サファヴィー朝の首都と即位式
著者 後藤 裕加子
雑誌名 関西学院史学
号 37
ページ 19‑48
発行年 2010‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/00025732
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
後 藤
裕 加 子
は じ め に サ
ファ ヴィ ー朝 は初 代シ ャー
・イ スマ ーイ ール 1世
︵在 位一 五〇 一〜 一五 二四 年︶ が︑ 政敵 アク
・コ ユン ル朝 の諸 有力 者た ちを 駆逐 し︑ イラ ン北 西部 のタ ブリ ーズ に入 城し たこ とに より 成立 した
︒第 2代 シャ ー・ タフ マー スブ 1世
︵ 在位 一五 二四
〜一 五七 六 年︶ はカ ズ ウ ィー ン に︑ 第5 代 シ ャー
・ア ッ バ ース 1世
︵在 位 一 五八 八
〜一 六 二 九年
︶は 一五 九八 年に イラ ン高 原中 部の イス ファ ハー ンへ と首 都を 移し た︒ すで にい くつ かの 研究 が指 摘し てい る通 り︑ サフ ァヴ ィー 朝成 立以 前の 同地 の統 一王 朝は 遊牧 的な 性格 を強 く維 持し
︑そ れゆ えに 移動 を常 とし て固 定さ れた 首都 を持 たず
︑首 都機 能を 持つ 都市 に到 って も︑ その 郊外 に駐 留し て都 市内 部に は長 期滞 在し なか った
︒こ れに 対し てサ ファ ヴィ ー朝 の場 合︑
﹁ 世界 の半 分﹂ とま で賞 賛さ れた イス フ ァハ ー ン に代 表 さ れ るよ う に 固定 的 な 首都 を 有 し︑ 市 内に はシ ャー によ り華 麗な 宮殿 など から なる 王宮 地区 が建 設さ れた
︒首 都は 同朝 の発 展や 繁栄 と不 可分 の関 係に あり
︑こ
︵!
︶
れを 前提 にし て主 に建 築史 や美 術史 の分 野を 中心 にサ ファ ヴィ ー朝 期の 都市 研究 が積 み重 ねら れた
︒ し かし
︑イ スフ ァハ ーン の名 声を 不動 のも のと した アッ バー ス1 世に して も︑ 常に 首都 で過 ごし たわ けで はな く︑ 一 九
︵!
︶
その 移動 性の 高さ がす でに 指摘 され てい る︒ また
︑ア ッバ ース 1世 以後 のサ ファ ヴィ ー朝 後期 のシ ャー たち
︑例 えば 第6 代シ ャー
・サ フィ ー1 世︵ 在位 一六 二九
〜一 六四 二年
︶や 第7 代シ ャー
・ア ッバ ース 2世
︵在 位一 六四 二〜 一六 六六 年︶ も︑ ある 程度 の定 住性 を嗜 好し つつ も︑ やは りイ スフ ァハ ーン を拠 点と しつ つ︑ 旧都 タブ リー ズ︑ カズ ウィ ーン や︑ アッ バー ス1 世時 代の 後半 に冬 の首 都と して の機 能を 有し てい たマ ーザ ンダ ラー ン地 方の 諸都 市と の間 の移 動を 行っ てい た︒ 西の 隣国 オス マン 帝国 や東 のム ガル 帝国
︑ウ ズベ ク族 との 国境 地帯 をめ ぐる 争い など の有 事に 翻弄 され たサ フィ ー1 世は とも かく
︑比 較的 安定 した 長期 政権 を実 現し たア ッバ ース 2世 が移 動を 繰り 返し た理 由は
︑必 ずし も彼 らの 遊牧 的な 心性 から のみ では 説明 でき ず︑ 首都 機能 を有 する 複数 の中 核都 市の 間を 移動 する
︑サ ファ ヴィ
︵"
︶
ー朝 の統 治制 度の 在り 方に その 理由 を求 める べき であ ろう
︒ シ ャー は各 地を 移動 する 間に も外 国使 節や アミ ール との 謁見 や任 命・ 罷免 など の統 治行 為を 行っ てお り︑ サフ ァヴ ィー 朝の 首都 機能 や宮 廷の 移動 との 関係 につ いて は︑ 今後 詳細 に検 討さ れる べき 問題 であ るが
︑原 則的 に首 都で 行わ れて いた 王権 儀礼 のひ とつ に即 位式 があ った
︒サ ファ ヴィ ー朝 では タフ マー スブ 1世 が第 一次 内乱 を鎮 圧し
︑そ の統 治が 安定 する に従 い︑ その 王権 を強 化・ 誇示 する ため の装 置が 整え られ るよ うに なっ た︒ その 舞台 が第 二の 首都 カズ ウィ ーン に建 設さ れた 王宮 地区 であ り︑ ノウ ルー ズ︵ 新年
