アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダ ヤ的なもの
著者 濱 真一郎
雑誌名 同志社法學
巻 63
号 1
ページ 443‑474
発行年 2011‑06‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013794
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四三同志社法学 六三巻一号
アイザィア ・ バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの
濱 真 一 郎
︵四四三︶ はじめに
一 ナショナリズムと近代のユダヤ・アイデンティティ
二 バーリンのユダヤ的・シオニスト的信条
三 バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの
おわりに
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四四同志社法学 六三巻一号 ︵四四四︶
は じ め に
サー・アイザィア・バーリン︵
Sir Isaiah Berlin
︶は︑二〇世紀を代表するリベラリズムの擁護者の一人として知られている︒彼の自由論は︑冷戦の時代に注目されたが︑近年︑価値の多元化が急進的に進む状況においてリベラリズム
を擁護することは可能か︑という問題関心から︑新たな注目を集めている︒とくに︑彼が擁護するリベラリズムと価値
多元論︵
value-pluralism
︶の関係について︑多くの論争が繰り広げられている ︵︒ 1︶
バーリンは︑旧ロシア帝国領ラトヴィアの首都リガで︑ユダヤ人の両親のもとに生まれ︑ロシア革命の混乱後に家族
とともに英国へ移住し︑オックスフォード大学にて教育を受け︑卒業後に同大学で教鞭を執った ︵
︒彼はある講演 2︶︵
で︑自 3︶
らの生について︑﹁ロシア的︑英国的︑ユダヤ的﹂な三つの要素︵
three strands
︶があると述べている︒以上を踏まえるならば︑バーリンの自由論について理解を深めるためには︑彼によるロシア知識人にかんする研究 ︵
や︑ 4︶
彼のリベラリズムの英国的な要素︵例えばJ・S・ミル︵
John Stuart Mill
︶の影響 ︵など︶に加えて︑彼のユダヤ・ア 5︶
イデンティティについて理解する必要があると思われる︒
筆者はこれまで︑バーリンの自由論について研究を行ってきた ︵
︒その際︑彼のリベラリズムにおいて︑彼のユダヤ的 6︶
なもの︵
Jewishness
︶ないしユダヤ・アイデンティティ︵Jewish identity
︶がいかなる役割を果たしてきたのかについては︑検討を行っていなかった︒本稿は︑この問題について︑若干の検討をなすことを目的とする︒なお︑筆者は︑ユ
ダヤ学を専門とする者ではない
︒そこで
︑検討を進める上で
︑イスラエルの政治学者であるシュロモ
・アヴィネリ
︵
7︶
︵
Shlomo A vineri
︶が︑バーリンのユダヤ・アイデンティティについて検討を行った﹁あるユダヤ人とある紳士︵A Jew and a Gentleman
︵︶﹂という論文に︑依拠することにしたい︒注が煩雑になるのを避けるために︑本稿ではこの論文を 8︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四五同志社法学 六三巻一号
JG
と略記し︑対応する頁数を本文中に挿入する ︵︒ 9︶
一 ナショナリズムと近代のユダヤ・アイデンティティ
1
ナショナリズムについてのバーリンの見解本章および次章では︑バーリンのユダヤ・アイデンティティないしユダヤ的なものを探るために︑以下の検討を行う︒
すなわち︑本章では︑バーリンによる︑ナショナリズムおよび近代のユダヤ・アイデンティティにかんする研究につい
て︑確認する作業をなす︒次章では︑バーリンの二つの論文に注目しながら︑彼のユダヤ的・シオニスト的な信条につ
いて概観することにしたい︒なお︑先述のように︑検討を進める上で︑アヴィネリの論文に依拠している︒
まずは︑バーリンのナショナリズム研究 ︵
について概観していこう︒アヴィネリによると︑バーリンは︑ナショナリズ 10︶
ムについて論じる際に︑二つの目的を達成しようとしていた︒第一は︑ナショナルな意識︵
national consciousness
︶とナショナリズムを区別しようとする目的である︒第二の目的は︑なぜ︑ほとんどの一九世紀と二〇世紀の政治思想家
︵
political thinkers
︶は︑リベラリストであれマルクス主義者であれ︑ナショナルな思想の力︵the power of national ideas
︶を過小評価したのか︑について説明することである︒バーリンの研究には不十分なところがある︒しかし︑ナショナリズムの現象について彼が述べることは︑一般的に重要であり︑ユダヤ・アイデンティティとシオニズムの登場
についての彼の見解と直接関係している︵
JG, p. 75
︶ ︒
バーリンに従えば︑ナショナルな意識は︑ばらばらではなく互いに本来的に結びついているから︑相互の結びつきは
人間のアイデンティティの必要な構成要素を構成する︒容易に同一化可能な集団に帰属する必要︵
need
︶は︑アリス︵四四五︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四六同志社法学 六三巻一号
トテレス以来︑人間の自然の要請とみなされてきたのである︵
JG, p. 75
︶ ︒
ナショナルな意識にかんするバーリンの考えの基本となるのは︑ヘルダー的な要素である︒バーリンは︑ナショナル
な意識を︑二〇世紀に発現した度を超えたナショナリズム︵
the excesses of nationalism
︶と混同すべきではないと︑強く主張した
︒バーリンによると
︑ドイツの哲学者
・文学者であるヨハン
・ ゴットフリート
・ヘルダー
︵
Johann
Gottflied Herder
︶は
︑政治的なナショナリスト
︵
a political nationalist
︶ではなく
︑文化的なナショナリスト
︵
a
cultural nationalist
︶であった︒ヘルダーは︑中欧および東欧の虐げられた民族の精神的な解放に貢献したのである︵JG,
pp. 75 76
︶ ︒
ここでアヴィネリは︑バーリンとイランの哲学者であるラミン・ジャハンベグロー︵
Ramin Jahanbegloo
︶との対話 ︵11︶
に注目する︒その対話において︑バーリンはヘルダーを︑彼︵ヘルダー︶のロマン主義的な信奉者たち︵
his Romantic
followers
︶から区別している︒ヘルダーは︑征服や︑一つの民族が別の民族より優れているという考えを︑否定した︒ヘルダーは︑バーリンによって︑反植民地主義者であるとみなされた︒ヘルダーは︑ユダヤ人が自分たちの土地に戻る
ことの希望も表明した︵
JG, p. 76
