アダム・スミスの道徳と経済(1)
著者
遠藤 和朗
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
76
ページ
35-58
発行年
1978-03-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024430/
スの道徳と経済(1)
アダ.ム・ス
、、、遠藤和朗
目 次 問題提起 スミスの道徳論 (1) 利己心と利他心 (2) 同感概念と公平鞍観察者 (3) 良心と一般原則 (4) 慎慮・仁恵・正義の三つの徳 スミス経済学の成立 結びにかえて 1 2 以上(1) 3 4 1 . 問題提起 I1I スミスは「道徳情操論」第七部「道徳哲学の諸学説について」と題 するなかで, 当時の道徳論について考慮すべき課題を二つあげている。第 一は「徳は何に存するか」という道徳の内容の問題である。第二は「道徳 的可否の判断は如何なる精神能力によって行われるか」という道徳的判断 能力についての問題である。 第二の問題は新しいものでばないが, カッドワースがホップスの議論に 反対を唱えてから謝論がやかましくなり, カッドワースやクラークは,道 徳的可否の判断は真理と誤謬とを区別すると同じ能力,すなわち理性に よって行われるものとした。 この主張に反対したハチスンは道徳的可否を判断するものは理性ではなくて感情であると説き, このハチスン説に従っ
たものがヒュームとスミスであった。 ハチスン以前に位置したシャフツベリは,徳は利己心と愛他心の調和に 存するということを説き,人間には徳と不善とを分つ特殊の感覚があるこ とを主張した。ハチスンは徳と不善とによって快・不快を感じる特殊能力 −35− 1を道徳感と言った。 ヒュームやスミスはこの立場を継承するが, ハチスン は道徳感という特殊能力を打ち立ててこれ以上の説明を企てないのに対し し, ヒュームやスミスはより一般的な他の原理にこれを分解しようと試み た。 ヒュームば効用の原理を立て「およそ或る事実がこれを所持する人物も しくは他の人物にとって有用である傾向, また,該人物もしくは他の人物 に快感を伝える傾向, それらすべての事情は,該事物を考察する人物に直 接の快感を伝えて, その愛情及び是認を呼び起すのである」( 1) と言った。 スミスは, ヒューム説を全く斥けるものではないが同感の原理を立てた。 スミスは『道徳情操論』において, この同感を人間行為の道徳的是認・ 否認を行う唯一の原理としてH行為の道徳的適正 (二)功績と罪過日自己 判断と義務感四是認の情操と効用性田是認・否認の情操と慣習間有 徳の性格㈹道徳哲学の諸学説を順次説明している。 本稠の目的は,以上のような当時の道徳論の問題のなかで, スミスが何 故に同感の原理を樹立したのか, その意義を明らかにしながら彼の道徳論 がどのようなものであるかを考察することである。 I21 また, 又ミスが『道徳情操論』第六版序文におL、て述べている箇 所,つまり 「本書の初版の最後の章句のなかで,私椎,別の論文で,法律 ならびに統治の一般原理に関する説明を与えるばかりでなく, それらの原 理が社会におけるそれぞれの時代ならびに時期において策ったそれぞれの 変革に対しても説明の努力を払うつもりである, と述べておいた。すなわ ち,正義に関する問題ばかりでなく,行政・国家の収入・軍備その他法律 の対象になるものならどんな問題でもこれを取り扱うつもりであった」 と いうスミスの学問研究に対する意図と「『諸国民の富の性質と原因に関す る研究jのなかで,私はすくなくとも行政・国家の収入・軍備の問題に関 する限り, ある程度までこの約束を果した」というスミスの言葉から,
(1) DavidHume;ATreatiseofHumanNature, edbyL. A- Selby-Bigge,Oxford, p. 614大槻春彦択「人性補」(4) 240"
アダム・スミスの道徳と経済(1) 『道徳情操論』初版(1759年)刊行当時にすでに「国富論」 (1776年一初 版)の構想があったということに注目して, 『道徳情操論」と「国富論」 とがいかなる関係にあるかを探ろうとするものである。 そこで, まず本号においてスミスの道徳論を概説し,次回において, ス ミス経済学の成立過程について考察する予定である。 2. スミスの道徳論 (1) 利己心と利他心 (1) スミスが「同感」 (sympathV)を道徳的可否を判断する唯一の原 理として把握する理由は何か。 この理由を明らかにする上で重要であるのがハチスンやマンドヴィルに 対するスミスの態度である。 ハチスンはすでに述べたように道徳感なる特殊能力によって道徳的可否 を判断するのであったが, このばあい道徳感が徳として感じとるのは仁 愛'2) (利他心)に基づく行為のみである。 スミスによると, ハチスンは人間行為に少しでも利己的動機が混入すれ ば不純であるとして, 純粋で無私な仁愛にのみ美徳が存すると考えた'3,。 したがって, ハチスンにあってば「利己心はいかなる程度のものであって も, あるL、はL 、かなる方面から見ても,決して美徳ではありえな,‘ 、一つの 原理」輔であった。 これに対しスミスの場合は,利己的動機に基づく行為も徳になりえるこ とを強調する。 「仁愛は神にあってはおそらく唯一の行醐原理であるかもしれなL、。…… (2) 道徳感と仁愛との関係については次の総文を参照 浜田義文「ハチスン・スミス・カント」 (思惣’ 1975年11月)
(3) AdamSmith :TheTheoryofMDralSentiments. (Kelley'SReprint 1966.以下M. S, と略す)p、 442
米林常男訳「道徳傭撫,論」 (下)631頁。 (4) M S. p、 444 耶吠(下)633頁
