• 検索結果がありません。

「責任ある存在」を成り立たせるもの―大人/子どもの区分をめぐって― [ PDF

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「責任ある存在」を成り立たせるもの―大人/子どもの区分をめぐって― [ PDF"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)「責任ある存在」を成り立たせるもの ―大人/子どもの区分をめぐって― キーワード:責任,自由,大人/子ども,虚構,能力 教育システム専攻 宮川 幸奈 【目次】. 第一章. はじめに. 「責任ある存在」への問い. 第一章では、責任と自由に関してなされてきた議論を. 第一章 「責任ある存在」への問い 第一節 自由への疑いがもたらす問い 第二節 責任という虚構 第三節 「責任ある存在」への問い 第二章 「責任ある存在」が「能力」を有するという発 想. 簡単にレビューし、それを踏まえて、本論文が考察を進 めていくための問いを提示する。 責任にまつわる営みは、 「自由であるから責任がある」 という枠組みの中でなされている。責任と自由は強く結 び付いており、自由が責任の前提だと考えられている。 ところが、自由が本当に可能なのかという疑いは、古来. 第一節 「責任ある存在」が有する「能力」とは何か. 多くの人々によって持たれており、自由は不可能だとい. 第二節 「能力」という発想の意味. う結論を出す論者も数多い。その結論の出し方はいくつ. 第三章 「責任ある存在」を成り立たせるもの. かあるが、たとえば、人間が何かを自由に決めていると. 第一節 二重の否定という仕組み. 感じているときにも、その意志が外部要因に規定されて. 第二節 行為者に関する二重の否定という仕組み. いるのだ、という指摘がある。人間が一切の外部要因の. ―大人/子どもの区分の機能. 影響を受ける前に持っているのは生得的な特性だが、そ. 第三節 「責任ある存在」へと向かわせる圧力. れも―それこそ―その人間が自由に作り上げたものでは. おわりに. ないため、結局人間が真の自由を享受することは不可能 だ、というわけだ。. はじめに 本論文は、責任にまつわる営みが現に在るように成り. 自由が不可能であるという認識は、「自由であるから 責任がある」という枠組みの下で私たちが当たり前のよ. 立っている仕組みを明らかにすべく、大人と子どもを区. うに責任を問い合っていることへの問いを生む。 ただし、. 分した上で、大人のみが「責任ある存在(=責任を問わ. 何らかの仕方で自由の不可能性に言及した論者が、それ. れ得る存在) 」 だと認識されていることの意味を改めて問. によって人間に責任を問うことができないと結論付けて. うものである。. いるとは限らない。むしろ、人間が責任を問い合ってい. 人間は、自分がしたこと、あるいはしなかったことに. る現実を説明できるように自由の概念を定義しなおす議. ついて責任を問われ得る。ただし、私たちが生きる社会. 論や、 「自由であるから責任がある」という枠組み自体を. では、すべての人間が責任を問われるわけではない。責. 再考する議論がなされてきた。. 任を問われ得る存在を「責任ある存在」と呼ぶならば、. 中でも、小坂井敏晶[2008]は、自由(意志)の否定. 生まれたばかりの赤ん坊は「責任ある存在」ではないこ. が責任の否定を意味すると考えるような思考の枠組みを. とは誰しも認めるだろう。一般に、責任を問う際に大人. 否定し、 「自由であるから責任がある」という枠組みが虚. と子どもを同じようには扱えないという感覚があり、大. 構だという主張を展開している。小坂井の主張では、始. 人には責任を問うが子どもには問わないという状況があ. めにあるのは社会秩序を乱す何らかの事件であり、その. る。この現実は、責任と自由に関して蓄積されてきた膨. 事件のけじめをつけるために責任者を特定する過程で、. 大な研究の中でしばしば議論の前提として言及されては. 行為者(責任者)が自由であったと宣言される。つまり、. きたものの、それ自体が問題として取り上げられること. 自由とは虚構 (事実でないことを事実らしく仕組むこと). はなかった。このことを問題として取り上げ、検討する. であり、 「自由であるから責任がある」という枠組みもま. ことによって、責任と自由の関係、及びその関係と大人. た虚構だということである。. /子どもの区分との関係について新しい見方を提示する ことが、本論文の目的である。. 小坂井の主張は、責任と自由の関係を的確にとらえた ものであると考える。だが、小坂井が描いたように現実.

