Vol. 55. No. 12. 2013.
表紙の解説 戦争に翻弄された眼科医たちの軌跡
谷 原 秀 信
本は日英同盟に基づいて,連合国側の一員とし て参戦し勝利することで,強国としての立場を 強めます。そして日本は,日中戦争(1930︲ 1945 年),そして太平洋戦争(1941︲1945 年)へ と突き進み,第二次世界大戦の敗戦によって国 家体制は激変して,戦中・戦後の窮乏,その後 の復興を経て,経済大国である民主主義国家と しての現在の日本の姿に至ります。ここでは, その是非や歴史観を論ずることはしません。た だ国家の浮沈の中で,眼科医たちの人生がどの ような形で翻弄されながら,自らの信じる人生 を歩んでいったのかを記しておきたいと思いま す。表紙に掲載した一葉の写真は,戦争を経て 人生の陰影を感じたであろうヒルシュベルグ博 士の肖像です(図 1)。はじめに
学問やスポーツにおいては国境を設けず,国 家間の諍いにかかわらず,友好的な交流を維持 すべきだという理想論があります。ただ現実問 題として,国家の政治経済のあり方や国家間の 地政学的なパワーバランスは,深刻な形で国民 感情に影響を与えます。学者や医師においても, 残念ながら例外ではあり得ません。世界史的な 視点で 19 世紀後半から 20 世紀前半にかけての 近代史を俯瞰すれば,ヨーロッパ諸国の覇権争 いの中で,日本は明治維新を迎え,日清戦争 (1894︲1895 年),日露戦争(1904︲1905 年)を勝 利することで,アジアの新興国家として勃興し ていきます。さらに第一次世界大戦(1914︲ 1918 年)を経てドイツ帝政は崩壊しますが,日 図 1 ユリウス・ヒルシュベルグ(JuliusHirschberg)と蔵書譲渡を持 ちかけた彼の書簡 (「東京大学医学部眼科学教室百年史」より許諾を得て転載)の軍医,石原 忍の軌跡
日露戦争については,司馬遼太郎は,小説 「坂の上の雲」によって,秋山真之や正岡子規 らの青春群像と,封建制から脱皮した新興近代 国家としての日本の勃興を重ね合わせています。 アジアの小国であった日本が,強大な帝政ロシ アを打ち破ったことは,大きな驚きを以て受け 止められ,以後,日本は列強諸国の一員として の立場を確立していきます。東京大学第 2 代眼 科教授の石原 忍は,「学生の時から陸軍の軍医 を志願して,依託学生になっていた。それで明 治三十八年十二月,大学を卒業するとすぐ,見 習医官になって,近衛歩兵第二聯隊(九段に あった)に入営した」(石原 忍「回顧八十年」) ということですから,筋金入りの軍医です。彼 は,1905 年の日露戦争勝利後,日本で推し進め られていた富国強兵の施策下,陸軍に眼科専門 の軍医がいなかったことから,眼科を選択する ことを条件に,1908 年,東京大学での大学院入 学と眼科研究を許され,1912 年には,ドイツへ の官費留学を認められます。石原 忍は,ドイ ツ留学では,イエナ大学ストック教授やフライ ブルク大学のアクセンフェルド教授に師事しま すが,この時期の思い出を振り返って,日露戦 争について以下のような言及を残しています。 「(ドイツの)大学には,各国から留学生が来て いたが,インドから来ていたドクトルと話をし たことがあった。このドクトルは,日本が日露 戦争に勝つたことを非常にほめて「今まで私は, 西洋人は優秀な民族であるから,東洋人はその 支配を受けるのが当然だと思っていた。しかし 日本がロシアに勝つたので,はじめて目がさめ た。印度も将来はきつと独立する」といつてい た。今になつて,このドクトルの言葉が実現し, 私は陰ながら拍手をおくりたい気持でいる」 (石原 忍「回顧八十年」)。 を築きつつあった日本の軍医として,石原 忍 が日露戦争の勝利に大きな誇りを持っていたこ とは間違いないと思います。しかし,彼の留学 中でさえ,深刻化していった世界情勢の変化は, 大きな影響を留学生たちに与えます。