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パーリ学仏教文化学 (32) - 003清水 洋平, 舟橋 智哉「タイの絵付き折本紙写本に引用される読誦経典の意味」

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[論文]

タイの絵付き折本紙写本に引用される読誦経典の意味

清 水 洋 平 ・ 舟 橋 智 哉

The Role of Chanting Texts with Illustrations Compiled

in Thai Folded Paper Manuscripts

Shimizu, Yohei & Funahashi, Tomoya

This article shows the essential role of early folded paper manuscripts which contain illustrations for chanting in order to eventually understand Contemporary Thai Buddhist funeral culture in which some of the texts in those manuscripts are utilized.

Buddhist manuscripts kept in Thai temples include not only those made of palm-leaf, but also those made of folded paper (Samut Khoi). Among the latter, the large illustrated ones are especially eye-catching. They were chiefly made between the 18th to the early 20th century to be used in ritual chanting at funeral-related ceremonies, as the illustrations show.

Due to their visual appeal, those illustrated manuscripts have been mainly researched in the field of Art History. Subsequent research as to the location of the manuscripts has identified which texts were inscribed in each of the manuscripts. The research has revealed the fact that the texts are basically compiled from part of the Pāli Tipiṭaka and from part of the extra-canonical texts used for chanting, e.g., the Pārājika chapter of the Vinaya,

Brahmajāla-sutta, the texts on Mātikā and Sahassaneyya from the Abhidhamma and Mahābuddhaguṇa which is classed as an extra-canonical text.

However, the exact function of each of the texts in a manuscript and the reason that they are arranged in a particular order has been yet to be examined. To better understand this phenomenon, my research focuses on one of the folded paper manuscripts which we identified it as produced in 1743. The conclusion which can be drawn from this analysis is that the chanting texts were mainly compiled in order to encourage the laity to perform wholesome

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deeds thereby producing positive karmic results as the Buddha emphasizes the idea of non-self (anatta).

キーワード:タイ仏教,読誦経典,写本,アビダンマ七論,Mahābuddhaguṇa

1.問題の所在

 タイの寺院に所蔵されている仏典写本には,貝葉(1)に記された写本のほ か,折本紙(サムット・コーイ:Samut Khoi)(2)に記された様々な写本が存 在する。その中でも特に目を引くのは,経文と共に複数の挿絵が付される大 型の折本紙写本(縦10∼15cm ×横65∼70cm)である(3)。それらは,その大 きな判型を活用して,上下の見開きページ(Fold)の中央に経文を記し,左 右に美麗な挿絵が描かれるのである(4)  これら大型の折本紙写本は,その挿絵が示すように読誦儀式の折に用いら れた。18世紀から20世紀初頭まで盛んに作られ,葬送儀礼(通夜など,葬 送に関わる一連の儀式)などの場で主に使用されてきた(5)  このような絵付き折本紙写本の研究については,美術史的研究が先行して きたが(6),近年は,写本の所在調査が進むと共に,どのような経文がそこに 採り上げられているのかの研究が進められ,纏まった成果も報告されてき た(7)。これらの成果から,そこに採り上げられる経文は,基本的にパーリ語 三蔵(律・経・論)からの抜粋文と,読誦用の蔵外文献で成り立っているこ とが理解されるのである。但し,各経文がなぜそこに用いられているのかの 意味合いについては,研究が進められていないのが現状である。  本稿では,これら個々の経文が読誦経典として引用される意味について, 18世紀に作製された初期の大型折本紙写本をベースにして考察する。そう することで,現代まで繋がるタイ仏教の葬送儀礼における経文読誦の本来的 な意味を捉えたい。

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2.大型の折本紙写本に見られる引用経典

 タイ仏教において,18世紀から20世紀初頭にかけ作製されてきた大型の 絵付き折本紙写本のうち,19世紀から20世紀初頭の写本には,パーリ語三 蔵(律・経・論)から抜粋した経文と,そのテキストの主なるものとして 『マーライ経』(タイ語:Phra Malai Sut,Khamphi Phra Malai)(8)という蔵外文

献が記されることが多い(9)(表1参照)。これらの殆どはクメール文字(Khom 文字)・細字体で記されている。  一方,それらに比べて現存例は少ないが,18世紀のアユタヤー時代後期 に遡るものと目される写本については,上述のパーリ語三蔵(律・経・論) からの同様の抜粋経文と,Sahassaneyya(「千の導かれるべきもの」)と呼ば れるパーリのアビダンマ七論の最初の Dhammsaṅgaṇi(『法集論』)より抜粋 した文献,並びにテキストの主なるものとして Mahābuddhaguṇa(『偉大な る仏徳』)という蔵外文献が記されることが多い(表2参照)。これらの殆ど はクメール文字(Khom 文字)・太字体で記されている。  現存する大型の折本紙写本を概観すると,これらのことが見えてくるので あり,引用経典からは次の二点が理解できる。一つは,テキストの主なる経 文の種類から二つの系統があり,Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏徳』)を記 している系統のものが古く,『マーライ経』を記している系統のものが,そ れに比して新しいということ(10)。もう一つは,パーリ語三蔵からの抜粋経 文(特に論からの抜粋経文)は,作製年代に関係なく両系統ともに一貫して 記されているということである。  これらのことを踏まえて,次に葬送儀礼での読誦の古形を示すと考えられ る,1743年作製の大型折本紙写本(11)を土台にして,そこに引用される経文 の意味について,以下に論じていく。