︶の 祝祭 や即 位式 は同 地区 内の チェ ヘル
・ソ トゥ ーン 宮殿
︵#
︶
で挙 行さ れる よう にな った
︒
︵$
︶
イ スラ ーム 世界 の王 権儀 礼に つい ての 研究 はま だ端 緒が 開か れた ばか りと いえ る︒ 本稿 では
︑サ ファ ヴィ ー朝 の初 代イ スマ ーイ ール 1世 から
︑ア フガ ン族 のイ スフ ァハ ーン 侵攻 によ って 実質 的に サフ ァヴ ィー 朝が 滅亡 した 第9 代ス ルタ ン・ フサ イン 時代
︵在 位一 六九 四〜 一七 二二 年︶ まで の9 代の シャ ーの 10回 の即 位式 を検 討し
︑そ の変 遷に つい
︵%
︶
て明 らか にす ると とも に︑ その 支配 制度 上の 役割 につ いて 考え る手 立て とし たい
︒
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二
〇
第 一 章 サ フ ァヴ ィ ー 朝初 期 の 即位 式 こ
の章 では サフ ァヴ ィー 朝の 創設 者で ある イス マー イー ル1 世と 第2 代タ フマ ース ブの 二人 のシ ャー の即 位時 の様 子を サフ ァヴ ィー 朝の 年代 記の 叙述 から 検討 して いく が︑ それ に先 だっ てサ ファ ヴィ ー朝 の即 位式 に観 察さ れる と考 えら れる 儀礼 の要 素を あら かじ め整 理し てお きた い︒ それ らは 大き く以 下の 三点 に分 類さ れる
︒ 1
.
イ スラ ーム 的な 要素 2.
イ スラ ーム 神秘 主義 的な 要素 3.
非 イス ラー ム的・世 俗的 な要 素 前 近代 のイ スラ ーム 世界 にお いて は︑ 統治 の任 にあ たる 世俗 の支 配者 の正 当性 は︑ 金曜 日の 集団 礼拝 の際 に礼 拝の 前に 行わ れる 説教 フト バに よっ て承 認さ れた
︒政 権交 代の 際に は︑ それ まで の支 配者 の名 前に 代わ って 新た な支 配者 の名 前が フト バの 中に 読ま れる こと によ って
︑こ れが 周知 され たの であ る︒ また
︑支 配者 は貨 幣鋳 造の 権利 を有 して おり
︑貨 幣に その 名を 刻む こと によ って 時の 支配 者が 誰で ある かが 明ら かに され た︒ 2 につ いて は︑ サフ ァヴ ィー 朝は イス ラー ム神 秘主 義の サフ ァヴ ィー 教団 を成 立母 体と して おり
︑サ ファ ヴィ ー朝 特有 の事 情と して
︑即 位儀 礼に イス ラー ム神 秘主 義的 な要 素が 入り 込む 可能 性が 推定 しう る︒ また
︑即 位式 は周 囲に 新た な支 配者 を周 知し
︑王 権を 誇示 する ため の恰 好の 装置 であ り︑ ここ にイ スラ ーム 以外 の様 々な 世俗 的な 要素 が入
︵!
︶
り込 むこ とも 十分 あり えよ う︒ サ
フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 一
⑴ 初 代イ スマ ーイ ール 1世 すで に述 べた よう に︑ サフ ァヴ ィー 朝は サフ ァヴ ィー 教団 の 教主 イス マー イー ルが タブ リー ズに 入城 した こと によ り成 立 する
︒こ れは
︑そ れま でイ ラン 北西 部を 支配 して いた アク
・ コユ ンル 朝か らサ ファ ヴィ ー朝 への 王朝 交代 劇で あり
︑各 種 年代 記に おい ても イス マー イー ルの タブ リー ズ入 城は あら た な支 配者 によ る同 市の 占領 とし て叙 述さ れて いる
︒サ ファ ヴ ィ ー 朝 の 初 期 に 関 す る 叙 述 を 含 む 最 も 古 い 年 代 記 で あ る
!
︵!
︶
﹃伝 記の
友﹄
Habı ¯b al-siyar
は
︑次 のよ うに 記し てい る︒ この 勝利 に支 えら れた パー ディ シャ ー︵ 王︶ によ って 定 めら れた 詔に よっ て︑ 悪所 に勝 利の 旗が 掲げ られ た︒ 国 王の 恩恵 は︑ 彼の 素晴 らし き御 身に 喜び の賜 衣を 掛け
!
