二 〇 一 四 年 十 一 月 二 十 七 日 (親 鸞 聖 人 讃 仰 講 演 会) の 講 話 が真宗大谷派教学研究所発行「ともしび」二〇一五年五月 号 (第 七 五 一 号・ 二 〇 一 五〔平 成 二 十 七〕 年 五 月 一 日) に 収 載 された。それをこのたび、筆者が再訂してここに収載させ ていただいた。 はじめに 親鸞聖人の御和讃 (天親菩薩) に、 信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり (『真宗聖典』四九一頁、東本願寺出版。以下、 『聖典』と略称) とあります。この和讃などを手がかりに、あらためて『教 行 信 証』 「信 巻」 に 取 り 上 げ ら れ て い る 金 剛 心 に つ い て い た だ き 直 し て み た い と 思 い ま す。 今 回 は「金 剛 心 の 獲 ぎゃく 得 とく とは?」という講題を出させていただきましたが、まずそ れについて少し述べたいと思います。 心ということについて思うと、私たちの心には煩悩の心 が起こりますし、事情によっていくらでも動きます。私た ちはとめどなく迷いが起こる心を生きています。それにも
《研究論文》
金剛心の獲得とは?
親鸞仏教センター所長本
多
弘
之
かかわらず親鸞聖人は金剛に譬 たと えられるような心について 語っておられる。それは何を言おうとされたのだろうか、 私にはそのような疑問があります。 あるいは『浄土論』にある「世尊我一心」の「一心」に ついても、金剛心であるとおしゃっているけれども、この 金剛という言葉については納得できないところがありまし た。動きゆく心のなかに阿弥陀如来に帰依する心が起こら ないわけではないのですが、反逆的な心とでもいいますか、 自力の心がいつも起こってしまう。どうしてそのような心 で「本願を信ずることが金剛心である」と言えるのだろう か、そのような疑念が私のなかでずっと続いています。 ま た、 菩 提 心 に つ い て も 同 様 で す。 確 か に「竪 しゅ 超 ちょう の 菩 提 心」 、 つ ま り 縦 型 の 菩 提 心 は 起 こ す こ と は 難 し い。 縦 型 の菩提心によって成仏することを信じてやり抜く心などは と て も 起 こ ら な い。 そ れ は よ く わ か り ま す。 し か し「横 おう 超 ちょう の菩提心」 、つまり横ざまに起こる菩提心とはどういう ことなのか。これが私のなかではなかなかすんなりと落着 しなかったのです。聖人の言われている言葉の意味だけな らわかりますが、自分のこととして納得できないといいま すか、腑に落ちない。 そういうことがあって「私の信心は金剛心です」などと 言 え る の だ ろ う か と い う 疑 問 も あ る ま ま に、 「金 剛 心 の 獲 得とは?」と講題に出してみようということで、今回の講 題に疑問符が付けてあるのです。 金剛心 親 鸞 聖 人 が、 金 剛 心 と い う こ と を 出 さ れ る の は、 『教 行 信 証』 「信 巻」 の 二 河 譬 ひ の 解 釈 の と こ ろ で す。 ご 承 知 の よ う に 二 河 譬 と は、 「人 あ り て 西 に 向 か い て 行 か ん と 欲 す」 (『聖 典』 二 一 九 頁) と い う こ と で、 人 が 宗 教 的 な 実 存 と な ることを善導大師が「西に行く」と表現されていますが、 西に向かおうとするとき、前に忽 そう 然 ぜん として河が現れる。そ の河は南側が火の河で北側が水の河になっており、その真 ん中に白道があるという譬 ひ 喩 ゆ です。この「白道」について 善導大師は、 衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜし
むるに喩うるなり。 (『聖典』二二〇頁) とされ、これに対して親鸞聖人は、 「能生清浄願心」と言うは、金剛の真心を獲得するな り。 (『聖典』二三五頁) と註釈されておられます。この後、さらに親鸞聖人は善導 大師の「 十 じゅう 四 し 行 こう 偈 げ (帰三宝偈、勧衆偈) 」の文、 道俗時衆等、おのおの無上心を発 おこ せども、生死はなは だ厭 いと いがたく、仏法また欣 ねが いがたし。共に金剛の志を 発して、横に四 し 流 る を超断せよ。正しく金剛心を受け、 一念に相応して後、果、涅槃を得ん者 ひと と云えり。 抄要 (同上) を引用されています。親鸞聖人がこの文を根拠にして押さ えておられるということは、二河譬における「白道」を金 剛心の譬喩だと押さえておられるということです。 金剛について そのように親鸞聖人は善導大師の金剛の言葉を引用なさ っていますが、それは親鸞聖人がよほど金剛という言葉に 何か問題を感じられたからであると思われます。親鸞聖人 は こ の「十 四 行 偈」 を 引 い た 後 さ ら に、 「金 剛」 と い う 言 葉 が 出 て く る 文 (「序 分 義」 ) を 引 か れ て、 そ の 後 に も う 一 度、 「金剛」と言うは、すなわちこれ無 む 漏 ろ の体なり。 (同上) と い う 文 (「定 善 義」 ) を 引 か れ て い ま す。 「金 剛」 は 無 漏 の 譬喩であるとおっしゃるわけです。有漏は煩悩があるとい うことで、無漏は煩悩がないということです。金剛とはダ イヤモンドのことであり、そのダイヤモンドは炭素の結晶 です。炭素は四つの手があるといわれていますが、ダイヤ モンドは炭素の四つの手同士ががっちり組み合っており、
純粋無垢の結晶です。この世のなかでは唯一と言ってもい い純粋無垢の結晶、それがダイヤモンドです。 金剛心を発すとは 先ほどの善導大師の「十四行偈」の引文は親鸞聖人の抄 要ですが、そこには「共に金剛の志を発して、横に四流を 超断せよ」とありました。この「共に金剛の志を発す」と いうことはどういうことなのでしょうか。自分一人が菩提 心 を 起 こ し て「仏 に 成 る の だ」 と 頑 張 る の で は な く、 「み んなと一緒に仲よくやりましょう」とお念仏する。そのよ うに考えればわからないではないですが、親鸞聖人がその ようなことを言っているとは思えないのです。 こ の「共 に 金 剛 の 志 を 発 し て」 と い う 言 葉 の 前 に は、 「各 発 無 上 心 生 死 甚 難 厭」 と あ っ て、 「無 上 菩 提 の 心」 を「お の お の が 発 す」 場 合 に は、 「生 死」 の 迷 い を 厭 い 捨 てることははなはだ困難であり、仏法を欣うこともまた困 難であると述べ、それを受けて「共に金剛の志を起こし」 と 続 い て、 「横 に 四 流 を 超 断 せ よ」 と あ り ま す。 こ の 四 流 とは生老病死、あるいは欲暴・有暴・見暴・無明暴のこと であると「信巻」では解釈されていますが、つまりこれは 「金剛の志を起こすならば、横ざまに迷いのいのちを超断 す る」 と い う こ と で す。 言 葉 ど お り こ れ は「横 超 の 菩 提 心」を表しています。つまり金剛心を発すことの内容や利 益とは「迷いのいのちを超えることが成り立つ」というこ となのです。このことは善導大師の御和讃にも、 金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける (『聖典』四九六頁) とあって、ここに「金剛堅固の信心」という言葉がありま す が、 こ の 御 和 讃 で い え ば、 「金 剛 堅 固 の 信 心 の さ だ ま る とき」 、「生死をへだてける」ということが成り立つと言わ れているわけです。つまりそれは「弥陀の心光摂護」によ って「生死を超えるという事実が起こる」ということを表 されているのです。
生死を超える時 しかし、私たちの日常意識で考えるならば、生死の迷い を超えるということなどありえない。この煩悩の身で、あ るいは迷いが後から後から起こる心で、どうして生きてい る間に生死を超えるなどと言えるのでしょうか。生死を超 えるのは死後であるという話のほうが単純明快です。しか し今生に本願力の利益で生死を超えるということがあると 言わなければ、親鸞聖人の教えとは言えないのです。また 別の善導大師の御和讃でも次のように述べられています。 煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢 え 身すてはてて 法 ほっ 性 しょう 常 じょう 楽 らく 証せしむ (同上) ここでも親鸞聖人は「すなわち」という言葉を置いておら れ て、 「死 ん で か ら」 と は 書 い て お ら れ な い。 