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冀察政務委員会と華北経済をめぐる日中関係

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冀察政務委員会と華北経済をめぐる日中関係

内 田 尚 孝

はじめに

 現地日本軍(関東軍・支那駐屯軍)が、1934年後半期から水面下で準備を 進めてきた華北分離工作は、1935年月の天津日本租界事件を発端に可視化 した。これに対して国民政府は、12月18日、北平に冀察政務委員会を設置し、

同工作を抑え込むことにひとまず成功する()。ただ、同委員会は、国民 政府と第29軍(軍長宋哲元)に現地日本軍を加えた三者間の微妙なバランス の上に組成されたものであったため、わずかな力学の変化で均衡が大きく揺 らぐ可能性を常にはらんでいた。華北分離を実質化しようとする現地日本軍 と、これを阻止しようとする国民政府、両者の間で生存空間を維持しようと する第29軍、三者の駆け引きと暗闘が、この均衡点をめぐって展開していっ た。

 塘沽停戦協定締結後の日中関係を極度に悪化させた華北分離工作は、冀察 政務委員会設置を挟んでそれ以前の第段階と、以降の第段階に分けるこ とができるが、本稿では後者の時期を対象とする。この第段階は、現地日 本軍が、冀察政務委員会をターゲットに、とくに経済・金融・産業領域に重 点を置いていわゆる「明朗化」=「親日化」(華北分離)工作を展開した点に、

その特徴を見出すことができる。

 ところで、本稿で扱う日中全面戦争前夜の華北経済をめぐる研究は、主に 日本の「北支経済開発」の立案、実施過程()や「冀東防共自治政府」支 配地域を介した「冀東密貿易」()の実態解明をテーマに進められてきた。

しかし、1935年12月から1937年月まで日中の最前線にあって、日本との諸 交渉を担当した冀察政務委員会を主体として検討、分析を進めた研究はほと

『言語文化』15-2:137−162ページ 2013.

同志社大学言語文化学会 ©内田尚孝

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んどなく、またその性格にもあまり関心が払われることはなかった()。

同委員会が、盧溝橋事件の中国側当事者であったことを考えると、その日中 交渉の実態解明を抜きにして、日中全面戦争に至る過程を明らかにすること はできないだろう。

 本稿では、冀察政務委員会および同委員会に設置された経済委員会に焦点 を当て、同委員会が主に経済・金融・産業領域をめぐって現地日本軍とどの ような交渉を展開していたのか明らかにしたい。とくに華北分離工作の第 段階の展開過程を、「関税の接収」問題や「幣制独立」問題など案件相互の 関連や案件の推移過程などにも注意しつつ具体的に考察する。また、「経済 開発に関する諒解事項」や「航空会社設立に関する交換文書」の成立プロセ スとともに、宋哲元の両文書への調印がどのような波紋を引き起こすことと なったのか、冀察政務委員会と国民政府の関係の推移にも留意しながら、国 民政府内での議論を検討しつつ明らかにする。これらの作業を通して、冀察 政務委員会が「地方実力派政権」として国民政府と日本との間で自律的に振 る舞いながらも、「冀東防共自治政府」との差異化を強く意識して日本との 関係を処理しようとしていたことは、その生存空間の大きな制約要因となっ ていたことを浮き彫りにしつつ、盧溝橋事件前夜の華北情勢、なかでも華北 経済をめぐる日中関係の実態に迫りたいと思う。

1.冀察政務委員会経済委員会の発足

 冀察政務委員会は、「冀察政務委員会暫行組織大綱」(1936年月17日)の 公布に先立つ月11日に経済委員会を立ち上げた。最も早く設置された特殊 委員会であり、いかに同委員会で扱う案件が喫緊かつ重要であったかがうか がわれよう。発足当初の委員は次の通りである()。

  主席委員:蕭振瀛

  委員: 鈕伝善、張振鷺、寧承恩、王紹賢、林世則、楊天受、黄玉、冷家 驥、秦徳純、過之澣、曽養豊、沈振栄

 このうち盧溝橋事件前夜の1937年月段階でなお委員であったのは、鈕伝 善、冷家驥、過之澣のわずか名に過ぎず()、この間主席委員も頻繁に替っ た。初代主席委員の蕭振瀛(天津市長)は、秦徳純(察哈爾省政府主席)と

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ともに1935年12月、何応欽(軍政部長)ら国民政府側高官と宋哲元、現地日 本軍の三者の間に立って難しい調整を行い、冀察政務委員会設置による事態 収拾に一役買った人物であったが、月16日に解任、後任として王克敏が任 命され月13日に就任するものの、北平には常駐せず、10月15日に李思浩が 引き継いでいる。王克敏は、駐日公使館参事官を経験した後、財政、金融畑 を歩き、北京政府時代には複数回にわたって財政部総長を務め、また、李思 浩も清末および北京政府時代に財政部門の主要ポストを歴任し、靳雲鵬政権 時に財政部総長を務めるなど、いずれも北京政府で財政部門の要職を経験し、

かつ日本と深い関係を有しているところに共通点を見出すことができる。日 本、とりわけ現地日本軍との関係が去就に大きく影響していた。因みに、日 中全面戦争勃発後の日本軍占領下の北平で王は「中華民国臨時政府行政委員 会委員長」に、また李は汪兆銘首班の「国民政府」統治下の上海市で「市政 諮詢委員会主任委員」にそれぞれ就いている。

 現地日本軍は、冀察政務委員会が発足するや、広範囲に及ぶ過酷な要求を 突きつけ、その実現を迫っていた。まずその概要を見ておきたい。

 外務省側の記録によると、月、多田駿(支那駐屯軍司令官)は、宋哲元 に対して「軍側ノ意向ヲ明瞭ニ」した「書簡」を送付している。原文は確認 できないが、月26日に宋哲元と会談した武藤義雄(大使館一等書記官)の 報告から、「書簡」は、第項「防共協定ノ実行」、第項「幣制独立」、第 項「現銀南送停止」、第項「関税ノ接収」、第項「覚書交換」、第項「産 業開発ノ障碍撤去」、第項「人事ノ独立」、第項「防共自治実行ニ妨トナ ル要人ノ整理」の全項目から成るものであったことがわかる()。冀察 政務委員会発足に当たり、日中間の駆け引きの焦点となった項目権限() をより拡大しつつ具体化したものといえよう。日に須磨弥吉郎(南京 総領事)が張群(外交部長)と会談した際、「項目でも良いし、項目で も良い、いずれにせよ部長の尽力を希望する」()と述べている点から、

すでに月初めの段階で「項目」という枠組みができていた可能性もある。

これらは大きく第項の軍事、第、第、第、第項の金融・財政・経済・

産業、第項の文書の作成・調印、第、第項の人事の領域に分類でき るが、金融・財政・経済・産業領域が全体の半分を占め突出しているように、

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日本の対華北政策の重点は、この領域の諸工作を通して華北を国民政府統治 下から「分離」することに置かれていた。経済委員会がとくに重要視された 理由はここにある。

 さて、このうち第項「防共協定ノ実行」は、月30日に多田駿と宋哲元 の間で「防共協定」の成立を見ていたが、直後に東京で「越権行為」との批 判が出て「記録」程度のものに止めるよう訓令が下っていた(10)。しかし、

なおも「防共協定」の実行が第項に挙げられているところから、少なくと も現地においては日本側の事情で「記録」程度のものにはしたものの、規定 された内容の実行は迫っていく姿勢であったことがうかがわれる。