ら れ た
︒喜 び と 幸 運 の 地 か ら 統 治 の 館︵
da ¯r al-saltana
︶ タ ブリ ーズ に向 かい
︑九
〇六 年/ 一五
〇一 年の ある 日︑ 心 晴れ やか に︑ 喜ば しい ノウ ルー ズの 日の よう に︑ 吉兆 の 御方 の不 死鳥 の翼 は︑ 国家 の命 運の 前兆 をそ の地 域に 居 を定 める 者た ちに 広げ られ た︒ 世界 を飾 る面 差し の光 と 暗黒 を祓 う正 義の 輝き によ って
︑ト ルコ マー ンの 圧制
【表】サファヴィー朝歴代シャーの即位式
死亡地 Nahciwa¯n∨
Qazwı¯n
Qazwı¯n(985/1577)
Ma¯zandara¯n Ka¯sa¯n∨
Da¯mga¯n!
Isfaha¯n!
即位都市 Tabrı¯z
Nahciwa¯n∨
Qazwı¯n(Cihir-sutu¯n)∨
Qazwı¯n(Cihir-sutu¯n)∨
Qazwı¯n(Cihir-sutu¯n)∨
Isfaha¯n(‘Alı¯ Qa¯pu¯)!
Ka¯sa¯n(Daulat-ha¯na)∨
! !
Isfaha¯n(Ta¯la¯r-i tawı¯la)
!
Isfaha¯n(Cihir-sutu¯n)∨
Isfaha¯n!
即位年 907/1501 930/1524 984/1576 985/1578 995/1587 1038/1629 1052/1642 1077/1666 1079/1668 1105/1694 シャー名
イスマーイール1世 タフマースブ1世 イスマーイール2世 ムハンマンド・
フダーバンダ アッバース1世 サフィー1世 アッバース2世 サフィー2世 スライマン1世 スルタン・フサイン 1
2 3 4 5 6 7 8
9
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 二
者 たち の 不 正か ら ア ゼル バ イ ジ ャン の 地 を﹇ 解放 し
﹈︑ 信 仰の 民 の 良 心 の 鏡 を 輝 か せ た
︒幸 運 な る 時 刻
︵
sa¯‘ at -i
sa-‘a ¯d a¯t
︶ に︑ 高み に あ っ た支 配 の 玉座 は
︑究 極 の幸 運 の 太 陽の 到 来 によ る 至 福 によ り 至 高の 天 よ りも 高 所 に 置 かれ た︒
⁝⁝ 吉兆 の御 方の 即位 の初 めに
︑ア ゼル バイ ジャ ンの フト バは 十二 イマ ーム 派の イマ ーム の名 前で 唱え るよ うに 勅令 が出 され た︒
︵
Habib, IV, p.467
︶ い かに もペ ルシ ア語 の年 代記 らし い美 辞麗 句が 連ね られ てい るも のの
︑イ スマ ーイ ール 1世 の即 位
︵
julu ¯s
︶ に つい ての 具体 的な 情報 とし てわ かる こと は︑ 即位 がお そら くあ らか じめ 吉兆 と定 めら れた 時刻 に行 われ たで あろ うこ との 他に
︑新 たな 支配 者を 知ら しめ るフ トバ がシ ーア 派の 十二 イマ ーム 派の イマ ーム の名 前で 行わ れた こと で︑ これ がい わゆ るサ ファ ヴィ ー朝 によ るシ ーア 派の 国教 化と いわ れる もの であ る︒ サフ ァヴ ィー 朝の 初代 の即 位に は︑ イス ラー ムに 則っ た支 配位 の承 認手 続き 以外 に︑ 何ら 特 別 な即 位 儀 礼な ど が あ った 様 子 はな い
︒な お︑
﹃ 伝記 の 友﹄ は そ もそ もサ ファ ヴィ ー朝 に先 行す る中 央ア ジア の王 朝テ ィム ール 朝下 で書 かれ た年 代記 であ るが
︑同 書に 記録 され てい るテ ィム ール 朝お よび アク
・コ ユン ル朝 の支 配者 の即 位の 記述 も類 型的 かつ 簡素 なも ので あり
︑拠 点と なる 都市 を占 領し たこ と︑ その 名前 でフ トバ が唱 えら れ︑ イス ラー ムの 慣行 に則 って
︑正 当な 支配 者と して 承認 され たこ とが 確認 され
︵!
︶
るの みで ある
︒ タ フ マ ース プ 1世 時 代に 執 筆 さ れた 諸 年 代記 に し ても
︑ア ッ バ ー ス1 世時 代 の 代表 的 な 年 代 記
﹃ア ッ バ ー ス 大 帝
記﹄
Ta ¯r ı¯h-i ‘a¯l a m -a¯r a¯ -yi ‘Abba ¯s ı¯
に し て も 概 ね イ ス マ ー イ ー ル1 世 の 即 位 の 記 述 は 簡 素 で
︑彼 が タ ブ リ ー ズ に 入 城 し︑ 十二 イマ ーム 派の イマ ーム の名 前で フト バが 行わ れた こと を伝 える のみ であ る︒ タフ マー スプ 1世 時代 に執 筆が
!