留学して 2 年後の 1914 年,第一次世界大戦が勃発した のです。彼の記憶によると,「そのうちに,八 月になって第一次世界大戦がはじまった。はじ めのうちは,よく事情がわからなかつたので, 日本はドイツの味方で,東のほうからロシアを 攻めるのである,という噂がとび,我々日本人 は大いに優遇された。私は兵士が召集されて出 征するところを,停車場まで見に行つたりした。 そのうちに,日本はドイツの敵である。という ことがわかつてきて,状勢が険悪になつて来た。 当時,日本は世界の強国のひとつであつたので, 日本がどちらに,味方するかゞ,戦争の勝敗に 大きな関係があつた。私は軍人であつたから, すぐに命令を受けてベルリンに集まり,いち早 くロンドンに逃げた。民衆はすでに相当興奮し ていて,敵国人だというだけで,路上で袋だゝ きにしたりしていた。私がドイツの国境を出る ときは,すでに形勢があやしくなつていて,敵 国を旅している不安を,ひしひしと感じた。ど うやら無事に,国境を通過してオランダに,は いつた時には,全くほつとした」という経緯で した。当時の世界的な眼科の権威たちの下で, 有意義な研究生活を過ごしていた石原の留学は, 勃発した第一次世界大戦によって,暴力的で不 穏な情勢の中,異国からの剣呑な脱出劇として 終わりを遂げるのです。 ところで司馬遼太郎が彼の小説のタイトルに 用いた「坂の上の雲」という言葉は,小説の本 文中には出てきません。その代わりに,あとが きとして,「楽天家たちは,そのような時代人 としての体質で,前をのみ見つめながら歩く。 のぼってゆく坂の上の青い天に もし一朶の白Vol. 55. No. 12. 2013. い雲がかがやいているとすれば,それのみをみ つめて坂をのぼってゆくであろう」という文章 があるのです。余談なのですが,これは,筆者 が好きな文章のひとつなのです。果たせぬ夢で あることを自覚しないままに,ただひたすら前 を向いて歩いて行く楽天的な青年たちの姿は, 何とも切なく,しかし好ましいものに感じます。 作者である司馬遼太郎は,この楽天家たちの風 情に,日露戦争を勝利していく日本のイメージ を合わせ,そして,その後に訪れることが運命 づけられている覇権国家としての破綻を示唆す る切ない寓意を託してあります。小説の登場人 物達も,日露戦争で連合艦隊の作戦参謀を務め, 「知謀湧くが如し」と評された秋山真之は,戦 争中の体験に精神を疲弊させ,晩年は霊・宗教 の研究に深くのめり込んでいきます。正岡子規 は,結核を病み,東京根岸に現在も残る子規庵 (戦火で焼失した建築を復元したものです)にお いて,小さな庭と書斎を世界のすべてとして, 写実的な作品を残しつつ,若くして他界します。 主要な登場人物たちは,「坂の上の雲」を目指 し,確かに歴史に自らの夢のかけらが具現した 痕跡を残しながらも,寂しい生涯を終えること になります。他方,日露戦争の勝利以降,勃興 期のピークを迎えた日本は,その後,覇権主義 に傾斜し,統制経済による軍事国家を目指す急 進的な軍部の暴走を抑制することができなくな ります。これ以降の戦争に関連した眼科医たち の記憶は,哀しく陰鬱な物語が続くことになり ます。
第一次世界大戦によるドイツ医学界との齟齬
第一次世界大戦において,連合国側についた 日本は,戦勝国としての立場を強める反面,列 強諸国のひとつであったドイツ帝国は,敗戦に よって崩壊し,深刻な状況を迎えます。明治期 における日本眼科医の先達たちは,ドイツ眼科 医から後進国であると思われていたに違いない 日本に対する温かい支援と指導を受けて,自ら の学問的な立場を確立していきました。ところ が戦争の勝敗によって,その力関係は大きく転 換していまいますが,そのことによって空しい 感情の齟齬が発生することになります。 周知のごとく,明治期の日本医学は,隆盛を 極めたドイツ医学に範を取ることで,その近代 化を展開しています。