はじめに
本稿の目的は、日本古代の人口について、時空間情 報科学を利用することで、その動態を明らかにすること にある。聞き慣れない言葉ではあるが時空間情報科学と は、時間と空間についての計算機によるシミュレーショ ンのことである。
まず、ここで取りあげる人口の問題についてだが、
人間は家族・地域・国家など生存のためのシステムを構 築するが、災害・飢饉・疫病が人間の生存に負の作用を 及ぼすものであるように、それらは環境要因との応答関 係のもとにあった。異常気象や地殻災害は直接生命の危
人口動態よりみた日本の古代
今 津 勝 紀
Ancient Japan from a demographic perspective
IMAZU Katsunori
Okayama University, Research Institute for the Dynamics of Civilizations, Okayama city, Okayama prefecture, 700-8530, Japan
動態学
Doi 10.18926/63024
© 2022 by RIDC
Abstract The purpose of this paper is to clarify the population dynamics of ancient Japan using spatio-temporal information science. Spatio-temporal information science is a computer simulation of time and space. In the first half of the eighth century, the population under the rule of the Japanese Ritsuryō State was about 4.5 million, and the country was in a state of chronic famine.
In the first half of the ninth century, the population distribution showed a mosaic-like pattern with high population density in the central and western archipelago. With the exception of infectious diseases such as smallpox, famine caused by drought and rainstorms, and the resulting epidemics, were confined to regional areas, and the population of the areas seriously affected by famine and epidemics declined significantly. In the eighth century, the average annual population growth rate was between 0.1%
and 0.2%, and the total population in the first half of the ninth century is estimated to have been between 5 million and 5.5 million.
Keywords Simulation, demography, ancient Japan, population
機をもたらすだけでなく、生活や生産の基盤に大きな影 響を与えるが、ここでは、そうした人間の生存に負の作 用を及ぼすものを環境抵抗と称することとしよう。環境 抵抗との応答関係がある意味、歴史そのものでもあるの だが、人間の生存をめぐる応答関係を総括的に表現する のがヒト個体群のあり方であり、それを具体的に示す指 標が人口である。本稿ではこのような課題認識のもとに 人口の問題を取りあげる。
古代の人口をめぐっては、これまで澤田吾一1)の研究を はじめとして、鎌田元一2)・坂上康俊3)らにより人口総数や 人口変動について論じられてきたが、とりわけ重要な意 味をもつのが人口統計学的分析をはじめて導入したW・
W・ファリスの研究である4)。ファリスは、古代の人口が飢
論文
饉・疫病などの災害により大きく影響をうけたこと、さらに は古代から中世前期にかけての人口は停滞気味であった が、中世後期以降大きく増加しはじめることを指摘した。
この問題に関わるところでは、近年では、本庄総子がファ リスの研究を受け止めて、古代の疫病のあり方を再検討 し、環境抵抗がどのように作用したのかを具体的に論じて いる5)。本稿ではそれらに学びながら、時間と空間の二局 面において、日本古代における列島社会の人口動態を明 らかにし、その意味を考えることとしたい6)。
以下、古代の人口資料を検討した上で、時空間情報 科学を利用した空間分析と時系列分析を行い、そうして 求められた計算モデルをふまえることで、古代の人口を めぐる諸現象がどのように理解できるかを検討する。モ デリングの手法はこれまでの歴史学的実証とは異なり事 実を表現するものではないが、事象を単純化し可視化す ることで特徴の把握が可能になる。これにより歴史学 の可能性が広がるのであれば試してみる価値はあるだろ う。本稿はそうした実験的試みである。
1 古代の人口分布
(1)人口資料
言わずもがなのことではあるが、古代において現在 のような統計資料は存在しない。ここでは、郷(里)の 数に着目して、旧国単位の人口密度を復原したいと思 う。戸令1為里条に規定するように、50 の戸をもって 里は編成された。こうした 50 戸編成は 7 世紀の中葉に はみられるようになるが7)、戸は必ずしも自然なまとま りではなく、戸主を中心とする繋がりをもとに編まれた ものであり、平準化されているわけではない。戸籍・計 帳にみえる戸の姿はまちまちであり、実際には寛郷や狭 郷がある。大宝 2 年(702)の御野国加毛郡半布里など は 58 戸で構成されていたように、戸の姿、郷を構成す る戸の数ともに実態的にはさまざまなのだが、ここでは、
単純化して郷の数だけを問題とする。
まず、日本古代の全国の郷の総数については、①『律 書残篇』、②『和名類聚抄』、③『宋史』日本伝の奝然が 伝えた人口資料に伝わる。①の『律書残篇』は、古代の 刑律についての書き付けで、原題も筆者も不明の巻子本 だが、流刑に関連して諸国の郡郷里数や京からの距離な どが記載されている。『律書残篇』の冒頭には、
日本国六十七 郡五百五十五 郷四千十二
里万二千卅六 〔左京 条九防ママ卅六/右京 条九防ママ卅 六〕
大倭国 郡十四 郷百六 里二百七十六 守・介・掾・
大目・少目 四位以上六位也
(下略)
とあるように、日本全体で 550 郡、4012 郷、1 万 2036 里の存在したことがみえる8)。郷と里がみえるように郷里 制下のもので、古く坂本太郎により、養老 5 年(721)か ら天平 9 年(737)の幅に収まるものであることが明らか にされ9)、坂上康俊は現存風土記のうち『律書残篇』にも記 載のある肥後と豊後を比較し、『律書残篇』の郷数には余 戸・駅家郷が含まれないことを指摘する。8 世紀前半の全 国の郷の総数が得られることは貴重であるが、国別データ がみえるのは大倭国・芳野監など 35 カ国に限られており、
全国のデータによる相対値を比較することができない。そ のため 8 世紀前半の人口分布については推定不能であり、
残念ながらこの点は断念せざるを得ない。
人口資料の中核をなすのが②の『和名類聚抄』である。
『和名類聚抄』は、10 世紀前半の承平年中に源順の撰によ り成立した。20 巻本と 10 巻本があり、数系統の写本が 伝わるが、20 巻本の大東急本では 4041 郷、高山寺本で は 3715 郷があげられている。高山寺本国郡部の末尾には
