井庭可笑作・北尾政演画『東都土産 大津名物』
著者 谿 季江
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 16
ページ 67‑88
発行年 2010‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/2934
六七
井庭可笑作・北尾政演画『東都土産 大津名物』
谿季 江
はじめに
天明元年(一七八一)刊『東都土産 大津名物』は井庭可笑作・北尾政演画の黄表紙であり、大津絵を主題とする。大津絵は江戸初期から幕末・明治期に至るまで、手頃な土産物として東海道を往還する人々の間で大いに人気を博し、日本全土に知れ渡る名物となった。土産品としてのみならず、絵画としての評判も高く、同時代に活躍した多くの画家が、大津絵の主題や造形性に関心を示し、大津絵を取り入れた作品を残している。本書において挿画を担当した北尾政演こと山東京伝も大津絵に魅了された画家の一人である。本書は大津絵が黄表紙に取り入れられた珍しい作例であるため、ここに紹介したい。
『東都土産 大津名物』について まず、国立国会図書館所蔵本を底本とし、本書の概略を述べることにする。小本一巻一冊。左肩に白題簽を置き、「東都みやげ 大津名物」と記す。柱題には「大津一~十」とあり、序文・跋文はない。
作者の井庭可笑について、あまり詳しいことは知られていないが、通称猪与八、堪亭などの号がある。没年、享年には二説あり、『選集』に よると、「天明三年癸卯六月三日没す行年三十七才四ッ谷大木戸理性寺ニ葬ル法号玄如院要山」と記されている。『増補年表』及び『名人忌辰録』も同様の内容である。一方、「作家人名辞書」には「天明二年六月三日没、享年五十八」と記され、また『江都諸名家墓所一覧』(文化十五年版)も同様に「天明二年六月三日 大木戸理性寺」とある。小石川鷹匠町に住んでいたとされる ①。
絵師の北尾政演は、本姓岩瀬氏、幼名は甚太郎、後に醒(さむる)、俗称を京屋伝蔵と云ったことから山東京伝の名で知られる。北尾政演は画号であり、別号に菊亭、醒斎などがある。宝暦十一年(一七六一)八月十五日、江戸深川木場に生まれ、文化十三年(一八一六)に五十六歳で没するまで、浮世絵、黄表紙、洒落本、滑稽本、読本、合巻など多方面のジャンルで活躍した。本論で紹介する『東都土産 大津名物』は、京伝が多くの黄表紙を手がけた安永年間から天明期の作にあり、絵組みは政演の発明によるものとされる ②。
物語は大津絵の店における店主と客との会話から始まる。東錦絵の盛況を聞いた大津絵の親玉である「鬼の念仏」は、江戸見物に出かける。旅の途中で世話になった女房に頼まれ、仲間の「藤娘」を絵から抜け出させる。その後、二人で両国見世に出て大入りをとり、故郷大津で仲良く暮らすという結末である。少々長くなるが、本文の翻刻を以下に記す ③。
(一オ)〔図
大津えはむかしより □□□の 2〕
六八
きゆうみやげのしななりしがきんねんは江戸のにしきえがはつこうしてしばらくへまわり名だいの大津えもむかしほどはうれずながさきのはてまでもしょじあづまにしきえの事とは なりぬ「どふでござるあきないはできるかの」「いや今年ばかりころはとんとうれませぬが名物だけにまづこのえやうはいでとりつけております」(一ウ・二オ)〔図
みざりしが 江戸へ ひさしく かわれねば みやげにも とかく江戸 ちかきころ ねんぶつは かぶおにの のおやだま さて大津え 3〕
六九 とかく江戸へでたくなりふうふねしづまりしよ江戸けんぶつとこころざしける「なんでもちと江戸へでてたのしみませうきんねんは江戸のよしわらでにはかまつりとやらがはじまったそうなまづこいつをみよふ」「もしへなにか はこががた〳〵します」(二ウ・三オ)〔図 わらじの ぞうり いきふるき ふとめは なれば なんぎ ほへられ いぬに おおくの かたちゆへ ならぬかほ よるはにんげん なくいそぎけるが ちゅうや ゆかんと はやく 江戸へ それより 4〕