眼科領域における明治期 の先達も,そのほとんどが,ドイツもしくはド イツ語圏のスイスやオーストリアの大学に所属 している権威の教授を頼って留学をしたのです。 その代表は,石原 忍も師事したフライブルク 大学のアクセンフェルド教授です。彼は,後年 (1930 年),子息を同行して来日して,彼が指 導した日本の眼科医たちを歴訪し,非常な厚遇 を受けて感激して「日本への旅」という著作を 残すほどの親日家でした(図 2)。しかし世界的 権威であったアクセンフェルドには,日本の眼 科医たちに対する憤慨と不信で,非常に頑な言 動に至ったという記録が残っているのです。 この経緯については,「日本眼科の歴史 大 正・昭和(前)篇」(日本眼科学会百周年記念誌 編纂委員会)に詳細な記録が残されていますの で,ここに抜粋致します(以下,この段落中の 図 2 アクセンフェルド教授の東京大学訪問(昭和 5 年の来日時,スクリバとベルツの銅像に献花 をした記念撮影) (「東京大学医学部眼科学教室百年史」より許諾を得て転載)深刻化に伴って,終盤の 1918 年,連合国側の 学士院連合会は,ヨーロッパ諸国が主導する形 でドイツ学者の国際学会からの排斥を展開して いきます。連合国側に与していた日本の学士院 は,この排斥運動に賛同していたといわれてい ます。当然のことですが,このような排斥運動 に対して,ドイツの学者たちは憤慨することに なります。それまで好意的に日本からの留学生 を受け入れてきたアクセンフェルドは,「悲憤 慷慨家であり,日本に対して悪感情を抱くよう になった」ということです。ドイツの敗北に よって,世界大戦は終了するのですが,その後, 日独間のわだかまりを解消するために,内田孝 蔵(須田卓爾の実弟),宮下左右輔(宮下俊吉の 息子),小柳美三らが奔走することになります。 アクセンフェルドは,「学問は,政争にとらわ れず,これを超越すべきものである」という理 念を唱え,「傷つけられたドイツ学者の誇りと 名誉は回復されないと甚だ頑固であった。宮下 は自己の責任において,日本の医学者は学問に 国境はなしとの思想をもつ旨の公開状を作成し て Klin Montabl Augenheilk に送った。ここに おいてやっとアクセンフェルドの怒りも和らぎ, 日本人の論文投稿を歓迎するとの申し出があっ た」ということです。しかし,そのような経過 においても,一部のドイツ学者は,和解を拒み, 日本人との面会を謝絶するものがあったり,逆 にドイツ学者を排斥する国際学会に日本の学者 が出席しないように要求したりするという動き もあったと記録されています。 世界的な学問の最高権威としての自負と誇り をもったドイツの教授たちが,かつての教え子 である日本人眼科医たちに対して,強い不信と 嫌悪感を示すに至った事情は理解できます。ま た敗戦後に,改めて日独の眼科医間の交流を再 開したいと願って奔走する日本人側の立場も当 然ではあり,尊厳を損ねられ頑なになったドイ 批判されかねない)相当な無理を重ねて,修復 作業を行っている様子が窺えます。それまで巨 人を仰ぎ見るようにしていた後進国であった日 本が,戦争を契機に掌を返すような態度を示し たことは,ドイツ学界の巨匠たちにすれば,俄 に信じ難い事態であっただろうと推測できます。 しかし一方で,国家の命運を賭けた戦時に,愛 国心の深い当時の日本人眼科医たちが,連合国 側の政治的画策の歩調を乱すことに躊躇が生じ ることも容易に理解できます。これらの歴史的 な経緯を俯瞰しても,それまでの日独間に存在 していたであろう牧歌的な師弟関係と友情が, 即物的な国の施策や政治的画策によって押しつ ぶされていく構図が,なんとも哀しく思えます。
ヒルシュベルグによる河本重次郎への蔵書の譲渡