「以上三千七百三十五郷」とあり、転写の過程での脱落も あるようだが、ほぼ全郷が揃っている。『和名類聚抄』に ついては、20 巻本と 10 巻本の成り立ち、写本の系統に ついてなど、よくわからないことも多くあるが、これが基 本史料であることは間違いない。『和名類聚抄』自体の成 立は 10 世紀であるが、池辺彌が指摘するように、これら の郷名は 9 世紀前半のものと合致する率が高く、9 世紀前 半の民部省に由来する資料を基礎に編まれたものと考えら れている10)。
③は『宋史』(巻 491、列伝 250、外国 7)に収める日 本国伝にみえる。
畿內有山城・大和・河內・和泉・摂津凡五州、共統 五十三郡。東海道(中略)凡十四川ママ、共統一百一十六郡。
東山道 ( 中略 ) 凡八州、共統一百二十二郡。北陸道有 若狹・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡凡七州、
共統三十郡。山陰道 ( 中略 ) 凡八州、共統五十二郡。
(ママ)小
陽道 ( 中略 ) 凡八州、共統六十九郡。南海道 ( 中 略 ) 凡六州,共統四十八郡。西海道 ( 中略 ) 凡九州、
共統九十三郡。又有壹伎・對馬・多襼凡三島、各統 二郡。是謂五畿・七道・三島、凡三千七百七十二郷、
四百一十四驛、八十八萬三千三百二十九課丁。課 丁之外、不可詳見。皆奝然所記云。
奝然は雍熙元年(984)に入宋し、日本の職員令・王 の年代紀各 1 巻を献上するが、奝然が記したものが『宋 史』に引用されており、そこに日本の国土情報が含まれ、
総計 3772 の郷のあったことがみえる。この郷数がいつ の段階のものかが問題なのだが、ここにあげられた国名 に、弘仁 14 年(823)3 月に立国された加賀国が含ま れ11)、天長元年(824)9 月 3 日に廃された多襼島が含 まれることは見逃せない12)。坂上康俊は天長元年が造籍 年にあたることから、これを計上する作業が短期間でな しえるはずがないとして、この数値を 10 世紀のものと するが、吉川真司が指摘するように、計帳目録(大帳)
の数値を合算すれば出すことができるのであり、9 世紀 前半の数値と考えて何ら問題はないだろう13)。
以上のように、『和名類聚抄』および奝然の伝える記 録は、平安前期の人口データとして利用することが可能 である。ここで必要なのは揃った全国の旧国別の郷数で あり、さらに言えば旧国別の面積も実面積が必要なので はなく、相対比を示すことができればよい。国別の郷数 については、最古の写本でもあり、ほぼ全郷が記載され ている高山寺本を採用することとしたい。
なお、こうした郷数だけでなく、人口と相関するは ずのものに出挙稲数や田積がある。『弘仁式』主税式は 前欠のため美濃国以下の諸国の記載が残るだけだが、『延 喜式』主税式では全国のデータが完備しており、諸国の 出挙稲として、正税・公廨・雑稲が計上されている。雑 稲には国分寺料・修理池溝料など諸国の事情に応じた 細々とした稲が規定されているが、表1にはこれらを合 算して計上した。『延喜式』は延喜 5 年(905)に醍醐 天皇の命により編纂が開始され、延長 5 年(927)に一 応の完成をみるが、その後も断続的な修訂を経て施行さ れた。そのため、式の詳細についても史料批判が必要な のだが、ひとまず 10 世紀の数値とみなしておく。
また『和名類聚抄』には国別の田積の記載もあるが、
こうした国別の田積は『拾芥抄』・『掌中歴』・『伊呂波字 類抄』・『色葉字類抄』・『海東諸国記』など中世の辞書・
百科全書類にもみえる。微妙に数値は異なるが、これら の田積については、すでに彌永貞三の研究があり、写本 系統の解析と同様にそれぞれの数値の異同を精緻に拾っ てみると、中世には『和名類聚抄』系と『色葉字類抄』
系の 2 系統の田積が伝えられており、『掌中歴』がその
中間、『拾芥抄』の田積が『色葉字類抄』系の原形をな すこと、『海東諸国記』は平安中期より伝えられてきた 諸種の田積史料を参照して適宜に取捨、補訂したもので あることが指摘されている14)。『和名類聚抄』の田積は戸 田芳実が明らかにしたように、帳簿上の本田にあたり現 実の耕地ではない15)。権門により構成された中世の国制 を考える場合、全国を俯瞰するこれらの数値がどれだけ 実態を反映したものであるのか、心許ないばかりであり、
これらのデータを基にした分析は意味をなさない可能性 が高いが、一応、比較のための参考資料としてあわせて 掲示することとする。
(2)相対的人口密度
まず旧国別面積は、明治 15 年(1882)に作成された 第 1 回の日本帝国統計年鑑に方里単位で計上された本地 と属島の合計値を利用した16)。この数値は伊能忠敬の 3 万 6 千分の 1 の大図をもととして算出されたもので、遠測及 び未測の分については他の諸国に拠り大概を算出したも のであり、現在の水準からすると不正確ではあるが、今回 の作業は概数でのモデリングでもあるのでこの数値を利用 した17)。ここに計上された旧国は明治初期のものであるた め、古代の陸奥と出羽は磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・
羽前・羽後に分割されているが、現在の青森県は律令国 家の版図外のため、古代の出羽は羽前と羽後をあわせた もの、陸奥国は磐城・岩代・陸前・陸中をあわせたもの とした18)。また古代から近世に至る過程で国境が変更され ている例もあるが、ここでは捨象している。
旧国日本図は以下のようにして作成した。基図には、
①国土地理院が作成・配布している大正 9 年(1920)
の国土数値情報行政区域データを採用した(地理座標系 JGD 2000)19)。この地図は、昭和 25 年(1950)時点の 国土政策局「国土数値情報(行政区域)」をもとに、市 町村の統廃合等の変遷があった地域について、国土地理 院「旧版地図」での行政界(数値地図 50000)を遡っ て作成されたもので、構成する最小のパーツは大正 9 年の村である。行政界は座標が付与されたベクトルの線 分により表現されるのだが、こうした線分により構成さ れるデータをベクター型データと呼び、線分で囲まれて 表現された形状の要素をポリゴンと呼ぶ20)。それぞれの 村には県名と郡名が付されているので、これらをもとに 旧国の範囲を選択し、全国を構成していった21)。
なお、旧国と現在の都道府県が一致している場合は
国 郷 本稲 和名抄田積 拾芥抄田積 旧国面積 抽出平地
1 山城 72 422,070 8,961.7 8,961.0 73.0 659,645
2 大和 89 554,600 17,905.9 17,005.7 201.4 1,050,291
3 河内 79 400,954 11,338.4 10,977.0 43.9 520,682
4 和泉 24 227,500 4,569.6 4,126.0 22.4 454,345
5 摂津 67 480,000 12,525.0 11,314.0 93.6 1,149,116
6 伊賀 18 317,000 4,051.1 4,055.0 47.3 438,584
7 伊勢 81 726,000 18,130.6 19,024.0 231.1 2,055,166
8 志摩 10 1,700 124.0 4,917.0 19.7 212,698
9 尾張 62 472,000 6,820.7 11,930.0 104.1 1,929,826
10 参河 67 477,000 6,820.7 7,054.0 208.6 1,991,011
11 遠江 89 772,260 13,611.3 12,967.0 196.4 1,592,478
12 駿河 49 642,534 9,063.2 9,797.0 219.7 1,257,517
13 伊豆 21 179,000 2,110.4 2,814.0 106.1 385,568
14 甲斐 27 584,800 12,249.9 10,043.0 289.8 1,234,698
15 相模 61 868,120 11,236.1 11,468.0 128.8 1,250,995