始め られ
︑ア ッ バ ース 1世 に 完 成し た
﹃歴 史 の 精髄
﹄
Hula ¯s at al-tawa ¯r ı¯h
は 唯 一︑ シャ ー の タブ リ ー ズ入 城 の 前 に同 市の 貴顕 たち が彼 を出 迎え たこ とを 詳し く伝 えて いる
︒ サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 三
﹇イ スマ ーイ ール が﹈ その 華麗 な る都 に 近 づく と
︑サ イ イ ド︑ カー デ ィ ー︑ 有力 者
︑貴 顕 たち は
︑喜 び を もた らす 接近 につ いて 知ら され
︑出 迎え に急 ぎ︑ 世界 征服 者へ の足 下の 接吻 の栄 誉を 得た
︒彼 らは 崇拝 と恭 順の 儀式
!
を遵 守し
︑幸 運な る星 の合 一の 御方 は各 人に 限り なき 恩恵 と善 意を 授け た
︒彼 は 統治 の 都︵
da ¯r al − saltana
︶︑ 統
!
治の 御座 所︵
maqarr-i sarı ¯r-saltana
︶︑ カ リ フの 指 導 の 中心 地 で ある タ ブ リ ーズ に 居 を定 め
︑公 正 と寛 大 の 影 を各 地の 住民 に落 とし
︑貧 者や 服従 した 者た ちを 専制 の手 から 解放 した
︒金 曜日 には 各都 市の ハテ ィー ブに 十二 イマ
!
ーム の名 でフ トバ を唱 えさ せた
︒︵
Hula ¯s at, I, p.73
︶
⑵ 第2 代タ フマ ース ブ1 世 イ スマ ーイ ール 1世 は一 五二 四年 に冬 営地 ナフ チヴ ァー ンに おい て三 六歳 の若 さで 急逝 した
︒後 を継 いだ のは 長男 タフ マー スブ であ った
︒遊 牧系 の王 朝に おい ては
︑王 家の 成員 が等 しく 後継 の権 利を 有す ると いう 思想 から
︑し ばし ば王 位継 承争 いが 起こ りが ちで ある が︑ イス マー イー ル1 世が 明確 な遺 言を 残し たた め︑ タフ マー スブ への 権力 委譲
︵!
︶
は 比較 的 円 滑に 行 わ れた よ う で ある
︒と は い え︑ 新王 の お 披露 目 は イ スマ ー イ ール 1世 が 亡 く なっ た 同 日 の 午 前 中
︵"
︶
に︑ その 後ろ 盾と なる 人物 たち によ り慌 ただ しく 挙行 され た︒ この こと は︑ タフ マー スブ 1世 の即 位が 首都 タブ リー
︵#
︶
ズで 行わ れた ので はな く︑ ナフ チヴ ァー ンで 行わ れた とい う事 実か らも 明ら かで あろ う︒ タフ マー スブ 1世 時代 に書 かれ た年 代記 の記 述か ら︑ その 過程 を追 って みよ う︒
﹇有 力者 キョ プク
・ス ルタ ン・ ウス ター ジ ャル ー と 傅育 人 デ ィ ヴ・ スル タ ン・ ル ーム ル ー︑ ワ ジー ル の カ ーデ ィー
・ジ ャハ ーン
・ハ サニ ー︑ 母后 ター ジ ル ー・ ベグ ム ら の合 意 に よ り︑
﹈太 陽 の ごと き シ ャー の 手 を 取り
︑ハ
!
