ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担 : 大阪府千里ニュータウンを事例に
著者 赤坂 義浩
雑誌名 同志社商学
巻 56
号 5‑6
ページ 101‑123
発行年 2005‑03‑15
権利 同志社大学商学会
ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007314
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担
──大阪府千里ニュータウンを事例に──
赤 坂 義 浩
はじめに
蠢 北大阪急行電鉄の整備過程 蠡 北大阪急行電鉄の輸送と経営
蠱 ニュータウン交通整備に対する公的支援制度の形成 結 語
は じ め に
戦後わが国の高度成長期において,首都圏や京阪神圏を中心とする大都市圏では,人 口流入にともなう住宅需給の慢性的逼迫が生じていた。その抜本的解決策として,大規 模ニュータウンの建設による住宅の大量供給が進められたことは周知のことであろう。
これら大規模ニュータウンの建設は,用地確保の関係から,都心から離れた郊外部に建 設された。このため,そのインフラストラクチャーとして都心へのアクセス交通の一体 的整備が不可欠であったことは言うまでもない。大規模ニュータウンの開発主体は,開 発区域が複数の市町村にまたがることやその開発規模の大きさなどの諸事情から,主に 都道府県を中心とした公的部門であった。このように,開発主体と交通事業者が別個の 主体の場合,住宅建設・入居に先んじてアクセス交通の整備が進められる際には,アク セス交通を整備運営する交通事業者には経営上の大きな負担が生じる。その事業リスク の問題を解決しない限り,交通インフラの整備は進まないことになる。
そこで本稿では,戦後大阪北郊に建設された千里ニュータウンの事例を中心に,その 交通インフラの整備過程をたどりながら,戦後のニュータウン建設における公共交通整 備に伴う交通事業者のリスク軽減策の検証を試みるものである。
Ⅰ 北大阪急行電鉄の整備過程
1.千里ニュータウンの開発
敗戦後における東京,大阪などの大都市では,空襲による住宅の焼失によって住宅供 給が減少する一方,引揚者の帰国や都市への人口流入により,都市における住宅需要は 急増した。このため,大阪都市圏においても,住宅市場における需給の逼迫が急速に深
(621)101
刻化した。その対策として,各自治体による各種公営住宅の建設や,国による
1950
(昭和
25)年の住宅金融公庫の創設といった諸施策により,住宅供給の増加が企図され
た。しかし,これらの諸施策をもってしても,住宅の供給が需要の増加に追いつかない ことから,行政区域を越えて大規模に住宅地建設を行うことで住宅不足を抜本的に解消 するべく,1955(昭和
35)年に日本住宅公団が創設された。この住宅公団の手によっ
て,東京,大阪などの大都市圏郊外部を中心に,いわゆる大規模団地の建設が進められ たのであ1
る。
こうした動向を背景に,1957(昭和
32)年 10
月,大阪府建築部は「千里丘陵総合開 発について」と題する大規模住宅建設計画を策定した。この計画は当初住宅公団が策定 に着手したもので,のちに,大阪府が事業主体となる形で立案され,具体化したもので あっ2
た。この計画では,同年の大阪府全域における住宅供給不足は約
17
万戸であり,さらにその後も毎年約
2
万5000
戸の住宅の需要増加が続くと推計された。そのような 状況で,府などの地方自治体や日本住宅公団による住宅建設,住宅金融公庫による支援 策においては,用地確保が年々困難になってきた上,団地建設に際しては,上下水道,教育施設などの整備をめぐる都市計画上の問題も生じた。こうしたことから,大阪府が 中心になって基本計画に基づき,公営,公庫,公団による住宅供給を総合した大規模な 住宅開発を目指して,同計画が策定され
3
た。
当時,大阪府が総合開発を計画していたのは,千里丘陵のほか,香里,生駒山麓,羽 曳野,信太山,泉南の各地域であった。このうち,とりわけ千里丘陵については,大阪 都心部から
15 km
圏内にありながら住宅地としてはほとんど未開発のままであったこ とから,ここに府下最初の大規模ニュータウンの建設が決まったのである(地図1)
。 計画では,ここに公営住宅1
万戸,公団賃貸住宅1
万戸,公営分譲住宅3000
戸,公団 分譲住宅3000
戸,そのほか4000
戸,民間住宅1
万5000
戸,さらに中心市街地造成の ための併存住宅として,公団,公営で5000
戸の住宅を建設し,少なくとも約20
万人の 人口を確保するとしていた。事業用地は600
万坪,総事業費は1209
億3020
万円を要 し,1957(昭和32)年から 1963(昭和 38)年の期間におおむね事業を完了する予定で
あっ4
た。
アクセス交通の整備計画としては,すでに開業している京阪神急行電鉄(現,阪急電 鉄。以下,阪急と表記)千里山線(現,千里線。以下千里線と表記)の北伸延長のほ か,大阪市営地下鉄御堂筋線の延長が計画された。また,住区相互間や,各地区センタ
────────────
1 『新修豊中市史第9巻 集落・都市編』,同市史編纂委員会編,1998年,第5章第5節368−369ペー ジ。
2 槌田 洋「大阪大都市圏の形成とニュータウン開発(1)」『経済論叢』(京都大学)第161巻第2号,1998 年,71−73ページ。
3 豊中市,前掲書,362ページ。
4 豊中市,前掲書,364−365ページ。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
102(622)
地図1 千里ニュータウンの位置
資料:片寄俊秀『ニュータウンの建設過程に関する研究』(長崎造船大学研究報告 第17巻第2 号別冊 1976年)
15ページ図1, 2, 5。原典は大阪府企業局『千里ニュータウン』(同局 1969年)
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (623)103
ーごとに設置予定の駅と住区を結ぶ形でのバス路線の運行が予定され
5
た。この千里丘陵 総合開発計画は,1958(昭和
33)年 5
月に事業開始決定され,以後,1970(昭和45)
年にかけて開発が進められたのである。
