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藤原貞敏が唐からもたらした琵琶演奏伝承とその背 景

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藤原貞敏が唐からもたらした琵琶演奏伝承とその背

著者 根本 千聡

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 18

ページ 164(23)‑139(48)

発行年 2021‑02‑26

URL http://doi.org/10.15002/00023760

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一  研究概要   平安時代の官吏であった藤原貞敏は、〝最後の遣唐使〟で知られる承和度遣唐使の一員として海を渡り、承和五年(八三八)、唐の廉承武なる人物から琵琶の演奏伝承を習い受けたとされる 。その成果は『琵琶諸調子品』という琵琶譜として日本に伝えられ、現在も宮内庁書陵部に十一世紀ごろの写本が残る。中世に作られた系図等でも、不審点はあるものの、まず、廉承武から貞敏への伝授が枕に来る。この点、小稿第三項でも取り上げるが、こんにち日本で演奏されているいわゆる〝雅楽〟の琵琶の伝承は、この貞敏が唐で伝授された演奏伝承の苗裔である。そのため、貞敏がいかにして日本の琵琶演奏の祖師とされたのか、その背景を探ることは、平安朝初期の音楽のみならず、中唐から晩唐にかけての中国音楽の歴史・理論を知る上でも、いくらかの益に資するものと考える。

  小稿の構成は次のようになっている。まず「二  音楽家と遣唐使」は、貞敏が参加した承和度遣唐使の概略と貞敏の職務、および貞敏以外の音楽家についてを述べる。遣唐使に関してはすでにさまざまな視座から詳細を尽くした研究が多く発表されているが、音楽家の役割については、近年の研究成果をふまえた上での考察は少ないという憾みがある

藤原貞敏が唐からもたらした琵琶演奏伝承とその背景

根   本   千   聡

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  次に「三  承和度遣唐使後の琵琶の隆盛」では、貞敏が琵琶演奏伝承の祖師と位置づけられた経緯について検討する。平安時代を通して唐楽の中で最も重視された楽器であったのは笛だが、平安中期以降、天皇や皇子、上級貴族の間で琵琶も愛好されるようになる。小稿では、その端緒として十世紀初頭、貞保親王による敦実親王への琵琶伝授がかかわっていると推測し、さらに、背景には貞敏の事績のみならず、九世紀当時の国内外の事情が大きな影響を及ぼしていると考える。

  最後に「四  結語」は小稿のまとめとなる。本論の展望についてもここで述べる。

二  音楽家と遣唐使   一  平安時代初期の音楽流入   推古八年(六〇〇)第一回遣隋使以来開始された中国との公的外交は、隋から唐へと移ってからも遣唐使として継承された。遣使の主たる目的は外交であったが、同時に、アジア全域から集合する文物を導入する狙いもあった。文物の中には、当然、音楽も含まれていた。しかし八世紀が半ばを過ぎ、唐天宝十四年(七五五)安史の乱の勃発により唐の情勢が悪化すると、次第に外交の意義が薄れていった。同時に、唐や新羅による商船の活発化によって、外国の文物の導入に渡航を必要としなくなったため、遣唐使そのものの頻度が少なくなっていった。唐の情勢が悪化の一途を辿ったという背景もあって、周知のとおり、寛平六年(八九四)、菅原道真の上申によって遣唐使は事実上の廃止を見る。実行された〝最後の遣唐使〟となった承和度遣唐使は、そうした唐の政治的混乱のさなかに行なわれた。

  九世紀が半ばを過ぎ遣唐使の実施が停滞してからも、私貿易は盛んに行なわれていたことがすでに指摘されている 。その貿易の中心となっていたのは商人や貴族であり、楽器や楽譜の取引き、また、乱によって地方へ散った楽人などの

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来日はあっただろうが、その際に、演奏伝承までが流入し定着したかどうかは俄に判断し難い。しかし、承和十二年(八四五)に唐海州沭陽県の孫賓という人物が来日し、日本に箏演奏を伝えたという記録もあり 、来日した音楽家による新たな演奏伝承の将来があったという可能性は捨て切れない 。いずれにせよ、「正式な国交があるとないとでは、交流の質に大差が生じることを見逃してはならない 」といわれるように、〝最後の 333遣唐使〟が日本の宮廷社会に与え得る影響力は軽視できないだろう。

  二  遣唐楽人とその職務   遣唐使の一員として入唐した楽人は、後世の楽書等から何人かが確認できるものの、詳細がわからない場合がほとんどである。『延喜式』には遣唐使の役職として「音声長」と「音声生」が見出せる 。いずれも遣唐留学生の一種であると目されており、また、船中で櫓の拍子を取る役目もあったのではないかとされる 。承和度遣唐使の中では、笛の名手であった大戸清上が音声長に任命されている 。ただし、必ずしもこうした専門の役職に就いた者のみが音楽の将来に関わったわけではないようで、正式な役職とは別に音楽の習得を兼任する場合もあった。明確にわかる例だけでも、『琵琶諸調子品』をもたらした藤原貞敏の役職は准判官であったし、時期は異なるが、日本での楽律の理解へ大いに貢献した『楽書要録』や律管の将来にしても、遣唐副使であった吉備真備による功績であった。ほか、承和度遣唐使ひとつをとって見ても、「長松他に才能無し (1

」といわれた琴奏者・良岑長松がやはり准判官に任命されており、また、笙師の良枝朝生 ((

は画師として乗船している。彼らがまったく音楽文化の摂取に関与していなかったとは到底考えられず、多くの楽人たちは、唐の音楽を吸収するという務めとは別に、このように遣唐使としての対外的な役職を与えられていたのではないかと考えられる。彼らがそうした役職に就けられた理由としては、入唐してからの便宜の問題が大きかったのではないだろうか。遣使として比較的高位の役職を持っていれば、唐での音楽教習の依頼等においても話を通しやすかったはずである (1

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  では、専門の役職に就いた楽人にはどのような経緯があったのだろうか。承和度遣唐使において音声長として乗船した、著名な笛吹であった大戸清上を例に見たい。清上は、生年は不明ながら承和年間に活躍したことが確認される楽人である。笛の弟子には、同じく笛の名手であった和邇部大田麿 (1

、楽に秀でたことで知られる左大臣源信ほか多数おり (1

、仁明天皇の笛の師でもあった。多くの楽曲を新作・改作したことでも知られ、特に自身の名前が付された《清上楽》は、遣唐使に参加することを望んだ際に作り上奏したと伝えられる (1

。清上の渡唐目的は音楽に関するものと見て間違いないだろう。

  かくして参加することとなった承和度遣唐使を通じては、何らかの収穫があったと思われるのだが、遺憾ながら唐からの帰途、乗っていた遣唐使船が漂流し、ついに帰朝することなく漂着先で客死してしまった (1

  三  大戸清上の渡唐目的   大戸清上が入唐した際に学んだことの詳細はわからないものの、その概要を生前の事績から類推することはできる。推察されるいきさつを簡単にまとめてみたい。

  遠藤徹は、平安時代末成立の琵琶譜集成『三五要録』の分析を通して、唐代の音楽と平安中後期日本に定着してからの音楽とで調構造が明確に変化していることを実証した。そしてその前提となる、調子体系の整備 (1

