道元とエリウゲナ ─東洋と西洋における「絶対性
」への探求─
著者
アルド トリーニ
著者別名
Aldo TOLLINI
雑誌名
国際禅研究
号
4
ページ
47-66
発行年
2019-12
URL
http://doi.org/10.34428/00012057
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近年、道元禅師に関する研究が非常に活発である。禅師のあらゆる面に わたって、広く、詳細に、そして深く分析されているが、日本の禅匠とし て、または日本の思想家として扱われる場合がほとんどである。 しかし近年、道元禅師を「世界的思想家」として、言い換えれば「世界 思想の中の道元禅師」として捉えてアプローチする研究、特に西洋の宗教 思想家や哲学者と比較して、類似点や相違点を探る研究が少しずつ見られ るようになってきた。 今回、筆者の選んだテーマ、「道元とエリウゲナ─東洋と西洋における 絶対性への探求」はその一つの試みであって、道元禅師と西洋の「中世最 初の偉大な体系的思想家」といわれる神学者・哲学者であるエリウゲナ (Johannes Scotus Eriugena, 810?-877?)とを取り上げ、いくつかの点から比較を行おうとするものである。 時間的・地理的・文化的に大きな懸隔のあるこの二人の偉大な思想家は、 一見したところでは全く無関係のように思われるが、その理由の多くは、 言語の違い、つまり、文化が異なれば、同じ、あるいは似た観念に全く違 う名称が与えられるというところに求めることができる。しかし、その名 称の下辺に潜んでいる意味を探れば、この二人が時々に同じ人間として同 じ問題を取り上げ、同じように感じていたことがわかる。 禅匠である道元禅師とキリスト教神学者であるエリウゲナの思想にはか
道元とエリウゲナ
─東洋と西洋における「絶対性」への探求─
アルド・トリーニ
*なりの相違が見られるが、「絶対性」については、興味深い接点を指摘で きる。さらに、両者とも「絶対性」の探求において、「否定言語ストラテジー」 の使用が顕著である。以下、この二点、「絶対性」の探求と「否定言語ス トラテジー」について論じることにする。 1 .ABSOLUTUS(絶対性) 「悟り」というのは、西洋の思想にはない観念である。キリスト教の目 的は、死後に天国に昇るというところにある。哲学の専門用語の中で、「悟 り」に一番近い言葉はおそらくは英語の「ABSOLUTE」つまり、「絶対」 であろう1。「ABSOLUTE」の語源はラテン語の「ABSOLUTUS」で、 その意味は「自由、結束や絆がないこと、自立」で、「AB」は「~から」、 「SOLUTUS」は「結束・拘束・葛藤から自由になった」の意で、英語の 「UNCONDITIONED」(無条件・無制限)、つまり「制限から自由になった」 「縄の結びが解けて、自由になった」という意味を持つ。「煩悩の結びが解 けて、自由になった」状態、つまり「悟り」(!)、仏教の「無執着」、「解 脱」などにかなり近い意味である。 ところで、「ABSOLUTE」の日本語訳は普通「絶対」とされるが、仏 教用語として「絶対」は「絶待」になり、その意味は「対立を超えている こと」である2。つまり、何事にも縛られたり制約せられたりすることが ない、他に比較対立するものがない、一切の現象差別を超越する、という ことである。これは、様々な矛盾、二元論、相対観を超えた、「悟り」の 立場からの見方を指している。 以上の通りだとしても、仏教の「絶対性・絶待性」については多様な見 方があり得る。たとえば、龍樹(Nāgārjuna)の思想によれば、「縁起」 とは、すべての事象は関係性の上に成り立っているので、諸々の事象が互 いに相互依存または相互限定において成立しており、何ら絶対的な、独立 しているものを認めることはできない。したがって、龍樹が指摘している のは、「もの」としての「絶対性」の存在はありえないということである。
しかし、縁起に基づいた真実をその次元を超えたところから、言い換えれ ば、「空」の立場から、つまり「悟り」に達したところから見るなら、そ れはやはり「絶対性」である。 これは、教理上の立場だが、道元や他の禅匠の教えにおいては、相対性 を超えた次元が求められていることは否定できない。その次元とは、いう までもなく、「悟り」「仏性」「心」である。「行持 上」の巻に「大悟は家 常の茶飯なり」というのに対して、「大悟」の巻では「大悟は仏祖より向 上に跳出する面目なり」とも言う。さらには、「仏法は、人の知るべきに はあらず。この故に昔しより、凡夫として仏法を悟るなし……独り仏にさ とらるる故に」(「唯仏与仏」)とも記される。つまり、道元にとって「絶 対性」は「超凡越聖」(『普勧坐禅儀』「身心学道」)なのである。 西洋の思想(エリウゲナも含めて)では、「絶対性」は不変(permanent) であるのに対して、道元の教えでは、不変のものは一切ない。したがって、 仏性も、実は無仏性になり、存在しているあらゆるものや現象は例外なく 無常の次元に属している。前述の「悟り」「仏性」「心」も、「もの」とし ての次元に属している以上、無常であることに違いはない。したがって、「も の」としてのそれらの見方や理解は無常であることを認めた上で、それら に執着しない、縛られない見方が求められるのである。 2 .apophatic strategy