16 武蔵 98 1,110,754 35,574.7 51,540.0 291.6 5,010,170
17 安房 28 342,000 4,335.8 4,362.0 34.8 340,644
18 上総 67 1,071,000 22,846.9 22,366.0 140.6 2,061,404
19 下総 86 1,027,000 26,432.6 32,000.0 206.5 4,108,510
20 常陸 148 1,846,000 40,092.6 42,038.0 334.8 5,043,586
21 近江 87 1,207,376 33,402.5 33,450.0 257.1 1,888,493
22 美濃 119 880,000 14,823.1 45,304.0 402.8 2,338,012
23 飛騨 12 106,000 6,615.7 1,356.0 268.5 517,600
24 信濃 62 895,000 30,908.8 30,929.0 853.7 3,836,792
25 上野 88 886,935 30,937.0 28,534.0 407.2 2,849,970
26 下野 62 874,000 30,155.8 27,460.0 411.7 4,381,058
27 陸奥 154 1,582,715 51,440.3 45,077.0 2282.0 18,905,741
28 出羽 58 973,392 26,109.2 38,628.0 1289.3 10,361,271
29 若狭 13 241,000 3,077.4 3,139.0 54.7 196,221
30 越前 51 1,028,000 12,066.0 23,576.0 217.6 1,162,733
31 加賀 28 686,000 13,766.7 12,536.0 147.8 1,025,931
32 能登 23 386,000 8,205.8 8,479.0 122.7 1,334,179
33 越中 41 840,433 17,909.5 21,396.0 266.4 1,895,252
34 越後 33 833,455 14,997.5 23,738.0 767.2 5,438,388
35 佐渡 17 171,500 3,960.4 4,870.0 56.3 377,963
36 丹波 66 664,000 10,666.0 10,855.0 206.6 733,175
37 丹後 31 431,800 4,756.0 5,537.0 77.1 526,703
38 但馬 58 740,000 7,555.8 7,743.0 165.9 403,315
39 因幡 44 710,878 7,914.8 8,016.0 98.5 407,810
40 伯耆 54 655,000 8,161.6 8,842.0 125.5 963,476
41 出雲 78 695,000 9,435.8 9,968.0 181.6 1,104,946
42 石見 35 391,000 4,884.9 4,872.0 232.3 1,051,985
43 隠岐 12 70,000 585.2 624.0 22.0 92,922
44 播磨 88 1,221,000 21,414.3 21,236.0 238.5 1,848,373
45 美作 62 764,000 11,021.3 11,616.0 170.5 918,270
46 備前 48 956,640 13,185.7 13,206.0 94.2 847,451
47 備中 64 743,000 10,227.8 10,883.0 156.5 987,155
48 備後 62 625,000 9,301.2 9,298.0 234.0 1,498,877
49 安芸 60 632,000 7,357.8 7,484.0 286.7 1,589,199
50 周防 36 560,000 7,834.3 7,657.0 189.2 1,120,649
51 長門 28 361,000 4,603.4 4,769.0 201.5 1,315,036
52 紀伊 41 470,816 7,198.5 7,119.0 36.7 1,301,364
53 淡路 14 161,800 2,650.9 2,870.0 381.1 364,449
54 阿波 44 506,500 3,414.5 5,245.0 271.1 1,004,022
55 讃岐 78 884,500 18,647.5 17,943.0 113.7 1,095,445
56 伊予 61 810,000 13,501.4 14,825.0 341.5 1,378,386
57 土佐 41 528,688 6,451.8 6,173.0 454.9 1,126,858
58 筑前 103 790,063 18,500.0 19,765.0 158.6 1,689,595
59 筑後 54 623,581 12,800.0 11,377.0 80.8 920,120
60 豊前 43 609,828 13,200.0 13,221.0 136.6 1,058,316
61 豊後 47 743,842 7,500.0 7,570.0 344.1 2,038,403
62 肥前 44 692,589 13,900.0 13,462.0 319.8 3,016,259
63 肥後 98 1,579,117 23,500.0 23,462.0 489.2 3,527,892
64 日向 28 373,101 4,800.0 8,298.0 511.4 2,559,602
65 大隅 36 242,040 4,800.0 4,770.0 247.3 1,776,802
66 薩摩 32 242,500 4,800.0 5,521.0 332.6 1,813,509
67 壱岐 13 90,000 620.0 620.0 8.8 112,727
68 対馬 9 3,920 428.0 620.0 44.3 209,592
(束) (町段) (町段) (方里) (カウント)
表1
県境が国境となるが、旧国がいくつも組み合わさって現 在の都道府県が構成されたところも多くあり、現在の行 政堺も旧郡・旧国境と異なる場合が多々みられる。そこ で、②総務省統計局「平成 7 年国勢調査統計地理情報 町丁・字等別境界」データを利用して国境の修整を行っ た。詳細は省くが、本稿では古代の空間を表現する必要 があるため、③空港島や人口島など現在の海岸地帯の埋 め立て地については、東京湾・伊勢湾・大阪湾・瀬戸内 海沿岸・北部九州などの目立つ範囲について、近世の用 益などを勘案して、手作業で削除した。もとより誤差を 含むことになるが、大勢に影響はしないだろう。こうし て作成された旧国日本図は線分であるベクター型データ により構成され、旧国を示す線分に囲まれたポリゴンの 組み合わせにより表現される。おおよその範囲を表現す るにとどまるものであり、微細な境界の変動などは正確 に反映できてはいないが、冒頭でも述べたように、モデ リングはそのような限定のもとでの試みである。
以上の旧国ポリゴンは単純に国境を示すのだが、そ の内部には居住に適さない山地も含まれる。人口密度を 再現するに当たり、そうした山地を除外し平地を抽出し て行う分析にも意味があるだろう。そこで、旧国の範囲 にふくまれる地形の復原を行い、可住地となる平地の抽 出を行った。利用したのは、日本列島全体をメッシュ
で区画し、メッシュ毎の標高を格納した数値地図 DEM
(Digital Elevation Model)である。このデータは、いわ ば絵具で描いた絵のようなものであり、キャンバスを構 成する単位あたりに標高データが格納されている。この ようなデータ形式をラスター型という。現在日本では、
数値地図 DEM は分解能 5 m、10 mのものも市販され ているが、分解能があがるほど、処理データ量が膨大に なる。そこで、ここでは分解能 30 mの DEM を用いる こととした。利用したのは、日本の経済産業省と米国の 航空宇宙局が共同で、人工衛星搭載センサ「ASTER」を 用いて、地球の陸域全てを対象に整備している数値地形 データ(ASTER 全球 3 次元地形データ/ ASTER GDEM)