2.ニュータウンアクセス鉄道整備の事業リスク
かくして,開発が始まった千里ニュータウンであったが,そのアクセス交通の整備に 関しては,解決しなければならない懸案があった。鉄道事業は,大規模な設備を必要と することから,設備投資額の大きな産業である。しかも,専門技能を持った人員を多数 擁することから,労働集約的な側面もある。こうした鉄道事業における設備の保有,人 件費等鉄道運営にかかる費用は,輸送サービスの産出量の大小に応じて変動しにくいと いう性質を持つ。したがって,鉄道事業における経営の成否は,大量の輸送需要を確保 することができるかどうか,すなわち,大量高密輸送市場が存在するかどうかにあると いえる。一方,鉄道の整備によって外部効果が発生するが,このときその受益者と,鉄 道の整備主体が別個の主体であった場合には,そうした外部効果は鉄道事業者には還元 されにくい。なぜなら,鉄道事業の整備や維持にかかる諸費用は,鉄道利用者からの運 賃収入のみでまかなわれるため,例えば鉄道建設時に生じる地価の上昇は,鉄道事業者 にとっては建設費(用地取得費)の上昇という形で影響するが,それによって生じる開 発利益は,開発者から鉄道事業者へ還元されることはな
6
い。
こうした鉄道事業における固定費産業的な性質と社会資本的な性質は,ニュータウン 鉄道の整備にあたって,大きな事業上のリスクを生じる。すなわち,郊外ニュータウン においてはアクセス鉄道の整備が不可欠であるが,鉄道事業者は,多額の設備投資をし て路線を新設しても,開発の進捗と沿線人口の増加が遅れた場合,路線を維持するだけ の大量の輸送需要の確保が難しく,利用者が増加するまでの間,鉄道経営上の大きな負 担が生じるのである。したがって,これは鉄道事業者にとっての事業リスクとなるので あり,これを解決しなければ,必要とされる鉄道輸送サービスが十分に供給されない。
この点について,千里ニュータウンのアクセス交通の場合は,(1)万国博覧会会場の千 里丘陵への誘致=観客輸送を通じた大量の輸送需要の創出,(2)事業主体の設立や資金 調達における公的支援などの枠組みによって,このような鉄道事業者のリスクを軽減す る試みを行ったといえよう。以下,具体的にその整備過程を見てみよう。
3.千里ニュータウンアクセス鉄道整備計画の源流
千里ニュータウン開発における交通計画の源流は,大阪府の千里ニュータウン計画に
────────────
5 豊中市,前掲書,364, 374−375ページ。
6 斎藤峻彦『私鉄産業−日本型鉄道経営の展開−』晃洋書房,1993年,52−57ページ。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
104(624)
影響を与えた,いくつかの委託研究としてまとめられた計画の中に見ることができる。
まず,日本住宅公団が,大規模団地の建設にあたって,日笠端ら日本都市計画学会に委 託した研究「新住宅都市の計画基準に関する研究」があ
7
る。この委託研究は,「土地利 用」,「規模と形態」,「地区および住区の構成」,「中心地区」,「建築的施設」,「設備施 設」,「交通施設」,「緑地施設」,「住宅都市経営」から構成されている。このうち「交通 計画」では,街路の整備のほか,バス施設計画,鉄道施設計画について述べられ,住宅 地内のバス路線のあり方,鉄道駅の必要性と騒音対策,ラッシュ対策の必要性にふれら れており,鉄道・バスの公共交通を主軸とした街づくりが想定されていた。この研究 は,大規模団地建設の方向付けを示したものであるが,特定の具体的な場所の開発に関 する実践的な計画という訳ではなかった。
この研究とほぼ同時期に,同じく日本住宅公団から京都大学西山卯三研究室への委託 研究「北大阪丘陵地帯の開発計画に関する研究」が行われた。この計画は,千里丘陵に おける大規模団地建設の具体的計画であり,これは府の開発計画に直接的影響を与えた と言われてい
8
る。ここでは,交通計画が重視され,具体的な整備方針が示されているこ とが特徴である。その概要は,
(1)主要交通機関として,鉄道交通とバス交通をあげて計画路線を選定し,計画路線 の優劣を,1)年間固定費,2)車両年間走行費,3)年間通勤時間の合計の
3
点で比 較し,順位づけをする。(2)住宅地開発のための電鉄新線の経営について検討を行い,住宅建設速度と鉄道敷 設の段階計画,運行計画を仮定して収支を検討する。その結果,「ウマ味はないがあ る程度有利な事業」であることを明らかにした。
(3)(1)(2)の結果を踏まえて,1)開発のタイミングを考えると,地下鉄(大阪市 営地下鉄
1
号線=御堂筋線−筆者注)の延長よりも阪急千里山線(現,阪急千里線−筆者注)の延長の方が現実性があるのでこれを第
1
次段階で進める。2)都心への直 通という点と,千里山線の輸送負担能力の限界性から地下鉄線延長は不可欠であり,さらにこの両者の交叉によってその駅付近の交通量が多くなりうる可能性をもち,中 心地区の開発が割合自然に行えること,等の理由によって第
2
次に地下鉄線の延長を 考える。というものであっ
9
た。
────────────
7 片寄俊秀『ニュータウンの建設過程に関する研究』長崎造船大学研究報告第17巻第2号別冊,1977 年,166−171ページ。
8 同書,171−187ページ,片寄俊秀『実験都市−千里ニュータウンはいかに造られたか』社会思想社,1981 年,110−112ページ。
9 片寄,前掲『ニュータウンの建設過程に関する研究』,172ページ。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (625)105
北公園
古江台4丁目 きたせんりやま きたせんりやま
しんせんりやま しんせんりやま 南地区センター 南地区センター 中央地区
中央地区 センター センター
きたせんりやま
しんせんりやま
せんりやま 藤白台
山田上 弘済院
山田上 津雲台
高野台
佐竹台1-25-1 南地区センター
佐井寺 千里1号線
佐竹台 上新田
下新田 中央地区 センター 中央環状線
青山台 千里4号線
千里3号線 千
里2 号線 古 江 台
南 公 園 新御
堂筋
央中 公 園
北 センター
4.ニュータウン東部・東北部のアクセス鉄道整備
この西山案は大阪府の開発計画に大きな影響を与え,千里ニュータウンのアクセス鉄 道の整備は,阪急千里線の延長から始まった。大阪府から千里線のニュータウン乗り入 れ要請を受けた阪急電
