『耕織図』織部から『蚕織浮世絵』へ
著者 角山 幸洋
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 6
ページ 1‑25
発行年 2000‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16559
耕織図とは︑宋・楼濤︵一○九○二六三︶が︑南宋の高宗帝︵一
二一七六二︶の推奨により刊行された﹃耕織図﹄︵あるいは﹃耕織図
詩﹄︶を指している︒ところが︑原本は早くから紛失され︑
宋・楼濤﹃耕織図﹄曽孫楼杓序本嘉煕元︵一二三七︶年
宋・楼濤﹃耕織図﹄王増祐序宋宗魯刊本天順六︵一四六二︶年
元・程啓﹃耕織図詩﹄のち石拓本乾隆三四︵一七六九︶年
により知られるのみである︒このうちわが国には︑宋宗魯刊本により摸
本とされたとし︑つぎの書物が︑狩野派により画手本として成立したと
1︲︶︑
狩野永納﹃耕織図﹄延宝四︵一六七六︶年
にあらわされる︒この内容は︑和風に改変されてはいるが︑主題はあく
までも崩すことなく︑和刻本として刊行された︒このうち﹃耕織図﹄﹁耕
部﹂は︑四季耕作図として障壁画・屏風画に広く模写されることになり︑
同書﹁織部﹂は﹃絵本直指宝﹄巻一﹁蚕家織婦之図﹂に転載された後に︑蚕
織浮世絵に取り入れられることになる︒この論文の主題となるのは︑こ
|はしがき ﹃耕織図﹄織部から﹃蚕織浮世絵﹄へ
の日中における製糸技術の比較を中心として取り上げることにし養蚕・
製糸の日本本来の実情を正確に表していないことを論じることにする︒
本稿では﹃耕織図﹄﹁織部﹂が︑多くの浮世絵絵画に取り入れられ一般
に流布され︑技術的正確さより風俗画として性格を見せることになる︒
この内容は﹁耕﹂を取り扱う農耕の部分と︑﹁織﹂を取り扱う絹製織の部
分に分けられるが︑現在では耕織図のうち﹁耕﹂の面だけが強調され︑農
業の上から多くの研究業績が発表されていることである︒ただその視角
が農業のみに限定されており︑織の部分は基本的に中国では︑本来絹織
物を取り扱うものであり︑それを画家が取捨採択することが多く︑農耕
①からは生活には密接に関係しないことに起因しているのではないか︒
耕織図の影響下にあるもののうち︑耕部を﹃農耕浮世絵﹄と呼び︑織
部を養蚕だけではなく製糸・機織をも包括しているので︑﹃蚕織浮世絵﹄
﹃養蚕浮世絵﹄とよび︑それぞれを区別しているので︑ここでは題目を
﹃蚕織浮世絵﹄とすることにした︒
中国では︑この両者を平行的に取り扱い︑書物のまま︑あるいは単独
で︑色刷されているので︑これを題材にして印刷されてきた︒そのうち
多く配布されたのは﹃耕織図﹄織部のうち︑製糸図︵繰糸︑原文では緤
糸としている︶のみで︑図柄も﹁織﹂のなかでは︑最も動作︑構図の上で
角山幸洋
一
②も見ごたえのある図を採用している︒
り︑研究の上からは何も技術的には取り上げられていないのである︒
ここではその織部を︑蚕糸業の面から比較検討すること︑いまま一
④見解を明らかにし︑若干の考察を試みることにしたい︒ いままで 楼濤﹃耕織図﹄は︑わが国には一六世紀にもたらされたらしいのであるが︑どの﹃耕織図﹄が伝来したのかは明らかではないが︑天野元之助
③は︑明・宋宗魯刊本が伝来したと見ている︒
その結果︑橘守国により︑﹃絵本直能宝﹄﹁第一蚕家婦女蚕之図﹂に
組み込まれ掲載されてきたが︑わが国では書物が伝来されたのちは︑
﹁耕﹂は農耕のみを取り扱い︑﹁織﹂は織布を示すため分離し︑それぞれ掲
載されてきた︒織の面を除外してきたことは︑狩野派の意図に関係して
いるが︑幕府の農本主義を唱える政策と合致し織の部分は︑生活の中心
から離れ養蚕を主とし一部の庶民のみが副業として養蚕生活を送ってい
るのであった︒
中国では︑本来︑絹の発生から︑生活の一部として重要視してきたの
であり︑その製作工程を︑図面︑ときにはのちには︑御製︑あるいは別
図を加えて表現したのであった︒ただ︑以下の木綿を加えることになる
のは︑元代に入り︑中国全土にわたって栽培が行われることになってか
らで︑それ以後︑木綿生産は中国全土に広まりをみせることになる︒
このような現状からは︑わが国では﹃耕織図﹄織部について正面から
取り組んでいないのは︑現在まで織物技術として︑一部に研究者に知ら
れていても︑系統的な蚕業としての見方をせずに単に風俗画だけに留ま
の この耕織図が︑現在どれだけ存在し︑どの部分がわが国に影響を及ぼ
しているのであろうか︒その資料を提示することが︑まず必要である︒
ここでは︑最近中国で刊行されている﹃古代中国耕織図﹄により︑時
代を追って図録目録をあげ︑中国での見解を︑解説することにする︒
王潮生主編﹃中国古代耕織図﹄農業出版社一九九五年一二月︵N
8586.092/4︶
この資料を参考に︑わが国への伝播とその変遷の過程を︑どのように
消化していったかを取り上げよう︒この文献の内容は︑過去に論じられ
てきた図の系統を﹃耕織図﹄成立より前段階に及ぼし︑絵図を系統に組
み込んでいるので︑一枚物の主として牛を農耕の基本として︑描かれた
絵図を含めて採用することにしている︒
一戦国︵公元前四七五l前二二一︶銅壺各部にみる農業図
1.宴楽射猟桑紋銅壺
2.宴楽射猟採桑紋銅壺︵模写︶
3.採桑紋銅壺蓋
4.採桑紋銅壺蓋細部︵模写︶
二漢代︵公元前二二一二○六二二○︶画像石︑拓片︑壁画に描か
れた農業図
1.牛耕図︵険西綏徳漢王得元墓画像石拓片︶
二﹃耕織図﹄の範鴫
一一三魏晋︵一三○四二○︶壁画に描かれた農業図
1.耕地図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
2.耕地図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
2.牛耕図︵険西綏徳漢画像石拓片︶
3.牛耕図︵険西米脂漢画像石拓片︶
4.牛耕図︵江蘇唯寧漢画像石拓片︶
5.牛耕図︵山東滕県黄家旙嶺漢画像石拓片︶
6.耕耕図︵山東滕県黄家旙嶺漢画像石拓片局部︶
7.嶺地図︵山東滕県黄家旙嶺漢画像石拓片局部︶
8.手井副へu面乎圭氣莫菱画一牛耕図︵山西平陸東漢壁画︶
鋤草図︵山東泰安漢画像石墓本︶
蒸秩図︵四川新都漢画像碑拓片︶
拾糞図︵山東滕県漢画像石拓片︶
拾糞図︵険北漢画像石拓片︶
收獲図︵四川成都漢画像傳拓片︶
舂米図︵四川新都漢画像碑拓片︶
豆腐作坊︵及其示意︶図︵河南密県打虎亭漢画像石︶
紡織︑眼酒図︵四川成都曾家包漢画像碑拓片︶ 楼播図︵山西平陸東園漢代壁画︶農耕図︵内蒙古和林格爾東漢壁画︶播種図︵四川彰県漢画像陣拓片︶受草播種図︵四川徳陽漢画像碑拓片︶