西洋でも、特に哲学では、「無条件の真理」(absolute reality, absolute truth)を示すのに、言葉では表現し得ないような経験を経て、言葉の制 限(limit)や、その人間的な性格を認めた上で、言語的なネガティーブ・ アプローチをよく使う。つまり、「無条件の真理」を言語的に表現できな いことから、apophatic strategyに助けを求めるのである。“Apophatic”は 「ネガティーブ」ということで、“apophatic strategy”は「ネガティーブな 言語ストラテジー」という意味になる。否定によって「これではない」「そ れではない」という形で真理に近づこうとする方法である。キリスト教の
教義では、神は存在しているが、その存在は人間には「不可知」であるた め、ただ信じるしかない。 西洋における、apophatic strategyの歴史は長く、新プラトン主義に始 まり、プロティノス、プロクロス、フィロン、擬ディオニュシオス、エリ ウゲナなどが挙げられる。 仏教においても、否定言語ストラテジーの歴史は長い。たとえば、『般 若波羅蜜多心経』の「無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・ 法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無 老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得」などは代表的なものである。 エ リ ウ ゲ ナ は、 神 の 定 義 や 叙 述 の 不 可 能 性 を 認 め て、apophatic strategy、つまり否定神学(ネガティーブなアプローチ)を採用する。道 元禅師も「悟り」を示すときに、同じく言語のネガティーブなアプローチ を使う。それは、言うまでもなく、どちらの場合も「絶対性」を直接的に 指示できないことから、二人とも似たアプローチを取ることになったと考 えられる。 しかし、エリウゲナと違って、道元禅師は哲学者ではない。禅匠として、 言葉で弟子を論理的に納得させることには興味がなく、悟りの立場から、 直接その次元を開示しようとしている。したがって、哲学で使われる「議 論的な言語ストラテジー」は採らず、むしろ「表現expressive言語ストラ テジー」のほうを選択したと考えられる。 このため道元禅師が使う言語ストラテジーには、理論的側面や説明がそ れ程多くは認められない。議論上や論理上の説明は必要とされていないの である。一方、西洋の哲学者や神学者は基本的に読み手を納得させる言語 ストラテジーを使用する。すなわち、禅師とエリウゲナは、異なるツール を使って、同じような目標に向かっているのである。
A 道元禅師の否定表現
まず、言語上の事実を考慮に入れる必要がある。つまり、日本語と西洋 言語の否定の違いである。 日本語では、「否定」には、主に「無」、「不」、「非」、「未」、「虚」の字 を用いる。「無」、「不」、「非」が最もよく使われている。 ここで顕著な相違点として指摘できるのは、西洋言語では、否定形が基 本的に一つしかないために、ネガティーブ/ポシティーブのコントラスト がはっきりしているが、日本語と漢文では否定表現が多数あるため、その コントラストのニュアンスが様々な形を取って、一致しないという点であ る。たとえば、道元の「不思量」と「非思量」3の違いは非常に重要だが、 その違いを西洋言語ではどう表したらよいだろうか。 『正法眼蔵』には、否定表現がよく使われている。道元禅師が否定表現 を使うのは、「悟り」「仏性」などを指すときがほとんどである。たとえば、 「無仏」、「無道」、「無心」、「無滅」、「無法界」、「無法性」、「無死」などが それである。 また、二重の否定もある。たとえば、「無々生」、「さらに無仏・無道・ 無心・無滅なるべしや、無々生なるべしや、無法界、無法性なるべしや、 無死なるべしやと功夫せず」(「行仏威儀」)、「狗子仏性無なり、狗子仏性 有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、 -切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。 かく のごとくなるがゆへに、一切法無一切法を観法無我と参学するなり。しる べし、跳出渾身自葛藤なり」(「三十七品菩提分法」)等である。 二重の否定も理解が難しいが、次のような三重の否定になると、人間の 論理能力をはるかに超えると言わざるを得ない。 