今 生 に「本 願 力 に 乗 ず」 る な ら、 「す な わ ち」 生 死 を 超 え る と 言 わ れ るのです。 「生 き て い る う ち で は な く 死 ん で か ら で す」 と 言 っ て お けば、一応矛盾は消せます。しかし矛盾が消えるにしても、 本願が衆生に与えようとする利益は、死後の利益ではない はずです。確かに第十九願では自力の心に呼びかけるため に、臨終での来迎を説いています。しかしそれは自力の心 ならば自力が止むまで、つまり死ぬまで待つしかないから です。第十八願では、 「心を至し信 しん 楽 ぎょう して我が国に生まれ んと欲 おも うて、乃 ない 至 し 十念せん」 (『聖典』二一二頁) と言われて いるのであり、本願の利益は信心にあるのだということな のです。それは死んでから浄土に行くということを言って いる言葉ではないのです。人の宗教的要求に現実に応えよ うとする表現なのです。 私たちは、例えば第十八願成就文の「かの国に生まれん と 願 ず れ ば、 す な わ ち 往 生 を 得 え 」 (同 上) と い う こ と に つ いて「浄土を願って念仏していれば、きっと浄土に行くこ とができる」と解釈してしまっています。しかしそれはい わば願っていたら、いずれ、その国に生まれることができ るということです。しかし、成就文は「生まれんと願う」
そのとき、 「すなわち」 「生まれることを得る」のであると 言っているのです。この「すなわち」とは、時を隔てず日 を隔てないということです。つまり時間を経てからその事 実が起こるのではなく、今の即時の事実であるということ です。今の一念以外に宗教的事実が衆生を助けるというこ とはない。それを「即得往生」と願成就文で言うのです。 この「欲生」あるいは「願生」ということについてです が、欲生心を人間が起こす心であるとすると、凡夫が起こ す願いは、比喩的に言えば色眼鏡で見た欲でしかない。そ して「願生」が人間の起こす意識上の願生ならば、つまり 私たちが行きたい世界を願うということならば、私たち凡 夫が行きたいのは法蔵菩薩が誓っている世界ではない。私 たちは本当のところ平等に一切の存在を摂取する世界など に行きたくない。私を大切にしてくれる世界、それぞれ自 分を大切にしてくれる場所に行きたいのです。 しかしそれは親鸞の見方から言うなら、方便化身土です。 しかしたとえ方便化身土であっても、ともかく今ある世界 か ら 翻 ひるが さ れ る こ と を、 法 蔵 菩 薩 は「悲 願」 と し て 呼 び か けておられるわけです。その呼びかけが、真実の如来の世 界に触れる機縁になるからです。しかしそれは法蔵菩薩の 真の深いお心ではない。親鸞聖人は徹底して方便化身土を 批 判 さ れ て、 「真 実 報 土 の 往 生 を 遂 げ る ま で 歩 み な さ い」 と教えてくださっています。それは「真実報土には生きて いるうちは行くことはできない。死んでから行くのです」 というようなことを言うためではないのです。 矛盾 先ほど「四流を超断する」ということが出てきましたが、 『教 行 信 証』 「信 巻」 に は 横 超 断 四 流 釈 と 言 わ れ る 段 が あ ります。そこでは生死の迷いを横さまに超断することが述 べ ら れ て い ま す。 親 鸞 聖 人 が『教 行 信 証』 「信 巻」 に お い てそれを論ずるのは、本当の真実信心がもっている内容に ついて明らかにするためです。そのために「四流を超断す る」と親鸞聖人がおっしゃっているわけです。 ところが私たちは四流を超断するどころではない。私た ちは四流に埋没しており、本当にどうしようもない迷没の 凡夫なのです。阿弥陀さまが「そのままでいい」と言って