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表1:『マーライ経』(Phra Malai)を主なる読誦経文とする大型折本紙写本 20本の引用経典の例 4例 Abhidhamma (抜粋文) Phra Malai 11例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Phra Malai 1例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文)

Phra Malai Paritta

3例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文) Phra Malai 1例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文)

Phra Malai Paritta

表2:Mahābuddhaguṇa を主なる読誦経文とする大型折本紙写本 10本の引用経典の例 2例 Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文) Mahābuddhaguṇa 5例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文) Mahābuddhaguṇa 1例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文) Mahābuddhaguṇa Uṇhīsavijaya 1例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文)

Mahābuddhaguṇa Uṇhīsavijaya Paritta

1例 Vinaya (抜粋文) Sutta (抜粋文) Abhidhamma (抜粋文) Sahassaneyya (抜粋文)

Mahābuddhaguṇa Uṇhīsavijaya Dibbamanta

※表1,表2に取り上げられる読誦経典の順番は便宜上整えているが,写本上での記述の順番はこの限りではない。

3.1743年に作製された大型絵付き折本紙写本の全体の構成

 この写本に採り上げられる読誦経典は,Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏 徳』)と,Vinaya(Pārājika),Sutta(Brahmajālasutta),Abhidhamma 七論(mātikā (要目)等)からの各抜粋文及び Sahassaneyya から構成されている。 ⑴ Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏徳』) ⑵ Vinaya(Pārājika-kaṇḍa (「波羅夷」)の抜粋文)(12) ⑶ Sutta(Brahmajālasutta (『梵網経』)の抜粋文)(13) ⑷ Abhidhamma 七論(mātikā 等の抜粋文)   ①Dhammasaṅgaṇi(『 法 集 論 』 冒 頭 の 最 初 の 一 行 と Cittuppādakaṇḍa の

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Kusalacitta の Kāmāvacara-aṭṭhamahācittāni の一部)(14)

  ②Vibhaṅga(『分別論』各章の冒頭の一部)(15)

  ③Dhātukathā(『界論』冒頭の mātikā と Saṃgahāsaṃgaha の一部)(16)

  ④Puggalapaññatti(『 人 施 設 論 』 冒 頭 の mātikā の Ekaka[puggala] の 一 部)(17)

  ⑤Kathāvatthu(『論事』冒頭の Paṭhama Vagga の ‘Puggalo upalabbhati sacchikaṭṭha-paramaṭṭhenāti’ の一部)(18)

  ⑥Yamaka(『双論』冒頭の Mūlayamaka 章の Uddesavāra の箇所)(19)

  ⑦Paṭṭhāna(『 発 趣 論 』 冒 頭 の Paccayavibhaṅga 章 の Paccayuddesa(20)

Paccayaniddesa の一部)(21)

⑸ Sahassaneyya(Dhammasaṅgaṇi の Cittuppādakaṇḍa の Kusalacitta の Lokuttaracitta の一部)(22)

⑴ Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏徳』)

 この経文はブッダを多彩な言葉で讃嘆する蔵外文献である(23)。ブッダ

を讃嘆する言葉としては,「[ブッダは]遠離しているから阿羅漢である (ārakattā arahaṃ)」,「[ブッダは]あらゆる法の等正覚者である(sabbadhamme

sammāsambuddho)」,「[ブッダは]欲有における楽遅通行の一来の有情を 知るから世間解である(kāmabhave sukhāpaṭipadādandhābhiñā sakadāgāmisatte jānātīti lokavidū)」など様々に見られる。これらは,ブッダを称賛する別称 (仏の十号)を詳しく説明する形式で羅列しているのである。そして最後に 「ブッダの徳は千の言葉で讃嘆しても,し尽くせない」という偈で締め括ら れている。つまり,ここでは仏の徳を文字通り千の言葉で讃嘆しようとし た意図が窺える。千に満たないが,千近くの別称で仏徳を讃嘆しているの である。その数は,阿羅漢5,正等覚者116,明行具足20,善逝4,世間解 514(行世間224,有情世間226,器世間64),無上者137,調御丈夫21,天 人師48,仏16,世尊23の計904である。以下に,同文献の最初の部分であ る仏の十号を記した箇所1)と,仏十号のそれぞれの特質が説明された後

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の,讃仏偈の最後の部分に示された全特質に対する仏徳讃嘆偈(gāthā bra buddhaguṇa)(24)を記した箇所2)を示す。

1) | iti pi so bhagavā arahaṃ sammāsambuddho vijjācaraṇasampanno sugato lokavidū | anuttaro purisa dammasārathi satthā devamanussānaṃ buddho bhagavāti | |

このようにかの世尊は,阿羅漢,正等覚者,明行具足,善逝,世間解,

無上者,調御丈夫,天人師,仏,世尊である(25)