「作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ 無々の無に嗣法せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功 夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取す べし。」(「仏性」) 「無の無」(または「無々」)というのは、その反対の「有」という意味 ではなく、むしろ「無有の無」である。英語でいえば、”absence of non-being”といえよう。 この言語ストラテジーが目指すのは、「我」の存在を徹底的に否定する ことである。「無・有」の二分とそれらの対立から飛び出して自由になる こと、つまり、「三十七品菩提分法」の巻でいう「跳出渾身自葛藤」を目 指しているのである。 「有」と「無」の存在(あるいは、その幻覚)そのものを根絶しようと するならば、単にそのものを否定するだけでは、少なくともそれらの対立 は残ってしまう。否定の否定は肯定ではなく、そのものを根こそぎ取り除 くということである。たとえば、「無生」というのは「生がない」、「無無生」 とは「生がないということはない」という意味である。ここから、「生が ない」のみならず、「無生もない」、すなわち、その「ない」もないという ことなのである。 「道得」の巻には、次のような文章がある。 「しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に 道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と証究せざるは、なほ 仏祖の面目にあらず、仏祖の骨髄にあらず。」 つまり、「道得を道得する」という肯定表現を使う場合、「不道得を不道 する」(表現できないことを表現していない)ところを「証究」しなければ、 仏教の真理を表現しえていないというのである。いいかえれば、肯定の道 得(表現)では、表現できないところまで尽くすことができないので、「絶
対性」の奥底まで至り得ないということになる。奥底まで至らないという ことは、仏教の教えではないということなのである。仏教の教えは、表現 できない、言葉にできないところにある。したがって、その奥底まで表現 しきる言語ストラテジーに訴えて、否定言語を使うしかないのである。
B エリウゲナの否定表現
エリウゲナは、「神の顕現」(ギリシャ語の「テオファニア」(ϑεοϕανία, theophania、ラテン語では、apparitio dei,diuina manifestatio,manifestatio dei)を超越論的方法で、神に求めようとする。そのために、次の 2 つの 方法を使う。それが肯定神学(theologia affirmativa)と否定神学(theologia negativa)である。 1 . 肯定神学(theologia affirmativa):神によって造られた森羅万象に神 の顕現を把握する。 2 . 否定神学(theologia negativa):被造性の彼方にある神そのものの固 有性を把握する。(P. 458 B)4。 肯定神学の例 エリ ウゲナ:「肯定神学は,神が真理,善,存在,光,正義,太陽,星, 霊,水,獅子,熊,虫,その他無数のものである」(P. 458 B)5。 道元 :「この山河大地、みな仏性海なり」(仏性)、「山河大地日月星辰、 これ心なり」(「身心学道」)。 これは、超越論哲学といえよう。しかし、エリウゲナは、肯定神学が神 に付与したあらゆる特徴や描写の可能性を排除して、神を肯定神学の彼方 において否定的な形で指し示す。エリウゲナは、否定神学こそが肯定神学 以上に神に接近する道であると考えた。肯定で述べられるもののうちのどれでもないと否定されるほうが、より真実に近いという。 肯定神学より否定神学を優位に置くことについて、エリウゲナは次のよ うに述べる 「定義できるものは定義されるものより優れていなければなりません」 (485B と 766B)6。 つまり肯定では、人間による詳細な神の定義や描写は絶対にできないの である。しかし、それだけではなく、 「神に関しては、否定するすべては事実であるが、肯定するすべては事実で はない。もし「神はこれだ」とか「それだ」とか主張すれば、その発言を した者はややもすれば嘘をついたと非難される。なぜかというと、神は存 在しているもの、言葉ができるもの、考えられるものの中にはいないから である。逆に、もし「これでもない、それでもない、何でもない」と主張 すれば、これは真実と認められる。その理由は、神が存在しているもので も存在してないものでもないからである。」(P. 510 C)7 とされる。さらにこれに加えて、 「したがって、神そのものは、……知力では知ることはできない。同じく、 神の被造物、神に存在するものを詳しく検討しても神は不可解であること に変わりはない。……(ここから)分かることは、神が何であるかではな くて、神がいる(存在している)ということだけだ。」(P. 443 C)8 ともいい、結論として次のように述べる。 「同じ理由で、被造物のすべての理性的、知的な体制(ordo)が(同時に)
