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(最終講義)人文学的にみたらい患者

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Academic year: 2021

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66 最終講義

〔書女医蕪.5鋳62巻平謙蒲〕

人文学的にみたらい患者

   皮膚科学 ヒ   ダ   ノ     アキラ

肥 田 野   信

(受付平成4年3月10日)  らいはきわめて慢性に経過する疾患である上, 顔面や手など目につきやすい部位の皮膚病変や変 形をきたす結果,外見を損うことが甚しいために, らい患者は医学的問題と並んでさまざまな人文学 的側面を備えている.これが他の疾患患者と根本 的に異なるユニークな点である.  1.聖書の中のらい  「旧約聖書」には,ところどころらいの患者に ついて述べられている1).聖書に出てくるらいが どのような病気であったのか,症状の記載が乏し いのでその実態は明らかでなく,見解は分かれて おり,一部の人は真のらいであったとみなしてい る.しかし,らいと無関係な疾患,例えば乾癬, 白斑,真菌症であろうという見解が今日では最も 有力である.第三の立場は,らいを含む種々の慢 性皮膚疾患を指すとみなすものである.かゆみは ないらしいので,疵癬は恐らく含まれないであろ う.梅毒が含まれていたかどうかは,梅毒が新世 界由来であったとする考えを認めるならぽ否定さ れる.しかし聖書時代から旧世界に梅毒が存在し ていたとする考えもないではない,結局,らいと 記された疾患は,乾癬または白斑が少なくとも大 部分を占めると考えてよいのではないだろうか.  2.歴史の中のらい患者  らいはまずインドに始まったらしい.「マヌ法 典」(1300∼1500BC)の中にをま,種々の皮膚病と混 ざって,恐らくらいと考えてよいような疾患が記 されているという2).中国では紀元前6世紀の周 時代の文書にらいと思われる疾患が記載されてい るといわれる.「諸病源修論」(610)や「千金翼方」 にはらいの詳細な記述があるという.  2世紀頃にはヨーロッパでも,らい患者の詳し い記載がなされており,Araetus(150AD頃)の 著作には,elephantiasi6の名で記載されている. らいがヨーロッパに広がったのは,アレキサン ダー大王の東方遠征の後であろうと考えられてお り,その後徐々に増加して,ヨーロッパでは10世 紀以後にピークに達したとみえ,イギリス,フラ ンス,その他の国で何百,何千という1azar house が建てられた.ただし,患者の中にはらいではな く手足の変形を伴う慢性の皮膚疾患がいくつか含 まれており,すべてがらいであったとはいえない.  中世におけるらい患者に関する認識は,偏見に 満ちたものであり,先祖または本人の罪の結果と 考えられ,かつ不潔で危険な人とみなされた.従っ て,社会的接触は厳しく禁じられ,家族との同居 は許されず,結婚もできなかった.患者は黒いベー ルで包まれSeparatio lepros㎜という葬儀に類 した宗教的儀式を受けたのち隔離された.図に示 すように,木片を組み合わせたガラガラのような もの(Klapper,一種のカスタネット)を常に持っ て歩くことを義務づけられ,その音を聞くと町の 人々は戸を締めて患者の行き過ぎるのを待った. 一部の人からほどこしで与えられた食べ物を食 べ,町から離れた橋の下などに住んでいた.こう して,ならずものの集団にも似た一種の放浪集団 Akira HIDANO〔Department of Dermatology, Tokyo Women’s Medical College〕:Humanistic aspect of leprosy patient 一584一