10
鉄は,府と協議の上で路線整備計画を策定した。それによれば,
同線の終点千里山駅から路線を北に
1.5 km
延長してニュータウン南部に達する一方,この延長線からさらに北西へ路線を分岐させ,箕面線桜井までの路線を新たに建設する というものであった(地図
2)
。それにより,混雑が慢性化していた宝塚線のバイパス 線をも同時に整備する計画だったのであ11
る。この千里線延長計画のうち,千里ニュータ ウン開発に直接関わる千里山−新千里山(現,南千里)間
1.57 km
は,第1
期工事とし て1962(昭和 37)年 7
月3
日に事 業 認可,同
8
月に着工し,総工費約10
億円 を投じて翌1963(昭和 38)年 8
月29
日 に 竣 工,開 業 し た。こ れ に よ り,1962(昭和
37)年 9
月に入居開始となってい た,吹田市佐竹台,高野台の住民の大阪 都心部へのアクセス交通が改善され12
た。
この第
1
期線では,比較的府の計画と 路線建設のタイミングがうまく合致し,順調に整備が進んだのであったが,第
2
期線においては,府の開発スケジュール に変更が生じたため,鉄道の整備計画も 変更を迫られた。すなわち,府は次に,第
2
期線から距離があるニュータウン北 センター付近の開発を先に着手すること となり,また,それに続けてニュータウ ン東北部の吹田市古江台,青山台,藤白 台地区の開発を手がけることとなった。このため,府と阪急は協議を重ね,箕面 線桜井と連絡する第
2
期線建設計画は大────────────
10 同社は,1910年の創業時は「箕面有馬電気軌道」,1920年の神戸線開業時には「阪神急行電鉄株式会 社」,さらに,1943(昭和18)年の京阪電鉄との戦時統合により「京阪神急行電鉄株式会社」,そして 戦後両社再分離後の1973(昭和48)年に「阪急電鉄株式会社」と社名変更を行う。本論では,同社の 名称を「阪急電鉄」,あるいは「阪急」に統一して叙述することとする。
11 阪急電鉄『75年のあゆみ《記述編》』同社編,1982年,60−62ページ。
12 同書,62−63ページ。
地図2 阪急千里線延長線
資料:阪急電鉄『75年のあゆみ(記述編)』
(同社,1982年)66ページ。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
106(626)
きく変更を余儀なくされ,第
1
期線新千里山 駅 か ら さ ら に 北 に3.4 km
の 北 千 里 山(現,北千里駅)まで延伸することとなり,桜井連絡線建設は中止となったのであ
13
る。
第
2
期線新千里山−北千里山間は,1965(昭和40)年 1
月25
日敷設免許取得,同年12
月11
日に着工され,総工費約18
億円を投じて1967(昭和 42)年 3
月1
日に竣工,開業となった。これにより,千里ニュータウン東北部の各地も梅田と直結されることと なった。さらにこの路線は,2年後の
1969(昭和 44)年 12
月6
日,大阪市営地下鉄堺 筋線延長線と相互乗り入れが開始され,大阪都心へのアクセスルートが増設されるに至 ったのであ14
る。
このように,千里ニュータウン東部・東北部のアクセスは,大阪府と阪急電鉄の緊密 な協議の上,阪急の直接のリスク負担で路線の整備が進められたのであるが,まだ未開 発であったニュータウン中央部のアクセスとして予定されていた大阪市営地下鉄
1
号線=御堂筋線の延伸計画は,建設距離が長く,しかも沿線人口が少ないことから,同様の 枠組みでは整備が困難であった。そこで,1970(昭和
45)年の万国博覧会誘致を契機
として,新たな鉄道整備の枠組みが形成されることになった。5.北大阪急行電鉄の設立
万博開催の契機は,1963(昭和
38)年 9
月,万国博覧会国際事務局会長レオン・バ レティから大平正芳外務大臣(当時)に対する,「国際博覧会に関する条約」への加盟 の打診であった。政府は,大阪府,大阪市,大阪商工会議所の要請をうけて,翌1965
(昭和
40)年の国際博覧会条約加盟の手続きを経たのち,万国博覧会国際事務局に対し
て
5
年後の万国博開催国に立候補した。これをうけて同事務局は,戦後,アジア初の万 国博の開催国を日本に決定した。会場の選定については,大阪府,大阪市,大商などの 誘致により,折しも開発中の千里ニュータウンを会場とすることに決したのであ15
る。
千里万博の開催に際して設置された日本万国博覧会協会は,その実施計画の策定にあ たり,観客輸送についての検討を重ねた。同協会の基本計画では,会期中
7
ヶ月間の予 想観客数が3000
万人,1日平均入場者数16.4
万人,休日のそれは42.1
万人と予測され ていた。この観客輸送においては,鉄道の輸送分担率が60% と見込まれた。そこで必
要な輸送能力は,ピーク時入場者数を42
万人と試算して,その60%,すなわち 1
日あ たり26
万人弱の輸送力が必要と見積もられた。これに対し,既設鉄道各線の輸送力 は,最も会場に近い阪急千里線で約7
万人,阪急京都線茨木市駅1
万人,その他近隣各 駅で1
万3000
人,国鉄(現,JR西日本)は東海道線茨木駅が3
万6000
人,千里丘駅────────────
13 阪急電鉄,前掲書,63−64ページ。
14 阪急電鉄,前掲書,64−67ページ。
15 北大阪急行電鉄(株)『北大阪急行25年史』同社編,1994年,32−33ページ。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (627)107
が
9000
人で,阪急・国鉄両社合計で1
日あたり13
万8000
人となり,既設鉄道の輸送 能力は所要輸送能力の50% しかないことが判明した。したがって,不足する輸送力を
どのように補うかが懸案となっ16
た。
1966(昭和 41)年に発足した通産省・万国博協会委嘱の会場計画原案作成委員会
と,運輸省(現,国土交通省)大阪陸運局ほかによる鉄軌道問題懇談会の両者は,観客 輸送には輸送効率が高い鉄道が不可欠と結論づけており,前者では,当時,東海道新幹 線開業にあわせ新大阪まで延伸開業していた大阪市営地下鉄御堂筋線,および会場最寄 りの阪急千里線,そして国鉄東海道線茨木駅から,それぞれ会場までの延長線の建設を 計画していた。しかし,わずか半年足らずの万博輸送のために多額の投資をして新規に 路線を建設した場合,万博閉幕後の輸送需要確保の問題,すなわち,千里ニュータウン の住宅開発と歩調が合わなければ,路線の維持を可能にするだけの輸送需要の確保が難 しく,事業リスクが大きかった。このことから,大阪市交通局,阪急,国鉄の