 また、陳中孚(外交委員会主席委員)が最も困難と指摘したのは第項の

「覚書交換」で、「抑冀察政権ニ日本人顧問ノ入レアルハ日支経済提携ノ為ノ 財政金融産業交通等ニ関スル措置実行ノ為ニ外ナラス而シテ顧問ハ松室(孝 良)少将ノ監督下ニアリテ軍ノ意ヲ受ケツツアルモノナレハ顧問ニ相談スレ ハ軍ニ相談シタルモ同然ナルヲ以テ此ノ点ハ顧問ノ制度ヲ活用スルコトニ依 リ何トカ致シ度キモノナリ」(11)と語っている点から、「覚書」の内容が財 政、金融、産業、交通などの分野、つまり第、第、第、第項に明記 された「日支経済提携項目」の具体化に当たって、直接支那駐屯軍の指示を 仰ぐよう求める主旨のものであったことが推察される。当時の対日世論や国 民政府、あるいは第29軍との関係を考えると、これを文書化、調印すること に冀察政務委員会側が難色を示すのは当然であった。

 それでは、経済委員会が中心となって検討が進められていた諸案件のうち、

宋哲元が「目下経済委員会ヲシテ研究セシメツツアル」(12)ことを明かし た第項の「幣制独立」と、陳中孚が「仲ママ々困難」(13)とした第項の「関 税ノ接収」を具体的に見ておくことにしよう。

2.関税接収問題

 まず、後者の「関税ノ接収」であるが、なぜこれを支那駐屯軍が要求して いたのであろうか。これを解くカギは、冀察政務委員会が置かれた財政状況 にある。

 冀察政務委員会の月額の財政収入について、月末に張公権(鉄道部長)

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と陳中孚との間に取り交わされた申し合わせの概要は、日本側が得た情報に よるとおよそ次の通りである(14)。

  海関収入補助金 100万元

  塩税 150万元

  北寧(北平―山海関間)鉄路 15万元   平綏(北平―包頭間)鉄路 万元   統税(統一消費税)・印花税等 70-80万元   旧軍分会経費 26万3841元   独立第46旅団ほか軍費 35万771元

日の過之翰(冀察政務委員会財務処長)の説明によると、このうち 海関収入からの補助金については「中央ヨリノ交付滞リ勝ニテ最近ノ如キハ 月額五、六十万元ニ過キサル状態」で、塩税については「借款担保部分ハ天 引セラレ」、「冀東自治政府へハ月額二十五万元ヲ交付スルコトニ話合着キ」、

「最近ハ減収ノ傾向アル為……月額百四十万元ヲ見込ムコトハ到底不可能」

で、統税・印花税等については「冀東自治政府成立ノ結果同区域内ノ税収ヲ 失ヒ且ツ税収一般ニ減少セル為現在ハ僅ニ三十万元前後ニ過キ」ない有様で、

税収全体は「仮ニ関税百万元カ確実ニ入ルトスルモ月額総計三百万元ニ足ラ」

ない状況のため、「冀察政務委員会所管ノ政費及軍費ヲ支弁スルサヘ困難」

(15)な状態にあったという。

 冀察政務委員会の財政規模は、基本的に1935年11月26日に廃止が決定され た軍事委員会北平分会を踏襲したものであったが、後者との決定的な違いは

「軍事分会ノ経費ハ中央ノ責任ニ於テ之ヲ支弁シ居リタル為大ナル過不足無 カリシモ」、冀察政務委員会の場合、「直接税収ニ依リ自ラ財政ノ切盛ヲ為」

(16)さなければならない点にあった。このような財政状況では日本側が要 求する「地方開発事業ニ手ヲ染ムルカ如キハ全ク不可能」(17)だったので ある。そのため日本側は、「中央税収を留め置き[截留]、財政の独立を図ろ うとする動き」(18)をいっそう積極化させた。

 こうして国民政府との間で大きな懸案に浮上したのが、海関収入補助金で ある。同補助金は、月には交付されたものの月以降交付されていなかっ た。ここに言う海関とは天津海関のことで、当時海関収入が減少傾向にあっ

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たとはいえ、月額200万元は固く、安定した財政基盤を確立するためには必 要不可欠と見なされていた。

月、孔祥熙(財政部長)と協議した林世則(経済委員会委員)は、「中 央カ飽迄右百万元ノ補助ヲ拒ムニ於テハ冀察側ハ已ムヲ得ス天津海関ヲ接収 スルコトトナルヘシ」と迫った。これに対して孔祥熙は、「右補助金ハ元来 張学良ニ対スル送金ナルニ冀察側カ之ヲ張学良ニ廻ササリシニ依リ二月以来 右百万元ヲ中央ヨリ張学良ヘ直接送金シ居ル次第ナリ」(19)と回答、そも そもその百万元は冀察政務委員会宛てのものではないとの理由で交付に難色 を示した。その後、林の執拗な要請により、一応「四月ヨリハ之ヲ送付スヘ シトノ言明ヲ取付ケ」(20)ることに成功したという。

 林世則の発言にあるように、日本側、とくに現地日本軍内には、実力で天 津海関を接収する動きもあったが、海関収入は外債の担保となっており、強 引な接収は対中国関係のみならず、対外関係全般を極度に悪化させる可能性 が確実視されたため、陸軍中央はこれを制止している(21)。

 実際、月11日、堀内謙介(外務次官)と訪日中のフレデリック・リース=

ロス(Frederick William Leith-Ross)(イギリス政府首席財政顧問)が会談し た際、

 堀内 「天津海関収入中ヨリ外債ノ担保部分海関経費ヲ除キタル残額ヲ直 接冀察側ニ交付スルコト。」

 F.L. 「海関収入ヲ直接冀察側ニ渡スハ海関制度ノ破壊ナリ。」

 堀内 「北支ニハ海関自体ヲ接収スヘシトノ意見サヘアリ。」

 F.L. 「海関収入ハ中央ニ送付スルモノニシテ直接地方政権ニ交付スルハ 不可ナリ。」

というやり取りがなされていたように(22)、イギリス政府は、海関収入の 剰余分を国民政府ではなく冀察政務委員会に直接送付するよう求める日本側 の主張を退ける姿勢を明確に打ち出していた。

 その後、海関収入補助金はどうなったのであろうか。月25日に張群と須 磨弥吉郎が会談した際、須磨が、「中央は、冀察政務委員会に対して、毎月 百万元の補助を認めていたが、月以降、その通り交付されず、しかも百万 元では、年にわずか千二百万元であり、真に足りない」(23)と語っている

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点から、月以降も海関収入補助金は交付されていなかったことがうかがわ れる。冀察政務委員会の財政基盤は決して安定したものではなく、厳しい財 政状況に置かれていたのである。

3.幣制独立問題

 「関税ノ接収」と並行して模索されていたのが「幣制独立」である。そも そも日本側は国民政府が断行した幣制改革に強烈な不満を示し、華北分離工 作をなりふりかまわず強行したものの、失敗に終わり、冀察政務委員会の設 置という国民政府による事態収拾策を認めるかたちで何とか面子を保ったと いう経緯があった。

月31日に蕭振瀛が、永見俊徳(支那駐屯軍参謀長)に対して「北支幣制 統一ノ為過日来準備委員会ヲ設ケ之カ研究ニ着手セシムルト共ニ河北省銀行 ヲ基幹銀行ニ内定シ一方天津市内支那側各銀行ノ保管現銀ヲ更ニ厳重ニ保管 シ将来ノ為準備中ナリ」(24)と報告していることから、月末ごろまでに はすでに具体的な検討を始めていたことがわかる。

日に天津市政府で日中双方の代表からなる「冀察自主幣制施行準備 第回打合会」が持たれ、中国側からは蕭振瀛、張振鷺(元奉天省財政庁長)、

林世則(天津海関監督兼北平市財政局長)、楊天受(河北省銀行経理)の 委員が出席し、冀察政務委員会側の計画骨子の披露、聴取が行われた。支那 駐屯軍側は、「官、商合弁トシ広ク民間銀行ノ出資ヲ求ムル」中央銀行設立 案を練っていたが、中国側は、河北省銀行を中央銀行とする方針を強く主張 し、同軍案に難色を示した。そこには、「現在北支ニ於ケル発券銀行ハ河北 省銀行ヲ除クノ他ハ何レモ上海其他中支ニ本店ヲ有スル純然タル中支系統ノ 銀行ノ支店」であるため、「幣制独立ノ機能ヲ有スル中央銀行ニ参加セシム ルコトハ絶対ニ不可能」(25)という冀察政務委員会側の判断があった。ただ、

