平城宮跡・平城京跡の発掘調査
平城宮跡発掘調査部
1 9 9 4 年 度 に 平 城 宮 跡 発 掘 調 査 部 が 実 施 し た 発 掘 調 査 は 平 城 宮 跡 7 件 、 平 城 京 2 0 跡 件 、 京 内 寺 院 等 2
件である。以下に主要な調査の概要を報告する。
1 平 城 宮 跡 の 調 査 右馬寮の調査(第2 4 6 次)
佐 伯 門 の 北 東 部 、 平 城 宮 跡 資 料 館 や 収 蔵 庫 の 建 つ 一 帯 は 1 9 6 8 〜 1 9 8 0 年 度 に か け て ほ ぼ 全 域 の 調 査 を 完 了 し 、 西 面 巾 門 で あ る 佐 伯 門 か ら 西 而 北 門 に か け た 広 い 地 区 が 官 馬 の 調 習 ・ 飼 養 を 職 掌 と す る 馬 寮 であり、その北半部に正庁部分、南半部には馬房、馬場など飼育・調習の空間を設けていたことが判
明している。今回の調査区は佐伯門の南東部、宮内道路の南側である。調 査 区 東 端 で 検 出 し た 柱 間 9 間 の 南 北 塀 S A 1 6 3 5 0 は 幅 2 m 前 後 、 深 さ 0 . 9 〜 1 . 4 m の 布 掘 り の 掘 り 込 み 地 業 を 伴 う 。 こ れ は 上 記 馬 寮 の 南 北 塀 S A 5 9 5 0 の 南 の 延 長 上 に あ た り 当 該 官 簡 の 東 を 限 る 施 設 と 考 え られる。また、S A 5 9 5 0 と柱間および柱根が同規模であることから馬寮と同一の規格で設計されたもの と 考 え ら れ る 。 東 限 の 南 北 塀 S A 1 6 3 5 0 か ら 西 へ 1 2 0 尺 の 位 置 を 建 物 心 と す る 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 1 6 4 0 0 は 南 北 両 面 に 廟 が あ り 、 桁 行 7 間 ( 1 0 尺 × 7 ) 、 梁 間 4 間 ( 1 0 尺 × 4 ) の 規 模 を 有 す る 。 こ れ は 馬 寮 の 正 殿 S B 6 4 5 0 と 同 一 規 模 で 位 置 関 係 も 近 似 し 、 S A 1 6 3 5 0 か ら 1 0 0 大 尺 と い う 完 数 性 の 高 い 位 置 に あ る こ
とから当該官簡の正殿と考えられる。この柱掘形は明らかに重複しており、同位置で建て替えられた1 9 9 4 年度平城宮跡内発掘調査位祇図(1:10,000)
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第2 4 6 次調禿遺構平而図(1:6 0 0 、左は第2 5 次洲在区、アミは弥生時代の遺椛)
可 能 性 が 高 い 。 掘 立 柱 南 北 棟 建 物 S B 3 5 6 3 で は 第 2 5 次 調 在 で 西 側 柱 列 を 検 出 し 、 南 北 塀 と 認 識 し て い た ものであるが、 今何束側柱列の一部と北妻を検出し、 北妻の位置が正殿S B 1 6 4 0 0 の棟通りに一致するこ とが判明した。正殿の東側にこれに対応する建物は存在しないが、西脇殿に相当するものとみられる。
掘 立 柱 南 北 棟 建 物 S B 3 6 2 1 も 第 2 5 次 訓 在 で 西 側 柱 列 を 検 出 し 、 南 北 塀 と 認 識 し て い た も の で あ る が 、 桁 行 8 間 ( ま た は 7 間 ) 、 梁 間 1 間 の 建 物 と 判 明 し た 。 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 1 6 4 1 0 は 正 殿 と 軸 線 が 一 致 し ないが、後殿としての性格が想定される。ただし、正殿と併存した確証はなく、ある時期の中心建物 の 可 能 性 も あ る 。 正 殿 の 北 に は 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 1 6 4 5 5 、 北 西 に は 掘 立 柱 南 北 棟 建 物 S B 1 6 4 2 0 ・ S B 1 6 4 3 0 、 北 東 に は 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 1 6 4 4 0 を 配 す 。 掘 立 柱 南 北 棟 建 物 S B 1 6 4 4 5 は S B 1 6 4 4 0 を 建 て 替 え た も の で あ ろ う 。 他 に 掘 立 柱 建 物 S B 1 6 4 5 0 、 S B 1 6 4 6 0 、 S B 1 6 4 6 5 、 S B 1 6 4 7 0 が あ り 、 平 安 時 代 に 降 る 可能性がある。平安時代以後の遺椛として建物6棟、塀1条、井戸3基、土坑数十雄、溝数十条を検 出した。また、弥生時代の遺構として方形周溝墓5雄のほか、溝と土坑がある。完掘した方形周溝墓