七〇
たぐいなわにゆいつけ二間計にながくして引つりあるきしゆへこのわらじに犬どもじゃれかかりてあまりつよくはほへもせざりしなり鬼とのじゃれとはこの事なるべし 「わん〳〵」
「おれが顔をみなれぬゆへちくせう(めかど?)ほへるにはいきついた ちとこのわらじでたすかるべい」
(三ウ・四オ)〔図
やり なかまのやっこの をとりてみるにわれどおなじ したるえのひきさきすてある 見事にさいしき みちばたに おりからなにか やすみし へんにて よしだの いそぎしに〳〵のがれだん なんぎは まづ犬の あけければ 扨よも 5〕
七一 おどりのえなりつく〳〵みるうちにもこきゃうなつかしくおなじえながらわれは江戸けんぶつにいでたのしむにこのやっこえはこどものために引さかれしふびんさとひたんのなみだにくれ かねうちなが (ママ)らしえこうなどなしけるはくゆせうなり「扨てもはかないありさまじやなむあみだぶつ 〳〵」
つふの旅人このありさまをみてきのどくにおもいまことにおにのめにもなみだとはこのことなるべし
(四ウ・五オ)〔図
鬼のねん 6〕
七二
ぶつはねんりきとどきそののちほどなく江戸につき宿をとらんにもおにのことなればせんかたなくあちこちとあるきしがしばのへんにて酒やへよりまづ江戸の酒をのまんとやうやうでんかくくらいなおごりにておびただしく酒をのみふらふらと又あるきしがふとかんぶつやのみせをみこみしにわせまめおびただしくあるし (ママ)を 見てきをうしなふ是よりまめはおにのきらいなるをしりてせつぶんにおにうちまめとなづけいつとふにまくことにはなりぬ又いたってつよき酒をおにころしといふもこのようなことなるべし「こいつはおにのどふしんじゃほんのこれがおににかなぼうた」
七三 とんだやつかうせで町内へやっかいをうける「おや〳〵あのほうさまはえにかいたおにのやうだどうしたのふだいぶ酒にようたそうだかほへみづをふきかけたがえ」「ついぞなへたおれものだ」 (五ウ・六オ)〔図 でさ 江戸へ てに をあ どこ して 鬼どのが 大津の なう ほぞん をきき やうす やくのもの そのほかちょう 月行事 せうがつき ければやうやう ほうなし いろいろかい おきいれ しんばんへ まづえ 7〕
七四
しやつた
□□□□□きんじょにやまのとおりものありしちちかきころ山もわたらずにゆうほうをおきざりにしていづくへかゆきかたしらずにゆうほうはこけにてうし(な)いける(かおん?)よにはまれなるきんぴらものにてこぶんのわかいものをたのみこのほど大津より鬼のねんぶつきたりしば にて気をうしないしんばんの所にいるよしをききもらわんといふ「わたくしは□□□□□□の大津えのおにでござりますあまりきんねんえどがこいしくえどけんぶつにでましてふつとまめをみましてきをとりうしないましたおおきにごくろうをかけきのどくにぞんじます」「どふぞこなたそこをあしままいってもらってこざれどふか かねになりそうなしろものだ」
「ただとはいきますまいからおまへの所へいり
七五 やどにんにしてあやなしませう」(六ウ・七オ)〔図
ぶんおれがしるひとものだ いふたかついだおんなずい 「おどればふじのえだをなるとはよく にはきじんが そうだんするおにの女房 ますまいかとこれがたとへの にもらふとはなり くようにはそれをていしゅ ものはなしいきてはたら ほどおそろしいおまへのやうに にかけては鬼にてやつはり なりおそろしいおまへのじゆつ おおきな山事あらばとふぞ よびむかへしもこれも大津え もらいしえなりかのおにを いりやどにんにきゅうみやげに とればまへに芝へやりまづ まいいだしこぶんのものを えをいち是より後家は 8きろたる〕 もめ 後家は ある時