3
社局と も,自社のリスク負担による会場アクセス線建設には消極的であっ17
た。
そこで万博協会は,通産省(現,経済産業省),運輸省,大阪府,大阪市との間で協 議の上,政府に調整を依頼した。これをうけて政府は,1967(昭和
42)年 2
月,会場 アクセス路線の新規建設は,大阪市営地下鉄1
号線(御堂筋線)を延伸することとし,事業リスクの分担などを勘案して,江坂以北は阪急,大阪府,大阪市,関西電力により 設立する新会社が事業主体となり,政府が建設費の利子補給,財政融資により援助する という方向を打ち出した。この政府案をうけ,同年
6
月に運輸相,通産相,大阪府,大 阪市,阪急による「5者会談」が行われ,次の事項について申し合わせを行っ18
た。
(1)万博急行(江坂〜上新田〜会場)の建設運営は阪急の子会社が行う。
注漓阪急の子会社は株式の大半を阪急が所有し,民営企業の性格を十分活かすよう努めること 滷免許申請はとり敢えず阪急が行い,子会社発足の際切り換えることもありうる。
(2)大阪府は工事協力,出資,無利子資金の貸付について協力する。
(3)大阪市はできるだけ工事協力を行うほか,相互乗り入れ等について前向きの方向 で検討する。
(4)万博協会は上新田〜会場線についてはその建設資金に相当する金額を負担するこ と。
(5)運輸省は江坂〜上新田間については,開銀の低利融資について斡旋を行うよう努 める。
※「上新田」=現,「千里中央」駅
────────────
16 阪急電鉄,前掲書,72−74ページ,および北大阪急行,前掲書,32−36ページ。
17 北大阪急行(株),前掲書,34−35ページ。
18 北大阪急行(株),前掲書,35ページ。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
108(628)
すなわち,会場アクセス線の建設は,大阪市営地下鉄御堂筋線の延長に絞り,この地 域を営業エリアに持つ阪急に配慮して,アクセス鉄道の建設・運営主体は阪急を中心に 設立される子会社とした上で,路線建設にあたって生じる事業リスクを,政府,大阪 府,大阪市など公的部門の支援により軽減することが取り決められたのである。
万博入場者の具体的な輸送計画の策定,実施は急がれ,同年
7
月には江坂−上新田−会場間鉄道の建設,運営新会社の設立発起人が選出され,小林米三(阪急電鉄社長,当 時),左藤義詮(大阪府知事,同),芦原義重(関西電力社長,同),堀田庄三(住友銀 行〔現,三井住友銀行〕頭取,同),上枝一雄(三和銀行〔現,UJF銀行〕頭取,同), 寺尾威夫(大和銀行〔現,りそな銀行〕頭取,同),森薫(阪急電鉄副社長,同)の
7
氏が選ばれ,創立事務所は阪急本社内に置かれた。1967(昭和42)年 7
月25
日に発起 人会が開かれ,定款案の承認,発起人総代を小林米三氏とすることなどが決められた。また新会社の社名は,北摂急行電鉄株式会社,北大阪急行電鉄株式会社,万博急行電鉄 株式会社,新阪急電鉄株式会社,北摂阪急電鉄株式会社の各候補のうち,「北大阪急行 電鉄株式会社」とすることに決まっ
19
た。
最初の発起人会から
3
日後の同年7
月28
日,北大阪急行電鉄は,地方鉄道法による 路線免許を運輸省に申請した。総工費は南北線が87
億4600
万円,会場線が34
億1300
万円と見積もられ,後者は純粋に万国博の観客輸送のためだけに建設され,閉幕後は撤 去されることから,その建設費は万国博協会の全額負担となった。しかし,万博閉幕後 も千里ニュータウンの足として不可欠な南北線の建設については,北大阪急行電鉄が自 ら資金調達する必要があった。このうち10
億5100
万円は大阪府から低利融資(元金7
億4900
万円,支払利息3
億200
万円)を受け,元利合計金額を5
年間据え置いた後,昭和
50
年度から5
年間で均等返済するという内容であった。これは先の申し合わせ事 項に基づくものである。また,50億6500
万円は三和銀行,住友銀行,大和銀行,太陽 神戸銀行〔現,三井住友銀行〕など都銀,地銀各行からの借入であったが,日本開発銀 行〔現,日本政策投資銀行〕大阪支店からの融資分が29
億5000
万円分あり,銀行借入金の約
58% が開銀融資分であったから,大阪府融資分と合わせると,南北線建設費の
少なくとも
42% 余りについて,資金調達上,公的部門の支援を得ていたといえよ
20
う
(第
1
表)。日本開発銀行の私鉄に対する融資は,折しも昭和40
年代に拡充されてお り,ここでも開銀融資が資金調達において大きな比重を占めていたといえよ21
う。出資構 成も,先の
5
者会談の申し合わせ事項の通り,阪急が50%,大阪府が 25% を出資し,
残る
25% を在阪公益企業と銀行各行が出資している(第 2
表)。創立総会時の役員構成────────────
19 北大阪急行(株),前掲書,36ページ。
20 北大阪急行(株),前掲書,43ページ。
21 和久田康夫「私鉄政策」(運輸経済研究センター編『戦後日本の交通政策−経済成長の歩みとともに』
白桃書房,1990年),155−156ページ。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (629)109
第1表 北大阪急行電鉄 鉄道建設費銀行借入金及び大阪府工事協力 借 入 先 借入額
(百万円) 当初完済予定日 最終完済日 三和銀行本店 260 1979−7−31 1986−1−31 住友銀行本店 260 1979−7−31 1986−1−31 大和銀行本店 260 1979−7−31 1986−1−31 太陽神戸銀行大阪支店 260 1979−7−31 1986−1−31 三井銀行大阪支店 70 1976−2−28 1980−2−29 三菱銀行大阪支店 70 1976−2−28 1980−2−29 富士銀行大阪支店 70 1976−2−28 1980−2−29 池田銀行梅田支店 25 1976−2−28 1979−5−31 日本興業銀行大阪支店 280 1979−4−30 1979−4−28 日本長期信用銀行大阪支店 280 1979−7−31 変更なし 日本不動産銀行大阪支店 280 1979−3−31 変更なし 日本開発銀行大阪支店 900 1988−12−25 1988−12−26 日本開発銀行大阪支店 2,050 1989−8−31 変更なし 銀行借入金合計 5,065