. ・ ・ ・”しかしながら, 自己の生存を維持するためには自己の外部に存在する 多数の事物を必要とする人間のようないかにも不完全な被造物は,多くの 他の動機にもとづいて行動しなければならぬ場合が非常に多い」5)「われわ れ自身の個人的な幸福ならびに利害に対する配慮もまた多くの場合におい て, きわめて称讃すべき行動原理であるように思われる。倹約・勤勉・分 別・注意・配慮とL、うような習慣は,一般に利己的な動機にもとづいて養 成せられるものと考えられ, それと同時にあらゆる人間から尊敬と是認と を受ける価値のあるきわめて褒賞に価いする性質であると理解せられてい る」旧)と。 しかもスミスは, ハチスン学説が慎慮のような下級の徳に倫理 的是認を与えていないという立場から次のように批判している。 「この学説(ハチスンの学説一引用者) もまた慎慮・警戒・周到なる用 心・節制・恒心・断乎たる決意といったような下等の美徳に対するわれわ れの是認がどこから生ずるか, ということを充分に説明しないという逆の 欠点を有しているように思われる」'7)と。 このようにして, スミスは美徳が仁愛にのみあるとするハチスンを批判 するのであるが, スミスにあっても仁愛は人間社会を快適にするものであ り, かつ完全な人間性(8)の不可欠な要素であるから高次な徳として認めて いる。 だが,現実の人間は利己的性向が強く, 自分自身に対する関心力他人よ り優先するという利己的諸個人の社会にあっては,仁愛は人間行為の基本 的原理ではなかったのである。 以上のようなハチスンの仁愛論に対して, スミスは,利己心の作用を認 (5) M S,pp.446∼7邦択(下)636頁。 (6) M.S. p.445邦訳(-ト)634頁。 (7) M. S. p、445邦訳(下)634頁。 (8) スミスは完全な人間性について次のように述べている。 「他人のために大いに感情を動かし‘ 自分のためにはほとんど感情を勘かさな いということ,われわれの我侭を抑制して‘われわれの仁愛に満ちた性向を自 由に発勅させるということが,完全なる人生を成就するに至るのである」と。 M.S. p, 27. 邦訳(上)73頁。
アダム・スミスの道徳と経済(1) 識していたマンドヴィルにはかなりの親近感をもっていたようである。 スミスによると, マンドヴィルは利己心の最も強力な虚栄心を悪徳とみ なし.人間一切の行動はこの虚栄心から発するものと考えた。けれども, 人間がこの虚栄心にしたがって行動する結果,商工業が発展し社会の繁栄 がもたらされるというのである(9)。 このような「私悪即公益」 (privatevices,publicbenefits) のパラ ドックスに対しては, スミスのみならず当時の道徳哲学者にとっていかに 答えるかが重大な課題であった。 スミス自身は,物質的繁栄の原動力としての利己的本能が,人間行為の 最強烈な動機として社会全体の繁栄を導くものであるという歴史的事実を 認め, マンドヴィルのパラドックスが真理の一面を鋭くついたものである こと産認識した。 スミスいわく 「…”.この学説が…・ ・何らかの点において真理に近似して いなかったならば,決してあれほど多数の人々を欺いたり, あるいは一層 善良な行動原理に親んでいる人々の間にあれほど一般的な驚きを起こした りすることはできなかったであろう」Ⅱ伽と。 けれども,他方, スミスはマンドヴィル説に対して「悪徳と美徳との間 の区別を全く取り除く.…・ ・有害な学説」'UであるとL,い, また「あらゆる 情感が全く悪徳的であり, それはいかなる程度におL、ても, またいかなる 方向においても悪徳的であると主張していることは‘””・大なる誤謬であ る」、2)と批判している。 すなわち, マンドヴィルにあっても利己心はハチスンと同様に依然とし て悪徳であることに対してスミスは批判したのである。スミスは,前述の ように利己的本能に基づく行為をも美徳として是認したのであった。 した (9) M. S. pp. 458∼9邦訳(下)651∼652頁。 (10M-Sp、 459、 祁訳(下)652頁。 (11) M・Sp. 451- 邦訳(下)643頁。 (12) M. S. p. 458. 邦訳(下)651頁。 5 −39−
がって, スミスは「逆説でないマンドヴィル」u帥であるということができ る。 (21 それでは, スミスはいかにして利己心を道徳的に是認しえたので あろうか。 結論的に目・えぱ, スミスの同感の原理こそが利他心のみならず利己心を も道徳的に是認できる唯一の方法なのである。 彼は人間行為の動機に利己心と利他心の存することを認めた上で,人間 行為に関する道徳の問題を「同感」 という新たな原理に基づいて創造しよ うとしたのである。 以下, スミスの視点に注目しながら彼の同感の原理がどのようなもので あるかを考察する。 そのスミスロ〕視点は,彼の次のことばから明らかである。 「近頃多くの学者達は,主として性向の傾向について考察しているに抱 わらず, かような性向を刺激した原因に対してその性向がいかなる関係に 立っているかという問題に関しては, ほとんど注意が払われていない」咽 と。 このように, スミスにあってば,利己的性向や利他的性向がそのまま問 題になるのではなく, まして利己的性向が悪徳であった【1利他的性向が美 徳であるというようなものでもなかった。 もちろん, 彼にあっても美徳と悪徳は「あらゆる行為の発動原因であり . . . 。−究極においてその基礎となっている心の情操もしくば性向」H5)に帰着 するという性質をもっているか, スミスのばあいばこの行為の動因として の感情(ここでは情操sentimentと性向affectionを感情として統一的 に訳す)のあり方が問われるのであった。
113) W.F Campbell :AdamSmith sTheoryofJustice, Prudence, and Beneficence,AmericanEconomicReview. 57.(2).May, 1967 p、 571. (141 M- S- p. 17- 郎訳(上)61頁。
⑮M. S. p. 17. 邦訳〔上)60頁。