四唐︑五代︵六一八九六○︶壁画の一部に見る農業図
1.牛耕図︵険西三原唐・李壽墓壁画︶︵墓本︶
2.楼播図︵険西三原唐・李壽墓壁画︶︵墓本︶
3.耕獲図︵収獲部分︶︵甘粛敦煙莫高窟四四五窟唐代壁画︶
4.耕獲図︵曲猿華耕地部分︶︵甘粛敦煙莫高窟四四五窟唐代壁画︶
5.耕作図︵甘粛敦煙莫高窟二三窟唐代壁画︶
6.牛耕図︵甘粛敦煙莫高窟八五窟唐代壁画︶
7.耕獲図︵甘粛敦煙莫高窟二○五窟唐代壁画︶
8.耕獲図︵甘粛安西楡林窟二五窟唐代壁画︶
9.打揚図︵甘粛敦燵莫高窟一九六窟唐代壁画︶
蛆.唐・張萱﹃搗練図﹄︵宋・墓本﹃中国美術全集﹄による︶
Ⅱ︑牛耕図︵甘粛敦煙莫高窟六窟五代壁画︶
12 11 10 9 8 7 6 5 4 3
● ● ● ● ● ● ● ● ●
細地図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
細地図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
糖地図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
耕種図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
播種図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
打連柳図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
揚揚図︵甘粛嘉峪関巍晋室墓壁画︶
屯塁図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
採桑図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画︶
採桑護桑図︵甘粛嘉峪関巍晋墓室壁画
一一一
五宋代︵九六○一二七九︶﹃蚕織図﹄︵黒流江省博物館蔵︶
連続した製造工程を表す一連の作品
1.臘月浴蚕国胃三国泊閲腸冒吾の届昏冒目嘗具吾の盲邑胃8庁且閏1.臘月浴蚕雪壹長の鱈の冒吾①届9国○口吾具吾①盲邑胃の巴の且一
17 16 15 14 13 12
● ● ● ● ● ●
4.谷雨前第一眠国筋ご邑○崖三品言さ﹃の卑四冒蚕冒命牙皀閏討﹃且
5.第二眠艀8三日○巨三長
6.第三眠二三日○屋三長
7.暖蚕三日目晨呂の弄凰禺旨淫の画く①の
8.大眠︑忙採葉匿切言邑○巳言い宮署且︒重信房画くの
9.眠起︑隈大葉雰の昌信冨胴一の四ぐのの
岨.拾巧上山三m冨凰長○口吾の己昏・星鼻曾画夛国置晨坤○昌葺の言里
員﹄○巨一丘pm
u・簿籏装山三○巨三晨
吻.協繭国の呂晨牙のgo冒さ﹃88o日長の壽言○﹃旨の
喝.下繭国閏篇豊晨88目の 2.清明日暖種雪胃目晨呂の鵠の○画酉﹃の野億三国ののの吻壽言○﹃白の3.摘葉︑体暖国o匿晨己巳言﹃昌一の画くの②四呂許の昌晨の濤尋︒﹃日の 牛耕図︵甘粛敦埋莫高窟一○○窟五代壁画︶牛耕図︵甘粛敦煙莫高窟一四六窟五代壁画︶牛耕図︵甘粛敦煙莫高窟一○八窟五代壁画︶耕獲図︵甘粛敦煙莫高窟六一窟五代壁画︶牛耕図︵甘粛敦煙莫高窟三八窟五代壁画︶︵臨墓本︶推磨図︵甘粛敦煙莫高窟六一窟五代壁画︶
六元代︵一二七一一三六八︶
程檗﹃耕織図﹄
織図1.浴蚕野萱吊の壽尋○国目猪甥
2.下蚕西国言富岳
3.隈蚕惠のs長
4.一眠国尉曽冒○屋屋品
5.二眠の①8且目○屋三岳
6.三眠目三a白目三岳
7.分箔静冨尉豊晨の壽言日昌の
8.采桑頭の匿晨昌昌言﹃ご言ぐの②
9.大起崖言四宮侭四号﹃吾の言ご邑呂三岳
2423 22 21 20 19 18 17 16 15 14
● ● ● 。 ● ● ● ● ● ● ●
約繭雪の侭三岳88目の宮○ののぎ烏豆
剥繭容昌○ぐ﹈信号の言のの
秤繭︑塩繭釜蔵雲居三岳四三のざ凰信88目の
生緤寄島括国急凰涛
蚕蛾出種三○gの①己の垣品言皀88目の
謝神供糸○群凰品切四&胃の
絡蝶︑紡績智○二信画呂言の習岸長
経靭︑鐘子雪閏宮晨
挽花言呂巨胃昌晨
倣緯︑織作君の三岳画呂言の画昌晨
下机︑入箱弓画置信号の旨皇吾の冒四呂冒の四目言ぐ冒習房己言謝&
四
七明代︵一三六八一六四四︶
﹃便民図蟇﹄耕織図﹇弘治一五︵一五○二︶年︑ここでは万暦一二︵五
九三年︶﹈
女紅図1.下蚕需ョ︒ぐ﹈長言望の壽言○国園の
2.隈蚕惠のa長の壽弓︒﹃国切
3.蚕ョ︒自国三長
4.采桑冨昌言﹃ご雷ぐのの目︒医長
24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● □ ● ● ● ●
経三四昌晨
緯雪の霊品
織雪の四昌信
鑿花言︒邑閏呂信
一男白︑○屋三国函凰弄註言旨の 捉績goo望晨gの目色言﹃のの弄葛○日︶上族三○崖医長炎箔国の豊信下籏の巴①a長889の捧繭国胃ぐ①豊信88目の害繭のざ凰晨88○国の緤糸客の言い蚕蛾三○苔の国の侭﹈信祀謝○痔凰長四m四三胃の絡糸普○○言い
八清代︵一六四四一九二︶
①康煕﹃耕織図﹄﹇康煕三五︵一六九六︶年﹈
織図1.浴蚕野言長の鵠の
2.二眠の①8呂昌○屋三岳
3.三眠弓三a冒呂三岳
4.大起寄日○コ晨言﹈の二言○目勗
5.捉績go星眉吾の冒胃員のの岸急○﹃ョの
6.分箔の呂胃豊信のニミ︒﹃gの
7.采桑型の威信冒昌言局ご宕曽のの
8.上籏oo8o昌眉
16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
大起シ三国蚕信呉重言ご邑○屋言括
上籏98○日括
炎箔痔豊品﹃の四国信言湧
害繭津○国長88○ご切
緤糸寄島信鯉弄
蚕蛾三○号の①白の侭﹈侭
祀謝○痔風晨四の四昌昏の
絡糸普○呂晨
経緯雪胃宮晨四目急の藍信
織机三月三国の尋の習︺信
鑿花盲の邑胃&
剪制弓四匿晨
五
②雍正年間﹃耕織図﹄﹇﹃
織図1.浴蚕藍壹長の鱈の
2.二眠靜8己冒○三
3.三眠弓言己冒呂三
4.大起寄巳Ca信冒
5.捉績goo里長吾の
Ru・幹U吟疸Hのりづp寸迫式ゴq〃 二眠靜8己冒呂宣
﹇
﹃
23 2221 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9
● ● ● ● ● ● ● ● ● 。 ● ● ● ●
炎箔痔豊信﹃8国長再暑②●
下籏○二の昌吊88o唇の
捧繭静再言い88○局
害繭の9国長888の
繰糸澪の言い切壽
蚕蛾三○苔の①旨の逼晨
祀謝○詳凰信四切画昌昏の
緯君呉言胸
織君の画く﹈信
絡糸智○二晨