ーレ ムか ら連 れ出 し︑ 幸運 なる 星の 合一 の御 方の 座︑ パー ディ シャ ーの 王座 に就 けた
︒︵
Hula ¯s at, I, p.155
︶
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 四
申 年︵ 九三
〇/ 一五 二四 年︶ ラジ ャブ 月 一 九日
︵五 月 二 三日
︶︑ 月 曜 日 の朝 食 時 に︑ アレ ク サ ンダ ー の よ うな 皇帝 の代 理人
︑神 の影 たる 信仰 の守 り手 の御 方は
︑支 配の 玉座 に就 かれ た︒ その 時︑ 齢は 一〇 歳六 ヶ月 一二 日で あっ た︒
︵
Ahsan, p.241
︶ 王 の宝 冠が その 高貴 な存 在に よっ て飾 られ ると
︑ア ミー ルた ち や 王宮
︵
ba ¯r g a¯h
︶ の側 近 た ちは
︑国 家 の 重 臣た ちや 軍の 貴顕 たち とと もに 御方 の即 位の 祝賀 のた めに 統治 の王 座の もと に参 じ︑ 彼ら の間 で伝 統と なっ てい た習
−∨
慣に 従っ て全 員が 跪拝
︵
suju ¯d
︶ し︑ 祈祷
︵
du‘a ¯w a ta n a¯
︶ を行 った
︒︵
I ¯l c ı¯, p.84
︶ 後 に首 都を カズ ウィ ーン に移 し︑ 王権 の安 定化 に成 功し たシ ャー も当 時は まだ わず か一
〇歳 で︑ その 即位 に際 して 自 ら王 権 の 威光 を 高 める よ う な 演出 を 施 すだ け の 実力 も 余 裕 もな か っ た︒ 一方 で
︑彼 の 後 ろ盾 と な る 傅 育 人
︵後 見 人︶ や母 后た ちの 主導 で行 われ た即 位儀 礼で 着目 され るの は︑ シャ ーが 同時 にサ ファ ヴィ ー教 団教 主と して の性 格を 有し
︑王 朝の 統治 組織 の有 力者 が教 団組 織の 有 力 者と 重 な って お り︑
﹃ イ ルチ 史
﹄が 描 くよ う に︑ そ の習 慣 に 従 った と思 われ る跪 拝と 祈祷 が行 われ てい る︒ サフ ァヴ ィー 朝年 代記 も含 めた ペル シア 語年 代記 にお いて
︑支 配者 への 恭順 を示 す行 為と して 頻繁 に使 われ る表 現で ある
﹁足 下へ の接 吻︵
pa ¯y -b u¯s
︶﹂ は︑ ここ では 使わ れて いな い︒ サ ファ ヴィ ー朝 初期 の二 人の シャ ーの 時代 は︑ それ ぞれ 状況 は異 なる もの の︑ 王権 はい まだ 不安 定な もの であ り︑ 世俗 王権 の威 光を 示す よう な即 位儀 礼の 発展 はこ こで はま だ認 めら れな い︒ サ
フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 五
第 二 章 サ フ ァヴ ィ ー 朝中 期 即位 式 の 舞台 化 の 始ま り
⑴ 第3 代イ スマ ーイ ール 2世 タ フマ ース ブ1 世が 九八 四年 サフ ァル 月十 五日
/一 五七 六年 五月 一四 日未 明に 五二 年に わた る統 治の 末に 亡く なっ た時
︑カ ズウ ィー ンを 首都 とす るサ ファ ヴィ ー朝 の支 配体 制は 安定 した もの とな って いた
︒し かし 彼の 死は 同朝 に再 び混 乱を 巻き 起こ した
︒タ フマ ース ブ1 世の 長男 スル タン
・ム ハン マド
・フ ダー バン ダ・ ミー ルザ ーは 目に 障害 を抱 え︑ 周囲 から は統 治に は不 適格 とみ なさ れて いた し︑ 王の 死亡 時に は首 都と は遠 く離 れた 南部 シー ラー ズに 滞在 して いた
︒次 男イ スマ ーイ ール
・ミ ール ザー は若 い頃 から 軍の 指揮 官と して の勇 敢さ で知 られ たが
︑そ れゆ えに 父か らは 危険 な存 在と みな され
︑二
〇年 以上 も投 獄状 態に 置か れて いた
︒決 定的 な後 継者 がい ない 状態 でシ ャー が没 した こと は︑ グル ジア 系の 母を 持ち
︑当 時首 都に いて 父の 死を 見取 り︑ 後継 の最 有力 候補 であ った ハイ ダル
・ミ ール ザー を王 位に 就け よう とす る勢 力と
︑マ ウシ ルル ー部 族出 身の 母を 持つ イス マー イー ル・ ミー ルザ ーを 支持 する 勢力 との 間に 緊張 状態 をも たら した
︒結 局︑ タフ マー スブ 1世 の娘 で父 の助 言者 とし て政 策に も影 響力 を持 って いた パリ ー・ ハー ン・ ハー ヌム 王女 が︑ イス マー イー ル・ ミー ルザ ー支 持に まわ った こと によ り彼 の王 位継 承が 決ま った
︒し かし
︑こ の 間の キ ジ ルバ シ ュ を中 心 と し た旧 勢 力 とタ フ マ ース ブ 1世 に よ り登 用 さ れた 新 興 勢 力が あ い 乱れ て の 駆け 引 き の 末︑ 翌日 の夜 にハ イダ ル・ ミー ルザ ーが イス マー イー ル・ ミー ルザ ーを 支持 する 勢力 に殺 害さ れた こと は︑ キジ ルバ
︵!