2) | | | | sahassasise pi ce poso sise sise sattaṃ mukkhā | | | | mukhe mukhe sattaṃ jivhā jīvakappo ca mahiddhiko | | | | na sakkoti ca vaṇṇetuṃ nisesaṃ satthuno guṇan ti | | | |

千の頭にも,頭や頭に善い人々の口があり,口や口に善い人々の舌があ り,長い命をもつ神変のある人がもしもいても,師のすぐれた徳を称賛 する事はできない(26)  このように,先ず,Mahābuddhaguṇa の経文では,ブッダの十の特質(仏 徳)を千近くの別称で 讃嘆することでブ ッダ の偉大さ,素晴らしさを示し て,ブッダとは何か,ブッダは素晴らしい徳行を持つ方であることが説かれ ている。ここでは,ブッダの偉大さを在家者である聴衆に知らしめることが 意図されていると思われる。 ⑵ Vinaya(Pārājika: Verañja-bhāṇavāra の抜粋文)  次に Vinaya(Pārājika)の抜粋文が引用されている。この Pārājika の抜粋 箇所は次の内容である。ヴェーランジャ(Verañja)村の婆羅門がブッダの 面前で仏の十号などの表現を用いてブッダを讃嘆したあと,その婆羅門は自 身が他から聞いたブッダの人物像をブッダ自身に確認する。ブッダは彼が示 したブッダの人物像それぞれを訂正するのである。具体的にはブッダは,非

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作業論者・断滅論者・嫌悪者・調伏者・苦行者等と呼ばれる場合があるが, それは悪不善の法(悪い行為を行った結果である事象)になるような行為を 行わないようにするという意味で,そのように表現すると説かれているので ある。実際は,ブッダは,行為(業)とその結果を否定する人物像である非 作業論者や断滅論者等ではないということをブッダ自身が説くのである。例 として非作業論者の箇所を示す。

akiriyavādo gotamo ti | atthi khv essa brāhmaṇa pariyāyo yena samāvadamāno vadeyya akiriyavādo samaṇo gotamo ti | ayaṃ hi brāhmaṇa akiriyaṃ vadāmi kāyaduccaritassa vacīduccarittassa manoduccarittassa anekavihitānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ akiriyaṃ vadāmi | ayaṃ kho pana brāhmāṇa pariyāyo yena maṃ pariyāyena samāvadamāno vadeyya akiriyavādo samaṇo gotamo ti | no ca kho yaṃ tvaṃ sandhāya vadesi

「ゴータマは非作業論者である」 「婆羅門よ,実にこの理由がある。それによって正しく言いつつ,沙門 ゴータマは非作業論者である,と言っているのだろう。婆羅門よ,実に 私は身悪行,語悪行,意悪行に対して非作(行わないこと)を説く。私 は,種々の悪不善法の非作を説く。婆羅門よ,実にこれがまた理由であ る。その理由によって私のことを正しく言いつつ,沙門ゴータマは非作 業論者である,と言っているのだろう。しかしあなたがそれについて 言っていることはそうではない」(27)  このように本経文では,ブッダは,悪不善の法になるような行為を行わな いという意味で,[行為とその結果を否定する]非作業論者や断滅論者等と 呼ばれる場合があるが,実際は,ブッダは,不善法の非作や悪不善の断滅を 説くのであって,業論者であるということを示していると思われる。

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⑶ Sutta(Brahmajālasutta の抜粋文)  次に Sutta として Brahmajālasutta の抜粋文が引用される。その引用箇所は まず,多くの比丘が集まって,「仏の悪口を言う遍歴行者スッピヤと,仏を 称賛するスッピヤの弟子である若い婆羅門ブラフマダッタの2人が互いに正 反対の意見を言いながら釈尊と比丘僧団の後をついてきている」という話を しているという箇所を冒頭に引用している。その後に本経文では,同経典の 「凡夫が仏を褒め称える理由は多くの戒を守っているからである」という箇 所を省略する。そして,それに続く「六十二見の話」のうち,「煩悶・動揺 の章(Paritassitavipphandita vāra)」(28)の一部のみが引用されている。つまり 六十二見のうち「煩悶・動揺の章」の,常住論者,一部常住論者,有限無限 論者,詭弁論者,無因論者,過去論者,死後有想論者,死後無想論者,断滅 論者が,偏見・邪見であると否定される箇所のみが取り上げられているので ある(29)  これらの論者の説は全てアートマン(我)を前提にして論じられている。 つまり,常住不変のアートマン(我)を認めたことになっているのである が,ここでは,仏教の立場からはアートマン(我)を肯定する全ての論者を 偏見・邪見であるとして否定するのである。  以下に,死後の有想論と無想論の否定の箇所を例として引用する。

tatra bhikkhave ye te samaṇābrāhmaṇā uddham āgatanikā saññivādā ugatamāyanā saññam attānaṃ paññāpenti soḷassahi vatthuhi | tad api tesaṃ bhavataṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ajānataṃ apassataṃ vedayitaṃ taṇhāgatānaṃ paritassitam eva | tatra bhikkhave ye te samaṇabrāhmaṇā udam āgatanikā asaññivādā upetanā asaññivā attānañ ca lokañca paññāpenti aṭṭhahi vatthūhi | tad api tesaṃ bhavataṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ajānataṃ apassata vedayitaṃ taṇhāgatānaṃ paritassitam eva |