経乏胃官晨●
染色三国信
肇花茜Bga
剪帛含三岳印壽註寓勇
成衣夢匿晨
晨
三眠弓言己冒○屋屋品
大起悪日oぐ︺信言君の寿言○国国
捉績goo曾長苔の昌画言﹃のの壽言○国弓◆
分箔静冨禺豊晨呈冨﹃○国国
故 宮 周 刊
﹄
一九三三年﹈
⑧乾隆︵三○年︶石刻﹃︵御製︶棉花図﹄︵拓片︶﹇玄曄︑康煕年間︵一
六六二一七一二︶﹈
1.棉花播種図︵附・棉花播種図系文及詩︶ざ量長倉三目
の浅口毎口異さロ四国ロ四つ○の己︶
2.棉田灌概図︵附・棉田灌概図系文及詩︶言雷言邑a︒.︶
23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
8 7
采桑頭o医長目巨与の局ご庁習のの
上籏g8o日長
炎箔痔豊信﹃①胃﹄晨胃この
下籏9房昌岳88○国の
捧繭の号昌長88○国の
害繭津三岳の房
繰糸寄呂長の二
蚕蛾三○sの①昌胃四晨
祀神○詳凰信画切四昌言の
緯君の三岳
織雲の曽房信
絡糸普○二晨
経雲胃宮晨
染色三里晨
肇花旨s届己
剪帛言葺晨の萎註言冨
裁衣毎号凰晨 一ハ
側乾隆石刻﹃耕織図﹄︵拓片︶
織図1.浴蚕野言長の鵠の
2.下蚕悪日Ca長言望の壽豈﹃○局冒の
3.隈蚕惠①昌長の弄雪︒﹃己の
4.一眠国筋ご冒○巨三長
5.二眠静8巨冒○口言眉 3.棉田耕鋤図︵附・棉田耕鋤図系文及詩︶君の①昌晨ao・︶4.摘尖図︵附・摘尖図系文及詩︶ざ弓冒異号.︶5.采棉図︵附・采棉図系文及詩︶g吾冒国の宣品a︒.︶6.晒棉図︵附・晒棉図系文及詩︶ぎぎ邑曾自己晨宣○・︶7.棉花収販図︵附・棉花収販図系文及詩︶9群目ぎ﹃o富里長四目
の①﹄匡邑胆︵・○.︶
8.軋花図︵附・軋花図系文及詩︶gごロ国冒昌晨a︒.︶
9.弾花図︵附・弾花図系文及詩︶ぎぎ邑言監晨a︒.︶
刑.拘節図︵附・拘節図系文及詩︶冨四置晨の言の扇a︒.︶
Ⅱ︑紡線図︵附・紡線図系文及詩︶讐冒三岳a︒.︶
岨.挽経図︵附・挽経図系文及詩︶9畳長a︒.︶
咽.布奨図﹇奨線﹈︵附・布漿図系文及詩︶津胃の三岳a︒.︶
M・上機図︵附・上機図系文及詩︶三四畳長a︒.︶
妬.織布図﹇附・搾油図﹈︵附・織布図系文及詩︶雪の画く冒奥言三
号の勺旨冨扁の○冷○肇国渓司四g冒四ao.︶
略.練染図︵附・練染図系文及詩︶辱の冒異g・︶
(5)
清・嘉慶﹃棉花図﹄﹇嘉慶一三︵一八○八︶年﹈
1.播種ざ三岳
2.灌概岸﹃侭呂眉
2423 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 0
8 7 6
三眠目三a日︒巨三晨
分箔の呂胃呂品凰言ご自己の
采桑国の匿信己巨房の﹃昌一①画く①の
大起シミ四画長島①帛弓の冨異昌○屋三岳
捉績雲○皇長吾のョ胃貝の邑言﹃︒﹃日の
上籏g8o日長
炎箔害豊長門の閏﹈岳胃暑の
下籏○二の呈品889の
捧繭静一の昌品88○国の
害繭澤○国長88o易
緤糸寄呂晨凰弄
蚕蛾三○号の①日の﹃四品
祀謝目冨晏過急品の①局の日︒ご
絡糸智○呂長
経雪胃宮晨
緯君の監吊
織君の胃﹄晨
肇花雪①閨﹄信号烏易
一男白巾○屋昼邑○三凰房の
七
⑥光緒石刻﹃耕織図﹄︵拓本︶
織図1.整地卑呂皇晨詩匡の
2.中耕除草培土言の再三岳
3.摘棉旧家の昌信言昌のの呉雪8言冒︲亘の置岳
4.軋弾棉花g群○国四国昌晨画且﹃の呂信
5.紡紗緯線鯉凰晨
6.奨線壁凰晨
7.絡線曽○呂品
8 7 6 5 4 3
16 15 14 13 12 11 10 9
● ● ● ● ● ● ●
転畦雪のの昌岳
摘尖弓呂宮晨
採棉頭の匿晨8言口
棟晒静再言い画且の匡邑昌晨
収販審居冨のの四且邑①
軋核の冒昌長
弾花国巨霊長
拘節三四重品の言の勗
紡線響冒己晨
挽経三胃冒信
布漿聾弩の言長
上機三四s三岳
織布君の画く﹈晨
練染与国侭
(7)
光緒木刻﹃蚕織図﹄﹇光緒一五︵一八八九︶年﹈
1.種桑曾菖晨日巨吾の門曼の①の房
2.育桑Z員の﹄品の呂言甥
3.栽桑四目言い言困
4.桑樹修剪牢屋日長
5.桑樹管理の四ag目営晶①己の貝
6.採桑国民冒哩8くのの
7.祈先蚕○廟の凰晨い胃壁言ざの壽言○日﹈目の①の言厨
8.謝先蚕日冨呉終三岳︒①蔚昌○こき﹃の壽言○国宮goの巽○厨
9.蚕桑器具静凰呂言邑﹃○○房四目員の国の房
皿.下子掛連○ぐぢ邑葺長
n.浴蚕種︵附・秤連下蚊︶野三岳の鵠の︵四弓の己.雲の侭冨長の鵠の
いぎ①の計の︶
岨.分蚊︵附・頭眠︶静恵局豊品言昌言日冒の曾弓の己.璽厨言冒○三︐
一口い︶
咽.二眠靜8且冒○自三岳
皿.大眠匿駕笥○員量目目三岳
妬.上族︵附・摘繭︶g8o昌晨︵四壱の己.雷吋ぐ①豊信88○塁
肥.蒸繭︵附・景繭︶の忌曽昌眉88目②︵g罵己.シ三岳88目巴 8.経線雲胃宮品9.流線s﹃昌長蛆.織布︑量布雪困ぐ﹄信四呂昌困呂国品
八
⑧光緒﹃蚕桑図説﹄﹇光緒一六︵一八九○︶年︺
銭塘︵現在︑漸江杭州︶人宗承烈据宗景藩︵同治年間曽任湖北蒲軒県知
県︶所撰桑図1.種桑大要房の①言農具且自己長
2.種接本桑井剪桑毎国藍信四目宮屋昌括
3.種桑秩諄呂信の①巴言甥
4.接桑国貫くの豊晨時晨
5.下秩四四三長めの①呂信
蚕図1.蚕種樗甥
2.収子9房昌信の鱈の
3.浴蚕雷言信の鵠の
4.収蚕卑のの閏ぐ﹄眉の開の 別.成衣弓呈○国長 路.織毒①固く﹈眉■ 躯.細系国警忌日長言①珪晨 別.経三胃凰長 Ⅳ︑緤火糸寄の言蝋ざ胃①﹃の壽ゞ肥.緤火糸︵附・倣綿︶悪の言警言の壽冨︵四壱の目.三目匿信の濤
量﹃四・・一国胆︶
岨.脚踏緤糸車︵附・脚踏紡綿車︶零s罠言言吋の︵四弓の己.の宮日長
三﹁面の①﹄︶
別.解糸︑緯糸己邑夛言昌信︾弓の逹晨
導入以後︑わが国で発行された﹃耕織図﹄︵織部︶は︑狩野永納︵一六
三一九七︶により描かれた耕織図がある︒ただ永納により描かれたで
あろう障壁画︑屏風画はここでは除外してある︒
狩野永納﹃耕織図﹄﹇延宝四︵一六七六︶年﹈国立公文書館蔵
1.浴蚕
2.下蚕
3.隈蚕
4.−眠
5.二眠
6.二眠
7.三眠
8.分箔
9.采桑
的.大起 5.伺叶評の昌晨6.蚕眠三○匡匿長7.上山三○屋三長8.蚕忌弓筈○89.緤糸寄呂長の房舶.挑繭静后呈晨88目の
三﹃耕織図﹄の和刻版
九
L
n.捉績
皿.上籏
喝.炎箔
Ⅲ︑下籏
妬.撰繭
焔.害繭
Ⅳ︑緤糸
肥.蚕蛾
的.祀謝
別.絡糸剛.経
躯.緯
鴎.織別.肇花
筋.剪帛
が挙げられる︒﹃耕織図﹄がわが国に伝わり︑正統的な狩野派の眼に触
れられ︑狩野永納により編集ざれ刊行されたことは︑後世に伝うること
に意味があった︒内容の趣旨は︑そのままであるが︑風景は日本的であ
り︑日本的な作風となっている︒ただ作業道具の扱いだけは︑そのまま