大阪府(元金) 749 元利合計金額を5年間据置 1975年度から5年間均等返済
元利合計金額を5年間据置 1975年度から10年間で返済 大阪府(利息) 302
大阪府借入合計 1,051 1980−2−23 1985−2−23 借入金総額 6,116
資料:『北大阪急行25年史』43ページ 表1−2。
第2表 北大阪急行電鉄株主構成 保有者名 持株数
(万株)
持株比率
(%)
阪急電鉄株式会社 150 50.0
大阪府 75 25.0
関西電力株式会社 15 5.0 大阪ガス株式会社 12 4.0 株式会社三和銀行 12 4.0 株式会社住友銀行 12 4.0 株式会社大和銀行 12 4.0 株式会社さくら銀行 12 4.0
合 計 300 100.0
注:社名は1969(昭和44)年当時のもの。
資料:『北大阪急行25年史』183ページ 巻末資料。
第3表 北大阪急行電鉄役員一覧(創立総会時)
氏 名 役 職 兼 任
森 薫 取締役社長 阪急電鉄(株)副社長 天野 毅彦 専務取締役 阪急電鉄(株)常務取締役 田中 楢一 取 締 役 大阪府副知事
芦原 義重 取 締 役 関西電力(株)社長 小林 米三 取 締 役 阪急電鉄(株)社長 廣瀬 顕三 取 締 役 阪急電鉄(株)専務取締役 山本 捨三 取 締 役
木戸 要吉 常任監査役 大阪府前出納長 西山 磐 監 査 役 大阪ガス(株)副社長 資料:北大阪急行電鉄(株)「第1回営業報告書」、『北大
阪急行25年史』39ページから作成。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
110(630)
箕面市
吹田市 吹田市 桃
山 台 桃 山 台
北 大 阪 急 行 電 鉄 線 北 大 阪 急 行 電 鉄 線
千 里 ニ ュ ー タ ウ ン 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン 南千里南千里
淀川 淀川
大阪駅 大阪駅 大 阪 市 高 速 電 気 軌 道 第 一 号 線 大 阪 市 高 速 電 気 軌 道 第 一 号 線 千里中央駅 千里中央駅
万国博中央口駅 万国博中央口駅 仮設
仮設 千里中央駅 千里中央駅
吹田市
名神高速道路 東海道本線 豊
中 市 阪
急 宝塚
線 大阪
池 田線
服 部 緑 地
桃 山 台
北 大 阪 急 行 電 鉄 線
千 里 ニ ュ ー タ ウ ン 石橋
中国縦貫道路
繊維団地 大阪大学
北千里
南千里
江坂
淡路
淀川
阪急天神橋 阪急梅田駅 大阪駅
十三
新 大 阪 大 阪 市 高 速 電 気 軌 道 第 一 号 線 東海道本線
阪神電鉄 阪急神戸線
大阪空港
新幹線 阪
急 千 里 線 阪 急 千 里 線 阪 急 千 里
線 阪
京急 線 都 千里中央駅
万国博中央口駅 仮設
千里中央駅
は阪急が中心になっており,これに大阪府 副知事や関西電力社長の芦原義重らが役員 を兼任している(第
3
表)。すなわち,役 員構成は出資構成を反映していると同時 に,鉄道経営の実務面は,そのスキルがあ る阪急が中心になって行う体制だったとい うこともできよう。1967(昭 和 42)年 10
月13
日,運 輸 省 は北大阪急行電鉄に地方鉄道法の事業免許 を交付し,同社は同年12
月11
日に創立総 会開催,翌年7
月には工事施工認可を受け 着工した。同線は,大阪市営地下鉄御堂筋 線との相互乗り入れを前提にしていること から,工事は大阪市と協議をしながら進め られ,線路や車両,建築物などの規格は,大阪市と共通のものにすることとなった。
途中駅は,当初計画では江坂の次は上新田
(千里 中 央)ま で 駅 設 置 の 予 定 は な か っ
た。しかしこれは千里ニュータウン開発の関係上,大阪府から途中駅設置の要請があ り,ニュータウン内に
1
駅(桃山台駅),寺内地区に1
駅(緑地公園駅)を後に追加設 置することとなった。また,万博会場への会場線は,現在の千里中央駅から500 m
南 のトンネル内で東へ分岐する形になっていた。このため,終点の千里中央駅は会場線の 分岐点付近に仮設駅として設置しておき,万博閉幕までに現在地にある千里中央新駅を 建設して,万博閉幕後会場線の撤去・線路切り替えと同時に新駅を開業する計画であっ22
た(地図
3)
。工事は1970(昭和 45)年 1
月までにすべて完成し,2月24
日に営業開始 となった。新造車両数は100
両であったが,万博終了後の輸送需要の減少により余剰と なる車両は,大阪市交通局に売却することとなってい23
た。
Ⅱ 北大阪急行電鉄の輸送と経営
1.万博観客輸送と万博閉幕後の経営動向
1970(昭和 45)年 3
月15
日,日本万国博覧会が開幕した。観客の出足は好調で,初────────────
22 北大阪急行(株),前掲書,41ページ。
23 北大阪急行(株),前掲書,84ページ。
地図3 万博会場と北大阪急行路線図
資料:小森光昭「北大阪急行の誕生」〔『鉄道ピク トリアル』233号(1970年1月)〕28ペー ジ。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (631)111
日の入場者数は
27
万4124
人であった。8月に観客数は増加24
し(第
1
図),閉幕10
日前 の 週 末 で あ る9
月5
日(土)(入 場 者 数83
万5832
人),9月6
日(日)(同78
万3682
人)が観客数のピークであっ24
た。交通機関別にみた観客輸送実績は,やはり会場に最も 近い万国博中央駅を擁する北大阪急行電鉄の利用者が最も多く(第
2
図),会期中の観 客輸送に占める比率も常に35〜41% であっ
25
た。会期を通して見た交通機関別の輸送分 担率も,やはり北大阪急行,阪急を合わせた鉄道のシェアが
50% を超えており,大量
輸送機関としての機能をフルに発揮したといえよう(第3
図)。9
月13
日には万国博の閉幕を迎え,同時に仮設千里中央駅の営業終了,線路の切り 替えと本来の千里中央駅が開業した。また,閉幕後ただちに会場線の撤去作業に入り,約