がなされた契機を、玄宗皇帝期、大々的に楽制が整えられた唐天宝十三年(七五四)と推定されている (1

。この改革後の知識が遣唐使を通じて日本へもたらされる中で、音楽全般の整備や新作・改作が活発化してゆき、承和年間に最盛期を迎えたのではないかとする。また、『新撰楽譜』跋文に、唐貞元年間(七八五~八〇五)に舟部頭麻呂という人物が入唐し、笛譜を日本に伝えたと記されているが、その笛譜の内容は、『新撰楽譜』成立当初(九六六年)の楽譜とは大きく異なっていたとあり (1

、遠藤氏はこの記述と、清上と大田麿が多く新作・改作に携わっている点に注目し、平安時代初期日本での調体系の整備は、笛を専修する楽人らが主導したものではないかと述べられている 11

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  また、磯水絵は、『教訓抄』に《応天楽》が大嘗祭のために作曲されたと伝わることに注目し、清上による多数の新作・改作は天長十年(八三三)に催された仁明天皇即位の大嘗祭挙行のための整備ではないかとし、さらに、その時の経験が清上渡唐の決意へ繋がったのではないかと推測されている 1(

  以上、両氏の考察をふまえると、清上は入唐した際、音楽の整備に関連した何らかの知識や演奏伝承を学んでいた蓋然性が高い。その整備とは、国家規模の大がかりなものであったことも窺える。

  そしてまた、藤原貞敏も清上と同様の目的を持って入唐していた可能性が考えられるのである。

   四  藤原貞敏の渡唐目的   伝存する『琵琶諸調子品』には、貞敏が唐で琵琶を学んだ経緯が書かれた跋文のほか、廉承武より授けられたとされる二十七種類の調絃法 11

と《絃合》(チューニングを目的とした小曲)が載っている。この二十七調絃については未詳な点も多く、当時、二十七すべての調絃が唐で用いられていたかどうかも定かではないが、日本での整備後の調名に通用されている名称が多く見えることから、少なくとも過半数が実用されていたと考えられる 11

。延喜二十一年(九二一)成立の『南宮琵琶譜』によれば、貞敏はこの二十七種の中から四種の調絃に絞り、琵琶演奏に適うように統合整理したとされる 11

。その理由は「夫琵琶調子品、其数繁多、忽不可弾尽」とあり、演奏に際しての煩雑さを避けるためであったことがわかる。また、絃の断絶を避けるという目的のもと、調絃の音域の下降もこの機会に行なわれた可能性が考えられる 11

。以上は貞敏が遣唐使に際して伝授された演奏伝承の成果だが、ここではさらに、どういった背景で貞敏がこうした演奏伝承を持ち帰ったのかという点を考察したい。

  帰朝してからの貞敏の任官は順調そのもので、承和十四年(八四七)には雅楽頭に補されている 11

。福島和夫/櫻井利佳は、この翌年の嘉祥元年(八四八)、太政官符によって雅楽寮の編成が改められていることに注目し、貞敏が改変に当たって

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の実質的な指揮を執ったのではないかと見ている。特にこの際、打楽器を担う鼓生が大幅に減らされている点は唐における音楽情勢とも連動しており、玄宗皇帝(在位:七一二~七五六)が没して以降栄えることになったとされる、絃楽器を重用する法曲系堂上坐奏からの影響を指摘している 11

。玄宗皇帝期が終わりを告げてから後も天平宝字をはじめとして、宝亀、延暦と大々的な遣使は行なわれており、当然、こうした知識は承和度遣唐使以前からすでに日本へ入ってきていたとみるべきであろう。そうであれば、貞敏の派遣はここに焦点を置かれたもので、唐での新たな調絃法の習得は、こうした再編成に向けての下準備だったのではないだろうか。

  なお、貞敏は承和度遣唐使の際、調絃のみならず琵琶の秘曲 11

をも伝授されたとするエピソードがある 11

。実際に秘曲を伝授されたかどうかは未だ不明だが 11

、伝授されていたとしても、それは当初貞敏が意図していたことではなかったかもしれない。

三  承和度遣唐使後の琵琶の隆盛   一  貞敏以前の琵琶の楽器としての評価   奈良時代における琵琶関連資料については、正倉院蔵の四絃琵琶五面と『天平琵琶譜』がある。正倉院の四絃琵琶はおおむね奈良時代のもので、いずれも現在の雅楽で使用される琵琶とほぼ同形であるが 1(

、明治期に行なわれた修復や試演の記録が不十分であるため、当時実際に演奏で使用されていたものかは判断が付かないという 11

撥合》相当の前奏仮崇》の曲名があるが、これは薄墨で抹消されており、実際に記されているのは琵琶独奏曲《黄鐘調 用されたもの。納受帳の日付から、《番以前に書かれたものであることが判明している。譜には(七四七)譜は天平十九年   『正紙書かれた料紙が反故としして再利は』譜琶琵平てと倉の院蔵「写経料紙納受帳」紙譜背文書であり、最天琵琶初

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曲と、《黄鐘調二手》(前半)の二譜である 11

  以上二種の遺存例は、奈良時代中期、すでに琵琶が日本で普及しており、なおかつ独奏曲の伝承が存在していたことを証明する。しかし、琵琶系図類や琵琶譜等において、貞敏より前の琵琶伝承について記されているものは無い 11

。琵琶の楽器としての評価はどのような状況にあったのだろうか。

  大戸清上の例を見たように、奈良・平安時代における音楽の中では笛が重視されていたのは間違いない。その理由としては、笛が唐楽以外の外来音楽にもほぼすべてで使用される楽器であり、奏者の意思によってある程度自由に音律に変化がつけられ、かつ高音域で目立つ旋律を奏でていたためと考えられる。また、そうした実際的な理由とは別に、琴類や笛は、古来、鼓とともに祭祀音楽に使われていたという実情がある 11

。平安時代を通しての天皇の楽器、いわゆる「帝器 11

」がことごとく琴類や笛と伝わり、琵琶の時代は鎌倉期まで待たなければならないというのも偶然ではないだろう 11

  その琵琶であるが、こちらは奈良時代から平安時代初頭にかけて、演奏上、主要な楽器であったと示す同時代資料は管見に入らない。正倉院には四絃琵琶が多く遺存されているため一見すると重宝されていたようだが、現存する四絃琵琶五面のうち、勅封である北倉に納められていたものはわずか一面であるため、扱いは他の楽器種と変わらず、琵琶のみを特別視されていた楽器であると見做すのは難しい 11

。また、思うにこれらは楽器としてではなく、その装飾性の高さに美術的価値が見出されていたのではないかと推察される 11

。絵図の描かれた捍撥は言うに及ばず、裏面にほどこされた螺鈿なども、演奏に使用すれば容易に剥落してしまうだろう。正倉院に保管された琵琶以外の楽器種に目を向けてみても、大半には精緻な彫刻や蒔絵等がほどこされており、やはり実用したかどうかは不審である 11

。また、こんにちの展覧会において正倉院の琵琶は螺鈿細工や意匠の美しさを目玉として、他の楽器よりも注目度が高い傾向にあるという事実も、琵琶の美術的価値の高さを示すひとつの参考になろう。

