初期バイオグラフ時代のD W グリフィス監督作品
序
「グリフィス・プロジェクト」では、本年もまた昨年 に引き続き、草創期のアメリカの映画監督、 D W‑グ
リフィスの監督作品を中心にフイルムを収集し、昨年分 のコレクションと併せて「移行期」のグリフィスの活動 を概観する試みを継続する。これまでにも述べてきた通 り、この時期のグリフィスの"進化"の道筋は、単純な 図式化を拒むような錯綜した印象を与える要素が多分に ある。従って、その活動の全体像により近付くために は、個々の作品を独立的に詳細に観察しながら、一方で は、常に彼のフイルモグラフィー全体との大きな関連性 を意識すると同時に、個々の作品同士の小さな関連性に も併せて注目していく必要がある。こうした、作品同士 の様々なレベルでの有機的な関係や、他社の映画作品と の関係、あるいは時代背景や他のメディアとの影響関係
をつぶさに観察することで、彼の巨大な作品体系が含有 する価値は益々豊穣になっていくことだろう。
本論は大きく二部に分かれる。まず前半部では、グリ フィスがバイオグラフ社において監督活動を開始した 前後の状況を概略的に述べていく。それに続く章では、
個々の作品のデータを提示し、それぞれの解説を付して いく。この部分が、内容的にも分量的にも本文の中心と なる章である。こうした作業を進めた上で、それらの個 別的な観察から浮上してくる問題を考察し、今後の課題 などをも併せて検討していく。それでは最初に、それぞ れの時代区分によって分類された作品群の背景を手短か に振り返ってみる。
1.作品製作の背景
a)前グリフィス期のバイオグラフ社製作晶
グリフィスの公式の初監督作『ドリーの冒険』 (1908) 以前のバイオグラフ社の作品は、後に、一応「監督」と して分類されるW・マッカチオンのような存在を除け ば、主にG‑W ピッツアーやA・マ‑ヴインなどの優 秀なカメラマンの手で製作されてきた。この時期の作品
は、単一ショットのみで成立したごく最初期の作品様式 から始まり、時間の経過とともにショット数の増加や、
観客の時好の変化、具体的には物語映画に対する需要の 増加などに対応した作品形式の変化を経て、独自の発展 を遂げてきていた。しかし、グリフィスが作品製作に主 体的に関与する以前の1908年の前半においては、二年 ほど前から続く会社の財政状況の悪化や製作部門の弱体 化などの問題を反映した、様式的にも主題的にも停滞し
た印象を与える作品が数多く作られていた。
櫓 山 博 士
b) 1908年のグリフィス監督作品
1908年のグリフィスの監督作品は、形式的にはまだ過 渡的な状態に留まっていると言ってよい。確かに彼の初 期作品には、後年の作品に見られるような洗練された形 ではないながらも、カットバックやパラレル・モンター ジュなどの技法の萌芽や、彼特有の道徳劇的な主題がと きおり垣間見られることがあるが、彼自身が映画という 表現媒体の特性や可能性をまだ充分に把握し切れていな い様子が、それらの作品からは見て取れる。具体的には、
ショットの長さの配分やモンタージュの方法などに意識 的な関与がなされずに、初期映画特有の形式をそのまま 踏襲する場合が時々観察される。この間題が解決され、
自身の作品体系を構築するための歩を進めるには、その 活動の根幹でもある自らの主題を探りだす時間が彼には 必要だったと言うことができる。
c) 1909年のグリフィス監督作品
1909年に入ると、映画製作に伴う様々な作業にもある 程度慣れたためか、彼の初期のスタイルが徐々に固まっ てくる。また、あらゆるジャンルに手を染めたと言われ ることの多い彼の作品にあっても、主題の上で、彼が後 年まで固執しつづける幾つかのものが繰り返し現れてく るのがこの年である。別の表現をするならば、彼がある 特定の主題の反復的使用を始め、その過程で彼固有の主 題の類型化が進んだのがこの年ということになる。彼が どの段階でそれらの主題群を自分固有のものと意識した かは知る術も無いが、こうした取捨選択の段階を経て、
我々が抱く「グリフィス像」とでも呼ぶべきものの核の 部分が形成されていく。それでは、以下の段で、こうし た創作の過程を作品に即して辿ってみることにしよう。
2.作品解説
‑グリフィス・プロジェクト第二回収集作品‑
※作品名の後の( )内の英文は原題、 ㊦は撮影日、
⑥は特許取得日、 ⑧は公開日を表す。また、 <撮>
‑撮影、 <演>‑出演、 <原>‑原作、原案。
■第五巷:W・マッカチオン監督によるバイオグラフ社 製作晶(1908年)
◇この巻には、昨年度のコレクションのうち、第一巻 に収められた『質屋の老アイザック』と『透明液』 (と もに1908年製作、 W・マッカチオン監督作品)と同 様に、グリフィスが、監督としてではなく、俳優や原 作者として作品の製作に携わった作品が収められてい
蝣a.^
‑249‑
『クラスメイト』
(Classmates :彊) 1/15‑20、 ㊨ 1/27、 (砂2/1)
<撮>G W ピッツァ‑
<演>D W グリフィス、L・ア‑ヴイドスン他
<物語>
二人のハーバード大学生は親友同士でルームメイト だった。所属するフットボール・チームの遠征の途中、
彼らのうちの一人がある少女と出会い、恋をする。だが、
彼女は彼の親友の婚約者だった。チームの卒業記念試合 の最中に、彼は彼女に思いのたけを告げるが、彼女は事 情を話し、二人の親友は気まずく別れる。数年後、彼女 と結婚した親友が彼を家に招待するが、親友が席を外し た際に彼は彼女に言い寄る。彼女は夫が戻ると彼を非難
し、二人は喧嘩になる。
<解説>
グリフィスが出演者としてのみ参加している作品であ る。従って、後の彼のスタイルを努寛とさせる要素はこ の作品には含まれてはおらず、興味の対象はあくまでも 前グリフィス期の典型的な製作ユニットの一つである、
マッカチオン/ピッツアーのスタイルを観察することに ある。
作中で使用されている、実際のフットボールの試合を 撮影した部分は、おそらくは過去のニュース映画などの ストック・フイルムを利用していると思われる。こうし たストック・フイルムの使用例は、同時期のバイオグラ フ社の作品においては極めて珍しいものであると言え る。これは、製作部門の人材の流出や、投資の失敗など によって、当時のバイオグラフ社が見舞われていた困難 な製作的、財政的状況を反映した事例の一つとして認識 することができるだろう。
こうした困難な状況を映し出した当時の同社の作品で は、多くの場合、過去の作品の主題の反復的使用が行わ れていた。この作品も、ある意味では、過去にピッツアー を中心としたユニットが何度も撮影してきた、妾の不貞 を主題とした作品の傍系と言えるかもしれない。ただし、
ここでは妻は不貞を働かず、言い寄る男を拒絶するので はあるが。
『壷の中の姫君』
(Princess in the Vase : ㊦2′10 ‑ 14、 ⑥2/25、 ㊥2/27)
<撮>G‑W ピッツァ‑
<漬>D W グリフィス、L・ア‑ヴイドスン他
<物語>
舞台は古代エジプト。王女には愛人がいたが、彼女の 夫は王家の呪術師の力で密通の光景を見て、二人を死刑 にする。王女の遺体は茶毘にふされ、その煙は象形文字 で飾られた埋葬用の壷に入っていく。それから三千年後、
