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近代期における楠森河北家の地域的展開 [ PDF

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Academic year: 2021

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5-1 1. はじめに 1-1. 研究背景と目的  本研究の対象地であるうきは市浮羽町山北地区は、 筑後川の中流域左岸に位置し、南に耳納連山を背負う 村落である。その南西部の山裾に存在する楠森河北家 は、屋敷を楠の木と竹塀で囲われており、その周囲に は田が広がっている。当家は江戸初期に山北に帰農し たと伝えられる豪農であり、近代期においては多くの 分家を分出すると共に、製茶業をはじめとする生業に より、大きく村落に影響を与えてきた。  本研究では、山北地区における当家の土地所有やそ の利用と、道・水系・屋敷などを含めた集落空間構成 を調査・分析することにより、近代期の楠森河北家の 地域的展開を捉えることを目的とする。 1-2. 近世から近代における山北  近世中期には久留米藩大庄屋の吉井町田代家の藩政

近代期における楠森河北家の地域的展開

木村 萌 村であり、庄屋吉き ち ぜ瀬本家が千代丸に位置していた。当 時、山北は本村と三ヶ名で構成され、村内の各名に は中核となる有力な百姓である長百姓が存在してい た。これらの長百姓は石高が大きく、多くの分家を出 し、名子や荒子を抱えた。本稿で取り上げる楠森河北 家は建久元年 (1190) に筑後隈上庄を賜り、元和元年 (1616) に山北に帰農したと伝えられる。近世におい ては田代組惣代を務め、庄屋に次ぐ長百姓であった。1)2) 1-3. 山北における河北家の役割  本地区に位置する三次神社、日吉神社、賀茂神社は 山北三社と呼ばれる。明治初期まで各神社において 神じ ん が和と呼ばれる株座が維持された。その中でも賀茂神 社の神和は、近世における長百姓が名を連ね、村落に おける指導者集団であった。本神社の宮座は明治初期 に郷社に制定され神和祭と氏子祭を一座としたことに 始まり、幾度かの変遷を経て昭和初期においては完全 0 10 30m 田 畑 果樹 至清水寺 至賀茂神社 楠森新屋 山北神社(祖霊社) 三次神社 玉照霊神(祖神) 楠森河北家 吉広分家 吉広本家 吉広南 筑後吉井駅 筑後大石駅 夜明駅 うきは駅 山北 井延川 旧筑後街道 筑後川 井延川 隈上川 小塩川 浮羽町山北 〈吉広〉 賀茂神社 日吉神社 三次神社 楠森河北家 0 200 1000m 図 3 吉広区現状集落図 図 2 山北における楠森河北家 図 1 うきは市浮羽町山北

