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ランペルトの見るアンノとその時代(三)

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(1)

ランペルトの見るアンノとその時代(三)

著者 井上 雅夫

雑誌名 人文學

号 177

ページ 40‑73

発行年 2005‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007635

(2)

ラ ン ペ ル ト の 見 る ア ン ノ と そ の 時 代

井 上 雅 夫

六︑

マントヴァ会議の翌年︑一〇六五年三月にハインリヒ四世の成人式︵刀礼式︶が行われたが︑この経過についてラ

ンペルトは次のように描写している︒﹁この同じ大司教︵アーダルベルト︶の承認をもって︑王がはじめて武器を身

につけた︒王は︑もしも皇帝妃︵アグネス︶が時機を失しない忠告で混乱した事態を鎮めなかったら︑受け取った刀

の最初の試しをケルンの大司教︵アンノ︶に向け︑彼を火と剣で攻撃するために︑すぐに出ていったことであろう︒

彼︵アンノ︶はとりわけ数年前に皇帝妃から王国の権利と統治を奪おうとし︑王自身を殆ど最大の苦境に陥れたた

め︑特に憎まれていた﹂

前るあがとこたじ論に以︒はていつに式人成のこが

︑この描写でも明らかなように︑

ランペルトはアンノが王によってひどく憎まれていたことをはっきりと示し︑アンノにとって不利な事柄もかなり客

観的に書いているのである

全ノへの必ずしも面ア的な讃美者ではンは︒れここでも確認さるトように︑ランペルな

かったのである︒

― 40 ―

(3)

この成人式をアーダルベルトが承認して行い︑その中で王がアンノに切りかかろうとしたというランペルトの記述

からも推量されるように︑この成人式のころにアンノとアーダルベルトの宮廷での立場は逆転した

︒もっとも地位

が逆転したとはいえ︑アンノが成人式後も宮廷から退くことなく︑何度かのローマへの王の使節としての重要な役割

を果たしたことも注目すべきことであろう

ランペルトのアンノへの立場を考える場合︑特に一〇六八年に行われたと一般に想定されているアンノのローマ行

に際し︑アンノが﹁対立法王﹂のホノリウス二世らに会い︑このためローマでアレクサンダー二世から懲罰を受けた

重要な事柄について︑ランペルトが何も言及していないことは

こたまはていつに件の︒注うろあでとこきべす目改

めて別稿で論じたいが︑ランペルトがこのことを知っていたかどうか不明だが︑もし知った上で記述していないのな

ら︑さまざまなことが考えられるのである

てでのるあも性能可たっあで快不っ︒とに彼がとこく書をれこばえ例あ

る︒それも彼が︑アンノが﹁対立法王﹂に会ったことに不快感をもったというより︑アンノがこのことで罰せられた

ことへの不快感であろう︒ランペルトは既述のように︑﹁対立法王﹂に対して︑それほど敵意をもっておらず

︑こ

の点ではやはりアンノに近い立場だったからである︒

ランペルトが王の成人式後のことでアンノについて語るのは︑アンノが他の二人の人物とともにシモニア問題でロ

ーマに召喚されたという記述と︑北伊のフルクトゥアリア修道院への訪問とその後の修道院改革をめぐる記述であ

る︒この二つの事柄が同じ時期のものなのかについては後の第七章で取り上げるが︑ここではまず後者の修道院訪問

に関する記述を一応一〇七〇年頃のものとして見ていきたい︒

この修道院訪問について︑ランペルトは年代記の一番最後のアンノへの﹁思い出﹂︵追悼文︶の中で︑その時期を

― 41 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(4)

明示していないが︑以下のような一連の記述を残している︒まずランペルトは︑ドイツの﹁すべての修道院で規律へ

の以前の情熱が全く冷え︑修道士たちが共同生活よりも自分たちの財産に目を向けているのを見た時︑彼︵アンノ︶

の心は︑莫大な出費をもってしても神にふさわしいことは何も出来ないだろうと思われて︑重苦しい不快感に苦しめ

られた﹂

%

と述べている

次にランペルトは︑アンノは﹁国の事柄のために﹂ローマに行ったが︑﹁イタリアのいくつかの地方を諸侯たちが

王から離れないように励ますために巡っている時︑祈りのためにフルクトゥアリア修道院に立ち寄った﹂

"

と書いて

いる

っ張りつめた規律に従た常生活に感嘆して︑彼らに非︒院続いて彼は︑この修道でのアンノは﹁修道士たちの

うち神への奉仕を最もよく証している幾人かを連れて帰り︑この規律の型をドイツの人々に伝えるために︑彼らをジ

ークブルクに入れた﹂

!

と書いている

シノが﹁聖マクミアヌス修道院かンは︒ーそしてこのジクでブルク修道院ら

招き寄せた以前から居た修道士たちが︑この規律に従うことを欲しなかったので︑敬意をもって元の場所︵修道院︶

へ送り返した﹂

$

と書いている

さらに彼はこれに続けて︑ドイツの﹁他の司教たちもこの事実︵手本︶を模倣し︑ある者はゴルツェから︑ある者

はクリュニーから︑ある者はジークブルクから︑またある者は他の修道院から修道士たちを呼んで︑神の奉仕への新

しい学校を彼らのそれぞれの修道院に建てた︒この幸福な事実︵手本︶の模倣がわずかの間にこれほどに広がったの

で︑ドイツの修道院の中で︑この新しい組織の束縛に駆り立てられて︑これを受け入れていない修道院が僅かしか見

出されない﹂

#

と述べている

このアンノについての﹁思い出﹂部分における一連の記述によると︑アンノは﹁祈り﹂のために立ち寄ったフルク ランペルトの見るアンノとその時代

― 42 ―

(5)

トゥアリア修道院

し帰てれ連をか人幾のら彼︑心で感に活生のちた士道修のそり

︑彼の建てたジークブルク修道

院に彼らの規律を導入したのである︒この規律はクリュニーのものと全く同一ではないが︑クリュニー的な色彩の規

律であった

最イツへの道を開いた初にの人物とも見られてド革︒アこの規律を導入したン改ノは︑クリュニーのい

制たといっても︑その体は入違い︑フルクトゥアリし導︒にアンノがジークブルクフをルクトゥアリアの規律ア

の反司教的な伝統に対し︑ジークブルクは司教による修道院改革であった

た免るよに王法︑ま︒はクルブクージ属

の中にあるフルクトゥアリアの伝統からも離れていた

を譲委のへ座教司の院道修護︒保な力有︑はクルブクージの

中に見たのであり

て役割も果たしい何なかったのであのど︑︑司教に依存しそ殆こでは法王庁はる

︒ゼムラーに

よれば︑これがジークブルクの司教による修道院改革の特別な特徴であった

ランペルトは上記の

"

聖の時に招聘したマ建クシミヌス修道院設院のじ文で︑アンノがはめ道にジークブルク修出

身の修道士たち

さンノは彼らを退去せ︑たが︑その際﹁敬意アではけ︑新しい規律を受入のれることを拒否したを

もって﹂彼らを送り返したと述べている

つトルペンラ︑はスブコヤ︑ていに︒もこの﹁敬意をっ現て﹂という表に

とって満足しての表現なのか︑それとも底意地の悪い表現なのかと問うているが

︑ハリンガーはこれを少し後の

!

の文の﹁幸福な事実︵手本︶﹂という表現とともに︑﹁辛辣な﹂﹁いやみのある﹂ものと見︑アンノの暴力的な退去命

令への婉曲的な表現と解釈している

実が﹁幸福な事﹂ルとしてアンノトペ︒ュこれに対しシトンルーヴェは︑ラの

改革努力をほめたのは︑それがアンノを讃美するのに役立ったからと見︑他方

!