存在して、存在しないといわれるのである。」(P. 444 C)9 この「存在して、存在しない」というのは、道元禅師の言葉の「有無」 と同じことである。『正法眼蔵』でよく論じられているように、「仏性の有 無等の義をいふがごとし」(「仏性」)と記されてはいても、結果的には、「有」 も「無」も否定して、「山河大地等、これ有無にあらざれば、大小にあらず」 (「身心学道」)、「仏性法性の有無をしらず」(「説心説性」)とされるのであ る。 以上の文章は否定神学の論理的で、哲学的な説明である。「議論的な言 語ストラテジー」に基づいた解説であって、道元禅師の「表現expressive 言語ストラテジー」とは食い違うが、エリウゲナの文章によって禅師が言 わんとしたところを推し測ることができる。禅師とエリウゲナは、根本的 に「絶対性」に対して、同様の態度、見方、理解を示している。言語の違 いを超えて、東洋と西洋で接点を見出しうるという点は非常に興味深い。 つまり、道元禅師もエリウゲナも、否定の言語ストラテジーこそが「絶 対性」に近づく方法だと認識し、これによって言語の限界を超えてゆこう としたと考えられる。「否定」というのは「限界のある思想」から「限界 を超えた思想」へと導く方法であり、「他者性」(alterity)を指向する、 すなわち、存在しているすべてのものの「他者性」を指し示すのである(P. Ⅱ, 108, 31)。
C 「相反するものの一致」の理論
更に興味深いのは、エリウゲナの説く“coincidentia oppositorum” 「相反 するものの一致」にも、道元禅師との接点が確認できるということである。 まず、エリウゲナは「肯定と否定は、互いに明らかに相反するものであ ることがわかるだろう。」(P. 461 B)10と述べる。しかし、「それ(諸物の 最上の原因)について、いかなる表現をとっても、肯定もできるし、否定もできる。その理由は、語りうる、知りうる、知りえないところを超えた ところにある。」(P. 500 B)11。 「絶対性」は、知力が届かないところにあることによって、肯定と否定 のどちらも可能なのである。だが、 「実際、全体に含まれている部分は相反し、不調和であるかのように見える が、宇宙全体の調和の上から見れば、一致して調和がとれていることがわ かる。」(P. 517 C)12 つまり、どちらも可能だが、この相反する二項のうち、一つを選ぶので はなくて、どちらも共に取るのが望ましい。その理由として彼が述べるの は、 「今まで互いに不一致であったものは、神の場合になると、実は絶対に相反 しておらず、調和がとれていることが今はっきり見えてくる。」(P. 462 A)13 ということ、つまり、「神に対立しているものは何もありえない」(P. 459 C)14からであるという。もう一つの理由は、 「相反するものは永遠(不変)のものではありえない。なぜかというと、も し永遠であれば、絶対に不一致ではありえないからである。」 というものである。そして、結論として、神は「相反するものの相反性」 (oppositorum oppositio)(P. 517 C)15であると述べている。 道元禅師においては、「相反するものの一致」論は、たとえば次のよう に現れる。
「山河大地等、これ有無にあらざれば、大小にあらず、得不得にあらず、識 不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変ぜず。かくのごとくの心みづ から学道することを慣習するを、心学道といふと決定信受すべし」(「身心 学道」) 「唯心は一二にあらず、三界にあらず。出三界にあらず、無有錯謬なり、有 慮知念覚なり、無慮知念覚なり。牆壁瓦礫なり、山河大地なり。」(「三界唯 心」) 「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」 (「仏性」) つまり、ある一つの現象(生・死・仏性・悟り・山河など)は同時に有 無であって、そこに「相反するもの」が共存するとともに、相反する二項 が一致した上で、二項を超えた「空」へと導かれるということなのである。 禅師においては、相反するものも「無礙」であって、この次元では、相 反するものも互いに妨げあうことなしに共存する。 「入無礙辯是法明門、得法眼成就故(無礙辯に入るは、是れ法明門なり、法 眼を得て成就するが故に)」(「一百八法明門」)16 しかし、エリウゲナが言う「もし永遠(不変)であれば、絶対に不一致 ではありえない」と、禅師の思想とでは、方向性が正反対であると言える。 道元禅師の場合、現象が無常だからこそ、そこに「相反するものの一致」 が現成するのである。
D 「hyper, plus quam, 超」