(2) が在ることは、不思議なことだとも言える。なぜなら、. 「責任ある存在」が有する「能力」 、いわゆる責任能力. けじめをつけるべき事件が起きた際、行為者が意識的に. は様々な仕方で言及されているが、中でも瀧川裕英. 行為していたかどうかにかかわらず実際になした行為以. [2003]は、 「理由過程」 「理由能力」という独自の概念. 外の行為をなす自由があったと宣言されるのだが、その. によって、 「責任ある存在」が有する「能力」の詳細に迫. ような自由があったことは決して証明できないからだ. っている。まず、理由過程とは、自らのうちにある複数. (cf.中島義道[2001] ) 。たとえば、過失の責任が問わ. の欲求を、社会規範を踏まえて批判的に反省し、正当な. れる場合には、うっかり必要な意志決定をしなかったま. 理由を有すると考えられる欲求を自らの意志とする過程. さにそのときに、うっかりしないこともできた(うっか. である。そして、この理由過程を行い、それに従って行. りしない自由があった)と宣言される。だが、このよう. 為する能力が理由能力である。瀧川は、責任. な自由があったことは決して証明することができない。. (responsibility)にまつわる営みの中核が問責に対する. ここで「あった」と宣言されている自由とは、特に実体. 応答(response)にあることから、応答を成り立たせる理. のない信念ないし思い込みである。. 由能力こそが、責任能力だと論じている。. このことを踏まえると、大人のみが「責任ある存在」. この論考を踏まえて、人間が責任を問われる場合を四. とされていることに関して、二つの問いが生じる。一つ. つに分け、それぞれの場合について、 「責任ある存在」が. 目は、大人が「責任ある存在」だという認識が成り立っ. 「能力」を有するという発想によって自由であったと証. ていることへの問いだ。事後的に宣言される自由の有無. 明できるのかどうかを検討する。まず、行為が意識的に. は、いかなる仕方でも証明できない。それにもかかわら. なされた(あるいはなされなかった)場合を三つの場合. ず、なぜ大人は、自由であったという想定を適応され得. に分けることができる。 第一に、 理由過程を実際に行い、. る「責任ある存在(=責任を問われ得る存在) 」だと認. その結果に従って行為した (あるいはしなかった) 場合。. 識されているのだろうか。これは、何者かが「責任ある. 具体的には、理由過程を実際に行った結果、規範に背く. 存在」だという認識一般が成り立っていることへの問い. 理由を導き出し、それに従って行為した(あるいはしな. である。二つ目は、何者かが「責任ある存在」だという. かった)場合だ。第二に、理由過程を実際に行ったが、. 認識が、大人と子どもを区別した上で、大人のみを「責. その結果に従わずに行為した(あるいはしなかった)場. 任ある存在」とする形で成り立っていることへの問いだ。. 合。したくないと思っていたがしてしまった、またはし. 自由は、その有無をけっして証明できないにもかかわら. たいと思っていたがしなかった、という場合がこれに該. ず、ただ「あった」と宣言される。そのような宣言であ. 当する。そして第三に、理由過程を行わず、そのとき支. りながら、なぜ宣言され得る存在とそうでない存在が区. 配的だったある一階の欲求にただ従って行為した(ある. 分されているのか。そして、その区分に大人/子どもの. いはしなかった) 場合。 これは衝動的に行為した場合だ。. 区分はどのように関わっているのか。これは、人間を「責. 最後に、行為が無意識的になされた(あるいはなされな. 任ある存在」とそうでない存在に分けるという発想自体. かった)場合、たとえば、過失や不注意が責められる場. への問いである。. 合を第四の場合とする。第四の場合も、当然理由過程は 行われていない。. 第二章. 「責任ある存在」が「能力」を有するという 発想. それぞれの場合について検討した結果、 「責任ある存 在」が「能力」 (理由能力)を有するという発想によって. 第二章では、前述の二つの問いに答える一つの可能性. 本論文の二つの問いに答えることはできないという結論. として、 「責任ある存在」が「能力」を有するという(常. に至る。なぜなら、理由能力を有するとされる人間は、. 識的な)発想に着目する。もし、人間が何らかの「能力」. 実際に理由過程を行っていない場合(第三・第四の場合). を有することによって、事後的に宣言される自由をまさ. にも理由過程を行い得たのだとされて責任を問われるが、. に有していたのだと言うことができれば、一つ目の問い. 「実際に理由過程を行わなかったときにも行い得た」こ. に答えることができる。そして、その「能力」の有無が. とがやはり証明できないからだ。また、第二の場合につ. 「責任ある存在」であるかを決める実質的な基準となる. いても、理由過程の結果に従わずに行為した(あるいは. ため、二つ目の問いに答えることができる。このように. しなかった)まさにそのときに、理由過程の結果に従っ. して、 「責任ある存在」が何らかの「能力」を有するとい. て行為したと証明することはできないからだ(なお、第. う発想によって、本論文の問いに答えることが本当にで. 一の場合についても、実際になした行為以外の行為をな. きるのか、第二章で検討する。. す自由があったことは証明できない。しかし、理由過程.