で︑立姿・椅子姿での操作で︑わが国の作業姿勢のあぐら姿勢とは異な
り︑耕織図のまま描かれていて︑本質部分は日本風には改められていな
いO
狩野永納は︑京都狩野派であるが︑江戸狩野派に対抗する大立者で︑ 山楽の系統を引く画家であった︒ここで描かれた﹃耕織図﹄は︑基本的には忠実に原図にしたがって描写されているが︑風景は日本風に描かれ明らかに和風に置き変えられている︒なお狩野派が︑描く製糸図を探したが拝見する機会を得ず︑永納の画も多くは焼失したことで見当たらない︒四季耕作図は︑多くの研究者により研究されているが︑ここでは織図の工程については︑残念ながら部分的にしか明らかにはできなかった︒この践文には︑
﹁耕織二図ハ︑則チ中華ノ旧本ナリ︒︵中略︶幸ナルカナ予力家へ
世々此ノ画本ヲ蔵メテ︑最モ其ノ比ヲ見ルコト希ナリ︒耕織ヲ描キ
テ詩ト画トカネ︑姦二顕然ナリ︒則チ後世ノ子孫此ノ事業ニ感セン
コトヲ要ス︒イママサニ子弟再上梓二附シテ以テ世二公ニセンコト
ヲ求ム︒蓋シ諸目録ヲ考フルトハ則チ耕ヤ織ヲ備フル二足ルナリ︒
図アッテ詩ナキモノハ︑然しトモ異本ヲ見ズ︑故二旧二依テ出シテ︑
コレヲ授テ︑永久ニ伝う︑馴力卑詞ヲ加テモッテ之ヲ証シテシカト
イフ︒
延宝丙辰夏西京ノ屋翁素絢堂二賊ス﹂
と刊行の趣旨を記している︒
以下︑嘱目した織図をあげておく︒
﹃筑後国農耕図稿﹄﹇︵原題︶農業之図絵巻﹈︵大分県立歴史博物館蔵︶
この巻子本では︑商麻皮の処理を図示し︑①皮はぎ︑③績む︵欠く︶︑
③撚りかけ︑側機織︑からなるが︑この工程は︑耕織図を参考に見たか
もしれないが︑絹の工程とは︑ことなるものであるので︑参考にならな
かった︒むしろ解説にあるように︑現状を観察した上で︑描写したであ
一
○
ろう︒段上達雄の解説では︑つぎのように説明している︒
側いちぴの皮はぎ軒先で夫婦がいちぴ︵商麻︶の皮をはいでいる︒
男は石臼の孔に割竹を二本立て︑その間にいちびを通して実と葉を
除き︑臨月の妊婦がいちぴを裂いて皮と芯とに分けている︒いちぴ
はアオイ科の一年草で︑茎の皮から取る繊維から粗布︑網︑畳表の
糸などをつくった︒この図は﹁前牟田村二而写﹂したと記されてい
るが︑前牟田村は︑現在の三潴郡大木町前牟田と考えられる︒
⑤l①撚りかけ女性が糸車で糸に撚りをかけている︒
⑤l②機織り若い娘が地機で布を織っている︒いちぴで布を織っ
ているのかも知れない︒四本脚の傾斜型の地機で︑経糸の一端を織
り手の腰に回した帯で引っ張り︑織り手は地面に近い位置に座る︒
経糸の上糸と下糸の開閉は足縄を左右で引いて行う︒足縄に結びつ
いた背後の吊り手で綜統︵緯糸を通す杼道をつくるために経糸を上
げる部材︶を上下させるようになっているのである︒
としている︒これを九州地方の民具と比較すると︑地機の姿勢が︑低く
幾分小型であること︒それに糸車は使用される竹の部品が多いのは︑こ
の地方の特徴であり︑リブの数が︑多い道具となっている︒
﹃︵町田市立博物館蔵︶たはらかさね耕作絵巻﹄︵町田市立博物館蔵︶
この収録されてある絵巻のうち︑養蚕・製糸・機織の順序で私なりの
考察を加えると︑
①桑樹巨木でないのは︑わが国の桑樹栽培にしたがっているとみ
られ︑耕織図のように巨木で︑桑を梯子で採桑する様子を描いては
いないが︑あまりにも小さな苗木を描いているのは︑桑樹の観察し たのであろうか︒
②繭を煮るこの部分の解説にあるように︑この個所は︑繰糸の部
分で最も絹処理の上で重要部分である︒
⑧蚕を飼う蚕座が木製で箱型をしているのは︑中国系のもので︑
わが国のものは︑関東では稲藁からなる円形の籠状のもの︑のちに
は関西では方形の竹細工からなるものであった︒
仙紹糸を小枠に繰るタタリの三本柱のうち︑一本が切り離されて
いて︑大小不同の紹がかけられるようになっているのは︑実物を観
察した上での正確な描写である︒
⑤紡錘﹁つむ﹂は縁側に並べておき乾燥しているのであろうか︒
手前にあるのは染色してあるらしいが描写が簡略であるので不明︒
⑥機織地機であるが︑使用している杼は小杼を描いている︒本来︑
地機では大杼をつかうのが普通である︒高機と部品が混在している
ので︑高機を観察した結果からの描写であろうが︑踏木の描写には︑
細部を明らかにしていないのは不正確な観察である︒
例裁布裁縫のための用布量をみているのであろう︒挿図は耕織図
に原図を求めていて︑構図を転載しているのであろう︒
このようにみると︑耕織図︑およびその系統の書を参照にしている部
分があるのが端々にみることができ︑系統としては工程順序にしたがっ
ているが︑構図︑道具としての挿図は一般に︑わが国で使用するものか
らなっている︒
それに対し時期的に間隔を置いて︑乾隆三五︵一七七○︶年に焦乗貞
﹃御製耕織図﹄が楼濤﹃耕織図﹄を範とし︑加筆して編集きれ︑その結
一一
果︑再び日本に伝来されるので︑この図の複製が︑再度流布され和刻版
が流布されることになる︒
この絵の特徴はへ御製が画面の上部に加えられ︑あるいは画面を代え
⑤て︑楼壽が五言詩︑あるいは皇帝の七言詩がおかれている改変があり︑
画幅に追加がなされている︒
以下の文献は︑大量生産で安価にするため︑簡単な装丁にし出版され
ているが︑その結果︑増刊版とでもいえるほどの売行で︑各種の版が保
管されている︒これには清刻版と和刻版と分かれるが︑このうち和刻版
では︑多くの人に愛読され︑大小多くの版が︑明治期に出版されている︒
手元にあるものを︑ここに掲げるならば︑
︵絹糸︶﹃御製耕織図﹄全︵へ.1.7︶瑁田文庫﹈︵奥付を欠くが清刻︶
﹃御製耕織図﹄全︵へ.1.8︶﹇増田文庫﹈︵奥付を欠くが清刻︶
﹃御製耕織図﹄乾坤二冊︵ほ.25.7︶﹇増田文庫﹈︵奥付を欠く﹃御製耕織図﹄乾坤二冊︵ほ.25.7︶﹇増田文崔
が清刻︶
﹃御製全像耕織図画譜︵原題・御製耕織図︶﹄︵ほ・の
文庫﹈
﹃御製耕織図﹄︵630222.G1.1F︶﹇関︲
﹃御製耕織図﹄︵63022.G1.1%︶﹇関大﹈
﹃御製耕織図﹄︵616.2.K6.%︶﹇関大﹈ ﹃御製耕織図﹄︵63022.G1・↓
﹃御製耕織図﹄︵616.2.K6.%︶ ︵ほ.2
﹇ 関 大
﹃御製耕織図﹄︵LMへ1.8︶﹇関大﹈
﹃御製耕織図﹄︵LM25.6.2︶﹇︾
︵木綿︶ ﹇関大﹈ 5﹈ ・8︶﹇増田 ﹃欽定授衣広訓﹄︵﹃棉花図﹄︶二巻清・嘉慶一三年勅撰一九六○年北
京中華害局用嘉慶一三年刊本景印中国古代版画叢刊之一︵ほ.二五・
八︶﹇関大﹈
﹃欽定授衣広訓﹄二巻︵LM25.8.1︶﹇関大﹈
﹃便民図蟇﹄一五巻明鄙瑠撰﹇弘治一五︵一五○二︶年﹈︵LM25.8.
