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メイエルホリドとその「ダブル」(分身)

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(1)

はじめに

 ロシアにおいて20世紀前半に活躍していた

V.

メイエルホリド(1874−1940)

による演劇の特徴の一つとして、「プロセニアム・召使い」( ) という特殊な役柄が挙げられる。彼らは、主に俳優たちのスムーズな演技のため の補佐役者として舞台に存在し、観客の目の前で俳優の衣装替え、装置の入れ替 え、小道具の手渡し、必要に応じて端役の役者などという機能を担っていた。

 メイエルホリド研究者の間では、そのような登場人物の使用は、演出家として のメイエルホリドにおける日本演劇の影響の一つとしてしか考えられてこなかっ た(1)。さらに、メイエルホリド自身が彼らに関してほとんど言及しなかったせ いもあって、上演における技術的な側面および装飾的(外見や装飾の補助)とい う機能に限られている人物として取り扱われてきた。しかしながら、1914年4月 にテニシェフスキイ名称専門学校で上演されたА

.

ブローク『見知らぬ女』と『見 せ物小屋』(2)における「プロセニアム・召使い」の役に、当時メイエルホリドが 指導していたスタジオ(3)の一番才能がある生徒を選び、また自分自身も「プロ セニアム・召使い」の一人として舞台に登場したという事実を考慮すると、メイ エルホリドは「プロセニアム・召使い」を日本演劇の「後見」のような舞台助手 として考えていただけではなく、より重要な存在意義を見出していたと推測でき るだろう。

 本論では、メイエルホリド演出による『見知らぬ女』の公演において、「プロ セニアム・召使い」がどのような機能を担っていたかを分析し、その存在が機械 的特質を帯びていたことを明らかにした上で、その機械性がメイエルホリドの演 劇観に直結したものであったことを明らかにする。

1.作品概要

A.

ブローク作、メイエルホリド演出の『見知らぬ女』は1914年4月7日から 14日にかけて上演された。前半に『見知らぬ女』(初演)、休憩を挟んで後半に同

メイエルホリドとその「ダブル」(分身)

――『見知らぬ女』の演出における

「プロセニアム・召使い」を巡って――

エレーナ・イブラギモワ

(2)

じくブロークによる『見せ物小屋』(再々演)と言う構成であった(4)。『見知ら ぬ女』と『見せ物小屋』は共通して主人公の一人が「美しい婦人」であり、彼女 の到来を予期するモチーフは戯曲に共通するテーマである。以下で『見知らぬ女』

のあらすじを述べる。

 戯曲は「幻影」と呼ばれる三つの場面から成っている。第一「幻影」は居酒屋 で始まる。酔った客が下品な対話で時間をつぶす。そこに世界で一番美しい女に ついて空想している詩人が現れ、自分の夢を神学生に明かす。第二の「幻影」の 場所は河に掛かる橋である。二人の庭番が酔った詩人をつれて去る。橋の上で占 星術者が星が落ちて行くのを眺めている。星が落ちた瞬間に美しい女が橋をわ たってくる。彼女の後で橋に「空色の男」が上がる。女は彼に恋について訪ねる が回答をもらわず、女は例の男に連れ去られる。第三「幻影」は上流家の客間で ある。その雰囲気と対話の内容は第一「幻影」の居酒屋を連想させる。例の男に 連れられてきた美しい女も客の中にいるが、詩人は彼女が自分が夢見た女だと気 付かない。客間から美しい女が消えて行く際、客間の窓に見える空にはまた星が 輝く。

 メイエルホリドの演出理念と準備の様子がわかる資料によれば、『見知らぬ女』

が通常の場面ではなく、三つの「幻影」から構成されているということをメイエ ルホリドが戯曲の演出前提にしたということが分かる。また、メイエルホリドは

『見知らぬ女』が「一つの心の中の出来事」(モノドラマ)である」

(下線は原文

のまま)

qtd. in Мейерхольд и другие 314

)ということを演出ノートに記述して

いる。

 また初演直前の予告記事には、メイエルホリドの上演の目的が、「メイエルホ リドが伝道するグロテスクの理念および非現実性、著しい印象や情緒的な親しみ に満ちている人造の夢の演劇」(下線は原文でイタリック)

qtd. in

Мейерхольд

и другие 312の理念を見せることであると書かれている。そしてこの資料には

元々戯曲にはない「プロセニアム・召し使い」に関しての説明もある。記事によ れば「プロセニアム・召し使い」の使用目的は、「現在、演劇においてあまりに も感じられない、打ち解けた(親しい)雰囲気および観客や役者との間に生き生 きした触れ合い」を作り上げることであると書かれている(

qtd. in

Мейерхольд и другие 312)