七六
なりちとしたわけもありやはりおれがなかまなればたとへ江戸に同じくすまいなせばとてよび出してでぬといふ事はなしそこらのかべえはって置きやれよび出して見せふ」
「きみやうちょうらい 〳〵」
(七ウ・八オ)〔図
おきわからぬ はりこれも をかべにふりまわし 女のえふじのはなを 扨て鬼のねんぶつはいでおなじく 9こつぜんとぬけ〕 二八計の女のえ はりおきたる けるにふしぎや はじめ おどりを つまらぬ なにか うちならし かね なれば のもの おいへ おき かくし のうちへ をば一間 女房
七七 身ぶりにておどりける「やれ〳〵おなつかしや〳〵去年のはる江戸へきてわたしも花のかすみなつていたわいな」「おまへよりや大津でいちわせし事わすれはすまいのふ」おにの女房といわれたるごけもこのていを一間より みてぞつとする「やれやれおそろしい化物やしきをみるよふだ それでもそんをしてならぬなんでもあやなして手にせねばならぬ」(八ウ・九オ)〔図 かへして下されと 国へ二人ながら をはなしとふぞ わけある事 やうやうかの女と あんじくらせしが 何といわんや 今の女房に あいよろこびしが ふしぎな所で かきせし女に にて国元のいい ぶつは久しぶり それより鬼のねん 10〕
七八 たのみしゆへそんならば二人して両国へみせ物にて比され其上かねをもふけしだい二人へもそうおうにろぎんを遣べしといふに二人の 大津えもちからをえ そうそう両国へいでしめずらしき いきた大つのおどりゆへひゃう ばんよくごけも大きにあたたまりけり
「めづらしいものだのこしらへ物ではなへかしらぬ」
「評判 の大津えのおどりじやまちふだ〳〵今が鬼のねんぶつじや」「廿文おともはまけます」(九ウ・十オ)〔図
とうぞ の者も けるゆへ二人 両のよおち うちに百 あまりの わづか二ケ月 事なれば りやくどもの になだかき さてお江戸 11〕
七九 国へかへしたれといいしにまたやまじといふものは思ひきる所はおもひきるものにてまだ人もはいれむかのおどりをしまわせまへの大津えどもへ金三十両ろきんをやりける「これは〳〵かたじけないえんごくものへわれ〳〵なが〳〵おせわになりましたわたくしはおまえのおかげにてふかくいいもうせし」「女に めぐりあいしもひとへにてんのおひきあわせでござります」「ふしぎな事でわたしもかねもふけをしました是は少しなれど二人のろきんにしてくだされ」(十ウ)〔図 むつまじ ふうふ ろきんをもうけくにもとへかへり そののちりょうにんの大つえは山しの後家がかげにて 12〕
八〇
くすははんじゃう大つえのめいぶつとはなりぬ
「おれもおのしにわかれてぶつどふにいりねんぶついつさんまいとなりしが又ろうふうふになつてはおれがなりがつまらぬからまたげんぞくして□□にでもなりており下もすはているえにならずはなるまい」
又鬼の身にて 二八あまりのうつくしき女を女房にもちたるゆへおにも十七とはいいつたへしなり可笑戯作 北尾政演画
本文において、「鬼の念仏」と「藤娘」が、絵から抜け出す趣向が見られる〔図
3・ 襲したのであろう。 、絵画にも繰り返し描かれた趣向であるため、可笑もこれらを踏があり ④ のの段」において、大津絵が精住絵から抜け出す場面家平』「香魂反又 門の作に由来する。宝永二年(一七〇五)刊行の近松門左衛門作『傾城 9向可はう趣たしのこ笑〕。考案でなく、近松門左衛は
次に、「鬼の目にも涙」(四オ)、「鬼に金棒」(五オ)、「鬼の女房には鬼神がなる」(六ウ)などの諺や格言が、複数引用されていることが注目される。また、節分の豆まきや日本酒の銘柄である「鬼殺し」の由来に関しても述べられている(五オ)。こうした、「地口」や「洒落」を用いた言語遊戯は、黄表紙には欠かせない。しかし、小池正胤氏によると、可笑の黄表紙は、女・子供を対象とした教育的な内容のものが多く、極端な諧謔性を追求したものは見られないとされる ⑤。本書においても、比較的平明な言葉遊びに終始しているものの、「鬼との戯れ」を「鬼との
