『図録 東洋大学100年』の編纂過程と課題
著者名(日)
比嘉 佑典
雑誌名
東洋大学史紀要
号
6
ページ
213-241
発行年
1988
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002583/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja報 告
﹃図録東洋大学
OO年﹄の編纂経過と課題
比
嘉
佑
曲
ノ、プロローグ
一213一 図録の思い出を三つ。 新潟税関の写真︵図録七頁︶。実はあの絵の後ろには、山内と比嘉がかくれている。あの絵は、幅三メートルほ どもあり、新潟市郷土資料館の館長と三人で、展示されている壁からおろし中庭に移し、それをささえて撮影し たのである。その日は、小雨の合間をぬっての撮影だった。懐しく思う。 二つには、大正期の女子学生の写真︵図録四四頁のー︶。本学が女子教育の先駆だといっても、あの写真がそれ だと確認するのにひと苦労した。生存者はほとんどいない、いても病気療養中で不可能。ほうぼう尋ねたがわからない。ところが、ある日写真の人物のひとりが突然編纂室に現われたのである。﹁あら、これが私よ、なつかし いわね。﹂の一言でいっぺんに解決。実はその女性は花崎貞さん︵大正一四年専倫東卒︶、﹁曙会﹂で活躍した女性 だったのである。当日は、栗山津禰さん︵図録四五頁︶の命日で、毎年その日は、生存者が東洋大学に集まり、 曙会を偲んでいるとのことであった。当日は、三人であったが女子教育・曙会の根強さに、あらためて心をうた れた次第。 三つめは、今でも残念に思うこと。それは、文化学科と社会事業科の新設学科披露会らしきものと思われるり っぱな写真である。これがわかれば、その頁はみごとに描かれたのだが、その確認にさんざん苦労した。やっと のことで、披露会出席者の一人の生存を確認、連絡をとる間も無く病気で入院、亡くなられたのでその写真を確 定できず掲載できなかったことは、いまだに惜しまれてならない。 図録にとっての生命は、本学の歴史︵出来事︶をあらわす写真・文書など視覚にうったえる資料があるかどう かである。写真がないために、歴史的に重要な部分が表現できなかったことがいくつかあり、残念である。
図録編纂の経過
た゜昭
和 五 七 年 六 月 東洋大学創立一〇〇年史編纂委員会が発足、その後﹁図録 ○○年小史﹂の刊行が決定され 214昭和五九年七月、図録一〇〇年小史部会設置準備委員会が設けられ、図録の基本的な要綱について検討を開始 するとともに部会設置に着手、同年一二月に図録↓○○年小史部会が発足した。 一方、六〇年五月創立一〇〇年史編纂室体制が整い、各担当者が決定。図録担当者︵比嘉︶を置いて、部会と 編纂室との討議が進められ、その結果をふまえ実務的作業が編纂室で行われた。図録作成までの一連の経過は、 資料一の通りである。 まず、一〇〇年小史部会で、﹁図録一〇〇年小史作成要綱﹂が検討され、図録作成の目的、内容、編集方針が決 められた。それが、六〇年五月の一〇〇年史編纂委員会で承認︵一部保留︶され、それを受けて、編纂室で具体 的な作業が進められた。 編纂室では、部会の出した作成要綱をさらに検討し、全体の構成、内容の項目等をまとめ、六〇年一二月の一 〇〇年史編纂委員会で最終的な図録の内容が承認され、図録作成に着手したのである。 図録作成の手順について、次の順序で述べたいと思う。 図録の目的と全体の構成 図録の章・項目立ての検討 写真・資料の収集と写真の撮影・複写 図録作成の作業過程 215