日本側は、河北省銀行の信用力、財務内容に懸念を抱き続ける。

 しかも冀察政務委員会が紙幣を発券するうえで必要不可欠と見なされてい た「現銀南送停止」にも狂いが生じていた。「米国政府ノ銀買上方針ノ変更 並ニ南京政府ト米国政府トノ銀売却ニ関スル交渉ノ成立ノ結果南京政府ハ保 有銀ヲ有利ニ売却」できるのに対して、「北支政権側ニ於テ「プレミアム」

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付ニテ銀買上ヲ為サントスルニ到底南京政府ニ対抗シ得ス却テ銀ノ南送ヲ惹 起セシムル結果」となったため、「冀察中央銀行ノ準備ニハ三銀行ノ法幣ヲ モ加ヘ即チ支那法幣ニ「リンク」スル貨幣制度トナスコトニ考ヲ更メ右ノ「ラ イン」ニ依ル漸進的発券統一ヲ画索」(26)せざるを得い状況になっていた。

 本件についても、月11日の堀内・リース=ロス会談で、リース=ロスが 切り出す形で取り上げられている(27)。

 F.L. 「北支ニハ中央ヨリ独立セル銀行ヲ作リ特別ノ通貨ヲ流通セシメム トノ計画アル由ナルカ右ニ対スル日本ノ意向如何。」

 堀内 「本件ニ関シテハ自分ハ詳細ヲ知ラス。」

 F.L. 「支那カ三銀行ニ依ル幣制ノ統一ヲ計リ居ル此ノ際北支ニ於テ特別 ノ通貨ヲ流通セシメ又北支自身ノ銀行ノコトニ付イテ中央ニ負担ヲ 負ハセントスルカ如キハ不当ナリ、広東ノ特別通貨モ最近ハ極メテ

「ウィーク」トナリ居ル現状ニ鑑ミ斯ル特別通貨制度ハ支那ノ経済 発展上有害ナリ。」

 リース=ロスは、国民政府による中国幣制統一を妨害する「北支幣制独立」

を認めない考えを伝えるとともに、西南政務委員会支配地域の通貨が下落し ていることを紹介し、このような動きは経済、金融活動に混乱をもたらすだ けであると述べ、強く自重を促したのである。

 水面下ではリース=ロスが憂慮した危機が進行しつつあった。経済情報筋 に よ れ ば「 河 北 省 銀 行 発 行 ノ 紙 幣 ハ 既 ニ 準 備 金 …… ヲ 超 過 ス ル コ ト 二千四百万元ニ達シ」、さらに「続々紙幣ヲ発行セントシアル」状況で、「此 儘放置セハ冀察ノ金融ニ危機ヲ与ヘル虞」(28)が増大していたという。「関 税ノ接収」の実現可能性がきわめて乏しい中で、厳しい財政事情が紙幣乱発 を誘引していたと考えて間違いないだろう。そして、盧溝橋事件勃発後のこ とではあるが、「河北省銀行券ハ宋哲元離平ト同時ニ謡言ヲ生シ銭舗ニテハ 内歩ヲ附シテ受入レ一部ノ外資銀行ハ受入ヲ拒否スルニ至レル等憂フヘキ状 態」(29)に陥っていく。

 この間、月16日に蕭振瀛が主席委員を辞任した。外務省は、第29軍内部 における「南京擁護派(張自忠・劉汝明)」と「反蔣自治派(蕭振瀛・潘毓桂)」

との「抗争」と分析しているが(30)、現地日本軍との関係はより重要な要

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因だったはずである。日本軍側が強く求めた「関税ノ接収」も「幣制独立」も、

そして「現銀南送停止」もことごとく失敗に帰しつつあったことによって、

現地日本軍側との関係悪化が進み、これが辞任の引き金になったと考えた方 が、より当時の華北情勢に則しているといえるだろう。

4.王克敏の北上をめぐって

 こうして後任には、金融・財政のみならず華北情勢にも精通し、なおかつ 日本側の評価も高かった王克敏に白羽の矢が立った。

 王克敏は、北上を前にした月27日、川越茂(駐中国大使)を往訪し、「経 済開発ニハ先ツ財政ノ整理ト政情ノ安定カ先決問題」であり、「財政ノ整理 ヲ完全ニ行フヲ得ハ冀察両省ニテ関税ヲ別トシ二千万乃至二千五百万元位ノ 余裕ヲ生ミ出スコト必スシモ困難」ではなく、これを「経済開発ノ資金ニ充 当シ得」る構想を開陳した。続いて川越が、「私見」と断りつつ、主席委員 就任に先だって、(一)「主管事項ニ対スル北支軍閥方面ノ干渉ヲ避クルコト」、

(二)「南京政府ノ干渉ヲ避ケ自主専行ノ権限ヲ得ルコト」、(三)「日本側ノ 了解援助ヲ得ルコト特ニ北支ニ関係深キ日本軍部側トノ連絡了解カ必要ナル ヘキコト」を求めた。これに対して、王は、(一)については「宋哲元ト予 メ打合ヲ遂クヘク」、(二)は「或程度ノ相談ハ出来得ヘキモ尚疑問ノ余地ア リ」、(三)は「篤ト関係日本軍部側ノ意向ヲ確メ」るが、「日本政府トシテ 何ノ程度迄援助シ呉ルルヤハ疑問ノ余地」ありと回答、川越は、すかさず(三)

は(一)(二)の条件決定次第であると(31)、あくまでも第29軍に口出しさ せず、国民政府からは広範な権限を獲得してくるよう迫った。

 他方、外務省は、田尻愛義(天津総領事代理)らに対して、「王克敏ノ北 上ハ天津軍側ノ強キ希望ニ基クコト御承知ノ通」であり、宋哲元に対して、「王 北上ノ上ハ其ノ意見ヲ十分尊重スル」とともに、「同人ヲシテ自由ニ其ノ手 腕ヲ発揮セシメ得ル様二十九軍及冀察政権ノ内容ニ必要ノ改革ヲ加ヘ以テ北 支明朗化ニ関スル我方ノ期待ニ副フ」(32)よう、厳重な申し入れを訓令した。

外務省は、現地日本軍が歓迎している王克敏であれば「北支経済開発」を前 進させられると読み、そのためには事前に冀察政務委員会内の受け入れ態勢 を整えておく必要があると考えた。ただ、外務省は支那駐屯軍増強以降、と

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くに反日色を強めていた第29軍内の動きを憂慮していた。実際、月26日に は軍事的摩擦(第一次豊台事件)も発生していた。要するに、第29軍系の委 員を排除し、「明朗化」、つまり「親日的」委員に入れ替えるよう事前工作を 命じたのである。これを直接受けてのものか否か詳らかではないが、月21 日には行政院が、新たに湯爾和、曹汝霖、戈定遠、劉汝明を委員に任命し、

4名増員という形での改組が実施されている(『北平晨報』、月22日)。

日、王克敏は宋哲元の招請を受けて上海から天津に到着し、田代皖 一郎(支那駐屯軍司令官)や永見俊徳と意見を交わし、日には北平で宋哲 元と冀察の財政整理について懇談、12日には再度天津に入り、王揖唐、曹汝 霖とともに田代と協議を重ね、翌13日、帰京の途についた。同日、冀察政務 委員会が王克敏を経済委員会主席委員に任命したことから考え、王の北上は ひとまず成功したといえる。

月25日に張群と須磨弥吉郎が会談した際、双方から王克敏の就任に期待 が寄せられた。ただ、この時も、須磨が「要点は、経済合作の資金の出所の 問題である。経済開発には多額の資金が必要で、必要な限度はいかほどで、