(3) を行うことによって行為者が「そうしない自由があった」. 否定を通して初めて成り立つものだと述べているのだ。. と感じているため、自由であったという想定が自然に受. 二重の否定という仕組みは、いくつかの仕方ないしレ. け入れられることは理解しやすい。反対に言えば、第二. ベルで重層的に作動しており、それによって責任や自由. ~第四の場合はこのような形で理解することもできな. という虚構があたかも事実であるかのように成り立って. い) 。つまり、何者かが「責任ある存在」たる「能力」を. いるように考えられる。本論文では、行為者に関して二. 有するという言明は、実際になした行為以外の行為をな. 重の否定という仕組みがはたらいているという着想を次. す自由があったという宣言の言い換えに過ぎない。この. のように展開し、それによって二つの問いに答える。. 「能力」自体が、宣言される自由と同じく、特に根拠の. 実際に理由過程を行っているとき以外にもそれを行う. ない信念ないし思い込み、つまり虚構なのである。した. 「能力」があるかどうかを証明することができない以上、. がって、本論文の二つの問いは解決されず、 「能力」をめ. ある人物が「能力」を有する「責任ある存在」であると. ぐって言い換えられるだけである。一つ目の、何者かが. 積極的に証明することはできない。それにもかかわらず、. 「責任ある存在」だという認識一般が成り立っているこ. その「能力」を有する人間―「責任ある存在」―が存在. とへの問いは、何者かが「責任ある存在」たる「能力」 、. すると言うためには、何らかの基準で恣意的に線引きを. すなわち理由能力を有するという想定一般が成り立って. し、その線のあちら側は確実に「能力」を有さないのに. いることへの問いへと置き換えられる。二つ目の問いに. 対し、こちら側は「能力」を有すのだと決めてしまうし. ついても同様である。 「責任ある存在」が有するとされて. かない。. いる「能力」は、 「責任ある存在」であるかどうかを決め. このとき「責任ある存在」ではないとされている人間. る実質的な基準という位置にはない。それでは、件の「能. のカテゴリーの一つが子どもである (他に異常者がある) 。. 力」を有することと有さないことの区分は何を意味し、. 人生の初期の段階ではいくつかの基本条件 (言語の獲得、. その区分に大人/子どもの区分はどのように関わってい. 自己意識の発達、様々な社会規範の理解など)を満たし. るのだろうか。. ていないため、一度たりとも理由過程を行うことができ. さらに、もう一つ新たな問いが生じる。それは、 「責任. ない。また、基本条件を満たしたばかりの時期には、実. ある存在」とみなされている大人が、なぜ自らに理由「能. 際には理由過程をほとんど行っていない。そのような対. 力」があることを認めるのか、という問いだ。実際に理. 象にまで、実際になした行為以外の行為をなす自由があ. 由過程を行い、それに従って行為していないときにもそ. ったという想定を適用すると、宣言されている自由が実. の「能力」を有すると認められることは、 「そうしない自. 体のない虚構であることが露わになってしまう。. 由があったはずだ」と自分で感じていないときにも、自. そこで最初に、明らかに「責任ある存在」でない者と. 由であったと社会から宣言されるということだ。単なる. して子どもが取り出される。それによって、そうではな. 宣言であれば、理不尽だとはねのけて免責を要求しても. い大人が「責任ある存在」だという認識が、まさに事実. よさそうなものだが、多くの大人はそうはしない。これ. であるかのように成り立っている。先に「責任ある存在」. はなぜだろうか。. でないものを提示することによって、大人が件の「能力」 を有する「責任ある存在」であることを証明せよという. 第三章. 「責任ある存在」を成り立たせるもの. 第三章では、W・コノリー[1991]から示唆を得て、 二重の否定という仕組みがはたらいていると考えること によって、本論文の問いに答えることを試みる。. 要求は脇にそらされてしまい、この問題に正面から向き 合われなくなっているのだ。 大人が「責任ある存在」であるという認識は、 「責任あ 、、、、 、、、、 る存在」ではない子どもではない大人、という二重の否. コノリーは、自由意志及びそれに基づく責任という概. 定という仕組みを通してはじめて成り立っている。これ. 念が、ある補完物によって成り立っているという構造を. が一つ目の問いへの答えだ。そして、同時に二つ目の問. 提示している。具体的には、その存在を決して証明する. いにも答えている。二重の否定という仕組みが作動する. ことができない自由意志がまさにあるかのように信じら. にあたって、 「責任ある存在」でない者を取り出すための. れているのは、明らかに自由意志でないものの事例とし. 分割線として、大人/子どもの区分が決定的に重要な役. て非行や異常が取り出されているからだと述べている。. 割を果たしている。ゆえに、 「責任ある存在」という認識. この仕組みを、本論文では二重の否定という仕組みと呼. 一般が成り立つためには、大人と子どもを区別し、大人. びたい。コノリーは、自由意志及びそれに基づく責任と 、、、、 、、、、 は、自由意志ではない事例ではない事例、という二重の. のみを「責任ある存在」と認めるという形で成り立つこ とは不可欠なのである。.