比丘らよ,その中,死後に関する有想論者の沙門婆羅門達が,十六の根 拠によって死後に自己の有想(死後にも自我(アートマン)が存在する

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という想い)を説くが,これはまた,その尊者沙門婆羅門達の未知,未 見の,感受された,愛欲に堕ちた,動揺された〔偏見〕なのだ。比丘ら よ,その中,死後に関する無想論者の沙門婆羅門達が,八の根拠によっ て死後に自己と世界の無想(死後には自我と世界が存在しないという想 い)を説くが,これはまた,その尊者沙門婆羅門達の未知,未見の,感 受された,愛欲に堕ちた,動揺された〔偏見〕なのだ(30)  このように本経文は,アートマン(我)を認める論者全てを否定すること で,ブッダがアートマン(我)を否定していることを示している。

⑷ Abhidhamma 七論(mātikā 等の抜粋文)〔並びに⑤ Sahassaneyya(「千の 導かれるべきもの」)〕  以上を前提として,その後 Abhidhamma 七論(mātikā 等)の抜粋文と, その後に続く Sahassaneyya(「千の導かれるべきもの」)と名付けられた Dhammasaṅgaṇi の一部が引用されている。Abhidhamma 七論の抜粋文では, 善い行為である善業を因縁(または根(mūla))とすることで,善い結果と して善い事象や物事である善法が生じることが説かれている。即ち,その善 業から生じた善法(善い事象)は,その結果がもたらされるまで継続状態で あり,善い行為の結果は必ずもたらされる。善い行為から生じた善法は,仮 に施設(paññatti)された存在(五蘊・十二処〔と分析される我々〕等)に よってなされたとしても,仮に施設された存在には属さずに,善法として結 果が出るまで保たれるということが理解できるのである。  七論の抜粋文では世間における善法をこのように述べて,その後に続く Sahassaneyya で,さらに出世間の善法が説かれながら,出世間から見た苦や 楽の結果が必ずもたらされるという因果応報を述べるのである。以下に,概 説する。

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①Dhammasaṅgaṇi の抜粋文(31)  ここでは,世間における善法のみが述べられている。色など六処の欲望の 対象に対して喜びが伴い智(仏智)に合っている(相応する)善心が生じる 時,善法(善い行いによって生じた事象・物事)[あるいは他の縁による無 色の法]があるということを述べている箇所が引用される。 ②Vibhaṅga の抜粋文(32)  ここでは,[この世間を]五蘊・十二処・十八界・四諦・二十二根や縁起 に分類することを述べている箇所が引用される。 ③Dhātukathā の抜粋文(33)  ここでは,その五蘊・十二処・十八界・四諦・二十二根・縁起に加え三十 七菩提分法(四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七菩提分・八正道分) や心などを挙げて,それらが包摂関係にあるか否か(摂・不摂),相応関係 にあるか否かを説明する箇所が引用される。 ④Puggalapaññatti の抜粋文(34)  ここでは,これまで挙げた五蘊・十二処・十八界・四諦・二十二根に, [行為の主体者と考えられる]人(プッガラ:puggala(skt pudgala))を加え たものを,すべて仮に施設(paññatti)された存在であると説き,さらに人 (puggala)が凡夫,無学,正等覚者などと分類されることを説く箇所が引用 される。 ⑤Kathāvatthu の抜粋文(35)  ここでは,仮設の存在であると説かれた人(puggala)は,仏の立場であ る勝義・諦義によって[そのように]認められる(知られる)が,人は勝 義・諦義の[仏と同じ]存在ではないことを述べる箇所が引用される。

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⑥Yamaka の抜粋文(36)  ここでは,善法とは善根を因縁とすることを説く箇所が引用されている。 つまり何らかの善い原因があり,その善い行いによって生じた事象・物事が 善法であると説いている。 ⑦Paṭṭhāna の抜粋文(37)  ここでは全ての諸法についての因縁を説く。つまり一切の諸法(上記①∼ ④において分析された全ての存在)は原因と結果の関係から生じているとい う因果関係・因縁を説く。[原因である]十二処・十八界などの所縁等に応 じて(相応して)[世間の]諸々の法が生じるのである。これらのことを説 く箇所が引用されている。   こ の よ う に 見 て く る と, ま ず ① Dhammasaṅgaṇi で, 世 間 に お け る 善 法が述べられ,② Vibhaṅga,③ Dhātukathā においてその世間を五蘊・十 二 処・ 十 八 界 な ど に 分 類 し な が ら, そ れ ら の 包 摂 関 係 な ど を 述 べ, ④ Puggalapaññatti で,上述の五蘊などに[行為の主体者と考えられる]人 (puggala)を加えたものを,仮に施設された存在であるとして,アートマン を否定するのである。続いて⑤ Kathāvatthu で[このような]人(puggala) は勝義によって認められることが述べられ,⑥ Yamaka で,善法には何らか の善い原因があることを述べ,⑦ Paṭṭhāna で,十二処・十八界などの所縁 等に応じて[世間の]諸々の法が生じる因果関係を述べるのである。①から ⑤までを前提にして,この⑥ Yamaka,⑦ Paṭṭhāna の内容を読むと,この因 果関係は,世間(十二処・十八界などの所縁)に応じて[人(puggala)が 行う善業という]善い原因から善法が生じるという業報思想を説いていると 読み取れるのである。  これらのことから Abhidhamma 七論の抜粋箇所は,この世における在家者 の善業が来世のよりよい生まれ変わりにつながることを,無我を覚った仏の 立場から見て論理的に説明する経文であることが理解できる。この身が縁起

