記念行事に参加した野村流合同協議会の ハワイ芸能公演(玉城宗吉団長)が十二月二日、 ハワイ沖縄センターで開 かれた。沖縄側から二百人あまり、 ハワイ支部から六十人と、約三百人の 実演家が集う大祝賀公演は盛況の内に終わっている。 一方本土公演については、まさに公演-ブッシュである。舞踊研究所独自 の公演から、各種の芸術祭や祭りに招かれた公演などさまざまであった。 沖縄の伝統芸能は今、引っぱりだこの状況だという。そういえば、﹁この一 ( 初 ) 年の主な公演﹂として行われた芸能公演の数は、タイムス紙の芸能の一 ページ全部をうめつくすほどのいきおいであった。 このように、本土や諸外国で関心を集めブ 1 ムになることは、沖縄に とって歓迎すべきことではあるが、しかしイベント産業が伸し上がってき ている今日、ブlムに乗ってこれらのイベント業者にたくみに利用されか ねない点は要注意である。営利の波に琉球伝統芸能が呑み込まれないよう に、厳しくみつめなおす必要があろう。リゾートの二の舞をふまないため に も 。 玉、沖縄文化研究の動向 ) -( 琉球文化の保存と継承 沖縄には県立博物館をはじめ、市町村レベルの郷土の種々の博物館があ る。図書館関係も含めると、数多くの琉球文化関係の諸施設ができている が、近年さらに郷土の文化の保存活動が活発化し、 それらの諸施設が次々 と建てられている。 沖 縄 文 化 の 危 機 と 変 容 九
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年にかぎってみても、新聞紙上でニュースになったものだけとって みても、数多くの諸施設がつくられた。世界のウチナ!ンチュ大会場に なった沖縄コンベンションセンターの劇場棟、展示棟を含む諸施設は、 いってみれば沖縄文化行事のセンターというべき施設である。その他に、 那覇市東町に、﹁沖縄県立郷土劇場しも十一月に落成した。 市町村レベルでは、前述した浦添市の文化施設や歴史文献資料室の開 設。八重山では、石垣市立図書館の新装(十月六日)、八重山関係の資料を 含めて七万冊をそろえた。 さらに今後の可能性としては、﹁沖縄海の博物館﹂の建設の動き、﹁県立 自然史博物館﹂の設立など具体的運動が展開されている。 このように、郷土文化関係の諸施設が完成することは、郷土の文化の保 存にとってよろこばしいことである。しかし反面、﹁古くなった物は博物館 行き﹂の言葉のように、文化が現実の生活と共存しえず、保護・保存され るということは一面さびしい気はしないでもない。リゾート開発や激動の 時代にあって、保存しておかねばたいへんだという危機意識、また自らの 伝統文化の尊厳という立場からも、今文化の保存運動が島に波及してい る こうした時に符号して、戦後沖縄の文化復興に尽くした元米軍政府文教 部長ウィラ i ド ・ A-ハンナ博士が、三十五年ぶり五月二十六日に来県し た 。 氏 は 、 一九四五年四月から四六年十月まで沖縄に滞在、沖縄文教学校 や沖縄陳列館(のちの東恩納博物館)の設立、松・竹・梅の官営劇団(沖 縄芝居)の復活など、戦後沖縄の教育、文化の復興に尽力した。教育文化 面で現在の沖縄の基礎マつくりに貢献した H 歴史の証人 μ である。戦後の沖 ~ ノ¥沖縄文化の危機と変容 縄文化のルネッサンスに火をともしたのが、 ハンナ博士であるといってよ い だ ろ う 。 ﹁ ょ う こ そ 、 お 久 し ぶ り : : : ﹂ の 記 事 ( 五 月 二 十 七 日 ) が 一 不 す よ うに、歓迎ぷりはなつかしさにあふれでいた。連日紙面を使って講演、イ ンタビュー、座談会、訪問等の様子を伝えている。沖縄の歴史のうねりの 時 期 に 、 ハンナ博士の来県は、何か不思議な縁を感じさせるものである。 その他に、もう一つ特筆すべきことがある。それは、歴史の記録の動き である。自分たちの生まれ育ったムラについて、今のうちに書き残してお こうという運動が、特に字レベルで行われており、まさに字史ブ l ム で あ る。字誌を自分たちの手で、自分たちの時代、 ムラの生活を後生に残し伝 えるという、住民による住民のための字史運動は、筆者の知るかぎりでは 本土には例をみない。この動きは、今後注目すべき歴史・文化運動だと い っ て よ い だ ろ う 。 ) 2 ( 学会での沖縄文化研究 九