のを活生いし新この︑にうよの文諸

修道院が自発的にというより︑しばしば強制されて受け入れねばならない﹁くびき﹂として描くことによって批判を

抑えなかったと解釈している

示に改革に理解をし般ていたが︑その的一︒後ランペルトは︑に︑もふれるように方

― 43 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(6)

法に問題を感じていたので︑アンノの改革を支持していたと見るのなら︑右のような解釈もありえよう︒また﹁敬意

をもって﹂という表現についても︑もし元からいた修道士が自発的に退去していたのなら︑ランペルトもこんな表現

はとらなかったであろう︒彼らが退去を欲しなかったからこそ︑アンノは暴力的ではないにしても︑﹁敬意をもって﹂

のような不自然に丁重な低姿勢の態度で退去を願ったとも言えるのであり︑必ずしも﹁辛辣な﹂表現とばかり言えな

いのである︒この﹁敬意をもって﹂の表現は︑彼らの退去が自発的でも納得したものでもなかったことを暗示してい

るのである︒

アンノがフルクトゥアリア修道院に立ち寄ったのはあるいは予定していたのかもしれないが

︑そこの修道士を連

れて帰ったのは︑ランペルトの記述からは偶然の衝動的行為といった感じである︒そこには事前に格別に深い意図や

計画があったようには見えないのであるが︑ヤコブスは︑この招聘はゴルツェ系の帝国修道院的な規律に対する明確

な反対の態度とともに聖マクシミヌス修道士への敵意からなされたとも見ている

︒しかし彼らが追放されたといっ

ても全員ではなかったし

ルのたいてっま留ままのそはォフエ︑長院の時当るれら見と身出じ同で

︑アンノの立場

は必ずしも単純な聖マクシミヌス修道院への敵意ではなかった可能性があろう︒ヤコブスは︑アンノがジークブルク

において法的にも革命的ではないが︑しかし在来的なものでない独自な道を歩んだ点を重要視しているが

︑これも

結果的にはそうなっただけであり︑はじめから明確な意図︑構想がアンノにあったとは思えないのである︒

このランペルトの﹁思い出﹂の中のアンノへの見方と比較しうるのが︑﹁思い出﹂の文よりずっと前にある一〇七

一年のことを記した次の一連の記述である︒ランペルトはアンノの改革への動きについて︑アンノは﹁参事会員たち

をザールフェルトから追い出し︑そこにジークブルクや聖パンタレオンの修道士たちを送り込むことによって修道院 ランペルトの見るアンノとその時代

― 44 ―

(7)

生活を導入した︒このころ私もそこへ彼らと修道院生活の秩序や規律について話し合うために行った︒というのは彼

らの偉大で優れていることが︑人々の意見で流布されていたからである﹂

"

と書き

︑次にランペルトは︑一般に

人々は常に慣れ親しんでいるものを見下して新しいものに魅せられる傾向があるように︑﹁人々はいつも慣れて知っ

ている我々を無価値なものと思い︑この修道士たちは新しく異常なことを示しているように見えるので︑彼らを人間

ではなく天使︑肉ではなく霊と感じた﹂

!

と述べている

︑々人の般一は見意のこ﹁は︒トルペンラてけ続にれこの

心より諸侯たちの心により深く︑より明瞭に入り込んでいた︒この諸侯たちから庶民に広められたこの噂は︑この地

方において非常に多くの修道院の中に次のような不安を懐せた︒即ち彼ら︵新しい修道士︶が入ってくれば︑ここで

三十人︑あちらで四十人︑そちらで五十人と修道士たちは厳しい生活への恐れにつまづいて修道院を離れ︑この世に

おいて彼らの魂の救いについて賭ける方が︑彼らの力の程度をこえて力づくで天国をかち取るよりもよりよいと感じ

た﹂

$

と書いている

ランペルトはさらに続けて︑﹁実際︑神が我々の国の修道士の上に軽蔑を注いでいるように見えるのは不当なこと

ではない︒というのは幾人かの偽の修道士たちの個人的な不名誉が修道士の名をひどく傷つけた︒彼らは神の事柄へ

の熱意を捨て︑今や金や利得にすべての努力を向けた︒⁝⁝彼らは教会職を徳の道ではなく⁝⁝不正に獲得された金

銭で得ようとした﹂

#

と書き

々うに思われ︑我のじ中に正しいことよ同︑て﹁このようにし我と々すべてが彼らを

行う者がいない︑唯一人としていないかのように思われている﹂

%

と述べている

この次にランペルトは︑﹁それゆえに国の諸侯たちはアルプスの向こうの修道士たちを神に仕える学校をドイツに

建てるために呼んだが︑彼らの指示に自発的に従う気のない我々の国の者らを皆︑修道院から罵詈をもって追い出し

― 45 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(8)

た﹂

%

と書き

ザ四週間︑ある時はー︑ルフェルトに︑ある十き︑べ﹁私はしかし既に述た行ように︑彼らの所へ時

はジークブルクに滞在し︑我々が提示されているものをしっかり守り︑我々の先人たちの伝統を厳格に守ろうとする

なら︑我々の慣習が彼らのものよりも︑ベネディクトの規律によりよく一致していることに気がついた﹂

$

と述べて

いる

ランペルトのアンノによる修道院改革に関連する記述は︑以上のように前に引用した﹁思い出﹂の中の文︵

#

"

七述記るけおに年一〇︶一たし用引に後︑と︵

!

$

思自れそは体全文の﹂出い﹁︶るれま含が文の前︒るあが身

アンノについての小伝記をなしているが

文明かのす指を柄事の時の一同との︑れ時期が明示さて後いないため︑瞭

ではなく︑この二つの文の関係が常に問題にされてきた︒ランペルトがその年代記作成に際し︑前から順番に書いて

いたとするなら︑後の引用文︵

!

$

︶が先で︑前の引用文︵

#

"

筆に番順にとご年は執︶の彼︑がるなに後がゆ

っくりと書いていったのではなく︑短期に一気に書き上げた可能性が高いので

述は期時の容内記︑らか期時筆執想

定できないし︑﹁思い出﹂部分の内容の時期は必ずしも執筆時期に近いか一致しているとは言えないのである︒

リュックは︑この前後二つの引用文にはランペルトの修道院改革への二つの異なった発言があると見︑後に引用し

た一〇七一年の文︵

!