  楽譜についても『天平琵琶譜』は紙背文書として偶然に残ったもので、琵琶の重要性を保証するものではない。また、

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後世の楽書や琵琶譜などからも、貞敏より前の時代に主要な琵琶譜があったことを示す記録は見られず、琵琶の演奏伝承を尊重していた形跡は見当たらない 1(

  以上鑑みるに、貞敏より前の時期の琵琶は、天皇や貴族にとって、美術品としての価値は別であっても、楽器として特に重要なものとは見做されていなかったと考えて良いだろう。

  二  貞敏から貞保親王までの琵琶   そういった楽器としての琵琶の評価が一変したことを明確に象徴するのは、宇多法皇の勅命により貞保親王から敦実親王へ琵琶が伝授された延喜二十一年(九二一)『南宮琵琶譜』の成立である。天皇や上級貴族が当事者として琵琶独奏曲の相承を行なっていることは特に注視すべきであり、また、伝授者の貞保親王は同年、勅撰楽譜『新撰横笛 33譜』の編纂を終えているという点も注目される。すなわち、この時期、天皇や貴族の、楽器としての琵琶への関心の程度が、それまでの笛と同列に並んだのではないかと考えられるのである。

  その徴証となるのは、後世に作られた琵琶の相承系図である。古くから伝わるものには『琵琶血脈 11

』、『琵琶系図 11

』がある。このうち『琵琶血脈』には複数系統の本があって、それぞれ内容が違っている。これら系図を確認すると、伏見宮本『琵琶血脈』以外では廉承武から始まり、藤原貞敏、貞保親王という順に続く。

  ここで問題になるのが、貞敏の没年が貞観九年(八六七)であるのに対し、貞保親王の生年が貞観十二年(八七〇)であり、貞敏から貞保親王への相承は不可能であるということである。伏見宮本ではこの点不審と見たのか、貞敏と貞保親王の間に清和天皇を挟んでいる。貞敏は清和天皇の琵琶の師であると伝えられており 11

、なおかつ貞保親王が清和天皇の子であることから都合良しと見られたのか、確かに、ここに清和天皇を挟むことは筋が通っているように見える。

  しかしこれも、生没年を対照させてゆくと不審点が多い。というのは、清和天皇は嘉祥三年(八五〇)生まれ、元慶

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四年(八八一)に薨じており、貞敏の卒する貞観九年までに琵琶を相伝されているとするのも疑わしいが、何より、自身の薨去する元慶四年、貞保親王はわずか十歳余りなのである。いくら楽の才能を謳われた皇子とはいえ、この年齢で琵琶を相伝されたとするのは無理があろう。これはどうしたことだろうか。

  この答えは「四  藤原貞敏の渡唐目的」でも取り上げた『南宮琵琶譜』にある。その記述によれば、「仍定四調備雅楽此四調子則是也、故陸 調也、11

仍て四調を定め雅楽に備ふ。〔此の四調子則ち是なり。故陸奥介良春の謂ひ伝ふる所なり〕)」と割注があり、貞敏の整備した四調絃は良春という人物によって伝えられたとされる。この良春は『尊卑分脈』を見ると貞敏の子息であることがわかる。また、『尊卑』にもう一人確認される子息・晨省は雅楽頭とも記されているから、貞敏の子孫によって音楽家としての家系が続いていたようである。また、菊亭本『文机談』には、貞敏の甥にあたる興継が文徳天皇とともに、貞敏から琵琶を学んだとある 11

。したがって琵琶の演奏伝承は、実際はこうした貞敏の縁者子孫らによって継承されていた、というところが真相であろう。

  そうした実情を知らなかったのか、知っていながらあえて無視したのか、いずれかというと、恐らく後者だと思わされる節がある。というのは、平安時代末成立の藤原師長撰『三五要録』巻一序文にある『南宮琵琶譜』の引用では、良春に関する割注の部分だけが省略されてしまっているのである。さらに、時代は下って菊亭本『文机談』では、良春は貞敏から琵琶を伝えられていないと語られている 11

  加えて、伏見宮本『文机談』の「西流始」と題した記事に注目したい 11

。この記事では、十世紀後半から十一世紀初頭ごろ、僧侶・賢円が源信 のぶあきら明に琵琶の伝授を所望した際、この賢円を指して「かた山寺の僧也」と評し、信明が「さしものみちをさづけん事、いかゞあらんとしゆいせられけれども」と伝授をためらった様子を伝えている。信明は結局、賢円の熱意にほだされて琵琶を伝授し、これが桂流西流分派の嚆矢となるわけだが、『文机談』ではさらに、「これいぜんには、かゝる僧当道に侍らず」とまで述べている。この記事はつまり、賢円の身分がそれまでの例からは考えられぬほど低かった

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ため、琵琶を伝授するにはふさわしくない者であると考えられていたことを示す。『文机談』の内容を額面通り信じるわけにはゆかないが、なるほど、系図類を確認してみると、十一世紀ごろの桂流と西流では、各々、伝承の〝場〟とでも言うべきものが、堂上と諸大夫・地下ではっきりと分かれる傾向が見受けられる。琵琶という楽器は、相承者の身分について並ならぬこだわりがあったことが窺える。

  こうした価値観のもと改めて系図を確認してみると、初期琵琶の伝承系図の不自然さにも説明が付くのではないか。すなわち、初期伝承者の中から、祖師たる貞敏以外の下級貴族が軒並み除かれたと目されるのである。そしてその結果生まれた、貞敏から貞保親王へというあり得べからざる継承図の齟齬を、琵琶に歴史的〝権威〟を与えつつ何とか道理づけようと、苦し紛れに組み込まれたのが清和天皇だったと考えられよう 11

  以上のように推察される経緯からは、次の二点のことがわかる。一つめは、遅くとも鎌倉初期ごろまでには、初期の琵琶相承関係が、恐らく作為的に曖昧にされていたということ。二つめは、相承関係の曖昧な部分に天皇を組み入れることで、琵琶の伝承にもっともらしい由緒を附与させようとしたということ。そしてこの二点より、貞敏帰朝から『南宮琵琶譜』成立までの約八十年間、天皇や皇子、上級貴族への琵琶相承が行なわれなかったことが類推される。換言すれば、この八十年間を経て、こうした高位の人々の間で徐々に琵琶の需要が高まっていったともいえよう。

  三  貞敏以後に琵琶が普及した理由   では、それまで評価されていなかった琵琶演奏が、なぜ貞敏の帰朝後普及してゆくようになったのか。その要因について私見では、不確実なものも含め、次の六点が挙げられるのではないかと考える。

①貞敏の調絃整備によって琵琶演奏が容易になったこと。

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②大戸清上の客死により、笛の伝承に停滞が生じたこと。③唐詩、特に白楽天の流行により、貴族の間で琵琶や演奏者個人に対する注目度が上がったこと。④九世紀中ごろから遊興的な場面での音楽の需要が増えたため、適した性格を持つ琵琶が評価されるようになったこと。⑤琵琶に関する有名な逸話を持つ王昭君に対して、貞保親王が執着していたらしいこと。⑥絃楽器を重視する法曲系堂上坐奏の影響を受けたこと。