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生による仮に施設された存在であることを説明しながら,そうであっても 行った善業は,それによって生じた善法の結果がもたらされるまで保たれる ことを説明しているのである。

 次の Sahassaneyya では,そのことが出世間の立場から述べられている。

⑸ Sahassaneyya(Dhammasaṅgaṇi の出世間心(Lokuttara citta)の一部)(38)

 上述のことを踏まえて Sahassaneyya では,出世間の善法(39)は,出世間の

禅定を修するときにあると述べている。

 その禅定を修する中で,「苦へ向かう道を遅く知る。…楽へ向かう道を早 く知る。(dukkhā paṭipadaṃ daṇḍābhiññaṃ … sukhā paṭipadaṃ khippābhiññaṃ:

苦遅通行…楽速通行)」(40)として,その禅定を形容するのである。この出世 間の禅定は,初禅から第五禅まで説かれるが,全て上記と同様の表現で禅定 の境地が形容されているのである。この表現は,行為の結果である苦や楽を いつ受けるのかを出世間禅から観察しているものと考えられる。ここで述べ られる苦や楽は[この世で行った]行為(業)の結果を受けることと理解で き,「遅く」や「早く」はその結果を受ける時期であり,道(paṭipadaṃ:通 行)は,苦や楽として結果が現れていない段階であることを示している。こ のように,業報思想について出世間の立場から説明していると考えられる。 出家者は,この世で行う禅定の中で,行為の結果である苦や楽を上記のよう に知るのであるが,在家者はそれができずに,来世にその結果がもたらされ ることが示唆されているのである。  以下に Sahassaneyya の初禅の部分を引用する。

pathamāya bhūmiyā pattiyā vivicceva kāmehi pathamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati dukkhāpaṭipadaṃ dandābhiññaṃ sukkhāpaṭipadaṃ khippābhiññaṃ dukkhāpaṭipadaṃ dandābhiññaṃ sukhāpaṭipadaṃ khippābhiññaṃ tasmiṃ samaye phasso hoti | avikkhepo hoti ime dhammā kusalā |

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(「苦へ向かう道を遅く知る。楽へ向かう道を早く知る。苦へ向かう道を 遅く知る。楽へ向かう道を早く知る」)である初禅を具足して住する時 その時,触があり,不散乱がある。これらが善法である(41)  このように Sahassaneyya の初禅の部分では,行為の結果である苦や楽を 出世間禅の立場から説明しているのである(42)。つまり,出家者は,出世間 の立場から[在家者が行った]善業の結果がいずれ苦や楽という形で現れる ことを知る者であるため,出家者が在家者に善業を行うことを勧めているの である。さらにこの経文を引用することで,聴衆である在家者に出家者とな ることまでをも意識させて,出世間の禅定の道に進むことを説こうとする意 図が含意されていると考えられるのである。

4.まとめ

 以上,18世紀に作製された初期の大型折本紙写本に引用された読誦経文 の内容を読み解くと,聴衆である在家者がこの世で善業を行う礎となる理論 を,Mahābuddhaguṇa,Vinaya(Pārājika)の抜粋文,Sutta(Brahmajālasutta) の抜粋文,Abhidhamma 七論(mātikā 等)の抜粋文及び Sahassaneyya を用い て説明していたことが明らかになった。  すなわち,Mahābuddhaguṇa では,テキストの主なる経文として,ブッダ の偉大さを長文で朗々と聴衆に読み聞かせることで,ブッダの偉大さを改め て知らしめる働きを担っている。  Vinaya(Pārājika)の抜粋文では,ブッダは,[行為とその結果を否定する] 非作業論者等と誤解される場合があるが,悪不善の法(悪い行為を行った結 果である事象)になるような行為を行わないようにするという意味で,その ように呼ばれるのであって,実際ブッダは,業論者であるということを述べ ているのである。ただ,そうするとブッダが業報思想を認めたということ で,それなら業を担うはずの常住不変のアートマン(我)をもブッダが認め たことになるのではないかという疑惑を持たれる可能性が生じてくる。