である22)。
DEM をもとにした平地の抽出方法だが、まず DEM を構成するメッシュ毎の傾斜量を計算し、それを自然分 類により 10 等級に分類する。そして、もっとも傾斜の 小さい分類に属するメッシュには数値1を代入し、それ 以外には0を代入して再分類した。この処理をへて、旧 国ポリゴン単位で再分類した数値を合算すれば、それぞ れの国の平地量となる23)。表1の抽出平地は、そのよう にして算出した相対値である。ちなみに、現在の日本の 場合、総務省統計局が公表している土地の利用状況統計 によると、山地が 60%強を占めている24)。この操作によ
Fig..1 旧国と傾斜量
Fig.3 旧国別郷密度
Fig.4 旧国平地別郷密度 Fig.2 旧国別郷数
る国別の平地率は平均で 39%になるので、当たらずと も遠からず程度の精度はあるだろう(Fig.1)。
これらの準備作業をもとにして、旧国ポリゴン毎に地理 的中心点(x、y)を求め、国別の郷数を旧国面積と旧国 別平地面積で除した面積別密度・平地別密度をそれぞれ の中心点のウエイトとしてもたせた(z)。その上で、分 布する点群の密度を推定することで(カーネル密度推定)、
相対的な人口分布を表現する図を作成した(ヒートマッ プ)。カーネル密度推定とは、各点を中心に半径距離内の
値を合算して、単位面積あたりの値を算出することで、離散 した点群の大局的なまとまりを示す手法である。
以上の操作により、古代の人口分布をみてみると、ま ず旧国別の郷数の分布を示したのが Fig.2 であるが、郷数 は人口に代替可能であるため、人口総数の分布傾向と見な せるだろう。これによると東北・坂東・北部九州にもまと まりが認められ一定程度の人口が想定できるが、列島中央 部から瀬戸内海東部にかけて人口が集中していることが 明瞭である。また郷数を旧国面積(Fig.3)・旧国平地面積
Fig.5-1 旧国平地別『延喜式』出挙稲密度
Fig.5-2 旧国平地別『拾芥抄』田積密度
Fig. 6 人口分布の指向性
(Fig.4)で除した場合、以上の傾向はより一層明瞭であ り、平安前期の律令国家の支配下における人口密度は、
畿内を中心とする列島中央部から西部にかけて高かった ことになる。
陸奥国などは郷数は多いのだが、密度に直すとまさ に「地広人稀」であった25)。もちろん律令国家の版図内 にあるものだけの計算であり、その外にある蝦夷とされ る先住民は計算外だが、これらの地域の人口密度が低い ことは事実であったろう。同様に、坂東諸国も西の諸国 に比するとさほど人口密度が高くないことに注意してお きたい。ちなみに安房・隠岐・志摩など規模の小さな国 の密度は高めに出るようだが、これは狭郷により構成さ れていたことによる。
なお、同様に『延喜式』主税式の出挙稲・『拾芥抄』
に記載された田積について、平地別の密度を計算したの が Fig.5-1 ~ Fig.5-2 である。いずれも自然分類により 10 等級に塗り分けている26)。これだけでは判りにくいの で、その傾向を具体的に表現するために、分布の地理 的中心及び標準偏差楕円により分布指向性を示したのが Fig.6 である。標準偏差楕円は、空間上の各点が点群の 重心からどの程度離れているかを示す手法で、大きさ、
方向などにより分布の指向性を表現する。対比するため のデータとして、2019 年国勢調査において、北海道・
青森県・沖縄県を除く都府県単位の人口分布を示してい る。『延喜式』での出挙稲による密度、さらに『拾芥抄』
の田積による密度には若干の相違があり、多少中心が東 に移っているようにもみえるが、この分析そのものが大 まかなものである。『拾芥抄』は中世のものであるので、
少し時期が離れているため意味があるかもしれないが、
この微妙な相違を過剰に評価することは慎むべきであろ う27)。この点に関しては、より精度の高い分析が必要で ある。今後の研究に委ねたい。
2 人口の時系列変化
(1)人口総数をめぐる問題点
次に時系列変化についてだが、古代の人口をめぐっ て、長く通説的位置を占めてきたのが澤田吾一の試算 である。澤田は『和名類聚抄』東急本にみられる郷数 4041 に、『続日本紀』天平 19(747)年 5 月戊寅条に みえる太政官奏の 1 郷あたり課口数から 1 郷あたりの 良民戸口数 1399 人を乗じて 565 万人強となることを 示し、平城京が近世末の城下町金沢と同規模であること から、その人口を 20 万人程度と推定して、良民人口の 概数は 500 万から 600 万の間に収まること、良民以外 に賤民の奴婢を 100 万と想定し、総人口として 600 万
から 700 万人を想定した。
これに対して、澤田の試算に使われた課口数は、律令 貴族の給与制度の封戸の課丁数の設定に関わる法定課口 数であり、封主が減収とならないように多めに設定され た可能性があること、平城京の人口、奴婢の人口などは 明らかに過大であるとして、再検討したのが鎌田元一で ある。鎌田は天平 19 年の太政官奏とそれを受けた『延 喜式』においても 1 郷あたりの法定課口数が正丁 4 人
× 50 戸の 200 人であることから、この 4 丁は単純に 正丁だけを数えたものではなく、60 歳以上で正丁の半 分の額の税負担を行う次丁も含みこんだものと考え、現 存籍帳の正丁数と次丁数の比率、課丁と若年層の中男の 人口比、課口と男女総口数の比率から 1 郷あたりの良 民人口 1052 人を求めた。これに全国の郷数 4041 を乗 じて、良民人口の総数として 425 万 1132 人、8 世紀 前半の籍帳における良民と賤民の比率から賤民人口 18 万 7050 人をもとめ、平城京の都市人口を 10 万人とし て、律令国家の支配人口が約 450 万程度であることを 示した28)。さらに、鎌田は、現存する 8 世紀前半の籍帳 の 1 郷あたりの平均戸口数が 1048 人であることから、
これに郷数 4041 を乗じても 431 万 5788 人が得られ、
平城京の都市人口 10 万人を加えても、約 440 万人と なるので、おおよそ 8 世紀前半の人口は 450 万程度と 推定している。
8 世紀初頭の人口は鎌田の推計で動かないのだが、問 題はその後である。この点も鎌田が論じていることだ が、延暦年間のものと考えられる、茨城県石岡市の鹿の 子C遺跡の調査で発掘された漆紙文書の第 194 号文書
には戸口の書き上げがあり、欠失部分を補うと、延暦期 の常陸国の総人口が 22 万 4 千人から 24 万 4 千人に上 ることが導かれる。この常陸国の人口を基準に『延喜式』
に規定する出挙稲数と人口の比をもとめると、常陸国 の出挙稲数は 184 万 6 千束であり、全国の出挙稲数が 4385 万 4600 束であるから、総人口を求めると 532 万 から 580 万人が得られ、そこに京師の 10 万を加え、9 世紀初頭の延暦年間の人口として約 540 万から 590 万 人程度であることを指摘する。
鹿の子C遺跡の漆紙文書についての鎌田の復原そのも のに誤りはないが、この常陸国の人口データの評価をめ ぐっては、本庄総子が注意を喚起するように、慎重に考 える必要がある。というのも推定される常陸国の総人 口が 22 万 4 千人から 24 万 4 千人だとして、これを常 陸国の『和名類聚抄』東急本にみえる郷数 153 で除す と(高山寺本では 148)、1 郷あたりの人口が 1464 人 から 1594 人となる。8 世紀前半の平均戸口数 1048 人 を期首人口として、この延暦期の 1 郷あたりの戸口数 を仮に期間 100 年後の期末人口とすると年平均増加率 は 0.33%から 0.41%となる。当時の常陸国の郷数はもっ と多かったのかもしれないが、前近代社会を考える時、
この人口増加率はかなり高いものであり、ありえないだ ろう。