︶ ︒
こうしたヘルダー的な︵マッツィーニ的な︶帰属への必要の正しい認識に対して︑バーリンは以下を対比している︒
すなわち︑バーリンがとくにドイツやフランスに見出す︑暴力的で︑攻撃的で︑政治的なナショナリズムを︑である︵
JG,
p. 76
︶︱
ジュゼッペ・マッツィーニ︵Giuseppe Mazzini
︶は︑イタリア統一運動を推進したイタリアの革命家である︒バーリンに従えば︑リベラリストたちは︑もしもそれぞれの民族が晴れて自分の場所を獲得するならば︑調和的な世
界が最終的に現れると︑信じた︒しかし︑リベラリストたちが見落としているのは︑近代化が︑新しいアイデンティテ
ィの焦点の探求を必要とする孤立状態を生み出したことである︒初期一九世紀のドイツや一九世紀後半のフランスにお ︵四四六︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四七同志社法学 六三巻一号 ける︑屈辱の感覚︵
a feeling of humiliation
︶︵最初は文化的で︑後に政治的・道徳的なそれ︶は︑知識階級のあいだで︑過度の賠償への強い衝動を生み出した︒したがって︑二十世紀の主要な大惨事を引き起こしたドイツとフランスの狂信
的愛国主義︵
chauvinism
︶の過剰をもたらした︵JG, p. 76
︶ ︒
アヴィネリによると︑共同体への帰属の必要が︑バーリンの世界観の基本︵
basic
︶であることは︑明らかである︒そうしたナショナルな意識はリベラリズムにとって有害ではない
︱
それは彼のリベラルな世界観の基礎的要素の一つである︒英国の政治哲学者であるジョン・グレイ︵
John Gray
︶が指摘するように︑バーリンのリベラリズムは︑還元主義的な存在論的個人主義︵
a reductivist ontological individualism
︶には基づいていない︒むしろそれは︑ある種のソフトな共同体論︵
soft communitarianism
︶である ︵︒ここにおいてアヴィネリが指摘するには︑以上は︑現代における 12︶
ユダヤ・アイデンティティの問題へのバーリンのアプローチの知的礎石︵
the intellectual cornerstone
︶であり︑その礎石は︑彼の論文のいくつかを特徴づけているのである︵
JG, pp. 76 77
︶ ︒
2
近代のユダヤ・アイデンティティ︱
ディズレーリとマルクスアヴィネリは次に︑バーリンのユダヤ・アイデンティティの問題を取り扱う︒その際︑バーリンによる︑ベンジャミ
ン・ディズレーリ︵
Benjamin Disraeli
︶とカール・マルクス︵Karl Marx
︶にかんする論文 ︵が取り上げられる︒この論 13︶
文では︑両者のアイデンティティの探求が主題となっている︒バーリンによると︑ディズレーリとマルクスの二重の周
辺性︵
their double marginality
︶は︑彼らのユダヤ的出自と︑彼らの両親のキリスト教への改宗とに由来するのだが︑それは両者を異なる方向へ押しやった︒とはいえ︑彼らは自分たちのアイデンティティの欠落を満たすための燃えるよ
うな必要︵
need
︶と欲求を共有していた︒欠落を何で埋め合わせるか︒その両者は︑自分たちの思考のなかでのみ存︵四四七︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四八同志社法学 六三巻一号
在する理想化された代替的な構成物によって︑自分たちのアイデンティティを埋め合わせようとした︒一方で︑英国の
貴族政治という構成物によって︒他方で︑万国のプロレタリアートという構成物によって︵
JG, p. 77
︶ ︒
アヴィネリによると︑バーリンのこの論文は︑ディズレーリとマルクスだけを扱ったものではない︒それは︑自分の
アイデンティティをユダヤ人︵
Jews
︶として意識する︑すべてのユダヤ人︵all Jews
︶を扱っている︒ドイツの作家であるハインリッヒ・ハイネ︵
Heinrich Heine
︶やルードヴィヒ・ベルネ︵Ludwig Börne
︶に言及しながら︵バーリンは彼らを﹁外界の受容を求めた才能と野心のあるユダヤ人第一世代 ︵
﹂と呼ぶ︶︑バーリンは︑彼らの努力が︑全面的な悲 14︶
劇的失敗であったという評価を下す︒彼らが自分たちはドイツ人だと主張すればするほど︑同じドイツ人たちには︑彼
らがドイツ人でないように見えてしまう︵
JG, p. 77
︶ ︒
バーリンにとって︑ディズレーリとマルクスの両者は︑この難問を象徴していた︒その二人は︑宗教的に感じ入って
改宗したのではなく︑意志薄弱で服従的な順応主義︵
accommodationism
︶によって改宗した親の子どもたちであった︒その両者は︑異なる方法で反応した︒ディズレーリは︑理想化された貴族政治と同一化することによって︒マルクスは︑
同じく理想化されたプロレタリアートに自己を投影することによって︵
JG, p. 78
︶ ︒
ディズレーリは︑英国の貴族政治の理想化された展望を構築するだけではなかった︒バーリンに従えば︑ディズレー
リは︑貴族政治を︑世界史を動かす力に高めた︒ディズレーリはさらに︑高貴なヴェネチア共和国と縁故関係のある︑
架空の高貴なユダヤ人の祖先を作り出した︒次に︑ユダヤ人は人間の真の貴族︵
the true aristocracy of humanity
︶であると主張した︒彼はこうして︑自分自身を︑階級を気にするイングランドの周辺的な地位から︑﹁世界にそのもっと
も貴重な財産を与えた ︵
﹂エリートの一員にした︒ディズレーリの小説では︑ユダヤ人は真の貴族政治の指導者として登 15︶
場する︵
JG, p. 78
︶ ︒
︵四四八︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四四九同志社法学 六三巻一号 アヴィネリによると︑マルクスの戦略は︑ディズレーリの理想化とは異なる︒マルクスのユダヤ人への言及は︑侮蔑と完全な懸隔および否定との結合であった︒バーリンは︑マルクスの彼自身のユダヤ的出自への態度が﹁ユダヤ的自己憎悪 ︵
JG, p. 78
﹂として分類できるという見解に︑合意する︵ 16︶︶ ︒
しかし同時に︑バーリンはマルクスの思想の全構造に︑彼のユダヤ的出自によって残されているより深い刻印を認め
る︒バーリンは︑マルクスのコスモポリタニズムおよび︑すべての形態のナショナリズムの拒絶のなかに︑マルクスが
生まれたドイツに発現しつつあるナショナリズムへの反抗を見出す︒これはマルクスに︑歴史発展におけるナショナリ
ズムの役割を︑過小評価させることになる︒さらに︑すべてのナショナリズムは︑来るべき社会主義の社会においては
根絶されねばならない︒ナショナリズムが根絶されることによって︑完全に疎外され根絶された階級としてのプロレタ
リアートが形成されるのである
︒マルクスによると
︑この階級は故郷をもたず
︑その将来の王国は完全に世界的
︵
universal