3
ヶ月で作業を終えた。万博の閉幕に伴い,その会場入場者という大きな輸送需要が 消失することになるから,その後の北大阪急行の経営は,沿線開発による利用者増加に────────────
24 北大阪急行(株),前掲書,88−89ページ,阪急電鉄(株),前掲書,79−80ページ。
25 阪急電鉄(株),前掲書,78−79ページ。
第1図 万博入場者数の推移(月別)
資料:阪急電鉄編『75年のあゆみ』
第2図 交通機関別輸送実績(実数)
資料:第1図に同じ。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
112(632)
よって,採算が維持出来るだけの輸送需要を確保出来るか否かが,経営の成否を左右す る。そこで次に,万博閉幕後の同社の輸送実績と経営を見てみよう。
第
4
図は,同社の年間乗降客総数の推移を示したものである。万博終了後の輸送需要 の減少は,あらかじめ予想されていたとはいえ,その影響はやはり大きかった。万博が 開催された1970(昭和 45)年の年間乗降客数は 5713
万人余りだったのに対し,翌年 度のそれは1750
万人余と,1/3以下に激減したのである。その後,千里ニュータウン の開発進捗にともなって漸増し,万博開催年の年間利用者数5700
万人台を回復するの は,12年後の1982(昭和 57)年であった。
第
5
図は,駅別の年間乗降客数の推移を見たものであるが,利用が多いのはやはりニ ュータウンの拠点駅である千里中央で,順調に利用が伸びている。千里ニュータウンの 開発の進捗が順調に進み,それが利用者の増加に結びついていることが分かる。桃山台 がそれに次いで多い。これは後述する不動産部による駅周辺の宅地開発も奏功したであ ろう。しかし,同駅利用者の伸びは70
年代後半にかけて横ばいになっている。1975第3図 万博入場者輸送における輸送分担率
資料:第1図に同じ。
第4図 北大阪急行の輸送実績(年間乗降総数)
資料:『豊中市統計書』(各年度)から作成。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (633)113
(昭和
50)年 3
月30
日に開業した緑地公園駅は,実数では千里中央には及ばないもの の,伸び率としては大きく,1980年代には桃山台駅の利用者数に迫る勢いであった。こうした利用動向は,経営面にどのように反映したのであろうか。第
4
表は,北大阪 急行電鉄の鉄道事業と不動産事業の営業状況をみたものである。万博終了後の利用者数第5図 北大阪急行電鉄の駅別利用動向の推移(年間乗降総数)
資料:『豊中市統計書』(各年度)から作成。
第4表 万博閉幕後の北大阪急行電鉄の経営(その1) (単位:千円)
年 度
営 業 損 益 鉄 道 事 業 不 動 産 事 業
営業利益 営業収益 営業費 営業利益 営業収益 営業費 営業利益
1970 2,107,837 857,843 1,249,994 0 0 0 1,249,994
1971 683,355 1,169,556 −486,201 167,636 33,281 134,355 −351,847
1972 858,926 989,230 −130,304 195,648 34,865 160,783 30,479
1973 955,944 973,675 −17,731 88,591 27,374 61,217 43,487
1974 1,382,982 1,122,394 260,587 7,817 37,799 −29,982 230,605
1975 1,593,421 1,261,793 331,628 7,817 35,819 −28,002 303,626
1976 1,695,059 1,302,893 392,166 8,338 29,601 −21,263 370,903
1977 1,850,437 1,280,584 569,853 1,412,909 1,148,836 264,074 833,927 1978 2,001,947 1,321,472 680,476 442,247 419,570 22,677 703,153 1979 2,134,224 1,436,404 697,820 95,664 105,489 −9,825 687,995 1980 2,297,429 1,566,903 730,526 116,098 114,538 1,560 732,085 1981 2,412,985 1,670,115 742,870 125,538 122,962 2,575 745,446 1982 2,556,991 1,824,945 732,046 183,028 142,226 40,802 772,848 1983 2,644,342 1,888,748 755,594 208,726 156,190 52,536 808,130 1984 2,756,421 2,042,905 713,516 220,131 162,241 57,890 771,406 1985 2,822,400 2,336,154 486,246 231,787 164,472 67,315 553,561 資料:北大阪急行電鉄(株)『営業報告書』(各期)から作成。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
114(634)
の落ち込みの影響は,当然ながら鉄道事業営業利益の大幅減少という形で表れた。万博 開催年である
1970(昭和 45)年度の鉄道事業の営業利益は約 12
億5000
万円の黒字を 計上していた。それが翌年度には,利用者数の落ち込みに伴う営業収入の減少により,4
億8620
万円余りの赤字に転落した。しかしながら,赤字幅は次第に縮小していき,74
年には黒字に回復したほか,後にみるように不動産事業による赤字補頡もあり,両事業 を併せた営業収支では,1972年度には黒字に回復している。次に第
5
表は,鉄道事業の営業利益に占める支払利子の負担を見たものである。鉄道 事業の営業利益は1973
年度まで減少する一方で,支払利子は1976
年度まで毎年4
億円 台で推移した。このため,万博閉幕後の1971(昭和 46)年度から 76