︶
シュ 勢力 の専 横を 招き
︑ア ッバ ース 1世 が即 位す るま での 政治 的な 混乱 のき っか けと なっ た︒ 一 年半 の短 い統 治の 末に 謎の 死を 遂げ たイ スマ ーイ ール 2世 は︑ 自ら の支 配を 脅か す恐 れの ある 王子 たち を次 々に
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 六
殺害 し︑ その 残虐 さで 知ら れて いる が︑ すで に即 位の 際に
︑自 らの 王権 を確 固た るも のに すべ く周 到な 準備 を行 なっ て いる
︒幽 閉 さ れて い た カフ カ ハ
Qahqaha
の 牢 獄 から 開 放 され
︑首 都 カ ズ ウィ ー ン に向 か っ たイ ス マ ー イー ル 2世 は︑ 彼は まず アル ダビ ール にあ る一 族の 廟を 参詣 し︑ ザン ジャ ーン で王 族関 係者 や宮 廷有 力者 らに よる 盛大 な出 迎え を受 け︑ 父王 の死 から 約一 月後 のラ ビー
Ⅰ月 一七 日/ 六月 一三 日に カズ ウィ ーン の市 外に 到着 した が︑ 天文 学者 たち
︵!
︶
が算 出し た入 城に 佳い とさ れる 日時 まで
︑市 内に は入 らな かっ た︒ 市内 入城 後も 新た なシ ャー は自 らの 支持 勢力 のな
!
かで 中心 的な 役割 を果 たし たフ サイ ンク リー
・フ ラハ ー・ ルー ムル ー
Husain-Qulı ¯ H ulafa ¯R u¯ mlu ¯
の 邸宅 に一 五日 間滞
︵"
︶
在し
︑す ぐに はダ ウラ ト・ ハー ナに は 入 らな か っ た︒ そし て
︑﹃ ア ッ バー ス 大 帝記
﹄に よ れ ば︑ フサ イ ン ク リー
・フ ラハ ー・ ルー ムル ーの 権勢 が目 に余 ると 見る とこ れを 追放 し︑ また 女性 であ りな がら 政治 に口 出し する パリ ー・ ハー
︵#
︶
ン・ ハー ヌム 王女 を冷 遇し た︵
TAA, I, pp.199-202
︶︒ 自 らの 解放 と即 位に 功の あっ た人 間を 排除 する 一方 で︑ イス マー イー ル2 世は アミ ール など の要 職の 任命 を行 って いる
︒自 ら選 んだ 日時 に王 宮に 入っ た後 は︑ 自ら 定め た即 位の 日ま で儀 式に 備え て王 宮地 区の 建物 の改 装・ 新築 を行 なっ た︒ 即位 の日 が近 づく と︑ それ まで 王宮 に安 置さ れて いた タフ マー スブ 1世 の遺 体を マシ ュハ ドに 埋葬 する まで の間 イマ ーム
・フ サイ ン廟 に仮 安置 する ため
︑そ の移 送の 儀式 を盛 大に 執り 行っ た︒ 新た なシ ャー は王 宮か らの 棺を 運び 出す 際に は他 の王 子ら とと もに 運び 手の 一人 とな り︑ 王宮 を出 てか らは 馬に 乗っ て棺 の移 送を 先導 し︑ シャ ーの 交代 と自 らの 後継 者と して の即 位の 正当 性を 周囲 に知 ら しめ た
︵
TAA, I, p.206
︶︒ 九 八 四年 ジ ュ マー ダ ーⅠ 月 二 七日
/一 五七 六年 八月 二二 日に チェ ヘル
・ソ トゥ ーン 宮殿 で行 なわ れた 即位 式の 様子 を﹃ 歴史 の精 髄﹄ は以 下の よう に記 録し てい る︒ 熟練 した 天文 学者 たち
︑真 実を 語る 星見 たち は︑ 前述 の年
︵九 八四 年/ 一五 七六 年︶ ジュ マー ダー
Ⅰ月 二七 日の サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 七
水曜 日を 吉兆 の御 方の 幸運 なる 支配 の王 座へ の即 位の ため に選 定し てい たが
︑そ の数 日前
︑ス ルタ ン・ イブ ラー ヒー ム・ ミー ルザ ーに
︑こ の盛 大な 祝典 のた めの 武具 を取 り出 し︑ その 大き な集 まり の挙 行の 責務 が下 され た︒
!