図録の目的と全体の構成 図録部会が出した図録作成の目的と内容は、資料二の通りである。 こうした目的・内容を、一〇〇年の歴史の中で全体としてどのように構成するのか、これが大きな課題であっ た。つまり、図録を単なる記念の写真集として扱うか、それとも大学の一〇〇年の歴史をつづったものにするの か、という議論の結果、図録といえども一〇〇年の歴史を浮き彫りにすることが重要であり、その流れ︵構成︶ は﹁通史編との整合性をもたせる﹂という方針で作成することになった。 ところが、こまったことにはその通史編がまだ出来ていない。そうすると整合性を何にもとめるか、議論のわ いたところである。 こまりはてた結果、﹁五十年史﹂と﹁八十年史﹂を参考に全体の流れを考えてみたが、それでは不充分であり、 結局、東洋大学史紀要2の百年史年表︵稿︶にそって全体構成を考えてみた。ところが、その年表自体も問題が あるというので、具体的資料と突き合わせてみる作業の必要がでてきた。そして、資料を一点一点めくりなおし て、そこからどのような流れ︵大学史︶が取り出せるかということになった。 この膨大な資料めくりと整理作業に、六〇年五月から六一年四月までの時間をついやしたのである。 図録の章・項目立ての検討 こうして資料をめくった結果、一〇〇年の歴史の時代区分をし、章を立ててみた。その時代区分をめぐって、 議論になったのはいうまでもない。さらに、章の内容を検討整理して項目を立ててみた。こうして、ひととおり 216
全体の骨組ができあがった。 資料めくりから設計図づくりまで、図録担当者の仕事とあって、このために約一年間忙殺された。やっと出来 あがった設計図︵骨組︶をもって、編纂室会議にのぞんだところ、議論百出。設計を手直しすること数回、やっ とのことで、全員の合意にもとつく設計図ができあがった。 全体計画図ができて安心したのもつかの間、設計図自体﹁絵に画いた餅﹂で、具体的に写真等の資料と突き合 わせて作業を展開していく過程で、肝心の写真等の資料がないため、カットせざるをえない項目が続出して、設 計図は骨抜きとなり、修正をよぎなくされた。 修正につぐ修正の編纂室会議の結果、六一年七月の合宿において、写真、文書、記事、その他の資料を各項目 ごとに並べ、それらを全体の流れの中で再検討し、修正して骨子を作り上げた。 その後、不足資料を補い、会議の注文を組み込み、再度の編纂室会議の検討の結果最終案がまとまり、六一年 一二月二一二日の創立一〇〇年史編纂委員会で最終的な承認を得たのである。そのさい、図録編集の方針・基本事 項について、次のことがらを留意して作成することを決めた。 ①学祖の建学の精神︵理念・教育︶を基本的に図録に反映させる。 ②本学の歴史を民衆の大学史ととらえ、偉人や社会的に活躍した著名人を特に取り上げることはせず、庶民の 歴史として表現する。 ③人物を扱う場合、基本的には学長・理事長、および本学創設に寄与した人物を取り上げる。そのさい、個人 一217一
の業績よりも本学ではたした役割を重視する。 ④あくまで通史的に描くため、諸問題や事件等もさけて通らず、入手できた限りで、それぞれの立場からの資 料を配置して表現する。 ⑤各章の扉にはその時代の代表的な写真などを入れ、章間の流れを中断せず連続性をもたせるように工夫する。 ⑥写真等の資料は歴史的にも価値あるものを掲載し、索引をつけ検索しやすいようにするとともに、略年表に 掲載資料番号をつけて参照年表にし、年表と合わせて理解できるようにする。 ⑦人物や建物の写真は、動きのあるもの、立体的なものをとり一〇〇年を動的に展開するように工夫する。学 生不在の建物・教室や、静止・整列の写真はなるべくさける。 ⑧写真等の資料のキャプションは、私情や評価等をなるべくさけ、客観的に表記し、できるだけ写真等の資料 そのものに語らせるように工夫する。 ⑨レイアウトは編纂室で専従者をつけて行い、編纂室の意向通りに制作できるようにする。 ⑩図録全頁を本文扱いとし、同質の用紙を使用する。 写真等の資料の収集と写真の撮影・複写 ゼロからの出発。これが図録のはじまりである。﹁五十年史﹂、﹁八十年史﹂はあっても図録はない。おまけに、 ﹁五十年史﹂、﹁八十年史﹂編纂で集めた資料が散逸し不明であったことも合わせて、ほんとうにゼロからの出発で あった。 218一