この点に関連して、ファリスは、奈良時代の成長率 1%を想定するが、それは安定人口分析(Stable popula- tion analysis)より導かれた、いわば理論値である。籍 帳のデータは特定の年齢に偏るエイジヒーピング(age heaping)がみられるが、ファリスは籍帳のデータにつ いて、コール(A.J.Coale)とデメイン(P.Demeny)の モデル生命表を適用し、そこで有効判定された御野国 の女性・半布里の男女・西海道戸籍の男性の静止した データから成長率・死亡率などの人口統計を求めたもの で29)、実際に 8 世紀の 100 年間に年率 1%で推移したな らば、770 年代の宝亀年間には人口は倍増することに なるが、そこまでの人口増加の痕跡は認めがたいように 思う。実際に 8 世紀に人口が増加した可能性は高いと 考えられるが、どれほどの人口増加があったのか、その 動態が問題である。
(2)長期的な時系列モデル
そこで、視点を変えて、この年平均人口増加率を少し 長いレンジで評価してみよう。
暦 年
人
口(万人)
0 500 1000 1500 2000 2500 3000
0.10%
0.15%
0.20%
Fig.7 年平均人口増加率別の人口総数の推移(8C ~ 17C)
まず明治 4 年(1871)に戸籍法が制定され、 翌明 治 5 年の壬申年に戸籍の作成による人口調査が行われる が、そこで得られた人口数は 3311 万 796 人であり、無 籍者などの除外人口を補正してえられた数値が 3480 万 6540 人である。この後、1920 年以降は国勢調査が行 われるようになり、第 1 回の国勢調査では 5596 万 3000 人、1940 年には 7314 万 4000 人の人口となっている。
1872 年の 3480 万人を期首人口として 1920 年の 5596 万人を期末人口とするならば、この 48 年間で 1.6 倍、年 率で 1%の人口増加率となる。1920 年から 1940 年を比 較するならば同じく1.3%の増加率である。
さかのぼって近世だが、享保 6 年(1721)に第 1 回 の人口調査が行われる。関山直太郎は除外人口などの補 正を加え、18 世紀前半の人口を 3120 万人と推定してい る30)。それ以前については、古く吉田東伍は石高と人口が 1 対 1 の正比例の関係にあるとして、天正年間の総石高 が 1800 万石であることから、当時の人口を 1800 万人と 推定し31)、これに対して速水融は、農村の人口調査をふま え、17 世紀を通じて年平均 1%の人口増加があったこと を推定し、近世初頭の人口を 1200 万人との推計を示し た32)。この 1200 万人説がこれまで通説的位置を占めてき たのだが、近年は見直しの動きもある。
というのも、日本の中世から近世に相当する時期は、
地球上では小氷期にあたるとされ、世界的に寒冷化が進 行する33)。西欧ではこの時期に飢饉と疫病が発生し、人 口増加が抑制されるのだが、日本では人口が増加したこ とになる。その理由として、近世日本では儒教にもとづ く仁政が敷かれ、人々の勤勉さにより小氷期を乗り越 えたとする議論も散見されるが、本当にこれだけ高率 の人口増加があったのか、むしろもう少し人口増加率は 低かったのではないか、とするならば、近世初頭の人口 は 1200 万よりももっと多かったのではないか、などが 論点となっている。ファリスは 17 世紀初頭で 1500 万 から 1700 万人と推計し、斎藤修も飢饉と疫病の発生比 率から中世から近世にかけての人口増加が 16 世紀より 始まることを指摘し、近世初期の総人口を速水の推計よ りも多く見積もっている34)。現状では近世初頭の人口を 1200 万から 1800 万の間に想定するのが安全なところ であろう。
問題の多いのが、江戸時代をさかのぼる中世の人口推 計である。鬼頭宏は『和名類聚抄』・『拾芥抄』の田積から、
それに 1 町あたりの人口を乗じることで、10 世紀の総
人口を 644 万人、12 世紀中葉の人口を 683 万人と推 定した35)。ほぼ同様にファリスは、これらの田積、田数 帳、守護大名の動員兵力などから推計して、12 世紀中 葉で 550 万から 630 万人、13 世紀後半が 570 万から 620 万人、15 世紀中葉で 960 万から 1050 万人と推計 し36)、中世後期の 15 世紀中葉より人口が増加しはじめ ることを指摘する。しかし、すでに述べたように、中世 の辞書類に伝わる田積がどれだけの実態を表しているの か慎重に判断する必要がある。また、中世後期の人口推 計などはほぼ不可能であろう。中世の人口動態を正確に 復原することは、現状で困難である37)。
したがって相対的に信頼しうるであろう近世初頭の数 値と古代の数値の長期的な時系列モデルを利用せざるを えないのだが、さしあたり期首を西暦 700 年としその 人口を 450 万、期末を西暦 800 年として、その人口を 鎌田が推定した範囲で 550 万と仮定すると、この 100 年間での年平均人口増加率は 0.2%となる。この増加率 のままで推移したとすると、17 世紀初頭の人口は計算 上 2720 万人となるのだが、これは過大であろう。0.15%
とするならば、17 世紀初頭の人口は計算上 1800 万程 度となるので、現在想定できる 1200 万人から 1800 万 人の間とすると、奈良時代以来の年平均人口増加率は 0.1%から 0.15%の間で推移したことになる(Fig.7)。
このように年平均人口増加率 0.2%でも古代・中世で は高い人口増加率であったことになるのだが、ファリス は 8 世紀に環境抵抗による死亡率の上昇が人口増加を 相殺し、中世前期にかけて人口が停滞したことを指摘す る。古代の飢饉や疫病といった環境抵抗が具体的にどの ように作用したのか、その作用の度合いは如何なるもの であったかを考える必要があるだろう。節をあらためて 検討してみたい38)。
3 飢疫と人口動態
(1)飢疫の空間分布
古代において、自然と人間・社会との応答関係は密 接であり、気候の多少の変動が旱魃や霖雨の被害をもた らし、それにともなって飢饉と疫病が発生した。田村憲 美は中世後期が慢性的飢餓状態にあったことを明らかに したが39)、別の機会に述べたように、それは基本的に古 代社会にも当てはまるものであった40)。旱魃・霖雨など の気象の変化が飢饉を招き、疫病を誘発するのは一般的
Fig.8 慶雲 3 年飢饉(706)
であった。
正史の記事は、例えば『続日本紀』慶雲元年 4 月甲 戌条に「讃岐国飢。賑恤之」とあるように、ほとんどが 被害の発生した国と賑給実施を示す簡略なものである。
なかには被害の発生した郡まで判明するものもあるが、
そのような例は稀である41)。また、こうした簡略な記事 では、どれだけの被害が発生したのかも不明である。し たがって、国名のみで被害の実態を明らかにすることは 困難なのだが、飢饉の記事を拾うことで被害を空間的に 把握することは可能である。
例えば、8 世紀初頭の慶雲年間の飢饉の事例だが、ま ず慶雲 2 年(705)は、かなりの旱魃の年で、20 カ国 余りで飢饉と疫病が発生する(是年条)。慶雲 2 年の旱 魃はその年の収穫に影響し、明けて慶雲 3 年の春 2 月 には河内・摂津・出雲・安芸・紀伊・讃岐・伊予の 7 カ国で飢饉が発生する(庚寅)。さらに 4 月には河内・出雲・
備前・安芸・淡路・讃岐・伊予で飢饉とともに疫病が発 生し(壬寅)、6 月には西海道を除く 6 道諸国で賑給が行 われている(己巳)。慶雲 3 年には天下諸国で疾疫が多 く有り、百姓が多く死亡したため、始めて土牛を作って 大儺を行ったことがみえるが(是年条)、土牛・土偶人を 宮門に立てて疫鬼を払い、追儺を行った初見である。4
年にも疫飢は天下にみられるが(丙申)、とりわけ被害 甚大であったのは丹波・出雲・石見の 3 カ国であった。
慶雲年間は飢疫被害が全国的にわたるが、慶雲 3 年の 場合、天下とされる被害諸国は瀬戸内海沿岸諸国が中心 であり、慶雲 4 年の場合は山陰が中心であった42)。Fig.8 は『続日本紀』にみえる慶雲 3 年の被害国を出現回数 で塗り分けたものである。