エジプトの象形文字を研究する大学教授が、ある墓の遺 跡から見つけ出した壷を、ボストンの自宅に持ち帰る。
彼は長旅の疲れのためか、書斎の長椅子で眠ってしまう。
掃除中にメイドがあやまって壷を割ると、中に閉じこ もっていた王女の魂が解き放たれる。同僚や妻に王女の 存在を説明できなかった教授は逃げ出し、その後を妾と 王女が追う。あるレストランで教授に王女が追いつくと、
今度は突然、彼女の愛人が現れ、彼女を非薙する。教授 は彼に立ち向かうが、妻が到着したとき、彼の持ってい た剣で怪我を負わされる。そして彼らの入り乱れた追い かけっこが始まる。だが、やがて書斎のソファから落ち て目を覚ました教授は、今まで自分の見ていたものがす べて夢であったと悟る。
<解説>
前作と同様に、グリフィスは出演者としてのみ作品に 参加している。 19世紀に隆盛を見るエジプト考古学と、
それに伴うエジプト熱に材料を求めた喜劇的作品であ る。夢オチ、追いかけ、トリック撮影などの、初期映画 特有の要素が作品に詰め込まれている。この時期までに 多くのトリック映画を作ってきたピッツアーがカメラマ
ンとして参加していることが、この作品の製作にあたっ ては大きく作用していたと思われる。
彼が撮影したこの年の作品には、煙を用いたトリック 撮影が比較的多く見られるように感じられる。そして、
その余韻は、半年後にグリフィスの監督の下で撮影され た『燥された夫』においても(この作品ではトリック技 法は用いられていないが)、煙が喜劇的状況を成立させ る重要な要素として使われている点に認められるかもし れない。
『黄禍』 (Yellow Peril :ゥ2/19 ‑ 20、 ⑥3/3、 ㊥3/7)
<撮>G蝣W ピッツアー
<演>D W グリフィス、A・オサリバン他
<物語>
召使のことで問題を抱えていた家族がいた。その家の 主人はフランス人のメイドの魅力に抗えずに彼女とくち づけをしていたところを妻に見つかってしまう。妻は新 聞広告に召使の募集広告を出し、一人の中国人が応募し た。だが、彼は全く無能な男で、書斎での用もたせず、
食堂ではそこにいた金魚を食べてしまう始末。.アイルラ ンド人の女料理人は彼を一目見た途端に嫌悪感をむきだ Lにし、窓から彼を叩き出してしまう。警官が料理人を 訪ねてきた時、中国人は鼠のかかった民を手に戻ってく
る。料理人はいすの上に乗って騒ぎ出す。騒動は、警官 が鼠括りを窓の外に放り投げるまで続き、やがて、オー
ヴンから立ち込める煙がキッチンに充満してしまう。
<解説>
やはり、グリフィスが出演者としてのみ参加したこの 作品は、マック・セネットの登場以前に作られた典型的 なスラップスティック・コメディと言える。そこには、
このジャンルでは典型的なキャラクターと言える、フラ
‑250‑
ンス人のメイド、中国人の召使、アイルランド人の料理 女と警官などが盛り込まれている。前作に続き、トリッ ク撮影を得意にしていたピッツアーがカメラマンとして 参加していることも、この作品を成功させている要因の 一つと言えよう。
八ケ月余り後に、グリフィスの監督、ピッツアーの撮 影というユニットで、今度は女料理人を主人公とし、中 国人召使を登場させない点などを除くと、それほど人物 設定が変わらない、ブラック・ヲメデイ‑ 『狂気の料理 人』が作られている。そして、その基本的な作品スタイ ルはそれほど変化していない。恐らくグリフィスは、会 社からの要請で定期的に喜劇的作品を撮ることを求めら れていたと類推できるが、その製作にあたっては、彼は それほど精力を傾注することもなく、こうした「ノルマ」
の消化に関しては、むしろピッツアーが主要な役割を果 たしていたのかもしれない。
『無法者』 (The Outlaw : ㊦5/19 25、ゥ6/11、 (昏6/23)
<原>D W グリフィス
<撮>G‑W ピッツァ‑ <演>E.デイロン他
<物語>
ジャック・モーガンは美男だが、悪名高い無法者だっ た。一方、ディック.スタンレーは駅馬車の運転手で、
ある人里離れた宿屋の主人の娘モリーに恋心を抱いてい た。ある日、ジャックは馬で宿屋を通りがかり、モリー に一杯の水を求めた。彼女はジャックに一目ほれをした が、彼はすぐに走り去ってしまった。このやりとりを見 ていたディックがやって来て、モリーにジャックに気を つけるように言うが、彼女は無視をする。しかたなく彼
は駅馬車に乗って、その場を走り去った。
少し離れた場所でジャックが待ち伏せしていた。やが て駅馬車が通ると、ジャックは銃をつきつけて駅馬車を 止め、乗客の金品を奪って逃げてしまう。ディックは駅 馬車を町に走らせて知らせる。すぐに討伐隊がつくられ、
彼を追跡する。追われたジャックは崖の淵まで追い込ま れるが、馬を捨てて崖をおりていく。崖の下の井戸端で ジャックに会ったモリーは彼を井戸の中にかくまい、近 付いてきた追跡隊に別の方角を示してやりすごす。モ
リーは彼の傷の手当をして馬を与える。
なおも追跡は続き、ジャックの馬はある小屋の近くで 足を怪我する。ノJ、屋に飛び込んだジャックと追跡隊との 間で銃撃戦が始まり、追っ手によって小屋に火をかけら れたジャックは、煙と炎に耐え切れずに小屋を飛び出す。
彼は銃弾を浴び、駆けつけてきたモリーは彼の死体を認 めて泣き崩れる。
<解説>
原作をグリフィスが提供した西部劇である。撮影は ピッツアーが担当しているが、アクションが多方向的 に(フレームの左右のみならず、その上下までをも活用 して)展開していくこの作品のダイナミズムが巧みに措
出されているのは、彼の功績によるところが大きいだろ う。元々、売れない劇作家であったグリフィスが、この 西部を舞台にした物語を、メロドラマ的な要素も加味し ながら過不足なくまとめあげている点は興味深い。だが、
メロドラマ特有の、ハッピー・エンドとは程遠いこの 作品の結末には、四年前に、やはりマッカチオン/ピッ ツアーのコンビで製作された『酒の密造者』 (1904)を 想起させる陰惨さが感じられる。
後のグリフィス作品にも度々登場する心優しき悪者の イメージは、まだこの段階では現れる余地がない(監督 としてのキャリアもまだ開始していないため、当然とい えば当然なのだが)。そのような人物を登場させるには、
彼の外面に隠されたキャラクターを表現する新たな手法 の開拓が必要であり、それは彼が後年に取り組む課題と してまだ現前はしていない。
『ケンタッキー人』
(The Kentuckian : ㊦6/9 ‑ 11、 ⑥6/27、 ㊥7/7)
<撮>G‑W'ピッツアー/A・マ‑ヴイン
<演>E・デイロン、F・アウア一、D W グリフィス、
M・セネット他
<物語>
ケンタッキーの富裕な地主の息子ウォード・ファーザ リーはルイズビルで酒とギャンブルに明け暮れる怠惰な 日々を送っていた。ある日、ポーカーでひどく負け込ん だ彼は、いかさまで負けたと難癖をつける。ウォードの 友達のコル・ワトソンが間に入って、決闘の算段を整え ると相手の男を射殺してしまう。事態を恐れたコルの助 けで、西部に逃がれたウォードは、金鉱夫となり、荒野 で暮らし始めるo
酒場で気前よくおごっていたウォードに二人のイン ディアンの悪漢が目をつけ、家路に戻るウォードを襲い、