結果的には、納期に追われる突貫工事さながらで、①全体の構成︵章・項目立て︶作業、②写真等の資料の収 集と分類整理作業、③現行諸行事等の撮影と複写作業等を並行して一挙にやらねばならず、あわただしくきびし いものであった。 図録にとって写真等の資料は生命である。それだけに、その収集には困難をきわめた。﹁学報﹂や﹁校友会報﹂ 等を通じて、資料の収集の協力を学生、教職員、卒業生︵校友︶、関係者︵関係機関︶によびかけた。特に、校友 会の事務局を通じて、各支部総会開催時に資料提供の協力をお願いしたり、また、有力な方々を紹介してもらっ た。おかげで、学内外の関係者及び関係諸機関から、いろいろな資料を集めることができた。 編纂室としても、必要な写真等の資料の収集に方々かけまわった。その結果、経験的に資料収集についてわか ったことがある。それは、各時代の卒業生からの口情報の重要さである。﹁彼は当時写真部だったから、新聞部だ ったから、○○同好会で活躍していたから、自治会の役員だったから、なんでも収集家だったから、たずねれば きっと保存しているはずだ⋮⋮。﹂ このようなありがたい言葉をきっかけに、いもつる式に資料が見つかったり、空振りに終ったり、一喜一憂。 この手がかりは、最も有力であった。 また、戦災に遭っていない地方や、特に保存に強いのが卒業生のお寺等で、ここでは資料が多くみつかった。 文書関係では、古いものは国立公文書館、東京都公文書館所蔵のものや、学内保存文書等を活用した。 一方、収集した資料は、そのほとんどが借用したものであるため、編纂室で、またはコピー機とカメラをかつ 一219一
いで現地へ出向き、複写するといういそがしさで、金水カメラマンと共に複写後の資料の整理︵出し入れが自由 にできる︶にも、多くの時間をついやした。 それから、現在行われている本学関係の諸行事・活動についても、年間のそうしたスケジュール一覧を作成し、 杉山カメラマンと連絡を取りながら、こちらの注文を出す仕事もけっこうたいへんで、同行することもたびたび であった。この二年間、諸行事・活動の行われる日の天気に、これほど神経を使った年はなかった。 図録作成の作業過程 はじめから写真等の資料がそろってさえいれば、全体構成・掲載内容を決定して、あとはレイアウトを専門業 者にお願いすることでことはたりるところだが、前述の通り本編纂室ではそううまくはいかない。資料を集めな がら、集まったところからレイアウトし、キャプションを書くという、集めながら作るありさまであったので、 他の業者にまかせるわけにはいかなかった。結局は、専門家の橋本氏を専従に、編纂室会議に常時出席してもら い、会議の意向を充分に生かして制作・レイアウトをしてもらった。たいへんであったが、そのことがかえって 編纂の意図に合ったものを作ることができたのである。一言でいえば﹁手づくりの図録﹂としてのよさがでたこ とは、さいわいであった。 作成過程で最も大事な作業は、数千点の写真の中から、図録の内容に合った写真を選択する仕事である。前述 したように編集の留意事項を基準として選択するのだが、これがなかなかうまくいかない。数人でやればやるほ ど選択眼の違いで困難になる。そこで、山内、橋本、比嘉で選択して会議にはかったが、選ぶよりも切り捨てる 一220一