(4) 併せて、明らかに「責任ある存在」ではないとされる 、、、 カテゴリーとして子どもと異常者が挙げられていること. あったはずだ」と自ら認めなければならないという規範. に着目すると、第二章で新たに提示した問い―「責任あ. 任ある存在」へと導き、責任という虚構を支えている営. る存在」とみなされている大人が、なぜ自らに理由「能. みであると言える。. 力」があることを認めるのか、という問い―にも答える. 自体が教えられている。総じて、教育とは、人間を「責. ところが、その教育に関する学問である教育学の中で、. ことができる。私たちが生きている社会では、責任や自. 責任にまつわる営みを解体させる方向性を持つ指摘もな. 由という虚構に順応し、自らに理由能力があると認めな. されている。具体的には、教育における公正や平等につ. ければ、 「正常な社会関係」の一員とはみなされない。 「責. いて議論される際に、個人の内部の問題とされている意. 任ある存在」とみなされることは、社会の正常なメンバ. 欲や努力が外部要因に規定されているという事実が、 「不. ーとして認められているという「悦ばしい報せ」 [大庭. 平等」という問題を生じさせるものとして指摘されるこ. 2005:30]だが、裏を返せば、問われた責任を引き受け. とがある。このような指摘がなされるのは、自らの自由. なければ「正常な社会関係」から排除されるという恐れ. にならないことの結果をすべて個人に問うことが何らか. があるということだ。この悦ばしさと恐れが、理不尽な. の意味で不適切だと考えられているからだ。ここには、. 自由の宣言も受け入れ、自らを「責任ある存在」と認め. 何らかの正義ないし倫理に関する判断がはたらいている。. よという圧力となっている。二重の否定という仕組みと. しかし、この判断がジレンマの素となる。もし、外部. ともに、この圧力が、 「責任ある存在」を成り立たせてい. 要因によって規定された意欲や努力の結果を個人に問う. ると言うことができるだろう。. ことは正義や倫理に反すると考え、それを理由に個人を 免責したとしよう。すると、あらゆる意欲や努力が規定. おわりに. されていると言えるため、人間には一切責任を問い得な. 本論文は、責任にまつわる営みが現に在るように成り. くなってしまう。だが、そのように人間から一切の責任. 立っている仕組みを明らかにすべく、大人と子どもを区. を免じてしまえば、人間が理由過程を行って自由を認識. 分した上で、大人のみが「責任ある存在」とされている. していることや、互いに自由であるという信念のもとで. ことの意味を、独自の視点から改めて問い直してきた。. 人間関係を営んでいることすべてを否定してしまう。こ. その成果として、大人/子どもの区分に基づいて、行為. れは、 あらゆる正義や倫理の土台を打ち砕くことである。. 者に関して二重の否定という仕組みがはたらいており、. かくして、ここにジレンマが生じている。個人に責任を. それによって大人は「責任ある存在」であるという認識. 問うことはある意味で正義ないし倫理に反するが、個人. が成り立っていることを明らかにした。これを、責任と. に責任を問わなければ正義ないし倫理自体が存在し得な. 自由の関係、及びその関係と大人/子どもの区分との関. いというジレンマだ。. 