金を奪ってしまう。三人の後を追ってきたインディアン の少女は瀕死の彼を見つけると、自分のテントまで運ん でいく。彼女の介護によって健康を取り戻した彼は,彼 女に恋をし、二人は少女の父の呼んできた神父の前で正 式に結婚をする。
数年後のある日、コルが彼の元を訪ねてくる。彼は、
ウォードの父親が死に、その遺産の相続人がウォードに なったという話をする。だが彼にはすでに妻との間に息 子をもうけていた。ウォードは自分のインディアンの妻 が故郷の社会では受け入れられないであろうことを悲嘆 のうちに自覚すると、遺産の相続を放棄し、ルイズビル には戻らない決心を固める。彼の妻は、自分のために夫 が私おうとしている犠牲に気付き、彼への深い愛情から 身をひく決心をし、自らの命を絶つ。
<解説>
パトリック・ラクニーが指摘するように、この作品に 登場するインディアンの娘に付与されている性格には、
当時のアメリカの大衆文化の中で流布していたインディ
‑251‑
アンに対するイメージ‑高貴な精神性と残虐性を併せ 持った存在‑が投影されていると思われる(1)。この作 品ではグリフィスは出演者として参加しているものの、
製作には加わっていない。だが、後年、自ら監督として 一連のインディアンものの作品を生み出していく際に、
こうしたイメージをそのまま引き継ぎ、発展させていっ たことを思えば非常に興味深い。
ある登場人物が、何らかの理由で自らが帰属する社会 から離れ、新たな社会に根付こうとするが、ある契機を もって再び本来属する社会に帰還する、という主蔵は、
典型的なグリフィス的主題の一つであり、その後、様々 な形態のヴァリアントを生み出していく。それまでの読 書体験や演劇界での経験なども考え合わせると、彼がこ のテーマを獲得した時期を同定するのは不可能だが、そ の典型的な彼の主題が、この作品のような、グリフィス の関与がほとんど認められないものの中に流れている点 を考慮するとき、これまで自明なものとして扱われてい た「グリフィス的」な要素を再考する必要に迫られるだ ろう。
■第六巻:D‑W グリフィス監督作品(1908年)
◇グリフィスが監督活動を開始したこの時期の作品に も、ときおり新たな技法上の萌芽が観察されることが ある。だが、それが連続的な発展の軌跡を措くにはま だ時期尚早である。この時期の作品からは、むしろグ
リフィス的な主題の原型のようなものを探し当てるこ との方が有効であるように思われる。
『悪党の惨敗』
(The Bandit's Waterloo ; (97/6 ‑ 8、 ⑥7/28、 ⑧8/4)
<撮>A・マ‑ヴイン
<漬>C.インスリー、L・ア‑ヴイドスン他
<物語>
南スペインでのこと。街道を行く人々を獲物にする盗 賊団が四輪馬車を襲って乗客の金品を強奪する。乗客の 中には若く美しい娘がおり、彼女の宝石を奪った彼らは、
彼女を人質として連れ去る。娘は宝石を取り戻す目的で、
首領が自分に恋をするよう仕向ける。だが、やがて警官 が駆けつけ、一味を逮捕する。巡査長は宝石を自分のも のにしようと企み、一味と娘を逃してしまう。とある旅 龍で巡査長のもとに首領と娘がやってくる。娘は巡査長 を誘惑するが、前に会ったときは娘がヴェールを被って いたため、彼は彼女に気付かない。
首領は彼に猿轡をかませて力ずくで縛り上げてしま う。首領と娘は別の旅寵に行って祝杯をあげるが、首領 は娘に巧みに酔わされてしまう。彼が眠り込んでしまう と、娘は自分の宝石を取り戻し、その場を去って行く。
<解説>
クーパ‑・グラハムの述べるように、 『国民の創生』
や『イントレランス』などの歴史劇やコスチューム劇で、
後に不動の名声をとどろかすグリフィスについて考察す る際に、この作品のような、初期のコスチューム劇を観 察することは重要であろう(2)。初期のバイオグラフ社は、
このジャンルの作品製作をそれほど得意にしていたわけ ではないが、グリフィスの参加によって徐々にこの分野 を克服し、やがては会社の人気商品にまで発展していく 大きな流れの源流の一つを、この作品に認めることがで きるかもしれない。
ただし、この作品に、後年のグリフィスの歴史劇など に見られるような、セットや衣装の細部への入念なこだ わりの片鱗を見て取ることは、時期的にまだ望むべくも なく、また、隣接ショット同士の連結法も依然、初期映 画特有のプリミテイヴな形式の範境内に収まっている。
加えて、撮影を担当しているA.マ‑ヴインが、フレー ム内空間を多方向的に活用するよりも、むしろ生起する アクションを直接的に撮影するのに長けており、特質的 には室内撮影よりも屋外での即興的な撮影に長じている ことも手伝ってか、室内セットで製作されたこの作品に おいては、画面内の空間がおしなべて平板な印象を与え ており、この作品のプリミテイヴな性格を一層、強調す る結果となっている。
『メキシコ人の長手袋(旧題:メキシコ人の筈打ち刑)』
(The Greaser's Gauntlet : ㊦7/14 ‑ 15、 ⑥8/6、 ㊥8/ll)
<撮>A・マ‑ヴイン
<演>W・ルカス、A・ジョンソン、 M・レオナード他
<物語>
メキシコ人のホセは、アメリカで一旗上げるために、
シエラ・マドレ山脈の故郷の家を後にする決心をする。
彼は母親が十字架を刺繍してくれた手袋を彼女に形見と して渡し、出発する。アメリカとの国境の町の酒場で、
一人のカウボーイが札束を見せびらかしていた。それに 気付いた酒場で働く中国人給仕が、札束を包んだバンダ ナを彼から盗むことに成功する。彼は中身を抜き取り、
ホセの足下にバンダナを落としていく。カウボーイは自 分の金が盗まれたことに気付き、ホセを犯人だと決め、
人々も彼をリンチにかけて縛り首にするため取り押さえ る。
この様子を見ていたミルドレットがホテルの部屋に戻 ると、中国人がカーペットの下に盗んだ金を隠している ところを目撃する。彼女はその金を奪って彼らのところ に駆けつけ、すんでのところでリンチを止めることがで きた。ホセは彼女に感謝し、彼女に困ったことがあった なら何時でも力になると自らの手袋の十字架に誓った。
その証として、彼は手袋を切って、手首の部分を与えた。
ホセは彼女に恋心を抱いた。だが、ミルドレットは、こ の町で鉄道を建設していた技師のトム・バークリーの婚 約者で、トムの助手のビル・ゲイツと共に彼に会うため、
この町にやって来たばかりの身だった。ビルもまた、ミ ルドレットに心を寄せていた。叶わないと知った恋心を 紛らわせるために、ホセは酒に溺れるようになった。
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五年後、ミルドレットはトムと結婚し、鉄道の完成を 祝したパーティーを自宅で開いた。トムが席を外したの を見計らって、ビルはミルドレットに言い寄り、乱暴を 働く。そこへ戻ったトムが、ビルをつかまえ、窓から放
り出した。復讐を誓ったビルは、ホセと数人のメキシコ 人を雇い、道で待ち伏せをして通りがかったバークリー 夫妻の馬車を襲い、ミルドレットをさらって隠れ家に監 禁した。そこでホセが目にしたのは、彼がミルドレット に与えた手袋の一部だった。彼は自分のたてた誓いを思 い出し、ビルを倒してミルドレットを放った。やがてト ムたちが駆けつけ、ホセに感謝の気持ちを伝えた。改心