S X 1 6 3 6 0 の溝の最下部から弥生時代前期の流用蓋形土器が出土した。律令官制では馬寮は左馬寮と右馬寮に分かれており、それが奈良時代の末に主馬寮に一本化された が平安時代初頭に再び左右の馬寮が綴かれた。平安宮では西面南門の内側南北にそれぞれ右馬寮、左 馬 寮 が 殻 か れ 広 い 面 稜 を 有 し て い た 。 平 城 宮 で も 平 安 宮 と 同 様 に i I l i 馬 寮 が 南 北 に 満 か れ て い た と し 、 佐伯門北東部の馬寮を左馬寮にあてるとすれば、訓杏地区が右馬寮の北半部にあたり正殿等の正庁部 分が置かれていたことと理解でき、佐伯門の東北部の左馬寮との類似性が増す。今回の調在では遺物 から当該官簡名の特定はできなかったが、佐伯門の北東部、佐伯門から西而北門に至る区両を左馬寮、
佐伯門の南東部、佐伯門から西面南門である玉手門に至る区画を右馬寮と推断するに至った。
内裏北外郭北方の調査(第2 4 8 ‑ 1 次)
住宅改築に伴う事前調査である。調在区は内膳司と推定されている内裏北外郭の北方でこの官術の
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な か っ た も の の 、 こ の 位 置 に 築 地が存在していた可能性が高い ことが判明した。これによって、
内裏北外郭と第一次大極殿北外 郭の両官簡の北面をつなぐ閉塞 施設が想定されるようになった。
東西溝S D1 2 9 2 7 は第1 7 4 ‑8 次調 査でも検出し、内裏北外郭の官 簡の北面築地雨落溝と想定され ていたものであるが、SX16500 より新しく、奈良時代の溝の位 置を踏襲した後世のものと考え られる。なお、調査区は市庭古 墳前方部の西周濠にもあたり、
調 査 区 の 東 端 で 周 濠 の 底 を 検 出
した。
西 而 築 地 の さ ら に 西 方 に 位 置 す る 。 検 出 し た 遺 構 は 瓦 溜 り 、 東 西 溝 1 条 お よ び 柱 穴 と 近 世 ・ 近 代 の 井 戸 で あ る 。 1 E 溜 り S X 1 6 5 0 0 か ら は 大 量 の 丸 ・ 平 瓦 と 軒 丸 瓦 6 3 0 4 C l 点 、 軒 平 瓦 6 6 6 4 F 1 点 、 6 6 6 4 K 6 点 、 6 7 2 1 C 1 点 お よ び 面 戸 瓦 1 点 が 出 土 し た 。 こ れ ら は 築 地 の 落 下 瓦 と み ら れ 、 築 地 本 体 は 確 認 で き
な か っ た も の の 、 こ の 位 置 に 築
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第2 4 8 ‑ 1 次調査発掘遺構図、西壁土1W 図(1:1 0 0 )した。
式部省東官簡の調査(第2 5 6 次)
平城宮跡南辺の束隅を南北に流れる用水路の改修工事に伴う事前調査である。 近鉄線の南第2 2 2 次調 査区と第32次補足調査区に挟まれる区域である。遺構は調査区中央の用水路で大きく削平をうけ、そ の 南 端 の 用 水 に よ る 破 損 は 著 し い 。 隣 接 す る 近 鉄 線 の 北 側 西 方 で 行 っ た 第 2 3 6 次 調 査 な ど か ら 一 帯 の 様
子が明らかになり、今回の調査区は式部省東宮術と仮称される区域の東南隅にあたり、下層遺構が奈200
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式部省東官簡における建物配置の変化(左:下届、右:上屑1:1 , 0 0 0 ) ( 単位:尺)