以上は、国名に注目して復原したものだが、国内で も飢疫被害は一律に襲うようなものではなかった。貞観 年間には諸国で飢饉と疫病が頻発しており、貞観 5 年 には神泉苑では怨霊を鎮めるための御霊会が執り行われ たりするが43)、貞観 7 年から 8 年にかけてとりわけ被害 が集中し、伊勢・志摩・因幡・出雲・隠岐・美作・備前・
備中といった国々で疫病の被害が発生する。『日本 3 代 実録』貞観 8 年(866)10 月 8 日条には、「備中国哲 多英賀両郡百姓給二復二年一。以二旱疫一也」とあり、備 中国の被害は山間部の哲多郡と英賀郡で発生したもので あった。三善清行が著した『藤原保則伝』にはこの時の 様子が描かれており、「旱し、田畝尽くに荒れたり。百 姓飢饉して、□相望めり。群盗公行し、邑里空虚し。英 賀・哲多の両郡は、山谷の間にありて、府を去ること稍 遠し。郡の中の百姓は或いは劫掠して相殺され、或いは
租を逋れて逃散す。境の内の丘墟には、単丁もあること なし」と飢饉が発生し、人々が逃散したさまが描かれて いる44)。
本庄総子も指摘するように、奈良時代の飢疫被害の 空間分布には特徴があり、都城を中心としてその周辺お よび、列島中央部から西よりの地域に被害が多く見られ るようである45)。その背景は複雑であり、さまざまな条 件を考慮しなければならないが、すでにみたような人口 分布の偏りも考えられるだろう。また、都城を核とした 交通のあり方も想定しなければならない。古代の都城は 汚穢に満ちた最大の人口集中地であり、都城は駄馬と脚 夫で溢れていた。脚夫は感染症を媒介するものでもあっ た46)。こうした交通の実態解明も課題なのだが、ともあ れ、飢疫の被害は列島全体を一律に覆うようなものでは なかったことに注意しておきたい。飢饉は疫病を誘発す るが、その被害は局限された範囲で発生した。飢疫とさ れる現象は地域的に作用する環境抵抗なのであった。
(2)疫病被害の推計
残念ながら、これだけでは環境抵抗が社会にどれだけ の影響を与えたのかを評価することができない。そこで こうした飢疫がどの程度の被害をもたらすのか、シミュ レーションをもとに検証してみよう。
日本古代においても人間に致死的被害をもたらす感染 症は存在し、結核などは弥生時代から認められる47)。赤 痢などの消化器系の疾患も普遍的なものであった48)。す
でに『日本書紀』敏達 14 年 3 月丙戌条には「発レ瘡死 者、充㆓盈於国一。其患レ瘡者言、身如二被レ焼被レ打被一レ摧、
啼泣而死」さまが描かれているように、瘡を発する疫病 は 6 世紀末には日本列島でも確認できるが、天平年間・
天平宝字年間・延暦年間に天然痘が流行し、広範囲に深 刻な被害をもたらした。
なかでも天平 9(737)年の疫病流行の被害はこれま でも注目されてきたところで、「赤班瘡」と呼ばれる天 然痘が大流行した49)。4 月に大宰府管内で蔓延が報告さ れ、その後、長門や畿内、紀伊、若狭、駿河、伊豆など でも報告されており、疫病の流行は、西日本から東へと 拡大していった。ファリスの研究とそれを再評価した本 庄総子の研究によれば、正税帳に残された出挙稲の免税 率を根拠に、全国平均で 250‰~ 350‰程度、和泉な どでは 440‰の死亡率であったことが指摘されている。
この点に関連して、貞観年間には咳病とされる呼吸器 系疾患が猖獗を極めるが、貞観 7・8 年の 2 カ年で隠岐 国では疫死した百姓が 3189 人にのぼった50)。これは正 確には何に起因するものなのかわからないのだが、疫死 である。負税が免除されたと考えられるので、出挙稲の 貸付を受けて死亡した男女の総数であろう。おそらく、
その周りには乳幼児、高齢者など更に死者がいたものと 思われる。当時の隠岐国の人口は正確には不明だが、『和 名類聚抄』によると 4 郡 12 郷からなるので、最大で 1 万 2 千人程度が見込めるだろう。もっとも、狭郷で構 成されていたので、そこまで多くはなかったと考えられ るが、少なく見積もっても人口の 3 割程度は亡くなっ たことになる。
この場合の死亡率だが、2 ヵ年の死亡者数を約 3200 人として、それを 2 で除して単年度の死亡者数と仮定 し、総人口を 1 万人程度と見做せば、千人あたり死亡 数 160 人の死亡率約 160‰となる。天平 9 年の全国平 均の年間死亡率に比すると単年では半分程度ではある が、2 カ年ではほぼ同様の被害が生じていたことになる。
ちなみに、大宝 2 年の御野国加毛郡半布里戸籍での 粗出生率(CBR)は 35‰程度であった51)。もし人口の増 減があまり変化ないとするならば粗死亡率(CDR)も 同程度であり、1%の人口増加を見込むなら粗死亡率は 25‰程度になるが、この時の隠伎国で推定される死亡 率は、半布里の死亡率の実に約 4 倍から 6 倍にのぼる のである。深刻な疫病が地域社会にあたえる衝撃はいか ばかりのものであったろうか。
0 20 40 60 80 100
800900100011001200130014001500
year
population
0 20 40 60 80 100
800900100011001200130014001500
Hanyu V6 TFR5.18 Env5 Avrg968.86 2020.08.27
year
population
Fig.9 死亡率変動イベント時の 100 年シミュレーション
Fig.10 延暦 9 年の飢饉と疫病(790)
Fig.9 は、半布里戸籍に記載された 1119 人からなる 人工社会を計算機上に再現し、生死のシミュレーション を行ったもので、100 年間のシミュレーションを 50 回 繰り返すことで、その傾向を把握したものである(太線 は各回の平均)。人口曲線と出生曲線から求めた合計特 殊出生率(TFR)を変化させることで、どのように人口 が推移するかを観察した。この場合、半布里戸籍にみら れる人口構成を維持しつつ、年平均人口増加率が 0.15%
程度になる出生率(TFR 換算で 5.18 人)に設定し、35 年目に死亡率を大幅に上昇させるイベントを発生させ た。計算機上に再現した人、すなわちエージェントの生 死は乱数を生成して評価するため、実施するたびに結果 は微妙に異なるが、この時のシミュレーションでは 34 年目の人口総数の平均は 1150.94 人であったのに対し、
イベントが発生した 35 年目には 852.2 人へと減少し、
その 65 年後の 100 年目の平均人口は 968.86 人であっ た。このシミュレーションではイベントによる死亡率の 調整が可能であるので、想定されている天平 9 年の疫 病流行時の年間死亡率の約 250‰程度に設定したのだ が、当時の人口増加率を考えた場合、このような大きな 被害を蒙ったならば、容易に人口が回復することはな かったであろう。貞観年間の隠岐国でも人口が回復する
ことはなかったはずである。
こうした飢饉や疫病の被害は局地的に発生したので、
列島社会の人口分布はモザイク状にならざるをえなかっ たろう。例えば、『風土記』と『和名類聚抄』を比較し た場合、播磨国賀茂郡などでは 11 郷から 9 郷へと郷数 の減少がみられるものがある。いつ、どの飢疫が作用し たのかはわからないが、こうしたところでは 8 世紀の 初頭より人口が減少した可能性があり、それにともない 郷が再編されたのではないだろうか52)。事実、『律書残篇』
と『和名類聚抄』を比較した場合、『律書残篇』に記載 のある 35 カ国のうち、郷数の増加したのは和泉・讃岐・
紀伊・薩摩・大隅・佐渡の諸国のみで、ほぼ変化のない 国を除いて、20 カ国以上の国々で郷数が減少している。
西海道諸国などは神亀年間に 770 郷あったものが、『和 名類聚抄』では 500 郷程度にまで激減しており53)、肥前 国は『律書残篇』で 70 郷だったものが『和名類聚抄』
では 45 郷を数えるに過ぎない。これまで議論されてき たように、各『風土記』の選進年の検証や『和名類聚抄』