くださっていても、どうにもならない自力の心が起こって、 もがき苦しみ悩んでいる。私たちの心はまさに生死の迷い の心なのです。 如来は私たちの存在の故郷として浄土を建てて、その世 界へ「来なさい」と呼びかけておられます。これを「如来 回向の欲生心」と親鸞は仰せられます。しかし私たちはそ の如来の「純粋無漏の世界へ来なさい」と言われているこ とが聞こえず、有漏の煩悩の濁世が好きなのです。煩悩の 方が苦しいこともあるけれど楽しいとも思っているので、 無漏などわけがわからない。そもそも私たちは無漏を経験 し た こ と が な い の で す か ら わ か ら な い。 「無 漏 を 表 象 し て 浄土がありますよ」と言われても、まったく懐かしいとは 思えないのです。つまり私たちには本当の在り方はわから ないし、一応わかってもそうなれない。しかしそうではあ っても「そちらの方が本当である」ということはわかりま す。わかるけれどもそうはなれないという根本の矛盾があ ります。 つまり私たちの心自体が迷いの心ですから、如来の呼び かけである迷わない心と矛盾するのです。どうして私たち のなかで、迷いの心と迷わない心の二つが成り立つと言え るのでしょうか。私たちが信心を持ったら金剛心であると 言おうとすると、そのような矛盾が起こるのです。 欲生心は回向心なり ここが難しいところです。私たちは有漏である煩悩の身 と、無漏である法蔵願心の純粋清浄の世界とは矛盾するよ うに思います。ですから浄土教の一般的表現では、その矛 盾 を 避 け る た め に、 「生 き て い る う ち で は な く 死 ん で か ら である」というような説明をしてしまいます。しかし親鸞 聖人は、本願の救いをこの現生で、煩悩のただなかで大切 にいただこうとされました。大悲にとっては、煩悩具足の 凡夫を救いたいのですから、この我らにとっての矛盾を、 大悲の側から突破して我らの所に救いをもたらしてくださ るはずだ、と。 先ほど述べましたが、善導大師の「衆生の貪瞋煩悩の中 に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる」という言葉を、親 鸞聖人は「金剛の信心を獲得するなり」と述べておられま
す。これは親鸞聖人が「貪瞋煩悩のただなかに金剛心を獲 得する」とおっしゃっているということです。有漏であり 無漏と矛盾する心をもって生きている人間が、無漏であり 煩悩の心をも邪魔としない大悲の心と結びつく、親鸞聖人 はそのような構造によって真実信心を明らかにしようとさ れたのです。 確かに私たちの心からすれば、有漏の身と無漏の心とは 矛盾していますが、無漏は「一如宝海」 (『聖典』五四三頁) とも表現されています。一如宝海から立ち上がられたのは 法蔵菩薩です。つまり無漏の心のままに立ち上がって、有 漏を摂取するべく兆載永劫の修行をされる。それは「摂取 せずんばやまない」という願心を表しているのです。その ような願心が「必ず果たし遂げずんばやまん」と誓ってく ださっているということを、この愚かな身が感ずる。 あるいはそれを二河譬でいうと、この世の逃げ道がいろ いろ私たちを誘うわけです。しかし三定死です。どっちへ 行っても死ぬしかない。そのなかで白道を歩み出す決断が 発る。それは有限の身は有限のままでは助からないという ことに出遇うことにおいて、無限への一歩を歩み出すとい う譬喩です。それは三定死をくぐれば発 おこ ると、善導大師は 語っています。その無限の方向に向いて歩むということが 起こるということを、人間の側から起こるような譬喩にし ているわけです。 それを親鸞聖人は、本願力回向が来るから本願の欲生心 が起こる。つまり欲生心は回向心であるとおっしゃるわけ です。それは如来が徹底的にめぐらし向けてくださる心で あるということです。これが私たちにはわからないのです。 煩悩でしかないことを反省して「生きているうちは駄目で ある」などと考えるわけです。阿弥陀如来は駄目だなんて おっしゃいません。そのまま摂取不捨なのです。 如来の回向 親鸞聖人は、第十八願の文、 設 たと い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽し て我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生 まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除