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良 時 代 前 半 の 式 部 省 、 上 層 遺 構 が 奈 良 時 代 後 半 の 神 祇 官 と 推 定 さ れ て い る 。 遺 構 は 大 き く A 期 、 B 期 の 2 時 期 に 分 か れ 、 A 期 は 第 2 3 6 次 調 査 の B 期 、 B 期 は 第 2 3 6 次 調 査 の C 期 に そ れ ぞ れ 相 当 す る 。
A 期 下 層 遺 構 に 伴 う 第 1 次 整 地 屑 の . 上 面 で 、 下 ル 梢 術 の 南 而 を 限 る 掘 立 柱 東 西 塀 S A 1 4 6 8 1 の 東 端 1 間 分 ( 柱 間 約 2 . 4 m ) お よ び こ の 束 側 の 柱 穴 か ら 北 へ 延 び る 掘 立 柱 南 北 塀 S A 1 6 3 4 0 を 4 間 分 ( 柱 間 約 2 . 4 m ) 検 出 し た 。 こ れ に よ り 下 層 官 簡 の 東 南 隅 が 確 定 し 、 南 面 東 西 塀 S A 1 4 6 8 1 の 規 模 は 5 9 . 2 m ( 2 0 0 尺 )
と判明した。
B 期 上 層 遺 構 に 伴 う 第 2 次 整 地 層 の 上 面 で 遺 構 を 検 川 し た 。 北 側 石 組 み 雨 落 溝 S D 1 4 7 2 1 と 南 而 築 地 塀 S A 1 4 7 2 0 の 下 の 石 組 み 暗 渠 S X 1 6 3 4 5 ( 調 査 区 外 に 延 び る ) に よ っ て 、 下 層 造 椛 の 南 面 東 西 塀 S A 1 4 6 8 1 の 位 置 を 踏 襲 し た 上 層 官 簡 の 南 而 築 地 塀 S A 1 4 7 2 0 が 想 定 さ れ る が 、 築 地 積 土 は 失 わ れ 掘 込 地 業 も 明確ではなかった。他にこの時期の遺椛には第2 2 2 次調査で検出している掘立柱東西棟建物で南廟と 床 束 を 伴 う S B 1 4 7 5 0 が あ り 、 今 1 口 I そ の 東 妻 を 検 出 し 身 舎 が 梁 間 2 間 、 桁 行 4 間 で あ る こ と が 確 定 し た 。
S B 1 4 7 5 0 の北側にはその雨落溝があり、北廟の出は1 . 5 mを計る。今回の調査で下層官簡の規模は確定したが、上屑官簡の東而築地塀の遺椛は検出されず、位置や方
向を間接的に推定できる資料すら得られなかった。上屑官術の束限の検出が今後の課題である。
小子門および東一坊大路の調査(第2 4 8 ‑ 1 3 次)
平城宮東院地域の水路の護岸改修工事に伴う事前調査である。まず、小子門の西側では水路の束壁 に直径3 0 c m 弱の柱根を伴う柱穴が検出された。小子門の棟通りは束院南面の築地大垣心と一致するこ とが知られているが、この柱穴は門の棟通りにあたる位稚で、築地大垣に先行する下l W i の掘立柱塀の ものである。一方、小子門の西から南へ延びる束而火皿の位置はおおよその推定が可能であるが、正 確な位置は未確定であった。今回の調査では、検出した柱穴と水路が束に向きを変える屈曲部との間 で水路の西側法面に黄燈色の築地の掘り込み地業が認められたことと、掘り込み地業の東端は水路の 東端を南北に走ることが判明した。このことから束面大垣心は水路内の西よりの位澄と考えられ、柱 穴は大垣屈曲部の心にあたるものではなく、わずかに東に位液することになる。第3 9 次調査ではこの 柱穴の東隣りにあたる、南面の築地大垣下層の柱根を伴う柱穴が検出されており双方の柱間は約9尺
平城宮小子門付・近の復原(1:800)
と な る 。 と こ ろ で 束 面 大 垣 の 築 地 の 掘 り 込 み 地 業 の 認 め ら れ た 水 路 西 側 法 而 で は 地 業 の 枝 土 の 下 に 柱 穴 は 一 切 認 め ら れ な か っ た 。 し た が っ て 、 小 子 門 南 の 束而大垣については先行する掘立柱塀がなく、当初 から築地大垣が造営されたことが明らかとなる大き な成果を得た。次に、水路が再び南流する地点の南 で近鉄線までの間では、束一坊大路の東西両側溝の 確認を目的とした6ケ所のトレンチを設けた。北側 の 第 1 ・ 第 2 ト レ ン チ の 間 で は 束 一 坊 大 路 東 側 溝 に あたる南北溝SD 5030の西肩を39mにわたって検出 したが、その大半を現水路および近代の水路跡が破 壊 し て お り 、 そ の 溝 心 を 確 定 す る こ と は で き な か っ た 。 鮫 も 南 の 第 6 ト レ ン チ で は 束 一 坊 大 路 西 側 溝 に あたる南北溝S D 4 9 5 1 を検出。その規模は溝幅5 . 3 m、