 しかしこの上演は、当時の批評家にも観客にも理解されなかった。戯曲の作者 であるブロークもメイエルホリドの演出が理解できなかったという事情もあっ た。最も不評だったのは「プロセニアム・召使い」の存在であり、彼らの存在は 邪魔なものと考えられたのである。そしてメイエルホリド研究においても『見知 らぬ女』の上演およびその特徴が注目されることはあまりなかった。しかし、メ

(3)

イエルホリド演劇における「プロセニアム・召使い」の意味を考えるためには、

重要な作品であると思われる。

 『見知らぬ女』上演の際、「プロセニアム・召使い」が何を担当したのかは芝居 の参加者と観察者の回想から明らかになる。以下長くなるがズノスク・ボロフス キイの回想を引用する。

  

最初のシーンは居酒屋が舞台となっている。いかなる役も演じないが、舞台 設置作業のために「プロセニアム・召使い」として特別に動員されていた一 部の俳優たちは、特別の目立たない衣装を着て、リズミカルに動きながら テーブル、椅子、カウンターを運び込んだ後、一番奥で長い竹棒で緑色の張 り幕を上げた。そのとき、薄暗闇の中に俳優たちがボトルやグラスを持っ て、努めて気付かれないようにテーブルに置きつつ席に着き、ほんの少しの 沈黙があってから、低い声で笑い始めるとともに、どよめき、観客を居酒屋 の雰囲気に引き込んでいた。「プロセニアム・召使い」の一人はどんなとき でも床の上に座って、プロンプターの役を果たしたが、そっと台詞を教える のは、誰かが台詞を忘れた時に限られた。このシーンが終わってテインパ ニーの音が響くと、張り幕の上端を押さえていた前舞台の「プロセニアム・

召使いたち」は、俳優たちの上に張り幕を広げながら前に出てきて、彼らを 通り過ぎると、張り幕の端を降ろしたので、俳優たちは観客から見えなくな り、小道具をすべて片付けながらあっというまに退場していった。そのとき、

奥にいる前舞台の召使いたちは、こっそり椅子に上がって、張り幕の強大な 端を持ち上げるだけであったが、張り幕は白色で、観客の前は白い壁であっ た。同時に舞台の周りににいた他の「プロセニアム・召使い」は、両側から 木製の組み立て式の橋を引きずってきて、舞台では新しい一団の「プロセニ アム・召使い」が金色の星々ついた青色の張り幕を持ち上げた。打から、前 部の白い張り幕がおりた時、観客の前には、星々が心地よく散りばめられた 空を背景に、橋がコブのように見えていた。(中略)最後のシーンには、フッ トライトを風刺的に表現しながら、「プロセニアム・召使い」たちは、舞台 の前で蝋燭を手にひざについた。(中略)見知らぬ女が消える時間がやって くると、彼女は単に張り幕の間に去り、窓辺では「プロセニアム・召使い」

が、棒に載せて支えている水色の星に火を灯した。テインパニーの音に合わ せて、再び張り幕が家具の上に落ち、フットライトを表していた「プロセニ アム・召使い」は、星のついた張り幕を立ち上げると、真ん中から引きはが し、戯曲で語られる船のように持ち去った。戯曲は終わった。(Мейерхольд в русской театральной критике I 287-288)

(4)

 「プロセニアム・召使い」は、このように鮮烈な印象を観客に残している。上 演において「プロセニアム・召使い」は芝居をスムーズに進行させるための舞台 助手としての機能(プロンプター、俳優たちに小道具の手渡し、舞台装置の交換、