$

前文の﹂出い思﹁たし用引に︑︶が度態な的否拒のへ革改はで︵

#

"

︶では積極的な評

価が見られるとして両者を区別している

年ていつに制道修いし新︑で文の一︒後ヤコブスも︑に七引用した一〇の

最初の報告の中で︑諸侯が改革の賛同者︑推進者として︑この改革経過にランペルトは批判的に拒否しているが︑前

に引用した﹁思い出﹂の文では︑一〇七五年のアンノが亡くなる頃︑改革運動全体を司教的なものとして︑それを讃

えていると見︑この二つの記事にランペルトの独自な判断が見られるとしている

族︒くて出にの中貴︑はスブコヤ ア時のそとノンラる見のトルペン代 鵄

― 46 ―

(9)

る﹁若いクリュニー﹂系統の修道院への好みを︑アンノが伝統的な司教政策の路線の中に導き得た時に︑ランペルト

ははじめに拒否していたことをほめたのであろうと推測している

ヴのトルペンラ︑はェー︒ルトュシし対にれこ改

革への判断は﹁表面的に動揺しているだけ﹂と見ているが

にとこたし筆執を記代年気︑一に間期短がトルペンラを

考えると︑ほぼ同時に同じような改革に対して︑推進者が違うからといって上記のように正反対の判断を想定するこ

とは無理であろう︒

確かに﹁思い出﹂の

#

を後︑を所ういとたし返り送士の道修﹂てっもを意敬﹁で文の

%

の文で﹁修道院から罵詈を

もって追い出した﹂というように一見対立した表現となっており︑前者はアンノによる改革で︑後者は諸侯による改

革であるが︑アンノの場合も既述のように自発的な退去とはいえない以上︑後者にこのような暴力的な対応があって

もおかしくない

反ことは︑ケルンの乱っの描写のところで︑たあ︒公アンノの場合でも然がたる暴力的なやり方ラ

ンペルトが反乱者の計画は︑﹁聖パンタレオンの修道士をすべて殺すつもりだった︒というのはこの修道士たちは︑

アンノによって以前の修道士の追放後︑そこに新しい異常な種類の修道生活を入れたから﹂と書いている記述

!

らも類推されるのである︒ランペルトはここでも新しい修道院生活やアンノのやり方に賛成していないことを示して

いるのである︒この聖パンタレオンではアンノの介入は激しい抵抗を呼びおこし︑アンノはこの抵抗を厳しいやり方

で破ったのである

︒同様に

"

し事会員を追い出︑らそこにジークブ参かのノ文においてアンがト︑ザールフェルル

クや聖パンタレオンからの修道士を送り込んだ︑という記述にも︑アンノの強引なやり方が感じられるのであり︑さ

らにまた︑

$

て院を離れ⁝﹂と書いい修るのも同様なことを道てのい文において︑﹁厳し生い活への恐れにつまづ示

していると言えるであろう

― 47 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(10)

上述の前後二つのランペルトの改革に関する記述は︑必ずしも事柄の時間的な順序通りにはなされていないため︑

一見矛盾したり混乱したりしているように見えるが︑実際の時間的な順序としては以下のように考えうるであろう︒

まず後の引用文

"

らを犯しており︑彼ののためにすべての修道罪等の修ように︑堕落した道ア士が存在し︑シモニ士

が同じように堕落している︵

$

修ルトが堕落した道ン士への改革の必ペラのい文︶と見られてたでのである︒ここ要

を認識していたこと

︒た点は注目されるこての堕落していないい見︑なさらに堕落していいと修道士が存在する者

が後に新しい改革を批判したり拒否したりするのである︒シュトルーヴェは︑ランペルトはすべての修道士が堕落し

ているという非難に対し︑真のベネディクト派の修道士を守ろうとしたと述べている

そこで︑

%

こ道士を呼んだこと︑れ革に対し堕落していた修改のち文のように︑諸侯たがらアルプスの向こうかか

どうかに関係なく︑これに従う気のない者が修道院を去ったのである︒この諸侯による改革へのきっかけを作ったの

がアンノの動きであったと見られる︒ランペルトは︑

!

改しとうよえ伝を律規的革にの々人のツイドがノンアで文た

こと︑

#

アアンノがフルクトゥリるアの修道士の生活に感︒いのこ文で他の司教たちものて手本を模倣したと書い激

したのは既述のように偶然のことであろうが︑ドイツ人に手本を示そうとしたことは︑アンノもドイツに改革すべき

修道院が存在していたことを認識していたと見るべきであろう︒一方︑アンノの動きに刺激された諸侯・貴族らの動

きは︑改革への意志的計画的な努力と見うるのである︒こうしてランペルトは

#

新従に律規いし果の結のこ︑で文っ

ていない修道院は僅かになったと見ていたのである︒

このうち改革者を呼んだのが︑

%

の文では諸侯・貴族︑

#

こよた見し少に既で点の︑のりおてっなに教司はで文う

に諸侯先導の改革と司教先導の改革の区別を論じる見方も出てくるのだが︑しかしこれも

%

はのプル﹁ア侯諸︑で文 ア時のそとノンペる見のトルンラ代 鵄

― 48 ―

(11)

スの向こうから﹂とし︑

"

ー︑ゴルツェ︑ジクむブルクから招いたが含のク文では司教が︑リもュニーからのものよ

うにドイツ国内の改革の中心から招いたものが主であることから︑単に時間的な区別と見るべきで︑諸侯のアルプス

の向こうから招いたものが先で︑次に司教が招いたものと見ることも出来るであろう︒ただランペルト自身は︑

!

$

調りあでのいないてし同のに革改のこてしらか文︑

"

い言ういと﹂か僅は院道修なのいてれ入け受を革改﹁の文葉

で一見感じられるような︑殆どすべての修道院が改革派になったというのではなく︑堕落していた修道院は改革され

たという意味であろう︒

$

せのように︑堕落ず道に在来のままで院修のペ文に見えるランルるト自身の所属すあ

ったものが存在していたのが事実に近いであろう︒それにしても右の

"

受修いないてれ入けをの革改﹁にうよの文道

院は僅か﹂といった判断は︑当時の限られた情報伝達の可能性から見て︑本当にドイツ全体の状況を正確に示してい

るのかは問題で︑おそらくランペルトは︑自分の見聞きした周辺の事情のみの印象をせいぜい語っていると見るべき

であろう︒

ともかくアンノのフルクトゥアリア訪問後の一連の動きの後に︑諸侯による改革の動きが出てきたと考えうる

ヤコブスは︑この諸侯の動きについて︑ランペルトにも知られていることは︑高位貴族の中に伝統的な帝国修道制の

単独支配に対抗する試みがあったこととし

%

のを派ーニュリクち即︑士道修うのこ向のスプルア︑ていつに文呼

び︑ゴルツェ派を追放する傾向が広まったことが書かれていると見ている

︒同様に同じころの

#

の文についてゼム

ラーも︑ゴルツェ派の修道士たちを余りに大きな驚きが襲ったので︑ジークブルクの者が入ってくると︑一度に五十

人までの修道士が今にはじまる厳しい生活を恐れて去ったと解釈している

と文のこ︑くかもは︒否当の釈解のこの

﹁非常に多くの修道院﹂がゴルツェ派であったかどうかは疑問であろう

こルペンラもでこ︑︒様同ととこの記上ト

― 49 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(12)

が当時の全国の状況を正確に把握していたことはありえず︑せいぜい彼の周辺の事情を述べたものであろう︒

またこの新しい修道士が︑

#

人とについて︑﹁々るの意見﹂と書いこいのれ文のように﹁優てている﹂と噂されて

いる点に重きがあるなら︑この﹁優れている﹂という判断をランペルトは軽率な判断として批判的に見ていた可能性

もあるのである︒というのは

"

無んでいるものを価親値と見︑新しいしれの︑文に見るようにこ慣の﹁人々﹂にはも

のに惹かれる無思慮さがあったからである

にし蔑軽を力能断判のそはていつ民︒層下はトルペンラ︑もーラムゼて

いると見ているが

アに次の文とともにン同ノへの間接的な批時︑︑断この﹁人々﹂の判へはのランペルトの批判判

とも言えるのである︒即ち

$

くちの心により深﹂侯入っていたこのた諸の︑文に見るように﹁﹁人々﹂の心よりも新

しい修道士の生活が﹁天使用﹂で﹁新しく異常なもの﹂と見られていた点には︑ランペルトも同調していたのであ

レいことは︑聖パンタオはンの修道士たちの生活なで︒もこの﹁新しく異常なの価﹂が決して肯定的な評を

!