第一次世界大戦を契機とするドイツ帝国の敗 戦と戦後の衰退は,さまざまな諸相の中で,影 響を与えていきます。敗者の悲哀は,なんとも 切なく寂しい逸話へと繋がっていきます。それ は,やがて訪れることが定められた二度目の世 界大戦で日本が味わうことになる挫折とも相通 じるものがあるように感じます。個人的には, その象徴的な出来事が,河本重次郎によるヒル シュベルグの蔵書の購入であろうと思っていま す。 ヒルシュべルグは,ベルリン大学でグレー フェ教授の門下となり,優れた学問的業績を挙 げ,多数の門下を育成しますが,ユダヤ人で あったためか,ついに主任教授には就任するこ となく終わります。東京大学の初代眼科教授で あった河本重次郎は,このヒルシュベルグの下 で,一時期,修学していました。河本の回顧録 を読むと「明治二十一年は伯林に行き,一學期 丈けヒルシュベルグやシュワイゲル抔の傍見せ り」と記されています。ただ,この簡潔な記載Vol. 55. No. 12. 2013. からは,両者の間に強い精神的紐帯があったと は窺えません。明治 25 年(1892 年),ヒルシュ ベルグは,ヨーロッパ眼科界の巨匠としては初 めて来日して,非常な厚遇を受けることになり ます。博覧強記で好奇心旺盛な彼は,晩年,眼 科史の執筆に没頭します。当時,世界的な眼科 史研究の泰斗といえば,その筆頭にヒルシュベ ルグが挙げられるほど,有名であったようです。 河本重次郎は,明治 40 年(1907 年),ヨーロッ パを歴訪しますが,この際,ヒルシュベルグと 再会します。河本の回顧録には,「ヒルシュベ ルグ老先生を訪問せるが,氏は大に喜び,余を 晩餐に招かる,其節,自慢旁々,頻りに其蔵書 を示された。氏は其節,六十二,三でありしな らんが,既に全くの白髪の老人に見ゆ,細君に は既に死別れ,獨り暮らして居られた」と記さ れています。 この有名な眼科医が死去した際,蒐集した史 料となった貴重な文献を含めた彼の蔵書は,日 本に渡っています。これは比較的有名な逸話で あり,大正 10 年(1921 年),突然にヒルシュベ ルグから河本重次郎に書面が届いたことがきっ かけでした(図 1)。「自分の蔵書は世界に二つ とない図書であり,部数も多く珍書もあり。今 日またと得難いものである。これを価 4 万円で 譲りたい。4 カ年に分けて毎年 1 万円宛として, 4 年後に全額払済みの上で渡そうということで あった。以前日本を訪れた折,非常に厚遇を受 けており,その感謝をこめて,自分の貴重な蔵 書を売り渡したい。これを購入すれば日本に とってその国家に利すること大であろうという 趣旨である」(「日本眼科の歴史 大正・昭和 (前)篇」日本眼科学会百周年記念誌編纂委員 会)。さらに河本自身の回顧録においても「氏 は自分の死後,伯林の圖書館に納むべく用意し て居られたが,大戦の結果,金に窮されたもの と見え,突然四萬圓に買つて吳れんかと請求し 來れり,氏は,其の日本國家の爲,後來大 あ るべきを縷々申し越された」と記載されていま す。 大正時代の物価は,現在から 600~1,000 倍 と考えられていますので,現在の価格では数 千万円ということになります。ただ,大正 9 年 (1920 年)頃の総理大臣の月給が 1,000 円,国会議 員の月給が 500 円,公立小学校の初任給が 50 円 ですから,当時の貧富格差が激しかったことを 勘案すれば,庶民からの実感としては,数億円 の値打ちがあったとも言えます。当時,ドイツ 留学していた鹿児島 茂(後年,熊本大学 第 4 代眼科教授となります)が蔵書の受け取りを 行っています。河本重次郎を含めた当時の帝国 大学の教授たちが,非常に経済的に裕福であっ たという逸話は多いのですが,この有名なヒル シュベルグ蔵書(現在は「河本文庫」として東 京大学図書館に所蔵されています)の河本重次 郎による購入は,その代表的なものです。 このヒルシュベルグの蔵書譲渡は,日独眼科 医間の信頼関係を示す美談,もしくは快挙のよ うに語られています。実際に,後年,眼科史研 究者たちは,河本重次郎のヒルシュベルグ蔵書 購入を,歴史に残る偉業であると讃えています。 