衣装替えなど)を担っていたが、それだけにとどまらず、演出の理念を表現する 重要な役割も果たしていたと考えられる。次節から、具体的に考察していく。

2.「プロセニアム・召使い」の機能

2.1.演技場における適切な雰囲気の創造者として「プロセニアム・召使い」

 「プロセニアム・召使い」は役者たちが使用する小道具を手渡すだけではなく、

自分たちも小道具を使用していた。とりわけ、『見知らぬ女』の上演においては さまざまな布が使用された。例えば、上演はプロセニアム・召し使いの登場から 始まったが、彼らは前舞台の前面に敷かれた青色の絨毯の上の鮮やかな敷物を取 り、それをおごそかに舞台から持ち運んだ。それは芝居が開始するという合図で あった。また、先に記述した大型の張り幕の出し入れの他に、第二の「幻影」の 登場人物に「プロセニアム・召使い」は降っている雪を象徴するヴェールをかけ た。そして、「空色の男」という主人公が橋で消える場面では、空色の男を演じ ていた俳優を「プロセニアム・召し使い」が青いヴェールで全身を巻いて、その 主人公が橋の後ろに寄せ掛けられたはしごを降りるのを手伝った。

 舞台における、このような象徴的な布を含めた物の使用、または、その物を取 り扱う「プロセニアム・召使い」に関しては、メイエルホリドが日本演劇から着 想を得たものであるというこがこれまでよく指摘されてきた。

時にはモノが、舞台上では独立的な役を演じる。何もない舞台に投げたマン トが観客の注目を浴びて、舞台上で俳優に残された花が演技を完成させる役 を演じる。そのような技は、日本の劇と中国の劇の俳優がよく使う。そこで は客席と舞台を繋ぐ特別な前舞台が設置されていて、そこで行われている演 技が特別に強調された意味を得ている。例えば、そこに残されている金襴は 登場人物になる。それは物体であるのだが、喋れるようにもなる。それ自体 が、かすかな音を出すだけではなく、時には叫ぶこともできる。

 ( …32)

 メイエルホリドに、そのような日本演劇の特徴を紹介したのはドイツの演出家 の

G.

フックスの著作である。その一つである『演劇の革命』(1909年)には、下 記の引用がある。

(5)

日本の演出家が場面を切り替える場合、脚本の心理的な運びに従うが、それ は本当に見事としか言いようがない。たとえば、一組の男女が初めごく他愛 のない会話を楽しむ場面があるとする。その会話が突然、深刻な不吉な方向 へと切り替わる。するとたちまち色彩のハーモニーも切り替わるのだ。最初 は、たとえば明るい緑と桜の花がハーモニーを作り出していたとすると、い まや突然、外套が肩からするりと落ち、背後には緋の衣裳を着た端役が数人 立ち現れ、必要な道具、祭壇や敷物を運んでくる。色彩のハーモニーは一度 に血のような赤と黒に変わる。それは、わがヨーロッパの自然主義の芝居に おいて、今なお非常にうさんくさい形で安易によく使われる、機械による雷 や嵐の音の類より、はるかに不気味で恐ろしい。

(qtd.inサン・キョン・リー 114)

 このような非リアリズム的手法は、1912年にメイエルホリドが行ったストリン ドベリの『罪、また罪』の演出において使用された。主人公の対話の際「プロセ ニアム・召使い」がたくさんの大きな黄色い花を舞台に持ち運ぶ。その動作によ り、上演において「(…)黄色が「背信」のモチーフとなる。(…)第五幕、犯し た罪の大きさが明らかになる瞬間にたくさんの大きな黄色い花が舞台に運び込ま

れる」( …I243)ということが意図されていた。

 既述の事実を考慮すると、『見知らぬ女』においては、「プロセニアム・召使い」

は、舞台上、特にプロセニアム(第二の「幻影」)のスペースにおいて、舞台上 に出ている布など、あらゆる物により重要なアクセントをおき、そのことによって観 客の関心(芝居に対する注意)をコントロールすることができたと言えるだろう。

 舞台の背景あるいは、張り幕の背景で灰色の衣装と半仮面を冠っていた「プロ セニアム・召使い」は、舞台上で静かに素早く動き、自らも「幻」あるいは「影」

であるという印象を観客に与えていた。( 206)また、彼らの衣装と背 景の張り幕の色が同系であったことから、主人公の周りに非現実的で神秘的な雰 囲気を造っていたのではないかと考えられる(5)

 芝居進行を見れば、適切な雰囲気の創造者として、「プロセニアム・召使い」

は休憩の時にも活躍していた。メイエルホリドはスペイン劇を例に挙げ、カルデ ロンの作品の間にセルバンテス作の幕間劇がよく上演されたという習慣に言及し ている。彼は、こうした習慣においては悲劇の場面の間に喜劇を入れることによ り、つまり、グロテスクな手法を挿入することにより、観客のテンションを調整 したのだと確信していた。( …32)この上演の前半『見 知らぬ女』が終わった後、休憩の時にも「プロセニアム・召使い」は観客が芝居 に対する関心を失わないように登場していたと思われる。休憩の際舞台には中国