  ①について。もっとも大きな要因として挙げられる。奏楽は楽人の表芸であり、専門性の高い職能であった。その中にあって琵琶の調絃の種類の多さ、煩雑さは、貴族が教養のひとつとして修めるには負担が大きかったのではないだろうか。こうした障害を取り除くことで、琵琶は飛躍的に扱いやすい楽器になったと考えられる。あるいは後述②~④の要素を背景に、そうした貴族からの要望を受けて、貞敏による調絃整備が行なわれたのかもしれない。いずれにせよ、これが琵琶普及の呼び水となったことは疑いない。

  ②について。これは遠因として挙げられる。ここまでに述べてきたように、笛は古来、重要な役割を果たす楽器であった。そして、清上は承和当時の音楽を牽引する存在であり、「三  大戸清上の渡唐目的」で見たとおり、承和度遣唐使の際には、日本での新たな楽理に適用できる演奏伝承を持ち帰る目的で渡唐したと推される。清上の死後、国内の笛の伝承では清上の弟子である和邇部大田麿がその遺志を継ぐが、〝最後の遣唐使〟における笛の成果を日本へ持ち帰ることができなかったばかりか、中心的役割を担っていた清上まで失ったことは、実質的にも象徴的にも笛の伝承に手痛い損失を被らせる幕引きとなった。その後も笛は依然として重視される楽器ではあったが、結果的に、貞敏が持ち帰った調絃法が唐との〝正式な国交〟によって得た最後の音楽伝承となり、そのため相対的に琵琶に対する価値観が上がった

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と推察される。

  ③について。これは特に上級貴族の間での音楽観に強く影響を与えたのではないかと考えられる。日本における白楽天の流行は改めて述べるまでもないが、承和度遣唐使とまさしく同時期である承和五年(八三八)、舶来の『元白詩集』を仁明天皇へ献上した藤原岳守が従五位上に叙されていることからも、貴族社会において相当な人気を誇っていたことが窺える 11

。また、白居易は自らも音楽を好んで演奏し、みずみずしい音楽描写を得意としたことでも知られる。唐詩の音楽描写を論じた谷口高志は、特に『琵琶 33引』、『琵琶 33歌』を取り上げ、白居易やその友人元稹の音楽詩が持つ、旧来の音楽詩との特徴の違いのひとつとして、奏者個人の技芸の描出にフォーカスしている点を挙げられている 1(

。日本の貴族が白楽天の詩を享受する中でこうした意識を感じ取っていたとすれば、琵琶演奏そのものへの評価・関心にも少なくない影響を与えていたと見てよいだろう。

  ④について。荻美津夫は六国史の記録を主たる論拠として、貴族による私的な奏楽が流行し始める時期を、嵯峨朝(八〇九~八二三)から醍醐朝(八九七~九三〇)ごろにかけてと比定されている 11

。私的な奏楽とはこの場合、後に御遊などへと整備されてゆく非儀礼的な管絃の遊びのことで、宴興の場での音楽を含む 11

。ところで、貞保親王は『南宮琵琶譜』序文において、「夫琵琶者馬上之楽也(中略)況銑谿翫花石季倫対比陶興竹林勧酔阮仲容弾之蕩情者也(夫、琵琶は馬上の楽なり。(中略)況や、銑谿に花を翫びし石季倫の比の陶興に対し、竹林に酔を勧むる阮仲容の之の蕩情を弾くものなり 11

)」とし、金谷酒数や阮咸の故事を引き、琵琶が酒席に付随する性格を持った楽器であるという考えを示している 11

。この二点を併せ鑑みるに、九世紀前半から浸透し始めた貴族による管絃の遊びの中で、そうした場にふさわしい楽器とされる琵琶を好んで用いるようになったのではないだろうか。

  ⑤について。これは③、④とも関連する。王昭君は漢代の実在の女性で、漢との婚姻関係を望んだ匈奴の呼韓邪単于に嫁がされた。そして辺境の国へ嫁がされる我が身を憂え、道すがら馬上で琵琶を奏し悲しんだと伝わる。この故事は

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悲劇として古来有名であり、中国では詩の題材として広く好まれてきた。日本では詩の題材のみならず、『うつほ物語』、『源氏物語』等の初期文学作品にも言及されていることから、早くから享受されていたことがわかる。この王昭君を題材とした作品は、おそらく楽府用に作られたと思われる楽曲が日本にも渡ってきており、十一世紀に転写された『五絃譜』に奈良時代以前のものと考えられる楽譜が残っている 11

。しかし、いつしかこの曲の伝承は途絶えてしまったらしく 11

、『倭名類聚抄』等によれば、この曲の断絶を惜しんだ貞保親王によって、延喜のころ尺八譜を元に復興されたと伝えられる 11

。その貞保親王であるが、王昭君については『南宮琵琶譜』序文に、先に引用した「夫琵琶者馬上之楽也」とあるほか、「昭君之辞鳳闕慰其遠嫁之悲(昭君の鳳闕を辞しては、其の遠嫁の悲しみを慰む)」とも言及があり、琵琶との関連を強く意識していたことが窺える 11

。貞保親王は琵琶を好んでいたから王昭君に執着したのか、王昭君に執着していたから琵琶を好んだのか、因果関係こそはっきりしないものの 11

、無関係と断じて捨てるまでには薄くない繋がりを持っているといえよう。

  ⑥について。「四  藤原貞敏の渡唐目的」で触れたように、嘉祥元年(八四八)の太政官符によって改められた雅楽寮の編成は、唐の坐部伎の影響を受けていると考えられる。坐部伎は玄宗皇帝期に確立した二部伎のひとつであり、立部伎と対を成す。立部伎は打楽器を中心とする立楽であるのに対し、坐部伎は管絃座奏を主とする形式であった 1(

。こうした演奏形態から直ちに連想されるのは、前述④にも示した貴族による管絃演奏である。両者は連動していると考えるべきだろう。

  以上、琵琶普及の要因について考察した。これは、右に挙げた六点のどれかひとつが琵琶普及の要因になっているというわけではなく、いずれの要素もが重層的に、相互に作用したものであると考える。つまり、琵琶の普及には貞敏による整備が大きく影響を及ぼしているとは言い条、その上で、偶発的と思われるいくつかの条件と環境が折り重なり、その末に空前絶後の流行を生み出すに至ったと考えられるのである。そして、こうした要素は時代が下るとともに、次

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第に貞敏の事績として収斂してゆき、ある種の〝神格化〟とでも呼ぶべき現象が起きたと推察される。そうした事柄の一例は、前項に見た初期相承関係の混乱に端的に現れているといえるだろう。

四  結語   以上、概観したように、藤原貞敏と琵琶の歴史的背景を考察するにあたっては、音楽資料を取り扱うだけでは窺い知れない面が多いことがわかる。これは逆説的に、平安時代における琵琶の趨勢は、当時のさまざまな文化受容の有り様を顕しているともいえるかもしれない。

  なお、本稿中では扱わなかったが、唐からの影響を鑑みれば礼楽思想との関連も決して看過できるものではない。笠原潔は『南宮琵琶譜』序文に見られる音楽観について、貞保親王が中国礼楽思想を十分にふまえていることを前提として、「(前略)そうした思想は、中国礼楽思想の延長上には位置づけられない、日本独自のものである 11