準備の方法はどのようで、ということを研究しなければならない」と、財源 問題を持ち出し、「政府が全部の収入から若干部分を支出すると規定するの も方法の一つで、外債部分を除外すれば良い」と論じたのに対して、張が「貴 方は冀、察の収入が地方使用に帰すことを主張しているようだが、華北財政 独立企図の嫌いがあり、最も誤解を招きやすいので、これは駄目である」(33)、

と応酬する一幕があったように、蕭振瀛から王克敏に主席委員が替ったこと だけでは解決され得ないより根本的な問題が早くも再浮上していた。

 他方、東京では月11日、外務、大蔵、陸軍、海軍の四省間で「第二次北 支処理要綱」が決定され、出先に通達された。「第一次北支処理要綱」(月 13日)との大きな相違点は、「北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ主眼トスル分治 政治ノ完成ヲ援助シ該地域ニ確固タル防共親日満ノ地帯ヲ建設セシメ併セテ 国防資源ノ獲得並ニ交通施設ノ拡充ニ資シ以テ一ハ蘇国ノ侵寇ニ備ヘ一ハ日 満支三国提携共助実現ノ基礎タラシムルニ在リ」(34)、とその「方針」冒頭 の第項に掲げられているように、「国防資源の獲得」、「交通施設の拡充」

を前面に押し出している点にある。そしてこの目的達成のために、「南京政

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権ヲシテ北支ノ特殊性ヲ確認シ北支ノ分治ヲ牽制スルカ如キ施措ヲナサス進 ムテ北支政権ニ対シ特種且包括的ナル自治ノ権限ヲ賦与セシムル様施策ス ル」(35)ことが求められた。続く「要綱」はさらに踏み込み、「分治ノ内容 ハ前記方針ニ基キ北支政権ヲシテ財政産業交通等諸般ノ事項ニ付実質上ノ権 限ヲ行使」させることであるとし(第項)、「北支経済開発」に当たり、「特 ニ国防上必要ナル軍需資源(鉄、石炭、塩等)ノ開発並ニ之ニ関連スル交通 電力等ノ施設ハ要スレハ我方資本ニ依リ速ニ之カ実現ヲ図ル」(第項)(36)

よう指示した。以降、支那駐屯軍をはじめとする出先軍、出先機関は、これ にもとづいて対中国政策を進めていくこととなった。

 参謀本部は、併せて「南京政府ニ示唆ヲ与ヘ同政権ヲシテ北支ニ授権スヘ キ決意ヲ為サシメ進ンテ具体案ヲ提出スルニ至ラシムル如ク指導スヘク従ツ テ過早ニ我カ方ヨリ提案スルカ如キコトナキ」(37)よう、とくに要望して いる。

 東京での新たな政策決定を受け、月22日から24日にかけて天津総領事公 邸で「北支主要公館長会議」が開かれた。同会議には、影佐禎昭(軍事課員)

が陸軍省側代表として出席していたが、川越茂と影佐の間で興味深いやり取 りがなされている(38)。

 川越  「王克敏ノ担キ出シハ軍部テ考ヘ出サレタトノ事タカ陸軍省テヤラ レタ事テスカ。」

 影佐 「左様テス。」

 川越  「貴官辺ノ思ヒ付ト思フカ如何。」

 影佐  「左様テス実ハ北支ノ工作停頓状態ニ陥ツタノテ打開策トシテ思ヒ 付イタ訳テスカ王ニ対シテハ軍トシテハ充分援助スルカ北支ニ来テ モスク帰ル様ナラ来ンテモヨイ且具体問題ニ触レルト二進モ三進モ 行カナクナルカラ包括的ナ権限ヲ蔣介石カラ貰ツテハ如何ト云ツテ 遣ツタ訳テス。」

 川越  「自分ハ日本カ王テナクテハナラント云フ印象ヲ与ヘルノハ面白ク ナイト思フ従ツテ王ニ対シテハオ前カ自力テ蔣カラ出来ル丈多クノ 権限ヲ取ツテ来イソシテ良ク働ケハ極力援助シテヤルト云フ様ニ応 待スルカヨイト思フ。」

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 王克敏の担ぎ出しが百パーセント影佐のアイデアであったとは考えられな いが、いずれにせよ日本側の関心は、王克敏が国民政府と談判し、どこまで 具体的な権限を得られるのかにあった。

日に王克敏は上海から大連に到着し松岡洋右(満鉄総裁)と、日 には関東軍首脳と会談し、日、天津に到着した。東北経由という点が注目 される。天津の埠頭では、「東亜協会」が元で雇った二百人余が小旗 を手にシュプレヒコールを上げる騒動が王を出迎えたが、背後には現地日本 軍の影があった(39)。同日、王克敏は田代皖一郎と、11日には宋哲元と会 談したものの、翌12日、辞意を表明するに至る。今回の北上は失敗に終わっ た。上海からは、「日本人の王克敏に対する態度は日々変化し、軍部方面は、

華北情勢について日本人は決して手を緩めない、中央との合流に至っては、

華北は外交・経済上きわめて特殊で、王氏の北上が蔣(介石)勢力の拡大を 目論むものなら、日本人を大いに刺激することとなり、断固とした措置をと らざるを得ない、と言い放っている」(40)という情報が寄せられていたよ うに、現地日本軍の王克敏に対する評価は非常に流動的であった。とくに参 謀の和知鷹二(中佐)や専田盛寿(少佐)らが強硬に反対していたという(41)。

王は日本側が要求する権限を国民政府から付与されていなかったのであろ う。

 同じ頃、南京では、成都事件や北海事件など中国全土で「抗日的」「反日的」

とされる事件が相次ぎ、これらを受けて国交調整を目的としたハイレベル交 渉が始まっていた(川越茂・張群会談)。

月23日には第回川越茂・張群会談が開かれ、冒頭、張群は、第回会 談(月15日)を受け、国民政府内での検討を経てまとめた中国側対案を読 み上げた。「政治問題ハ内政問題ニシテ国家ノ主権及行政権ノ統一ニ関係ス ルヲ以テ之ヲ日本側ト協議スルコト困難ナリ特ニ北支問題解決策トシテ北支 ノ独立政権又ハ半独立政権ノ樹立ヲ要求セラルルガ如キハ支那ノ主権領土権 及行政権ノ完成ヲ破壊スルモノニテ到底容認シ難シ」という、中国側の原則 を厳しい調子で述べたうえで、「但シ防共問題ト経済提携ニ付テハ適宜協議 ヲ進ムルコトニ異議ナシ」(42)と付け加えた。さらに「経済提携」について、

次のような考えを示した(43)。

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  「経済合作ハ苟モ政治的侵略ヲ伴ハズ互恵平等ノ立場ニ於テスル以上素ヨ リ歓迎スル所ナルカ先ヅ

 (イ)其ノ範囲ハ冀察両省トシ

 (ロ) 其ノ方法ハ行政機関以外ニ一ツノ共同機関(「シンジケート」)ヲ設 ケ日本側ノ出スベキ資本ハ団匪賠償金ヲ以テスルコトトシ

 (ハ)之ガ実施方案ハ双方ヨリ専門家ヲ選ビテ作成セシムルコトト致度シ。」

 冀察政務委員会をめぐって日中間の最大の懸案の一つとなってきた財源問 題について、「団匪賠償金」、つまり義和団戦争の際の賠償金を充てるよう提 案してきたのである。王克敏に期待された権限付与などもっての外であった。

他方、東京の駐日大使館からは、外務省が三省会議を開き「(華北)五省の 税権独立を要求し、これを拠り所とする所謂華北財政計画書を協議し……先 方には明らかに華北割譲の企図がある」(44)との報告が南京に寄せられて いた。

5.「経済開発に関する諒解事項」調印とその反響

 王克敏の辞任を前後して「華北の空気は日々悪化し、日本側は第29軍およ び明朗化に対して多くの要求をして」きていたが(45)、月30日、田代皖 一郎と宋哲元は、原則項目と経済開発項目からなる「経済開発ニ関スル 諒解事項」(以下「諒解事項」)に調印した。日本側記録によれば内容は以下 の通りである(46)。