たとえば,日本の医史家,福島義一は,彼の著 作中「眼科史研究の回顧」という章で,「(ヒル シュベルグ)氏の眼科史はそれ程有名なもので あるが,その史料となった多くの貴重な文献を 含んだ蔵書の大部分が日本に渡来して,現在東 京大学附属図書館に所蔵せられていることは, 私達日本眼科学徒が世界に誇るべきものの 1 つ である。この世界羨望の的であるヒ氏の蔵書が 日本へ渡来したのは,東京大学名誉教授河本重 次郎先生の不滅の功績である」と記述していま す。さらに当時,ヒルシュベルグの蔵書は,ド イツ学界の中でも懸念されるほどの存在感があ り,上記のアクセンフェルドが来日した時に, 東京大学図書館がその蔵書を所有することに驚 いたという記録も残されています。「先年,ド
書館を参観して,本文庫(ヒルシュベルグ文庫) の話を聞き,大に驚き,且つ喜ばれたようで 『ドイツでは彼の文庫が,何処へ行ったのであ ろうかと,疑問になっていたのであるが,それ が日本に来ていたのは幸いである』」と述べた という記録が残されています(石原 忍「銀海叢 話」日本眼科学会雑誌)。蔵書の価値に関する 値踏みは,歴史を考証する史料をどれほどの情 熱を以て欲するかによって全く異なってしまう でしょうけれど,眼科史の研究者にとって垂涎 の的であったことだけは間違いありません。 ただ個人的には,ヒルシュベルグの蔵書移譲 は,なんとも切なく寂しい逸話としか思えませ ん。前述のごとく,河本の留学中におけるヒル シュベルグとの交流は比較的あっさりとしたも のでした。好奇心旺盛なヒルシュベルグは,日 本を含めて世界を歴訪していますが,当時,学 問領域ではまだまだ後進国であったであろう日 本において,大変な厚遇を受けたことは,ヒル シュベルグにとって良い思い出であったのだろ うとは思います。ただそれだけを以て,ヒル シュベルグが,日本に対して特別な思い入れが あったというのは,やはり少し無理があるよう に思います。第一次世界大戦の敗戦後,困窮の 中で寂しい老後を迎えていたことが指摘されて います。実際,戦後のドイツでは,連合国側へ の巨額の賠償金を支払うためにハイパーインフ レによる貨幣価値の暴落が生じて,国民生活は きわめて苦しい状況にありました。ヒルシュベ ルグから河本重次郎への譲渡申し出が突然で あった事情も鑑みると,これは第一次世界大戦 後の混乱の中で,世界的な最高権威の一人で あったヒルシュベルグが,孤独な老後生活の中 で貧窮し,かつての教え子でありながらも,戦 勝国側の裕福な眼科医でもあった河本重次郎に 経済的支援を渇望したというのが実相でしょう。 貧窮の中で,蔵書を有償で売り渡すという哀し 盛期に指導した留学生であり,老後に再会した 際に蔵書を自慢したことを記憶していたことで, 河本重次郎に書状を送付することを思いついた のでしょう。愛着のある学術の蔵書と古き良き 想い出を,商売人のような謳い文句の言葉を添 えて金銭に換えるようなことを強いられたヒル シュベルグの心情を思いやると,なんとも辛い ものがあります。何度かに分割された支払いが 完了する直前に,ヒルシュベルグは死去します。 そして彼の死後,その蔵書は,日本へと渡り, 東京大学図書館にてヒルシュベルグ文庫(もし くは河本文庫)と呼ばれる運命となります。た だ,このような事情があったにせよ,ヒルシュ ベルグと河本重次郎の交友と信頼関係,河本重 次郎の学問への情熱があったことを否定するも のではないのだろうとも思う気持ちが強く残り ます。 なお上記の鹿児島 茂ですが,元来,鹿児島 家は,河本重次郎と縁が深いことが記録に残さ れています。茂の伯父,鹿児島注し め き ち連吉が眼科医 として河本と親しいこともあって,しばしば大 牟田にあった鹿児島眼科を訪問したと言われて います(図 3)。鹿児島 茂は,河本重次郎と深 い信頼関係にあり,上記のヒルシュベルグの蔵 書受け取りを任されています。さらに,河本重 次郎の最期にあたっては,病理解剖として河本 の眼球摘出を彼が行う程の縁を持っておりまし た。このように遠く離れていたにもかかわらず, 河本家と鹿児島家の間には,親しい交流があっ たようです。したがって現在価値で数千万円と も数億円とも言われる貴重な蔵書を委ねたのは, 単純に同時期にドイツに留学していた日本人眼 科医に頼んだという軽いものではなく,むしろ 信頼する鹿児島 茂がドイツ留学していたから こそ,ヒルシュベルグ文庫の購入・運搬を委ね たのであろうと考えられます。