(6)

軽業師の二人の少年が上がって金ボールの曲芸を披露していた。その後、二人の 女性の「プロセニアム・召使い」が大きなテーブルクロスでオレンジを持ち出し、

それを観客に配った。その芝居の段階の様子の描写は観察者によって異なってい る。例えば「プロセニアム・召使い」の役で登場していたグリーピチの回想によ ると、「プロセニアム・召使い」はいたずらとして、芝居に対し憤慨を見せてい た観客にオレンジを投げた。批評家であるボブリーシェ・フープーシキンの報告 には、劇場を出ようとする観客の足にオレンジが散乱していたが、メイエルホリ ドからの仕返しを恐れて「オレンジを取ろうとする観客はあまりにもいなかっ た」という記録がある。また、ミハイローフはオレンジを投げ合う観客の様子に ついて回想している。舞台上に起きている出来事に対して観客の関心(注意力)

が薄まる(弱くなる)休憩時間に、観客を解放するのではなく、メイエルホリド は観客を演劇に取り込もうとして「プロセニアム・召使い」を登場させていたと 考えられるだろう。そしてここには「プロセニアム・召使い」のもう一つの重要 な機能が見られる。それは、観客と役者との間に「親しい関係を作る」、つまり、

舞台と客席を繋ぐ媒介者としての機能である。それは、具体的に何のことであっ たのかを見ていきたい。

2.2.舞台次元と客席の次元を繋ぐ媒介者としての「プロセニアム・召使い」

 既述のように、メイエルホリドが舞台において「プロセニアム・召使い」を登 場させた目的の一つは、観客と役者との間に「親密な関係を築く」ことにあった。

メイエルホリド自身は、「プロセニアム・召使い」の一人の、橋に現れる「見知 らぬ女」に白いヴェールをかける敬虔な感情や、「空色の人」の大きな青いマン トを整えるもう一人の「プロセニアム・召使い」の感情に、観客を同化させるつ もりであった。実際、劇全体に対する「プロセニアム・召使い」の敬虔な態度は 観客に伝わったという報告が、観客の回想に見られる(6)

 つまり「プロセニアム・召使い」を使用したメイエルホリドの狙いは、観客に 芝居を「プロセニアム・召使い」の目で観察させることにあったと言えるだろ う。そういう意味で、芝居は、実際には劇中劇の構造を持っていたということが 分かる(7)。そして劇空間の構造は、同時に存在する三つの次元、つまり戯曲の 主人公の世界の次元、戯曲の世界を体現する「プロセニアム・召使い」の次元、

そしてその舞台化する過程を観察している観客の次元に区別することができるだ ろう。戯曲世界の次元と観客の次元との間に存在する彼らの動作により、「プロ セニアム・召使い」は、観客を戯曲の次元に引き込んだりした。例えば、第二の

「幻影」は前舞台、つまり観客から非常に短い距離で上演されたため、「プロセニ アム・召使い」は、手に持っていたヴェールで時々観客に触れたことにより、あ

(7)

るいは休憩の際、観客に演技をさせたりことにより、観客も演劇が成立する過程 に関与しているという感覚を獲得していただろう。

 しかし同時に、「プロセニアム・召使い」は、第三「幻影」では、手に蝋燭を 持ち、前舞台にひざで立ちながら、後ろの舞台に向かって人工的なフットライト を創りだすことにより主人公の次元と観客の次元との間の境界の存在を強調して いたとも言える。

 このように、同時に全く逆の目的を果たすような役割を担う「プロセニアム・

召使い」は両義的な存在であった。つまり、観客と同次元の人間的存在であると 同時に、人工的な別の次元をも開示していたと考えられるのである。

2.3.技術的な機能の担当者として「プロセニアム・召使い」

 上演において「プロセニアム・召使い」は機械的な操作も担当していた。例え ば、それぞれの場面(幻影)では空間の背景は竹の長棒に付けられている張り幕 であったが、「プロセニアム・召使い」がその張り幕を持ち上げる行為が場面の 開始というサインになり、そして場面が続く間それをずっと持ち上げていた。そ して布を下げる動作が場面の終りを意味した。また、『見知らぬ女』の戯曲にある 星の転落の場面も、機械によってではなく「プロセニアム・召使い」より行われた。