︶なのである︒なお︑バーリンによると︑マルクスは︑実際のプロレタリアートたちと交流がほとんどなかったし︑ごくまれに面と向かうと︑彼らに尊敬も愛情も示さなかった︵
JG, pp. 78 79
︶ ︒
3
近代的なユダヤ・アイデンティティの擁護︱
ヘスアヴィネリは次に︑バーリンのヘス研究に注目する ︵
Moses Hess
︒モーゼス・ヘス︵︶は︑ドイツの共産主義者であり︑ 17︶シオニストでもあった︒ヘスはバーリンにとって︑ディズレーリやマルクスに対する代替案を示してくれる人物である︒
ヘスは自分のアイデンティティを保ち︑他方で︑アイデンティティを刷新し︑そうする過程において︑ユダヤ人に急進
的な新しいメッセージを提示する︒すなわち︑独立と自己決定︵
self-determination
︶である︵JG, p. 80
︶ ︒
ヘスは︑バーリンにとって︑まさにマルクスの正反対であった︒ヘスは︑ユダヤ的自己憎悪に苦しまなかったし︑長
︵四四九︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五〇同志社法学 六三巻一号
年にわたって彼の社会主義的な思考は同化主義的な戦略を支持したが︑彼は最終的に︑社会主義の見解においてさえも︑
ナショナルな伝統を保持することの意義を把握した︵
JG, p. 80
︶ ︒
バーリンは︑ヘスが体系の構築者ではなかったことを認めている︒それゆえに︑ヘスの思考は︑多くの包括的な哲学
的構成物を特徴づける欠点に苦しまない︒ヘスは自分の貢献を︑ナショナルなアイデンティティの歴史的重要性を︵す
べての歴史は階級の歴史であるとするマルクスとは異なり︶自分が認識したことに︑見出す︒あるいは︑自分の貢献を︑
現代ヨーロッパにおけるユダヤ人嫌い
︵
the Jew-hatred in modern Europe
︶は現代の世俗的なユダヤ人
︵
modern,
secularized Jews
︶にまさに向けられているのであり︑よって︑伝統的なキリスト教徒の反ユダヤ主義︵anti-Judaism
︶の単なる継続ではない︑ということの自分の理解に︑見出す︒両方の問題についてバーリンが論じるには︑ヘスの予言
は﹁不気味なまでに正確だったことがその後はっきりしてきた ︵
﹂︑そして﹁大胆で独創的な社会分析の傑作 18︶︵
﹂であり︑ 19︶
マルクスの教条主義的な見解よりもたしかに予見性がある︵
JG, p. 80
︶ ︒
ヘスがバーリンの興味をそそるのは︑単純な因果的決定論への彼の反対論だけでなく︑歴史的伝統の保持への彼の深
い信念のゆえであるとされる︵
JG, p. 80
︶ ︒
バーリンはヘスの﹃ローマとエルサレム︵
Rome and Jerusalem
︵︶﹄︵一八六二年︶を︑重要な知的到達点とみなす︒ 20︶
この︑パレスチナにおける社会主義的なユダヤ人国家の確立の要請は︑民族解放のヘスの一般的な支持に沿っている︒
その著書名は︑当時︵一九世紀︶のイタリアの統一において政治的神格化に到達する祖国統一運動︵リソルジメント︶
から示唆を得ている︒同時に︑同書は︑ドイツにおける現代的な人種主義および反ユダヤ主義の登場を指摘している︒
ヘスが主張するには︑それらの人種主義および反ユダヤ主義の登場を︑ユダヤ人の同化や順応主義によっては静めるこ
とはできない
︱
むしろその逆である︵JG, pp. 80 81
︶ ︒
︵四五〇︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五一同志社法学 六三巻一号 アヴィネリによると︑バーリンは︑ユダヤ人国家の住民の核を最終的に構成するのは︑東欧および中東のユダヤ人であろうとするヘスの予想能力も︑称賛した︒そして何よりも︑バーリンはヘスの確信を︑すなわち︑
︱
一九世紀の月並みなリベラルな英知とは反対に
︱
︑ユダヤ人は単に宗教的な集団︵a religious group
︶であるだけでなく︑民族︵a
people
︶なのであるとか︑改革されたユダヤ教︵Reform Judaism
︶は﹁感傷的で粗野なキリスト教の模倣 ︵﹂以外の何 21︶
者でもないという確信を︑称賛した︵
JG, p. 81
︶ ︒
二 バーリンのユダヤ的・シオニスト的信条
1
ユダヤ人の隷属状態と解放前章では︑ナショナリズム全般にかんするバーリンの見解と︑近代のユダヤ・アイデンティティにかんするバーリン
の理解について︑整理した︒本章では︑バーリンの二つの論文に依拠しながら︑彼のユダヤ的・シオニスト的な信条に
ついて検討を行う︒
アヴィネリによると︑バーリンの最も率直で情熱的なユダヤ的でシオニスト的な信条は︑彼の﹁ユダヤ人の隷属状態
と解放︵
Jewish Slavery and Emancipation
︶﹂という論文で提示されている ︵︒本論文は︑元々は︑一九五一年に﹃ジュ 22︶
ーイッシュ・クロニクル︵
Jewish Chronicle
︶﹄紙に連載された︒それは一方で︑ユダヤ・アイデンティティに対するバーリンの知的コミットメントの︑最も強力な言明の一つであると︑正しくも称賛される︒他方で︑その論文は︑
︱
ユダヤ人の離散した生︵
Jewish Diaspora life
︶の特定の側面へのラディカルな批判のゆえに︱
批判の嵐を引き起こし︑そしてそれゆえに︑バーリンは生前にそれを再び活字にすることがなかったのである︵
JG, p. 81
︵四五一︶ ︶ ︒
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五二同志社法学 六三巻一号
表題そのものが急進的である︒﹁隷属状態﹂と﹁解放﹂を並記することによって︑バーリンは意識的にとても強い用
語を用いており︑多くの離散ユダヤ人︵
Diaspora Jews
︶が誤った方法をとったと指摘した︒それはまた︑シオニストであるアハド・ハアム︵
Ahad Ha- ’am
︶の﹁自由における隷従状態︵Slavery in Freedom
︵︶﹂︵一八九一年︶という︑ユ 23︶
ダヤ人の同化に反対する古典的な論文
︱
意識的であるか否かはわからないが︱
と共鳴している︵JG, pp. 81 82
︶ ︒
アヴィネリがいうには︑驚くべきことに︑バーリンは近代以前のユダヤ人共同体︑すなわちケヒッラー︵
kehilla
︶への賛歌によって
︑議論をはじめている
︒バーリンはケヒッラーを
︑主として東欧で発展したユダヤ人の
﹁組織
︵
establishment
︶﹂と呼ぶ︵﹁共同体のなかの共同体︵a community within a community
︶﹂という表現も見られる ︵24︶
︶ ︒ こ
の枠組のなかで︑﹁ユダヤ人は豊かで独立した自分たち自身の内面的生を発展させたのであり︑それから寛大にも豊か
な︑想像力あふれ︑自由で不屈のユダヤ人の個性が広まったのである ︵
﹂︒バーリンが︑近代以前のユダヤ人のケヒッラ 25︶
ーの社会的・知的な思潮に魅力を感じたのは︑その真正性︵
authenticity
︶ゆえにである︱
アヴィネリによると︑それと類似の議論が︑シオニストのマックス・ノルダウ︵