アダム・スミスの道徳と経済(1) スミスは,行為の動因としての感情を問題にするとき,感情を二つの異 なった観点から考察している。 感情を刺激し, ひきおこす原│刈または動機との関係については「適正 感」 (senseofpropriety)の観点を,感情がめざそうとする目的または 結果との関係についてば「功績感」 (senseofmerit)および「罪過感| (senseofdemerit) の観点である'燗。 すなわち, 感情を発動させた動 機と感情がつりあっているばあいには, その行為ば道徳的に適正であり, 行儀正しいものと見なされる。つ‘〕あっていなければ, その行為は不適正 であり,不作法であると見なされた。 また, ある感情がしたがって行為が 対手にとって有益であるか有'当かによって, その行為が褒賞されるに値い する性質のものか, あるいは処削に値いする性質のものかが判断されるの であった。 しかし,行為の功罪に関して(よ結果のみでなく動機も重要であるから, スミスにあっては「適正感」の観点がより娃本的なものであった。 しか も, スミスはハチスン・マンドヴィルの両面批判とL、うことで,利己心の 倫理化を主題とするものであったから, iltl剛の一般的水準以上に慨れたも のを求めたのではなく,社会的に適正であると是認される程嵯のものを蕊 準としていたのである。 つまり, スミスにあっては,美徳は「必ずしもある一弧の性向にだけ存 するのではなくあらゆる性向の示す適正なる程度に存する」1詞ものであっ て, その上, その程度は常に自己と他人との関係におL、て判断されたので ある。 咽この2つの観点は. 『道臨怖拠捕』の第1部と第2部の区分に対唯している。 (17I M,Sp. 448.邦訳(下)638画。 なお, 水田教授はスミスの道徳倫の殖新惟について次のように述べておられる。 「かれは(スミスー引用者)道徳の本質倫を回避して, その社会的機能(社会 的に足認されること)に注目したのであり, そこにかれの邸:命性があった。行 醐や情念の妥当性の規準がその内容ではなくて‘ 脳=程度=適立姓にあるとす れば, どんな内容であろうとも,股さえ適宜であればいいことになる」と。 水川洋一市民社会の道徳哲学」 (季刊社会思想3-1) 146頁。 牙 』 −41−
すなわち「見物人の同感もしくは共感的性向がこの適正なる程度をはか る自然にして原初的な尺度」Hであったのである。 以上のように, スミスにあっては,人間の行為はただ単に利己的である とか利他的であるとかによって,悪徳であるか美徳であるかと判断される ものではなく, なによりもまず社会のなかにおける人と人との関係におい て把握されるものであった。 自己と他人との関係のなかに, スミスは人間行為の道徳的判断の原理を 探るのであった。 その原理が次に説明する同感に他ならない。 (2) 同感概念と公平な観察者 111 スミスの同感は, かつて利他心の系列である同情(compassion) や憐偶(pity) と同一視されたことがあった。 そのために同感を基本原 理とする『道徳情操総』を利他心の体系であるとして,利己心の体系であ る「国富論』とは, 思想上矛盾するという「アダ'ム・スミス問題」]帥が生 じたのであった。 この問題は, スミスの同感概念に対する当時の研究者の理解の不十分さ から生じたものである。 これと解決する上で, スミスの同感を社会関係の なかに求め, なに上{〕もまず人間行為に関する道徳的可否を判断する能力 として把えた太田可夫氏やモロウの研究は画期的であった師。 スミスは, すでに述べたように『道徳情操論」のなかで,道徳論の二つ の問題すなわち道徳の内容の問題と道徳的判断能力についての問題を明 (13M・ S. p. 448, 郎択(下)638画。 (剛大河内一男「スミスとリスト」 (大河内一男著作集第3巻) 1969年 高島善雄「アダム・スミスの市民社会体系」 (昭和49年)第3章参照 (2u太田可夫「アダム・スミスの通徳街学について」 (一怖捕雛第2巻第6号一 「イギリス社会哲学の成立と腱胴」 (昭fⅡ46年)に所収) G.R.Morrow:TheEthical andEconomicTheoriesofAdamSmith, 1923. (Kelley sReprintl969)
アダム・スミスの道徳と経涜(1) 確に区別して即, とくに後者の問題について論じたのであった。 なぜなら 道徳の内容がいかなるものであろうとも,究極的には, それは,美徳であ るか悪徳であるかを判断する能力に依存するからである。つまり, ズミス にあっては,道徳論の第一の問題は第二の問題に包摂されるのである。 し たがって,道徳的判断能力としての同感の分析は, 『道徳情操論』の中心 的主題であった。 「道徳情操論』の副題に「人々がまずもって隣人の行為と性格に関し て,ついで自分自身の行為と性格に関して自然に判断を下す場合における 諸原理の分析を目的とする一試論」とある。 人間の行為や性格を自然に判断する原理とは何か, この原理が「同感」 である。 モロウはスミスの同感を個人に具わる自然的情感としてではなく, 自 己と他人との感情の相互作用を意味する交通の原理として把握し, それが 道徳的判断を可能にするものとしている燭。 したがって,同感は人間が生 来持っている同情や憐榴のような一種の利他的情感でもなく, シャフツベ リやハチスンの主張する個々人が生来持つ道徳感なる特殊知覚能力でもな い。同感は, 自己の感情と他人の感情との関係において道徳的判断がなさ れる能力であった。 だが, このようなモロウの把握はヒューム同感論との区別をあいまいに する一面をもつものであることが指摘されている。すなわち, ヒュームの ぱあいはスミスヘの抗議の手紙からも明らかなように,感情の交通に力点 をおく感情的感染論にとどまるものであった⑬。 ⑪モロウによれば「スミスは道徳の内容と遺徳能ノJの問題を区別したイギリス で最初の道徳家である」 Mcrrowop. cit., p@ 28-"cfMorrowop. cit,, p- 29 燭田中正司「同感論におけるヒュームとスミス」 (思想-1973年11月)参照 cfT.DCampbell :AdamSmith'sScienceofMorals, 1971, P, 95@ pp1O4∼5 なお, スミスは効用に基礎をおくヒューム同感鋪を, とくに『道徳情操総』第 4部で批判している。 −43− 9