八一 じゃれ」にかけるなど(二ウ・三オ)、可笑の遊び心を垣間見ることができ、可笑の黄表紙としては珍しい作例であると考えられる。 さらに、物語の終盤で、「鬼の念仏」と「藤娘」は、両国見世物に出て大入りとなる場面がある。同時期に制作された黄表紙には、両国・浅草・吉原・隅田川・亀戸・日本橋などの江戸の名所の様子を織り交ぜ、江戸のにぎわいを描いたものが少なくない ⑥。そのため、本書の趣旨も、活気に満ちた江戸の様子を描き出すことにあると言える。
近世社会における大津絵像(結びにかえて)
本書は大津絵が主題となっていることから、大津絵研究における資料価値を持ち合わせている。本書の物語設定から江戸後期における大津絵像を考察してみたい。上述したように、本書の目的は、江戸のにぎわいを描き出すことにあると考えられるが、その際、上方を代表する土産品として知られていた大津絵を主題とすることにどのような意味があるのだろうか。大津絵と錦絵について述べられた文頭の一文が、作者の意図をよく示しているので引用する。(引用箇所のみ漢字を当てた)
「大津絵は昔より旧土産の品なりしが、近年は江戸の錦絵が発行してしばらくへまわり、名代の大津絵も昔ほどは売れず、長崎の果てまでも諸事東錦絵の事とはなりぬ。」(一オ)
上方土産としての大津絵と東錦絵が対比的に描かれており、大津絵を 時代遅れで古臭いものとして描くことによって、東錦絵の人気を強調し、引いては上方に勝るとも劣らない江戸の繁盛ぶりを示すねらいがあると考えられる。しかし、裏を返せば、ここで大津絵が用いられていることこそが、当時の江戸で大津絵が広く知られ、一定の評価を得ていたことを示していると言えるのではないだろうか。 現在、大津絵は民藝(民衆的工藝)として語られることが多く、錦絵とは全く異なる研究領域であるとされる。しかし、当時の人々の視点から両者を見た場合、共に特定の地方を代表する土産物として同列視されていたと考えられる。こうした当時の状況を踏まえ、今後は大津絵の評価を再考察する必要がある。註①
棚橋正博『黄表紙総覧 前編』(日本書誌学体系四八
-一)
、青裳堂書店、一九八六年、一八三
-一八四頁、及び、森銑三・中島理壽編『近世人名録 集成 第二巻』、勉誠社、昭和五一年、二六九頁参照。② 同書、三〇六頁。③ 翻刻は次の方針によった。
・原文に忠実であることを旨とし、漢字を当てたり、送り仮名を補うことなどはしなかった。
・改行は原文のママとした。
・読みやすくするために適宜、濁点を付け加えた。
・明らかな字画の誤りは正し、衍字は( )に入れたが、判読に疑問が存在する箇所には(ママ)と記し、あるいは( )に入れ?記号を付した。
八二
また判読不能な字画は□とした。
・人物の詞またはそれに準ずるものに限って、「 」を用いた。④ 近松全集刊行会編「けいせい反魂香」『近松全集 第五巻』、岩波書店、一九八六年、三八四
-三八五頁。
⑤ 小池正胤「伊庭可笑の黄表紙
―
安永・天明期の一系譜―
」『言語と文芸』第四巻九号、明治書院、一九六二年、二五頁。⑥ 例えば、安永七年刊『東都見物左衛門』(松壹舎作・北川豊章画)や、安永九年刊『江戸大じまん』(作者・画工署名ナシ)などが挙げられる。前掲註①、一八五、二〇〇頁参照。八三 ︹図
︹図1︺ 表紙
2︺ 一オ
八四
︹図
3︺ 一ウ・二オ︹図
4︺ 二ウ・三オ
八五 ︹図 5︹図︺ 三ウ・四オ
6︺ 四ウ・五オ
八六
︹図
7︺ 五ウ・六オ︹図
8︺ 六ウ・七オ
八七 ︹図 9︺ 七ウ・八オ︹図
10︺ 八ウ・九オ
八八
︹図
11︺ 九ウ・十オ︹図
12︺ 十ウ