Max Nordau
︶によってなされている︒彼は︑シオニズム運動の創始者であるテオドール・ヘルツル︵
Theodor Herzl
︶の︑主要な支持者の一人である︱
︒逆に︑ユダヤ人の同化の試みは︑真正性の欠如︵
the lack of authenticity
︶として特徴づけられる︵JG, p. 82
︶ ︒
バーリンの︑とくに一九世紀ドイツにおけるユダヤ人の同化に対する仮借なき攻撃は︑ホロコーストと関連する怒り
と苦悩に満ちている︒彼がいうには︑﹁最も誠実な確信をもって︹同化を
︱
アヴィネリ︺信じそれを実践していたドイツのユダヤ人たちが最も悲劇的な運命に苦しんだ ︵
JG, p. 82
﹂というのは︑いかに恐ろしいことであったか︵ 26︶︶ ︒
バーリンに従えば︑暴力的なドイツの反ユダヤ主義の起源は︑少なくとも部分的には同化の企てそのものに見出され
るに違いない︒ドイツにおけるユダヤ人の改革運動は︑哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン︵
Moses Mendelssohn
︶ ︵四五二︶アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五三同志社法学 六三巻一号 によって先導され︑多くのリベラルで世俗的なユダヤ人たちに愛された︒しかし︑メンデルスゾーン
︱
ないし︑その点については︑ハイネ
︱
のような多くの人々は︑ドイツやドイツ文化と過度に同化することによって︑自分たち自身の不安定さや不確定なアイデンティティを露わにした︵
JG, p. 82
︶ ︒
本論文は︑バーリンの最も雄弁な論文の一つである︒この論文では︑異国に定住した異邦人たち︵
strangers
︶の比喩が登場する︒異邦人たちは︑自分たちの優越した知識のために︑﹁真の︵
true
︶﹂その土地の人に憎まれ︑嫌悪された︒ここにおいて
︑バーリンは
︑せむし部族としてのユダヤ人
︵
the Jew as a tribe of hunchbacks
︶という強力な比喩
︵
parable
︶を提示する︒ユダヤ人は︑異なる方法で︑さまざまな成功度で︑自分たちの畸形︵deformity
︶と折り合いをつけてきた
︱
特定の者は︑自分たちにはこぶ︵hump
︶はないとした︒その他の者は︑こぶを有するのは特権であると主張した︒あるいは他の者は︑こぶに決して言及せず︑その言葉の使用は差別を含意するとし︑﹁自分たちの正確
な体の線を隠すたっぷりした外套﹂をまとった︒それから︑もちろん︑﹁こぶはこぶである﹂から︑﹁外科的手術によっ
て切除﹂すべきであることを認める人々
︱
明らかにシオニストたちである︱
もいる ︵JG, p. 83
︵ 27︶︶ ︒
多くの批判者たちを怒らせたのは︑こぶの比喩であり︑とくにバーリンが︑それを描写する際に﹁醜い︵
deformed
︶ ﹂
という用語を用いたからである︒その比喩の辛辣さは︑多くの離散ユダヤ人の神経にさわった︒真正性の欠如への非難
ほど︑うずくものはない︒バーリンの同化についての判定は︑妥協なきものであった︒同化は失敗したのである︵
JG,
pp. 83 84
︶ ︒
ともあれ︑アヴィネリによると︑この論文は︑ヨーロッパのユダヤ人の同化の失敗へのバーリンの評価であるだけで
なく︑真正さ︑自律︑および自己決定への回帰としてのシオニズムを正当化する彼自身の方法でもある︒しかし︑その
論文は隠された意図ももっている︒バーリンはその論文において︑二つの戦線で議論をしている︒彼は︑一方では︑す
︵四五三︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五四同志社法学 六三巻一号
べてのユダヤ人がイスラエルに移住すべきだと呼びかける﹁ウルトラ・ナショナリスト的﹂シオニストたち︵
‘ultra-
nationalist ’ Zionists
︶に︑反対する︒彼は他方で︑作家のアーサー・ケストラー︵Arthur Koestler
︶︱
シオニストの指導者であるゼエヴ・ジャボチンスキー︵
Ze ’ev Jabotinsky
︶に共鳴するかつての急進的なシオニスト︱
によって提示された論点︑すなわち︑いまやイスラエルは存在する︑ゆえに離散ユダヤ人たちは移住するか︑もしも移住を拒むなら
ば自分たちのユダヤ人としての独自性とアイデンティティを放棄せねばならない︑という論点にも︑同じように反対す
る︒バーリンはこの﹁二者択一﹂的な選択を拒絶し︑それを﹁不寛容な形態の弱い者いじめ︵
an intolerable form of
bullying
︵︶﹂と呼んでいる
︱
そして︑その選択を拒絶する過程で︑バーリン︵究極的にはイスラエルに移住しないこと 28︶を選ぶシオニスト︶にとっての︑ユダヤ人国家︵
the Jewish State
︶の確立の真の意味が何であったのかを︑明らかにしている︵
JG, p. 84
︶ ︒
現代におけるユダヤ・アイデンティティの問題は︑共同的︵
communal
︶であって︑個人的︵individual
︶ではない︒ユダヤ人たちは︑自分たちの個人的なアイデンティティの問題を︑順応︑同化︑さらには改宗というさまざまな戦略に
よって︑解決できると考えてきた︒しかし︑ナチズムが示したように︑ユダヤ人たちは
︱
自分たちの個人的選択がどのようなものであったとしても
︱
︑異端審問を受けたスペインの隠れユダヤ教徒たち︵Marranos
︶であれ︑現代ドイツにおける同化ないし改宗さえしたユダヤ人であれ︑共同的なアイデンティティから逃れることができなかったのであ
る︵
JG, p. 84
︶ ︒
この共同的な問題は現在では解決されたと︑バーリンは論じる︒いかなる理由であれ︑離散︵
the Diaspora
︶に居心地の悪さを感じるユダヤ人たちは︑いまや︑自分たちが移住できる故郷︵
homeland
︶をもっている︒しかし︑この道筋︵故郷への移住︶を選ばずに︑さまざまな理由で﹁政治的には非ユダヤ人の国家︵
political non-Jewish States
︶ ﹂ に
︵四五四︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五五同志社法学 六三巻一号 暮らし続けるような︑その他の人々
︱
ここでバーリンは自分自身について語っている︱
もいる︒これは︑シオニズムによってもたらされた︑革命的な斬新さである︒シオニズムは︑ユダヤ民族の史実に基づく故郷に定住することを決
定したユダヤ人に︑故郷を与えただけではない
︱
それは︑現代においてはじめて0 0 0 0 0 0 0 0 0
for the first time in the modern
︵ 0age
︶︑すべての個々のユダヤ人を︑ユダヤ的環境と非ユダヤ的な環境のいずれで生きるかについて︑自由にしたのである︒これはいまや︑﹁個々のユダヤ人が︑自らの選択で自由に解決できる︑純粋に個人的な問題 ︵
JG,
﹂なのである︵ 29︶pp. 84 85
︶ ︒