ところが, スミスのばあいは,同感は自己と他人との間の「想像上の立 場の交換」 (imaginarychangeofsituation)による感情の一致を意味 していたのである。つま↓) , スミスによると「同感は情感を見たために起 こるというよ!)も, むしろかような情感を刺激した状況を知ったために 起こる」型というものであった。 これば, かな!〕知的なプロセスである。想像力があって, ばじめて情感 を刺激した状況を知ることができるからである。 「感覚によってわれわれは自分一身の領域を越えた事柄を知りえたためし もなければ,知らせるわけにもゆかなL,ので, われわれは他人がどんな感 じを抱いているかについて, なんらかの知識をもちうるのはただ想像のば たらきによってだけである」四とスミスは述べている。 かくして. われわれは想像力によってのみ利害や立場の異なった人々の 理解が可能田になるのである。それ故, スミスの同感ば利害や立場を異に した人々を前提にした上での「自分自身を想像によって他人の立場にお き, そして, この転換にたいするわれわれの情動的反応をとおして, その 他人がこうむっているものを実際に感じとるわれわれの能力」罰として把 握されるものであった。 ’2) スミスは,利害や立場の異なった人々を観察者と行為者(主たる 当事昔) という二つの立場で,同感の原理を次のように説明している。す なわ十),観察荷は自分自身を行為背の立場に想機することによって感じる 同感的感情と行為音の現実的感情とを比較することによって,行為者に同 感しようとしている人々である。行為者は,観察音から同感を得ようとし て観察打がついてこれる程嵯に自己のいだく'情感を抑ilillしようとしている "I M.S、 p. 7部銀(上) 46f'I。 "M.S. pp 3∼4邦訳(上) 42頁。 "cfCampbell op. cit,, p. 97. p, 103.
"A-L.Macfic:Thelndividual inSocicty ;PapersonAdamSmith, 1967p, 93,
舟橘喜恵・犬羽康夫・水田洋択「社会における佃人」 (昭和47年)124頁。
うゞタ'ム・スミスの道徳と経済(1) 人々である。この両者の努力におL、て,つまり観察者と行為者の双方が歩 みよって両者の感情が一致するとき同感が成立し,譲察者は行為者の感情 や行為を是認し, その感情や行為を「適正」であるという。 「ある事柄の主たる当事者の原本的な情感が観察者の同感的情緒(sy-mpatheticemotion) と完全に一致する場合それらの原本的情感はこの 観察臂にとって必然的に眠当であり,適正であ!〕 , それらの情感の起こっ た動機に適合しているものと考えられる。 これに反してその観察者に詳し い事情がわかった結果, それらの情感がかれの感ずるところと一致し厳い ということがあきらかになると, それらの情感はその観察者にとって必然 的に不正であり,道徳的に不適正であり, かような情感を起こした原因に 適合していないものと考えられる」脚と。 以_上から明らかなように, スミスにおける人開行為の道徳的適正の基準 は,観察者と行為者との間に成立する同感に求められたのであった。 しかし,現実の社会は相互に無関心な「見知らぬ人々」 (anassembly ofstrangers)によって構成されてL、るから,相互に相手の立場に立って 相手について行くという想像的同感を期待しうる程度はきわめて小さい。 すなわち,冷静で無関心でよそよそしくのみ他人にかかわりあっている現 実の人々にあってば,扣互に十分な理解者を求めることばむずかい、。 この点を水田洋教授は.同感の原理において.同感する側の観察拝より 同感される側の行為者を重視し,市民社会の日常的な姿である「見知らぬ 人々」 との交渉のなかにこそ行為の社会的妥当性を求めるべきであるとし て,注意深い観察者を同感の社会的性格の褥定的歳表現であると主張され ている郡。 つまりわれわれは,見知らぬ人々からほとんと同感を期待でき ないから, 見知らぬ人々の前では, 自分自身のいだく感情や行為につい てかなりの自己統制(self-control)を余儀なくされるわけである。強力 鯛M・ S. p. 14.邦訳( lt)57頁。 ”水田洋「アダム.スミスにおける同感概念の成立」 (−柵捕誰第60巻第6号) 601∼603頁。 −45− 11
な自己統制があるとき, ばじめて「見知らぬ人々」の同感を得ることがで きる。 かくして,市民社会での日常生活において, われわれは見知らぬ他人と の接触を通して常に自己を統制することを学ぶことになる。 スミスは, この自己統制を市民社会での重要な徳であるとともに,諸徳 を支えるものとして位置づけている。 「自己統制はそオl自体一つの偉大なる美徳であるばかりでなく, それ によってあらゆる他の美徳がその主たる光彩を加えられるように思われ る」側と。 131 ところで,社会は,何ら相互的愛情によって結ばれているものでは なく, むしろ各人各様が自己の利益を追求する利己的諸個人の第合であ る。 人間は, シナの大地震による災害を思うより自分の'1,指の方がもっと大 事である。 “ 1 このように, スミスによれば,人間は利他的本能よりも利己的本能がは るかに強く,他人のことを思うよりもまず自分自身への関心が優先すると 言う。 「…人間は他人のことよりも自分のことを心配する方が一層適当してい る以上, そうすべきが妥当でありまた正当でもある。それ故に,すべての 人は他人に関係のある事柄よりも自分自身に直接関係のある事柄に対して はるかに深い関心を寄せるものである」訓と。 したがって,われわれは,利己心のために他人の諸権利まで侵害するか + 1 もしれない。 ハチスンやマンドヴィルが悪徳と考えたぼどの強烈な利己心をもつ人間 にとっては,それの抑制が道徳の出発点である。つまり「自分の利己心の 高慢の鼻をへし折って他の人間がこれに共鳴しうる程度にまで引き降さな 4 9 5 1 − 3 1 由 ■ 一 p p ○ 屯 S S 邦訳(下)509頁。 邦訳(上) 197頁。 MM 蜘帥