したホセは、老母の待つ故郷の村に戻り、母親と再会を する。
<解説>
ホセが母のもとを去る冒頭のシーンと、故郷に戻って 母と再会するシーンとが類似した構図の中で措出される
ことで、物語の時間的帰結と登場人物の空間的帰結とが 合致するような円環的構造を持った作品と言える。こう した構造を、グリフィスは処女作『ドリーの冒険』以来、
好んで用いてきた。ドラマの展開上、重要な小道具であ る長手袋に施された十字架の刺繍が母親の手によるもの であることを考え合わせるならば、この出発と帰還の円 環的な物語を貫いているのは、画面に現れるのが二度の みで、アクションもごくごく限られている、不在の母の
イメージであると言えるかもしれないO
余談だが、一週間後に撮影される『宿命の時間』にも、
この作品と同様に、悪事を働く中国人のステレオタイプ のイメージが用いられている。また、これはグリフィス
の監督作品ではないが、第五巻に収められている『黄禍』
でも、問題を起こす中国人召使が戯画的に措出され、グ リフィスはこの作品に出演者として参加している。彼が、
こうしたステレオタイプの中国人像をそのまま踏襲し、
それを後の『散り行く花』にまで連なる中国人のイメー ジへと展開させていったのかどうかは場を改めて考察す る必要があるだろうが、彼の作品に登場する様々な有色 人種‑黒人、アメリカ先住民、メキシコ人、中国人、
日本人など‑のそれぞれに対する彼の微妙な態度の差 異は、その人物設定の差異からも充分に窺い知れるよう
に思われる。
『妻の名誉のために』
(ForaWife's Honor :ゥ7/28 30、ゥ8/19、 ㊥8/28)
<撮>A・マ‑ヴイン
<漬>H・ソルター、 C・インスリー、 G・ゲバート他
<物語>
成功した劇作家ア‑ヴイング・ロバートソンは夫人と 共に市中の町屋敷に住んでいた。彼が所用で家を出よう
としていたところに、劇場支配人のヘンダーソンが戯曲 の上演料数千ドルを手にロバートソン家に立ち寄った。
時を同じくして、ロバートソン家の古い友人であるフラ
ンク・ウイルソンがやってきた。ウイルソンは銀行の支 配人だが、ここのところ使い込みをしてしまっていた。
ロバートソンは、受け取った金を書斎の引き出しに入れ、
ウイルソンにゆっくりしていくよう告げて出て行った。
彼は夫人に自分の悩みを話し出した。
ロバートソン夫人は最近フランス人のメイドを解雇し たばかりで、メイドはまだ屋敷を後にはしていなかった。
彼女は夫人を恨んでおり、夫人とウイルソンが一緒にい るのを見ると、 ‑騒ぎおこしてやろうと思い立つ。彼女 は二人を部屋に鍵をかけて閉じ込め、ロバートソンや付 近の人々に、二人が密通していると言いふらし、逃げて いく。鍵はメイドが持って逃げてしまったので閉じ込め られた二人は外には出られず、そのうちにロバートソン たちがやってきた。ウイルソンは夫人の名誉を守るため に、ロバートソンが受け取った金を盗みだそうとしてい たように装う。やがて人々がドアを無理やりに開けて中 に入ってくると、荒らされた机を見てロバートソンは、
ウイルソンが金目当てでこのような事態を招いたと思 い、彼に出て行くように告げる。
<解説>
冒頭の長いショットで、物語の基本的な要素を語って しまうという、典型的な初期映画的な要素を持ち合わせ た作品であると言える。人物の登場が、フレームへの入 退出ではなく、画面右隅に設けられたドアを用いている 点が、多少の新しさを感じさせる要素かもしれない。だ が、室内場面と廊下、屋外でのドアの位置や、アクショ ンの連結などにもミス・マッチが認められる。
別の室内と室内とを同一アクションを介して連結して いく手法は、後にピッツアーとの共同作業を通して体得 されていくものと考えられるが、この時点でのグリフィ スはまだ、この手法については自覚的ではなかった、と いう事実を確認できる意味では、この作品は貴重な事例 を提供してくれていると言える。
『赤毛の少女』
(The Red Girl : ㊦8/1‑12、 ⑥9/3、 ⑧9/15)
<撮>A・マ‑ヴイン
<潰>F・ローレンス、 C・インスリー他
<物語>
金鉱夫をしているケイトは一山当てる。彼女がホテル の一室で満足そうに眠っていると、ラウンジで皆に掘り 出した金を見せて喜ぶ彼女の様子を見ていたメキシコ人 の女が、彼女の部屋に忍び込んで襲いかかり、金を奪っ て逃げていく。このメキシコ女はギャンブルで‑文無し だったのだ。彼女はあるインディアンの女に追っ手から 逃げるためテントにかくまってくれるよう頼む。うまく 追っ手をやりすごすと、彼女は、今度はインディアン女 の夫である混血のメキシコ人の男を誘惑し、二人で逃げ てしまう。
怒ったインディアンの妻は二人の後を追う。だが、彼
‑253‑
女は二人に捕まり、残酷にも川に突き出た木の株にロー プで縛り付けられてしまう。しかし、なんとか抜け出た 彼女は、追っ手のケイトらと共にカヌーに乗り込み、別 のカヌーで逃げた二人を追いかける。こうした追跡劇の 後で追いついた彼らは、川の中での格闘の末に二人をつ かまえ、ケイトとインディアンの女は楽しげに肩を組み 育‑")‑L
<解説>
『インディアンと子供』や『メキシコ人の長手袋』な どのヒットに呼応する形で製作された西部劇である。主 人公がアクション・ヒロインとして設定されている点が 異色で興味深いが、これはある意味で、後年に一般的に 認知され、人気を博すことになる、アクションする女優 の魅力を措出した先駆的な作品と言えるかもしれない。
室内場面はニューヨークのバイオグラフ社のスタジオ で、野外場面はニュージャージーのリトル・フォールズ でロケーション撮影された。
カヌーでの「追いかけ」の場面などは、同じアーサー・
マ‑ヴインが撮影を担当していたこともあり、 『インディ アンと子供』をすぐに連想させる画面作りとなっている が、追跡シーンでパラレル・モンタージュは用いられて いない。いずれにしろ、この作品もまた、 『インディア ンと子供』と同様に、自然の地形をドラマの展開に巧み に利用するグリフィスの特性が現れたものだと言えよ う。
ケイトとインディアンの女が楽しげに肩を組み合う最 後のシーンにもまた、異色な印象を受けるが、ここには 過度にシンボリックな意味が込められているわけでもな
く、エンブレム・ショットで作品を終えることを好む、
この時期のグリフィスの晴好が反映されたものであろ う。
『ズールー族の心』
(The Zulu's Heart : (98/28 29、 ⑥9/25、 (砂10/6) く撮>G W ピッツアー
<演>C・インスリー、 G・ゲバート他
<物語>
ズールー族の酋長が熱病で娘を失った。彼とその一団 は、オランダ系移民の馬車を襲い、父親を惨殺する。そ の妾と娘が逃げ出し、母親が捕まる。娘は岩陰に隠れて いたが、酋長が近寄ると、抱いていた人形を示し、母親 を返してくれるよう頼む。亡くなった自分の娘を思い出 した酋長は、娘の願いを聞き入れ、自分の集落に戻って、
母親を自由にしてやる。娘のいた場所に戻ると、彼は自 分の配下の者たちが娘を捕まえて去ったことを知る。彼 らが少女にあわや手をかけようとするとき、彼は襲いか かり、自分の手下を殺してまで少女を救い出す。娘を母 親のもとに戻すと、少女は酋長への感謝の印に大事にし
ていた人形を手渡す。
<解説>