エ リ ウ ゲ ナ は、 肯 定 神 学( theologia affirmativa ) と 否 定 神 学( theologia negativa )を説くにとどまらず、両者の矛盾を止揚する道を追 求した。 「神は自ら愛であり、心像であり、動作であり、しかし同時に動作でもなく、 心像でもなく、愛でもない。実際は、愛以上、心像以上、動作以上である。」 (P. 521 C)17 ラテン語のplus quamとは、日本語でいえば、「それ以上」にあたり、 相反する矛盾を超えることを指す。その意味で、「絶対性」は、矛盾を超 えたところ、言語の及ばないところにあり、「有無」を超えた場所を指し ている。つまり、エリウゲナは 英語でいう”theologia hyperphatica”18を取 り入れて、これによって肯定神学と否定神学の対立を乗り越えようとする のである(459C-460B)。 禅師についても、「有無」以上の場所を求め、そこに禅師のmysticism(神 秘的な態度)が表れていることは、たとえば、「この得道は、極大同小、 極小同大の超仏越祖なるなり」(「行仏威儀」)、「超凡越聖は、光明の藍朱 なり」(「光明」)、「自他の際を超越して、遮裏に無端なり、自他知に無拘 なり」(「大悟」)、「その宗旨かくのごとく参学すべし。すでに無量無辺の 辺量を超越せるなり」(「観音」)、「仏々正伝する大道の、断絶を超越し、 無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり」(「行仏威儀」)、「仏 祖の仏祖を選する、凡聖路を超越するがゆえに、六祖すでに六祖となれる 也」(「伝衣」)などの用例から明らかである。 「超凡越聖」という表現は『正法眼蔵』には、五箇所確認できる。それは、 「悟り」・「仏性」・「空」、一言でいえば、「阿耨多羅三藐三菩提」のことで ある。この最上の「悟り」も、道元禅師の教えでは、無常であって、「阿耨多 羅三藐三菩提これ仏性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃これ無常なるがゆ ゑに仏性なり」(「仏性」)と記される。しかし、無常であっても、「有無」 を超えたそれ以上の境位にあるのである。 「三者菩薩乗六波羅蜜の教行証によりて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す。そ の成就といふは、造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあ らず、久成にあらず、本行にあらず、無為にあらず。たゞ成就阿耨多羅三 藐三菩提也」(「仏教」)
E Deus est nihil 神は「無」である
簡潔にまとめると、エリウゲナは「絶対性」を把握するのに、否定神学 から始まって、「相反するものの一致」に至り、そこから更にそれを乗り 越えて、super、hyper、つまり「それ以上」「超」の段階へと到達した。「そ こに、いったい何があるのだろう?」─この問いは「神とは何か」とい う意味に等しい。 「(神が)存在するものの中で、何であるか分からないのは、何ものより以 上のものだから……卓越していることによって理解できないのであれば、 「無」(nihil)と呼ぶことも不当ではないだろう。」(P. 681 A)19 つまり、神は「無」(nihil) だという。その理由は「卓越」しているこ とにある。卓越しているので「無」である。「卓越せる無」(P. 681 A)20な のである。肯定と否定を乗り越えて、二項相反する存在が錯覚であると気 づくと、実はその相反関係そのものが崇高な調和なのであって、それがそ のまま「絶対性」を示していることが分かる。プラス(+ 1 )とマイナス (- 1 )を合わせれば、結果はゼロになるのと同じように、相反するもの
が一致する先は「無」という「絶対性」なのである。ここから「神」とい う言葉を除けば、「絶対性」が「無」であるという点で禅師と同じだと言 える。 エリウゲナの“nihil”(無)は、『六祖壇経』にある「本来無一物」の「無」 と一致する。万象(被造物)の起源である神が「無」であることによって、 万象は「本来無一物」になるからである。エリウゲナが言う「無」の意味 は、「神の外には何もない」がゆえに、神そのものである「無」は、「無か らの創造」の「無」と解釈される。仏教の言葉で言い換えれば、「空」の 外には何もない、一物も存在していない、「空」から万物が創造されると いうことである。 ここでいう「無」は、仏教の根本的な教えである「空」、サンスクリッ ト語の“Śūnyatā”の言い換えで、神の被造物が「無」から生まれたように、 『般若波羅蜜多心経』における「空即是色」の「空」から万象が生まれる とされる。つまり、エリウゲナの言葉でいえば、「非存在から存在へ」(ex non esse in esse)、「無から存在へ」(de nihilo in esse)ということである (P. 513 D)。