年度の間は,支払 利子が経営上大きな負担になっていたことが分かる。2.不動産部の新設と借入金返済計画の変更
こうした経営上の苦境は,万博開催前から予想されていたものであった。そこで同社 は,千里ニュータウンの開発進捗を待つだけでなく,様々な経営努力を行った。経費節
第5表 万博閉幕後の北大阪急行電鉄の経営(その2) (単位:千円)
年 度
営 業 外 損 益
営業外 営 業 外 費 用 営 業 外 利 益 収益
経常利益 受取利息 その他 計 支払利息 その他 計
1970 35,167 153,710 188,877 459,048 305,084 764,132 −575,256 674,738 1971 29,806 19,795 49,601 455,558 10,367 465,925 −416,324 −768,170 1972 48,675 19,782 68,456 438,188 5,394 443,582 −375,125 −344,646 1973 56,058 23,684 79,741 440,155 7,203 447,358 −367,617 −324,130 1974 75,852 23,710 99,562 451,964 9,220 461,184 −361,623 −131,017 1975 83,383 10,051 93,433 440,199 9,353 449,552 −356,118 −52,493 1976 61,743 11,372 73,116 404,068 8,277 412,345 −339,229 31,674
1977 72,211 10,108 82,319 356,660 50 356,710 −274,391 559,536
1978 65,343 25,022 90,365 311,955 25,076 337,031 −246,666 456,487
1979 60,093 1,224 61,318 279,083 0 279,083 −217,765 470,230
1980 83,937 2,188 86,125 259,577 0 259,577 −173,452 558,633
1981 79,516 1,259 80,776 221,397 0 221,397 −140,622 604,824
1982 62,830 10,687 73,517 186,862 0 186,862 −113,345 659,503
1983 38,706 27,443 66,149 151,081 0 151,081 −84,932 723,198
1984 28,863 45,753 74,616 124,255 0 124,255 −49,639 721,767
1985 68,527 15,705 84,232 111,710 0 111,710 −27,478 526,083
資料:北大阪急行電鉄(株)『営業報告書』(各期)から作成。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (635)115
減など営業費の削減に努める一方,1970(昭和
45)年 9
月,万博閉幕と同時に不動産 部を新設し,不動産事業に乗り出した。この不動産部における事業活動は,鉄道事業に おける償却負担や支払利子負担をいくぶん軽減したことが予想される。そこで,第4
表 に戻り,不動産事業の営業利益の動向を見ると,そこには3
つの山があることが見てと れる。まず,万博閉幕直後の
1971(昭和 46)年度と翌 72(昭和 47)年度には,1
億円台の 営業利益を計上している。これは,1971(昭和46)年 4
月から桃山台駅前において,「桃山台グランドマンション」の建設,分譲を開始したことによる。3期にわたって分 譲したこのマンションは,計
257
戸が分譲 価 格815
万 円(83.16 m2)か ら1,263
万 円(123.15 m2)で販売され,大阪都心へのアクセスの良さと良好な住環境で好評を博し,
発売早々に完売となった。さらに沿線以外でも,豊中市待兼山町の大阪大学近くの阪急 電鉄,竹中不動産所有地を宅地建設・分譲する業務を,両社から委託された。この待兼 山住宅地も好評のうちに完売し
26
た。1971年度は鉄道事業の営業赤字が大きいため,そ のすべてを不動産事業の利益で補えなかったが,72年度は鉄道事業の赤字をカバーし て,営業利益を計上した。
その後
1977
年度には再び2
億6000
万円余りの営業利益を上げている。これは,1975(昭和
50)年 3
月に開業した緑地公園駅の新設と,同駅周辺の開発進展によるものであ る。同駅ではその後,豊中市による寺内地区の土地区画整理事業の進展により,駅周辺 においてマンション建設などの開発が進んだ。その中には,北大阪急行と阪急電鉄の共 同開発による「緑地グランドマンション」,「緑地駅ビル」,「緑地東ビル」の建設も含ま れる。それらの建設,分譲により,不動産事業で大きな利益を計上でき27
た。
1982
年度以降には安定的に営業利益を計上しているが,これは賃貸ビルにおける入 居者の増加,賃料引き上げや,賃貸面積の増床などによる賃料収入の増加によるもので あ28
る。
このように,不動産部の営業利益は,1971年から
1985
年にかけて,変動が大きかっ た。当初は分譲事業の比重が大きかったことが,このような変動をもたらしたのであろ う。同社が手がける賃貸物件の増加に伴う賃料収入の増加により,不動産事業の営業利 益も安定をみるようになった。このような不動産事業の営業利益は,鉄道事業の営業利 益の落ち込みが大きかった1971
年から73
年の間においては,営業収支レベルである程 度収支を好転させる効果があった。しかしながら,支払利子負担を含めた経常収支ベー────────────
26 北大阪急行電鉄(株),前掲書,101−103ページ,北大阪急行電鉄(株)「第5回営業報告書」(昭和46 年度),「第6回営業報告書」(昭和47年度)。
27 北大阪急行電鉄(株),前掲書,43,98−100, 108−110ページ,北大阪急行電鉄(株)「第11回営業報告 書」(昭和52年度),「第12回営業報告書」(昭和53年度)。
28 北大阪急行電 鉄(株)「第16期 営 業 報 告 書」(昭 和57年 度),同「第17期 営 業 報 告 書」(昭 和58年 度),「第19期営業報告書」(昭和59年度)。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