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5-2 に村座となった。3)河北家は賀茂神社の宮座において、 株座としての優位性を徐々に失っていった。  また、庄屋吉瀬家は明治 30 年代後半に平山の開墾 事業を行い、莫大な借財を背負ったことにより本家が 廃絶した。そのため、吉瀬家の村落での影響力は小さ なものとなった。本家廃絶以前は、河北家は庄屋吉瀬 本家に次ぐ長百姓であったが、祭礼儀式などにおける 序列が吉瀬本家廃絶を機に変化し、楠森河北家が最大 の地主となった。 2. 近代期における河北家一族の営み 2-1. 河北家の分家  楠森河北家は山北に帰農して以来、幾度かの盛衰を 繰り返す中で、いくつもの分家を出してきた。その中 でも特に、江戸初期において初めて分出された吉丸か らは、高桶をはじめとするいくつもの分家がなされ た。この第一分家吉丸は本家から北に離れた場所に立 地し、その周囲に分家を出したといわれる。その後も 本家である楠森河北家からは西屋敷をはじめとする分 家が出されたが、それらの分家からは更なる分出がほ ぼ行われていない。 2-2. 先祖祭と覚法保護会  河北家の先祖祭では、毎年 1 月 19 日に全国に散ら ばった一族が一同に会する。祭神は玉ぎょくしょうれいじん照霊神として祀 られる河かわきたじんすけおおくらのながたね北甚助大蔵永胤である。この先祖祭を保護し、 河北家一族を保護する目的で、明治 32 年 (1899) に 「覚か っ ぽ う ほ ご か い法保護会」という法人が設立された。会員は河北 家一族であり、寄託金を受寄し、その利息を寄託金に 応じて分配する。寄託金の使い道は毎年先祖祭に合わ せて行われる総会の際に決議によって決められる。寄 託金の多くは、国債や株の購入に充てられている。ま た、天災や建築、冠婚葬祭などへの無利息での資金貸 付、学資の支給などが行われる。この明治中期におけ る河北家一族による法人の設立は、村落に押し寄せる 近代化の波の中で、一族による経済活動を補助し、財 産を守る意味合いがあったと考えられる。 3. 楠森河北家による生業の地域的展開  上記の様な同族集団の中心となった楠森河北家の地 域的展開を捉えるため、大正期とみられる字図を元に 土地所有とその利用を把握し分析した(図 4)。楠森 河北家の所有地は山北全域に広がっており、その土地 利用は場所によって異なる様相を見せている。  近代期における楠森本家の主たる収入源は小作料で あった。小作地の多くは山北北西部に偏っており、多 くの田が小作地として耕作されていた。その他にもい くつかの生業を行なっており、それらの基盤は楠森本 家の自作地に位置している。  酒造業と製茶業は「寿じゅてんごう天號」という社名で行ってい た。酒蔵業では、戦前清酒「天てんろく禄」を千代丸で醸造し ていたが、戦時中の整備にあい、終戦後に焼酎「天禄」 の醸造として復活させたが長くは続かなかった。一方、 田 宅地 畑 森林 原野・藪・芝 墓地 字境 村境 水路 【寿天號】 ・ 山北におけるお茶の栽培は、酸性の火山灰土壌に目を付けた 8 代八五 郎氏が土地を切り拓き、茶と梨を植えたのが始まりといわれる。 ・ 大正 12 年に 12 代俊義氏によって【楠森製茶場】が創設されると共に、 微高地である上原・中原・下原一帯に茶園の拡大を行われた。 ・ 昭和 8 年には農林省指定の模範工場に選定され、【茶畑】の一部は県 の試験茶園としても活用された。当時の栽培面積 10 町歩=約 10ha。 ・ 夏の最盛期は 7 ∼ 80 人の従業員が雇われ、山北に住む小作農家や大 工の人々が季節限定で働きに来ていた。 漁業 ・ 筑後川左岸の荒瀬に簗所を構え【豊筑魚簗株式会社】 を経営したといわれる。 ・ 大正 4 年の即位式大典の際には鮎を献納し、福岡県 知事から金壹封を賜ったということを示す文書が残る。 小作地 ・ 小作地の多くは山北北西部に偏っており、多くの田 が小作地として耕作されていた。 ・小作農家の多くは山北に居住しており、その中には 河北家の所有地の中に宅地を構えるものもいた。 酒蔵業 ・【寿天號】という酒蔵会社を持ち、「天禄」というお酒を製造していた。戦前清酒 を醸造していたが、戦時中の整備にあい、終戦後に焼酎の醸造として復活させた。 ・浮羽郡においては、明治 26 年の醸造高約 6700 石から、大正 2 年には 18060 石 へ一躍し、大正 2 年における醸造戸数は 25 戸であった。 製茶業 【豊筑魚簗株式会社】 【茶畑】 【楠森製茶場】 【楠森河北家】 図 4 山北における楠森河北家の土地所有(大正期)