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67 図Klapperを持…つた中世ヨーロッパのらい患者の  服装3) が作られていった.  十字軍に出征した兵士が帰ってくると,らい患 者も増加していったが,その頃からカトリック教 会のらい患者に対する認識が変化をみせてきた. らいは神聖な病気であり,らい患者の世話をする ことは尊い行為である,病者への接吻は最高の慈 愛に属する所為といえる,というようなものであ る.教会の力により多くのlazarettoが病者のた めに建てられていった.その故もあってか,14世 紀以後にはらい患者はヨーロッパの中心では減少 してゆき,19世紀になるとノルウェーのほか,い くつかの局所的流行地を残してヨーロッパでは稀 となっていった.  3.美術とらい患者  紀元前15世紀頃のエジプトAmenophis 3世寺 院には,粘土の水差しが残っている.これは頭部 を表した壷だが,顔面は腫脹したように見え,目 は閉じて盲目を思わせ,らい性の獅子様顔貌とみ なす人もいるがもとより確証はない2).ヨーロッ パでは,中世からルネサンス期にかけらい患者を 描いた絵は少なくない3).ジオット派,ロヅセリ ニ,ボッティチェリ,ホルバイソ,クラナハ,デュー ラー,ブリューゲル,レンブラント,ルーペンス など,枚挙にいとまがない.らい患者ではないか とされる理由は,皮膚が皮疹で覆われていること と,手足の変形や筋萎縮の描かれているためであ る.一方,らい患者に尽した代表的な人物として, ハンガリーの聖エリザベスがある.彼女はアンド レア王(1207∼1231年)の娘であるが,患者の足 を洗うなどして同情を示したとされる.また,イ スタンブールやシチリア島(モンレアーレ)のモ ザイクにもらい患者と思われるものが描かれてい る.  4.社会とらい患者  聖書時代かららい患者は忌み嫌われて,人々か ら隔てられるように扱われていた.これは中世ま で続き,らい患者はユダヤ人とならんで社会のス ケープゴートとしてしぼしぼ迫害にあった.狭い ところで多数の人が生活し,貧しく,、衛生状態も 悪ければ感染の危険はさらに大とならざるをえな い.自然,犯罪に走る人も多かったであろう.日 本語での「かたい」(片居)やドイツ語のAussatz はらい者の社会的地位を示している.英語ではら い患者をleperと呼んでいたが,1950年代から差 別用語であるとして廃され,leprosy patientと呼 ぶようになっている.  日本では各地に社会・家族から駆逐されたらい 患者が浮浪者集団のように集まり,自然に部落を 形成するようになった.群馬県の草津温泉や熊本 市の本妙寺門前がその例である.明治時代ヨー ロッパから来たキリスト教の聖職者たちは,その ような浮浪者集団を見て驚き,テストウィド神父 は御殿場に,リゲル女史は熊本や草津にらい病院 を造った.この情勢をみて政府もまず公立,つい で1930年以後次々と国立療養所を建てるに至っ た.しかしなお,らいに対する社会の偏見は著し く,疑いをおかれた患者は,良い家庭では座敷牢 に閉じ込められ外部との折衝を一切断ち切られた 生活を,死ぬまで送らされた.家族かららい患者 が出たという噂が流れることを極度に恐れたから である.国立療養所が各所に造られた頃,療養所 の大きな仕事は,そのような隠れた患者を探し求 めて本人や家族を説得し,療養所に収容して治療 を受けさせることであった.その様子は,小川正 子の「小島の春」などに生き生きと描かれている.  らい菌の発見(1874年)以来,らいが悪徳や遺 伝ではなく,らい菌という抗酸菌によることが広 一585一

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68 く知られるようになったが,反面,感染力の強い 恐ろしい伝染病であるとの考えが流布するに至っ た.過去の療養所における厳重すぎる消毒,患者 居住区の隔離などは,そのような誤解を増強した といえなくもない.  化学療法の発達によって,らいは治癒し得る疾 患になった.しかし,らい予防法が現存する本邦 では,らい患者の扱いは,基本的にはらいが不治 であった時代と大きな違いがない.すなわち,隔 離を原則とし,一旦らいと診断されて隔離されれ ぽ容易に社会に復帰できないというシステムであ る.戦後,人権意識の進展により,このような現 状に対する患者達の不満は著しく高まった.現に, らい予防法の改善を望む声は療養所では高いが, 現在のところ法の改正は日の目を見ていない.一 方,諸外国ではらい療養所は重症な患者のみを収 容する病院と変わり,原則として患者は外来通院 によって治療されている.ことにらい流行地では, 医師またはパラメジカルワーカーの巡回診療によ る投薬が広く行われるようになっている.  5.文学とらい患者  ルネサンス期において,らい患者がしぼしぼ登 場していた美術と異なり,文学作品の中にらい患 者が登場するのは近代になってからである.戯曲 では,19世紀のアンリ・バタイユによる「La16− preuse」,20世紀には同じくフランスでフランソ ワ・モーリアックの「Le baiser au l6preux」や ポール・クローデルの「L’annonce faite a Marie」 がある.これらの中でらい患者は差別されたもの, そしてそれに対する奉仕は神聖な行為であり,ら い者につくす者が救われるというようなすじが多 い.三島由起夫の「癩王のテラス」(戯曲)は,カ ンボジアのよく知られた伝説に基づくものであ る.一方,らい療養所内における文学活動も盛ん で,特に詩歌のグループは各療養所に多い.らい 患者による作品としては北條民雄の「いのちの初 夜」が知られている.また,医師による作品も幾 つかあり,「小島の春」はその最:もよく知られたも のであろう.  6.至誠会員とらい患者  至誠会員には,らいに関心をもち,らい患者の 表 らい診療に従事した至誠会員 大正3 大正4 大正9 大正1! 大正12 大正13 大正15 昭和3 昭和4 服部 ケサ 田中 逸野 西原ツボミ 大政みよし 三宅 美登 梅川ちよの 芝 入重子 五十嵐まさ 松田 なみ 横川 つる 井上 テイ 小川 正子 林 富美子 名和 千嘉 渡辺 芳子 昭和7 昭和10 昭和13 昭和14 昭和16 昭和18 昭和19 昭和24 昭和26 高橋 竹代 高野 桑子 竹下  芳 永井  深 岡村 和子 榎本 てい 板倉 和子 横田百合子 田  豊子 神谷美恵子 安藤智恵子 湯川  智 鈴木 道子 診療に従事した人達が少なくない.筆者は1990年 にこの人達の記録をまとめて「コスモスの花陰で」 という書にした4).その中に取り上げられた至誠 会員は,表の各氏である.昭和3∼4年頃の卒業 生に特に多い理由は,日本基督教二二ケ谷教会に おける金井為一郎牧師の影響と思われる.多くの 学生が同教会での伝導集会におもむいて師から患 者への奉仕の情熱を授けられたものであった.  服部ケサ氏は,大正6年草津に赴き,湯の沢部 落に集まるらい患者達の診療に従事する傍ら,付 近住民の治療にも尽くし,分娩に立ち会い,死に かけた小児をみとったり,重症患者の往診に赴い たりなど,過労の日々を送った.もともと心臓を 煩っていた氏は,大正13年40歳の若さで亡くなっ た.  松田なみ氏は九州各地のらい療養所に勤務した 後,昭和13年から沖縄本島の國頭愛楽園に赴任し た.昭和20年春の米軍沖縄攻撃の際には,愛楽園 も破壊しつくされ患者も散り散りばらぼらとなっ たが,その中で7人の看護婦と共に踏みとどまり, 日本軍の降伏後も米軍人と折衝して愛楽園の復興 につとめた.  小川正子氏は,昭和4年卒業後昭和7年から長島 愛生園に勤務し光田健輔園長の勧めによって,瀬 戸内各地の検診紀行を「小島の春」という書にま とめた.和歌もよくし,ショッキングな内容を持っ た名文はたちまちベストセラーとなり,のち映画 一586一