アヴィネリの分析に従えば︑以上はバーリンにとって︑イスラエルの登場が有する二重の解放のメッセージである︒
イスラエルの建国は︑バーリンにとって︑リソルジメントの物語の延長であるだけではない︒それはまた︑ユダヤ人か
ら離散を取り除いたのである︒というのも︑ユダヤ人の運命は今や︑自分自身の手中にあるからである︒バーリンは結
論を下す︒﹁この意味で︑イスラエル国家の創設は︑それ︹ユダヤ人国家
︱
引用者︺に対するそれぞれのユダヤ人の関係がいかなるものであれ︑すべての
0 0 0
ユダヤ人を解放したのである 0︵
JG, p. 85
﹂︵強調はアヴィネリ︶︵ 30︶︶ ︒
アヴィネリによれば︑哲学的観点からすれば︑これは︑すべてのユダヤ人はイスラエルに移住すべきだと主張するい
わゆる﹁急進的﹂なシオニストたちによって提示される立場よりも︑さらに急進的な立場である︒イスラエルの建国は
すべてのユダヤ人を解放したと主張することによって
︱
すべてのユダヤ人に移住を強制することによってではなく︑すべて
0 0
︱
のユダヤ人に選択の自由を与えることによって︑シオニズムは啓蒙主義の真の継承者となる︒この方法でバ 0ーリンは︑自分のシオニズムを自分のリベラルな信条︵
liberal credo
︶と統合したのである︱
そして︑自らはイスラエルに移住しないという選択をする反面で︑ユダヤ人国家の熱烈な支持者︵時として批判的ではあるけれども︶であり
続けたのである︵
JG, p. 85
︶ ︒
︵四五五︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五六同志社法学 六三巻一号
2
イスラエルの起源次にアヴィネリは︑バーリンにおけるユダヤ的・シオニスト的信条をさらに検討するために︑バーリンの﹁イスラエ
ルの起源︵
The Origins of Israel
︶﹂︵一九五三年 ︵︶に注目する︒この論文は︑以上で概観した﹁ユダヤ人の隷従状態と 31︶
解放﹂という論文の二年後に出版されたが︑その続編である︒バーリンは︑すでにこの早い段階で︑実際のイスラエル
は︑それを夢見た人々や建国者たちの理想や期待に︑必ずしも沿ってはいないことに︑十分に気づいていた︒しかし︑
︱
彼が死の数日前まで主張するように
︱
これらの欠陥はユダヤ人の国家
︵
a Jewish polity
︶の存在の正統性
︵
legitimacy
︶そのもの︱
むしろ必要性︵necessity
︶︱
を否定するために︑利用されてはならない︵JG, p. 85
︶ ︒
アヴィネリによると︑バーリンは︑ユダヤ人国家の登場にはあらかじめ決定されていたこと︵
predetermined
︶や必然的なもの︵
necessary
︶は何も存在しないと︑主張する︒その逆が真なのであるということが︑彼に︑思想の力︵the
power of ideas
︶を示している︒イスラエルは︑こうした思想の力の︑そして︑苦境に打ち克つ人間の意志の力の︑まさに典型的な事例︵
the paradigmatic case
︶なのである︵JG, pp. 85 86
︶ ︒
バーリンは︑イスラエルの社会的・政治的な基本構造に貢献する思想が︑いかに多種多様で︑時として矛盾している
かについて︑よく認識していた︒彼はまた︑ユダヤ人の国家︵
Jewish commonwealth
︶がいったん樹立されたら︑それがどのようなものであるかについての展望︵
vision
︶は︑ユダヤ人の宗教的遺産に由来するのではない0
not
︵︶とも︑ 0論じている
︱
その展望は︑十九世紀のヨーロッパの思想に由来するのである︵JG, p. 86
︶ ︒
なお︑バーリンの以上の見解は一貫したものではなかった︒いくらかアイロニックなコメントのなかで︑バーリンは︑
最終的にイスラエルへと結実する混合物のさまざまな構成要素を列挙している︒すなわち︑イングランド︑フランス︑
ドイツのシオニストやユダヤ人の貢献などである︵
JG, p. 86
︶ ︒
︵四五六︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五七同志社法学 六三巻一号 とはいえ︑イスラエルへの主要な貢献が︑東欧ユダヤ人たち︵
the Eastern European Jews
︶によるものであることを︑バーリンは認めていた︒東欧ユダヤ人たちは︑パレスチナのユダヤ人居住地︵
the Y ishuv
︶の発展の形成期におけるパレスチナへの移民の多数派であって︑その影響はイスラエルの発展にとって決定的であった︒東欧ユダヤ人たち︵
The
Ost-Juden
︶は︑その人数のためだけでなく︑二重の政治的伝統を伴っていたがゆえに︑イスラエル社会の進路に影響を与えた
︱
二重の政治的伝統とは︑ユダヤ人のケヒッラーの伝統と︑ロシア知識人のリベラルな伝統のことである︵
JG, pp. 87 88
︶ ︒
ユダヤ的な共同体的遺産と︑ロシア知識人のリベラルな伝統との結合は︑パレスチナにおけるユダヤ人の企てに︑イ
デオロギー的な力とその制度的な錨︵
anchor
︶を付与した︒バーリンにとって︑その両者の結合は︑シオニズムへの彼の深いコミットメントが︑現代世界におけるユダヤ民族のディレンマへの洞察に根ざしているだけでなく︑彼の知的
な試みの主要領域の一つと統合されているということも︑意味していた︵
JG, P . 87
︶ ︒
ゆえに
︑バーリンはまた
︑パレスチナの土地
︵
the land
︶に定住する社会主義的シオニストの努力や
︑ 土壌
︵
the
soil
︶や自然への﹁回帰﹂︵the ‘return ’
︶という救済の力︵redemptive powers
︶が︑ロシアの社会主義革命家たち︱
ナロードニキ︵
the Narodniks
︶たち︱
および彼らの﹁民族になること︵go among the people
︶﹂の希望に︑いかに由来しているかも︑指摘した︒シオニストのハルーツたち︵
halutzim
︶︵﹁開拓者たち︵‘pioneers ’
︶﹂︶は︑新しいキブツを創立したが︑彼らはロシアのリベラルで社会主義的な思想に示唆を受けていたのであり︑ユダヤの宗教的な起源に示
唆を受けたのではなかった︵
JG, p. 87
︶ ︒
さて︑アヴィネリによると︑イスラエルの起源にかんするこの論文で際だっているのは︑ヘブライ語へのバーリンの
称賛である︒すなわち︑バーリンは︑話し言葉と現代文学および科学的な言語としてのパレスチナにおけるヘブライ語
︵四五七︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五八同志社法学 六三巻一号
の復活を︑唱えているのである︒彼のヘブライ語へのオード︹賛歌︺︵
ode
︶は︑イディッシュ語に対するヘブライ語のありきたりのシオニストの選好と︑一致している︒イディッシュ語は︑東欧のほとんどの
︱
すべてではないが︱
ユダヤ人の共通語である︒本論文でバーリンは︑一九世紀のヘブライ啓蒙主義︵ハスカラー︶︵
the nineteenth-century
Hebrew Enlightenment