グリフィスが好んでとりあげる、 「高貴なる野蛮人」
としてのインディアンを措いた作品で、全編、ニュー ジャージーのクリフサイドでロケーション撮影された。
登場人物の激しいアクションが作品を通じて措写され、
フレームの前後左右やオフ‑スクリーンまでも活用され たダイナミックな撮影が効果をもたらしているのは、フ レームを多方向的に活用することに長けたピッツアーが カメラマンとして参加していることが大きい。
トム・ガニングは、この作品の中で、登場人物の心理 状態と物語上の展開とを合致させる形で表現する際にグ リフィスが見せる効果的な背景の活用を指摘し、その例 として、少女と酋長との遊蓮の場面での崖というロケー ションや、最後の場面で広々とした空間を背に、崖の頂 上に酋長を配するシーンなどを挙げている(3)こうし たシンボリックな表現を可能にする点でも、やはりピッ ツアーの起用は重要な意味を持っていると言えるだろ う。
ピッツアーのカメラ・ワークの特徴の一つとしては、
フレーム内空間を広くかつ深く活用することを可能にさ せるようなカメラ・アングルを選択し、非常に構成的で
スタイリスティックな構図を用いる点が挙げられる。ま た、彼は、同僚のカメラマンのマ‑ヴインなどと比較し た場合、アクションを起こす対象のみに観客の視点が集 中するような、単線的なドラマを追い続ける画面作りよ りも、アクション主体を捉え続けながらも同時に、画 面の余白で惹起する新たなアクションを並列的に捉え、
アクション主体との連関を促すような画面作りを好む。
ピッツアーの、こうしたフレーム内空間の二重化‑の曙 好は、前グリフィス期の作品においては、単に複数のア クションを並列的に提示する手法としてのみ活用され、
初期映画の様式的範晴を踏み越えるものではなかった が、グリフィスとの共同作業を契機に、並示する対象を 変えることで、ガニングが指摘するような、新たな表現 の可能性を率む手法として変質することになる。
なお、作品の後半で、酋長を改心させる小道具とし て用いられる少女の人形は、グリフィスの原作を基に、
W・マッカチオンの監督によって製作された、前年の
『質屋の老アイザック』で登場する少女の人形を想起さ せる。こうした小道具の効果的な使用もまた、後年のグ リフィスの特徴を妨稀とさせ、興味深い点である。
■第七巻:D W グリフィス監督作品(1908‑09年)
◇この時期の作品からは、初期映画の形式と、新たに 開発された技法との混渚と乗離という、 「移行期」の 作品特有の特質が目に見える形で顕在化するように思 われる。この乗離は時間と共に徐々に明確化して行く が、 1909‑1910年にかけて発展的に解消され、彼のス
タイルの原型のようなものが形成されていく。
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『野性の叫び』
(The Call of the Wild : ㊦9/17‑25/1908、ゥ10/19、
㊨ 10/27)
<撮>G‑W ピッツァ‑/A・マ‑ヴイン
<演>C・インスリー他
<物語>
インディアン青年のレッドフェザーはフットボール界 のスター選手だった。本拠地の西部に戻り、彼の活躍を 祝する宴席で、彼が騎兵隊の士官の娘に求婚すると、無 礼な形で断られる。彼は怒りのあまりに着ていたタキ シードを引き破ると、部族の衣装を着け、酒瓶を手に森 に入■り、自分の集落に戻っていった。一族は酒に酔い、
彼の求婚を斥けた娘の乗った馬を追い回す。やがて彼女 はつかまり、彼は彼女を連れ去ろうとしたが、彼女は天 を指差して、文明の光を心に呼び戻し、文明人らしく振 舞うよう説得する。彼は改心し、悲嘆に暮れながら馬で 去って行く。
<解説>
この五年前に発刊された、ジャック・ロンドンの有名 な小説と同名の作品ではあるが、内容的には両者には何 ら関連性はない。作中ではインディアンの登場人物に肯 定的なイメージを与えることの多いグリフィスだが、こ の作品のように、 「文明」というタームによって彼らを 峻別する点は後年の作品にも時折、認められる。これを あくまでも時代的な制約としてとらえるべきなのか、あ るいはグリフィス個人の資質の限界なのかは議論の分か れるところであろう。冒頭のシーンで、人々が踊る広間 と手前の談話スペースを、カーテンによって空間的に 二重化する手法の鮮やかな効果には、ここでもまた、共 同カメラマンとしてこの作品の撮影に参加しているピッ
ツアーの手腕が強く働いているものと考えられる。
主題的には、この作品もまた、自らが帰属する社会を 離れた主人公が別の社会に同調しようとするが、ある契 機を境に、再び元の社会に帰還する、という構造を有し ている。この別離と帰還の主題は、処女作『ドリーの冒 険』以降、グリフィスが長く保持し続けることになる主 題ではあるが、その主人公が少女である場合と、青年で ある場合とでは、帰還という行動に伴う主人公の感情や 周囲の反応が大きく異なることが多い点も興味深い。少 女の帰還は大抵の場合、喜びをもって迎えられるが、青 年の帰還は、ある喪失感を胸に秘めたものであることが 多い。その原因の大半は失恋の痛手によるものなのだが、
そこには異人種間の交わり、とりわけ有色人種の男性と 白人女性との交わりを受け容れられないグリフィスの心 情(当時としては一般的な態度であろうが)が反映され ているように思われる。
最後に、この作品の冒頭の祝宴の場面にもまた、中国 人の召使いが戯画化された形で登場する。前出した幾多 の例や、 『赤毛の少女』の冒頭の酒場のシーンなどにも
見られる通り、この時期のグリフィス作品には、同様 の戯画化された中国人のイメージが集中的に登場して いる。一見したところ、有色人種に対しては、当時とし ては比較的リベラルな意識を持っていたと思われるグリ フィスだが、この作品に見られるように、彼が各人種に 対して微妙な差別意識のヒエラルキーを保持していた様 が窺える。こうした、各人種に対する彼の態度の微妙な 差異や、あるいは混血の登場人物に対する作中での過し 方は別の機会に改めて検証する必要があるだろう。
『強盗をかくまって』
(Concealing a Burglar : ㊦9/26 ‑ 28、 ㊨ 10/22、 ㊥ 10/30)
<撮>G‑W ピッツアー
<演>A・ジョンソン、 F・ローレンス他
<物語>
ブラウン夫人は、夫に急かされながら外出の身支度を 大慌てでしている。そのため、一度外した真珠のネック レスをどこに置いたか忘れてしまう。食事の間、招待客 の一人が、彼女がネックレスをつけてくるのを忘れたの を知ると、それを盗むために頭痛を装って宴席を抜け出 し、夫妻の家に忍び込む。友人たちとの歓談をすませて 夫人が先に家に戻ると、ネックレスの在り処を首尾よく
つきとめた男がまだ部屋にいた。男は自分をかくまうよ う夫人を脅し、そこに夫が帰宅する。すんでのところで 誤魔化しながらも、やがて夫人が誰かをかくまっている のを夫が知る。彼は夫人が間男を隠していると誤解する。
操みあいの末に、夫人が泥棒に向けて撃った銃声を聞き つけて駆けつけた警官が犯人を連行し、夫人への疑惑が 晴れる。夫は彼女を疑った非を悟り、謝罪する。
<解説>
これは、 「夫婦の寝室」、 「玄関ホール」、 「レストラン」