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年はまた、沖縄文化に関する学会が多く開催された年でもある。そ の主なものを上げると、沖縄民芸運動五十周年記念日本民芸夏季学校(五 月二十五1
二十七日)、第三回全国風水研究者会議(十月二i
四 日 ) 、 第 四 十二回日本民俗学会(十月六1
八 日 ) 、 日中医学国際会議(十一月二十五 日 ) 等 で あ る 。 日本民芸夏期学校は、今年が沖縄民芸五十周年を迎えるとあって、関係 者は力を入れ現地の新聞等も大きく取り上げている。﹁沖縄の民芸五十年 の 歩 み ﹂ ( 沖 縄 民 芸 協 会 長 ・ 平 良 邦 夫 ) 、 ﹁ 沖 縄 工 芸 の 行 方 ﹂ ( 標 点 ) な ど で 、 沖縄民芸の五十年をふりかえっている。 ノ¥ 民芸運動のリーダー、柳宗悦が﹁美の浄土・沖縄﹂を発見してから五十 年になる。一九三八年、沖縄県学務部の招きではじめて来県、沖縄の工芸、 文化に﹁民芸﹂の真価が息づいているのを発見した。その驚きを柳は当時、 書いた﹁琉球の富﹂に記した。柳の沖縄文化への讃歌は工芸のみにとどま らず、建築、音楽、舞踊にも及んだ。 その後沖縄民芸の足跡は、戦後昭和三十七年に沖縄民芸協会を結成し、 三十九年四月第十八回全国民芸大会を開催している。前者の協会結成の時 には、バーナード・リ l チ氏を英国から迎えてひらかれた。バーナード氏 は、沖縄の民芸にいたく感動している。 このように、沖縄民芸は高い評価を受けて発展してきたが、今日沖縄の 民芸についていろいろと問題を残している。復帰後の本土文化の流入で、 人も物も w 本土の顔 μ が増えてきたといわれる。こうした中で、かつての 民 芸 ブ l ム は 終 息 し 、 カビ臭いものになりつつあるが、民芸の精神である 文化の固有性をどう踏みとどまらせるかが課題である。柳の﹁沖縄の美﹂ から半世紀たった今、経済の流れ、イズムの枠組みを超えた自在な展開も 必 要 で あ ろ う 。 全国風水研究者会議は、今後の沖縄文化研究の新しい方向をひらくもの と し て 注 目 さ れ た 。 アジアに息づく H 風水 μ は 、 自 然 、 と の の 曲 宣 か H 共生 μ さを浮かび上がらせているが、 日本では特に沖縄が色濃く伝えられている ことから、園内における風水研究のメッカとされ、前回に引き続き県内で の開催となったのである。 ( 川 叫 ) 渡遺欣雄氏は、﹁風水思想と東アジア﹂と題して、五回にわたり新聞紙上 に 掲 載 し て い る が 、 氏はこう語っている。っそう。アジア(東アジア・東南アジア)各地は、今︿風水﹀ブ l ム だ と いうことだ。わが国だけは例外かというと、決してそうではない。日本語 による八風水﹀関係の著書・論文は、実用書を除いても知るだけで二百七 十近くに達しているのだが、最近とみに発表報告が増えている。群を抜い ているのが、沖縄関係の論文であることは特筆すべきである。﹂といってい る。風水研究を﹁生活者の主観﹂からとらえようと主張する氏は、 そ の こ とについて次のように述べている。 ﹁いまなぜわれわれが︿風水﹀の生活習慣に注目しようとしているか。 いま学会全体は、学問内容に﹃生活者の主観﹄をとり戻そうとする全体的 な動きがあるということだ。どういうことかというと、人びとの生きてい た時代、生きている地域を問わず、学者の主義・主張から世の現象を客観 的に分析するのではなく、生活している人間の考えかたや観かたから世界 を見つめ直してみよう、ということである﹂と。 こうした風水研究は、八十年代から再評価されてきているといわれる。 リゾート開発による自然破壊、聖域崩壊の波が押し寄せている今日、風水 研究は H 自然との共生 μ という点から重要な意味をもっているのではなか ろ う か 。 この研究者会議と同じ月に、第四十二回日本民俗学会沖縄大会が開催さ れた。新聞も、﹁アジアを視野に研究﹂という大見出しで、 一面全体を民俗 学会の記事にあてるほどの力の入れようである。今大会は、柳田園男の最 初の沖縄訪問(一九二一年)から数えてちょうど七十周年にあたるという。 沖縄学の歴史からいうと、意義深い九