 一、日支経済提携ノ原則

  (一)共存共栄ノ原則ニ従ヒ日支均等ノ利益ヲ収ムルコト   (二)経済提携上日支ハ平等ノ立場ニ於テ総テヲ律スルコト

  (三) 各種経済開発ノ事業ハ支那側ノ対日借款ニ依ルカ又ハ日支合弁ノ 企業形態ニ依ルコト日本軍ハ之カ為日本側ヨリ莫、 、大ナル資本ト優 秀ナル技術トヲ招致スヘク斡旋ス

  (四)民衆ノ福祉増進ヲ計リ安居、楽業ヲ得ルコトヲ主眼トスルコト  二、

  (一)航空 定期航空事業経営ヲ開始ス

  (二)鉄道  産業ノ根幹タルヘキ鉄道ヲ敷設ス之カ為先ツ津石鉄道ヲ新

(14)

設ス

  (三)炭鉱  優良炭鉱ヲ開発ス之カ為先ツ「コウケン」社ノ 協商シ井陘、

正豊炭鉱ノ増産ヲ促進ス

  (四)鉄鉱  鉄鉱ヲ探査採掘シ製鉄事業ヲ勃興ス先ツ差当リ龍烟鉄鉱ノ 開発ヲ行フ

  (五)築港  北支物資ノ輸出ヲ容易ナラシムル為塘沽附近ニ於テ先ツ地 点ヲ選定シ調査研究ヲ行ヒ鉄道及鉱山ノ開発ニ伴ヒ同地ニ 築港ス

  (六)電力 電業ヲ拡充シ且水力資源ノ開発ヲ行フ

  (七)農漁荘 ノ振興 民力涵養ノ為農漁荘ノ福祉増進ヲ計ル之カ為先ツ 棉花、塩、羊毛ノ対日輸出ヲ促進シ且治水、水利ヲ行フ   (八)通信  既存施設ノ統合改善ヲ行フ之カ為資本技術員ヲ要スル時ハ

日本ノ助力ニ依ル

 航空、鉄道から農業、漁業、電信に至る実に広範な分野で日中が「経済提 携」し、「開発」を行うこととされている。王克敏はこの内容を知っていた のかもしれない。これらを実施に移すためには、かなりの財政的手当と中央 政府レベルの承認を必要とする。権限が付与されていなければ、実現は不可 能であり、強引に着手すれば、主権侵害と判断されるおそれがあった。なお、

このうち二(六)の電力については、すでに月20日、興中公司との合弁に よる天津電業股份有限公司(資本金800万元)が天津市特別一区海河路北寧 官舎で発足していた(『大公報(天津)』、月21日)。

 橋本群(支那駐屯軍参謀長)は、調印までの経緯を、「第二次北支処理要 綱ニ基キ殊ニ経済開発ニ関シ過般来軍司令官及宋哲元数度ニ亘リ懇談シタル 処概ネ両者ノ意見ノ一致ヲ見冀察側ハ着々之ヲ実現セントスルノ気勢ヲ示シ タルヲ以テ将来ノ憑拠タラシメンカ為左ノ通リ諒解事項トシテ文書ヲ作成シ 九月三十日署調」した(47)と説明しており、ここから、本「諒解事項」

調印が、「第二次北支処理要綱」を受けた動きであったこと、田代皖一郎と 宋哲元の間で複数回の協議が持たれ、合意に達したものであったことがわか る。しかも、これに続けて「本諒解事項ハ所謂契約又ハ協定等ノ性質ヲ有ス ルモノニアラスシテ冀察側ニ目標ヲ示シ其決意ヲ促サントスル為ノ軍ノ内面

(15)

指導ノ資料ナリ」(48)と、あえて「契約」や「協定」ではないと断ってい る点が注目される。陳中孚が「覚書交換」を最も困難と指摘したように、中 国側の懸念を念頭に置いた判断があったことは間違いないだろう。

 10月日に天津から北平に戻った宋哲元は、日、西直門武衣庫の私邸で 記者会見を開き、種々の噂を打ち消したうえで、「華北通航問題に関しては、

前政整会や軍分会の未了の交渉を引き継いだもので、経済合作に至っては、

例えば龍烟鉄鉱採掘、鉄道敷設は、本当に平等互恵でできさえすれば、双方 いずれにも裨益し、余は誠意をもってその実現を促したい」と語り(『大公報』、

10月日)、「諒解事項」の一部内容を紹介しつつ世論の理解を求めた。10月 13日、冀察政務委員会は、王克敏の後任として李思浩を経済委員会主席委員 に、また陳覚生を滄石(滄州―石家荘間)鉄路督弁に任命したことを発表し、

「諒解事項」を具体化する姿勢を公にした。

 宋哲元は、この「諒解事項」を調印からカ月近く経った10月27日、蔣介 石(行政院長)に報告した。この経過時間の長さから、宋が国民政府への報 告をかなり躊躇していた様子がうかがわれる。電文冒頭、「職は先月天津で 田代司令官と面談し、経済開発について意見交換し、平等互恵、共存共栄の 原則で、双方諒解を得た」(49)、とわざわざ断り、国民政府の理解を得よう とした。

 宋哲元からの報告を受け、行政院は、ただちに関係部局に「諒解事項」の 写しを配布し、分析、検討するよう指示した。ここでは外交部と財政部の答 申内容を通して国民政府内の反応を見ておこう。

 外交部は、検討の結果、注意すべき点として、第に、「原則、項目を 精査したところ、前者はきわめてつかみどころがなく、後者はあまりにも広 範で、適用地域についてはまったく明確な規定がない」、第に、「原則の第 3項によれば、中日経済合作は日本軍を仲介者[居間人]とするとあるが、

このような協定は世にも稀である」、第に、「項目では、航空、鉄道、炭鉱、

鉄鉱、築港、電業、農業、漁業、水利、交通等の項目を列挙し、中央政府の 統制ではない事業は一つとしてないが、中央の字句は一つもない」、第に、

「来電は協定ではないと言っているが、具体的な条項があり、また「文曰」

との表現はすでに文書が作成されていることを明らかにしており、どうして

(16)

協定ではないと言い得ようか」、の点を挙げ、「中央は絶対に当該文献を承 認してはならない」(50)旨提言した。主に「諒解事項」の曖昧さに潜む拡 大解釈の可能性や中央政府との関係について注意を促す内容で、点目は先 に見た橋本群による説明の背後に潜む日本側の思惑を鋭く突いたものであっ た。

 外交部よりも厳しい調子で批判したのは財政部である。財政部では公債司、

銭幣司、関務署、塩務署が協議、検討作業を進め、11月日、孔祥熙(財政 部長)に報告した。報告は、「原則」第項の「均等ノ利益」、第項の「平 等ニ律スル」などの文言は、「一般的な外交辞令」であると断じたうえで、

項については、行政院第17次会議(1929年月)決議―「主権を損なわ ない範囲内で、普通借款のほか、政府は、外資[洋商]との各種建設事業の 合資経営を採用し、公司名義でこれを経営することができるが、相当の制限 を加えるべきであり、その制限原則については別に定める」、合資に当たっ ては「一、中国側が全株式の51%以上を取得する、一、中国人董事が多数を 占める、一、董事長および総経理などの職には中国人が充たる、一、合資は 中国公司法およびその他法律の制限を受ける」―を厳守させるべきであり、

「軍部が斡旋するようなことは、流弊を引き起こしやすく、絶対に駄目であ る」、第項の「民衆ノ福祉、安居、楽業」は、治安に関することで、濫用 された場合、「わが国の政権、軍権を容易に侵犯することになりかねない」