︵Haskala
︶︶の思考に従っている︵JG, p. 88
︶ ︒
しかし︑彼のヘブライ語への選好︵
preference
︶は︑それがユダヤ民族︵the Jewish people
︶の歴史的な言語であるということや︑イスラエルへのすべての移民にとって等しく神聖で利用しやすい唯一の共通の媒介物であったという事
実だけでなく︑それがヨーロッパと関連する文化的な広がりを
︱
弁証法的に︱
有しているという事実にも︑基づいている︵
JG, p. 88
︶ ︒
これはヘブライ語への驚くべき祈り︵
plea
︶である︒というのも︑多くの人々︵時にはヘルツルさえも︶は︑イディッシュ語の起源︵それはゲルマン語族の︑そして部分的にはスラブ語族の起源を伴っている︶をヨーロッパ文化に結び
つけると同時に︑その反面で︑ヘブライ語については︑古風な︑﹁東洋的︵
oriental
︶﹂な︑したがってそれほど社交界にふさわしい言語︵
salonfaehig language
︶ではないと︑みなしている︒バーリンのヘブライ語への選好は明らかに︑イスラエルの政治思想がヨーロッパに起源を有するとか︑シオニズムはヨーロッパ啓蒙主義の遺産の一部であるとい
う︑バーリンの見解と一致している︵
JG, p. 88
︶ ︒
ともあれ︑この論文は︑イスラエルの現実にかんするより両義的な評価を伴っており︑一九五〇年代に執筆されたに
もかかわらず︑バーリンの思考は現代と共鳴している︒イスラエルを訪問し︑ユダヤ人の知性の開花を見出すのを期待
する多くの人々が︑﹁相対的な粗雑さ︵
relative coarseness
︶﹂に失望するであろうことを︑バーリンは認める︒彼はまた︑アラビア語を話す国々からの多くの移民によって︑イスラエルに提起される非常に大きな難問にも気づいている︒その ︵四五八︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四五九同志社法学 六三巻一号 論文が一九五〇年代の初期に執筆されたにもかかわらず︑彼は以下の問いを発している︒すなわち︑リベラルでヨーロッパ的なイスラエルの起源を保持することの重要性とは何か︑という問いである︒﹁その結果は西欧化︵
W esternisation
︶か︑それとも﹃レバント化︹東部地中海およびその沿岸諸国化
︱
引用者︺︵Levantinisation
︶﹄か︒それを語るにはまだ早すぎる ︵
JG, pp. ambivalence 88 89
﹂︒バーリンにおける葛藤︵︶は明白である︵ 32︶︶ ︒
三 バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの
1
アイデンティティの衝突以上で︑バーリンによる︑ナショナリズムおよび近代のユダヤ・アイデンティティにかんする理解と︑彼のユダヤ的・
シオニスト的な信条について︑確認する作業を行った︒本章では︑以上における作業を踏まえた上で︑バーリンのリベ
ラリズムにおけるユダヤ的なものについて︑検討を行う︒
バーリンは自身の私生活において︑ユダヤ民族︵
Jewish people
︶やシオニズム︑それからイスラエルとの自らの熱烈な同一化と︑主要な英国の思想家︵
thinker
︶としての自分を︑どのように結びつけたのか︒アヴィネリによると︑この問題は︑バーリンのいくつかの伝記で
︱
とくにグレイやカナダのジャーナリスト・作家・政治家であるマイケル・イグナティエフ︵
Michael Ignatieff
︶の著作 ︵において
︱
的確に取り扱われているし︑時として論争や反論を巻き起こ 33︶している︵
JG, p. 89
︶ ︒
移民の息子として︑そしてヨーロッパ訛りが決して消えなかった移民として︑一九三〇年代のイングランドで育った
がゆえに︑バーリンは自分の学歴に限らぬ場面で︑多くの困難な心理的な選択をせねばならなかった︒この点で︑彼は
︵四五九︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六〇同志社法学 六三巻一号
ハスカラー主義者︹ヘブライ啓蒙主義者︺︵
maskil
︶であり︑二つの世界を生き︑﹁私生活ではユダヤ人︵a Jew
︶であり︑公的には人間︵
a human being
︶﹂であろうと奮闘していた︒この二分法は︑明らかに︑その代償を強いた︱
第二次世界大戦中のワシントンでの官庁勤務の際にである ︵
JG, pp. 89 90
︵ 34︶︶ ︒
アヴィネリによると︑ジャハンベグローとの会話のなかで︑イスラエルへ移住しなかった理由を聞かれたときに︑バ
ーリンは落ち着かない様子をしている ︵
︒バーリンは同国をしばしば訪問していたし︑数十年にわたって同国を政治的・ 35︶
知的に支えていたが︑同国を訪問しているあいだに︑彼は政治的・学術的な指導者たちの狭い輪のなかで
︱
ちょうど彼が英国でそうしたように
︱
活動していた︒同国の政治的・知的な風潮にかんする知識や理解を有してはいたが︑彼が英国社会
︱
あるいは︑ついでにいえばロシアの精神史︱
について知っているように︑彼が同国について知っているとはいえなかった︒彼が一九三四年にパレスチナをはじめて訪問した際の記述は︑熱帯地方を訪れた白人の印象であ
るかのように読める
︱
共感と関心を伴っているが︑しかし同国のすべてのユダヤ住民を外側から観察している︒パレスチナに住む自分の親類とは会うけれども︑イスラエルにおけるユダヤ人の乱闘騒ぎよりも︑英国の政府関係者と過ご
す方が︑居心地がよいようにみえた︒︵いつも愉快なわけではない︶実際のイスラエルよりも︑ユダヤ人国家という理
念の方が︑彼にとってよほど大事であったと述べても︑公平さを欠くわけではないだろう︵
JG, p. 90
︶ ︒
自分の感情を表に出さないのは︑自分自身のアイデンティティにかんする彼の複雑な内面的生の自然の結果であった
のであり︑そしておそらく︑自分の気持ちを示さないというイングランドの流儀を過度に内面化していたのであろう︒
しかしながら︑彼の感情は奇妙な方法で姿を現す︒一九四五年以降の彼の最初の出版された小編の一つに︑﹁カラヤン
︱
一考察︵Karajan: A Study
︶﹂という︑一九四八年九月一九日の﹃オブザーバー︵Observer
︶﹄紙に登場した音楽評論がある︒イスラエルの激戦のさなかであるにもかかわらず︑バーリンは︑第二次世界大戦中にザルツブルクで起こっ ︵四六〇︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六一同志社法学 六三巻一号 たことや︑ドイツの指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤン︵
Herbert von Karajan
︶が何者であるかについて︑触れていない︵
JG, pp. 90 91
︶ ︒
ホロコーストに対するバーリンの態度にかんするより広範な問題が存在する︒彼の書簡集の第一巻 ︵
︵一九四六年まで 36︶