」とされている。現存する同時代資料が限られていることもあるが、ここでもやはり貞保親王の存在が表れるのは非常に興味深い。唐の律令制度や文学とともに、思想が音楽の受容に対してどのような影響を与えたのかを考究する視点が、今後の研究の発展につながるだろう。

(1)『琵琶諸調子品』跋文に記載。このほか『日本三代実録』貞敏卒伝に異伝があるが、承和度遣唐使に随行した入唐僧円仁による記録『入唐求法巡礼行記』から、『琵琶諸調子品』の記録の方が正確であることが知られる。佐藤[一九八五]に詳しい。また、貞敏の略歴については、豊永[二〇〇三]を参照されたい。

(16)

(2)佐伯[二〇〇七]に遣唐使と音楽家についての言及が見られるほか、「遣唐使の諸問題」東野[一九九二](七十九~八十三頁)に『教訓抄』に著された渡唐楽人に関する小論がある。ただし、これらはあくまでも遣唐使を考察する上での材料とされており、音楽そのものやその制度を考究しているわけではない。音楽を中心として扱った論には、近年では南谷[二〇〇六]、渡辺[二〇一三](三三〇~三四九頁)などがある。また、小稿で取り上げる、福島和夫/櫻井利佳[二〇一七]は特に重要で示唆的な内容を持つ。(3)以上、遣唐使の概略を含め、『国史大辞典』、『平安時代史事典』、『日本古代史大辞典』の当該項目を参照した。(4)箏の演奏伝承は、日本には孫賓がはじめてもたらし、左大臣源信へ伝授したとするほか、仁明朝(八三三~八五〇)の命婦(内教坊妓女とも)であった石川色子が、筑紫国彦山で唐人から教習されたのが始まりであるとする説もある(『箏相承系図』)。この両説はきわめて近い時期を指しているため、あるいは、源信への伝授を相承の始まりとするのは一種の権威付けであって、来日して大宰府(筑紫国)あたりに滞在していた孫賓のもとへ石川色子が派遣され、箏演奏を伝授されたとも考えられようか。源信自体は諸楽書、説話等から優れた音楽家でもあったと伝わる。(5)ただし、孫賓の来日に関して、渡辺は承和度遣唐使第二船が海州に停泊していた事実に注目し、「その来日の動機については、確かなことは言えないが、大戸清上・良岑長松等楽人との交流があったのではないだろうか」(渡辺[二〇一三]三四二頁)としている。音楽家たちに唐楽輸入の務めがあったとすれば、こうした折衝があったとしても不思議ではない。そうであれば、孫賓の来日というのはひとつの例外であって、恒常的に貿易船での演奏伝承の将来があったわけではないという見方も出てくる。(6)東野[二〇〇七]二十頁。(7)『延喜式』〈大蔵省〉入諸蕃使条。(8)東野[二〇〇七]一〇九~一一〇頁。(9)『続日本後紀』承和三年(八三六)閏五月八日条に「河内国人遣唐音声長外従五位下良枝宿祢清上」とみえる。(

のみをもって准判官に任じられたことが示唆されている。 -年(日敏貞に「も伝同卒条様四八月に十貞観)八六九無、他代能才の琶琵り、あと」三才仕歴、琶琵弾能以貞芸敏原 10一レ一月十日)九条七八十三年(岑慶元』録実代三本日『良)長善る。あと」使唐聘配琴、弾以松、能才他無松長に「藤卒伝

(17)

( 即位した仁明天皇の笛の師としてふさわしい地位を与えるためではないかとされる。 大を記表で姓枝良と姓戸宜的け便はで稿小も、にめたる分にた。二なに年前ば、れよ]四〇〇に理お、告てしと由の姓改井[ であ戸主り、流姓が記表のでたまに清上と朝生との区別を明確すは大在唐点も正確には遣現使時で清良枝姓であるのだが、上 清上らとともに良枝宿禰姓を賜っている。したがって、本来は清上と同じ大戸姓であったが、」とあり、(後略)賜姓良枝宿禰 11『二に「条)五三八日(九十月十続年位元和承』紀後本日散)外正人、三十等生朝姓同上位師従笙楽雅上、清首戸大下位五六

( としている。 事情を説明するように指示したが、十三~十四頁)[一九九九](東野借位はそのさい役立つようにとの配慮でもあっただろう」 12のねの不在を唐側からたずら大れたら、十分使唐遣は野東使は、借許位(本来より上の地位をさ皇れること)につい)「天て、

( -一レ受笛」とある。学吹 13-良雅楽権少属外従五位下宿枝禰清上、実代三本日『事録』十貞観七年(八六五)十月二六師日条和邇部大田麿卒)に「始伝

近衛出雲貞長)とある。」(福島[二〇〇七] 14左大臣源朝臣信、)外従五位下勝弟扶、雅楽属秦庭経、笛師常世弟魚、伝(前略)清上『新撰楽譜』跋文に「右衛門督源生朝臣、

(  15 貞保親王譜云『三五要録』当該曲の割注に「長秋卿横笛譜云清上欲)時作此曲上奏」(訓点は筆者)とある。遣唐 16大掲前伝(卒麿田』)録実代三本日『註

一レ為殺」とある。賊所 13漂堕南海上賊地。清に「)じ同、遭風大聘唐使、入於唐逆。帰朝に日、舟従之

( 、「平調」といった時号を用いた日本特有の分類法を指す。越調」 17)ここでの「調子体系」とは、中国における均に基づく分類とは異なる、『新撰横笛譜』、『新撰楽譜』の二笛譜より見られる、「壱

( 18)「太楽署供奉曲名及諸楽名」として知られる。岸辺成雄によって全文が紹介されている(岸辺[二〇〇五b]八十四~八十六頁)。 と考えるべきだろう。 譜ある作を譜楽撰勅代、後が笛ったっ帰ち持や、分身ういとたにて公のもたした果を唐入参的なら、い照かれてさることなど 「嵯峨院ノ雑色」貿易船などに乗って私的に入唐した可能性も捨て切れないが、譜』跋文にはその旨明記されていないことから、 又亡失『新撰楽)。頭麻呂は時期的に延暦度の遣唐使(八〇四~八〇五)かと目される。無論、(福島[二〇〇七]也」譜其セシ 19也。峨手呂麻頭部舟色雑院、嵯大有別方譜王親保貞又、「也。唐貞習異相尤手今与也。伝元)年中唐入所

(18)

( 20)遠藤[二〇〇五]四二三~四四一頁。

( 21)磯[二〇一六]五十四~五十五頁。

( れるべきである。 る本はれこてした果が、だのかにわがとこるいてけが絃調当欠貞て敏さ断に重慎か、のもたい判しれ在相がさ伝た存初から当 期の琵琶成『譜集三五中初と倉鎌る。れさたっあが』絃録子巻品のるな」調仙高は「に』調十諸琶琵存『現ら、かどな二調種 何八略後や(ぞきべず存に様如(調、ヶ八廿ろことるす載)」濁れ琵十二はに』品子調諸琶『点・り、あと)者筆は字漢部一を 22に伝録教琴胡る『す録記を承琶平琵の期初倉鎌らか末安』)よけに譜き古)略前「(に、項た付れをし出見と」品子調諸ば「こ