文のように同じく﹁新しく異常な﹂種類と言っている所にも見られるのである

トもいし新︑はル︒ペンラにれその

に対してそもそも批判的であった

たに怒りを向けケ道ルン市民の行士修︒こ既述のようにのの聖パンタレオン動

に︑ランペルトは同調的に記述していた

足つに乱反の民市ンルケてっもを満︒ェシュトルーヴもは︑ランペルトい

て語っていると見ているが

見る︒このようにてでくるとランペルあの︑革彼はアンノの改にた同調していなかっト

が︑諸侯による改革には否定的で︑司教による改革には肯定的であったと見るのはやはり問題なのである︒

注盧

LA.SS.94−95.

拙稿︑﹁ランペルトとアンノ︱主にハインリヒ四世との関連を中心に︱﹂︑︵文化学年報︑第五十一輯︑平成十四年︶ ランペルトの見るアンノとその時代

― 50 ―

(13)

五十三〜五十四ページ︒

蘯 クノーナウもこの点でランペルトの公正さを認めている︒ M. v. K. Bd. I. S. 404.

盻 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 409.

イエナールは︑マントヴァ会議をアンノの卓越した役割の終わりと見る以前の見解は誤りとし︑この会議と成人式の二つの

事件が︑一〇六五年春からのアンノの後退の原因と見ている︒ ibid, Bd. II. S. 281.

G. Glaeske, Die Erzbischöfe von Hamburg-Bremen als Reichsfürsten︵937−1258︶.︵1962︶S. 69.参照

F. W. Oediger, Die Regesten der Erzbischöfe von Köln im Mittelalter. Bd. I.︵1954−1961, 1978︶S. 269. Nr. 941.

眈 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 330.

この使節の仕事について︑ハインリヒ四世はアンノを一〇六六年以来ますます国政から追い出そうとしてアンノをしばしば 使節として使ったという逆の見方もある︒

A. Legner︵Hg︶, Monumenta Annonis. Köln und Siegburg. Weltbild und Kunst im hohen Mittelalter.︵1975︶. S. 37.

眇 ランペルトの年代記の一〇六八年に関連する記事は本稿使用版で半ページの十二行しかない︒ LA. SS. 112−113.

なおこの件を伝えているのは︑ニーダーアルタイヒの年代記である︒ AA. SS. 818−819.

眄 よく似た例として︑シュトルーヴェは︑﹃アンノ伝﹄がランペルトの記述のある事柄を意識的に無視したり︑不快さゆえに

変えたり削除したりした可能性を考えている︒

T. Struve, op. cit., 19. S. 72. 75.

眩 本稿︑ 鴟︑第三章︑十二〜十三ページ︒

眤 LA. SS. 330−331.

眞 LA. SS. 332−333.

眥 LA. SS. 332−333.

眦 LA. SS. 332−333.

眛 LA. SS. 332−333. 文中の﹁束縛﹂︵iugum︶をシュトルーヴェは︑﹁くびき﹂︵Joch︶と訳している︒なお︑ここで﹁ドイツ﹂

と訳しているものは︑原文ではGalliaとなっている︒

―51―

ランペルトの見るアンノとその時代 鵄

(14)

T.Struve,op.cit.,20.S.67.

このフルクトゥアリアはイタリア王であったアルドゥインの建てた修道院で︑この王はここでクリュニーの改革綱領を基礎

にしようとした︒この修道院は︑この王の指導の下に北伊でドイツの帝国教会制へのはっきりした反抗の下に組織され︑当

時のドイツ王ハインリヒ二世との妥協においても︑帝国地域におけるクリュニーの自由の本質的な要素を維持した︒院長の

ギョームとハインリヒ二世の妥協の中で︑この修道院はこのハインリヒの保護を得たが︑帝国教会にはならなかったと言わ

れている︒

H.Jakobs,DerAdelinderKlosterreformvonSt.Blasien.︵1968︶S.241,251,229,253,243.

眸VA.S.23.c.I.476.は二アンノ伝﹄︒るいてしと人十こを数﹃士道修たっ帰れ連のの 睇

LM.Bd.I.Sp.667.

睚 J.Semmler,DieKlosterreformvonSiegburg.IhreAusbreitungundihrReformprogrammim11.und12.Jahrhundert.︵1959︶S.35.

G.Busch,SchachdemKönig.︵SanktAnno,op.cit.︶S.120.一般にドイツでは一〇七〇〜一〇八〇年の十年間に三つの修道院が新しいクリュニー的な慣習を受け入れたと見られてい

る︒即ちジークブルク︑聖ブラジェン︑ヒルザウの三つで︑このうち前者二つはフルクトゥアリアから︑ヒルザウは直接ク

リュニーから導入された︒H.Jakobs,op.cit.,S.1.ちなみに︑ハリンガーはこのような十一世紀後半にドイツに入ってきたクリュニーの改革派を﹁若い︵新しい︶クリュニー

派﹂と呼んでいる︒

J.Semmler,op.cit.,S.135.K.Hallinger,Gorze-Kluny,StudienzudenmonastischenLebensformenundGegensätzen

imHochmittelalter.︵1950/51,1971︶Bd.I.S.418.

J.Semmler,op.cit.,S.253,171.クリュニー派の反司教的立場は︑ジークブルクの改革において司教への非常に密接な実り多い協力に変ったのであり︑ジー

クブルクの法的地位は︑ケルンの大司教の私有教会権の中に係留されていた︒

ibid,S.364.H.Jakobs,op.cit.,S.257.

J.Semmler,op.cit.,S.235. ランペルトの見るアンノとその時代

― 52 ―

(15)

睛 ibid,S.233.これに対し︑ヒルザウは俗人の私有修道院支配に対する有力な保護として法王庁を頼んでいた︒ 睥

ibid,S.256.

睿 ibid,S.235.ゼムラーの見方では︑ジークブルクはそれでもクリュニー的な改革運動として﹁反世俗的な姿勢﹂に生きて

いた︒フォークト︵代官︶のような俗人権力に対して厳しい姿勢をもち︑ジークブルクの領域では︑司教がフォークトの統

制機関となった︒ibid,S.364,285,302.ジークブルクの改革は反フォークト的な政策をもち︑完全な脱フォークト化への傾向をもつものであった︒

ibid,S.298,294.ヤコブスは︑ゼムラーの研究からして︑アンノはその修道院政策をもって貴族と協力するよりも︑むしろ対抗していたこと

は確実と見ている︒H.Jakobs,op.cit.,S.258.

この修道士たちをゼムラーは︑ゴルツェ系の者としている︒J.Semmler,op.cit.,S.349.

睹 このhonorificeという言葉をエーディガーは︑ehrenvoll︵名誉的に︑立派に︑輝かしく︶と訳している︒ F.W.Oediger,op.cit.,Regesten,S.287.Nr.989.このhonorificeという言葉を﹃アンノ伝﹄も使っている︒VA.I.c.23.S.476.

H.Jakobs,op.cit.,S.255.

瞋 K.Hallinger,op.cit.,Bd.I.S.127,313,447,466,468.Anm.34.470.Anm.45.46.ハリンガーは︑このfelixfactumを︑﹁私有教会主の暴力行為﹂への婉曲な言い換えとして︑これを﹁アンノの悪い手本﹂と 訳している︒シュトルーヴェも︑honorificeの解釈についてはハリンガーの見解に従っている︒ T.Struve,op.cit.,20.S.66.Anm.47.D.Lück,DieVitaAnnonisunddieAnnalendesLampertvonHersfeld.︵RhVjbll.37.