1︶﹇関大﹈
﹃乾隆御題綿花図﹄二冊︵巻一至巻四×巻五至巻八︶︵へ.1.6︶﹇増
田文庫﹈
論者もこの﹃耕織図﹄に関心をもち︑収集に努めているが︑現在まで
に︑つぎのものを収集している︒
﹃侃文斉御製耕織図﹄上下二冊文化五︵一八○八︶年好古堂
﹃御製耕織図﹄二冊浪速同伸館明治一六年一○月︵和刻版︶
﹃侃文斉御製耕織図﹄東陽堂明治二五年︵和刻版︶
﹃棉花図﹄榎本中衛・吉川幸次郎訳筑摩書房昭和一七年一○月
二○日
がある︒ただ多くの害が出版されているので︑このほかにも別書が存在
するかも知れない︒ただわが国へ導入されたのちの︑その変遷過程につ
いては︑煩雑になるのでここでは論じない︒
以上が耕織図のすべてと推定されるが︑このうち﹁織部﹂のみを分類す
るならば︑つぎのようになるであろう︒これには最近における出土遺品
四﹃蚕織浮世絵﹄への応用
一一一も含まれている︒
①基本的には︑勧農の目的であり︑本来中国での生活が絹織物の生産
であるので︑その製造工程を表すことにしているのであり︑これが本
来の形態である︒
③綿織物の製造工程を表しているもので︑本来の絹を中心とするもの
から︑東南アジアから北進してきた木綿栽培が中国で本格的に定着し
てくるので︑このような木綿の製造工程がといれられた︒したがって
絹に追加して書物に取り入れられたのである︒
③織図としては︑織部から独立した蚕織図がある︒これも耕織図から
派出したものとみることができる︒
側清代では︑絹と木綿とが合併された︑まさに現実をはなれた工程図
が︑出現することになるが︑このような図は︑珍奇をねらった工程と
して︑排除されるべきものである︒
わが国では︑このまえの楼濤﹃耕織図﹄を基本とし︑和刻の﹃耕織図﹄
を︑わが国独自の作風で編集することを意図し︑それを応用することに
している︒勝川春章と鈴木春信の合作である浮世絵が︑歌麿によって︑
そのまま模写するで写しとられているが︑すっかりそのままではない︒
橘守国﹃絵本直指宝﹄浪華書鋪称胱堂版﹇延亨元︵一七四四︶年﹈
勝川春章・鈴木春信合作﹃絵本宝能繧︵かゐこやしない草︶﹄中版
錦絵一二枚﹇安永元︵一七七二︶年頃﹈﹇図7﹈
喜多川歌麿﹃女織蚕手業草﹄大版錦絵一二枚﹇寛政一○︵一七九八︶
年l寛政一二︵一八○○︶年﹈﹇図8﹈ これらの絵空事の絵柄は︑わが国の実状には合致しないのである︒そのために︑この﹃養蚕秘録﹄が刊行された後は︑養蚕・製糸の刊行物は︑すっかりこの刊行に影響されて︑内容の変更を要求されることになる︒
上垣守国﹃養蚕秘録﹄﹇亨和三︵一八○三︶年﹈
は︑著者が三丹地方の養蚕事情を改善するため︑東北地方︑とくに福島
県に留まること数ヵ月︑裁桑・養蚕・蚕種製造などの技術を実地に学び︑
⑦養蚕方法の違いを調査し︑この文献を発表している︒
この影響は大きく﹃養蚕秘録﹄の刊行後は︑この文献に影響され︑す
べての浮世絵・挿図・絵本には︑この系統にしたがって描かれている︒
とくに多くは製糸方法が取り上げられているが︑すべては﹃養蚕秘録﹄
に依拠している︒
絵本・挿図・屏風などに表れた養蚕秘録の影響は︑浮世絵絵画を完全
に捨て去り︑その刊行以後の絵に表れている︒その一方では︑中国での
耕織図は︑彩色をほどこし︑各地に収蔵されている︒その製糸の一部︵繰
糸の図が多い︶は︑寛政一○一二︵一七九八一八○○︶年以後の文
献にみられる製糸の方法を描いたものをあげるならば︑ ﹃浮世絵﹄の上部に︑簡単な解説が書かれ︑養蚕・製糸工程を順序に
従って︑一二枚の絵に構成されているのは同様に作風である︒それ以後
の作品にも︑これらの浮世絵絵画があるが︑同じ画風であるので︑ここ
においては省略す恥︒
五﹃養蚕秘録﹄刊行後
一一一一
この状態からすると︑この二つの系統比較することに基本的な問題が
横たわっている︒それは中国との間には生産技術の相違に起因している
が︑絵画にあらわれる範囲でみると︑時代でも変遷があるが︑中国と日
本とに文物の差である︒それは風土・気候・習慣などの違いをどれだけ
認識し︑画師自身が︑それを十分に自覚していたのか︑ということにな
るであろう︒
それを各項目にわたって観察することにする︒ ﹃蚕飼絹飾大成﹄成田重兵衛﹇文化一○︵一八一三︶年﹈﹃機織彙編﹄大関増業﹇文政九︵一八二六︶年﹈﹇図9﹈﹃山繭養法秘伝抄﹄北沢始芳﹇文政一○︵一八二七︶年﹈﹃絵本庭訓往来﹄葛飾北斎﹇文政二︵一八二八︶年﹈﹃民家検労図﹄著者不明﹇文政l天保ごろ﹈﹃労働図解﹄﹃農家必用﹄﹁繭糸曳之図﹂﹃尾張名所図絵﹄後編五深田正詔﹇天保一二︵一八四二年﹈﹁宮田村及び近村養蚕勉励略図﹂﹃蚕やしない草﹄一寿斎芳員﹇弘化四l嘉永五︵一八四七#五二︶年﹈﹃養蚕教諭集﹄著者不明﹇安政六︵一八五九︶年﹈﹇図加﹈﹃山繭養法﹄佐伯義門編﹇明治六︵一八七三︶年﹈
が挙げられるが︑文献には﹃養蚕秘録﹄の影響のみが見られ︑浮世絵か
らの影は完全にないのである︒
六﹃耕織図﹄と﹃蚕織浮世絵﹄
(3) (2) (1)
作業姿勢では︑中国では楚の時代から︑椅子に腰を掛ける姿勢か︑
あるい立姿で作業をするのであるが︑日本では︑あぐらをかく姿勢で
作業をすることに絶対的な違いがある︒この姿勢が︑道具・器械に影
響を与え︑中国では大型の器械が多く︑日本では︑小型の器械である
のは操作方法に起因している︒このような蚕業のおける中国の姿勢は︑
椅子に腰を掛ける姿であり︑座繰姿勢ではないのである︒
桑樹は︑中国では大型の立木仕立であるが︑日本では︑一般的には
喬木であり︑桑葉の採集には手を伸ばせば届くだけの喬木仕立であり︑
樹木の仕立方にちがいがある︒桑樹は︑わが国では︑中部地方にまで
原生種が︑分布しているのであるが︑生育には律令に記載のあるよう
に︑桑漆を植え栽培を奨励しているのである︒このため自然に生育し
た大木ではなく︑喬木仕立が多かったのである︒
﹃絵本直指宝﹄では中国での描写はなく︑床机に乗り桑葉を採集し