◎ ∨㌔_己二W一 ζ 譲;パ 〆 、ぺ▽丁、 ヒ 1 パ “AAL品 唄 ヒi 、 ’ ^ × ド 、 , f灘窪 ’灘ぱ、Ψ 」 ∀ 騨翻wふ …i__隠 、 パs?@ ∼ ︽ ♂
灘 灘》
鷺難
灘
欝
w繍
︿ ξ ﹀ 当穴一←
1 { 繰 3, 彩影 く…∨∨烈・ @ ・.酬蹴鱒{ 一……一三渋『 P,:噛磁蕪鰐 く 獲議 D壇 C8、、 ︾w∨ 、 ︽恒籔 鐵簸 鎌攣馨く鮭
▽㌻
ぬへ〉 ト∼ 、’ E耀i’ A、 淳灘’テ
額熱
難 ぺ ’ 、 A’ 、 』x o .己灘鍵懸轟
∨パ 遜ぷ㈱ ∨噛噛 ュ 、叉、D
∨酸i__
沃驚 滋 灘 ε ’v
ノ・ 禄 シ .饅バ翻饅ぷ筏ぶ 1 .蘂 5 ’既P’ 嫁 タ 、 之 P @父兄会籏許謬麟ぶ 域鞭
︶ 藤・ M鷺} | 燈 ’室X :C護亘ξばL r㍉ 8∼ 七,︿字 ぺ’二、 ㍉、 膓 一iぎ、;毘斌壱ジ㌧ “’ B麟 ’ ア 、諜
∼ s ぺ 繍一テ嚢一
始5’A瀕
人 ・ ∨㎡ 「々 f ,ぷ\「藤… D 寒・o息
難鑛講講
、w◇ s , ㌻、灘’ヤ ’ LP〆A.Ar 一 ・一遜 菌」 痒壱遵え 菓 κ 姻 く 工: η } げ 口’ ●刀@‘
酒、’ x鰯ヌ)膓 _ ヤ十一 一 堰≠ェ...、 ._169 《 ’二 ヒ議コ. D{、 _ 1 ℃璋£ 己} w.1、 d1]TTr?’ts,. 図録進行計画一覧表 方に勇断がいるもので、階しいことをしたという思いに かられるのであった。 選択した写真等の資料を今度は、掲載頁のなかで、写 真と文書・記事とキャプションの字数のバランスの調整 をし、さらに資料を精選する。この仕事は、つらくきび しい作業であった。 一方、六一年一二月に決定した印刷業者と、具体的な 印刷日程を検討しスケジュールを決定。進行計画一覧表 ︵写真参照︶を作成し、作業を進めていった。その間、モ ノクロおよびカラーページのテスト刷り、活字の大き さ・配置等のテスト刷りをくり返して最終的な組体裁を 決定した。 あとは、印刷業者と編纂室とのピストン運行。レイア ウトに従って写真等の資料、キャプション原稿を入れ込 んでいく作業と、出来上がった校正刷りの校正作業との シーソーゲームである。 221一しかも、進行中に重要な写真資料がみつかり、レイアウトのやりなおし、写真資料の差し替え等があって印刷 業者をてこずらせた。最後に、装丁等の最終的な検討をして、印刷・製本のゴーサインを出したのは、九月の中 旬であった。
今後の課題
図録のできばえはともかく、やっと完成にこぎつけた。出来てみると、﹁あれも入れたかった、これも入れたか った﹂と、掲載できなかった資料のことが気がかりになるものである。 図録の評価は、読者にまかせるしかない。東洋大学史研究会︵昭和六二年一二月一〇日︶での講演者である中 野実氏︵東京大学史史料室︶が、本図録を評し﹁感服した、索引等をつけ大学史としての図録にしたのはこれが はじめて、その後に図録を作る大学はたいへんでしょう。﹂という内容の批評があって、編纂室一同ほっとしてい るところである。 図録はこれで完壁だというわけではない。作ってはじめて、いろいろな課題が出てきたというのが正直なとこ ろである。その課題をふまえてもう一度作ると、いいものができるのかもしれない。そのことは、今後の方々に まかせるとして、ここでは、それらの課題を列挙するにとどめたい。 ①重要かつ基本的な課題として、やはり通史との整合性の問題である。本学の歴史をどのような流れで構成し 222ていくのか、たとえば近代化の問題、社会思想史との関連、本学の社会的役割、本学の学風・校風、未来への展 望等を含めて特色ある本学の歴史を考えるとき、今なお多くの問題が残されている。その上に立っての図録とな ると、これは今後の大きな課題である。 ②写真等の資料の絶対数不足の克服。一〇〇年たって、はじめて写真等の資料を本格的に集め出したというの が実状である。収集資料を整理してみると、時代的にも、人物的にもかたよりがあった。創立当時から大正にか けてのもの、また昭和二〇年代の写真等の資料は皆無に近い状況で、その間に本学にとって重要な出来事があっ たにもかかわらず、それを示す写真等の資料がないために描けなかった点が多くあったこと。卒業アルバムなど は、多く学生生活に比重がおかれた記念写真的なもので、活用に限界があったが、かなり空白を埋めてくれた。 とりわけ、本学の重要な歴史を証明していく写真等の資料は絶対数が不足しているので、この辺の資料収集が今 後の重要課題である。 ③写真等の資料の収集と整理の問題。まず一点は、継続して不足資料をどういう方法で今後収集していくかと いう点。二点は、図録に掲載できなかったかなりの量の資料の分類整理の仕事である。編纂室では、一応資料の 整理基準的なものができているが、保管・活用等も含めて検討する必要があろう。 ④資料の保存体制の確立。今回、やっと図録ができたばかりである。本格的な﹁通史﹂﹁部局史﹂﹁資料編﹂の 編纂はこれからである。全体の資料を整理・保存する体制の確立がぜひ必要である。本学の歴史をたずね未来を 展望するうえにおいても。 ︵創立一〇〇年史編纂室員・文学部講師︶ 一 223一
︵資料一︶
図録関係会議等記録
昭和59年
編集長宛図録部会設置準備委員会の答申︵昭和59年9月付︶ 12獅g日 第1回図録一〇〇年小史部会 12獅Q0日 第2回部会 部会長に坂詰力治文学部教授を選出 一224一昭和60年
1月23日 第3回部会2月8日 第4回部会
答申書について検討3月5日
4月24日 5月17日 5月29日 6月11日 6月26日7月2日
7月15日 10獅P6日 10獅R0日 11獅P2日 12獅P8日 第5回部会 未来像調査について検討 第6回部会 第7回創立一〇〇年史編纂委員会 ﹁作成要綱﹂の承認 第7回部会 部会の性格について検討 編纂室会議 第8回部会 編纂室会議 第9回部会 実務の進め方について検討 編纂室会議 編纂方針について検討 編纂室会議 編纂室会議 役割分担・カメラマンについて検討 第10回部会 作業進行状況報告 昭和61年 1月29日 編纂室会議 体裁・索引・ページ配分について検討 225一2月27日 編纂室会議 3月18日 編纂室会議 4月9・10日 編纂室会議 4月22日 4月25日
6月3日
6月18日7月8日
12121211111097
月月月月月月月月
16 5 2 25 18 28 30 17日日日・日日日∼
28 19
入日 日
編纂室会議 第五・六章について検討 編纂室会議 札 印刷業者入札説明会 編纂室会議 編纂室会議 印刷業者選定について検討 編纂室会議 編纂室箱根合宿 項目ごとに割り振ってある写真の検討 編纂室会議 第11回部会 編纂室会議 掲載写真撮影を杉山晃造氏、金水和昭氏に委託 編纂室会議第一・二・三章・ページ割について検討 目次立て・必須項目・口絵・終章の検討 一226一12獅Q3日 印刷業者決定 第10回創立一〇〇年史編纂委員会 図録の内容の承認
昭和62年
1月27日 2月23日 3月16日 4月10日 4月21日 5月26日 6月30日 7月17日 10月 15日 7月 21∼ 23日 編纂室箱根合宿 校正 編纂室会議 編纂室会議 後付について検討 編纂室会議 刊行の辞・装丁について検討 編纂室会議 編纂室会議 編纂室会議 編纂室会議 編纂室会議 テスト刷・各章の解説について検討 ﹃図録 東洋大学一〇〇年﹄発行 227一︵資料二︶
図録作成の目的と内容︵図録一〇〇年小史作成要綱より抜粋︶
一、?ャ目的