深さ0.8mであることがわかった。なお、注目すべき 遺物には小子門の南で出土した軒丸瓦6 3 04 Lがある。
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2 平 城 京 跡 の 調 査
左京三条一坊十四坪の調査(第2 4 9 次)
共同住宅の建設に伴う事前調査である。調査区は左京三条一坊十四坪の北東隅にあたり、同坪の西
辺で行った第4 6 次調査から同坪は園池をもつ1坪(以上)占地になる可能性が高いことが指摘されて いる。検出した遺構は掘立柱建物1 2 棟、掘立柱塀8 条、土器埋納遺構1 基、土坑2 基等で、これらはいず れも奈良時代のものと考えられ、遺構の重複関係、出土遺物等から4時期に区分される。
A 期 ( 奈 良 時 代 初 め ) 調 査 区 中 央 東 寄 り の 2 間 の 南 北 塀 S A 5 6 6 8 と 2 間 以 上 の 東 西 塀 S A 5 6 6 9 の ほ か に
顕著な遺構は認められない。B 期 ( 奈 良 時 代 前 半 ) 敷 地 内 を 掘 立 柱 塀 で 区 画 し 、 そ の 中 に 南 北 棟 建 物 2 棟 が 南 北 に 並 ぶ 。 北 側 の 掘 立 柱 建 物 S B 5 6 3 1 は 梁 間 2 間 、 桁 行 7 間 で 東 に 廟 が 付 く 。 こ の 建 物 の 南 側 の 3 間 分 に は 棟 通 り に 間 仕 切 り 用 の 柱 穴 が 残 り 、 北 側 4 間 と は 用 途 が 異 な っ て い た と 考 え ら れ る 。 南 側 3 間 の 西 側 に は 3 間 分 の 南 北 塀 S A 5 6 3 6 が あ り 、 こ れ は 目 隠 し 塀 も し く は 西 側 の 廟 と 考 え ら れ る 。 ま た 、 南 側 の 掘 立 柱 建 物 S B 5 6 3 7 は 西 廟 を 伴 う が 、 建 物 の 北 西 部 の み の 検 出 で あ る た め 規 模 は 不 明 で あ っ た 。 S B 5 6 3 1 の 北 側 で は 掘 立 柱 東 西 塀 S A 5 6 4 1 を 東 西 4 間 分 、 掘 立 柱 南 北 塀 S A 5 6 4 2 を 南 北 2 間 分 検 出 し た 。 こ れ ら は L 字 ま た は T 字 形 に
1 9 9 4 年度平城京・京内寺院等の発掘調査位置図(1:5 0 , 0 0 0 )
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つながる塀であろう。S A 5 6 4 1 の柱間は9尺である が、S A 564 1の東から2間目が8尺と狭いことか
ら、ここが通路になる可能性がある。
C期( 奈良時代後半)B期の南北棟2棟を東に寄
せて建て替えた配置をとる。北側の掘立柱建物 S B 5 6 3 0 は梁間2間、桁行7間で東胸を伴う。南側 の掘立柱建物SB 5 6 3 8 は北西部の一角のみの検出 で礎石建物の可能性もある。掘立柱建物S B 5 6 3 2 は 東妻のみの検出。他に掘立柱東西棟建物S B 5 6 6 5 の 東妻、 掘立柱南北棟建物S B 5 6 4 0 の東南部を検出し た。 築地等の痕跡はないが、 S B 5 6 6 3 は東西1間(7 尺)で東西の築地に開く門の可能性がある。土器 埋納遺描S X 5 6 7 0 はS B 5 6 3 0 とS B 5 6 3 8 の中間にあ り、須恵器壷A(奈良時代前半)に須恵器皿Cを 反転させて蓋としたもので、土器内外の土壌資料 の分析から銅刀子、鎚挺、筆管とともに胎盤を納 めた胞衣壷と判明した。D期( 奈良時代末)掘立柱南北棟建物S B 56 34 の 他、小規模な掘立柱建物が点在する。また、土坑 SX5645からは蛸. 渦片、炉壁、鉱津等の鋳造関係の 遺物が出土した。
今同の調査から奈良時代の中頃をはさむB、C 期は敷地内を塀等で区画し、建物を整然と配置し た様相が明らかになった。坪の中心部等が未調査 で あ る が 、 坪 の 北 東 部 は 主 要 施 設 の 領 か れ た 区 画 の一つであったと推定される。
頭塔の調査(第2 5 7 次)
今年度頭塔では発掘調査は実施していないが、