ちなみに、「無からの創造」(creatio ex nihilo,creatio de nihilo) と い う 概 念 は ア ウ グ ス テ イ ヌ ス に 由 来 す る も の で あ る (Confessiones, Ⅺ, 5ff.)。 エリウゲナにとって、被造物は「神の顕現」、つまりtheophania(diuina manifestatio)であって、「無」の神の顕現として存在している。 これは、道元の言葉でいう「山河大地、日月星辰、四倒三毒、みな如来の 所証なり」(「四禅比丘」)や、同じく、「山河および大地、すなはち全露法 王身なり」(「唯仏与仏」)に相当すると考えられる。したがって、「作仏作 祖、おなじく虚空なるべし」(「虚空」)、「空々をあつめて作仏するなり」(「発 菩提心」)といった道元の言葉は、この「絶対性」を「道得」するために、 その場その場で「虚空」、「空々」を生きることである。道元は、はっきり と「尽虚空ことごとくさとりとなる」(「弁道話」)と述べている。 エリウゲナにとっては、神(絶対性)に行き着くとは、「無」、つまり「無
いところ」、「何も無いところ」に到達することである。エリウゲナの『自 然区分論』には次のような文章がある。 A. (弟子の質問)「神は何もない所(無)から万物を創造したということ はどう理解すればよいか?」 N. (エリウゲナの答え)「神の善の能力によって存在してないところから 存在ができたと理解すればよい。実際、無いものが有になり始めた。 無から創造され、その前には無かった。」 A. 「そうだとすれば、「無」という名前はすべての存在と本質の否定と欠 如(negatio et absentia)を指すことになる。また、自然に存在するす べての被造物も指している。」 N. 「その通りだと思う。実は、聖書の解釈者たちは皆そのように解釈して いる。つまり、万物の創造者(神)は既に有るものからではなく、絶 対無(de omnino nihilo)から創造しようとする意図を持っていたので ある。」(P.635 A) 一方、道元は、「三時業」の巻で 「長沙云、「大徳、本来空を識らず」。彼云、「如何ならんか是れ本来空」。長 沙云、「業障是れなり」。又問、「如何ならんか是れ業障」。長沙云、「本来空 是れなり」。」 と述べており、「空」や「無」は「業障」と一致すると主張した。禅師にあっ ては、「絶対性」は「空」「無」でありながら、この穢れた現世と一如であ る。つまり、涅槃と世俗との一致を指摘しているのである。 エリウゲナの述べる「無」は、「万物の無」(nihil omnium)と「万物の 有」(essentia omnium)(P. 559 B)であり、これらは同じ神を指している。 道元は、「空」や「無」は具体的なものではなく、また「有」と対立する
概念でもなく、「空」と「無」は「絶対の空」と「絶対の無」であること を次のように主張している。 「五祖いはく、「仏性空故、所以言無」(仏性は空であるゆえに、すなわち無 という)。あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤 といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆへに空といはず、 無なるゆへに無といはず、仏性空なるゆへに無といふ。しかあれば、無の片々 は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。」(「仏性」)
F 絶対性を求めて
エリウゲナにとっての絶対性とは、神の諸徳を超え、否定神学を通じて 具体性を止揚した「絶対性」(神)は、「卓越」で「無」である。この「無」 は「欠如的無」(nihil priuatum)(PP.Ⅲ, 60=634 B)ではなく、むしろ神 の存在を超越した卓越性を指すものである。 「神自体は類似物の類似、非類似物の非類似、相反物の相反、相違物の相違 である。これらを全て整理し尽くして美しく、言葉では言い表せない調和 である。」(P. 517 C)21し た が っ て、 絶 対 性 は、「 無 限 以 上 の 無 限 」(infinitum plus quam infinitum)あるいは「無限なるものどもの無限性」(infinitas infinitorum) なのである(P. 517 B)。 これは道元禅師からみれば、以下のようになろう。 「しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相を わかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。 一切諸法、万象森羅ともにたゞこれ一心にして、こめずかねざることなし。
このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これ すなはち仏家の心性をしれる様子なり。」(「弁道話」) ここに言う「一心」、「心」は「絶対性」と喚ぶことができる。要するに、 「心」の外には何もないと言うのであって、これはエリウゲナがいう「神 の外には何もない」と一致する。 「青黄赤白これ心なり、長短方円これ心なり。生死去来これ心なり。年月日 時これ心なり。夢幻空花これ心なり、水沫泡焔これ心なり、春花秋月これ 心なり、造次顛沛これ心なり。しかあれども毀破すべからず、かるがゆへ に諸法実相心なり、唯仏与仏心なり。」(「三界唯心」)
G 「絶対性」と「神秘主義」
エリウゲナの場合、絶対者は神と一致しており、これと合一する(unio mystica)という目的が示される。それはキリスト教の概念を用いれば、「神 秘主義」であると言える。つまり、「絶対性」は、否定神学を経ることで「神 秘主義」として把握できるものになる。結果的に「絶対性」は、「無限以 上の無限」あるいは「無限なるものどもの無限性」であって、相反する矛 盾を超えて、言語の及ばないところにある。 しかし、神が「無」であるとすれば、神秘主義はどのような意味を持つ のかと言えば、「無」、または「無限性」に到達して、それと合一するしか ない、ということになる。そこにおいて、誰(神)でもない「無」に出会 うが、その途端に、自分もその「無」になり、最終的に自分自身が変容し、 新しく生まれ変わる体験をするのである。 一方、道元禅師においては、「空」、「虚空」を求めて、そこに到達すると、 「心身脱落」して「道得」できるようになる。そこに、エリウゲナと同じく、 本来の自分が表れる、すなわち、自己が現成する(ありのままの存在となる)のである。 「絶対性」の探求において、道元禅師とエリウゲナは、同じく神秘主義 の道を歩み、絶対性の対極である「相対性」、言い換えれば、「分別」、「執 着」を拒絶して、「無一物」の次元に到達しようとする。 神秘主義とは、一般的には「超越」(英語でいえば“transcendence”)、 つまり「この自然的な世界を超えて」人間の外にあるもの(神など)を求 めることを指す。その対義語は「内在」(英語の“immanence”)、つまり「そ のものに含まれている」という意味である。「内在」は「超越」(「外在」) の対極にある語だが、もし「超越」のターゲットが「無」、すなわち「存 在しない」ものであれば、外在するものとは考えにくい。 道元禅師の「空」や「虚空」は、「超越」といっても、人間の内在的な 存在を指しているとしか考えられないだろう。つまり、その「絶対存在」 は人間の内的な存在で、神秘主義といっても、それは「内在的な神秘主義」 といえよう。道元禅師が求めている「絶対性」は人間の中の絶対性であっ て、人間の「父母未生以前の本来の面目」であり、人間の内在的な面目で ある。 以上の考察から、「絶対性」の探求には二種類があると結論づけること ができる。エリウゲナの神秘主義は、人間の相対性から飛躍して、自分の 外にある絶対性を求める。それに反して、道元禅師の神秘主義は、人間の 相 対 性 か ら 飛 躍 し て、 自 分 の 中 に あ る 絶 対 性 を 求 め る。 前 者 は transcendental mysticism( 超 越 的 な 神 秘 主 義 )、 後 者 は immanent mysticism(内在的な神秘主義)であるといえよう。 【注】 1 西田幾多郎の「絶対無」を参照。 2 絶対:「他に対比すべきものがないこと。相対の対」、絶待:「対立を超えて いること。中のこと。相待の対。」(中村元、『仏教語大辞典』下巻、833頁)。 由来は「絶待止観」で、その意味は:「二者の相立・対立を絶していること」。
3 「兀々と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。 これすなはち坐禅の法術なり。」(「坐禅箴」)
4 P. = Periphyseon『自然区分論』(«De divisione naturae»)。以下、ラテン 語からの日本語訳は全て著者のものである。
5 “(KATAΦA TIKH= theologia affirmativa) dicit enim esse ueritatem bonitatem essentiam lucem iustitiam solem stellam spiritum aquam leonem ursum uermem et cetera innumerabilia”。
6 “Maius enim est quod diffinit quam quod diffinitur”。
7 “Quodcunque enim de ipso negaueris uere negabis, non autem omne quodcunque firmaueris uere firmabis. Siquidem si approbaueris hoc uel hoc illum esse, falsitatis redatgueris, quia omnium, quae sunt , quae dici uel intelligi possunt, nihil est. Si uero pronuntiaueris : ‘Nec hoc nec illud nec nullum ille est.’ Uerax esse uideberis quia nihil horum quae sunt et quae non sunt est....” しかし、否定表現は、たとえば、「神は真実ではない、