という三つの劇空間を、それぞれドアで繋いでいくこと でドラマが進展していく、グリフィスの室内劇の特徴が よく現れた作品といえる。ドアを介して連動するアク ションは、ドアの位置などのマッチングと相まって、極 めて合理的かつ円滑に処理されており、グリフィス/
ピッツアーの共同作業の成果が徐々に顕在化している様 が確認できる。また、玄関ホールの、画面に向かって右 側に配されたドアが斜めにカメラに収められているのに 合わせて、正対する奥の壁がやはり少し斜めに捉えられ ている様子も観察される。このことからは、 『大宝石ミ ステリー』 (B・ピッツアー撮影、 1905)に端を発する、
斜めに配されたドアを有した室内セットの不自然さを解 消する努力がピッツアーを中心に引き続き行われ、この 作品では一定の成果を上げていることも見て取れる。
ある意味では、バイオグラフ社の伝統的な作品主題と も言える不貞劇は、この頃になると、一方ではこの作品 のようなライト・コメディ風のものになるか、もう一方 では、この巻に収められている『報い』や、後の『閉ざ された部屋』 (The SealedRoom: 1909)のような陰惨な
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悲劇‑と至るかの両極化が促進されるように思われる。
そして、その結末を決定するのは妻の不貞の事実の有無 である。ようやくこの時期に来て、このジャンルにもま た、グリフィス的道徳観が徐々に浸透し始めている様が 観察できる好例の一つと言えよう。
『ある女の道』
(AWoman'sWay :㊦10/3 ・ 6、 ⑥11/18、 ⑧11/24)
<撮>A・マ‑ヴイン
<演>G.ゲバート、 L・ア‑ヴイドスン他
<物語>
森の奥地で暮らす老人のもとに、昔の知り合いの毘猟 師が訪ねてくる。老人には気紛れな美しい娘がいて、猟 師は彼女に一目ばれをする。彼は老人に娘と結婚したい 旨を告げるが、老人は条件に金を要求する。彼が払うと 老人は快諾し、家から出てきた娘に伝える。彼女は嫌が り、強要しようとする父親と力ずくで迫る猟師を家に閉 じ込めて逃げ出してしまう。川辺にキャンプに来ていた 家族に事情を話し、かくまってもらった娘は、そこに留
ま'**>.丁
翌日、猟師は娘を見つけ出し、船に乗せて娘を連れ去 る。キャンパーは後を追い、叫び声を頼りに、木に縛り 付けられた彼女を見つけだす。彼らが銃を猟師に向けた 瞬間、彼女は猟師の上に覆いかぶきり、撃たないよう頼 む。彼らは笑って立ち去り、猟師が挽いて改めて求婚す ると、彼女はそれを受け容れる。
<解説>
ニュージャージーの郊外で野外撮影された作品。冬場 には降雪と寒さのために、ニューヨークでのロケーショ ン撮影が不可能となるため、バイオグラフ社では、九月 の中旬からの一ケ月間をニュージャージーでの野外撮影 に充てることを慣わしとしていた。これはこの地でロ ケーション撮影された最後の作品であり、翌年から一行 は、冬場のロケーション撮影のためのカリフォルニア遠 征を実施している。撮影は、この時期の野外撮影に同行 することの多かったマ‑ヴインが担当しており、非常に スタイリスティックな絵作りをするピッツアーとは違っ た、彼特有のダイレクトなカメラ・ワークが示された作 品と言える。
物語の背景は、恐らくはアメリカ北西部の山岳地帯と 思われる場所に設定され、この地で狩猟を生業とする 人々を登場人物としている。経済的には低所得者層(い わゆるプア・ホワイト)に属する彼らのような存在を登 場させる作品を、グリフィスは後にも時折作ることにな るのだが、そこには、東部出身者とは異なった、南部出 身のグリフィスの、彼らに対する親近感が感じられて興 味(?い。
『幸臥\』
(The Reckoning: ㊦11/9‑ 10、 ⑥12/3、 ⑪12/ll)
<撮>G‑W ピッツアー
<演>H・ソルター、F・ローレンス、M・セネット他
<物語>
工場で働く夫は、たとえ賃金が低くとも、自分のシン プルな運命に満足しており、妻への愛情が、彼の仕事へ のエネルギーとなっていた。ある日のこと、彼が仕事に 出かけてみると工場は閉鎖されていた。やむなく家に戻 ると、窓越しに、妻が別の男と一緒にいるところを目撃 する。二人は夫が帰ってきた物音を聞きつけ、男は隠れ る。家に入ると、夫は隠れている男を拳銃で撃ち、命乞 いをする妻も射殺する。
<解説>
グリフィスの作る姦通劇に共通した陰惨な内容をもつ 作品であるO カメラマンのピッツアーは、前グリフィス 期に、妻の姦通の現場をカーテン越しに目撃するという 設定をもった姦通劇を何度も撮影しており、本作での セットの構造などからは、彼の影響が色濃く現れている ことが確認できる。だが、この作品とそれらの顛末の甚 だしい差異を考えるならば、両者の特質の差は歴然とし ているだろう。
室内場面と屋外の場面でのドアと窓との形状や位置の ミス・マッチや、恐らくロケーション撮影と思われる工 場の入り口の場面と、屋外場面とのセットとの間のミ ス・マッチなどに見られるような、移行期の作品特有の 不統一感がこの作品には認められる。だが、そうした形 式的な不備を越え、この時期にあって、こうした陰惨 な結末を迎える作品をすでに撮り始めている点に、グリ フィスの道徳劇のもつ、ある暗く強烈な側面が浮き彫り にされているように感じられる。前述したように、この 作品は、後の『閉ざされた部屋』などに連なる,グリフィ スの陰惨な姦通劇の原型となる作品の一つと言えよう。
『エドガー・アラン・ポー』
(Edgar Allan Poe : ㊨ 12/21 ‑ 23/1908、 ⑥2/3/1909、
㊨ 2/8/1909)
<撮>G‑W ピッツアー
<演>L・ア‑ヴイドスン、H・ヨスト他
<物語>
病床に臥した妻をかかえながら詩人エドガー・アラ ン・ポーは『大塊』を完成させた。何度も断られながら あきらめずに出版社をまわり続けた彼の作品に目を留 め、買い取ってくれたところがあった。原稿料を受け取
り、急いで妻のもとに戻った彼だったが、すでに妾は事 切れていた。
<解説>
古典的文学に依拠した作品としては、同年の『幾歳月
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の後』 (テニスン)や、翌年の『ピッパが通る』 (ブラウン) などに連なる作品と言える。書斎の窓からさす光の効果 は有名であるが、その光源については諸説があり、まだ 定説は出ていない。作中では、ポーが幻視する黒い鵜の 姿がトリック撮影されており、この技法を敬遠していた グリフィスが、あえてそれを用いた数少ないものの一つ として貴重な事例と言える。この作品の2カ月半程前に 撮影された『悪魔』においても、やはり同様のトリック 撮影が用いられている。 『悪魔』は、ゲーテの『ファウ スト』をライト・モティーフにした作品と考えられるが、
いずれもこうした古典的文学に依拠した作品の中で、彼 の数少ないトリック技法の使用例が認められるという事 実は非常に興味深い。
『ルーの心』
(The Roue's Heart : ㊦ 12/23 24/1908、 ⑥3/8/1909、
㊨ 3/8/1909)
<撮>G・W・ピッツアー
<演>0・ムーア、H・ソルター他