アダム・スミスの道徳と経済(1) ければならない」蝿のである。 この利己心がどこまで許されるかの基準をスミスは,「見知らぬ人々」の 同感を得られる程度に求めたのであった。もちろん,このぱあい見知らぬ人 々の同感は冷たいものであるから,行為者側の自己統制の努力が大きいこ とは言うまでもない。 スミスは, この「見知らぬ人々」のことを冷静で無関心なという意味で 「公平な観察者」 (impartial spectator) と呼んでいる。 したがって, 「公平な観察者」は現実社会のなかに求められるものであって, モロウや キャンベルの言うようにまったく社会的な概念であり,社会の調和と安定 のための社会的コンセンサスを画導くものであった。 しかも, モロウによ れば「公平な観察者は,同感現象において,永久的で普遍的な,かつ合理 的で自然的であることの体現である_脚という。 かくして, われわれは,公平な観察者の立場である世論の声を聞きなが ら, 自己の行為を抑制していかねばならないのである。 (3) 良心と一般原則 11) 市民社会における人間行為の道徳判断は, 「公平な観察者」である 見知らぬ人々の同感を得られるか否かに存するが, このばあい,行為者ば すでに述べたようにかなりの自己統制が必要であった。 ところが, この自己統制はキャンベルが言うように「他人の観点から自 分自身の行為をながめるための行為者の能力」罰と見ることができる。そ こで, われわれは自分自身の行為を判断するばあいには, 自分自身を公平 無私なる立場においてみて, 自分自身の行為に同感できるか否かによっ て, われわれはこの自分自身の行為を是認したり,否認したりする。 このぱあい, 自己は裁判者としての自分と行為者としての自分に二分さ "M.S. p. 120邦訳(上) 199頁。
"cfMorrowop. cit., p. 37cfCampbell op. cit., pp. 1鵠∼9
"Morrowop. cit., p, 37. "Campbellop. cit.,p, 147
13 −47−
れる。
裁判者としての自分とは「想像上の公平な観察者」 (supposedimpa-rtial spectator)のことであり, 「胸中の理想的人間」 (the idealman
withinthebreast)のことであり 「内なる人」 (themanwithin)の ことである。すなわち, それが「良心」 (conscience)にほかならない。 このように, スミスにあっては,良心の起源は現実の公平な観察者の是 認,否認に求められるものであって,全く個人の社会的意識の発展のなか にあるといえる。 この点について, ラフィルば公平な観察者の概念についてのスミスの 独創性が,良心の判断を説明するところにあったと指摘齢している。 こうして, スミスにおける道徳判断の問題は,個々人の良心に求められ ることによって,主体としての倫理の担い手が形成されていくことになる。 スミスは, この良心が強烈な自己の利己的情感を抑制するものとして信頼 する。 「このようにして燈も強力な利己心の衝動を抑制するものは,人間愛 (humanity) といったようなやさい、力でもなく, 自然が人間の心に点 じておいた仁愛というような弱い火花でもない。そのような場合に作用す るものはもっと強い力であり, もっと強制力のある動機である。それは理 性であり,原理であり,良心であり,胸中の居住者であり,内部的人間で あり,われわれの行為の偉大なる裁判官であり,調停者である」罰と。 かくして,市民社会のなかの人間は,良心に従って自己の行為を反省 し,主体的に自己の行為を規制していくという自律した人間に成長したの であった。 (2) ところで,良心の声に従って主体的に自己の行為を規制する自律し た人間も, あるときは,世論の声と街突し対立することがあるかもしれな "cfDD.Raphael :ThelmpartialSpectator,inEssaysonAdamSmith, p. 87. 師M・ S. pp, 193∼4邦訳(上)301∼302頁。 14
アダム・スミスの道徳と経済(1) い。 この点に関しては, スミスはカラス事件を契機として,特に「道徳情操 論」第六版(1790年)において,世論に対する良心の優位を主張してい る。 すなわち,彼によれば良心の作用は,人間を現実の称讃を得たいという 欲求以上に,称讃に値いしたいと欲するように導くというのである。 前者の欲望は,人間を社会に適するような外観をよそおわせるにすぎな いが,後者の欲望は,人間を真に社会に適したいという願望に結びつける ものであった。 それゆえ, 「公平な観察者」の立場を「永遠にして普遍的な真理」とし てとらえるモロウの考えは,道徳の社会性を強調するあまり 「称讃に値い したい」 という願望をもつ人間の生き方を無視することになる。 人は,社会にあって是認されたい,称讃を得たいという欲望だけでな く,是認に値いし称讃に値いしたいという願いを持つ人間でもあった。 晩年のスミスが取り組んだ問題は,単に世論にのみ従う社会的存在とし ての人間の生き方ではなく, それを出発点としながらも, 自分自身の良心 に従って生きようとする主体的な人間の生き方を示そうとしたことであっ た。 世論に対する良心の慨位は,良心が単なる社会的判断の投影でないこと を物語るものである。 だが, スミスにあっては良心と世論の対立は,結局上級の法廷である神 を破後の審判者として求めることによって解決できるとしている。 「すなわち現世の万象をみそなわしその眼は決してこれをあざむくことは できず, その判決は決してこれをくつがえすことはできない裁判官の法廷 に提訴することである」羽と。 このように,社会生活における人間の道徳的判断は,最終的には神に求 められたが, これば,人間が現世における社会生活に希望と期待を持ち, より良い人生が送れるための保証であると理解できる。 −49− 15