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5-3 製茶業は江戸後期より茶畑の栽培を行っていたが、大 正 12 年(1923)に 12 代当主俊義氏が酒蔵の東隣に 楠森製茶場を創設し、微高地である上原・中原・下原 一帯に茶園の拡大を行った。更に、戦前には筑後川左 岸の荒瀬に「豊ほ う ち く や な か ぶ し き か い し ゃ筑魚簗株式会社」という漁業会社の運 営に関わったといわれ、大正 4 年(1915)の即位式 大典の際には鮎を献納したことを示す文書が残る。ま た 9 代目当主惣三郎が山を開墾し山北石の削堀を行っ たといわれるが、明治中期には石工を多く輩出した白 石家と江藤家に小塩の丁場を貸すのみとなった。  これらの各生業には楠森河北家が抱える技師や管理 人が存在した。彼らの数名は各生業における責任者で あり、本家当主と密に連絡を取り合うことによって、 指示を受けたといわれる。加えて、製茶業においては、 60 人を超す楠森河北家外の人々が大工や小作農家の 副業として働きに来ていたといわれる。 4. 小字吉広周辺の集落空間構成の復元的考察  前出の字図、集落図採取、ヒアリング等より、戦前 における楠森本家周辺の集落構造の復元を試みる。 4-1. 水源とその流域  吉瀬本家と共に、酒蔵と楠森製茶場が位置したとい われる千ち よ ま る代丸周辺部と、楠森本家が位置する吉広周辺 部ではその地を潤す水源が異なった(図 5)。千代丸 周辺部は五ご せ き す い り堰水利と呼ばれる賀茂神社の境内で隈上川 より汲み上げられた水が流れ込み、井延川へと排水さ れた。一方、吉広周辺部は隈上川上流にあたる小塩川 との合流地点から引かれる畑は た け だ す い り田水利を主として、五堰 水利、清せ い す い じ水寺からの清きよみずゆうすい水湧水、山裾に位置する溜池の 水という 4 つの水源からの水が流れ込み、井延川へ と排水された。 4-2. クミバとイケ  小字吉広に注目すると、吉広の各屋敷は畑田水利に よって潤され、その下流において他の水源からの水 と合流した(図 6)。畑田水利は山裾で二手に分かれ ており、一方の畑田水利 A は、本地区の南側を通り、 吉広南、吉広本家、楠森新屋、楠森本家へと水を運ん だ。また他方の畑田水利 B は、本地区の中央を通り、 西屋敷、楠森本家へと水を運んだ。  これらの屋敷にはクミバと呼ばれる水路への降り口 が設けられており、ここで水を汲み上げたり、洗濯を したりした。また、水路を一部広げた部分をイケと呼 び、魚を入れるための生けすとしたり、底に溜まる泥 を肥料として用いたりした。クミバやイケの多くは各 屋敷の端に位置し、各家が所有した。しかし、楠森本 家が 5 つのクミバと 1 つのイケを有しているのに対 し、他の家は数か所しか有していなかった。この所有 数には水利用における楠森本家の優位性が表れている と考えられる。  また、各屋敷に水をもたらした畑田水利に着目する。 江戸末期に引かれたといわれる畑田水利は、楠森本家 と西屋敷、吉広本家に水をもたらしていた。その後、 明治前期において楠森新屋、吉広南は畑田水利に沿う ように分出され、屋敷内に畑田水利からの水を引き込 んだ。これらの家々の分出の立地は畑田水利を拠り所 として、それらを活用することによって屋敷空間を展 開したと考えられる。 〈 吉広南 〉 〈 新屋 〉 〈 吉広本家 〉 溜池より ∼昭和60年頃 畑田水利Aより (江戸末期∼) 畑田水利Bより 賀茂神社の 五堰水利より (∼昭和28年) 清水湧水より (建長元年∼) 〈 吉広 〉 〈 吉広 〉 〈 楠森本家 〉 〈 西屋敷 〉 0 10 30m クミバ イケ 他の水路 畑田水利 田 畑 隈上川 赤尾川 井延川 〈畑田水利〉 〈五堰水利〉 〈清水湧水〉 〈溜池より〉 〈井延川より〉 千代丸 吉広 0 20 60m 清水湧水 溜池より 畑田水利 五堰水利 川 宅地 井延川より 図 6 小字吉広における水路とクミバ 図 5 水源とその流域