昭和六二年、本学が創立一〇〇周年を迎えるにあたり、縁あって本学に在学する学生および本学関係者に、 東洋大学一〇〇年の歴史の概要を、親しく理解してもらうと同時に、将来の東洋大学を構想してもらうことを 目指すものとする。 二、内容項目部分︵順不動︶ ①井上円了小伝︵創始者としての人となりの概略、写真︶ ②歴代学長略歴︵東洋大学での略歴、写真掲載、短大学長については考えない︶ ③学制の変遷︵学部・大学院・短大・通信教育・附属高校等の設置・改廃、学生数の変遷︿卒業生数﹀学位 ︿授与数﹀など︶ー東洋大学沿革略図を基本とする。 ④学生運動︵学生の動きを中心とする︶1新聞記事、ビラ ⑤出版活動︵著名な出版物や、話題となったもの、写真︶ー目録は通史へ ⑥施設の変遷︵校舎・研究所・学寮など、土地と建物などの図と写真︶ 228一⑰⑯⑮⑭⑬⑫⑪⑩⑨⑧⑦
その他 国際交流︵留学生の活動など︶の変遷 学生気質︵服装の変化、寮日記、下宿料等、学生の日常生活の変遷を背景に考える︶ 教職員の構成︵教員数、事務員数︶ 大学の財政︵学費の変遷など︶、経営主体の変遷︵寄附行為の変遷、歴代理事長の顔写真︶ 校友会︵規模と変遷︶、父兄会︵構成︶ 学生の活動︵文化活動の記録と体育活動の記録など︶ 附属高校︵写真のみ︶ 公開講座︵図書館司書講座・認定講座など︶ 図書館︵施設・蔵書・活動システムの変遷︶ 研究団体の消長と業績︵研究所・研究会などの顕著な活動・業績、図と写真︶灘難難灘灘繋:離三蟻壬難亘雛難灘慧
び び v, ’ ド ’ ニ ’ ,, Ti/...’ド ㌧ こ”,’べ ∵・ ・ ’ ・”・’パ1’ゴ” .態’’’’ ”.・㌫.・ソ’ ○・竺 ぶ灘ぶ〆’』、”・灘・☆,鷲ぼ,ツミ淑蒋難滋難 ’, ’ , ヘミゴ ’ヒ マざび , ’,りxヒ ダ t・tt t/tエドぢぷ い= 繁・鱗ミ叢、鑓繋婚羅二…難灘羅鍵ミ鍵叢灘 ご灘’灘蟻㍉縫,鱗譲燕灘馨霧譲織1難蕪峯嚢難馨蓼ご’鱗磯1馨灘蝉購辮繊
230資 料 採 訪
︹東京大学史史料室所蔵資料︺︵一九八七年二月一六日採訪︶ 東京大学史史料室を訪ね、東京大学在学当時の井上円了に関する以下の資料 関係する部分のみ︶をコピーさせていただいた。 ○﹃東京大学予備門一覧 明治一二、=二年﹄ ○﹃東京大学予備門一覧 明治=二、一四年﹄ ○﹃東京大学文理法学部一覧明治=二、一四年﹄ ○﹃法理文三学部一覧 明治一一、一二ー一五、一六年﹄ 従明治三十年 ○﹃東京帝国大学一覧 至明治三十一年﹄ ○﹃学芸志林﹄第15巻、第17巻 ○﹃東京大学第二年報 起明治十四年九月止同十五年十二月﹄ ○﹃東京大学第三年報 起明治十五年九月止同十六年十二月﹄ ○﹃東京大学第四年報 起明治十六年九月止同十七年十二月﹄ ︵いずれも円了に直接・間接的に 一231一○﹃第二局等学校同窓生名簿﹄︵昭和55年版︶ ○﹃日本の博士研究﹄﹁旧学位規定﹂部分 ︹新潟県立新潟図書館所蔵資料︺二九八七年二月二〇日採訪︶ ここの県政郷土資料室を、井上円了誕生頃に近い古地図撮影のため、 影の便宜を与えられた。 ○越後国絵図︵幕末頃作製︶ 再度訪れた。一部屋を提供されるなど撮 ︹石黒忠恵所蔵資料︺二九八七年二月二五日採訪︶ 石黒忠恵は井上円了が一〇歳のころ漢学を学んだ先生であり、その後も円了に援助を惜まず、また長く本学の 顧問を務められた。社会的には陸軍軍医制度の創設者として知られている。現在、石黒忠恵関係資料が﹁不円文 おおさか 庫﹂として整理保存されており、港区芝公園一ー八−二〇 クレッセントハウスに、お孫さんに当る大幸重子氏 を訪ねた。 ○石黒忠恵宛井上円了書簡 二通 ○況斎雑纂 二六冊 ○石黒忠恵日記︵明治二〇∼昭和一〇年︶ 232一