での脱落なども考える必要はあるのだが、実際に人口が 減少している可能性も考えるべきであろう。
延暦 9 年(790)の春から夏にかけて延べ 24 カ国で 飢饉の報告があり(Fig.10)、8 月には大宰府所部の飢
民 8 万 8 千余人に賑恤が行われるが54)、これはかなりの 数である。こうした飢民の背景には必ず多数の死者がい た。また、同年の秋冬には京畿の男女 30 歳以下に豌豆 瘡を発する者が多くあり、天下諸国でも罹患する者が あった55)。この時、常陸国は被害を言上した諸国にみえ ず56)、延暦期の常陸国が、疫病による人口減の被害を蒙っ ていない可能性もあるのだが、日本律令国家の支配下の 人口総数を復原するにあたり、現状で史料にもとづいて 操作しうるのは、延暦年間の常陸国の事例だけである。
飢饉と疫病の被害が局地的に大きな影響を及ぼしていた 古代社会であるため、この常陸国の人口をもとに総人口 を推計すると高めにでる可能性もあるだろう。坂上康俊 は常陸国の延暦期の人口を疫病前の最大値とするが、モ ザイク状に推移する列島社会の人口総数を求めるのは、
もとより至難であり、誤差を含まざるを得ない。
鎌田の想定を人口が増加した地域のものと考えるなら ば、すでに述べたように年平均人口増加率は 0.2%程度 が見込まれることになる。時系列シミュレーションで は、かなり微妙なバランスで人口は変動しており、局面 によっては 1%程度の成長率が実現する場合もあったろ うし、0.2%程度で推移したこともあったと考えられる が、古代・中世の長期時系列モデルでは 0.15%が最大 値である。坂上も指摘するように、古代の人口増加がゆっ たりとしたものであったことは間違いない。絞り込ん だ数値を示すことは困難だが、さしあたり、8 世紀の年 平均人口増加率は 0.1%から 0.2%の間で推移したとす るならば、9 世紀前半の律令国家支配下の総人口は 500 万人から 550 万人の範囲に収まり、長期時系列モデル の上限 0.15%であれば 525 万人程度ということになる。
現段階では、この程度の幅をもたせて考えておいた方が よいだろう。
4 律令制下の植民をめぐって
以上のように、飢饉と疫病の被害は局限された地域に おいて、時に深刻な被害をもたらすが、全体としては 8 世紀を通じて緩慢ではあるが人口は増加していったと考 えられる。飢饉と疫病は人間の生存にとって、環境抵抗 として作用するが、社会システムはそれに抗する機能を 果たした。人間は生存の確保、生命の再生産を目的とし て、家族・地域・国家を構成するのだが、これらが果た したそれぞれの機能にも注目する必要があるだろう。こ
れまで日本の律令制は国制や思想・イデオロギーのレベ ルで評価されることが多くあったが、律令国家が果たし た具体的な社会的機能にも意味があった。最後に律令制 再生産システムが人口動態に果たした可能性について述 べておきたい。
説明するまでもないことだが、条里の整備や用水の管 理などに雑徭が投入され口分田が班給されるなど、古代 では律令国家は再生産過程に積極的に関与した。出挙に よる種稲の管理も国家による再生産管理といえるだろ う57)。社会的実態としては、国・郡・郷の行政組織と村 により再生産の基盤は維持されるのだが、とりわけ飢饉 と疫病の被害に比較的見舞われていない地域では律令制 再生産システムが人口動態に作用した可能性がある。そ れを具体的に示すのが、奈良時代にみられる植民の現象 ではないだろうか。
日本律令国家は、列島の南北で戦争を行うとともに、
植民を行った。8 世紀の初頭より、南方では隼人の抵 抗・反乱がみられるが、和銅 7 年(714)には隼人の地 に豊前国の民 200 戸を移している58)。南九州では大隅国 桑原郡には豊後国に由来する大分郷が、薩摩国には高木 郡に飽多郷・宇土郷・託万郷など肥後国の郡に由来する 郷があり、これらは豊の国、肥の国からの入植を示して いよう。これらの民も柵戸であった59)。養老 4 年(720)
には大隅での隼人の反乱により国守陽侯史麻呂が殺害さ れ60)、ヤマト王権は、大伴旅人を大将軍とする征隼人軍 を編成し鎮圧するが、これ以降、隼人の反乱は見られな くなり、律令国家の版図に編入されていった61)。
それと並行して東北地方でも同じく和銅 7 年(714)
に、まず尾張・上野・信濃・越後等国の民 200 戸を出 羽の柵戸に配し62)、ついで霊亀元年(715)には相摸・
上総・常陸・上野・武蔵・下野 6 国の富民 1000 戸を 陸奥に63)、養老元年(717)には信濃・上野・越前・越 後の 4 カ国から 100 戸ずつの合計 400 戸を出羽の柵戸 に配すのだが64)、養老 4 年には、蝦夷の反乱により、按 察使の上毛野朝臣広人が暗殺される事件が発生する65)。 直ちに、ヤマト王権は、多治比真人県守を征夷将軍と する征夷軍を編成し、これを鎮圧した。そして、養老 6 年(722)4 月には、陸奥で蝦夷を、大隅・薩摩で隼人 を征討した将軍以下と有功の蝦夷・訳語人に勲位が授け られ66)、養老年間に繰り広げられた列島南北での征討事 業は完了する。
その翌月、養老 6 年閏 4 月 25 日太政官奏では、①
「廼者、辺郡人民、暴被二寇賊一、遂適二東西一、流離分 散。若不レ加二矜恤一、恐貽二後患一。是以、聖王立レ制、
亦務実レ辺者、蓋以レ安二中国一也」として陸奥按察使管 内百姓の租税を減免し、また②「食之為レ本、是民所レ
天。随レ時設レ策、治レ国要政」であるので「膏腴之地良 田一百万町」の開墾を命じ、③公私出挙の利率を 3 割 に軽減すること、④「用レ兵之要、衣食為レ本。鎮無2儲 糧1、何堪2固守1」ということで、陸奥鎮所へ儲糧の 穀を運び込むことが命じられる67)。このうち②がいわゆ る百万町歩開墾計画と称されるもので、これまでにもこ の措置が、陸田の開発か水田の開発か、全国に向けたも のか陸奥・出羽に限定されるのかなど議論が重ねられて きた68)。とりわけ議論の焦点は、百万町という膨大な数 値の評価にあるのだが、『続日本紀』のどの写本でもこ の部分は同じであり、古くから「一百万町」と書き継が れてきたことは間違いない。
とするならば、『和名類聚抄』に見える全国の田積を 合計すると 86 万町強なので、百万町の開墾は律令国家 支配下の耕地面積の倍増を目指したことになる。この 翌年に、墾田開発に関する三世一身の法が出されるの で69)、それと関連させて考えるのが一般的ではあるが、
①と④は明らかに、陸奥を対象とするものであり、こ の太政官奏が発出される背景に陸奥の蝦夷対策を含め た社会の安定の問題があったことも疑いない。『続日本 紀』の記事が同日に出された命令を並べて記載すること もあるため、太政官奏の形式だけでは判断できないが、
「一百万町」がそのままの表記であれば、かなり誇張さ れた修辞表現であったか、「百」が衍字である可能性も 考えられるだろう。両説とも決め手を欠くため、確実に 論証することは不可能だが、蝦夷征討に関連する措置と しても十分説明がつくものである。ここでは東北地方の 開発についての限定的な措置と捉えておきたい。
律令国家はこのように陸奥・出羽の開発を推進しつ つ、蝦夷の懐柔や海道蝦夷と山道蝦夷の分断など、蝦夷 の攻略を進めることになる70)。とりわけ 8 世紀中葉以降、
黄金などの希少金属資源の獲得、靺鞨をにらんだ北東ア ジア情勢への対応などから開発・侵略を進めるが、その 内実は蝦夷の俘囚化とともに植民であった。天平宝字 3 年(759)9 月には、坂東 8 国と越前・越中・能登・越 後など合計 12 カ国の浮浪人 2 千人を雄勝の柵戸に移配 し71)、延暦 15 年(796)にも相摸・武蔵・上総・常陸・
上野・下野・出羽・越後の民 9 千人を陸奥国の伊治城
に移し置いている72)。宝亀 5 年(774)以降、38 年に及 ぶ長期の戦争状態が断続的に続き、延暦 8 年(789)年 の胆沢戦争ではヤマト王権側の征討軍に大打撃を与える こともあったが、ヤマト王権は、9 世紀に入って北上川 上流域の胆沢城・志波城へと拠点を伸ばして、征夷は終 了した。