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5-4 4-3. 楠森本家周辺における屋敷の増減  楠森本家が位置する小字吉広に注目すると、江戸前 期に楠森河北家から西屋敷が西隣りに分出した。その 後、江戸末期に吉広本家が吉広へと入ってきた。吉広 本家は、楠森から山北北西部に分出された吉丸の、更 に分家である高桶から分出した家である(図 7)。  楠森本家は、11 代当主俊蔵の時代には新屋、12 代 当主俊義の時代には 5 つの分家を山北内外に分出し たが、吉広に分家したのは新屋のみである。明治 13 年 (1880) に楠森本家を含む吉広一帯が火事にあった。 そのため、楠森本家は焼失した主屋が新たに建築され るまでの間、現在の楠森新屋の家屋を建て、そこに暮 らした。その後、明治 14 年 (1881) に楠森本家の建 築が完了するとともに楠森新屋の分出がなされた。こ の楠森新屋は本家の製茶業をはじめとする経営を補助 したと伝えられる。また、楠森本家の西隣りにある 現在の柿畑には西屋敷が位置していたが、昭和 11 年 (1936) に山北を離れている。  一方、吉広本家は江戸末期に分家高桶から分出した と伝えられ、近代期には林業で栄えた。そのため、楠 森本家同様に近代期に多くの分家を出している。明治 中期に小字西野に分家を出し、明治 34 年 (1901) に は小字吉広に吉広南を分出した。その後、明治後期に 小字西野の吉広分家はその東隣りに分家を出した。 4-4. 屋敷境界とアプローチ  本地区特有の景観をつくりだしているものの一つに チクベイがある(図 8)。チクベイは楠森本家と本家 から直接分出した西屋敷を囲み込み、同様に楠森の直 接の分家である新屋の北西側にも造られていた。しか し、吉広本家の北東側には付属屋と竹垣が、吉広南の 南側は杉の生垣であるスギベイが、屋敷境界にそれぞ れ位置しており、チクベイが用いられていない。更に、 楠森本家と西屋敷、また吉広本家と吉広南の屋敷境界 には塀などによる明確な境界は設けられておらず、屋 敷境界には水路や石垣が通るのみであったという。加 えて、明治期に吉広本家から相次いで田畑のなかに分 出された家々も、塀などの屋敷境界を持たなかった。  このように、江戸前期に吉広に存在しチクベイで囲 まれた楠森本家・西屋敷と、江戸末期において吉広へ 入ってきた本家から血縁関係の遠い吉広本家とには、 領域の境界があったと考えられる。そのため、近代期 における各家の分出もその領域の上に展開され、楠森 本家からの直接の分家である新屋には本家同様のチク ベイが設けられたのに対し、吉広から分出した家々は 屋敷境界を示す一定のパターンをもたなかった。  また、各屋敷へのアプローチに着目すると、楠森本 家と吉広本家の領域が接する場所に位置する道から回 り込むようにしてとられている。この道は楠森と吉広 の領域の境界線にあたる。  江戸末期において生じた楠森と吉広の領域の境界は 近代期の集落景観を生む骨格となったと考えられる。 5. まとめ  惣代としてこの地を守ってきた楠森河北家は、近代 化の流れの中で、一族で連携し、生業を戦略的に展開 する経営者へと大きくその振舞いを変えた。一方、昭 和初期の集落空間には、楠森本家・吉広本家・西屋敷 によって作られた集落構造の骨格を元に、多くの分出 が行われ、居住地を拡張するようにして屋敷空間が展 開された。 江戸中期 江戸初期 江戸初期 明治14年 明治34年 明治初期 明治末期 江戸後期 [高桶] [吉丸] [花畑] [篠山] [蔵所] [国分] [男島] 〈 ∼江戸末期 〉 〈 明治∼戦前 〉 〈 戦後 ∼〉 楠森 西屋敷 吉広 その他 (※ ○の大きさは屋敷規模を表す。) 〈 吉広南 〉 〈 新屋 〉 〈 吉広本家 〉 〈 吉広 〉 〈 吉広 〉 〈 楠森本家 〉 〈 西屋敷 〉 至賀茂神社 至清水寺 墓へ 山辺道へ 0 10 30m チクベイ スギベイ 竹垣 藪・森 主屋 アプローチ 付属屋 < 参考資料 > 1)秀村選三『近世前期における筑後国一農村の展開-筑後国生葉郡山北村-』(西南 地域研究 第 8 輯 / 秀村選三編 / 文献出版 /1994) 2)秀村選三『徳川期における農家の年中行事記録』( 秀村選三 / 家 / 喜多野清一 / 岡 田謙編 /1959) 3)山口信枝『宮座の変容と持続-近現代の九州北部における実証的研究-』(弦書房 /2010) 4)熊懐嘉文『賀茂神社誌』(賀茂神社 /1998) 5)『浮羽郡案内』(福岡県浮羽郡役所 /1915) 図 8 分家と屋敷境界 図 7 吉広における河北家の分家

参照

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