ので削除すべきであるとした(51)。

 経済開発項目については、いずれも「国防、国家経済および大衆の暮ら しに関わっており、中日共同で処理できるか否か、事は重大であり、主管各 部が先行して審議すべきである」(52)との判断を示した。そして、(一)こ こで取り上げられている「石炭、鉄、棉、塩などの資源は、軍事上の必需品 であるばかりか、工業発展要素でもあり、わが国の石炭、鉄の産出量は東四 省が最も多いが、すでに奪われており、次に華北が奪われれば、軍事・工業 が必要とする資源を全失する」おそれがあり、「航空、鉄道敷設、築港、通 信は、陸・海・空交通の命脈であり、いずれも国防上きわめて危険である」、

(二)中日の借款や合弁事業は、「百害あって一利無し」で、東三省の鉄道、

本渓湖炭鉱や鞍山站鉄鉱はいずれも当初合弁形式をとったが、「国力を恃み

(17)

に実権を奪い去り、ややもすれば特殊な関係を有することを口実にし、九・

一八事変を引き起こす結果となった」、(三)「日本は、近年わが国で任意に 行動し、一切の条約を顧みず、わが国の法律は無きも同然で、密輸、薬物売 買など何はばかるところなく行っており」、いかなる取極めを作成しても、

遵守を期待することはできない、と問題点を整理し、最後に「わが国は決し てその策略にはまってはならない」(53)と結論づけた。

 幣制改革阻止の動きや「冀東密貿易」の公然化は、金融や財政、海関など の業務を主管する財政部の日々の活動と真っ向から対立する案件であったた め、部内の対日感情はかなり悪化していたものと考えられるが、上記答申か らは、局(司・署)レベルにおいても、対日不信感がすでに相当な程度にま で達していたことを読み取ることができる。「満洲事変」の原因にまで遡っ た(二)や、日本側の条約無視を指摘した(三)などは、(一)以上に根の 深い問題であったといわなければならない。

 また、民間においても宋哲元の動きに警鐘を鳴らす言論が相次いだ。例え ば、陳岱孫は、「経済侵略」と題する論文の中で、「経済協力とは、二つの経 済主体が平等の地位で互恵の精神にもとづいて、ある経済事業に自発的に相 互協力し、これによって双方にとって利益となる目的を達成することで、最 も重要なことは双方の経済主権が決してこれによって失われないことであ る」のに対して、「経済侵略とは、表面的には平等、互恵を標榜しているが、

実際には武力を背景とし、明に暗に被侵略者の一切の経済主権を奪い、一切 の利益を独占、壟断するという目標を遂げることである。二つの国家の関係 は、二つの独立した経済主体の相互協力ではなく、戦勝国の被征服国に対す る支配である。主権の保全と喪失が協力と侵略の主要な違いである」と論じ

(『大公報』、11月日)、名指しは避けているものの、日本の「北支経済開発」

をめぐる動きの本質を暴いた。

 12月日、行政院は、「諒解事項」に関する関係各部(外交、財政、実業、

鉄道、交通)および関係委員会(全国経済委員会、建設委員会)からの答申 を取りまとめ、次のような判断を下した(54)。

  「(一)19年(1930年)日中央政治会議第222次会議で決定された三 つの外資利用方式を適切に遵守すべきである。(二)およそ合資事業は、

(18)

まず中央各主管部会と協議すべきである。(三)およそ中央政府が決定し た具体的方法は、遵守して処理すべきである。例えば、余塩輸出弁法のよ うに。(四)交通、水利事業のように、全体あるいはその他各省と関係が あるものは、中央が統一計画し、実施するべきである。(五)中央が成案 を得、その範囲を規定したものは、投資家の要求によって任意に変更を加 えてはならない。例えば、滄石鉄道を津石ルートに変えてはならない。(六)

合資事業は、投資家を契約相手とすべきで、軍人を仲介させる必要はない。

(七)合資事業は、具体的に指定すべきで、漠然と包括的であってはなら ない。合資で鉱業に取り組む場合、どの鉱山か指定すべきである。例えば、

龍烟鉄鉱とし、他の鉱山に及んではならない。(八)合資事業は、必ず地 点を確定すべきである。例えば、龍烟鉄鉱は、該当地、該当鉱山を指すの みで、各鉄鉱に及んではならない。」

 (五)や(七)あるいは(八)のように、それぞれの条件を満たす場合に は合資を認めるともとれる表現をとっている点で、財政部の答申に比べてや やトーン・ダウンしているようにも感じられる。冀察政務委員会の置かれて いる厳しい状況や日中関係全般への影響に対する配慮もあったのであろう。

ただ、全体としては(一)、(二)、(三)にあるように中央政府が定めた法令 や判断の遵守を大前提とした内容となっており、外交部や財政部の答申通り

「諒解事項」を認めない姿勢を明確に示したものであった。

おわりに

 この間、10月日の記者会見で宋哲元が言及した通航(航空連絡)をめぐっ て大きな動きがあった(55)。通航は、1933年11月の日中間交渉(北平会議)

の際、関東軍司令部が交渉責任者に対して「申合事項」に挿入するようとく に「訓令」し、また、先の「諒解事項」二の筆頭に掲げられているように、

当時日本側がとりわけ力を注いでいた案件であった。日本側の思惑は、「北 支ニ対シ我航空勢力ノ進出ヲ図リ之ヲ拠点トシ機会ヲ求メテ全支ニ於ケル航 空権ヲ実質的ニ把握セントスル」(56)ことにあった。他方、中国側はきわ めて慎重な姿勢をとっていた。日本軍による「華北自由飛行」をきわめて憂 慮していたからである。「華北自由飛行」とは、塘沽停戦協定を口実にした

(19)

日本軍による領空侵犯のことで、1935年に入ると急激に頻度と範囲をエスカ レートさせていた。こうしたこともあって通航交渉は、1935年月に決裂し ていた。

 ところが、「諒解事項」調印後間もなくの1936年10月17日、宋哲元は、独 断で堀内干城(天津総領事)との間で「航空会社設立に関する交換文書(北 支航空協定)」(以下「交換文書」)に調印、10月23日には恵通航空公司創立 総会が開催され、董事長に張允栄が、副董事長には後に大日本航空総裁を務 める児玉常雄が就任した。日本側は、月下旬に原案を固め、月15日には 現地出先機関が「交換文書」案を決定するなど着々と準備を進めていた(57)。

いずれも王克敏の去就が問題となっていた時期に重なっている点が注目され る。11月17日、東機器局新飛行場で開業式典が開かれ、日本側からは田代皖 一郎、橋本群、堀内干城らが、中国側からは張自忠(天津市長)、劉家鸞(天 津保安司令)、陳覚生(冀察政務委員会交通委員会主席委員)、王揖唐(冀察 政務委員会委員)らが参列した(『大公報』、11月18日)。

 当然、南京はこれをきわめて重大視した(58)。12月日付中国各紙は、

前日、国民政府が、行政院に対して次のような「訓令」を発した旨一斉に報 道している。「各省の対外交渉は中央が処理すべきことを決議し、外交部が 内外に通告しており、いかなる国と各省首長が協定に調印しようとも、中央 はその効力の発生を承認することはできない」という1929年月16日の中央 政治会議第171次会議決議、外資利用に関する1930年日の同第222次会 議決議、およびこれらを再確認した1936年11月19日の同第26次会議決議から、

「およそ各省市の対外協商および外国人との合資条款について、中央の審査、

許可を経ざるものは一律無効とする(『大公報』、12月日)。」

 「諒解事項」に続く「交換文書」調印、その直後の恵通航空公司設立は、

国民政府を強く刺激した。同「訓令」が、冀察政務委員会と同委員会に対す る日本の一連の動きを強く牽制するものであったことはいうまでもない。最 終的に1937年月13日、行政院は第312次会議の検討を踏まえ、冀察政務委 員会に対して「交換文書は中央が決定した原則と合致しない箇所が多く、許 可しがたい」(59)ことを正式に通知し、「交換文書」は無効である、との判 断を伝えた。ここに恵通航空公司は明確に「非合法化」されたのである。