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 そこで次に,Sutta(Brahmajālasutta)の抜粋文を引用して,そのことを否 定する。ここでは,アートマン(我)を認めたうえで論を進めようとする論 者たちを否定することで,ブッダはアートマン(我)を認めたことになると いう疑いを完全否定するのである。  Abhidhamma 七論(mātikā 等)の抜粋文では,世間の立場から,世間の善 法について述べられる。この身は仮に施設された縁起生の存在であると説明 してアートマン(我)を否定しながら,この世で行った善業は必ずその結果 がもたらされると説明するのである。また,これに続く Sahassaneyya では, 出世間の立場からこのことを説明している。このようにして,在家者に現世 で善業を行うことが来世によい結果をもたらすこと,よい生まれ変わりにつ ながることを説明しているのである。  葬送儀礼などの場での読誦本の役割は,本来,このような内容を在家者に 読み聞かせることにあったと考えられる。つまり,無我思想の立場からみ た,業報思想に裏付けされた善業実践の解釈を儀礼の場で在家者に説くこと が,折本紙写本に引用される読誦経文の本来的な意味であると考えられるの である。これが,まさに読誦本を作製した編纂者の意図だと思われる。  但し,この読誦本を作製した編纂者は,仏徳の尊さや Abidhamma 七論の 抜粋文などの内容を仏教経典類を通して深く理解しているが,在俗の多くの 聴衆は,これらの経文の内容を理解できないと思われる。ただ,そうであっ ても,この経文の内容を理解できない多くの聴衆がこの経文を聴聞すること によって,それらの功徳を受けることができ,来世のよりよい生まれ変わり に繋がることを願って読誦本が作製されてきたのだと思われる。  また,上述したような引用された各経文の主旨を踏まえると,Mahā-buddhaguṇa,Vinaya (Pārājika)の抜粋文,Sutta(Brahmajālasutta)の抜粋文 は,ブッダ自身やブッダ自身の立場(業論者・無我論者)について述べられ ているのに対し,Abhidhamma 七論(mātikā 等)の抜粋文及び Sahassaneyya は,在家者向けに善業実践の思想的解釈を説いていることが理解されるので ある。特に Abhidhamma 七論の抜粋文は,在家者が善業を行う理論的説明の

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中心であると捉えられるのである。  現代のタイの葬送儀礼では,大型の折本紙写本を用いて Mahābuddhaguṇa や『マーライ経』を読誦する伝統は廃れている。但し,Abhidhamma 七論の 抜粋文は現在も一貫して葬送儀礼の場で読誦されている(43)。その理由は, まさに上述してきた Abhidhamma 七論の抜粋文がもつ意味にあるのではない だろうか(44) 略号

AN: Aṅguttara-Nikāya, DN: Dīgha-Nikāya, Dhs: Dhammasaṅgaṇi, MN: Majjhima-Nikāya, PTS: Pali Text Society, SN: Saṃyutta-Nikāya, Vin: Vinaya.

※ PTS 版は最新版を使用。 注 ⑴ 貝葉とは,「貝多羅葉」の略称であり,パーリ語の ‘patta’(サンスクリット ‘pattra’:葉)と,オウギヤシである ‘tāla’(多羅樹)を漢訳したものに基づく。オ ウギヤシやコウリバヤシなど,ヤシ科の植物の葉を加工して,鉄製などの尖筆で線 刻するか,竹や葦製のペンまたは筆を道具にしてインクで書写する記録媒体であ る。 ⑵ タイではコーイ樹皮(ムクバナタレボク)から作られる紙を用いたサムット(帳 面)のほか,サー樹皮(コウゾ)から作られるもの(サムット・クラダート・サー) もある。 ⑶ 大型の折本紙写本には挿絵があるため,その美術的価値から多くが盗難に遭い失 われている。挿絵部分が切り取られ,それらが売買されるのである。これらの写本 については,現在は欧米の図書館に多数所蔵されている。 ⑷ 全ての見開きページ(Fold)に挿絵が描かれているのではなく,一部の Fold に のみ挿絵が付されている。現在までの私たちの調査からは,挿絵が付されてい る Fold とは,その写本に記されている複数の読誦経典のうち,一つの経典の経文 が始まる箇所を示していることが理解できる(但し,その写本テキストの多くの Fold を占める主なる読誦経典(本文「2.大型の折本紙写本に見られる引用経典」 の項を参照)が記された箇所では,その経文の途中であっても挿絵が描かれている 場合がある)。 ⑸ 折本紙写本はラーマ6世(在位1910∼1925)の時代以降,サムット・ファラン

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(西洋帳)が広く普及すると次第に使用されなくなった。

⑹ 美術史的価値の研究については,No Na Packnam. 1985. Khoi Manuscript Paintings of the Ayudhya Period. Bangkok: Muang Boran Publishing House, pp. 61‒79. Vathanukit, Prakit. 2542 (1999). Samutkhoi. Bangkok: Moradok Thai, pp. 319‒355.[Ginsburg 1989, 2000, 2005]などが多数の報告を行っている。