(3) 以上のように良心と世論との対立は,究極的には神によって解決さ れるがこれは理神論に基づく考え方である。すなわち, スミスは人間の創 造の時と最後の審判においてのみ人間と神との出会いを肯定し,現実の社 会においては依然として世論あるいは良心が人間行為の道徳的適正を判断 する裁判官であると考えたのである。 しかし, カラス事件が示すように世論は決して常に正しいとはいえ芯 い。 また,良心の声に従って判断しようとしてもわれわれの利己心が強烈で あるため行為をしようとするときには「情感の激烈さのためにわれわれは 第三者の公平さをもって何を行おうとしているかを考える余裕をほとん どもたない」的し,行為をした後でも「自分のことを悪く考えるのは非常 に不愉快なので,われわれは, しばしば意識的にわれわれの眼を,不利な 判断を下させるような諸事情から外らせるようにする」㈹というような行 為の前後において「自己欺嚥」が生じる場合には判断の客観性を失うこと になる。 そこで, スミスば現実社会の道徳秩序として,良心のあやまちをふくみ ながらも漸進的な作用を通じて経験的に形成される道徳上の「一般原則」 (general rules)を人間行為の究極的判断のよりどころにしたのである る・ 「しかしながら, 自然は.…“人類のこの弱点を全く救助の余地のないも のとしてはおかなかった。あるいはまた自然はわれわれを見捨てて完全に 利己心の欺踊の虜としてはおかなかった。われわれが絶えず他人を観察し ているうちに, われわれはいかなることがこれをなすのに妥当であり,道 徳的に適正であるかあるいはいかなることがこれを回避しなければならな いかということに関して,知らず知らずのうちに自らある種の一般原則 ,J, 上上上 くくく 290頁。 341頁。 342頁。 MMM 蜘醐㈹ p p p S s s 邦訳 邦訳 邦訳 7 1 2 8 2 2 1 2 2 −50−
アダム・スミスの道徳と経済(1) (general rules)を作り上げるようになるものである」4,と。 この一般原則を尊重することが人間の義務である。それは人間社会にと ってきわめて重要な原理であり, それによって多くの人々が自己の行動を 支配することのできる唯一のものである。 「これらの義務をかなりよく守ってゆくところに人間社会存立の基礎があ り, もしも人類が一般にこのような重要な行動原則に対する強い尊重心を もたなくなれば,人間社会はおそらく雲散霧消してしまうであろう」回と。 ここに, スミスは「同感」という新しい原理に基づいて,人間のあるべ き道徳秩序を明らかにしたのであった。 彼は, ハチスンやマンドヴィルらの人間観を否定し種々さまざまな感情 や本能をもつありのままの人間を認めた上で,相互の道徳感情の反映の発 展のなかに道徳秩序の形成を求めたのであった。まさに「同感」こそが 「社会の接合剤であり, 道徳的諸規則の根源であった」酌。 このように一般原則は,深く人間性に内在してそのなかから自然に把握 されたものであるから, その社会にあっては自然的なものであり客観的な ものであるといえる。 かくして, スミスの同感の論理は,相異る立場や利害を持つ人間を前提 とした上で,相互の行為の是認の程度を求めることによって個々の同感の 築合のなかから客観的な道徳秩序を形成する認識方法であった。モロウの 指摘するようにこの客観的道徳秩序は,人間相互の道徳感情の反映の積み かさねのなかから経験的に形成されたものである。それ故, その道徳秩序 は不変的真理の秩序のような経験外の合理的秩序でばなく,人間の経験 に内在する秩序であって,経験の状態によって変化する歴史的なもので あった“。 帥M・ S.pp. 223∼4邦訳(上)344頁。 "M, S. pP@ 231∼2邦訳(上)354頁。 (43Macfieop. cit., p、 48邦訳61頁 M4) cfMorrOwop. cit., p. 33.
cfCampbell op@ cit,, pp. 139∼45
(4) 慎慮・仁恵・正義の三つの徳 (11 市民社会における個人間相互の現実的な道徳行為の基準は,個々の 同感現象の経験から帰納的に把握された一般原則に求められたが, この一 般原則のなかで重要であるのが慎窟(prudence) ・仁恵(beneficence) ・正義(justice)の徳である。 この三つの徳に関してスミスは次のよう にいう。 「われわれ自身の幸温に対する配慮は, われわれに慎慮の美徳を推薦し, 他の人々の幸福に対する配慮は,正義と仁恵の美徳を椎蕊する。この正義 と仁恵の美徳のうちで,前者はわれわれを抑制して他人の幸福を侵害しな いようにさせ後者はわれわれを鼓舞して他人の幸福を促進するようにさせ る。……これら三種の美徳のうちの最初の美徳は本来われわれの利己的情 感によって, また他の二つの美徳は本来わ救われの利他的情感によってわ れわれに推薦せられる」燭と。次にこれらの徳性を考察する。 まず,慎慮は利己的動機を基盤とする「個人の健康・財産・身分ないし 名声に対する配慮.すなわち現世におけるその人の安楽と幸福を主として 規定する諸事実に対する配慮」卿である。 それは勤勉(induStry)周到な る用心(circumspection)警戒心(vigilance)節制(temperance) 恒心(cOnstancy)断乎たる決意(firmness)倹約(economy)注意 (attention) を内容にもつものであった。 スミスは, このような慎慮の徳がきわめて経済的側面をもったものであ ることを次のように述べている。 「…勤勉・慎恵ないし用心深さを鼓舞するに最も適した褒賞は一体何であ ろうか。それはあらゆる種類の仕事における成功である。では全生涯を通 じてこのような美徳は仕事を成功に導き損う可能性があるであろうか。富 と外面的な名営とはかような美徳に対する適正なる報償であり, それはま ㈱M.Sp. 385邦択(下)551頁。 ㈱M. S. p、 311 邦眠(下)454頁。