○書簡類数一〇点 これら資料のうち、 井上円了書簡二通をフィルムに収めた。 ︹慈光寺・長岡高等学校・その他資料︺︵一九八七年二月二六日∼二七日採訪︶ 井上円了関係について資料収集・調査を行った。 ◎長岡市史編纂室︵長岡市柳原 市役所柳原分庁舎︶ 慈光寺門前で漢学塾を開き、円了も師事したといわれる木村鈍翌︵鈍翁・竹軒︶および円了が明治六年に学ん だ高山楽群社について尋ねる。楽群社は浦村からほど近い高島︵高山︶の正楽寺境内にあったのではないかとの こと。 また、円了生誕当時浦村は長岡藩領であったことを確認した。 ○越佐叢書 ○郷教育資料 ○長岡市史 ○長岡市内寺院調 ○長岡の教育百年 ○新潟県大百科事典︵以上関係箇所のコピー︶ 一233一
◎正楽寺︵長岡市高島町︶ 高山楽群社について尋ねたが、確証は得られなかった。 ◎長岡高等学校︵長岡市学校町︶ ○昭和61年度学校要覧︵受贈︶ ○創立九十周年記念会員名簿︵コピー︶ ○日誌︵明治六∼十年、コピー︶ ◎慈光寺︵三島郡越路町︶ 円了の生誕日、教師教校入学および上京の年月を確認した。 ◎越路町教育委員会︵三島郡越路町︶ 高山楽群社調査のため出向いたが、はっきりしたことはわからなかった。 ○復刻三島郡浦村温古録︵受贈︶ ○岡南の郷土誌︵コピー︶ 一234 ︹内山隆幸所蔵資料︺二九八七年三月=日採訪︶ 内山氏より資料についての連絡があり、小諸市正眼院のご自宅を再度訪ねた。 ○東洋大学臨海学校写真帖の 部 一七枚
○身分証明書︵昭和六年︶ ○﹃東洋学苑﹄第二巻第七号︵昭和五年︶ ○﹃宗教童話﹄第一巻第二号︵昭和三年︶ ○﹃常識の映画﹄︵昭和六年︶ ○﹃紙芝居の実演﹄︵砥上峰次述︶ ○﹃簡易家庭製麺麹法﹄︵陸軍糧秣本廠著 ○東洋大学出席木札 これら資料のうち、必要部分を撮影した。 た内山氏のノートを借用した。 大正一五年︶ また、内山氏のご好意により、第七回臨海学校訪問者氏名控を綴っ 235一 ︹藤原猶雪資料︺二九八七年三月二〇日︶ 元東京大学史料編纂所教授の玉村竹一氏︵茅ヶ崎市南湖︶を訪問し、 料編纂所勤務当時のことを伺った。愛知県津島に自坊があるとのこと。 第一五代学長藤原猶雪について、特に史 ︹高橋兼吉所蔵資料︺二九八七年五月一七日採訪︶ 白井一二氏︵昭和四年専門部倫理学東洋文学科卒︶のご教示により ﹃白山詩人﹄の所在が確認されたので、山
形市蔵王飯田一五一ー二四、高橋兼吉氏ご遺族ツヤさん、敬子さんを訪ねた。兼吉氏は本学とは直接関係はない が、秋鉄詩話会を主宰する詩人であり、詩人仲間として斎藤礼助氏︵昭和二年専倫教卒︶を知り、彼から﹃白山 詩人﹄を譲り受けたものという。その時点で、創刊号はなかった模様である。 ○﹃白山詩人﹄第二∼一二号 ︹加藤精神資料︺二九八七年五月二九日採訪︶ 本学の第一八・一九代加藤精神学長のこ令孫加藤精一氏を大正大学に訪ね、 加藤精神の著書の寄贈をえた。 ○﹃加藤精神著作集 密教学編﹄ ○﹃大乗仏教の起源及び発達﹄ 関係資料について伺い、あわせて 一 236 一 ︹中山順了所蔵資料︺二九八七年六月四日∼五日採訪︶ 中山順了氏は昭和七年専門部東洋文学科第一部、および昭和↓○年文学部国文学科を卒業され、 谷派長宝寺︵富山県黒部市若栗八〇二︶住職である。 ○卒業記念アルバム ○東洋大学学生証 現在は真宗大
○身分証明書 ○吋躬行﹄通巻第四一号︵昭和一二年︶ ○東洋大学出身中等学校在職者名簿︵昭和一〇年︶ ○全国大学高等学生弁論大会︹プログラム︺ ○新驚教大講演会︹案内︺ ○卒業証明書 ○教員免許証 ○真宗講座履修証書︵昭和七年︶ ○東洋大学案内︵昭和九、昭和一〇年︶ ○東洋大学の概況・東洋大学学生募集︵昭和一三年度︶ ○専門部倫理教育学科︹カリキュラム︺ ○東洋大学入学案内︵昭和八、昭和二六年度︶ ○東洋大学学部並予科案内 ○東洋大学専門部案内 ○入学志願者心得︵昭和八年度︶ ○︹紫光会発起人会決定事項・会員住所録︺ 一237一