係についての新しい見方として提示したい。. このジレンマに適切に対処し、個人の意欲や努力が外. 最後に、本論文を踏まえることによってはっきりと浮. 部要因によって規定されているという事実を踏まえた上. かび上がる、教育(学)が抱えているあるジレンマにつ. で、教育における公正や平等を語る方法を探ること。本. いて述べる。. 論文を執筆することによってはっきりと把握することが. まず、 「責任ある存在」を成り立たせる二重の否定とい. できたこの困難な課題に、今後取り組みたい。. う仕組みがはたらく上で、教育が必要不可欠な役割を果 たしていることを確認しておく。教育は、人間に理由過. 主要引用・参考文献. 程を行うための基本条件 (言語の獲得、 自己意識の発達、. 大庭健 2005 『 「責任」ってなに?』講談社現代新書. そして様々な社会規範の理解など) を備えさせる。 また、. 小坂井敏晶 2008 『責任という虚構』東京大学出版社. 基本条件を備えた後に、実際に理由過程を行うように子. 瀧川裕英 2003 『責任の意味と制度 負担から応答へ』. どもたちを仕向けていく役割も担っている。子どもには、. 勁草書房. まずは簡単な規範に基づいて、そして徐々に複雑な規範. 中島義道 2001 『哲学の教科書』講談社学術文庫. に基づいて理由過程を行うように、練習の場が提供され. Connolly, William 1991 IDENTITY\DIFFERENCE. る。このとき、 「責任ある存在」へと向かわせる圧力もか. Democratic Negotiations of Political Paradox,. けられている。具体的には、無意識に、あるいは衝動的. Ithaca: Cornell University Press(ウィリアム・コ. にとった行動であっても、それがけじめをつけるべき問. ノリー著、杉田敦・齊藤純一・権左武志訳 1998『ア. 題を引き起こしてしまった場合には、 「そうしない自由が. イデンティティ\差異 他者性の政治』岩波書店.

(5)

参照

関連したドキュメント

例えば,立証責任分配問題については,配分的正義の概念説明,立証責任分配が原・被告 間での手続負担公正配分の問題であること,配分的正義に関する

例えば,立証責任分配問題については,配分的正義の概念説明,立証責任分配が原・被告 間での手続負担公正配分の問題であること,配分的正義に関する

システムであって、当該管理監督のための資源配分がなされ、適切に運用されるものをいう。ただ し、第 82 条において読み替えて準用する第 2 章から第

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月. ■実施場所:

■実 施 日:平成 26 年8月8日~9月 18

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県

ぎり︑第三文の効力について疑問を唱えるものは見当たらないのは︑実質的には右のような理由によるものと思われ

(※1)当該業務の内容を熟知した職員のうち当該業務の責任者としてあらかじめ指定した者をいうものであ り、当該職員の責務等については省令第 97