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太平洋戦争の敗戦を迎えた眼科医たちの苦境
日中戦争の戦線拡大,国際的な孤立,そして 太平洋戦争へと深刻化していく中で,当時の眼 科医は,戦時下の統制経済による物資不足に苦 慮し,国家総動員を提唱する中で次々に召集さ れていきます。適齢期の(眼科医を含めた)医師 は,通常召集されても,尉官の軍医として従軍 することが通常でしたので,一般国民の従軍と は少し異なるかも知れません。また眼科医で あっても,その専門性を活かされることは少な かったようです。他方,大学においても戦争に 貢献できる研究課題以外は許されない状勢と なっていくのです。研究物質は支給されず,医 局員が次々と召集されていく中で,軍の要請に 応じて,戦闘員の視力増強,暗所視の改善,眼 外傷などの研究だけが許される状勢となります。 しかも敗戦への過程が続く中で,状況は悪化の 一途を辿ります。 全国で同様の事態が生じていると思われます が,一例として,筆者の奉職する熊本大学眼科 の状況をまとめます。1941 年,筒井徳光(図 4) は,岡山医科大学助教授から,熊本医科大学 (現 熊本大学医学部)の第 5 代眼科教授として 着任します。いうまでもなく同年,太平洋戦争 が勃発します。結論から言うと,筒井徳光が教 授職を務めた期間は,終始戦時下の混乱の中で 苦しい教室運営を余儀なくされ,その中で教授 を務めた筒井徳光は,深刻に疲弊していきます。 筒井教授自身の言葉を引用すれば「南,三井助 教授を始め,高安,若江,向坂,出田,緒方, 越山の各講師,その他の男性はみな応召か,或 いは軍関係の病院勤め・・・研究は戦争目的の 達成に直接役立つものにしぼられて官僚統制。 近視,夜間視力の増強,それに航空医学があと から追加」(熊本県眼科医会会報第 10 号)とい う状況だったのです。さらに終戦の年,昭和 20 年(1945 年),勤務していた熊本医科大学は, 木造教室であった教授室,医局,研究室,病室 が全焼して,貴重な図書カルテ,記録などがす べて失われます。眼科入院患者にも犠牲者が出 ました。また広島の原爆では,応召中の教室員 が犠牲となりました。戦後の混乱が続く中,筒 井徳光は,50 歳台前半の若さで大学を辞し,岡 図 3 河本重次郎と鹿児島茂 河本重次郎が大牟田訪問の際,鹿児島の実家である鹿児 島眼科の前で撮影した記念写真(大正元年)。中央右が鹿 児島 茂で,中央左が河本重次郎。 (「熊本大学眼科百年史」より許諾を得て転載) (オリジナルは鹿児島家と中島家所蔵) 図 4 筒井徳光 (「熊本大学眼科百年史」より許諾を得て転載)山に戻って開業することになります。家人の記 憶では,「退職にあたっては,戦争の混乱によ り,大学における研究での限界を感じたことが 大きく影響していた(徳光の孫夫妻の談)」との ことです(「熊本大学眼科百年史」)。敬虔なクリ スチャンであった筒井徳光にとって,戦争に翻 弄されるだけの熊本医科大学時代の記憶は,辛 く味気ないものであったと思われます。 東京においても,1942 年を境として,空襲が 重なっていきます。当時の東京大学の眼科教授 は,石原 忍の後継となった庄司義治でした。 「東京大学医学部眼科学教室百年史」には,敗 色が濃くなっていく中での,刻々と暗鬱に変化 する大学の雰囲気が記載されています。