アダム・スミスの道徳と経済(1) たこのような美徳が獲得し損う可能性のほとんどない報償である」期と。 したがって,慎慮は, 自己の幸福を規定する富と名誉の競得のための注 意力と慎重な見とおしとして表現できる。 この慎慮の徳の担い手である「慎慮の人」 (prudentman) IJE ,危険を 犯してまで新しい計画や冒険篭行おうとせず,現在のささやかな幸福を守 ろうとする人々である。また現在の瞬間における安楽を我慢して,将来の 一層大なる安楽を得ようと努力する勤勉な人間であるから,公平な観察者 や内なる人の称讃を常に受けているのである。 スミスは, このような慎慮の人を社会の大部分を構成する「中下層階 級」 (themiddlingandinferiorstationsof life)に見いだしその本 質は「徳への道」 と「富への道」Haとが一致する人々であると信頼してい る。 これらの人々が, 『国富論』における人間行為の動機である「自己の状 態を改善せんとする各個人の自然な努力」卿ないし 「自己の状態を改善せ んとする各人の一様な常住不断の努力」知の欲求をもつ経済的人間5,であ ることは多くの論者の指摘するところである。 以上から明らかなように,填慮の徳は「利己心の合理化形態」廻として. 利己的な商人の社会において生じるべき新しい徳性であった。 スミスは, この点につL、て『グラスゴウ大学講義」のなかで次のように 述べている。 「いかなる国においても商業が導入されるときには, いつも誠実と几帳 ㈱M.S. p、 236邦訳(上)359∼3帥頁。 ㈱M. S・ pp. 86∼7邦訳(上) 151∼152頁。 MjAdamSmith;AnlnquiryintotheNatureandCausesof theWealth ofNations, 1776(TheModernLibrary l965以下,・W、N. と略す) p,508. 大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』 (堵波文庫版) (3) 229頁。 60) W、N、 P. 326. 邦訳 (2) 360頁。 15Dわが国では大河内一男博士の指摘以来,通説となっている。 大河内一男前掲群85頁。 Macfieop. cit, p、 73. 邦訳98頁。 蝿水田洋「市民社会の道徳哲学」 (季刊社会思想3−1) 156頁。 19 −53−
面がそれにともなって起こる。これらの徳は,未開野蛮な国ではほとんど 見られない。ヨーロッパのすべての国民のなかでもっとも商業的なオラン ダ人が, 自己のことばに一番忠実である。これは……国民性に帰せられる べきものではない。…・”それははるかに多く利己心に帰すことができる」弱 と。また, 「民衆の大部分が商人である時には,かれらはつねに誠実と几帳面を普及 させる。 したがってこれらは商業国民の主要な徳性なのである」鼬と。 だが, このような慎慮の徳は自分の幸福にのみかかわることであって, 他人の問題には無関心であるから高尚な美徳ではなく,冷たい尊敬の念を おこさせるにすぎないものであった。 (2) 他人の幸福については,仁恵と正義の徳が推駕される。 仁恵は,積極的な徳である。それは仁愛や博愛のようなもので,他人の 幸福を促進し他人の感謝の念を刺激するから報償に値するものである。こ のように,仁恵ば慎慮と異なり社会的に高貴な徳であって,人間社会にう るおいと快適さをもたらすものである。 したがって, スミス自身も高貴な 徳として認めている。 正義の徳は,一般原則を守ろうとする主体的な態度から生じるものであ る。 それは,他人の幸福を侵害しないという最低の利他心である。利己的な 存在であるわれわれが, それ以上に利己心を追求できない填界である。 このように, スミスは正装ということばを他人の権利一生存権・自由 梅・所有権一を侵害しないという意味で用いている。 つまり,正義は, だれでも坐ったままで守ることができるという消極的 な徳であって, それを実行するだけでは別に称讃に値L、するものではなか った。 6JAdamSmith:LecturesonJustice,POlice,RevenneandArms (Kelley'sReprint l964)p. 253. 高島善哉・水田洋訳「ク.ラスゴウ大学講義」452頁 "A. Smith:LecturesonJustice.etc.,p, 255邦訳454頁。
アダム・スミスの道徳と経済(1) だが,正義は文法の法則に比較されるように社会を支える大黒柱である から,一般原則のなかで股も重要な徳であった。 この点に関して, スミスは正義と仁恵の徳詮比較している。 仁恵は社会を快適にし, われわれに気持ちの良い社会生活を送れるよう にするけれども社会を支える土台ではない。仁恵が欠けている社会は快適 さにおいて劣るが,正義だけが確立されてL、れば社会は存立することがで きるというものであった。すなわち,仁恵は「社会という建築物を飾りた てる装飾品であるが, それを支える土台石ではない。……これに反して, 正義ば社会の全殿堂を支える大黒柱である。 もしも正義が取り除かれたな らば人間社会という巨大な構造物,−かような構造物を建築し維持するこ とが, この世の中では, いわば自然の特別の愛情のこもった配慮である ように考えられる−は瞬時にしてばらばらに土崩瓦壊しなければならな い」田と。 ここに, スミスの市民社会の認識がある。すなわち,正義だけが確立さ れておれば「社会ば, あたかも異る商人達の間におけるように,異る人々 の間において,何ら相互的愛情とか愛着とかがなくとも,お互いのもつ効 用(utility)の感覚から存立することができる。 そしてその社会に住む ものが誰一人としてお互いに何らの義務も感ぜず, あるいはお互いに何ら 感謝の気持ちで結ばれていないとしても, なお社会は,合意的な価値評価 にもとずくめいめいの尽力の欲得ずくの交換によってもこれを維持するこ とができるのである」田と。 このような社会は, スミスが了国富論」で述べてL、る「あらゆる人が交 換によって生活し, つまりある程度商人となる」 L、わゆる「商業社会」師 (commercialsociety)に他ならない。「商業社会」においては,各人は 利己的本能に従って自己の利益の実現を目ざそうとするから,相互に仁恵 M M W |㈱醐翻 邦訳(」') 郊訳(上) 郎択 ll) 204頁。 203頁。 133頁。 p p p ■ S S N 5 4 4 蝿 哩 2 −55− 21