1973︶S.135.137.ゼムラーは︑このhonorificeを文字通りに取り︑当時の状況にうまく合わないと見ている︒

J.Semmler,op.cit.,S.44.

T.Struve,op.cit.,20.S.67.

シーファーは︑フルクトゥアリア訪問等のアンノの動きは比較的長い協議の結果と見︑またローマの旅の目的に修道院改革

― 53 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(16)

の問題も関係しうるとしている︒この訪問が一〇七〇年のことなら︑アンノがローマで少し前にこの修道院のための文書に

仲介者として働いていたことは︑この訪問と関係があると思われる︒本稿︑第七章︑注 礙参照︒

R. Schieffer, Die Romreise deutscher Bischöfe im Frühjahr 1070. Anno von Köln, Siegfried von Mainz und Hermann von Bamberg

bei Alexander II.︵RhVjbll. 35. 1971.︶S. 173, 174, 156.

瞞 H. Jakobs, op. cit., SS. 255−256.

エーディガーも︑アンノが聖マクシミヌスの修道士を帰らせたのも︑このころ彼が聖マクシミヌスとシュタブロの両修道院 の院長であったディートリッヒと︑マルメディ修道院をめぐって激しく争っていたので︑この関連の中で見なければならな いと見ている︒

F. W. Oediger, Geschichte des Erzbistums Köln.︵W. Neuß︵Hg︶, 1964 Bd. I. S. 197.

マルメディ修道院をめぐるシュタブロ修道院とのアンノの争いについては本稿︑ 鴣︑第一章︑二十六〜二十八ページ参照︒

瞰 J. Semmler, op. cit., S. 38.

瞶 M. L. Arduini, Kirchengeschichtliche Probleme im 11. Jahrhundert. Das Verhältnis Kölns zu Rom zur Zeit Annos II.

︵Revue Bénédictine, 92. 1982︶S. 147.

もっとも︑ゼムラーはこのエルフォについてはその経歴は全く不明としている︒ J. Semmler, op. cit., S. 44.

瞹 H. Jakobs, op. cit., SS. 255−256.

瞿 LA. SS. 152−153.

瞼 LA. SS. 152−153.

瞽 LA. SS. 154−155.

瞻 LA. SS. 154−155.

矇 LA. SS. 154−155.

矍 LA. SS. 154−155.

矗 LA. SS. 154−155, 156−157. M. v. K. Bd. II. SS. 92−93.

矚 T. Struve, op. cit., 19. S. 72.

ランペルトの見るアンノとその時代 鵄 ―54―

(17)

矜 拙稿︑﹁ランペルト=フォン=ヘルスフェルト︱年代記をめぐる諸問題︱﹂︑

鴣五年一十成平︑号十︑六百第︑学文人︵︶

二十六ページ参照︒

D.Lück,op.cit.,Vita,SS.134−135.

H.Jakobs,op.cit.,S.258.Anm.21.ヤコブスは︑ランペルトは一〇七一年では諸侯・貴族を改革の推進者として︑これに対し﹁思い出﹂の部分では司教を改革

の推進者として捉えていると見ている︒

ibid,S.258.Anm.21.

ibid,S.284.

砌 T.Struve,op.cit.,20.S.71.D.Lück,op.cit.,Vita,S.137.参照︒ 砒

ハリンガーも︑これを暴力的に追い出されたことを示すと見ているが︑一方

!がっいて出に的発自士の道修にうよの述記た

例もあることを挙げている︒もっともこれも﹁恐れて﹂出て行ったのであるから︑厳密には﹁自発的﹂とは言えないであろ

う︒K.Hallinger,op.cit.,Bd.I.S.470.

LA.SS.244−245.

砠 M.Groten,ReformbewegungenundReformgesinnungimErzbistumKöln.︵S.Weinfurter︵Hg︶,ReformideeundReformpolitikimspätsalisch-frühstaufischenReich.1992︶S.100.

K.Hallinger,op.cit.,Bd.I.S.469.参照︒ 礪

但しハリンガーは︑前注

砒発るいて見と去退な﹂的自に﹁をれこ︑にうよる見︒ 硅

シュトルーヴェも︑ランペルトはシモニアへの反対や教会規律の促進においての教会改革の意義を認めていたと見ている︒

T.Struve,op.cit.,20,S.71.前掲拙稿︵前注

矜︶︑ 鴟︑二十一〜二十二ページ︒ 碎

T.Struve,op.cit.,20.S.66.

次章で取り上げるように︑アンノのフルクトゥアリア訪問を一般的見解に従って一〇七〇年のこととするなら︑この仮説は

次のヤコブスの見方からもある程度は確認されるのである︒即ちヤコブスは︑一〇七一年に修道院の改革が進展したらしい

― 55 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(18)

ことは︑ランペルトがこの年に諸侯の下でのアルプスの向こうの修道士を呼ぶ傾向が出てきたと書いているところに見られ

ると述べ︑この一〇七一年という年は時間的に全く正しいと見ているのである︒

H.Jakobs,op.cit.,S.277.

碆ibid,S.277.

ibid,S.1.

J.Semmler,op.cit.,S.349.

ヤコブスは︑ランペルトはその初期段階のみ経験した可能性のある﹁若いクリュニー派﹂の運動をゴルツェのものと同一の

ものとしていたと見ている︒

H.Jakobs,op.cit.,S.284.

シュトルーヴェも︑ランペルトは新しいものをこのように考える人々について幻滅して書いていると見ている︒

T.Struve,op.cit.,20.SS.67−68.

J.Semmler,op.cit.,S.215.

シュトルーヴェも︑この見方は特に貴族たちによって育てられたと見ているが︑リュックも見るようにランペルトは改革の

意義は認めても︑人間の力を超えるものを要求するような改革には反対していたのである︒これに関しゼムラーが︑人々

︵この場合は貴族も含めて︶が天使と見て感激していると解釈するのは問題で︑人々が﹁優れている﹂と見ただけなら︑感

激していたともいえるが︑﹁天使﹂と見たのは﹁異常なもの﹂としてであり︑単純に感激したとは言えないのである︒

T.Struve,op.cit.,20.S.68.D.Lück,op.cit.,Vita,S.137.

J.Semmler,op.cit.,S.215.

"︑

!novummtuitainusという言な葉を使っている︶し常異くど新︵じ同もに文のらち︒ 磑

前掲拙稿︵前注

矜︶︑ 鴟︑二十二ページ︒ 磆

ibid,SS.119−120.R.Kottje,ZumAnteilKölnsandengeistigenAuseinandersetzungeninderZeitdesInvestiturstreits

unddergregorianischenKirchenreform.︵Rhvjbll.41.1977︶S.50.改革で追われた元の修道士たちはゴルツェ派で︑貴族や都市民のいくつかの党派から確実に支持を得ていた︒ ランペルトの見るアンノとその時代

― 56 ―

(19)

J.Semmler,op.cit.,S.119.なお︑この反乱がハインリヒ四世に忠実で︑アンノに反対していたため︑アンノが深く係わっていた聖パンタレオンが襲わ

れた面があるとコッティエは見ている︒これにはまた︑聖パンタレオンでは以前に修道士としてここにいた大商人たちの親

戚が追い出されたという事情も関係しているであろう︒

ibid,S.50.F.W.Oediger,op.cit.,Geschichte,SS.197−198.

T.Struve,op.cit.,20.S.68.

七︑

アンノの導入した新しい改革へのランペルトの立場は︑

!