(20)

 それでは、なぜ宋哲元は反発必至の「諒解事項」や「交換文書」に調印し たのであろうか。それを解く手がかりを、当時北平で活動していた加藤伝次 郎(大使館一等書記官)の報告に見出すことができる。加藤は、支那駐屯軍 や冀察政務委員会の首脳と精力的に懇談して得た本件に関する内話を分析 し、次のようにまとめている(60)。

 一、 田代司令官着任以来宋哲元ヲ始メ齊燮元、賈徳耀、陳中孚及陳覚生等 ハ機会アル毎ニ冀東取消問題ヲ司令官ニ持出シ九月経済合作ニ関スル 司令官、宋会談ノ際モ宋ハ経済開発ニ関スル了解事項調印ト交換的ニ 冀東ノ解消ヲ持込ミタルニ対シ司令官ハ問題ノ性質ヲ異ニスルトテ「経 済取極ヲ取止ムルモ可ナリ」ト答ヘ宋ヨリ「条件トセス冀察ノ希望ト シテ充分了解アリ度シ」トノ趣旨ニ変更ヲ申出テ漸ク経済合作ノ取極 成立シタル経緯アリ。

 二、 賈徳耀ハ昨年八月松室少将ト会談ノ際北支経済開発ニ関スル了解乃至 恵通公司等成立スレハ日本ハ冀東ヲ取消スモノトノ印象ヲ得此ノ点賈 ハ宋哲元ニ対シ相当「コミツト」シ宋ハ経済開発ノ商議進行ニ努力シ タル模様ナルカ冀東ハ依然其ノ儘ナル為賈ハ松室少将離平ニ当リ涙ヲ 流シテ其ノ不信ヲ責メタル趣(以下略)。

 要するに、冀察政務委員会側は、「諒解事項」や「交換文書」調印を「冀 東防共自治政府」解消の取引材料にしようと考えていた、というのである。「冀 東防共自治政府」とは、華北分離工作の行き詰まりを受け、1935年11月25日 に土肥原賢二(奉天特務機関長)が殷汝耕を担ぎ出して通州に設立した「冀 東防共自治委員会」のことで、カ月後の12月25日に「自治委員会」から「自 治政府」に改称された傀儡政権のことである。冀察政務委員会は、同「政府」

との違いを明確化するために、また先に見た財政基盤の強化を図るために、

「冀東防共自治政府」解消を発足当初より最重要課題に掲げていた。冀察政 務委員会側は、現地日本軍との交渉の際、必ずと言っていいほど「冀東防共 自治政府」解消問題を提起しており、当然日本側も冀察側の意向を熟知して いた。ここには松室孝良(北平特務機関長)の名を認めることができるが、

日本側がバーターをちらつかせながら両文書調印へ持ち込んで行った可能性 はきわめて高い。しかし、調印後も「冀東防共自治政府」解消は実現せず、

(21)

かえって国民政府との関係を悪化させる結果を招いてしまった。冀察政務委 員会および第29軍の対日不信感が増大したことは想像に難くない。

 「関税の接収」、「幣制独立」、そして「現銀南送停止」と、ことごとく失敗 に帰し、ここに「諒解事項」と「交換文書」の調印を見たものの、国民政府 がこれらに承認を与えることはなかった。1937年初めの段階で、華北におけ る日中関係は、すでに政治・外交領域のみならず、経済領域においても閉塞 状態に陥っていた。こうした状況の中で、盧溝橋事件を迎えることとなった のである。

[注]

(1) 拙著『華北事変の研究―塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係1932-1935年』、

汲古書院、2006年、第8章。

(2)中村隆英『戦時日本の華北経済支配』、山川出版社、1983年、第1章。

(3)孫準植『戦前日本在華北的走私活動(1933-1937)』、国史館、1997年。

(4)萩原充「冀察における提携事業の展開過程」、『中国の経済建設と日中関係―

対日抗戦への序曲1927〜1937年』(ミネルヴァ書房、2000年)は、鉄道建設 に焦点を当てたものではあるが、日中全面戦争前の華北の経済・産業領域に おける日中関係を考察した数少ない研究の一つである。なお、同氏は、冀察 政務委員会について「冀察政権は国民政府の地方機関として人事権は南京側 に掌握され、外交権を有しないため自立性には乏し」かったと評している(同、

244頁)。

(5)李雲漢『宋哲元与七七抗戦』、伝記文学出版社、1978年、126頁。

(6) 冀察政務委員会秘書処第一組『冀察政務委員会職員録』(1937年6月)、中国第 二歴史檔案館所蔵。

(7) 「武藤義雄大使館一等書記官発有田八郎外務大臣宛第248号電報」(5月27日着)、

外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅱ第1部第5巻上、2008年、703-705頁。(以下、

『日本外交文書』Ⅱ―1―5上と略す。また同下については、『日本外交文書』

Ⅱ―1―5下と略す。)

(8) 6項目権限をめぐる日中間の攻防については、拙稿「冀察政務委員会の設置と 日本の対華北政策の展開」、『言語文化』第15巻第1号、2012年8月。

(9) 「外交部張部長与須磨総領事為華北問題等之会談」(4月7日)、秦孝儀主編『中 華民国重要史料初編―対日抗戦時期・第六編・傀儡組織』(二)、中国国民党

(22)

中央委員会党史委員会、1981年、65頁。(以下、『傀儡組織』(二)と略す。)

(10) 拙稿「冀察政務委員会の対日交渉と現地日本軍―「防共協定」締結問題と「冀 東防共自治政府」解消問題を中心に」、『近きに在りて』第51号、2007年。

(11) 「武藤義雄大使館一等書記官発有田八郎外務大臣宛第249号電報」(5月27日発)、

『日本外交文書』Ⅱ―1―5上、705-706頁。

(12) 「武藤義雄大使館一等書記官発有田八郎外務大臣宛第248号電報」(5月27日着)、

704頁。

(13) 「武藤義雄大使館一等書記官発有田八郎外務大臣宛第249号電報」(5月27日発)、

705頁。

(14) 「川越茂天津総領事発広田弘毅外務大臣宛第57号電報」(2月22日発)、『日本 外交文書』Ⅱ―1―5下、970-971頁。なお、「統税・印花税等」については、「武 藤義雄大使館一等書記官発広田弘毅外務大臣宛第49号電報」(2月4日発)、同 970頁参照。

(15) 「武藤義雄大使館一等書記官発広田弘毅外務大臣宛第49号電報」(2月4日発)、

同上、969-970頁。

(16)同上、970頁。

(17)同上。

(18) 「程錫庚発張群宛電報(支電)」(2月4日)、外交部『華北一般情勢案』、(台湾)

国史館所蔵。

(19) 「川越茂天津総領事発有田八郎外務大臣宛第156号電報」(4月18日発)、『日本 外交文書』Ⅱ―1―5下、973頁。

(20)同上。

(21) 「梅津美治郎陸軍次官発板垣征四郎関東軍参謀長ほか宛陸満第245号電報」(6 月1日)、昭和11年『陸満密綴』第七号、防衛省防衛研究所図書館所蔵。

(22) 東亜局第一課「堀内次官「リースロス」会談要録」(6月15日)、『日本外交文書』

Ⅱ―1―5下、1488頁。

(23) 「外交部長会晤須磨総領事為王克敏北上中日合作資金問題減低税率事之談話紀 録」(7月25日)、『傀儡組織』(二)、155頁。

(24) 「永見俊徳支那駐屯軍参謀長発西尾寿造参謀次長宛電報」、『日本外交文書』Ⅱ

―1―5下、973頁。

(25) 「支那駐屯軍司令部発天参調第44号「冀察幣制ニ関スル打合」」(5月7日)、同 上、982-985頁。

(26) 東亜局第一課「北支金融及経済統制限度ニ関スル天津軍池田参謀及毛里嘱託 打合要領」(6月19日)、同上、995頁。

(27)「堀内次官「リースロス」会談要録」(6月15日)、同上、1489-1490頁。

(28)「松室孝良北平特務機関長発西尾寿造参謀次長宛電報」、同上、998頁。

(29) 「堀内干城天津総領事発広田弘毅外務大臣宛第682号電報」(1937年8月4日)、

(23)