く、と。 (『聖典』二一二頁) に対して、 『尊号真像銘文』で、 この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実 なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至 心 信 楽 な り。 凡 夫 自 力 の こ こ ろ に は あ ら ず。 「欲 生 我 国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安 楽浄土にうまれんとおもえとなり。 (『聖典』五一二頁) と注釈されています。このように「安楽浄土にうまれんと お も え」 と い う こ と で す か ら、 「欲 生 心 は、 至 心・ 信 楽 と ともに如来の願心である」ということです。 しかし本願成就して「かの国に生まれんと願ずれば、す な わ ち 往 生 を 得」 と い う こ と に な る の は、 「私 た ち の 心 で ある」というように解釈しがちです。ところが親鸞聖人は そのようにはおっしゃっていません。例えばその第十八願 成就の文、 諸 あら 有 ゆる 衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃 至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生 まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せ ん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。 (『聖典』二一二頁) に対して親鸞は、 『一念多念文意』で 「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんと ねがえとなり。 (『聖典』五三五頁) と註釈されています。こちらも「本願の報土へうまれんと ねがえ」ということであり、如来の側からの呼びかけであ るとされているのです。つまり私たちの心ではないという ことです。 また親鸞はこの第十八願成就文を二つに分けています。 つまり、 諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃
至一念せん、と。 (『聖典』二二八頁) そ こ ま で で 切 っ て、 「本 願 信 心 の 願 成 就 の 文」 と 名 づ け、 それ以下の、 至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、 すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗 正法とを除く、と。 (『聖典』二三三頁) を「本願の欲生心成就の文」と名づけられます。親鸞聖人 はわざわざ本願成就文の後半部分を「本願の欲生心成就の 文」と名づけている。これはつまり「欲生心が成就する」 と い う こ と は、 「か の 国 に 生 ま れ ん と 願 ず れ ば、 す な わ ち 往生を得、不退転に住せん」ということが成り立つことな の で す。 そ し て「欲 生 は す な わ ち こ れ 回 向 心 な り」 (『聖 典』 二 三 三 頁) と 言 わ れ、 こ の 欲 生 心 を 如 来 の 回 向 心 で あ るとおっしゃいます。如来の回向が煩悩具足の衆生のとこ ろに成就するとされるのです。先ほど述べました有漏・無 漏ということで言えば、有漏の身に無漏が成就するという ことです。そのような私たちの通常の理解と矛盾すること を親鸞聖人はおっしゃっている。ところが「その矛盾する 事 実 が 本 願 成 就 の 事 実 と し て 私 た ち の う え に 成 り 立 つ」 、 そのことが金剛心であり、それを獲得するということなの です。 つまり金剛心は私たちの心のなかに起こるけれども、私 たちの心ではないのです。それは、如来の本願が名号を誓 っており、その名号のなかに浄土の不可称・不可説・不可 思議の功徳を具して、衆生に与えようとする心から、信心 が発起するからです。私たちは日常の自力意識でそれを信 ずることはできない。自力の心では「そのようなものはも らえるはずがない」と思っています。 しかし法蔵願心の側は一切の功徳を平等に衆生に恵まな ければ仏に成らないと誓っている。誓願が名号となって私 たちに呼びかけている。回向成就とは、その法蔵願心から 一如の功徳が衆生に来るのです。和讃で「信は願より生ず れ ば 念 仏 成 仏 自 然 な り」 (『聖 典』 四 九 六 頁) と 言 わ れ、 「信巻」の別序の初めに「信楽を獲得することは、如来選 択の願心より発起す」 (『聖典』二一〇頁) と言われるように、