○﹃紫光﹄創刊号︵昭和=年︶ ○新入会員募集︵東洋大学書道研究会︶ ○排酒問題大講演会︹プログラム︺ ○公開講演︹案内︺︵神道青年聯盟協会︶ ○第五回東洋大学臨海学校案内︵昭和四年度︶ ○東洋大学真宗会︹案内︺ ○得業証書︵昭和七年︶ ○卒業証書︵昭和四五年中山順恵︶ ○正信念仏偶 附報恩講和讃︵真宗会︶ ○昭和七年度 登録 大学浴衣︵各大学の浴衣デザイン集、都鳥会主催︶ ○﹃芸術時代﹄創刊号︵昭和五年︶ ○﹃白山文学﹄創刊号︵昭和七年︶ ○風水害慰霊祭︵昭和九年一〇月七日付新聞切抜き、真宗会主催︶ ○東洋大学学則︵昭和八年︶ ○禁酒新聞 第六九号︵昭和四年一〇月一日付︶ ○東洋大学新聞 第五四・五七・六 ・六三・六八∼七二・七四∼七五・七七∼七八・八二・八五∼八八・九 238一
二. 一二∼三.一一八.一二〇.一五一・一五四∼一七一・一七四∼一七六号︵昭和四年九月三〇日∼昭 和一五年六月二三日付︶ ○東洋大学学報 第一四∼↓六号︵昭和八∼九年︶ ○大内青轡扁額︽無所得︾ ○井上円了書幅 一幅 ○書幅 一幅︵大学昇格時に書かれたもの︶
その他に、﹃東洋哲学﹄数一〇冊と﹃HAKUSAN SPORTS随﹄等雑誌・書籍が数点所蔵されている。
また、近くの善念寺に井上円了書幅一幅が所蔵されていると伺い、中山氏の案内でご住職岩田円了氏を尋ね、 そのご好意により当該書幅をフィルムに収めた。 以上、これらの貴重な資料は中山氏のご好意で拝見させていただくと共に、未収集の資料は写真に撮り、大部 の新聞は借用しコピーを取り後日返却した。 一239一 ︹山本和夫所蔵資料︺二九八七年六月一七日採訪︶ 山本和夫氏は昭和四年専門部倫理東洋文学科卒業で詩人としてご活躍されている。氏は﹃白山詩人﹄の中心メ ンバーのひとりであったので、白山文芸運動についてお尋ねすると共に、関係資料の有無の確認のため国分寺市 西恋ヶ窪三−三五ー五のご自宅を訪問した。当時、詩人としても活躍していた赤松月船など、本学関係詩人についてのエピソードや消息についてお話を伺 った。しかし、関係資料は失われたとのことである。なお、﹃日本現代詩辞典﹄︵北辰堂︶﹃世界現代詩辞典﹄︵創 元社︶を借用した。 ︹小池栄壽所蔵資料︺二九八七年六月一八日採訪︶ 山本和夫氏より﹃白山詩人﹄のメンバーで関係の写真を所蔵されているとお聞きし、我孫子市船戸三 七ー一 四の小池栄壽氏宅を訪ねた。小池氏は昭和二年専門学部倫理学教育学科を卒業され、長く教職に就いておられた。 ○写真三葉︵白山詩人同人・同人詩誌発売風景・吉田熊次先生を囲んで︶ 小池氏より写真の人物について懇切な説明を受けた。 240 ︹成田山霊光館所蔵資料︺二九八七年七月一四日採訪︶ 成田山霊光館︵成田市成田山公園内︶は成田山関係資料を収蔵している史料館である。成田山新勝寺の第一五 世石川照勤師は哲学館第一回の卒業生であり、本学の顧問を務めるなど本学の発展に尽力された。また、荒木照 定師は大正二年大学部を卒業され、石川師のあとを襲い新勝寺第一八世住職となった。 二代にわたる貫首の本学関係資料を霊光館未整理資料のうちに求めた。その中心は手紙類であるが、ほとんど がまだ整理されていないので、その全体を見通すことはできなかったが、霊光館のご協力で貴重な手紙を入手す
ることができた。 ○石川照勤宛井上円了葉書 二通 ○石川照勤宛井上円了・前田慧雲葉書 一通 ○石川照勤宛井上円了書簡 六通 ○石川照勤宛哲学館封書︵哲学館沿革略在中︶一通 ○哲学諸科講義筆記︵石川照勤筆記︶ なお、霊光館の本学卒業生︵昭和四一年史学科︶川瀬浩氏より荒木照定師関係図書をご教示いただき、 用した。 一部借 一241