の書簡が収録されている︶が出版されたときに︑評論家のなかには︑ホロコーストが書簡でほとんど触れられていない
と指摘する者があった ︵
︒この指摘は︑バーリンの出版された著作にもあてはまっており︑それらの著作ではナチズムの 37︶
登場やイデオロギーはほとんど論じられていない︒自分は歴史家︵
a historian
︶ではないとバーリンが述べているとはいえ︑二十世紀の謎や不可解なことや苦難を解読しようとする思想史家︵
a historian of ideas
︶にとって︑これは尋常なことではない︵
JG, p. 91
︶ ︒
バーリンがナチズムについて論じなかったのは︑イングランド流の口の堅さのためだったのか︒あるいは︑自分の親
類の悲劇を︑自分の政治思想の理解の鍵にすることを望まなかったのだろうか︒ここで再び︑とくに︑ホロコーストを
引き起こしたイデオロギーについて
︱
自分の親類に言及することなく︱
彼が論じることができた多くの場面を想像できるがゆえに︑不可解に思われる︒しかし︑彼はそれについて論じないことを選んだのである︵
JG, p. 92
︶ ︒
他方で︑ドイツ出身の政治哲学者であるハンナ・アーレント︵
Hannah Arendt
︶の︑ナチスの指導者であるアドルフ・アイヒマン︵
Adolf Eichmann
︶にかんする著書や︑ヨーロッパのユダヤ人はナチスに抵抗して戦うべきであった︱
あるいは戦うことができた
︱
にもかかわらず︑全ヨーロッパはドイツの占領への抵抗を示すのに失敗したというアーレントの主張に︑ユダヤ神秘主義の権威であるゲルショム・ショーレム︵
Gershom Scolem
︶と同じく︑バーリンが憤慨したことを︑
︱
イグナティエフのように︱
指摘しておくべきであろう︒多数の書簡でバーリンが指摘しているように︑彼はアーレントの論評が冷酷で︑鈍感で︑基本的な人間性︵
basic humanity
︶を欠いていると感じた︵JG, p. 92
︶ ︒
︵四六一︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六二同志社法学 六三巻一号
しかし︑バーリンは一九六一年のアイヒマン裁判の際にイェルサレムにいたけれども︑それについて書いたり自身の
印象を出版したりすることは決してなかったし︑公の場でその問題についてアーレントに反論することもなかった︒そ
れは︑もう一人のけんか腰のユダヤ人︵
another Jew with a chip on his shoulder
︶として公の場に登場するのを︑望まなかったからなのだろうか︒それは︑あまりに多くのユダヤ人やイスラエルの人々によってホロコーストが利用された
︱
そして誤用された︱
しかたへの︑彼の嫌悪であっただろうか︒あるいは︑彼が多くの機会に批判してきたような︑ユダヤ人の歴史の涙を誘うような説明において︑被害者の役割を演じることに乗り気でないという︑彼のユダヤ性にお
ける自尊心であったろうか︒アヴィネリによると︑明確な答えはないように思われる︒ここで再び︑不可解に感じられ
る︵
JG, p. 92
︶ ︒
バーリンのユダヤ性は︑すべての者にとって明らかであったし︑彼は自分自身のそれとの関係を決して絶とうとはし
なかった︒結局︑これこそが同化
︱
とくにドイツにおける︱
に対する彼の主要な批判であったし︑彼のシオニスト的信条の基礎であった︒しかしながら︑彼の読者にとって︑以下のことに気づくのは別の驚きであるだろう︒すなわち︑
彼の著作はユダヤ人の︵あるいはユダヤ人の祖先をもつ︶思想家や人物
︱
ディズレーリやマルクス︑ヘスやハイネ︑シオニズムの指導者であるカイム・ワイツマン︵
Chaim W eizmann
︶や物理学者のアルベルト・アインシュタイン︵Albert
Einstein
︶︱
を縦横に扱うけれども︑彼の著作には︑ユダヤ人の︵およびヘブライ語を用いる︶哲学・文学史上の人物への言及は見あたらない︒二十世紀の主要なユダヤ思想家︵
thinkers
︶の一人としてのバーリンの偉大さを︑否定することはできない
︱
しかし︑彼の著作には近代のユダヤ思想やヘブライ思想の痕跡はない︒アヴィネリによれば︑このことの理由が何であれ︑このこともまた︑これらの思想家・作家・詩人たちによって形成された実際のイスラエルか
らの一定の距離を︑説明するかもしれない︵
JG, pp. 92 93
︶ ︒
︵四六二︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六三同志社法学 六三巻一号
2
ユダヤ人にかんする問題とリベラルな思想彼の人生の最後まで︑バーリンはイスラエルの熱烈な支持者であり続けた︒イスラエルのベングリオン首相︵
Prime
Minister Ben-Gurion
︶が︑イスラエルにおける国家と宗教の問題について検討するよう︑他のユダヤ人の指導的人物たちと並んで︑バーリンに依頼したときに︑彼は詳細な覚書 ︵
で応答したが︑その覚書は︑その問題の複雑さについての彼 38︶
の理解を明らかにしている︒イスラエルは︑神政国家︵
a theocracy
︶ではなくリベラルな国家であるべきであり︑﹁宗教的な帰属の問題は市民権にかんする同国の法とは無関係であるべきである﹂︒ゆえに︑宗教を異にする人々のあいだ
の結婚の問題は︑難問や矛盾に満ちているから︑﹁残忍な文化闘争︵
a ferocious Kulturkampf
︶﹂を回避するために︑暫定協定的な基準︵
an interim basis
︶に基づいて解決するのが望ましいであろうとされる︵JG, p. 93
︶ ︒
アヴィネリによると
︑以上のような
︑原則に基づいてはいるがプラグマティックなリベラリズム
︵
principled yet
pragmatic liberalism
︶は︑イスラエル・パレスチナ関係にかんする難題へのバーリンの態度も特徴づけていた︒晩年に︑彼は一九六七年以降のイスラエル政治を特徴づけた︑より国家︹民族︺主義的な風潮︵
more nationalist tone
︶に心を痛めていた︒彼は︑占領地域へのユダヤ人の入植に反対し︑パレスチナ人︵
the Palestinians
︶との歴史的な妥協を求めた︒さもなければ︑同国の精神︵
ethos
︶のリベラルな性質は弱体化されるであろう︵JG, p. 93
︶ ︒
バーリンは︑離散ユダヤ人はイスラエルの国内政治に引きずり込まれるべきではないと主張していたけれども︑イス
ラエルとパレスチナ人とのあいだの来たるべき妥協︵
eventual compromise
︶の問題は︑彼にとって︑自分のリベラリズムの一般理論︵
general liberalism
︶に沿う原理の問題であるように思えた︒ゆえに︑死の数週間前に︑彼は︑イスラエルの哲学者であるアヴィシャイ・マルガリート︵
A vishai Margalit
︶に手紙を書き︑手紙のなかでオスロ合意を支持し︑二国家解決︵
a two-State solution
︶のみがシオニズムのリベラルな基礎と一致するであろうと︑主張した ︵︒その手紙は︑ 39︶