信心は願から起こる。願心自身の発起である。法蔵願心が 信心として発起するのです。 それが起こる場所は、私たちの煩悩の心のただなかです。 『高僧和讃』にも、 五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり (『聖典』五〇〇頁) とあって、親鸞聖人は私たちに与えられるはずもない一如 の功徳が、信心において与えられるとおっしゃっているの です。 本願が煩悩の身に成就する。自力の心しか起こせないよ う な 衆 生 に、 「必 ず や 信 心 を お こ さ ず に は や ま ん」 と 本 願 力回向がはたらいてくださる。如来の本願が「わが国に生 まれんとおもえ」と呼びかけてくださっている、そのこと を如来からの勅命であると聞く。それによってこの愚かで 我 執 の 強 い 自 分 が 翻 さ れ る。 「あ あ、 そ う で し た か」 と 翻 される。その翻された心のもつ質を親鸞は金剛心とおっし ゃるのです。 つまり金剛心は自分のつくる心ではないのです。人間は、 如来の心であっても、いただいたら「自分の心である」と いう考えで解釈しようとします。そのために矛盾するので す。だから「私の心が金剛心なんて絶対言えない」とたち まちに変わります。しかし金剛の心でなければ信心はまっ たく成り立たないわけです。愚かな者にも如来の本願力回 向 は、 「真 実 を 与 え ず ん ば や ま ん」 と は た ら い て く だ さ る。 そのことを「ああ、そうでしたか」と受け取る。絶対の受 け身です。 法蔵願心の呼びかけ 一切衆生に平等に「救わずんばやまん」とはたらき続け るその法蔵願心は、気がつく人にも気がつかない人にも皆 に呼びかけています。しかし法蔵願心に気づいた人には法 蔵願心があるとわかりますが、気がつかない人には法蔵願 心などまったくないのです。気がつかないわけですから。 しかし法蔵願心の側は「きっと気づいてくれる」と諦めま
せん。 このような不可称・不可説・不可思議の心がはたらき続 けてくださっている。その心に照らされる。先ほどの善導 の 御 和 讃 で い え ば「弥 陀 の 心 光 摂 護 し て」 (『聖 典』 四 九 六 頁) で す。 弥 陀 の 心 の 光 が 照 ら し て く だ さ る の で す。 確 か に私たちの心は煩悩に覆われ、照らされても暗い。しかし 弥陀の心光は、兆載永劫に場所を選ばず、時を嫌わずいつ でも照らし続けると表現されます。無量光であり無量寿で す。無量寿のなかに私たちは育てられて気づかされて、本 当に愚かなままにその心を信ずることができる。信ぜずに おれないという心が起こる。 先ほども言ったように、その心は自分でつくった心では ありません。我執の一角が破られた心です。貪瞋煩悩のた だなかに見いだされる白道、四、五寸の道です。四、五寸 というのは狭いですが、そこに足を下ろせば選択摂取の大 道です。信心が大道です。信心が道の意味を持つわけです。 この「道」という言葉から、信心を持って私たちが歩くと ころが道だろうと考えるのですが、道は譬喩です。その譬 喩が何を表すかというと信心を表している。本願力を信ず る心が起こるとその心が道になる。 またその信ずる心が浄土になる。浄土という場所がある というように執着すると意味がわからなくなります。本願 が浄土を荘厳するわけですから、それは如来の願心が私た ちに回向されるということです。そしてその回向された功 徳を感ずる心が荘厳功徳に相応するわけです。 時間を超えて 親 鸞 聖 人 が『教 行 信 証』 「信 巻」 の 最 初 に「大 信 心 は」 (『聖 典』 二 一 一 頁) と 言 っ て 書 か れ て い る 十 二 の 功 徳 に は、 教・行・信・証のすべて、教えからさとりの証大涅槃まで を包むことが述べられています。 これも私たちの分別の心からすると、私たちは煩悩の身 と涅槃とは矛盾すると思います。しかしそもそも大乗仏教 は、煩悩即菩提、生死即涅槃ということを標識にしたわけ ですから、これが成り立たなければ大乗仏教とは言えない わ け で す。 し か し 私 た ち か ら す る と、 「煩 悩 の 身 で あ る に もかかわらず大涅槃だなんてどうして言えるのか、死んで