#

れンラ︒るあでのもるらの見りきっはていおに文ペ

ルトが︑ジークブルクやザールフェルトの新しい修道生活への調査にわざわざ出かけ十四週間も滞在したことは︑彼

の強い関心と同時に危機意識をよく示しているものだが︑この気持ちは︑﹁私は﹂という主語をこの関連の中で

"

#

てある︒この調査においラのンペルトは新しい生活でものっ文で二度もわざわざ使てるいるところにも感じられ方

法にアンノへの尊敬にも拘らず引き込まれることもなく

︑これに共感せずに

律はを否拒のへ規ジのクルブクーっ

きりと示したのである

ト︑ヘルスフェルのうような古い帝国修によ︒判このランペルトの断たにおいて明示され道

院ではクリュニーに対し頑固な反対や批判があったのである

右と題問の期時の査調のに︒うよの述後はれこおなも

からむことだが︑ランペルトのこの新しい規律への疑問は︑ヘルスフェルトの院長ハルトヴィヒがこの改革問題につ

いてモンテ・カシーノ修道院に問い合わせた時の回答と関連があるとも見られている

︒これはアンノが一〇七五年

― 57 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(20)

にヘルスフェルトを訪問した時になされたようで

回いてれら見と様同と答の︑こ︑は断判のトルペンラる

この意味で逆にアンノは︑伝統を意識する帝国修道院のまとまった戦線に突破口を打ち込んだ人物とも見られる

をの立場をとらざる得反なかったと見てい対に︑らブッシュはここかラノンペルトは︑アンる

︒ランペルトは

一面ではアンノに大きな敬意を払っていたとか

ル者敬尊の大最のへノンアはトペ︑ンラで中の者述叙史歴の時当と

もされるが

こったのである︒彼はのな面では根本的にアンか得︑はことアンノの改革に反を対の立場をとらざるノ

に反対していたので︑ブッシュは︑ランペルトはアンノを最高のバラ色で描かなかったと見ている

︒前章で見た刀

礼式の記述

辞おいても批判的な言をけ決して隠蔽しなかっにづで彼もそうであったが︑は格その他︑アンノの性た

のである

このようにランペルトが︑アンノやその修道院改革に対し批判していることは︑﹃アンノ伝﹄の中には見られない

ものである

ンする記述でも︑﹃アノに伝﹄はアンノに不利関士︒で既述のケルンの反乱の道聖パンタレオンの修な

ことをより精彩のない記事に変えたのである

︒同様にランペルトの

"

後﹄伝ノンア﹃の述るのれさとたし写を文の

!

ノなかった﹂︑即ちアンに欲反対していたという所しをに道続く文で︑退去した修士とが新しい﹁規律に従うこが

省略されているのである

なお︑ランペルトが改革に対して後に評価するようになったという前章で見た見方には︑ランペルトが晩年にハー

ズンゲン修道院の院長になった時︑意見を変えてヒルザウの慣習を入れたという見方からも来るものであるが

︑上

述の改革へのはっきりした反対からしても︑これは無理な設定であろう︒

意見を変えたという点ではないが︑ゼムラーは︑上記の改革修道院へのランペルトの調査について︑彼がハーズン ランペルトの見るアンノとその時代

― 58 ―

(21)

ゲンの院長として新しい修道制への調査を行った可能性があると見て︑調査の時期をランペルトの示す一〇七一年で

はなく︑一〇七七年としている

うクへ行ったも一ブつの理由としてルク︒がこれはゼムラー︑ーランペルトがジ︑

アンノについての情報集めという目的も想定しているからである

ーいてし拠依に説のガ︒ィデーエは方見のこる

が︑この説ではランペルトはその年代記作成に際し︑レギナルトの﹃アンノ伝﹄を利用したと見

︑一〇七一年では

アンノの在世中で伝記はまだなく︑一〇七一年という時期ではありえないとするのである

︒その﹃アンノ伝﹄が一

〇七六年に出来たとすれば︑ランペルトがこれを利用できるのは早くて一〇七七年と見ているのであるが

︑このエ

ーディガーの説自体その後いろいろと批判され︑むしろ否定されているのであり

︑ゼムラーの見方は無理であろ

う︒上述のランペルトのアンノの改革動向への強い関心や懸念からして︑彼の調査のための訪問が︑一〇七七年とい

うアンノが亡くなって数年後のようなそんなに悠長なものではなく︑記述通りの一〇七一年であってもおかしくはな

いし︑せいぜいアンノが改革を自ら強く指導していた時期で︑いくら遅くとも上述のアンノがヘルスフェルト修道院

を訪問する一〇七五年までと見るべきであろう︒

アンノの改革への動きは確かにランペルトに大きな不安をもたらしたし︑事実またアンノはジークブルクの改革に

熱心に取り組み

も者のアンノにと推づくとされる進の︑のその改革運動どその成功も︑結局が

︑それではアンノ

の動機は果して純然たる改革にあったと言えるのであろうか︒アンノは改革派に近いともよく言われるが

︑ヤコブ

スは︑アンノがランペルトの記述が思わすほどに︵例えば

!

しいならか分かうどかた動の行に的発自く全︑︶文と

し︑さまざまな政治的要因を挙げている

修たけ向を心関へ方の活生の院道に︒ノ例えば︑アンが般改革または一動

機には︑当時のドイツ︵帝国︶の危機とともに

らノンア︑がとこたけ受を辱屈か︑世二ーダンサクレアでマーロに

― 59 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(22)

政治への関心を失わせたと見られる面もあるし

失的俗世く高り誇てつか︑が敗の︑で院道修ィデメルマ︑他のそな

事柄に係わっていたアンノに︑修道院生活に向かわせたともされるのである

ノァヴトンマはン︒アはいるあたま会

議後の彼の立場から

にたれさとたれ入を身革︑改や設建院道修や今り

ンので件のトーラコ︑の甥のでアーリト失

敗後︑その情熱をジークブルクの建設に注いだとも見られているのである

〇︑めじはの代年七︒〇一たまにらさア

ンノの宮廷での影響力がそれほど目立たない時期に︑彼は修道院改革に熱心に向かったと見られるように

︑アンノ

の改革ないし修道院に向かう動きには純粋に宗教的な面だけでなく︑少なくとも非常に大きな背景として︑政治的ま

たは世俗的な面も多分にあったのである︒

アンノにとってジークブルクは避難所でもあり︑彼は﹁世界﹂から逃れ︑修道士の中で断食や祈り︑施し等をもっ

て天国へ近づこうとする時︑ここに退いたと言われたり︵後述の

"

!