︵四六三︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六四同志社法学 六三巻一号
﹁イスラエルとパレスチナ人︵
Israel and the Palestinians
︶﹂と題して︑一九九七年一一月七日に﹃ハアレツ︵Ha ’ aretz
︶ ﹄
紙に掲載されたが︑それはバーリンの死の二日後であった︒そのなかで彼は述べている︒﹁双方がパレスチナの完全な
保有を自分たちの史実に基づく権利︵
historical right
︶として主張している︒いずれの主張も︑リアリズムの範囲内では︑あるいは大いなる不正なくして︑是認できない︒妥協が︑たとえば分割︵
partition
︶が︑唯一の間違いのない解決方法︵
correct solution
︶であることは︑明らかである ︵40︶
﹂ ︵
JG, pp. 93 94
︶︒ここにおいてアヴィネリはいう︒ユダヤ人にかんする問題に適用されるときほど︑バーリンのリベラルな思想がさらに優れた政治的表明になることはないであろう︑と
︵
JG, p. 94
わ お り に ︶ ︒
本稿の目的は︑バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なものについて︑検討を行うことであった︒本稿で確認し
たように︑哲学的観点からすれば︑バーリンは︑彼のシオニズムを自分のリベラルな信条と統合している︵
JG, p. 85
︶ ︒
あるいは︑バーリンのユダヤ的なるものは︑彼のリベラルな思想と統合されている︒すなわち︑アヴィネリによると︑
ユダヤ人にかんする問題に適用されるときほど︑彼のリベラルな思想がさらに優れた政治的表明になることはないので
ある︵
JG, p. 94
︶︒しかし︑こうしたバーリン理解に対しては批判があるだろう︒例えば︑パレスチナ生まれの文芸批評家であるエドワード・サイード︵
Edward Said
︶は︑バーリンがきわめてリベラルな人物であることを認めるが︑イスラエルが関係する部分は例外だと考える︒というのもバーリンは︑パレスチナ
人に対するイスラエルの不正義を指摘することがなかったし︑さらに﹁一つの国民︵
a people
︶としてのパレスチナ人﹂ ︵四六四︶アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六五同志社法学 六三巻一号 にまったく言及しなかったからである︒なお︑サイードはバーリンと対面した際に︑パレスチナ問題について語り合うことができなかった︒彼はそのことを後悔し続けたという︒サイードは︑バーリンの﹁イスラエルとパレスチナ人 ︵
﹂と 41︶
いう声明についても手厳しい︒というのも︑バーリンはここでも︑イスラエルの侵略行為に言及しないし︑﹁パレスチ
ナ国民の権利︵
Palestinian national rights
︶﹂という表現も用いていないからである ︵︒ 42︶
このことを重く受け止めた上で︑バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なものの役割について︑若干の補足的検
討を行っておきたい︒
先述のように︑アヴィネリによると︑ユダヤ人にかんする問題に適用されるときほど︑バーリンのリベラルな思想が
さらに優れた政治的表明になることはない︒もっとも︑アヴィネリは︑このことについて十分には議論していない︒そ
こで以下では︑アヴィネリと英国の政治哲学者アラン・ライアン ︵
Alan Ryan
︵︶の対談﹁ユダヤ人としてのアイザィア 43︶︵
Isaiah the Jew
︵︶﹂に注目したい︒ライアンは︑アヴィネリのバーリン論を踏まえた上で︑アヴィネリが十分に論じる 44︶
ことのできていない複数の論点について︑議論を提起している︒両者の対談を検討することによって︑バーリンのリベ
ラリズムにおけるユダヤ的なものについて︑理解を深めることができると思われる︒なお︑注が煩雑になるのを避ける
ために︑以下ではこの対談を
IJ
と略記し︑対応する頁数を本文中に挿入する︒ライアンおよびアヴィネリによると︑バーリンがユダヤ人であるのは誰にとっても自明のことであった︒彼のイスラ
エルへの忠誠心は断固たるものであり︑自分の出自ないしイスラエルへの愛着を︑彼は決して隠そうとはしなかった︒
しかし︑バーリンは論文では︑マルクス︑ディズレーリ︑ヘスは取り扱っているけれども︑神秘主義的なユダヤ哲学者
たち︵
mystical Jewish philosophers
︶には関心を示していない︒このことにかんして︑ライアンはかつて︑バーリンに以下の問いを発した︒あなた︵バーリン︶は︑神秘主義的なユダヤ哲学者たちへの関心の再興に関心があるのか︑と︒
︵四六五︶
アイザィア・バーリンのリベラリズムにおけるユダヤ的なもの 四六六同志社法学 六三巻一号
この問いに対して︑バーリンは︑自分は音痴︵
tone-deaf
︶である︱
バーリンが音楽にかんして音痴であるという意味ではない
︱
と答えた︒これは︑バーリンが︑波長/考え方︵wavelength
︶が同じでない世界を見る方法であった︒それらの哲学者たちが述べようとしていることに︑自分は全く共鳴しない︒自分の思考は︑そうしたことには向かわない
のである︑と︵
IJ, pp. 157 59
︶ ︒
自分は﹁音痴﹂であるというバーリンの回答について︑アヴィネリは以下のように述べている︒すなわち︑バーリン
は︑そのような回答をなす点において︑真の啓蒙主義的な人物であった︒バーリンは︑ヴォルテール的な意味︵啓蒙主
義がいまだに宗教と戦っているという意味︶ではなく︑宗教に﹁無関心︵
indifferent
︵︶﹂であるという意味で︑啓蒙主 45︶
義的な人物であった︒彼にとって︑宗教には良い面と悪い面があるが︑宗教は彼にはまったく影響を与えないし︑宗教
がなくてもごく普通の道徳的な生を送ることができるのである︵
IJ, p. 160
︶ ︒
さて︑アヴィネリによると︑以下のような主張をなすユダヤ思想家がいる︒すなわち︑非ユダヤ教徒︵
the Gentiles
︶にかんしては︑啓蒙主義を全面的に支持する︒非ユダヤ教徒が宗教的で狂信的である場合は︑それはとても悪いことで
ある︒それに対して︑ユダヤ人
0 0 0
us
︵︶にかんしては︑神や神聖さや神秘主義を若干ながら保持すべきである︒それら 0はユダヤ人のもの
0 0 0 0 0 0
ours
︵︶であるから︑それらを放棄すべきではない︒ユダヤ人は宗教的であってもよい︒というのも︑ 0ユダヤ人は神から︑宗教的であるべしという世俗的な特免状︵
a secular dispensation
︶を得ているからである︵IJ, p.
160
︶ ︒
バーリンは︑以上のような無意味な見解を取らなかった︒彼にとって︑もしもある人物が啓蒙された人物ならば︑そ
の人物は宗教に対して﹁音痴﹂であるべきである︒アヴィネリは︑この﹁音痴﹂という理念を︑﹁無関心な ︵
﹂という意 46︶
味で捉えているのである︵
IJ, p. 160
︶ ︒
︵四六六︶