一人のプロセニアム・召使いがベンガール火をともし、もう一人の召使い が、その先に火を載せた長棒をゆっくり暗いホールの天井から半円を描きな がら床に下ろしている。もう一人のプロセニアム・召使いが、飛んでいる

<星>に向かって舞台を走って、落ちる<星>を手に握った容器でつかむ。

<星>が落ちるところには、『見知らぬ女』を演じる女優が現れる。

( 38)

 つまり、この公演において、通常は機械が果たすような役割を、「プロセニア ム・召使い」が担っていたのである。彼らは場面が変わる際に舞台装置の転換を 観客の目の前で行なうと同時に、場面の中でも舞台装置を持ち、その場面が終わ るまで舞台上に留まることにより、舞台上で起こることの人工的な性質が強調さ れていたと言えるだろう。観客をイリュージョン世界に導くことを助ける機械を 用いるのではなく、「プロセニアム・召使い」を使用することにより、メイエル ホリドが追求していた「

uslovnui teatr

(8)の条件の一つを満たしていたのではな いかと考えられる。その条件とは、観客が、「今自分の前にいるのが演技してい る俳優であることを片時も忘れない」(メイエルホリド63)というものである。

 しかし、メイエルホリドは舞台上で機械的なものを完全に拒否していたわけで

(8)

はない。彼は、単に機械の機能を「プロセニアム・召使い」に移していたのでは なく、「プロセニアム・召使い」自身が持つ機械性を強調していたのである。例 えば、公演を見ていた観客の回想では、「プロセニアム・召使い」の特徴として リズミカルな動きが挙げられている。

「プロセニアム・召使い」のすべての動作は非常に細かく決定されていて、

その動きはバレーダンスのように正確であった( 132)

 ここから、芝居をスムーズに進行させるために補助的な機能を果たすのみなら ず、「プロセニアム・召使い」は正確なリズムを刻むことによって芝居全体をコ ントロールしており、いわゆる「メトロノーム」のような役割を果たしていたこ とがわかる。初演において『見知らぬ女』の「転落する星」の場面において、ベ ンガール火の点灯を担当していた「プロセニアム・召使い」の一人はなかなか火 を付けることができず、そのため芝居進行に生じた停滞は観客にも認知されてい た。メイエルホリドはこのことに怒りその役者を「がさつ者」(木偶の坊)と呼 ばわりしたという。この回想からは、メイエルホリドにとって芝居のテンポが重 要であり、そしてそのテンポを保護する「プロセニアム・召使い」という役割が 重要なものであったということが分かる。

2.4.俳優の出遣いとしての「プロセニアム・召使い」

 『見知らぬ女』と同時に上演された『見世物小屋』は、『見知らぬ女』と異な り、準備段階や上演特徴を明らかにする資料は乏しい。人形劇の形で(俳優は人 形を演じていた)初演された『見せ物小屋』は、当時、酷評されたが(9)、メイ エルホリド自身は、その演出こそ、彼の進むべき道を決定させたものであるとよ く語っていた。

 『見せ物小屋』を演出して以降、メイエルホリドは俳優がマリオネットを模倣 する演出を導入し、変遷を経て、『見せ物小屋』の再々演の時点では、舞台上で の言葉の重要性を否定し、物、演出ならびに俳優の身体に依拠する演劇を展開す る。倉石義久は、メイエルホリド演劇において俳優(人間)の身体をマリオネッ ト化する理由の一つとして、マリオネットは、「精神的な展開を妨げない」と説 明している。(メイエルホリド演劇理論研究 139)

 1908年に演出家のエブレイノフが、モノドラマとは「舞台上のすべての物が 主人公(主体)の内面を反映するものである。そこでは舞台上で示される実 物は主人公の心理と一致し、外面は内面を表現したものでなければならない」

( 184)と提唱している。

(9)

 メイエルホリドが『見知らぬ女』をモノドラマとして上演することを考えてい たという事情を考慮にすれば、『見知らぬ女』の主人公の「詩人」の内面の露出 を妨げないように俳優をマリオネットとして登場させたと考えられる。そして、

彼らのマリオネット性は、「プロセニアム・召使い」の存在によりさらに強調さ れていたと思われる。「プロセニアム・召使い」の機能は、特に第二の「幻影」

においては、日本演劇の人形出遣いと重なっており、日本の人形劇の特徴をよく 理解していたメイエルホリドが、自分の演出に意図的に「プロセニアム・召使い」

を登場させていたと思われる。

 そして、1916年に「芸術の世界」展示会で紹 介された

B.