の文︶

っつくいの彼てと︑に彼はいるあか

の修道院に滞在することは︑休日︑静養であったと見られるのも

てのと界世治政の部外し︑と景背なき大りはや関

連が強く感じられるのである︒勿論︑この修道院への志向も政治世界から逃れるという消極的な面とともに︑アンノ

は仕事の許す限り修道士のように生活するためにジークブルクやザールフェルトに引っ込んだと見られるように

修道院生活そのものへの積極的な関心も考えうるのである︒この積極的な面から見れば︑アンノは救いを厳しい苦行

と厳格な規律の遵守の中で求める宗教的な流れによって影響されたことを示している

とも言えるのである︒

この改革への情熱と言えば︑大変純粋でいかにも高潔で理想的なものに聞こえるが︑グローテンも見ているよう

に︑修道院生活へのアンノの志向の決定的な動機や改革への動機は︑自己自身の魂の救いへの心配であったのであ

にアンノに︑らず︑一般修れ道院建設が建設者自身は限こ己本質におもて極めて利い的たなとっ︒もっあでい願 ア時のそとノンペる見のトルンラ代

― 60 ―

(23)

またはその家族のためといった︑自己ないし家族の﹁魂の救いのため﹂または天国のための投資と言われるよう

心ノのように権力欲や野にア満ち︑世俗世界でも活ン︑︑強根本に利己的な要素をくがもっているものである発

に活動した強い個性なり自意識をもつ人物は︑この世での利益ばかりか︑あの世での利益も強く願うものであり

アンノにはこの傾向が典型的に顕著に見られるのである︒ランペルトも︑前章の

%

の文の少し前に︑アンノが﹁ケル

ンの名声の威厳と世俗的な華美さを彼の先任者たちの殆ど誰よりも誇り高く人々に見せびらかせたが︑そのために多

くの仕事の中で負けることのない精神を神の事柄に取り組むことに決して弛緩させなかった﹂

#

と述べている所

よくこのことが現れているのである︒そしてこの少し後に︑彼がアンノは﹁昼は私的なまた公的な仕事を行うために

使い︑夜はすべて神への奉仕のために使った﹂

"

と書いているのは

いたいてっもを着執強︑に方両の世来と世現こ

とを昼と夜との使い分けによってまさに典型的に示しているとも言えるのである︒

更にこの

#

"

しして彼の体を虐待︑食それを自らに仕えしを断のル文の間に︑ランペトばはアンノが﹁しばしめ

た︒しばしば彼は徹夜で祈り︑⁝裸足で諸教会を巡り歩いた﹂

$

と書いている

ィンア︑はーガデ︒ーエを姿のこノ

の落ちつきなさの現れと見ている

で利己心の現れあめったし︑アンノる求が自︑これもみな己らの救いをひたすが

苦行への好みから好んで修道院に引きこもった

︒トルペンラはいるあたとっあで様同ものう言が

$

の文に続き︑ア

ンノが﹁貧者や巡礼︑僧や修道士に対し多くの慈善を行い︑その気前よさは驚くほどであった︒彼の教区内のどの教

会にも土地や建物︑⁝特別な贈物で⁝豊かにした﹂

!

と述べているような

みをい救の己自なも慈為行の進寄や善ひ

たすら求めるためであった

この利己心の強さは︑アンノが改革を自己の救いのために無理をしてでも強引に行う例にもよく見られるのであ

― 61 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(24)

る︒既述の聖パンタレオンで激しい抵抗を弾圧して改革を強行したのも改革が第一に彼自身の利害に係わっているか

らであり︑アンノにとって新しい傾向の修道士を聖パンタレオンの例のように彼自身の近くにもつことが特に重要で

あったと見られるのも

︒言えるのであるまたたランペルトがアとっ︑いこれまた自己の救をあ確実にするためでン

ノがケルンで二つの教会︑その他の所で三つの修道院を﹁自己の財産﹂で建てたと書いているのも

︑ヤコブスの解

釈のような組織上の意図

いよって自己の救をと一層確かなものににことしいうよりも︑むろる自分の財産で建てし

ようとする意図があったと見るべきであろう︒すべて自己の救いへの関心が第一で根本にある中にあって︑彼の改革

に首尾一貫した計画や体系を求めることは土台無理であり︑自己の都合によりその場その場で改革のあり方がころこ

ろと変っても不思議ではないのである︒アンノの改革したザールフェルトやグラーフシャフトの修道院では修道士に

よる司教への奉仕は求められないのに︑聖パンタレオンでは求められたと見られるような

一貫性のなさもその一つ

の例であろう︒

﹃ベンノ伝﹄が︑アンノはすべて現世のものを軽蔑し︑来世へのみ努力する人物として描いたと言われるのも

彼の自己の救いへの関心の強さを示しているが︑他方︑彼はこの現世への軽蔑とは外見上裏腹に現世の名誉や権力に

強く執着している人物であった︒ランペルトは

!

以っよに動活の教司の人一︑来設の建のそはンルケ﹁︑き続に文て

ケルンの教会の富と栄光がこれほど高められることはなかった﹂

"

と書いているのである

︒これは一見矛盾してい

るようだが︑現世と来世の違いはあれ︑どちらも利己心の強さという点では同じなのである

アンノのこの改革の問題について︑彼のローマ行とその後のフルクトゥアリア訪問に関連しては︑その時期の問題

とともに︑次のランペルトの記述との関係がさまざまに論じられてきたので︑この点についても少し考察しておきた ランペルトの見るアンノとその時代

― 62 ―

(25)

い︒

ランペルトは一〇七〇年における記述において︑﹁マインツとケルンそしてバンベルクの司教たちが法王に召喚さ

れてローマにやって来た﹂

"

を端によって金銭払アって司教位に侵異ニとバ書き︑﹁そこでンモベルクの司教はシ入

したことを非難されたので︑多くの貴重な贈り物を法王に与えて︑これによって彼に対する怒りを次のような穏和な

ものに変えた︒即ち︑自身の名誉や地位の損害なしには立ち去れないであろうと思われていた彼は︑非難された犯罪

に対し無罪になったばかりか︑パリウム︵肩衣︶やその他の大司教のしるしを祝福として法王座より与えられた﹂

!

と述べている

的司教職を辞し︑私生的活の静けさに引きこに発︒︑続いてランペルトは﹁自マインツの大司教はも

ることを非常に願ったが︑ローマ法王の権威とそこにいた人々の成熟した意見でもって︑かろうじてその意見を撤回

した﹂

$

と書いている

を︑彼らが教会職シ共モニア異端で売っには︒ペそして最後にランル者トは︑﹁すべてのた

こと⁝︵等︶のために激しく非難された︒最後に︵法王は︶彼らから今後これをしないという約束を受けて︑彼らは

和解の中で故郷へ帰された﹂

#

と述べている

この一連の記述は︑シーファーによれば︑アンノとジークフリートという二人の帝国第一の司教がまるで鞭を打た

れた生徒のように︑もはやしないと約束したという前代未聞の経過のゆえに注目されてきたし︑既にカノッサへの方

向を示すような発展線に余りにも見事にあてはまるかのようであった

の関にノンア︑ちう文︒の連一のこしかしし

て見れば︑彼のことを明示しているのは

"

の文だけで︑最後の

#

べあで人一の﹂者のてすの﹁るいてれさ及言に文っ

たとしても︑アンノは明らかに脇役しか演じておらず

司あで心中が教の︑人二の他ろしむり

!

の文では﹁贈り

物を法王に与えて﹂とアレクサンダー自身をもシモニストに感じさせるような記述をもしており

︑右の﹁カノッサ

― 63 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(26)

への方向﹂といった印象を与えるほどのものではない︒

この一連の記事と並んで問題なのが︑﹃アンノ伝﹄に見えるアンノのローマ行についての二つの記述である︒一つ

は時期を明示せずに︑アンノが﹁国の事柄のため﹂にローマに行き︑その時にいくつかの地方を巡り︑フルクトゥア

リアに行き︑そこから十二人の修道士を連れて帰ったという記事

!

である

はもの年〇七〇一期︒時︑はつ一うもの

として︑﹁自身の献身を示し教会の利益のために配慮する﹂目的で行き︑かなり長く滞在したとする簡単な記事

+

ある

︒このうち︑

!