ている図を描いているが︑これらは現状を写したものではなく︑﹃女
織手業草﹄では梯子を使用しているなどに日本の現状との違いがみら
③れる︒立木仕立であることは︑大木であることから桑原に伝説を生む
ことになるが︑桑葉の採集には︑梯子だけでなく中国では猿を訓練し
て使うことがある︒
ちなみに群馬県では︑立木仕立は︑勢多郡の東部︑すなわち東・黒
保根地方でみることができ︑その他の地方では︑根刈・中刈・高刈で
あった︒このように各種の方法が見られたが︑﹁やがて品種改良など
⑨によって中刈仕立になり高木は使われなくなった﹂といわれる︒
家繭は中国では球形を呈しているが︑日本では俵形である︒この違
一
四
⑤蚕座は中国では箱であるが︑日本では西日本では︑竹製を主として
いるが︑東に伝わるにつれて︑竹から木へと変遷することになる︒そ
のことは中国の南部では植生のため︑竹の使用が盛んであるが︑その
影響を受けていると推測されるのである︒それに対してわが国では︑
日本には西南部から伝来し︑次第に東北部へ伝播していく過程がある︒
それは稲作の伝播が︑西から東へと伝播していくが︑その過程で藁
の利用を齋し︑これが藁座に︑影響をあたられることになる︒
⑥製糸は︑中国では立繰式であるが︑日本では座繰式であり︑作業方
法の違いが︑絵画に影響を与えているのである︒
絵図では︑いずれも立繰式によっている︒このような差業姿勢は︑
⑩日本ではありえないのである︒これについては︑後述する︒
㈹真綿作りは角真綿が現在知られ︑その道具︵盟・取枠︶が残されて
いるが︑﹃絵本直指宝﹄にはじまり﹃絵本宝能繧﹄﹃女織蚕手業草﹄に
そのまま取り入れられているので︑あるが︑その﹁真綿﹂を描く図では︑
袋作りが描かれている︒この経過は︑明らかであるが︑ただこの図は︑
現在見ることができず︑あるいは中国からもち込まれた技法であるかも知れなや
⑧空引機は︑﹃耕織図﹄では﹁鑿花﹂とあるが︑これは空引機のことで︑
模様織の製織が空引工︵挽綜工︶と共同作業で作られることが知られ いは︑この当時︑現地で観察しなければ分からないので︑この文献では実際に蚕を飼っているところを︑観察していないのは明らかである︒
側カルトン︵ケゴを入れる収納具︶は︑中国では平たい木箱によるが︑
日本では紙製で円形からなるものが多い︒
大枠直繰式とみられる中国での操作が︑わが国では小枠再繰式となっ
ているが︑どのように操作されてきたのか︒
このような中国から日本への風土習慣的相違を無視し︑文物の伝来を
捉えてきたのであるが︑絵画と技術の面だけについてみると︑中国の絵
画をそのまま日本にとりいれ︑その上で︑日本の服装を着せ︑使われる
道具類をそのままに描いている︒
その主なる相違点は気候の違いにあった︒とくにわが国では高温で湿
気が高いことに注目するべきで︑製糸したのちの絹を乾燥するためには︑
日本独自の揚返が工程として追加され﹁揚げ返し﹂工程が加わり︑﹁小
枠再繰法﹂として定着する﹇図9︑刑﹈・
そのつぎに︑作業姿勢が︑中国では︑立姿・椅子姿であり︑日本では
座姿であることに︑注目するべきである︒とくに正座で座る方法が︑正
しいものとして挿図に描かれることになり︑片膝立てなどで作業をする
ことは︑はしたないとの理由で︑座る姿勢︵作業姿勢︶を改めているの
で︑挿図写真などには注意すべきである﹇図蛆﹈
まず繰糸をする作業は︑中国では大枠直繰式︑日本では小枠再繰式で
ある︒この﹃耕織図﹄では︑中国式をもってするのは︑当然のことであ るが︑そのうちは画面から一部消滅することになるが︑﹃絵本直指宝﹄には︑農家のこと故︑省略されて︑これらは紙面の欠陥を補うもので
⑫ある︒
七立繰と座繰の比較
一
五
L
るが︑わが国では︑小枠再繰式をとり︑一工程増えることになる︒この
ころは︑わが国では湿気が多く︑大枠にくりとっても直ぐには繰糸が乾
燥しないので︑もう一度︑再繰して乾燥させるわけである︒この装置は︑
わが国で発明された︒
このように﹃養蚕秘録﹄では︑小枠にとっている姿を奥州流︑三丹流
に分けて描いているのであるが︑品質改良のために福島まで行動し︑︑
繰糸に注目しているのである︒彼の行動力と学問的度努力は︑文献に表
れているのであるが︑その結果は万人の認めるところとなり︑発行部数
は約三︑○○○部におよんだ︒広く関係者の関心を呼ぶことになり︑そ
れまでの浮世絵絵画は︑現実の作業からは︑捨て去られていくことにな
った︒かって奈良県斑鳩町所在・藤ノ木古墳の絹の繰糸の方法を復元するに
際し︑どのような方法によるのか推定するために︑古墳時代の製糸方法
を明らかにすることができないので︑江戸時代の﹃養蚕秘録﹄に描かれ
ている方法によることにした﹇図7︐8﹈︒ところが︑それ以前にはロ
ーラー式の最も簡単な方法によっていること﹇図妬﹈︑その方法が朝鮮
半島に依然として︑使用されていること︵韓国・民俗村︑﹃朝鮮の在来
農具﹄︶などが明らかとなった︒そのために構造が明らかな図版を掲げ
ておくことにした﹇図Ⅱなど﹈︒
ただ風俗画として﹃かゐこやしない草﹄﹃女織蚕手業草﹄は存在する
わけで︑蚕業技術史からは︑中国の製糸を表すものとして︑知らされる
ことが必要である︒
これに関係して関西大学所蔵の絵画に﹃養蚕図﹄があるので︑それを 取り上げることにする︒この名称は箱書に﹃養蚕図﹄とあるものであるが︑絹糸の製造工程は︑養蚕と製糸に分けられ︑この図は絹糸を繭から引き出すものであるから︑製糸図とするのが正確であろう︒ただ図に名称を付すときには︑そのうちの卑近なよく使われる﹁養蚕﹂の語句を使ったものとみられる︒
この図は﹃御製耕織図﹄繰糸を題材にしたものであるが︑よく明治以
後でも﹃養蚕秘録﹄が出版され︑絵空事となった蚕織浮世絵は︑世間か
ら消滅したと見られるが︑この図は多くの絵師により素材にきれたもの
である︒具体的に製糸作業は蚕から絹糸をとることで︑お湯に繭を五