復原工事に伴う北面第3〜6 段の石稜の解体工事で 得られた知見を報告する。まず、北面石稜第4段 の 基 底 石 は 完 全 に 埋 ま っ て い る か 、 第 3 段 の テ ラ ス面からわずかに頭を出しているに過ぎないが、
前面が平で幅50 〜60 c m と大きさの揃った石を選び、
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石稜の前面を真っ直ぐ、に揃えた丁寧な施工をしていることがわかった。これはこれまでに実施した束 面第3.5段および北面第3段の断ち割り調査でもl T i l じような状況を確認しており、同様の施工を行 っていると考えられる。また、北面第5段中央付近に据えられた、表面に円形の突起のある大型の石 材は従来からその解釈が難しかったが、その裏側に円形の窪みを発見した。これは表而の突起とほぼ 同位置にあり、裏面の窪みの方がわずかに大きい。表面だけでなく見えない裏面までも周縁部以外は 盤で平滑に仕上げられていることから、他所からの転用材である可能性が高くなった。しかし、その 本 来 の 用 途 や そ れ が 頭 塔 の こ の 位 置 に 据 え ら れ た 意 味 は い ぜ ん 不 明 で あ る 。
79
S │ 銅蛎関
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第249次調在区遺椛平面図(l:300)
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左京七条一坊十六坪調査位置図(1:1 , 0 0 0 )
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丘 1 1 1
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六 条 大 路▲ I
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東 一 坊 大 路 土 器 埋 納 遺 構
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左京七条一坊十六坪の調査(第252.253.254.255次)
大型小売店舗新築に伴う事前調査である。敷地は左京七条一坊十六坪の大部分と六条一坊十三坪、
七条一坊十五坪、七条二坊一坪の一部にあたる。敷地面稜は約3 1 . 5 0 0 , 2 で、このうち七条一坊十六坪 をI : ' 1心とした約1 4 . 0 5 5 , 2 を5 次に分けて調査した。第2 5 1 次調査(別項で報告)は東一坊大路上に調査
区 ( 約 2 5 5 , 2 ) を 設 け た 。 第 2 5 2 次 調 査 で は 十 六 坪 の 東 北 部 を 中 心 と し た 調 査 区 ( 約 3 . 9 0 0 m恩 ) で 六 条 大 路、 東一坊大路の確認のためのトレンチを延ばした。第2 5 3 次調査では十六坪の東南部を中心とした調 査 区 ( 約 3 . 7 3 0 m 賢 ) 、 第 2 5 4 次 調 査 で は 十 六 坪 の 西 南 部 を 中 心 と し た 調 査 区 ( 約 3 . 7 0 0 , 2 ) 、 第 2 5 5 次 調 査 で は 十 六 坪 の 西 北 部 を 中 心 と し た 調 査 区 ( 約 2 . 5 0 0 , 2 ) を そ れ ぞ れ 設 け た 。 そ の 結 果 、 十 六 坪 周 囲 の 条 坊 関 係 遺 構 、 十 六 坪 の ほ ぼ 全 容 お よ び 十 五 坪 の 北 辺 部 の 様 相 等 が 判 明 し た 。 な お 、 十 六 坪 内 は 東 北 部 、 東南部、西南部、西北部で様相が異なるため、この順に分けて記述する。
条坊関係遺構
六条大路の南北両側溝を検出したことにより、六条大路の幅員がはじめて判明した。溝心々距離
西側溝
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七条条潤北小路