思の行マーロの中の﹂出い﹁ののトルペンラの述既︑は文文

&

#

とほぼ同じ文章で︑その前

後の文もランペルトの

*

(

'

トいてれら見とたし写を文のルとペンラ︑りあで章文じ同ぼほる

これらの記述にもう一つ︑フルトルフの年代記の一〇七三年の記述として﹁アンノとバンベルク司教ヘルマンが王

に払われるべき金銭を徴収するためにローマに派遣された︒彼らは任務を終えたあと帰り︑法王アレクサンダーの手

紙をもたらした︒この中で王はシモニア異端⁝等で償罪をするように求められた﹂

%

と書かれている

︒更にアンノ

のローマ行について︑ニーダーアルタイヒの年代記は︑一〇六八年のこととして︑アンノやバイエルン大公らが﹁王

の使節﹂として派遣され︑﹁ラヴェンナに行き︑そこの司教と会談した︒彼らはローマを離れると︑直ちに帰国した﹂

"

と書いている

以上の諸記述について︑一般にクノーナウの研究以来︑﹃アンノ伝﹄の二つの記述

!

+

は︑ランペルトの一〇七

〇年の記述︵

$

)

ト記の年三七〇一のフルル︶フに更︑れらけつび結と述

%

とけづ連関てしりも誤の年〇七〇一ら

れてきた

︒これらに﹃アンノ伝﹄の

!

の中の﹂出い思﹁トとルペンラるす通共の

&

のローマ行の記述も関連づけら

れてきた︒つまり︑時期の明示されていない

&

もこ︒るあでのたのさ視一同とのれの記年ローマの行述も︑一〇七〇 ア時のそとノンラる見のトルペン代 鵄

― 64 ―

(27)

のうちランペルトの

%

#

&

いてし関にとこるあが違のい食はに述記のつ二は

︑これは

%

がアンノについての

み︑

#

&

ーっているのだが︑シフもァーはこれは特にラ違でがこアンノの他に二人のとけについて語っているだン

ペルトの利用した史料の違いに原因があると推測している

︒それにシーファーによれば︑

#

&

の記述は︑たまた

ま同じ一〇七〇年に行われた二つの異った旅をランペルトが一つの旅として描いたため︑

%

の記述にはないものが︑

#

&

マバンベルク司教ヘルンノの二人の旅と︑マインとンのあ記述には見られるのでるア︒この二つの旅とは︑ツ

大司教ジークフリートの単独の旅である

シ記のフルトルフはーァフー︑︒はていつに旅の人二の者前述

$

がこれに

合っており︑これを証言していると見ている

このような一般的な見解に対し︑ゼムラーは︑﹃アンノ伝﹄の二つの記述

!

'

は︑同じ旅のことではなく︑一〇

六八年と一〇七〇年と見られるアンノの二度の旅について書き︑この二つの旅をはっきりと区別していると主張し

︒彼は年代の不明の

%

!

旅︑一〇七〇年のの問ものではなく︑は訪のノ記述にあるアンのアフルクトゥアリニ

ーダーアルタイヒの年代記の

"

連あでのた見とるす関のに旅の年八六〇一る

︑の年〇七〇一に︒らさはーラムゼ訪

問だとアンノの改革運動の急速な広がりは時間的に無理と見ているのである

お問きべす慮考な︒にか確は点のこ題

を含んでいるが

ーあが題問はに張主のラ︑ムゼはで点の他のそり

見トクルフてしと解な︑的般一の述上りはやゥ

アリア訪問は︑一〇七〇年のローマ行と関連すると見るのが妥当であろう

〇マーロの年八六一︒のノンア︑おな行

も実際に行われたが︑これは一〇七〇年のものとは目的も違い︑フルクトゥアリアへの訪問とは関係のないものであ

った︒

右の一連の問題の中で︑ランペルトのアンノへの立場を示すものとして挙げられるのは︑彼が

#

&

の文から見て

― 65 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(28)

アンノらがシモニアの件でローマに召喚されたと言っているのに対し︑﹃アンノ伝﹄の

#

の文は︑﹁自身の献身を教会

の利益のために配慮するため﹂と述べて︑ランペルトに比べ曖昧な言葉によってはっきりとやわらげたものになって

いると見られている点である

︒この点はしかしランペルトも︑

!

理しいないてし出を由のだ喚召りきっははでけ︑

"

くありうる程度で︑ひど曖喚昧なものである︒それも召のア文の﹁すべての者﹂にンのノも入れば︑シモニアでに

ランペルトのこの一連の文では既述のように︑アンノは脇役的で余り目立たず︑アンノへの言及は

!

の導入文以後に

はなく︑アンノへの否定的な色づけは他の二人の司教の態度によってのみ得られる程度なのである

︒これをランペ

ルトが意識的に曖昧にした結果と見るべきかどうかはむつかしいが︑ただ理由は何であれ︑少くとも召喚された者の

一人にアンノをはっきりと挙げたことだけは︑﹃アンノ伝﹄に比べ︑アンノにとってあるいは不利になりうることも

隠していなかったと見ることは可能であろう︒

もっともこの﹁召喚﹂という言葉をシーファーは事実というよりも誇張されたものとし︑ランペルトは後に﹁突然

出てきた︵叙任権︶闘争の印象の下に﹂書いたと見︑このローマ行が少し後に侮辱を与える﹁召喚﹂として理解され

たことは︑かの数年の急激な状況の変化を特徴づけているとしている

のンアに年八六〇一前︒し少もれこしかしノ

が﹁対立法王﹂ホノリウスと会ったことでローマで厳しく罰せられたことを考えれば︑この一〇七〇年の時点でも召

喚的な事実があってもおかしくはないし︑この召喚もシーファーが見るほど誇張されたものではない︒

なおシモニアについても︑シーファーは一〇七〇年以前の数年において︑この三人の司教の誰もシモニアへの非難

のきっかけを与えていないとし

たりと感じられドっイツの教会の深きは︑改むしろローマの革り者たちに以前よ刻

な状況がアンノらと協議されたと見ている

議アニモシにノンア︒仮︑に他のに協でのしかしこ点のもこのアンノと ア時のそとノンラる見のトルペン代 鵄

― 66 ―

(29)

的な問題があってもおかしくはないのである︒アンノが根っからの改革者とは言えない中︑シモニアの問題もありう

るし︑シモニアであってもフルクトゥアリアで修道士の生活に感じ入って改革への気持に動かされることはありうる

ことである︒いろいろな意味で︑アンノを私心のない純粋な改革者と見ることはできないのである︒﹁カノッサへの

方向﹂を示すわけではないが︑ランペルトの記述も案外と︑召喚されるような事情がアンノにあったという彼の別の

面を語っていると見ることもなお可能なのである︒ただこの点でランペルトの表現が曖昧であったように︑彼はアン

ノの改革にははっきり批判的であったが︑この面についてはアンノに対し少し擁護的な姿勢が見られるのである︒

注盧

H.Tüchle,op.cit.,S.91.

G.Busch,op.cit.,Pilgerweg,S.519.

J.Semmler,op.cit.,S.140.

G.Busch,op.cit.,Schach,S.108.

J.Semmler,op.cit.,S.217.

ibid,SS.218−219.

ibid,S.222.シュトルーヴェも︑ランペルトはこれでもってモンテ・カシーノからの回答の穏やかな立場を支持したと見ている︒

T.Struve,op.cit.,20.S.68.

この文言は︑ブッシュが︑ゼムラーの著作︵前章︑注

睚表るあでのもたし現て︶めとまを容内心中の︒

G.Busch,op.cit.,Schach,S.108.

ibid,S.108.

MonumentaAnnonis,op.cit.,S.18.

― 67 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

参照

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