七個いれ︑藁すべなどで糸口を引き出し︑それを枠に繰りとることにな
る︒原資料が何からとられたものか︑知らなければ画法など問題にでき
ないはずである︒
中国では蚕種により︑冷水に浸すだけで糸に引き出すことができる品
種があるが︑一般的に糸口をひきだし︑枠に繰りとるものである︒その
枠は大型のものである︒これに対して日本の操作は座繰であり︑多くは
鱒る方法か︑あるいは縁側に腰をかける操作で︑取枠も小型である︒こ
のような作業姿勢の違いは︑座法の相違によるものであり︑すぐに機器
を持ち込れても︑急には変化するものではない﹇図M﹈︒
素材が手元にあると︑そのものから直接に写しとり︑自己の懐にいれ
るやり方には賛成ではなく︑ましてその書かれてある事実をして︑その
時点で存在したと解釈するのは︑誤解を招くことになる︒
このような題材がどこに所在するかを知っておかなければ︑図の解説
⑬は︑意味の無い記述となるであろう︒
一一ハ
」
奥村正二﹃小判・生糸・和鉄﹄は︑製糸の部分で︑﹃女織蚕手業草﹄
繰糸を挿図に使用しているが︑他の挿図の解説があるのに対して︑この
浮世絵絵画を掲載するのは︑この場合︑製糸技術史を専門に取り扱って
⑭いる書物としては︑問題があろう︒
このような見方は︑﹃暮しの手帖﹄にもみることができ︑強引にわが
国の実情に対して全く無知であり︑このような歌麿の浮世絵が︑入手さ
れたことから︑わが国でこのような作業が過去においてなされた方法で
⑮あろうと想像することで︑書かれている︒このような独断的な観察は︑
世間に誤解を与えるのである︒
また志村明は︑王禎﹃農書﹄にのみ依処し︑大枠直繰式の北南繰車を
引用し︑それ以前の﹁ローラー式﹂製糸については何も触れるところが
ない︒むしろニーダムの業績によるべきか︑あるいは東南アジアの文献
⑯を参照するべきであろう︒
鈴木二郎のコレクションである﹃蚕織浮世絵﹄︵東京農工大学繊維博
物館蔵︶には︑喜多川歌麿以後の浮世絵が描かれているが︑総てが春信・
歌麿の模倣であり︑﹃養蚕秘録﹄の描写をみることができない︒これは
系統による違いであろう︒ただ解説にその起源を﹃耕織図﹄に求めるこ
とはせず︑﹁その時代時代の状況や風俗︑庶民の生活ぶりなどを如実に
投影している︒これらの錦絵は︑日本の蚕糸業の貴重な資料として﹂と
⑰するのは誤りである︒
このような紬問屋︑あるいは蚕糸技術家にも見られ︑単に描かれた服
装に日本着物を着用していることが︑日本での作業であると即断したの
⑮であろう︒ ①冷泉為人・河野道明・岩崎竹彦・並木誠士﹃瑞穂の国・日本l四季耕作
図の世界︲J淡交社平成八︵一九九六︶年に︑周幽斎夏龍筆﹃耕織図屏
風﹄佐賀県立博物館蔵が掲載されている︒
この部分は﹃絵本通宝志﹄からとられたとは直ちに断定できない︒その
理由は本稿に明らかである︒
②この製糸図は︑各所に保管されていて︑図版の引用が盛んである︒たと
えば角山幸洋﹁近代の紡績技術﹂﹃世界の歴史﹄朝日新聞社平成四年があ
り︑パリ国立人類博物館などに保存されているのを掲載︒なお︑ニーダム
﹃中国科学技術史﹄第五巻第九部繊維技術・紡績と糸繰第二一二図に︑
パリ国立図書館蔵を掲げる︒大枠はそのままの大きさであるが︑手元が明
かではない︒
③天野元之助﹃中国農業史研究﹄︵増補版︶御茶の水書房一九八九年一
一月一○日追記Ⅱの2﹃耕織図﹄について九六七九七一ページ︒
④渡辺武弓耕織図﹂流伝考l﹁四季耕作図﹂の絵解のために﹂﹃民具マンス
リー﹄第一九巻第二号一九八六年五月日本常民文化研究所一一○
ぺ11︾ンO
渡辺武﹁中国農書﹁耕織図﹂の流伝とその影響について﹂﹃東海大学紀要﹄
文学部一九八七年三月八五一二○ページ︒︵○四一/T二六︶
渡辺武只探幽縮図︾中の﹁耕織図﹂と高野山照尊院蔵の﹁織図﹂につい
て﹂﹃東海大学紀要文学部﹄第五○号東海大学文学部一九八九年三月
三○日六八七六ページ︒
田所政江﹁牛耕図試論﹂﹃東京文化短期大学紀要﹄第六号一九八五年
大野一郎﹁厚木市郷土資料館蔵︽耕織図︾についてl耕図十九図からl﹂ 罫ロ ■
一
七
L
﹃民具マンスリー﹄第三二巻六号一九九九年九月一○日
久野幸子﹁四季耕作図屏風考﹂﹃美学美術史研究論集﹄第三号名古屋大
学文学部美学美術史研究室一九八四年一三三ページ︒
大谷健夫﹁耕織図の研究﹂﹃松崎先生還暦祝賀記念論文集﹄柔父会編大
連柔父会昭和二年一二月八日三七五七ページ︒
大谷健夫﹁耕織図について﹂﹃害香﹄第一四一号満鉄大連図書館一九
四二年五六ページ︒
中谷伸生﹁大阪の四条画家︑西山完瑛の︽養蚕図︾﹂﹃肝陵﹄第二九号
関西大学博物館平成六年九月三○日八九ページ︒
加藤宗一﹁蚕糸浮世絵についてl蚕糸発展史の一環として﹂﹃蚕糸界報﹄
大日本蚕糸会昭和三一年二月一六二二ページ︒
加藤宗一﹁江戸時代における﹃耕織図﹄の影響について﹂﹃日本史研究﹄
第一八号日本史研究会昭和二七年一○月四六五三ページ︒
﹃絵農書﹄一︑二︵日本農書全集︶七一︑七二農山漁村文化協会一
九九六年四月三○日︑一九九九年一二月二○日
﹇展示目録﹈
﹃四季耕作図展﹄致道博物館昭和五九年九月二日二四日
﹃たはらかさね耕作絵巻・康煕帝御製耕織図﹄︵町田市立博物館図録第一
一八巻︶町田市立博物館二○○○年一月二五日
﹇養蚕・製糸﹈
奥原国雄﹃本邦蚕書に関する研究l日本古蚕書考l﹄井上善治郎昭和
四八年六月一○日
同局編﹃群馬県の養蚕習俗﹄群馬県教育委員会事務局昭和四七年三月
三一日第二九回企画展﹃かいこのいるくらしl群馬の養蚕1J群馬県立歴史博 物館昭和六三年四月二三日
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目①︒壹口○さぬ誤勺匡潤︾目①浅毎房弓gロロ◎さぬ胃の己旨ご言い四国︒宛の巴言い﹄の︑m
○四ヨウ﹃昼駒の︑
同書第二三三図に︑﹁無音のローラー﹂の模式図がある﹇図蝸﹈に掲載︒
橘守国画﹃絵本直指宝﹄九巻一○冊延享二︵一七四五︶年︵東北大学狩