同上、998頁。

(30) 外務省東亜局『外務省執務報告』第1巻(1936年)、クレス出版、1993年、

22-23頁。

(31) 「川越茂中国大使発有田八郎外務大臣宛第503号電報」(6月29日発)、『日本外 交文書』Ⅱ―1―5上、734-735頁。

(32)「有田八郎外務大臣発田尻愛義天津総領事代理ほか宛合第533号電報」(7月7 日発)、同上、739頁。

(33) 「外交部長会晤須磨総領事為王克敏北上中日合作資金問題減低税率事之談話紀 録」(7月25日)、『傀儡組織』(二)、155-156頁。

 なお、張群は、蔣介石に対して、「冀察経済合作のポイントは資金調達と関 税改定の2点である」と、この会談の模様を報告している(「張群発蔣介石宛 電報(宥電)」(7月26日)、『特交文電―日寇侵略之部・迭肇事端』第五巻、(台 湾)国史館所蔵。(以下、『迭肇事端』第五巻と略す。))。

(34)「第二次北支処理要綱」(8月11日)、外務省編『日本外交年表並主要文書1840- 1945』下、原書房、1966年、347頁。

(35)同上。

(36)同上、347-348頁。

(37)「北支処理要綱実施ニ関スル参謀本部要望事項」(8月13日)、『日本外交文書』

Ⅱ―1―5上、748頁。

(38)「影佐中佐説明概要」、「堀内干城天津総領事発有田八郎外務大臣宛機密第801 号公信「北支主要公館長会議記録送付ノ件」」(9月12日)、同上、758頁。

(39)「程錫庚発李廸俊宛電報(庚電)」(9月8日)、外交部『冀察政務委員会組織』、

(台湾)国史館所蔵。

 なお、張群は王克敏に対して毎月2千元を、さらに今回の北上に際して1万 元を支給している(「張群発蔣介石宛電報(養牯電)」(8月22日)、『迭肇事端』

第五巻)。

(40)「方唯智発李廸俊宛電報(微電)」(9月5日)、『傀儡組織』(二)、162-163頁。

(41)「程錫庚発李廸俊宛電報(虞電)」(9月7日)、および「程錫庚発李廸俊宛電報

(刪電)」(9月15日)、『華北一般情勢案』。

(42)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第739号電報」(9月24日発)、『日 本外交文書』Ⅱ―1―5上、115頁。

(43)同上。

(44)「駐日大使館発外交部宛第581号電報」(9月21日)、『華北一般情勢案』。

(45)「方唯智発李廸俊宛電報(銑電)」(9月16日)、同上。

(46)「経済開発ニ関スル諒解事項」、『日本外交文書』Ⅱ―1―5上、766-767頁。

 なお、二(三)の「「コウケン」社」は、中国側記録では「鉱権者」と記さ れており、前後関係から後者の表記が正しいと判断される。

(24)

(47)「昭和十一年十月三日付橋本支那駐屯軍参謀長覚書」(10月3日)、同上、765頁。

(48)同上。

(49)「宋哲元発蔣介石宛電報(感電)」(10月27日)、『傀儡組織』(二)、164-165頁。

(50)「外交部以核議日方所提中日経済提携方案中央断無承認之理呈行政院文」(11 月21日)、同上、166頁。

(51)「財政部銭幣司等対日経済提携八項原則意見致財政部簽呈」(11月6日)、中国 第二歴史檔案館編『中華民国史檔案資料匯編』第5輯第1編外交(2)、江蘇 古籍出版社、1994年、1017-1018頁。

(52)同上、1018頁。

(53)同上、1019頁。

(54)「行政院以五部核議冀察政委会与日方商談中日経済提携一案情形致外交部之密 令」(12月5日)、『傀儡組織』(二)、167頁。

(55)華北通航をめぐる中国側の動きについては、李君山『全面抗戦前的中日関係

(1931-1936)』、文津出版社、2010年、第9章および第10章。

(56)「満洲航空会社増資及北支航空会社設立ニ関スル要綱」(7月14日)、『外務省 執務報告』第1巻、273頁。

(57)同上、279頁。

(58)宋哲元は、「諒解事項」を報告した10月27日、「交換文書」調印について「交 通部が以前に提起した華北航空連絡の案件で、国防委員会の決定を経た3原 則にもとづき数回の折衝を経て平等、互恵の精神で双方はある種の諒解を成 立させた、決して協定ではない。航空路線の範囲は冀察地域内に限定されて いる。……今後日本の航空機が話し合った内容に違い、わが国の主権を害す る場合は、厳重に交渉して制止し、国防を固める」旨説明し、蔣介石の理解 を得ようとしている。なお、本件についてはすでに10月21日、詳細な報告を したという(「宋哲元発軍事委員会宛電報(感参総四電)」(10月27日)、『迭肇 事端』第五巻)。

(59)「華北冀察政務委員会与日本合組恵通航空公司的有関文件」、『中華民国史檔案 資料匯編』第5輯第1編外交(2)、1036-1037頁。

(60)「加藤伝次郎大使館一等書記官発有田八郎外務大臣宛第8号電報」(1月8日発)、

『日本外交文書』Ⅱ―1―5上、778頁。

(25)

冀察政务委员会与围绕华北经济的中日关系

内 田 尚 孝

 本文考察了冀察政务委员会成立后日本对华北经济的政策与国民政府针对其 政策的对策,并分析了围绕华北经济的中日关系。

 冀察政务委员会于华北事变爆发后的1935年12月18日在北平正式成立。国民 政府在日本政府和日本陆军(日本关东军与华北驻屯军)的压力下,取消了军 事委员会北平分会和行政院驻北平政务整理委员会,设立了冀察政务委员会。

该会管辖河北、察哈尔两省和北平、天津两市,任命第29军军长宋哲元为委员 长。

 因为该会是均衡了国民政府、日本陆军和第29军三者的力量而设立的,因此 三者之间即使发生微小的力量变化也会给政局带来很大的动摇。当时日本军企 图最终实现华北的分离,国民政府要设法阻止其企图,而第29军要在二者之间 维持生存空间,这样,冀察政务委员会成立后三者采取了各种各样的战略及策 略,保持各自的力量。

 所谓“华北分离工作”(华北事变)可以分为两个阶段,冀察政务委员会成 立之前的第一个阶段和该会成立之后的第二个阶段。本文主要针对第二个阶段 进行了考察。这个阶段的特点是日本军在经济、金融、产业等领域对该会展开 了军事活动,以达到分离华北的目标。

 本文首先用中日双方的档案,对该会及该会内设立的经济委员会进行了考察,

阐明了该会在经济、金融、产业等问题方面跟当地日本军谈判的具体情况。

1936年前半年,在华北的中日关系主要有接管海关、独立币制等问题,本文对 各个问题的相互关系和进展过程进行了分析,指出了中日关系在华北事变第二 个阶段的特点。然后,本文对该会和华北经济的关系等问题进行了分析。1936 年后半年,在华北的中日关系主要围绕着“关于经济开发的了解事项”和“关 于设立航空公司的交换公文”展开,所以本文对以这两个文件为主的华北经济 提携、经济开发政策问题进行了考察,阐明了这些文件成立的过程和其具体的 内容。最后,本文分析了宋哲元在这两个文件上签字后国民政府内部引起的反

(26)

应,并考察了宋哲元签字的理由,从而使中日战争全面爆发的背景更加明了了。

The Hebei-Chahar Political Council

and Sino-Japanese Economic Relations in North China Naotaka U

CHIDA

Keywords: Sino-Japanese War, North China, Song Zheyuan, Economic Relations

参照

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