善ではない」などの意味であるというよりも、「神は真実や善などの言葉よっ
て定義できるとすることは無理だ」という意味である。
8 “Nam sicut ipse deus in se ipso ultra omnem creaturam nullo intellectu comprehenditur, ita etiam in secretissimis sinibus creaturae ab eo factae et in eo existentis consideratus incomprehensibilis est. .... conoscitur non quid est, sed quia est.”
9 “Hac item ratione omnis ordo rationalis et intellectualis creaturae esse dicitur et non esse.”
10 “Nonne vides haec duo, affirmationem uidelicet et negationem, sibi inuicem opposita esse?”
11 “Quicquid enim de ipsa (summa omnium causa) praedicatur et firmari et negari potest, quia super omne quod dicitur et intelligitur et non itelligitur est.”
12 ”Quae in partibus uniuersitatis opposita sibimet uidetur atque contraria et a se inuicem dissona, dum in generalissima ipsius uniuersitatis armonia considerantur, conuenientia consonaque sunt.”
13 “Haec, ni fallor, apertissime uideo et ea quae adhunc mihi a se inuicem discrepantia uidebatur nunc inter se inuicem conuenire et in nullo a se ipsis disentire, dum circa deum consideratur, luce clarius patescunt.”
14 “...de deo, cui nihil oppositum...”
15 “...ea quae a se ipsis discrepant aeterna esse non possunt. Si enim aeterna essent, a se inuicem non discreparent.”
16 『般若心経』の「菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有 恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」も参照。
17 “Deus itaque per se ipsum amor est, per se ipsum uisio, per se ipsum motus, et tamen neque motus est neque uisio neque amor sed plus quam amor, plus quam uisio, plus quam motus.”
18 “Theologia hyperphatica”は肯定と否定の総合で、どちらも超えて表現する。 19 “In nullo enim intelligitur existentium, quia superat omnia...Dum ergo incomprehensibilis intelligitur per excellentiam, nihilum non immerito vociatur.”
20 “Nihil per excellentiam, per excellentiam nihilum.”
21 “Est enim ipse (deus) similium similitudo et dissimilitudo dissimilium, oppositorum oppositio, contrariorum contrarietas. Haec enim omnia pulchra ineffabilique armonia in unam concordiam colligit atque componit.”