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1 4 . 1 〜 1 4 . 6 m で 1 4 . 2 m と す る と 4 0 大 尺 に 復 原 で き 、 他 の 大 路 よ り 狭 い こ と が わ か っ た 。 六 条 大 路 北 側 溝 は 幅 4 〜 6 m 、 深 さ 0 . 8 m で あ る 。 六 条 大 路 南 側 溝 は I 陥 4 m 、 深 さ 0 . 7 m で 、 溝 は ほ と ん ど 埋 没 し た 時 点 で 幅 0 . 7 m 、 深 さ 0 . 3 m に 掘 り 直 し て い る 。 東 一 坊 大 路 も そ の 両 側 溝 を 検 出 し た 。 束 一 坊 大 路 束 側 溝 は 幅 約 3 m 、 深 さ 0 . 3 m で 小 規 模 で あ る こ と か ら 主 と し て 道 路 の 排 水 を 処 理 し た も の で あ ろ う 。 一 方 、 東 一 坊 大 路 西 側 溝 は 幅 約 7 . 6 〜 8 . 3 m 、 深 さ ] L 2 〜 1 . 6 m で 規 模 が 大 き か っ た 。 堆 枝 屑 は 奈 良 時 代 前 半 、 奈 良 時 代 後 半 、 平 安 時 代 前 半 、 平 安 時 代 後 半 、 平 安 時 代 末 期 の 5 照 に 区 分 で き 、 溝 の 廃 絶 は 平 安 時代末である。奈良時代後半に堆枝が進み、平安時代初頭には幅は当初と変わらないものの、深さ50 c mに な っ て い た 。 そ の 後 さ ら に 堆 職 が 進 み 、 深 さ 3 0 c mに な っ た 時 、 平 安 時 代 前 期 の 堆 職 屑 の 上 面 か ら 幅 2 . 5 〜 3 . 4 m 、 深 さ 0 . 3 〜 0 . 6 m の 蛇 行 し た 溝 を 掘 削 す る 。 平 安 時 代 後 期 に 蛇 行 溝 が 埋 没 し 、 幅 約 8 m 、 深 さ 0 . 2 m の 浅 い 溝 と な り 、 両 岸 に 入 江 状 の 入 り 込 み 部 分 が 数 ケ 所 で き る 。 こ れ は 第 2 5 2 次 調 査 の 南 端 部で検出した堰とともに溝を水mの用水として利用した時のものと考えられる。さて、七条条間北小
路でも南北両側溝を検出し、その規模は七条条間北小路北側溝で1 幅1 . 8 〜2 . 5 m、深さ0 . 4 〜0 . 6 m、七 条条間北小路南側溝で幅1 . 4 〜2m、深さ0 . 3 〜0 . 4 m、溝心々距離で約7m、路面幅は5m前後であっ た。平城京では1町3 7 5 大尺(4 5 0 小尺)四方で条坊を計面し、この計i I l l I 線上に道路心を淡くが、六条 大路心から3 7 5 大尺南に位置するのは七条条間北小路の北側溝である。 藤原京では条坊計画線上に小路 側溝を置き、坪によって両側溝の内のどちらを置くか一定しない方式があった可能性が指摘されてい るが、平城京でもこの方式を採ったか検討を要する。東一坊坊間束小路でも両側溝を検出したが、西 側 溝 は そ の 束 肩 の み で あ っ た が 、 溝 心 々 距 離 で 約 7 m と 推 定 で き る 。 束 一 坊 坊 間 束 小 路 束 側 溝 は 幅 1. 3〜2. 9m、深さ約0. 3m、東一坊坊間束小路西側溝は推定で幅1. 4m、深さ0.4mである。側溝に架か る橋として、東一坊大路西側溝にはS X218・SX314があり、束一坊坊間束小路束側溝にはSX445があ る。側溝に伴う遺構としては東一坊大路両側溝の底で検出した曲物の埋設遺構S X 2 1 6 がある。これは 大小の曲物を上下二段に据えたもので、流水を浄化して用いるためのものであろう。条坊遺構にともなう埋葬ないし祭祁遺構
十六坪を囲む条坊遺構上で4ケ所の土器埋納遺購、1ケ所の祭j i i U 土坑を検出した。SX 2 1 5 は六条大 路北側溝の路肩近くにある土器埋納遺術で、奈良時代後半の饗2点を合1 ‑ 1 で土坑内に横たえ埋納した もの。SX316・S X3 17 も同様で、束一坊大路の路面上、七条条間北小路との交差点近くで検出された。
なお、これら護内の内容物特定のため誕内に残っていた土壌について脂肪酸分析を現在行っている。
S X 4 4 6 は奈良時代後半の護1点を土坑内に横たえ埋納したもので、有機質の蓋があった可能性がある。
SX444 は七条条間北小路南側溝底の長さ6.4m、深さ0. 5mの祭祁土坑で、西側には馬の上顎2点、 下顎 1点、脚部などの骨が渠中し、中央部に土師器喪や畿審人而土器、馬上顎1点、東側に須恵器壷、須 恵器杯などが埋められていた。出土土器の年代は奈良時代前半である。