グリゴーリェフ画家の「メイエルホ リドの肖像」という絵は、そのような思想をよ く表している。(

pic.

1を参照)

 この絵は、紹介されてからまもなく芸術界に おいて「メイエルホリドとその赤いダブル」と いう別のタイトルが付けられた。

 絵画にはメイエルホリドが同時に二つのイ メージで描かれており、作品の中央には燕尾 服、白手袋やシルクハットを着ているメイエル ホリドが不自然で歪んだポーズを取っている。

このメイエルホリドの後ろにもう一人のメイエ ルホリド、いわゆる彼のダブルと思われる、当時 の批評家が「赤い射手」と命名した東洋風の赤 い衣裳を着ている人物が弓を射ようとしている。

 研究者の

I.

ウワーロワは、この「赤い射手」

が「プロセニアム・召使い」の格好をしているメイエルホリド自身であると推測 している。そして「プロセニアム・召使い」が手に持っているものは、弓ではな く人形を操る装置である。ウワーロワは、絵画中央のメイエルホリドは「シルク ハットを被り、手袋を着ているマリオネットである。それをじっくり観れば、そ の動きは木製の人形ように硬い。絵画のすべてから、人形の依存性や、人形の上 から引っ張られ吊り上げられている状態が感じられる。(中略)つまり、画家の グリゴーリェフによれば、メイエルホリドは操り人形でありながら、同時に自分を 操るあやつり手でもあるのだ」という興味深い指摘をしている。( 283)

 以上のことから、「プロセニアム・召使」は、メイエルホリドの演劇における 非人間的で人工的な身体表象と演劇表現と密接に結びついていたと考えられるの である。

Pic.1 B. グリゴーリェフ「メイ エルホリドの肖像」

(10)

 メイエルホリドがスタジオを運営する時期に作られたこの絵画と、スタジオの 活動に関する回想によると、メイエルホリドにとっては、「プロセニアム・召使 い」の存在は、非常に大事なものであった。(Смирнова21)

 『見知らぬ女』準備の際に、メイエルホリドスタジオの規則では、メイエルホ リドと授業に出ていた生徒たちは、必ず「作業着」(10)に着替えた。着替えていな かった生徒は、その日演じる演目に参加せず、観客として扱われたということも 述べられている。また、スタジオの教育過程の特徴としては、エチュードまたは パントマイムに参加しなかった生徒たちも、スタジオにおいて練習されているす べての劇の内容とその役の特徴を知っていた。そのため生徒たちは誰でもそのと き必要な役を演じることが可能であった。『見知らぬ女』には、「プロセニアム・

召使い」がそのような万能な人物として動員されたと言えるだろう。スタジオの 授業では、生徒はよく「狩り」というパントマイムの演技した。数人の狩人は弓 を手に取って、猟物をよせかけるというエチュードだった。後に「弓の人」は、

ビオメハニカコンプレックスの練習の一つになった。その練習を行う役者のポー ズは、グリゴーリェーフの絵画の射手に酷似している(

pic.

2の左側から1番と 2番目の役者を参照)

 これまで述べてきたように『見知らぬ女』は、当時の批評家にも観客にも 理解されなかったが、この上演で使用されていた大道具(例えば、橋)は、20 年代にメイエルホリドが使用する構成主義的な舞台措置の前駆であり、また、

「プロセニアム・召使い」衣装の概念が20−30年代公演の全役者の「作業着」

(прозодежда)に展開するという特徴は、メイエルホリドの研究において重視さ れている。

 そして、その公演において最も不評だった「プロセニアム・召使い」の存在も、

Pic.2 「弓を射る」ビオメハニカ練習

(11)

先述の機能分析を踏まえれば、実際には、メイエルホリドのビオメハニカ演劇理 念の成立過程と密接に結びつく存在であると確信できるだろう。

おわりに

 『見知らぬ女』におけるメイエルホリドにより使用されていた「プロセニアム・

召し使い」の機能を分析した結果として、次のことが明らかになった。

 「プロセニアム・召使い」は、観客と同次元の人間的存在であると同時に、人 工的な別の次元をも開示する存在として、メイエルホリドの演劇観と密接に結び つく存在であったと考えられる。とりわけそのリズミカルで機械的な性質は、リ アリズムを排し、機械的なものを演劇に導入しようとしたメイエルホリドの演劇 にとってきわめて重要な役割をはたしていたと考えられる。