116(636)
スでみた場合には,その収支改善効果は限定的なものにとどまった。このため,1973
(昭和
48)年 12
月14
日に運賃改定認可申請に至り,翌1974(昭和 49)年 4
月23
日に 運輸審議会の認可答申を経て,5月7
日から平均41.1% の値上げ率で改定運賃の実施に
踏み切ったのである。この運賃改定と,エキスポランド入場者の増加,万博記念公園における「中華人民共 和国展覧会」(1974年
7
月13
日−8月11
日)の開催による鉄道利用者の増加により,鉄道事業営業収益が増加し,営業利益は黒字に転じて,以降も増加を続けた。1976−77 年には,千里中央駅周辺のニュータウン中央地区における事業所増加,ニュータウン周 辺地区の開発進展,緑地公園駅周辺地区における開発進展による鉄道利用者の増加によ り,鉄道事業の営業利益はさらに大きく増大していった。これにより,1978(昭和
53)
年度には,71年度以降の累積赤字の解消を果たし
29
た。ただ,これによって,千里ニュ ータウンの開発の進移により北大阪急行の経営が軌道に乗ったと結論するのは早計であ る。
すなわち,第
1
表に戻れば,同社の借入金の多くについて,返済期限や条件の変更を 行っていることが分かる。都銀・地銀からの借入金については,すべて返済期限の延長 を行っており,池田銀行梅田支店借入分は返済期限を3
年延長しているほか,金額が大 きい三和,住友,大和,太陽神戸三井の各行からの借入分についても,6年半の期限延 長を行っている。日本興業銀行〔現,みずほフィナンシャルグループ〕,日本長期信用 銀行〔現,新生銀行〕,日本開発銀行などからの借入分については,返済条件にほとん ど変更がなかったことから推測すれば,恐らくはこの3
行からの借入金については,金 利などの融資条件で北大阪急行を優遇していたと思われる。それに対して,相対的に金 利負担が大きいと思われる都銀・地銀各行からの借入分については,同社は返済面で銀 行側の譲歩を受けることになったのである。また,千里ニュータウンの開発主体で出資 者でもある大阪府も,法人税還付や府融資金の返済期間を当初の5
年間均等返済から10
年間に期間の延長を行うなど,各種の支援を行ってい30
た。
以上のように,万博開催を契機に新たな枠組みで整備が進められた北大阪急行電鉄の 経営は,万博入場者の輸送という特需,大阪府や経済界の支援を得つつも,それでも万 博閉幕後から沿線開発の進捗に伴う利用者増大までのタイムラグから生じる経営上の負 担はなお大きかったといえよう。そしてそれは,経費節減や不動産事業の展開などの 様々な経営努力により,営業収支レベルの改善は実現したものの,それのみでは借入金 を完済して経営を軌道に乗せるまでには至らなかったのである。そこで,北大阪急行
────────────
29 北大阪急行電鉄(株),「第12回営業報告書」(昭和53年度)。
30 「第6回営業報告書」(昭和47年度)によれば,減価償却費,借入金の利子負担が依然として大きいた め,大阪府から1970(昭和45)年度法人税還付を受け,これを特別利益に計上したという。
ニュータウンアクセス交通の整備過程とリスク負担(赤坂) (637)117
は,運賃値上げと借入金の返済計画の変更に踏み切り,それによってようやく苦境を乗 り切ったといえよう。
Ⅲ ニュータウン交通整備に対する公的支援制度の形成
1.泉北ニュータウンの開発と泉北高速鉄道の整備
大阪府は,千里ニュータウンの開発に続いて
1966(昭和 41)年 2
月,堺市,和泉市 にまたがる1520
ヘクタールの丘陵地に,戸数5
万3500
戸,人口約18
万人の泉北ニュ ータウンの開発に着手した。このニュータウンのアクセス鉄道の整備についても,大阪 府は当初この地域を営業基盤とする南海電鉄に整備を要請した。しかしながら,先述の 事業リスクのため,南海電鉄は自社単独によるリスク負担は困難と判断した。このため 府は,第3
セクター「大阪府土地開発株式会社」を,泉北ニュータウンアクセス鉄道の 整備主体とすることに決定した。大阪府土地開発(株)は,東大阪などのトラックター ミナルの運営にあたるため,1965(昭和40)年 12
月24
日,府が49%,残りを在阪公
益企業,銀行が出資して設立されたものである。この大阪府土地開発には,鉄道経営のスキルがなく,施設の完成後には,運営業務を 南海電鉄に業務委託することとなった。すなわち,南海電鉄が負担しきれない事業リス クを第
3
セクターである大阪府土地開発が負担して建設と経営にあたり,南海は鉄道運 営のスキル提供だけを行うという枠組みであった。ここでは,大阪府土地開発が線路や 駅施設などの設備と車両を所有して,南海がその営業,運転,保守などの現業部門の業 務を受託するという形になってい31
る。
大阪府土地開発は
1969(昭和 44)年,
「泉北高速鉄道」中百舌鳥−光明池間12.5 km
の建設に着手した。そのうち,1971(昭和46)年 4
月に中百舌鳥−泉ヶ丘間7.8 km
が 開業,1973(昭和48)年 12
月には泉ヶ丘−栂・美木多間,1978(昭和52)年 8
月に 栂・美木多−光明池間が開業し,南海電鉄高野線との間に相互乗入運転を実施し32
た。
泉北ニュータウンにおける泉北高速鉄道の場合,大阪府土地開発(株)が宅地開発者 であれば,開発利益の還元により,事業リスクの補頡に充てることが可能になったので あるが,宅地開発自体は府と日本住宅公団の手によった。このため,泉北ニュータウン の開発利益は,直接には同社に還元されないことから,泉北高速鉄道の経営は苦しく,
累積赤字が嵩んだ。さらに,このような郊外住宅地と都心を結ぶ路線は,朝夕ラッシュ 時と昼間時の時間帯別に需要変動が大きいことに加え,朝通勤時間帯には郊外から都心 方向への需要が多い一方,都心から郊外への輸送需要は少ないという時間帯・方向別の
────────────
31 朝日新聞社大阪本社社会部編『関西の鉄道』,清文堂,1981年,21−22ページ。
32 南海電気鉄道株式会社編『南海電気鉄道百年史』,同社編,1985年,360−361ページ。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
118(638)