( 、「啄木調」の四種が残っている。、「清調」、「返風香調」連も考えられるだろう。この他、琵琶の調絃に「風香調」 けなれ取はた、付裏が、まる。いい越「壹れ上調」と「壱越性調」の関てら調)「萬渉い」(盤渉調は調整備後の調名にも用」、 23、「水、「黄鐘調」、「道調」、「乞食調」、「大食調」、「平調」、「雙調」(沙陀調)、「沙陁調」『琵琶諸調子品』の調絃名のうち「壹越調」) 24美、所不貫綜、而或其音不殊或調、合笛多違、仍定四調備雅無諸)多、「夫琵琶調子品、其数繁忽弾不可弾尽、然貞敏朝臣究楽

奥介良春之所謂伝也 四調子則是也、故若多欲知諸調、周案譜可覚、必深拘師伝」(ネルソン[二〇一二]十三頁)。(

25)例えば、「黄鐘調(黄鐘は

Aさ平が絃調たれ冠にが名の)」当相調(

( れた割書がどの時点で書かれたものか、すなわち、原典から存在したものかどうかを吟味されていない。 拠現た、まず、らおてれさはる論琵すとたっあでのもるれ存『示琶写諸注にここが、るれさと本さのはろ子品』調十世紀ご一 絃低い調たっになてい五律れらか前以るさ来将に本日定推とさ絃れで奏で域音の一同が琶琵ら四琶琵絃五し、かしる。いてと れ述べらた、ており、ま)『とぼ載掲を文同ほもに頁六四琶三琵後諸をら、かどなとこるいて調示し高割子品音の』書が変化の 同[]三七九一頁、四度に施九の絃調い高ないうよのこ点、るあでつ実て」(六二]九六は、一林[九るのお疑問な余地があ る。で詳未はていつにとこういとかのたき起ついが化は「林あ五世絃異同大と域音の琶琵の小後域音の絃五て、じ通譜をが でが、す六に、林[一九九とらこるいてれげ下)度四二全](摘六れ(変のこし、だたる。いてさ三指てっよに)頁四八二~完 E律れ相当)曲に使用さる五など、本来の音高からに

( 26)『続日本後紀』承和十四年(八四七)二月十一日条に「従五位下藤原朝臣貞敏為雅楽頭」とある。

( 27)福島/櫻井[二〇一七]。 28に流泉》が相伝されるような石ると、これを加えて四秘曲上原)上《大常博士楊真操》、《石流上泉》、《啄木》の三曲。後に《と

(19)

も称するようになった。(

( 29)『古事談』等の説話集に載る。詳しくは榊[二〇一二]などを参照。

( )。傾聴すべき見解であろう。かとする論が出されている(早川[二〇一八] な秘り、よに基太川早年、お、える。に考とかいなはでのいな曲近あにたいなはでのもたさ曲作れ代の《る宋琶曲琵啄木》は が持を係関な接密れぞれそ風法絃調の」調木啄「」、調香てっ切いるれし定否は性能可たっあが来将曲秘るよに敏貞ら、かとこ が貞敏の整備した四調絃に含まれることや、、「返「風香調」「返風香調」「風香調」に使われる調絃《石上流泉》と《楊真操》曲と てにめ、貞敏曲よる秘い将た見なれらのらす前名はいつ来つ是見秘二の外以》木啄《は、で私非い。な見を説定はてい曲にに 30秘木調のめたるす奏演を》啄啄は《に』品子調諸琶琵『絃「木二載のり残た、まい。ないてっは調譜曲楽の心肝が、る載が」)

( 31)林[一九六四]五十一頁。

( 32)ネルソン[二〇〇〇]。

( 。一八七頁) のいが物人たっ持を連関らかた何のと琶琵に所経写たでめ栄~八七一]一一〇二原[る(しいてれさ測推とかいなはて、と由 33二同[]、二一〇二ン[ソルネ報は情誌書の』譜琶琵平天『〇)一琵理たれさ用利再が譜琶は](氏原栄お、なる。よに)定予二

( 倉時代には、貞敏以前の琵琶伝承は不明になっていたと見られる。 にに朝が我を琶琵て、じ応の宣しそ敏、貞男六の彦継品三写給はふとく遅り、あと)者筆字鎌漢の部一点、濁点、読句」(も この国にいとも聞こえず。器物たまたまありといへども、いかでかと思召されて、わずかに芳菲の事也。承和の帝、琵琶など、 34る、釈注の文序』録要五三『れ三ら見とたし立成に期倉鎌書『)は蔵でま時御の和淳「は、に)旧和家宮見伏蔵部陵書』(抄釈五

( 、「奏者の意思によって音程に変化を与えられる」といった要素・役割を満たしていたと考える。「高音域の目立つ音」うな、 余っいと鼓琴、が、るあが地論の楽議はかうどかのものた編器能よたべ述に先はてしと機機の上楽音に、るみ鑑を成構同と笛 35荻[頁い。たれさ照参をどな)一二な二~三一二](七〇〇四)お、の横るゆわいの世後が笛来が古本日に、うよるれさ及言荻

( 36)猪瀬[二〇一〇]によって提唱された定義。

( 37)豊永[二〇一七]などを参照されたい。

38等琶、他所へ移された琵琶もた多くあったと考えられ琵れ)五林[一九六四](五十一~十わ三頁)。ただし、北倉から失る。

(20)

これらの楽器の推移とともに、当時どのような価値判断に従って移動させられていたかをも考察してゆく必要があろう。(

( かどうかは疑わしく、楽器の数が当時の盛衰を反映しているとは限らない。 十しる。いてし評と)頁一五し、]四六九一林[」(うよえか述前際たいてれわ使に奏演の実もが琶琵のられこり、おとのい 39)のにうよのこて「いつにさ多琶く琵絃四る残に院倉正は林多のと当反のとこたいてし行盛時が例器楽のこ面一はのるあが映

( た。同展で芝祐泰による実演の録音も聴いたが、音はか細く音程も不安定で、到底実用に足るものであったとは思われない。 たか、界限の術技りはやが、てい製れら作に巧精も構機の竹のし形っあでつびいにか遥はのも孔指や口歌とるべ較とのてと笛 40展院倉正回七六第の館物立博国良奈年、五一〇二は者筆に)おがで、事見は匠意の刻彫る。あとて「こたし見実を」笛横石彫い

( は確実である。 定六八九一ン[ソルネる(れと推な写転の譜楽の前以代時])さど、琵貞とこたいてっわが譜琶伝のり敏渡唐よの前ら多くか こ五はらちるか、ほあが載琵絃良琶だが、伝存する『五絃譜』は奈の記」本書記録した『日国見巻在目録』には「琵琶譜十一 じられる最琶古の譜で重ん教で)等』談机文『』、録る。琴あ存しとを書蔵の頭初朝安平り、よもかは在『の』譜琵平天『し、胡 41、『三五要録』琵琶譜(・(佚書か)が、後世の楽書管見では『琵琶諸調子品』のほか、貞敏が持ち帰ったとされる『唐四巻譜』)