<物語>
生活に疲れたフランスの貴族フラマンは盲目の女流彫 刻家の訪問を受け、彼女に魅了される。だが、彼女に思 いのたけを告げても、彼女は自分の職業にも愛情にも価 値を見出してはいなかった。だが、彼が立ち去った後で、
彼女は彼に愛情を抱いていることに気付き、彼がいなく なったことを嘆く。彼女の悲嘆を知った子供のモデルが、
それをフラマンに告げると、彼は彼女の愛情に応える。
<解説>
グリフィスによる時代もののコスチューム劇である。
地域や時代的な設定が異なるため、一概に比較の対象に はならないかもしれないが、この作品の中の、念入りに 作られたセットや衣装の豪華さを目にするとき、たとえ ば、 『悪党の惨敗』と並べた場合、その質的な差異に隔 世の感を抱かされる。また、女流彫刻家と貴族との仲立 ちをする子供の存在に、後年のグリフィス作品に登場し、
ドラマの展開に重要な役割を果たす子役の面影を重ね合 わせることができるかもしれない。
『インド人の短剣』
(The Hindoo Dagger : ㊨ 12/23 29/1908、 ㊨ 2/17/1909、
⑪ 2/18/1 909)
<撮>G‑W ピッツァ‑
<演>H・ソルター、M・レオナード他
<物語>
ジャック・ウィンダムのもとに子包みが送られてく る。中を見るとインドの短剣が入っていた。彼は妻の不 貞への疑惑を抱いていたが、それはやがて確信に変わっ た。彼女が見知らぬ男と一緒にいたところを押さえたの だ。インドの短剣を手に逃げる男を追いかけた後、彼は
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妻を突き刺した。運よく命拾いした彼女は、愛人と再婚 する。だが‑年後、彼は彼女をこの短剣で刺殺し、自殺 する。
<解説>
ペーパー・プリント版に収められている作品のショッ トの順番が、本来のものとは異なり、相前後しているた め、作中で引き起こされる事件が陰惨であるにも関わら ず、初見では混乱を引き起こすだけの結果に終わってい るのが残念に感じられる。また、バイオグラフ・パル テインで語られているような短剣の魔術的な力や、ウィ ンダムのもとに送られてきた旧友からの小包の経緯も未 消化のまま、物語が終わってしまう(4)。
この作品もまた、一連の陰惨なグリフィス的姦通劇の 特徴を兼ね備えたものである。妻に不審を抱いた夫が、
階段の陰に隠れて間男をやり過ごす手法もまた、空間の 二重化のヴァリアントの一つと言えるだろう。だが、同 様の主題をもつ先行作品、たとえば一カ月半ほど前に撮 影された前出の『報い』などと比較するとき、この作品 の質的差異は歴然としている。それが如実に現れている のが、セットのリアリティーが格段に向上している点で ある。
『報い』もこの作品も、屋外で撮影されたショットを 含んでいる点は共通している。だが、たとえば、本作で 凶行が行われる浴室のセットは、屋外ショットのもつリ アリティーとよく括抗した仕上がりになっており、それ らが連結されるとき、ミス・マッチを意識させない統一 感を醸成させることに成功している。 『報い』における、
セット撮影によるショットと、屋外ショットとの間に横 たわる埋められない違和感を目の当たりにするなら、グ リフィス作品における質的な分水嶺の一つをこの時期に 定めることは、充分に根拠のある行いであろう。
■第八巻:D・W・グリフィス監督作品(1909年)
◇この時期になると、あからさまなミス・マッチなど もなくなり、たとえ形式的な混渚が見られる場合でも、
極端に作品が分裂しているような印象を与えるものは 減少して行く。そして、ある種の統一感を感じさせる 作品が多くなって来るのもこの頃である。
『恋は方策を見つけだす』
(Love Finds a Way ㊦ 12/31/1908、 1/4/1909、 ㊨ 1/12/1909、 ⑧ 1/ll/1909
<撮>G‑W ピッツアー/A・マ‑ヴイン
<漬>A・ヘンドリー、 H・ソルター他
<物語>
フランスの騎士と公爵の娘は互いに愛し合っている。
だが、公爵は自分の娘を別の者と結婚させたいと望み、
結婚が公式に発表された。だが、騎士は友と共に結婚式 に乗り込み、彼女の結婚相手を縛り上げ、彼の衣装を 奪ってしまう。公爵は騎士に謝罪し、二人の結婚は認め
られる。
<解説>
喜劇的要素も感じられる、別のコスチューム劇であ る。ラッセル・メリットは、この作品はバイオグラフ社 がMPPC(モーション・ピクチャー・パテント・カンパ ニー)に参加した後に製作された最初のもので、製作予 算が大幅に増加した影響が作品に如実に現れていると述 べている(5)。確かに、時代ものの衣装の再現が細部に至 るまで行われている点には、こうした製作背景の変化が 反映しているものと思われる。
この時期になると、宮廷劇や文芸作品に触発された 様々なコスチューム劇の製作を手がけてきたこともあ
り、経験に裏打ちされた自信のようなものが作品からは 感じられる。そうした確かな自信の生む余裕が、この作 品のもつ喜劇的な要素を生み出す要因として作用してい るのかもしれない。
『これらの少年たち!』
(Those Boys! : ㊦1/5/1909、 ⑥1/19、 ㊥1/18)
<撮>G‑W ピッツアー/A・マ‑ヴイン
く演>A・へンドリー、 F・ローレンス、L・ア‑ヴイド スン他
<物語>
子沢山の一家の主人がピストルを持って家に戻る。夫 人は反対したが、彼は気にせず、引き出しの中へそれを しまった。いたずらな二人の兄弟がピストルを見つけて 遊びだす。姉妹たちが屋根裏部屋を探検しようと二階に 上がり、ドアを閉めてかくれんほをする。少年たちもピ ストルを手に二階へ上がる。一人の少年がドアに玩具の 的をつける。それを狙うもう一人の少年と、ドア越しに 息をひそめる姉妹たち。ピストルが無くなっていること に気付いた母親とメイドが大慌てで二階へ向かう。間一 髪のところで事なきを得る。
<解説>
冒頭の非常に長いショットで、物語の大半の要素が語 られている。その中では、それぞれの登場人物が、フレー ムへの入退出を繰り返すことによってドラマが形成され ていく。こうした、初期映画の典型的手法によってこの ショットは構成されている。
一方、最後の二階の部屋の場面では、姉妹のいる右側 の部屋と、ピストルを手にした左側の部屋とを壁をあら わす象徴的な仕切り線で仕切るという、空間的二重化の 手法が用いられている。一人の少年がドアに玩具の的を 貼り、それを本物のピストルで狙う。その的の貼られた ドアの向こうには少女たちが座っているという危機的な 状況が措かれた後で、母親とメイドが駆けつけて事なき
を得る。
こうした典型的な「ラスト・ミニツツ.レスキュー」
の要素を持つドラマが、パラレル・モンタージュを用い
ることなく提示される。その理由としては、当時の編集 技術の慣例上、並行する二つのアクションを交互に示す には、それらのアクションが進行する場所がかけ離れて いなければならないと考えられていた点が挙げられるだ
ろう。
こうした新旧形式の混猪は、この時期のグリフィス作 品には特徴的に見られる性質と言える。だが、冒頭の ショットは、形式的にはプリミテイヴなスタイルを踏襲 しているとは言えるものの、初期映画に見られるような、