(1)例えば、サン・キョン・リー『東西演劇の出会い』、 K. ;

E B を参照のこと。

(2)ブロークの二つの戯曲は同じ日に上演された。『見知らぬ女』は芝居前半、『見せ物小 屋』は休憩を挟んで後半にあった。

(3)メイエルホリドは、帝国劇場での演出活動を平行して、1913年、トロイツカヤ通りに 演劇実験のスタジオを立ち上げ、身体感覚によって演じる俳優を本格的に養成し始め た。スタジオでのエチュードは、即興やパントマイムで構成された。メイエルホリド はスタジオ「舞台での動き」という講座を受け持ち、グネーシンはドラマにおける音 楽的朗読法について、演劇学者のソロビョーフはイタリアのコメディア・デラルテに ついて講義をした。

(4)本論において、『見知らぬ女』にとくに着目し、上演分析を行う。

(5) G.フックスの他に、G.クレイグの論がメイエルホリドの演劇観に対して大きな影響を 与えていた事実は、広く知られている。実は、クレイグにより1911年に「モスクワ芸 術座」において企画されていた(実際には実現されてなかった)『ハムレット』の演出 は、メイエルホリドの『見知らぬ女』の演出との共通点が多数ある。そのひとつが「プ ロセニアム・召使い」という舞台助手の使用であった。クレイグは彼らを「特別な人 たち」( )と呼んでいた。クレイグの考えでは、動式の灰色屏風(Screens) と同じ色の作業服のような衣装を着せられた舞台助手が、上演開始の直前に、舞台に 上がり、観客の目の前で屏風を移動して、照明の設置を行うという演出がなされた。

このように彼らの動作は、集まった観衆の目の前で、これからハムレットについての 物語が上演されることを暗示した。その他に、彼らは日本演劇のようにランプで劇の 進行に応じて俳優の顔あるいは姿を照らした。それぞれの役者に一人ずつの舞台助手 がつけられていた。クレイグの意図では、舞台助手の機能はそれに限られなかった。

彼らは、補佐的なことをやっただけではなく、哲学的な意味では灰色の衣装を着せら

(12)

れたプロセニアム・召し使いが、間者や中傷人が多い個性のない宮廷貴族の群集を象 徴していた。宮殿内の場面では、「宗教裁判官の埃っぽい衣装」を連想させる衣装を 着させられたプロセニアム・召し使いが、殿の壁にもたれかかって、ハムレットと宮 廷人との対話を盗み聞く。衣装の色のおかげで舞台装置とひとつのように見えて、彼 らは「耳がある壁」のメタファーを実現した。舞台上での彼らの存在の意味を説明し たときに、「宮殿の儀式、世辞や卑劣に満たされている雰囲気の中で、彼らの姿は寄 り集まってハムレットを窒息させる」とクレイグは『ハムレット』のリハーサルで

述 べ た。( « ». .

1.- . .: M.H. 1898-

1917. M., 1973, c. 268.)

(6)例えば、芝居参加者の一人であったヴェリーギナ回想。( 206)

(7)同様な劇中劇の構造は、「プロセニアム・召使い」が登場していた以前のメイエルホ リドの作品にも見られる。例えば、『ドン・ジュアン』(1910年)の演出である。

(8)ロシア語では、「ウスローヴヌイ」という単語の意味は、 条件によるもの/こと 、あ るいは ある条件の中で意味を得るもの/こと である。したがって、「uslovnui teatr」 は、直訳では「条件付き演劇」、「ある合意の中で存在している演劇」、「ある約束を元 にして成り立っている演劇」として解釈することが可能である。

(9)例えば、「ブロークの『見せ物小屋』の上演を思い出そう。登場人物たちはここでマ リオネットに似ていないだろうか。登場人物たちは、典型的な身振りだけを行ってい

る」。( I 139)

(10)スタジオの授業で使っていた「作業着」には、「見知らぬ女」の芝居で「プロセニアム・

召使い」が着用していた衣装が使用されていた。

引用文献リスト

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参照

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