十六坪内の遺構坪内を南北に二分する位祇に束西溝S D 20 7 、東西に二分する位満にSA 40 2 がある。
前者の西半部は調査区外で、後者は北半部に及ばないが、これらおよびその延長で区画される区域を ここでは便宜的に東北部、東南部、西南部、西北部と呼ぶ。
東北部の様相
検出した遺構は掘立柱建物5棟、掘立柱塀2条、溝3条、井戸1基、土坑1基である。建物は1側 の建て替えがあり、束半には建物遺椛は見られない。十六坪の四周のうち、六条大路に面する北面と 東一坊大路に面する束面には築地塀があったと考えられるが、 削平され本体は進存しない。 S D 2 0 9 は六 条大路の南側溝の南約5 . 2 mにある幅0 . 7 〜1 . 1 m、深さ0.4mの東西満で、北面築地の南雨落溝と考え ら れ る 。 埋 土 か ら は 築 地 の 崩 壊 土 と 多 数 の 瓦 片 な ど が 出 土 し た 。 十 六 坪 の 南 北 を 二 分 す る 東 西 溝 S D2 0 7
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東 南 部 の 様 相
東南部で検出した遺赫は掘立柱建物8棟、掘立柱塀5条、土坑5基などで各建物間には敷地を区画 す る 明 瞭 な 施 設 は な く 、 奈 良 時 代 を 通 じ て 東 南 部 を 一 体 的 に 利 用 し て い た と 考 え ら れ る 。 東 南 部 、 西 南部、西北部では遺構の方位の振れ、重複関係、位置関係からA〜Dの4期に区分でき、A・B期が
奈良時代前半、C・D期が奈良時代後半にあたる。A期掘立柱東西棟建物S B 3 0 5 は正殿で、 桁行5間、梁間2間に南府がつく。桁行の中心が坪の南北四 等分線上にあり、桁行の中心は坪の東西四等分線上にある。正殿の西にある掘立柱南北棟建物S B 3 0 8 は桁行5間、梁間2間に東府がつき、南妻を正殿の南脈に揃える。正殿の東南にある掘立柱南北棟建
物S B 311は桁行3間、梁間2間であるが、南妻を3間に割っており中央に戸口を設けたと考えられる。S X3 2 3 は七条条間北小路北側溝の北側にある2個の柱穴で、小路への出入り口であろう。
B期A期のS B 305・S B 308は存続し、正殿SB 305の北側にその後殿となる掘立柱東西棟建物SB 302
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C期B期の建物をすべて廃し、敷地の中央北端近く、東西四等分線上に桁行5間、梁間2間、南廟 付きの掘立柱東西棟建物SB 2 2 0 を讃〈。またその南5 . 9 mに目隠し塀SA 3 0 3 を設ける。さらに、坪の東 西二等分線上に南北棟建物SB 4 04(後述)を置く。
D期S B 22 0を廃し身舎の位置と規模を変えずに南廟のない掘立柱東西棟建物S B 22 1に建て替える。
S B 2 2 1 の南に掘立柱塀S A 3 0 1 、東に掘立柱塀S A 2 2 2 、南西に掘立柱南北棟建物S B 3 0 6 を置き、その南に は掘立柱塀SA 307を配する。
西 南 部 の 様 相
西南部で検出した遺椛は掘立柱建物20棟、掘立柱塀8条、井戸1基、溝1条、土坑多数で東北部、
東南部に比べ数が多い。
A期A期の遺椛の方位は北でやや西偏する。十六坪の南半を東西に二分する掘立柱南北塀S A4 0 2 が 西南部の東を限る。SA 4 02 の西には桁行6間、梁間2間の掘立柱南北棟建物S B 407 があり、その北に は柱筋を揃えた総柱の掘立柱南北棟建物S B 4 1 3 がある。S B 4 0 7 の北西には掘立柱南北棟建物S B 4 1 8 が あり、梁行中心が坪の南北四等分線上にのる。S B 4 2 8 は総柱の掘立柱南北棟建物で、北妻がS B 4 0 7 の 北妻と筋を揃える。
B期B期の遺柿の方位は北で束偏するものが多い。掘立柱南北棟建物S B 4 0 9 はS B 4 0 7 と同規模で北
へ2間ずらし建て替えている。SB 4 0 9 の北には棟通りを揃えた掘立柱南北棟建物S B 4 1 4 がある。桁行5S A431
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西 北 部 の 様 相 西 北 部 で 検 出 し た 遺 構 は 掘 立 柱 建 物21棟、掘立柱塀 5条、井戸4基、
溝 4 条 、 土 坑 4 韮 である。