からである」ということにするわけです。親鸞聖人でも物 語的に、そういう語り方をなさっていることがあります。 しかしそれは譬喩的な表現だろうと私はいただいています。 つまり人間は時間を生きているし、煩悩の身を生きている が、本願は時間を超えているのです。 仏は一如宝海からかたちを表し、法蔵菩薩と名 な 告 の って本 願を起こしたわけですから、本来は時間を超えたものが法 蔵菩薩になっているわけです。しかし私たちにとっては、 五劫に思惟したり、十劫の昔に正覚を取ったり、兆載永劫 に修行して法蔵菩薩が阿弥陀に成った、というように言わ れても困惑します。修行しながら覚りを開いているなんて 矛盾しています。しかし仏はもともと一如宝海であり、時 間を超えているわけですから、そのような表現でもいいわ けです。阿弥陀如来は成仏している。しかし菩薩の修行を せずにはおれない。愚かな私たちがいるからです。愚かな 私たちがいるから呼びかけてくださる。 法蔵菩薩が阿弥陀に成ったと言いましたが、法蔵菩薩は 阿弥陀から現れたとも言えるのです。私たちの因果論では よくわからない話ですが、これはつまり果から現れた因な のです。従果向因です。さらにいえば因であって果でもあ る。果のままに因であるということです。それは一如宝海 の功徳を衆生に与えるためです。それを通して私たちは本 当に窮屈な狭い心が、広大な方向に開かれる、自力の心が 破られるのです。先ほどの善導大師の御和讃でいえば「煩 悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すて はてて」ということです。それは金剛堅固の信心です。こ の「煩 悩 具 足 と 信 知 す る」 と い う こ と と、 「金 剛 心 が 成 就 する」ということとは一念同時です。私たちは「煩悩があ る」と反省したりしますが、この「煩悩具足と信知する」 とは「自分に起こるこころは煩悩以外にない」ということ を 嫌 と い う ほ ど 知 ら さ れ る と い う こ と で す。 「少 し ま し な 心になれる」と思っているうちは信知ではないのです。そ のような、信知するということが起こるということは、自 力でどうにかしようという心ではないので壊れることはあ りません。
不滅 浄土教にみられる物語的あるいは譬喩的な表現について ですが、譬喩として人格的に語られた場合には、いのちあ るものは必ず滅びます。ですから「無量寿であるとしても 終わりがあるだろう」という議論になるのでしょうが、善 導大師も、阿弥陀如来もこの世から消えることがあるか、 というような議論をされています。しかしそれは譬喩的な 表現であり、実体化されたいのちです。 しかし親鸞聖人がおっしゃるように「みだ仏は、自然の ようをしらせんりょうなり」 (『聖典』六〇二頁) ということ です。つまり本願力に帰するということにおいて、自然に 浄土が開けてくる。これは教えとして、私たちの知見の及 ぶ範囲を超えて、如来の側からはたらきかけてくる世界が あるということです。それが大道です。 それに対して私たちでどうにかしようという心は、小さ い道であり成就しません。それにもかかわらず私たちは限 りなく何とかしようと努力し続けます。努力することが悪 い わ け で は な い の で す が、 努 力 に 付 随 す る 妄 念、 「ど う に かなる」あるいは「自分が肯定される」というような思い があるわけです。本願の教えはそういうことが間違ってい るということを知らせようと衆生に呼びかけている。それ に気づくと、気づいた内容である真理は滅びない。その信 じた内容である本願は滅びない。一如宝海が滅びないのと 同じように滅びない。現象として起こる意識は滅びますが、 滅びないものを信じた心は大信海ですから滅びないのです。 曇 鸞 大 師 は 自 分 の 身 を 長 生 き さ せ よ う と し ま し た が、 「何のために妄念のいのちを長らえるのか」と菩提流支三 蔵に怒られて、その場で「仙経」を焼き捨てました。そし て 浄 土 に 帰 し た。 「浄 土 に ふ か く 帰 せ し め き」 (『聖 典』 四 九 一 頁) と あ り ま す が、 浄 土 に 帰 し た こ と に よ っ て 無 量 寿 の いのちに触れた。そのとき一瞬一瞬が無量寿のいのちの意 味をもつのです。 信ずるということ 私たちは自分の心のなかに起こる心を意識できますが、