( 文献解題』の当該項目を参照。 42群な統を異にする写本からる。は詳しくは『日本古典音楽『系者書集類従』、『伏見宮旧蔵楽書成両』にて翻刻されている)が、

( 一〇一四)。未翻刻と見られる。 43応本陵部に鎌倉時代の写が図。伝わる(函架番号:伏・正「書系四清年(一二九一)十月五日空琶」の書き入れのある)琵

( 四十六頁)ともあるが、豊永[二〇〇三]によれば、正史にはそうした事実は認められず、卒年時の官位は従五位下である。 ]た、まる。あと)頁二十四〇七件〇二佐[岩」(るけれさめ「しのり同、」(ぬひ給りゆ殿昇てぼろのに品四は臣朝敏貞に、賞 3344)つ主聖の和清)略前(て「いにま績事の敏貞の』談机文『いだへけたつにからきあぞ、みのるし東ましはをせらたわてに宮し

( 45)ネルソン[二〇一二]。

( とある。興継の子・忠房は延喜年間の著名な音楽家。なお、伏見宮本の同条では興継について言及されていない。  46)岩佐[二〇〇七](四十五頁)。貞敏から興継への伝承は『尊卑分脈』にも確認され、「仁寸元依勅自貞敏手伝比巴琵琶上手」

47)「一男大けんもち良臣ありけれどもみちをつたへず」(岩佐[二〇〇七]四十三頁)。本書註の解釈に従い良臣=良春と見る。なお、

(21)

良春も伏見宮本の同条で言及されていない。(

( 。なお、この記事は菊亭本には無い。(岩佐[二〇〇七]三六八~三六九頁)る僧当道に侍らず」 も、ば、れけりゝかしざろゝこれどいけれらせいゆしとんらつふにへゝか血にんぜいれこり。けは、伝い脈相さを承なく受け 33 山み寺の僧也。さしもの事、ちをさづけんいかゞあかた当、にを別属してふたごゝろなく道まなびけり。しはては栖霞寺の府  48西はれこ也。師祖の流の西円流信賢奉供の峨嵯一、「始も)明い大もれころごしと也。子弟はのに卿通資ば、れけりな子弟あ

( 49)ただしこれは、清和天皇の楽の腕が未熟であったと証明するものではない。

( -元白詩筆」とある。略)因検従五位上校大唐人貨物。奏上。帝甚耽悦。授適得 50『日本文徳天皇実録』仁寿元年(八五一)(承和)九月二十六日条、五年「散位従四位下藤原朝臣岳守卒)(中略)(中藤原岳守卒伝に

( 。(同、一二〇頁)うとする欲求の高まりがあった」 技り、あがりま高の関のへ藝れたに優るけおに期唐中は、に更心は自そ出そ写てっよに像想の己しを生美の藝が技み出す音楽 一彼六頁)。「(前略)またなのそのよう志向の背景]一二琵と琶引」には通底している考易「えるべきだろう」(谷口[二〇一 51「たと、心関のへ藝技の人楽の盛っあつつりま高来、以唐そ)音昂居白と」歌琶琵稹「元が、揚識楽意のへとこるす現表を美の

( の余地があろうかと思われるが、大略において異論は無く、妥当な論であると考える。 52一関)など。これらの論考にし五て、細かい点では再考荻[頁十九頁七七](一九三~二〇一)、)荻[二〇〇七](四十一~七

( 53)御遊の成立時期については緒論あり定説を見ない。小稿ではこの点、論旨ではないため深く言及することはしない。

( 54)福島[二〇〇七]。訓読にやや不可解な部分があるが、引用元ママとした。

( る好例といえよう。 難上馬や「」酒は「琶琵が、いじと判はかるいてし即に実」び結ていてし示明をとこたいし度能機てしとフーチモく付事程の 55王人詩な名著の唐初て、し関連と⑤の述後もにかほのこ翰)涼あどる。れさ目注がとこると州」催上馬琶琵飲欲に「〉詞の〈

( れている(ネルソン[一九八六]五十二頁)。 56ソり楽曲は奈良朝末期まで遡得載るのではないかとさルネるにンのは『五絃譜』の譜の掲載順規半則から、《王昭君》など)前 らは譜絃五『か。うろだいなで所めたたっからづい扱はて』収と曲え考とるいてし残を態のの《前以代時良奈は》君昭王し楽 57えそおが、だ詳不は景背た絶く、途に期早が承伝の曲のこら)音曲礼儀く、強が格性のてしと楽国用府楽たっ伴を詞歌の語中

(22)

れるが、これを唐代における同名詩の楽府と照らし合わせた研究は管見に入らない。今後の課題である。(

( 記述を採用した。 58醐類期がもっとも近い『倭名聚は、抄』(九三〇年代)の醍時で天料(皇による復興とする資『こ教訓抄』等)もあるが、)こ

( 影響を受けている。 59の以慰其道路之思」という一節から明らかなこ樂、馬作中文は、石季倫〈王明君詞〉の「上昔公主嫁烏孫、令琵)一琶

( いかと思われる。 と君昭王が《王親保貞ら、かここのい。無は跡形たっわ伝が》の復琶興なはでめたたでん好をい琵のを行なったは、個人的に ていし備完を昭る。しかし《王君ない針い楽曲は除くべきである方を説にて》いも現伝承されている在のも含め、は日本に舞 -」(福島[二〇〇七]成勒)とあり、繁乱夷貞保親王はこの笛譜を編纂するにあたり、楽と舞と而不芟、遺三巻捨シテ --今之所佳処、之聖遊仙預節。厥譜広見具撰、宴取如斯不之者亦曲奉供可会必。具相舞歌。凡時之折 60霓宮鳳火珠『新連衣羽裳横撰笛如至又、は「に文柘序』譜調)枝有、楽等声声楽無無態舞舞有態或者、。或

( 系楽曲」(岸辺[二〇〇五a]四二八頁)であるとされる。 61にの伎ではなく、「堂上坐奏風坐坐部伎的楽曲即ち法曲確正部るは、な玄宗皇帝時代以降盛んにっけたのは本来的な意味に)お 62)笠原[二〇〇一]一二五頁。

引用・主要参考文献●単行本磯水絵[二〇一六]『説話と横笛』勉誠出版遠藤徹[二〇〇五]『平安朝の雅楽―古楽譜による唐楽曲の楽理的研究―』東京堂出版荻美津夫[一九七七]『日本古代音楽史論』吉川弘文館荻美津夫[二〇〇七]『古代中世音楽史の研究』吉川弘文館岸辺成雄[二〇〇五a]『唐代音楽の歴史的研究  楽制篇  下巻』和泉書院岸辺成雄[二〇〇五b]『唐代音楽の歴史的研究  続巻  楽理篇  楽書篇  楽器篇  楽人篇』和泉書院

(23)

佐伯有清[二〇〇七]『最後の遣唐使』(講談社学術文庫版  一九七八年初出)講談社栄原永遠男[二〇一一]『正倉院文書入門』角川学芸出版東野治之[一九九二]『遣唐使と正倉院』岩波書店東野治之[一九九九]『遣唐使船―東アジアのなかで』朝日新聞社東野治之[二〇〇七]『遣唐使』岩波書店豊永聡美[二〇一七]『天皇の音楽史  古代・中世の帝王学』吉川弘文館林謙三[一九六四]『正倉院楽器の研究』風間書房林謙三[一九六九]『雅楽―古楽譜の解読―』音楽之友社林謙三[一九七三]『東アジア楽器考』カワイ楽譜渡辺信一郎[二〇一三]『中国古代の楽制と国家―日本雅楽の源流』文理閣