あまりに冗長な印象は与えることはない。その理由の一 つとしては、カメラの被写体‑の接近が考えられる。こ れにより、登場人物の表情や仕草についての、より詳細 な情報が観客に伝えられ、物語の展開が過不足なく理解 される。
さらに別の理由としては、人物のフレーム‑の入退出 によってもたらされるエピソードの内で、物語の主要な 展開に無関係な要素が周到に排除されている点が挙げ
られる。以上の点を考え合わせるならば、この冒頭の ショットは、物語の展開をさまたげるような不必要な情 報を排除するという、古典的技法の特徴の萌芽を宿し、
それを初期映画的な手法で描出するという性質をもっ た、ユニークな事例の一つとして数えることができる。
『悲劇的な恋』
(Tragic Love : ㊨ 12/28 30/1908、 1/12/1909、 ㊨ 2/8/1909、 @ 2/ll/1909)
<撮>G‑W ピッツアー/A・マ‑ヴイン
<演>D・マイルス、L・ア‑ヴイドスン、 F・ローレン ス、A・ジョンソン他
<物語>
ランキン夫妻の喧嘩の仲裁に入ったことがもとで、ボ ブ・スポールデイングは夫人に恋心を抱くようになる。
だが、彼はなかなか自分の思いを告げることができず、
近くのバーに入り、自らを慰める。しかし、彼の酒に薬 を入れて、彼の財布を盗もうと企むものがいた。まんま と盗みを成功させた悪漢は、彼の所持品からランキン家 の情報を得て屋敷に忍び込み、ランキン氏を射殺してし まう。薬がまだ抜けきらないボブはふらふらとランキン 家を訪ね、死んだランキン氏とピストルを発見する。そ こに帰ってきた夫人は驚くが、彼は自分の無実を彼女に 訴え、町を後にする。仕事を変え、しばらく経ったある
日のこと、新聞でランキン氏殺害事件の真犯人が捕まっ たことを知る。彼は元の町に戻り、ランキン夫人を訪ね
る。彼の思いは受け容れられる。
<解説>
人妻に恋をする主人公を登場させるグリフィスの作品 の多くでは、その恋が成就される場合には、大抵、何ら かの理由で夫が命を落とすというドラマ設定が用いられ
る場合が多い(たとえば、 1913年の『死のマラソン』な ど)。そこには、夫の生前に妻が他の男性と交わる場合
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には、たとえどのような理由があろうとも、それを断罪 してやまないとする、グリフィスの強固な倫理観が反映 していると思われる。そして、この作品もまた、そのよ うなグリフィスの道徳意識に貫かれたものの一つと言え る。
夫は、強盗の侵入によって、いささか唐突に命を落と すが、こうした他者の侵入によって、物語が急激に展開 する特徴もまた、グリフィス作品には散見できるもので ある。
『彼の妻の母親』
(His Wife's Mother :ゥ1/25 26/1909、 (83/3、 (昏3/1)
<原>F‑E ウッズ
<撮>G‑W ピッツァ‑/A.マ‑ヴイン
<演>J‑R カンプソン、D・ウェスト、F・ローレン ス他
<物語>
ジョーンズ氏は妾の母親が突然来訪する旨を知っで慌 てる。さらに母親が彼に禁煙と禁酒を命じると、彼の恐 怖は確固としたものになった。心理学の逆手をとって、
彼は母親に親切に接するようっとめる。彼女にお土産を 買い、彼女を外に連れ出し、酒を振舞ったりする。ジョー ンズ夫人は嫉妬にかられる。母親が酒に酔って帰宅し、
ジョーンズ氏にキスをするところを見たとき、ジョーン ズ夫人は母親の荷物をまとめて家から追い出す。
<解説>
グリフィスのフイルモグラフィーの中では珍しい、有 名な喜劇的な作品群である「ジョーンズ・シリーズ」の 一つである。シリーズものの作品としての性格上、物語 や舞台の設定や演出法、あるいは編集技法上の新たな展 開などの発見は期待できないが、ルーティーン.ワーク
としての作品製作の手堅さが感じ取れる出来になってい る。
『彼の被後見者の恋』
(His Ward's Love : ㊦1/29、 ⑥2/13、 ㊥2/15)
<撮>G・W・ピッツアー
<演>A・ジョンソン、 F・ローレンス他
<物語>
ハウソン尊師には被後見人の娘がいた。彼女は彼を愛 していた。彼女が呼ばれて中庭に出てみると、見慣れな い男がいた。彼はハウソン氏の友人のジェラルドだった。
彼は彼女に友人を紹介して、婚約をさせようとしていた。
彼女は拒んだが、彼は友人を受け容れるよう説得する。
彼女も最初は折れたが、結局この申し出を断った。彼女 の落としたものを拾ったハウソン氏がそれに口付けをし ているのを見つけたとき、彼女はハウソン氏も彼女のこ とを愛していることを知る。彼らはお互いの思いを確か め合う。
<解説>
三分弱の非常に短い短編作品である。ハウソン氏の執 務室と中庭の二つのセットのみで場面が構成され、二つ の空間は正面に正対しているドアによって繋がれてい る。恐らくは、過密なスケジュールの中で短時間で撮影 された作品のようである。そうした限られた状況の中で も、たとえば冒頭の執務室の場面では、娘がフレーム上 部から登場する階段を設えてあるなど、空間的な広がり を見せるような最大限の努力は見てとれる。
細かな設定などは異なるものの、少女と後見人とが結 ばれるという点では、後の『教師と浮浪児』 (1912)な どの作品に繋がる要素を備えた作品と言えるかもしれな
SB
『プロシアのスパイ』
(The Prussian Spy : ㊦2/1、 ⑥3/1、 ⑧3/1)
<撮>G‑W ピッツァ‑
<潰>M・レオナード、H・ソルター他
<物語>
フランス軍士官のロペ伯爵はフローレンス嬢に自分の 思いを拒絶された。彼女はプロシアのスパイを愛してい たのだ。彼が、フランス軍の追跡を逃れて、彼女の家に 逃れてくると、彼女は彼をクローゼットの中にかくまう。
伯爵が彼を追って、彼女の家にやってくる。家中を探し てクローゼットの前に来たとき、彼はその扉に向かって 射撃訓練を始める。彼女はメイドを屋根裏部屋に向かわ せて、スパイを放出させようとする。だが、もう一歩の
ところで願いは叶わず、彼は射殺されてしまう。
<解説>
この作品もまた、 『これらの少年たち!』と同様に、
冒頭の非常に長いショットの中で、物語の大半の要素 が語られている。それぞれの登場人物が、ドアやカー テンなどを介したフレーム‑の入退出によってドラマに 参加するという、典型的な初期映画的手法によってこの
ショットは構成されている。
その一方で、スパイを救おうとするメイドと伯爵が扉 に銃を打ち込むシーンとがパラレル・モンタージュで交 互に示され、サスペンスの表出が試みられている。だが、
ここでは「ラスト・ミニツツ・レスキュー」は成就せず、
スパイは射殺されてしまう。
物語の性質は全く正反対といってもよい位に異なりな がらも、形式的には『これらの少年たち!』と非常に似 通っているという、極めて興味深い特徴をもったこの作 品は、新旧形式の混渚が見られる、この時期のグリフィ ス作品に特有の性質を示す別の例として見なすことがで
き 'サ>J
『道化の復讐』
(A Fool's Revenge : ㊦2/11 12、 ⑥3/8、 ㊥3/4)
<原>トム・テイラー『道化の復讐』
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