そ れ は 相 対 的 な 認 識 で し か あ り ま せ ん。 唯 識 の 思 想 で は 「意識する作用」と「意識される内容」が意識であり、そ れを「見分」と「相分」と言います。普通の唯識ではそう で す が さ ら に、 「そ れ を 知 っ て い る 心」 が あ る と い う こ と で、唯識三分説が出てきます。例えば今、私は皆さんを見 ているわけですが、自分がここにいて、自分が意識してお り、そして意識されている皆さん方がおられると知ってい る。さらにそのような意識が起こっていることを知ってい る作用があるということです。 それに合わせるなら、如来の本願が見分だとすれば、衆 生を相分として「衆生を救わずんばやまん」というかたち で本願が起こる。あるいは願心が見分だとすれば、願心の 相分が浄土や浄土の人天です。浄土は法蔵願心が生み出し た世界だからです。しかしそれを誰が知るのかというと、 それは凡夫が知るわけです。 しかし如来の生み出した世界を凡夫の心で真に知ること ができるはずがないので、やはり凡夫の心で知るというこ とでもない。第十八願成就文の「かの国に生まれんと願ず れば、すなわち往生を得」ということも、私たち凡夫が体 験するのではない。衆生のうちに立ち上がった法蔵願心が 体験するのです。往生浄土を空間的に違う世界に行くよう に考えると「現生は穢土であるから浄土は来ない」という ことになります。しかしその穢土に本願力がはたらくので す。 「不 退 転 に 住 せ ん」 と は 現 生 の 利 益 で す し、 わ ざ わ ざ 本願力回向を言うのは、回向心が凡夫にはたらくからです。 その回向心が欲生心を成就するのです。それを金剛心と言 います。 阿弥陀の心 私たちは自分の闇を自分で照らすことはできません。阿 弥陀の心光が照らす。如来の本願力に出遇うと闇が照らさ れる。 「一一の光明 遍 あまね く十方世界を照らす。念仏の衆生を 摂取して捨てたまわず」 (『聖典』一〇五頁) です。阿弥陀と いう意味は、あらゆる世界を照らしているということでも あります。つまり如来は私たちを平等に照らしている。し かし自力の妄念や煩悩の黒業で覆っているので私たちは光 を見ない。光を見ないものにとっては、如来の心光がはた
らいていても見えない。物質的光と違って心光です。心の 光は心が開かれないと気づくことができない。気づいたら それは阿弥陀の心である。阿弥陀の心は金剛です。ですか ら私たちとは矛盾しますが、私たちに金剛心が与えられる のです。その心だけが成仏すると親鸞聖人はあえておっし ゃる。法蔵願心が「成仏せずんばやまん」と誓い続けるか ら、 「そ の 願 心 が 成 仏 せ ず ん ば や ま ん と は た ら い て く だ さ る」ということを信ずればよいのであって、凡夫が仏に成 ることは如来の仕事ですからおまかせする。そもそも仏に 成ろうと思っても成れないのだから、もうおまかせするし かない。それが金剛心であるということです。有漏の凡夫 に無漏が来るということです。それを成就しなければ本願 成就は成り立たない。私たちはそれをいただいて生きるの です。 現生は愚かな罪濁の凡夫であっても、本願を信ずること に お い て、 「本 願 を 信 ず る 衆 生 は 諸 仏 と 等 し い、 弥 勒 と 同 じである」と親鸞聖人はおっしゃる。愚かな凡夫だから駄 目だとは言わずに、愚かな凡夫が本願を信ずれば、その本 願を信ずる心が、もう仏法そのものなのです。これがこの 世にあって何よりも大きな意味をもちます。愚かな凡夫が 信ずるところに本願が証明されるのです。愚かな凡夫がい なかったら、願ははたらきようがありません。ですから愚 かな凡夫こそ尊いと、我ら凡夫の意味が転ぜられるのです。 親鸞聖人は、私たちの愚かな心のままにこのようなことが 言えることを、金剛心を獲得すると言うことができる、と 教えてくださっているのではないかと思います。