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69 化もされた.昭和18年,40歳前の若さで肺結核の ため亡くなったが,最近,出身地の山梨県春日居 に町立の記念館が建った.  林富美子氏は,卒業後多摩全生園の医師となり, ついで長島愛生園に転勤し戦後は御殿場の復生病 院に長らく勤務した.現在80歳を過ぎた高齢なが らなお,韓国救らい事業につとめている.  神谷美恵子氏は津田英学塾を卒業後本学に編入 学し,昭和19年卒業後東大,ついで阪大の精神科 に勤めた.神戸女学院で英文学,仏文学の教鞭を 執る傍ら,精神科嘱託としてらい患者の精神医学 的分析と心理的なサポートをなしつつ書かれた多 くの文章は,神谷美恵子著作集として残されてい る.らい患者に対する同情,不治の病に立ち向っ てたたかう人への尊敬など,当時の卒業生の心情 は以下の文章からもくみとれよう5).  『当時の愛生園の状況は,たしかに地獄を連想 させるものがあった.まだらいの治療法もほとん どなく,戦時中のこととて,二千人余の患者さん たちは栄養失調である上,むりな畑しごとなどを しなければならなかった.らいは悪化の一路をた どり,ほとんど毎日のように死亡者が出た.  いまの長島はすっかり変っている.その変りか たはあまりにも複雑で,ひとことでは説明もでき ない.この変化の最大の原因は医学的なものであ る.1941年,米国のカーヴィルにある国立らい病 院で,極めて有効な治らい薬が開発され,戦後日 本にも導入されたのである.らいは治りうる病と なり,現に治って社会復帰をして行った患者さん は何人もいる.園内の高校を卒業して,大学に進 学した人もある.入園者の大部分も菌を排出しな い状態になっているから,外出しても,他人に病 をうつす恐れもな:い.  それにもかかわらず,いまなお各療養所には, 戦前から発病したための後遺症で肢体不自由に なっている人がたくさんいる.盲人は2割以上, 下肢を切断した人,指のない人など,何人もいる. こういう人たちの前に立つとき,すわるとき,い まなお時どき,突如として心に響いてくるのはあ のことぽなのだ. なぜ私たちではなくてあなたが? あなたは代って下さったのだ  べつに理屈ではない.ただ,あまりにもむざん な姿に接するとき,心のどこかが切なさと申訳な さで一杯になる.おそらくこれは医師としての, また人間としての,原体験のようなものなのだろ うか.心の病にせよ,からだの病にせよ,すべて 病んでいる人に対する,この負い目の感情は,一 生つきまとってはなれないのかも知れない.』  本稿は最終講義「らい患者」の後半を丁丁したもの である,       (1992年3月7日,於弥生記念講堂)          文  献  1)Epstein W:旧約聖書の医学.時空出版,東京   (1990)  2)Cochrane RG:The history of leprosy and its   spread throughout the world.肋Leprosy in   Theory and Practice(Cochrane RG, Davey TF   eds)John Wright&Sons, Bristol(1964)  3)Gron K:Lepra in Literature und Kunst.伽   Jadassohn’s Handbuch fur Haut・u。 Geschlecht−   skrht。 X12, Springer, Berlin(1930)  4)東京女子医大皮膚科学教室編:コスモスの花蔭   で.らい医学にたずさわった女医達の記録(1990)  5)神谷美恵子:神谷美恵子著作集2 人間をみつめ   て.p133,みすず書房,東京(1981) 一587一

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