⑺ The Schoenberg Institute for Manuscript Studies. (ed.) 2017. Manuscript Studies -A Journal of the Schoenberg Institute for Manuscript Studies-, Vol. 2‒1. Philadelphia: the University of Pennsylvania Press. など。また,[田辺・清水編 2016]により,全容が 世に紹介されたことは今までに一度もなかった18世紀に作製された貴重な絵付き 大型折本紙写本について,同写本の全ての影印,並びに写本の中の全経文の読解, 和訳,及び英語と日本語による関連諸資料の紹介が行われた。 ⑻ タイを中心に民衆に親しまれてきた仏教文献であり,わかりやすい業報思想を説 く。内容は,神通力を備えたマーライ尊者が,飛翔して地獄,天界を巡り未来仏で ある弥勒仏に出会いその様子を人々に語る。そして積善積徳の功徳や『ヴェッサン タラ・ジャータカ』の聴聞の功徳を説くというものである。スリランカに淵源を持 つ同文献は,著者や成立年代は不明であるが,現在知られているものとしておよそ 3つのヴァージョンがある。ラーンナー地方のパーリ語版,韻文の形で伝承され親 しまれてきた民衆版(『プラマーライ・クロンスワット』(Phra Malai Klon Suat): 大型折本紙に記されるもの),タンマティベート親王によって1737年に文学作品と して作成された欽定版(『プラマーライ・カムルアン』(Phra Malai Kham Luang)) である。[畝部 2008]ほか参照。 ⑼ [Brereton 1995: 94]によれば,18世紀前半に作製された『マーライ経』が現存す るとしているが,所在情報などは記されていない。 ⑽ 19世紀頃から,テキストの主なる経文として Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏徳』) に入れ替わるように,『マーライ経』が葬送儀礼の場で読誦されるようになり, Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏徳』)を記す大型の折本紙写本は作製されなくなっ ている。但し,現代では,『マーライ経』を読誦する伝統も廃れ,パーリ語三蔵の 論からの抜粋文が葬送儀礼の場で読誦される。注 を参照。

⑾ Bangkok: Bang Khun Thian 区所在寺院 Wat Hua Krabue 所蔵の作製年代が明記され ている貴重な絵付き折本紙写本。

⑿ Pārājika-kaṇḍa: Pathama-pārājika〔Methuna〕 の Verañja-bhāṇavāra の 一 部(Vin III, pp. 1‒3. PTS)。

⒀ DN I, pp. 1‒2, 39‒41. PTS. ⒁ Dhs I, p. 1, 9. PTS.

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(dhātuvibhaṅga), 諦 分 別(saccavibhaṅga), 根 分 別(indriyavibhaṅga), 縁 相 分 別(paccayākāravibhaṅga),念処分別(satipaṭṭhānavibhaṅga),正勤分別(sammappa-dhānavibhaṅga),神足分別(iddhipādavibhaṅga),覚支分別(bojjhaṅgavibhaṅga),道 分別(maggavibhaṅga),禅定分別(jhānavibhaṅga),無量分別(appamaññāvibhaṅga), 学 処 分 別(sikkhāpadavibhaṅga), 無 礙 解 分 別(paṭisambhidāvibhaṅga), 智 分 別 (ñāṇavibhaṅga), 小 事 分 別(khuddhakavatthuvibhaṅga), 法 心 分 別(dhamma-hadayavibhaṅga)の各章に分けられているが,そのうち蘊分別,処分別,界分別,諦 分別,根分別,縁相分別の各章の冒頭部分がここでは引用されている。Vibhaṅga I, p. 1, 70, 87, 99, 122, 135. PTS. ⒃ Dhātukathā, pp. 1‒2. PTS. ⒄ Puggalapaññatti, pp. 1‒2. PTS. ⒅ Kathāvatthu, pp. 1‒2. PTS. ⒆ Yamaka, pp. 1‒3. PTS. 但し,同写本に記される Uddesavāra の後半部分は PTS 版と 異なる([田辺・清水編 2016: 105]参照)。 ⒇ Paccayuddesa は Mātikānikkhepavāra とも記される。 Tikapaṭṭhāna, pp. 1‒2. PTS. Dhs I, p. 69, 74. PTS. Mahābuddhaguṇa(『偉大なる仏徳』)は,仏の偉大なる特質を示すものとして Visuddhimagga(『清浄道論』)の六随念の仏随念を増広させたと想定される。[田 辺 2013]参照。Mahābuddhaguṇa は,折本紙写本では,前半と後半に分けて記さ れている。前半は,阿羅漢,正等覚者,明行具足,善逝,世間解(行世間,有情 世間)について記されており,後半は,世間解(器世間),無上者,調御丈夫,天 人師,仏,世尊について記されている。また,前半の最後の経文が記される Fold と,後半の最初の経文が記される Fold には挿絵が描かれる。折本紙写本に記され る Mahābuddhaguṇa については,Toshiya Unebe. 2017. “Textual Contents of Pāli Samut Khois: In Connection with the Buddha’s Abhidhamma Teaching in Tāvatiṃsa Heaven,” Manuscript Studies, A Journal of the Schoenberg Institute For Manuscript Studies, Vol. 2‒2, pp. 436‒438. にも詳しいが,同論文では,この前半と後半に分けて記される Mahābuddhaguṇa を,‘Mahābuddhaguṇa’ と ‘Mahābuddhaguṇa-vaṇṇanā’ というタイト ルを各々に付して説明がなされている。