柵戸がどのような規模と内容をもっていたのか、さら に入植地周辺での開発行為の実態は判らないことも多い が、陸奥国には坂東諸国などに由来する信濃郷・甲斐 郷・上総郷・下野郷・信太郷・行方郷が設けられていた。
これらはいずれも入植の痕跡と見做すことができるだろ う73)。こうした植民の供給地は、以上にみたように北陸 道・東山道・東海道、とりわけ坂東諸国が中心である。
とするならば、そこに人口を送出しうるだけの人口圧な どを考える必要があるだろう。8 世紀の飢饉被害は多く 西にあったが、これら東の国々ではそれなりに人口が増 加していたのかもしれない。もっとも、こうした植民が どのように実現していたのかをまず明らかにする必要が あり、その上で、律令制再生産システムが東国を中心と するこれらの国々でどのように機能していたのか、これ らの国々の環境抵抗がどのようなものであったのかを地 域に即して具体的に検証しなければならないのだが、も はやそれは小稿のなしえる範囲を超えている。今後の研 究の進展を待ちたいと思う74)。
おわりに
以上、日本古代の人口について、8 世紀前半の律令国 家の支配下の総人口 450 万人が、どのような条件でど のように推移したのか、時間と空間についての計算機に よるシミュレーション、時空間情報科学を利用すること で検討した。慢性的飢饉状態にあった古代ではあったが、
天然痘などの感染症を除いて、旱魃や霖雨による飢饉、
それが誘発する疫病は作用する地域が限局された環境抵 抗であった。平安前期の人口分布は、列島の中央部から 西部にかけて人口密度、すなわち人口圧が高いが、奈良 時代を通じてのこれまでの年率 1%成長説は理論値であ り、深刻な飢疫被害をうけた地域では人口が減少し、人 口はモザイク状の分布を示した。奈良時代の人口は年平 均人口増加率 0.1%から 0.2%程度の間で推移し、平安 時代前期の総人口は 500 万から 550 万人程度と考えら れること、東北地方への植民の背景に東国の人口動態を
注
1) 澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』(復刻版、柏書房、
1972 年)。
2) 鎌田元一「日本古代の人口」(『律令公民制の研究』塙書房、
2001 年、初出 1984 年)。以下、鎌田の引用はこれによる。
3) 坂上康俊「奈良平安時代人口データの再検討」(『日本史研究』
536、2007 年)。
4) Farris, William Wayne. Population, Disease, and Land in Early Japan,645-900, Cambridge, Harvard University Press, 1985.
Farris, William Wayne. Daily Life and Demographics in Ancient Japan, Michigan Monograph Series in Japanese Studies, No.
63. Ann Arbor,MI: Center for Japanese Studies, The University of Michigan, 2009.
5) 本庄総子「日本古代の疫病とマクニール・モデル」(『史林』
103(1)、2020 年https://doi.org/10.14989/shirin_103_7)。以下、
本庄の引用はこれによる。
6) なおシミュレーションの詳細については、今津勝紀「古代家族 の復原シミュレーションに関する覚書」(『国立歴史民俗博物館研 究 報 告 』192、2014 年 https://doi.org/10.15024/00002181)、
同「日本古代人口変動シミュレーションの技術的検討」(『岡山 大学文学部紀要』73、2021 年http://doi.org/10.18926/okadai-
bun-kiyou/61243)を参照されたい。
7) 例えば、岸本道昭「7世紀の地域社会と領域支配 播磨国揖 保郡の古墳と寺院、郡里の成立」(『国立歴史民俗博物館研究報 告』179、2013 年https://doi.org/10.15024/00002068)では、
里の領域が線引きされた図が掲載されている。このような里が 領域をともなうとの見方は考古学の世界に散見されるが、これ は里の編成原理を無視したものにほかならない。
8) 『古律書残篇』(古典保存会、1934 年)。
9) 坂本太郎「律書残篇の一考察」(『日本古代史の基礎的研究』 下、
制度編 東京大学出版会、1964 年)
10) 池邊彌『和名類聚抄郡郷里駅名考證』(吉川弘文館、1981 年)。
11) 『日本後紀』弘仁 14 年 3 月丙辰条。
12) 『類聚三代格』天長元年 9 月 3 日格。
13) 吉川真司「九世紀の調庸制」(古代学協会編『仁明朝史の研 究 承和転換期とその周辺』思文閣出版、2011 年)。以下、吉 川の引用はこれによる。坂上康俊「九~一〇世紀の人口変動に ついての覚書」(『九州史学』186、2020 年)は、吉川の批判 を受け止めた上で、なお奝然の伝える人口資料が 10 世紀のも のであることを主張するが、多襼島が含まれることが説明でき ない点は依然として残されたままである。
14) 彌永貞三「『拾芥抄』、『海東諸国記』の諸国の田積史料に関 する覚え書」(『日本古代社会経済史研究』岩波書店、1980 年、
初出 1966 年)。
15) 戸田芳実「中世初期農業の一特質」(『日本領主制成立史の 研究』岩波書店、1967 年)。
16) 太政官統計院編『日本帝国統計年鑑 第 1 回』(東京リプリ ント出版、復刻版 1962 年、原本 1882 年)による。
17) 島嶼部については周囲 1 町以上が算入されたものである。
18) ここでの分析の対象は、古代の日本であるため、律令国家の 版図外であった現在の北海道・青森県・沖縄県は除いている。
19) https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-N03-v2_3.
html (2021/11/02)
20) 地理情報システムについての基本的入門書はいくつもある が、さしあたり野上道男・岡部篤行・貞広幸雄・隈元崇・西川治『地 理情報学入門』(東京大学出版会、2001 年)をあげておく。デー タ型式や分析方法の基本はこちらをあたられたい。
21) 例えば、平成の合併以前の岡山市などは備前だけでなく一 部に備中を含んでいるが、可能な限り旧国の範囲を復原した。
しかし、これは全国同一の精度でなされているわけではない。
この点は今後の課題である。
22) https://www.jspacesystems.or.jp/ersdac/GDEM/J/
(2021/11/02)
23) なおこの旧国ポリゴン内のメッシュを数え上げれば、旧国 の面積の代替として利用可能である。念のため『日本帝国統計 年鑑 第 1 回』での方里による面積との相関をみると相関係数 考える必要があることを論じた。
この問題は、大きく言って、弥生時代以来の列島社会 のダイナミズムの延長上にあるのだが、本来は、列島社 会における権力形成の在り方なども、こうした人の動態 と関連させて解いてゆかねばならないだろう。倭王権が ヤマトという地域を核に成立すること、初期倭王権とそ れを支える諸勢力との地域間関係などは、列島規模の人 口動態をふまえねば解けない問題でもある。
また、これまで古代史研究が解明に取り組んできた権 力や制度などの諸問題も、いずれも抽象的に存在したの ではなく、時間と空間の中に実在した。列島社会は均質 な空間で構成されていたわけではなく、モザイク状に構 成されていたのであり、列島社会で引き起こされる現象 の理解には、その背景にある人口動態もふまえた地域分 析が必要である。
本文にも述べたように、多くの解決しなければならな い問題が残されている。歴史学には固有の方法があるが、
文字資料が表現しうるものには限界があり、環境抵抗と の応答関係の解明などには他の諸科学との連携が必須で ある。本稿が新たな研究のささやかな呼び水となれば幸 いである。