野文庫?池田文庫︶浪速書鋪称堂版巻之一﹁蚕家織婦之図﹂一三面
橘守国﹃絵本通宝志﹄九巻一○冊安永九︵一七八○︶年大阪渋川清
右衛門︵東北大学狩野文庫︶巻一四時農業
日本学士院日本科学史刊行会編﹃明治前日本蚕業技術史﹄平塚英吉編著
日本学術振興会一九六○年三月三○日
中山久四郎﹁耕織図にみえたる宋代の風俗﹂﹃史学雑誌﹄第二三編第二
号大正元年二月二○日
紬屋吉平﹁紬﹂﹃暮しの手帖﹄第九五号暮しの手帖社一九六八年六月
一日三六四三ページ︒
﹁江戸のメヵニズムーからくりから機械へ1Jたばこと塩の博物館﹃研究
紀要﹄第三号たばこと塩の博物館平成元年三月二○日
小此木エッ子﹁繰る技l上州座繰の技術史﹂﹃江戸のメヵニズムーからく
りから機械へ1J︵たばこと塩の博物館︶研究紀要第三号平成三年三月
二○日五三六二ページ︒
﹇中国﹈
﹁関干程繁︽耕織図︾清代刻石﹂﹃文物﹄一九八一年第九期文物出版社
大慶市文物管理姑﹁大慶市発見宋︽蚕織図︾等両巻古図﹂﹃文物﹄一九八四
年第一○期文物出版社二八三九ページ︒
林桂英・劉鋒形﹁宋︽蚕織図︾巻初探﹂﹃文物﹄一九八四年第一○期文
一
八
物出版社三一三三︑三九ページ︒
蒋文光﹁談楼濤︽耕織図︾清代刻石﹂﹃文物﹄一九七九年第三期文物出
版社
李紀賢﹁康煕五彩︽耕織図︾紋瓶﹂﹃文物﹄一九七九年第八期文物出版社
趙雅書﹁﹃耕織図﹄与清刻石﹃耕織図﹄﹂﹃幼獅学誌﹄第一六巻第三期
一九八一年
朱新予主編﹃中国糸綱史︵通論︶﹄紡織工業出版社一九九二年二月
彩図二六﹇朝鮮半島﹈
朝鮮総督府勧業模範場﹃朝鮮ノ在来農且倉勧業模範場大正一四年三月
一五日﹇復刻版慶友社一九九一年三月一五日﹈
第一四四図ざゐニョリ繭ヨリ糸ヲ繰り手ニテ練り合ス処ナリ
ざゐハ糸繰器ノモノニシテニ本ノ針金二竹ヲ通シタルモノヲ台二据付ケ
糸繰二使用ス
④王潮生主編﹃中国古代耕織図﹄農業出版社一九九五年一二月
なおここでは耕織図のうち︑織部のみを抽出して本稿に掲載した︒ただ
し木綿の伝来︑桑織図との関係については︑ここではとりあげない︒
⑤﹃中国古代耕織図﹄には︑この詩の集成がなされている︒
⑥浅野秀剛/ティモシー・クーラク編﹃喜多川歌麿﹄展図録大英博物館・
千葉市美術館一九九五年三二五三二六ページ﹁女織蚕手業草﹂一
三︑四六
女の仕事とされた養蚕の手順を描いた風俗画︒﹁壱﹂から﹁十二終﹂まで一
二枚揃であるが︑右から左に画面が展開が︑続くように構成されている︒
⑦日本学士院日本科学史刊行会編﹃明治前日本蚕業技術史﹄日本学術振興
会昭和三五年三月三○日三○九一○ページ︒ ⑧なお︑沖縄では桑樹の生育が早いので︑立木仕立のものがみられる︒⑨﹃群馬県蚕糸業現況調査書﹄﹃高崎織物現況調査﹄群馬県第三部明治三
九年﹇﹃明治前期産業発達史資料﹄別冊⑱︵Ⅲ︶明治文献昭和四四年一
一月一五日に収む﹈
﹃カイコのいるくらしl群馬の養蚕︲J第羽回企画展群馬県県立歴史
博物館昭和六三年四月二三日二一二ページ︒
⑩角山幸洋﹁﹃耕織図﹄をたどる﹂﹃近畿民具﹄第六号近畿民具学会一
九九二年一○月一六二六ページ︒
⑪日本学士院日本科学史刊行会編﹃明治前日本蚕業技術史﹄日本学術振興
会昭和三五年三月三○日三○一二ページ︒
⑫清・焦乗貞﹃耕織図﹄﹁鑿花﹂
空引機が画面から消滅するのは天野元之助も注目している︒
渡辺武﹁中国農書﹁耕織図﹂の流伝とその影響について﹂﹃東海大学
紀要﹄文学部一九八七年三月八五一二○ページ︒
⑬中村伸生﹁大阪の四条画家︑西山完瑛の︿養蚕図︾﹂﹃肝陵﹄第二九号
関西大学博物館平成六年九月三○日八九ページ︒
ここでは﹃耕織図﹄の存在には何も触れるところはない︒
⑭奥村正二﹃小判・生糸・和鉄l続江戸時代技術史l﹄︵岩波新書︶岩波
書店一九七三年七月二○日九二ページ︒
﹁手曳き﹂に歌麿の﹃女織蚕手業一星繰糸︵緤糸︶をつかって掲載してい
るが︑説明はない︒
⑮紬屋吉平﹁紬﹂﹃暮しの手帖﹄第九五号暮しの手帖社昭和四三年五月
一日三六四三ページ︒
⑯志村明﹁中国的自然の粋絹﹂﹃別冊太陽﹄伽八五一九九四年四月二
五日
一
九
1
⑰朝日新聞社編﹃日本染織地図﹄創造と伝承︵シリーズ﹁染織の文化﹂③︶
朝日新聞社蚕織錦絵﹁女の手業を題材に描く﹂ 二
0
図1 王禎『農書』 「農器図譜集」 16 南繰車
平 現 南
図3 王祈『三才図会』器用九巻南繰車
練 絲
竹 枝
堪蘭 手弗
令
心
姐
拉 頃
佃 保
図2 『便民図纂』繰糸
図4 中国の製糸方法(狩野永納『耕織図』国立公文書館・ 内閣文庫蔵)
図6 『絵本直指宝』 「農家蚕婦女之図」 図5 『侃文斉耕織図』織第13図繰糸
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北尾重政・鈴木春信『絵本宝能纏(かいこ やしない草)』第九
図9 上垣守国『養蚕秘録』 「丹波・丹後・但馬糸をとる図」 〔享和2(1802)年〕
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図10 『養蚕教諭集』 「丹波。丹後・但馬糸をとる図」 〔安政6(1859)年〕
ローラー型製糸具で製糸(シルビア『東南 アジアの手織機』による)
図12 タ イ の 製 糸 方法(スウサン・コンウエイ
『タイの織物』による) ニ
四
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図16 中国の製糸方法(マリア・テレサ『メキ シコにおける絹の美術史』による)
図17 西山完瑛『養蚕図』明治初期〜中期頃(関 西大学図書館蔵)
図
1 3
メ キ シ コ の 製 糸 方 法 ( マ リ ア ・ テ レ サ『メキシコにおける絹の美術史』による)
図14 製糸方法(繭を煮る)セイラム・ピーポ ディ博物館蔵
『モース・コレクション/日本民具編』による
五 図15 ローラー型製糸模式図(ニーダム『中国
科学技術史』第