●論文猪瀬千尋[二〇一〇]「中世宮廷音楽の時代区分とその特質―名器、御遊、秘曲伝授の関係を視座として」、『芸能史研究』一九一、一~二十五頁笠原潔[二〇〇一]「日本の楽書と礼楽思想」、福島和夫編『中世音楽史論叢』和泉書院、一一五~一三九頁榊泰純[二〇一二]「廉承武伝承について」、『国文学踏査』二十五、二十四~三十四頁佐藤辰雄[一九八五]「貞敏の琵琶楽伝習をめぐって」、『日本文学誌要』三十二、十三~二十八頁谷口高志[二〇一二]「「琵琶引」における音楽―作品の構成と中唐期における音楽詩の展開―」、『白居易研究年報天涯淪落の歌特集琵琶行』十三、九十七~一二三頁告井幸男[二〇〇四]「和邇部大田麿考」、『日本伝統音楽研究』一、一三一~一四一頁豊永聡美[二〇〇三]「楽人誌  藤原貞敏―音楽に秀でた官人―」、『日本音楽史研究』四、一〇八~一一〇頁ネルソン、スティーヴン・G[一九八六]「五絃譜新考―主に五絃琵琶の柱制及び調絃について―」、『東洋音楽研究』五十、十三~七十六頁

(24)

ネルソン、スティーヴン・G[二〇〇〇]「古代東アジアの楽器の復元―古代音楽の再生―」、『現代の日本音楽  高橋悠治《残絲に惑い》』春秋社、現代の日本音楽国立劇場委嘱作品シリーズ4、七~二十三頁ネルソン、スティーヴン・G[二〇一二]「Issues in the interpretation of notation for East Asian lutes (pipa/biwa) as preserved in scores of the eighth to twelfth centuries(邦題:八世紀から一二世紀にかけて成立した琵琶古楽譜の解読における諸問題」、『日本音楽史研究』八、一~四十一頁ネルソン、スティーヴン・G[二〇二一](予定)「正倉院文書紙背「琵琶譜」、いわゆる『天平琵琶譜』に関する一考察」早川太基[二〇一八]「琵琶曲「啄木」攷:宋代文人の聴いた音楽」、『東方学』一三六、二十二~三十九頁福島和夫編[二〇〇七]「古楽文粋  譜序・跋」、『雅楽・声明資料集  日本漢文資料楽書篇  第二輯』三~二十五頁福島和夫/櫻井利佳[二〇一七]「The performance of tōgaku( ‘Tang

music

~二十頁 一、『四天王寺国際仏教大学紀要』四十三、「『続日本紀』に見る唐楽演奏の記録と礼楽思想の受容について」南谷美保[二〇〇六] (国際音楽学会東京大会二〇一七口頭発表) Instrumentation and the makeup of the Bureau of Music九世紀日本に於ける唐楽の奏演、」、特に楽器編成について)八・:(邦題 ) Japan: ninth-century and eighth in ’

●古楽譜・文献『文机談』(岩佐美代子[二〇〇七]『文机談全注釈』笠間書院)『教訓抄』(植木行宣校注[一九七三]「教訓抄」、『古代中世芸術論  日本思想大系二十三』岩波書店)『琵琶諸調子品』(『伏見宮本琵琶譜』コロタイプ複製本)『南宮琵琶譜』(『伏見宮本琵琶譜』コロタイプ複製本)『三五要録』(宮内庁書陵部蔵:伏・九三一)『胡琴教録』(『伏見宮旧蔵楽書集成』二)『三五和釈抄』(宮内庁書陵部蔵:伏・九三五)『倭名類聚抄』(京都大学国文学研究室編『諸本集成倭名類聚抄』臨川書店)

(25)

『日本国見在書目録』(『日本書目大成』一)『続日本後紀』(『新訂増補国史大系』三)『日本文徳天皇実録』(『新訂増補国史大系』三)『日本三代実録』(『新訂増補国史大系』四)『尊卑分脈』(『新訂増補国史大系』五十八)『琵琶血脈』(『群書類従』第十九輯  管絃部)『琵琶血脈』(『伏見宮旧蔵楽書集成』一)『琵琶系図』(宮内庁書陵部蔵:伏・一〇一四)『箏相承系図』(『伏見宮旧蔵楽書集成』二)

(26)

<ABSTRACT>

The tradition of Sino-Japanese biwa music brought to Japan from Tang China by Fujiwara no Sadatoshi in the

ninth century.

N

EMOTO

Chisato

This paper has the aim of clarifying the transmission of Sino-Japanese lute (biwa/pipa) in the early Heian period (ninth century). In Japan, Fujiwara no Sadatoshi (807-867) has long been respected as the founder of the tradition of Japanese biwa music. He was a minor public servant, and crossed the sea in order to study the biwa as a member of the Japanese mission to Tang China in the Jōwa era (834-848). Sadatoshi did not go to Changʼan, the capital of Tang;

however, a biwa master Lian Chengwu gave him lessons in biwa music at Yangzhou. The results of these lessons were compiled in the score Biwa sho- chōshi-hon (ʻVarious lute tuningsʼ) and brought into Japan. Nevertheless, in spite of Sadatoshiʼs great achievement, past studies have not investigated this aspect satisfactorily.

The introduction explains background information and the significance of this study.

The second section surveys the relation between Japanese musicians and the Japanese missions to Tang China. Ōto no Kiyokami (Yoshie no Kiyokami, ?-839) participated in this mission with Sadatoshi in the capacity of Onjōchō (Head Musician). He was the most outstanding Japanese composer and arranger, as well as superb flute player, of those times. But, according to Nihon sandai jitsuroku (ʻVeritable records of the three reigns of Japanʼ), on his way back to Japan, Kiyokamiʼs ship drifted to the southern seas, where he was killed by barbarians. Although he probably learned some new elements of Tang music, they were lost forever along with his life. This section

(27)

considers what Kiyokami may have been bringing back, and, at the same time, examines Sadatoshiʼs arrangements of biwa performance based on his experience on the mission.

The third section studies how Sadatoshi has been regarded as the founder of the tradition of Japanese biwa. Though several genealogies of the Japanese biwa tradition exist in Japan today, all of them have several doubtful points. For instance, despite Prince Sadayasu (870-924) being born after the death of Sadatoshi, they record that Prince Sadayasu was taught by Sadatoshi. It is thought that this problem arose from later efforts to bring the transmission historical authority.

This section includes one more significant topic. There are perhaps six factors why biwa performance became extremely popular after the Jōwa era: first is the reorganization of biwa tunings by Sadatoshi; second is the delay in flute transmission due to Kiyokamiʼs death; third is the influence of Tang poetry; fourth is the beginning of instrumental performance by the Japanese nobility; fifth is Prince Sadayasuʼs interest in the piece Ōshōkun;

and sixth is the influence of the sitting repertoire of the erbuji (ʻtwo kinds of musicʼ) of the mid-Tang.

The fourth section reaches the following conclusion. Sadatoshi came to be respected as the founder of the tradition of Japanese biwa music not primarily because of his achievements, but due to a range of factors that combined to lead to his ʻdeificationʼ.

参照

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