戦時下 では,学園祭「五月祭」においても時局を反映 して,医学部では「大東亜共栄圏における伝染 病」などというテーマでの供覧であったという ことです。また講義においても「南方医学」 「義肢装具学」「軍陣医学」などが指導されるよ うになります。1943 年,連合艦隊司令長官山本 五十六が戦死し,国葬が行われます。「国葬当 日,眼科でも,外来手術室に田野外来医長以下, 医局員,看護婦が参集し,黙祷を捧げ必勝を誓 う遙拝式が行われた」と記録されています。学 生服の金ボタンは「鋼鉄回収指令」により回収 され,医局員の召集会でもソーダ水だけで済ま けないようになっていきました。医学生たちは 夏休みにも,勤労特技隊や無医村診療班での奉 仕をするのが当然視されるような世相となりま す。さらに医学生は,国民勤労協力令により医 学学徒報国隊に組み入れられ,まず陸海軍病院 へ派遣され,種々の実習教育を受けるようにな り,学徒出陣へと至ります(図 5)。そして昭和 20 年(1945 年),東京大空襲の辛い体験を経て, いわゆる玉音放送により終戦を迎えます。庄司 義治の手記によると,終戦の当日は,「11 時 45 分,職員学生一同,本部大講堂に参集すべしと の伝達があったので,汗をぬぐい形を正して講 堂に集まった。実に今や日本は三千年来にない 危機に直面している。米国は人類始まって以来 の残虐なる武器原子爆弾を投下して,一挙に広 島・長崎において数十万の無辜の民を殺害し, ソ聯は不可侵条約を一方的に破棄して満州朝鮮 に侵入した。かかる非人道的邪曲に対し我等 一億の憤激は極点に達している。日本は今こそ 一億火の玉となって敵軍に殺到し,国亡ぶるも 正義の存することを示すべきであるなどと考え つつ,時刻の来るのを待った。(略)宮城の方を 遙拝し襟を正し粛として耳を傾けていると,玉 音静かに言々句々肺腑より出づる御言葉は, 一億の胸を張り裂くまでに浸透する。悲愴やる かたなく,身中の血液一瞬にして凝結せるかと 思われた。その後,耳に聞けども解する力な し・・・・・。」(「寶菀」「敗戦の記」)と記憶さ れています(「東京大学医学部眼科学教室百年 史」より引用)。現在の感覚からすれば,激し く愛国的な修辞が続くのですが,国家によって 情報統制されていた世情の中で,当時の国民の 率直な心情が吐露されていると考えるべきで しょう。かくして日本における戦争は終わり, 新しい時代が始まるのです。 しかし庄司義治の苦難は,終戦で終わるわけ で は な い の で す。 庄 司 義 治 は, そ の 2 年 後 図 5 学徒出陣壮行吟詠大会の記念写真 (「東京大学医学部眼科学教室百年史」より許諾を得て転載)
Vol. 55. No. 12. 2013. (1947 年),病院長(附属医院長)に就任し,病 院の責任者として,アメリカ占領軍の指導によ る軍国主義・反動的なものに対する排斥運動, 労働組合や学生自治会の先鋭化,さらにアメリ カ主導の反共政策に関連した組合対策に苦慮す ることになります。戦後の混乱期,病院執行部 は,処遇問題で労働組合や学生自治会との対立 が激化し,庄司義治の自宅には共産党を名乗る 人々も含めて,多数が腕章をつけて談判のため に連日,押しかけて来るような事態に陥ります。 他方,占領軍司令部からの強い意向もあって, 安易な妥協が容認されるような状況でもなかっ たようです。激しい混乱の矢面に立たされた庄 司義治は,ついに医院長を免ぜられます。庄司 義治が教授を務めた十年間(1940︲1950 年)は, 日本の国と時代を支配する思想が,戦争を契機 として,軍事主導的な国防主義の推進,敗戦に よる国家の崩壊,占領軍による反軍国・民主主 義への急転回,共産主義の勃興,そして冷戦構 造による反共政策という激変を遂げた時代なの です。時代の織りなす世相の激しい振り幅に翻 弄されて,眼科医たちは,与えられた立場や職 責の下で苦悩しながらも,その生涯を全うして いくことになります。