A 期 北 面 築 地 南 雨落溝S D 2 0 9 のす ぐ南に建物3棟を 置 き 、 そ れ ら の 南 に掘立柱建物4棟、
掘 立 柱 塀 1 条 を 置 く。これらは南北 両 廟 付 の 掘 立 柱 東 西棟建物S B 5 0 6 の 妻 柱 筋 、 側 柱 筋 か ら 1 0 尺 単 位 の 距 離
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間 、 梁 間 2 間 に 南 北 両 廓 が つ く 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 4 2 5 は そ の 南 の 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 4 2 4 と 束 妻 を 揃 え て 建 つ 。 さ ら に 、 そ の 南 に は 掘 立 姓 東 西 棟 建 物 S B 4 2 3 が S B 4 2 4 の 桁 行 中 心 線 に 束 妻 を 揃 え て 建 つ 。
ま た 、 2 7 , 分 を 検 出 し た 幅 0 . 6 m 、 深 さ 0 . 1 5 m の 溝 S D4 2 9 は 束 一 坊 条 間 束 小 路 束 側 溝 か ら 1 7 . 7 m ( 6 0 尺 )
東にある。
C 期 C 期 の 遺 構 の 方 位 も 北 で 東 偏 す る も の が 多 い 。 B 期 ま で の S A 4 0 2 を 掘 立 柱 南 北 塀 S A 4 0 3 が 踏 襲 す る が 、 掘 立 柱 南 北 棟 建 物 S B 4 0 4 で 止 る 。 こ の 塀 か ら 掘 立 柱 東 西 塀 S A 4 0 8 が 西 に 延 び 、 そ の 南 に は 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 4 2 2 が あ り 、 東 妻 を S B 4 1 9 の 桁 行 i l 』 心 線 に 揃 え る 。 東 西 塀 の 北 に は 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 4 1 9 が あ り 、 そ の 北 側 柱 を S B 4 0 4 の 南 妻 に 揃 え る 。 東 西 両 廟 が 付 く 掘 立 柱 南 北 棟 建 物 S B 4 2 7 は そ の 東 施 が S B 4 0 4 の 棟 通 り か ら 2 9 . 7 m ( 1 0 0 尺 ) 離 れ 、 桁 行 が 5 間 と す る と 桁 行 中 心 線 が S B 4 0 4 の 北 妻 と 揃 え る よ う に 配 置 し て い た と 考 え ら れ る 。 S B 4 2 7 の 西 に は S A 4 0 8 の 3 m 北 か ら 北 へ 延 び る 掘 立 柱 塀
S A 4 3 1 がある。
D期C期のS B 4 1 9 を同位領、同規模で建て替えた掘立柱東西棟建物S B 4 2 0 を中心として方位の振れ な い 遺 構 が 擦 然 と 配 置 さ れ る 。 坪 の 東 西 二 等 分 線 上 で は S A 4 0 3 を 廃 し 、 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 4 1 5 の 束 妻
から南に延びるS A 4 0 5 に替わる。S B 4 2 0 の北に掘立柱東西塀S A 4 2 6 、束に掘立柱南北塀S A 4 1 7 、さらにそ の 南 に 掘 立 柱 東 西 棟 建 物 S B 4 1 6 掘 立 柱 南 北 塀 S A 4 1 7 が あ る の み で 、 S B 4 2 0 の 周 囲 で は 遺 構 が 疎 で あ
る。これに対・し、束一坊条間束小路に而した敷地の四辺には掘立柱南北棟建物S B 4 3 0 、SB 4 3 2 、 S B 4 3 3 、 S B 4 3 4 があり、敷地利用が街路寄りに変化したと考えられる。その他の遺構としては廃絶が奈 良時代末で、時期が未確認の井戸SE 4 1 1 がある。掘形は蚊大径3mで、戒径0 . 8 m・長さ1 . 8 3 mのヒノ キの大木をくり抜いた井戸枠を伴う。S K41 0は井戸の試掘の跡か、 井戸枠を伴わず途1 1」 で放棄したもの85 lY18. , 50
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