Mahābuddhaguṇa の文中には,gāthā bra buddhaguṇa として仏の特質に応じて仏徳 讃歎偈13偈が,記されている。2)の偈文は,最後に記されているものである。 [田辺・清水編 2016: 65, 116]参照。仏十号列挙は,パーリ聖典の中に世尊を説 明する言葉としてしばしば現れる。SN I, p. 219,DN I, p. 49,MN I, p. 356,AN I, p. 207など 参照。尚,大乗仏教経典にも,如来を加えて仏十号列挙が登場する。『無

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量寿経』では,法蔵菩 の師仏,世自在王如来を説明するのに見られる。荻原雲来 1972「梵和対訳 無量寿経」『浄土宗全書23 梵蔵和英合璧浄土三部経』東京:山喜 房佛書林,pp. 14‒17参照。 [田辺 2013: 103],[田辺・清水編 2016: 91, 131]参照。 [田辺・清水編 2016: 94, 133]参照。 DN I, pp. 39‒41. PTS. 章名はビルマ第六結集版を参照(片山一良 1991 『原始仏教』 第1巻,東京:中山書房仏書林,p. 64)。 本来の Brahmajālasutta では,このあとに現世涅槃論者,未来論者,過去未来論 者が否定されることが続くが,その部分は省略されている。 [田辺・清水編 2016: 99, 137]参照。 [田辺・清水編 2016: 99‒100]参照。 [田辺・清水編 2016: 100‒101]参照。 [田辺・清水編 2016: 101‒102]参照。 [田辺・清水編 2016: 103‒104]参照。 [田辺・清水編 2016: 104‒105]参照。 [田辺・清水編 2016: 105]参照。 [田辺・清水編 2016: 105‒106]参照。

貝葉写本等によると Sahassaneyya の別名として「出世間禅定(lokuttara jhāna)」, 「禅定の道(jhāna magga)」等の記述が見られる。Cf. [Unebe 2017: 438‒440]。その

他 ‘Sahassanaya’ という表記もみられるが,意味内容の点から ‘Sahassaneyya’ の表記 が正しいと思われる。 ここで述べられる善法の内容は,① Dhammasaṅgaṇi の善法を受けての内容であ る。 今 回 取 り 上 げ た 写 本 に 引 用 さ れ て い る Sahassaneyya は, こ の 箇 所 が PTS 版 の Dhs と少し異なる。同写本の Sahassaneyya は,「苦へ向かう道を遅く知る。… 楽 へ 向 か う 道 を 早 く 知 る。(dukkhā paṭipadaṃ daṇḍābhiññaṃ … sukhā paṭipadaṃ khippābhiññaṃ:苦遅通行…楽速通行)」を2度繰り返すのに対し,PTS 版は,「苦 へ向かう道を遅く知る。…苦へ向かう道を早く知る。…楽へ向かう道を遅く知る。 …楽へ向かう道を早く知る。(dukkhā paṭipadaṃ daṇḍābhiññaṃ … dukkhā paṭipadaṃ khippābhiññaṃ … sukhā paṭipadaṃ daṇḍābhiññaṃ … sukhā paṭipadaṃ khippābhiññaṃ)」 と4種の内容が記されている(Dhs I, p. 69. PTS. [田辺・清水編 2016: 107, 142]参 照)。この4つに形容される禅定が初禅から第五禅まで説かれており,それぞ れ に 善 法 が59種 あ る こ と か ら,4×5×59=1180と な り, こ れ が Sahassaneyya (「千の導かれるべきもの」)の由来と推定できる。この59種の善法は,既に① Dhammasaṅgaṇi の抜粋文にも説かれており(但し Dhs の抜粋文では,無色に相

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応する善法の名称が省略されるため,55種の善法として説かれている),これに 相応すると考えられる。この① Dhammasaṅgaṇi に説かれる世間における善法は, Sahassaneyya に説かれる初禅から第五禅までの出世間の善法として捉えられること から,この出世間の善法を述べる箇所は Sahassaneyya(「千の導かれるべきもの」) と名付けられたと推定できる。 [田辺・清水編 2016: 107, 142]参照。 Abhidhamma 七論の抜粋箇所に引用された部分は,世間における善法(kusala dhamma)と,五蘊・十二処等の無我・仮設にポイントを絞って説明しているのに 対し,Sahassaneyya は,出家者の禅定を説くことから Dhs の出世間心の一部の引用 ではあるが,Abhidhamma 七論に組み込まれずに別に項目立てされていると考えら れる。 現代のタイの葬送儀礼において,Abhidhamma 七論の抜粋文(タイ語で「プラ アピタン(Phra Aphitham)」と呼ばれる)が読誦されることについては,[佐々木 1986: 204‒205],[村上 2011: 237],[岡部 2014: 150]参照。 これらのことがタイをはじめとする東南アジアで Abhidhamma 七論の抜粋文が重 要視されている理由の1つであろうと考えられる。 参考文献

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