そ の日
︑統 治 の 都︵
da ¯r al − saltana
︶に い た 王子 た ち│ ス ルタ ン
・イ ブ ラ ーヒ ー ム・ ミ ール ザ ー
︑ス ル タ ン
・ス ライ マン
・ミ ール ザー
︑ス ルタ ン・ ムス タフ ィー
・ミ ール ザー
︑ス ルタ ン・ マフ ムー ド・ ミー ルザ ー︑ スル タン
・ア フマ ド・ ミー ルザ ー⁝
│︑ 大ア ミー ルた ち︑ その 他の 側近 たち
︑政 府の 高官 たち
︑サ イイ ドた ち︑ カー ディ ーた ち︑ 貴顕 たち
︑国 のア ーヤ ーン たち は相 応し い身 なり をし てダ ウラ ト・ ハー ナに 参内 した
︒カ プチ たち
︑ヤ サー ウル たち
︑イ シク アガ シバ シた ちは それ ぞれ の持 ち場 に就 き︑ その 日︑ 従者 たち やア ミー ルた ちは 宮殿 前の 広場 に立 って 主を 待ち 受け た︒ ハー ンた ちの 太鼓 がダ ウラ ト・ ハー ナに 運び 込ま れ︑ 打ち 鳴ら され た︒ 天文 学者 たち は難 解な 時︑ 天文 学の 真理 の研 究の 後に 時を 選ん だ︒
⁝⁝ 偉大 なる ウラ マー たち
︑気 高き シャ イフ たち が参 内し
︑ア リー
・ア ラブ と礼 拝の 導師 ミー ル・ ラフ マト
・ア ッラ ーが 届け られ た御 方の 敷物 をチ ェヘ ル・ ソト ゥー ン宮 殿に 持ち 込み
︑天 国に 住む シャ ーの 座に 敷き
︑い と高 き御 方は そこ に座 られ た︒ ハー フィ ズた ちは
︑ク ルア
!
ーン 朗唱 に勤 しん だ︒
︵
Hula ¯s at, II, p.626
︶ こ
の後 の記 述は
︑即 位式 に列 席し た王 子た ち︑ アミ ール たち が新 シャ ーに 恭順 の意 を示 すた めに シャ ーの 足下 へ接 吻す る様 子が 描か れる
︒こ の記 述か らわ かる のは
︑即 位の 日時 が天 文学 者に よっ て算 出さ れて いる こと
︑イ スマ ーイ ール 2世 の主 導に よっ て盛 大な 即位 式の 開催 が準 備さ れた こと
︑サ ファ ヴィ ー朝 の支 配者 層や 宮廷 人た ちが 序列 に従 って 各々 の持 ち場 に就 いて 新た なシ ャー の宮 殿へ の登 場を 待ち 受け たこ と︑ その 即位 がク ルア ーン 朗唱 によ って 承認 され てい るこ と︑ そし て全 ての 儀礼 の舞 台と して チェ ヘル
・ソ トゥ ーン 宮殿 が機 能し てい るこ とで ある
︒即 位式 に関
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 八
する 記述 は﹃ 歴史 の精 髄﹄ と﹃ アッ バー ス大 帝記
﹄で は大 差は ない が︑ 参加 した 支配 者層 の序 列は 両年 代記 では 異な
︵!
︶
って おり
︑後 者で は軍 人や 官僚 たち が宗 教層 より も先 に列 挙さ れて いる
︒い ずれ にせ よ︑ その 参列 者は
︑王 族︑ 軍事 力 の中 核 を 形成 し
︑か つ 教団 の 構 成 員で も あ るキ ジ ル バシ ュ の 大 アミ ー ル たち
︑宗 教 指 導 者層 で あ るウ ラ マ ー た ち
︵﹃ ア ッバ ース 大帝 記﹄ では カー ディ ーの 代わ りに ム ジ ュタ ヒ ド︶
︑ 官僚 た ち︑ そ し てサ フ ァ ヴィ ー 朝 時代 に さ ら なる 優遇 が進 んだ サイ イド たち など
︑王 朝を 支え る新 旧支 配者 層や 国内 外の 支配 者た ちか ら成 り︑ イス マー イー ル2 世の 即位 の正 当性 を確 認す る証 人と して
︑壮 麗な る即 位式 に臨 席し てい るの であ る︒
∨∨
新 たに 即位 した シャ ーが 座し た﹁ 御方 の敷 物︵
du ¯s ak w a q a¯l ı¯- ca-i huma ¯y u¯n
︶﹂ は︑ 一種 の玉 座の 役目 を果 た し てい る︒ 御方 はイ スマ ーイ ール 2世 自身 を示 して いる ので あろ うが
︑そ の前 任で ある タフ マー スブ 1世 もし くは 祖父 イス マー イー ル1 世の 王権 を継 いだ こと の象 徴と して その いず れか 敷物 が持 ち出 され てい るの かま では 判断 不能 であ る︒ 武具
︵
yara ¯q
︶ の詳 細も 不明 だが
︑﹃ アッ バー ス大 帝記
﹄は
︑タ フマ ース ブ1 世 の臨 終 時 にダ ウ ラ ト・ ハー ナ に い たハ
∨∨
イダ ル・ ミー ル ザー が 父 の王 冠
︵