は期待できず,正義だけが確立されていれば存立できるというものであっ た。 「われわれは自分たちの食事について,肉屋や酒屋やパン屋の仁愛に期待 することはなく,むしろかれら自身の利益にたいするかれらの顧慮に期待 するのである。われわれは, かれらの人間性にでばなく,その自愛心に話 しかけ, しかも彼らにわれわれ自身の必要を語るのでばなく,彼らの利益 を語ってきかせるのである」鋤と。 このように, スミスは18世紀の中葉におL、て,利己的な諸個人の社会が すでに自律しているのを発見したのであった。 仁愛的な絆によってではなく,各人各様が自己の利益を追求するという 社会が秩序正しく調和が保たれていたのであった。 彼ば, このことを直観的に次のように表現している。 「われわれが人間社会をある種の抽象的な哲学的な観点から考察する場 合には, そればあたかも規則正しい調和のとれた運動が無数の快的な結果 を産み出すところの一種の広大無辺の機械のように見えるものである」的 と。このような快的な結果を産むための社会秩序を人間の側から経験的に 帰納的に探りだすことが道徳哲学者スミスの課題であった。彼の「同感」 と「公平な観察者」の論理から導かれた道徳論こそがそれに答えるもので あって, とりわけ,慎慮と正義の徳はその中心であった。 これらの徳に導 かれて,個々人は社会秩序を維持しながら物的に豊かで幸福な社会生活を 営むことができる。 131 ところで, すでに明らかなように,慎慮の徳は個々人の幸福と関連 して,利己的な商人の社会関係のなかから個々人が学びとる徳であり, そ の発動は個々人の思慮分別にまかされた。 ところが,正義の徳は,だれでも坐ったままで守ることができるという 消極的な徳であるから強制されねばならない。なぜなら,すでに見たよう 鴎W、N. p. 16, 邦訳 (1) 118頁。 69) M.S. pp、 463∼4、 邦訳(下)662頁。 −56−
アダム・スミスの道徳と経済(1) に正義は社会存立のために必要な土台であるからである。 「正義の侵犯は,人々がお互いに決してこれを耐え忍ぶことができないの であろうと思われる事柄であるが故に,為政者はこの美徳の実践を強制す るために国家の力を利用する必要にせまられるのである」帥と。 このように,正義は徳としての道徳の領域と法としての法学の領域との 接点に位證づけられていることが明らかである。 それゆえ,内田義彦教授の指摘されるように, スミスの課題は倫理学と 法学を正い、基準の上に分けることによって国家の強制力の発動すべき限 界を明轤にすることであった(6,。 すなわち,正義とは何かを明らかにする ことであった。 この点に関してスミスは,正義の根拠を次のように述べている。 「富・ 名誉ならびに高い地位を目指して行われる競争において,かれは, 自分の すべての競争相手を追い抜くために出来るだけ一生懸命に走り, あらゆる 神経・あらゆる筋肉を緊張させるであろう。だがしかしもしかれが相手の 一人を踏みつけて走ったり, あるいは引き倒したりすれば, 見物人ば大目 に見る態度を完全にやめてしまう。それはフェア・プレーを犯すことであ り,見物人はそれを許すことはできない。見物人にとっては, この妨害を 受けた人もあらゆる点において妨害した人と同様に善良である。すなわ ち,見物人は妨害者がこの被害者を無視して自分のことだけしか考えない あの利己心に移入せず, したがって妨害者が被害者を傷つけた動機に共鳴 するわけにはゆかない。それ故に,見物人はたちまち被害者の自然の報復 感に同情し,妨害者はかれらの憎悪と憤怒の対象となるのである」鋤と。 このように, スミスにおける正義は個々人に加えられた侵害に対する個 個人の自然の反感を観察者が支持することを通じて発展するものであっ て, ヒュームのように「社会全体に対する効用」にその根拠を求めるもの M, S. P. 501, 邦訳(下)706頁。 内田義彦「経済学の生誕」 (卿補,昭和46年) 106頁。 M. S. P. 120. 邦訳(上) 199頁。 ㈱蜘蠅 −57− 23
ではなかった。 すなわち, スミスは現実に存する種々さまざまな人間をそのまま認め, その個々人相互の道徳感情の反映の積みかさねのなかから「自然の正義感 が命令するはずの諸原則」を求めようとしたのであった田。 彼は, それを「自然的正義」 (natural justice) と呼んでいる。 スミスは, この「自然的正義」 と「実定法」 とが雄密に一致した国はな いとしながらも,グロチウスにならって, 自然法学の存在について次のよ うに述べている。 「適切に自然法学(natural jurisprudence) と称することのできる学 説, いいかえるならばあらゆる国民の法律を一貫し, それらの法律の基礎 とならねばならない一般的原理に関する理論を樹立することを目的とすべ きであった」岬と。 スミスは, 「自然法学」についてはこれ以上『道徳情操論』のなかで述 べていない。 「自然法学」の具体化ば, 『グラスゴウ大学講義」や『国富論』において 展開されることになる。 「私は別の論文において,法および統治の一般的原理に関する説明, なら びにそれらの原理が社会におけるそれぞれ異る時代ないし時期において, 単に正義(もしくは司法)に関する事柄だけでなく,行政,国家収入,軍 備ならびにそのほか法の対象となるあらゆる事柄につL、て蓑った種々の変 革に関して説明を与えようと努力するであろう。それ故に, ここでは法学 (ならびに一国の法制)の歴史に関してこれ以上くわしく立ち入って論じ ないであろう」観と。 かくして,次の課題は, スミスの法学や経済学の内容とその関係を考察 することである。 (未完) 卿 『道徳摺操論jにおけるスミスの正義浦の恵凝については,田中]E司「アダム・ スミスの正誰愉」 (横浜市立大学論描第26巻第1,2合併号) 星野彰男「アダム・スミスの思想像」(1976年)第一部第三軍参照 "M・S. p@ 503@ 邦訳(下)708頁。 ㈱M・ S. p、 503. 邦訳(下)708∼709頁。