ta¯j -i sa¯h ı¯
︶ を被 り
︑そ の 剣︵
samsı ¯r
︶を 帯 び て︑ 彼を 後 継 者に 指 名 する 遺 言 状 を公 にし たこ とを 記述 して いる
︵
TAA, I, pp.192−193
︶︒ 遺 言状 の真 贋は とも かく
︑こ こで 王権 の象 徴と して 王冠
︑剣
︑敷 物︵ 玉座
︶が 持ち 出さ れて いる こと は興 味深 い︒ なぜ なら
︑こ れら の品 々は サフ ァヴ ィー 朝後 期の 即位 式の 際の 重要 な聖 器と なる から であ る︒
⑵ 第4 代ス ルタ ン・ ムハ ンマ ド・ フダ ーバ ンダ 即 位か ら一 年半 後に イス マー イー ル2 世が 首都 カズ ウィ ーン で謎 の急 死を 遂げ た時
︑王 位継 承が 可能 な王 子は
︑そ の兄 で眼 病を 患う スル タン
・ム ハン マド
・フ ダー バン ダ・ ミー ルザ ーと その 息子 たち しか 残っ てい なか った
︒当 時︑ サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
二 九
彼は シー ラー ズに おり
︑す ぐさ ま急 使が 送ら れて 新王 とそ の家 族は カズ ウィ ーン に呼 び戻 され るこ とに なっ た︒ 彼の 即位 につ いて は︑ いず れの 年代 記も 簡単 な記 述 し か行 な っ てい な い︒
﹃ ア ッバ ー ス 大帝 記
﹄の 著 者イ ス カ ン ダル
・ベ ク・ ムン シー は︑ カズ ウィ ーン にい てシ ャー の到 着を 目撃 して いる が︵ 九八 五年 ズー
・ア ルヒ ッジ ャ月 三日
/一 五七 八年 二月 一一 日︶
︑ 天文 学者 の算 出し た日 に︑ スル タ ン・ ムハ ン マ ド・ フダ ー バ ン ダが 市 民 の歓 迎 を 受け て カ ズ ウィ ーン 市内
︑更 には ダウ ラト
・ハ ーナ に入 り︑ タフ マー スブ 1世 の妻 や娘 たち の足 下の 接吻 を受 けた こと を伝 える のみ であ る︵
TAA, I, pp.225−226
︶︒
﹃ 歴史 の精 髄﹄
︵ち なみ にス ルタ ン・ ムハ ンマ ド・ フダ ーバ ンダ のカ ズウ ィー ン市 内入 城は ズー
・ア ルヒ ッジ ャ月 五日
/一 五七 八年 二月 一三 日︶ は︑ 彼の 即位 を以 下の よう に伝 えて いる
︒ 真 実を 語る 天文 学者 たち
︑熟 練し た星 見た ちは
︑統 治の 玉座 への 賛美 すべ き着 座の ため の幸 運な る時 の選 定を 行い
︑ジ ャー ムの ごと きシ ャー は︑ その 年︵ 九八 五/ 一五 七八 年︶ のズ ー・ アル ヒッ ジャ 月の 木曜 日に 壮大
︑壮
!
麗か つ完 璧に ダウ ラト
・ハ ーナ にお 入り にな り︑ 支配 の玉 座︑ 敬う べき 父の 座に 着座 した
︒︵
Hula ¯s at, II, p.661
︶ 即 位の 日時 が天 文学 者に よっ て算 出さ れて いた こと
︑即 位式 がダ ウラ ト・ ハー ナに おい て壮 大か つ壮 麗に 行な われ たこ とは 記述 され てい るも のの
︑そ の詳 細に つい ては 明ら かに はな らな い︒ ス ルタ ン・ ムハ ンマ ド・ フダ ーバ ンダ は目 の病 のこ とも あっ て政 治へ の関 心は 薄く
︑タ ジク 出身 の王 妃や その 王子 ハム ザ・ ミー ルザ ーが 実権 を握 った
︒こ のこ とは キジ ルバ シュ たち の不 満を 招き
︑両 者が 殺害 され る結 果と なっ た︒ その 後の スル タン
・ム ハン マド
・フ ダー バン ダは キジ ルバ シュ の傀 儡に すぎ ず︑ キジ ルバ シュ 有力 者間 の権 力争 いが 激化 し︑ 最終 的に 別の 息子 アッ バー ス・ ミー ルザ ーに より 廃位 され てし まう
︒
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三
〇
⑶ 第5 代ア ッバ ース 1世 ス ルタ ン・ ムハ ンマ ド・ フダ ーバ ンダ の三 男ア ッバ ース
・ミ ール ザー
︑後 のア ッバ ース 1世 は即 位前 には ホラ ーサ ーン 地方 に派 遣さ れて いた
︒彼 は首 都を 中心 とし たイ ラク のア ミー ルら と対 立す るホ ラー サー ン地 方の アミ ール らに よっ て︑ 一旦 同地 方の 支配 者に 擁立 され るが
︑こ れ に つい て は﹁
︵ ホラ ー サ ー ンの ア ミ ール た ち が︶ 王子 ア ッ バ ース
!
・ミ ール ザー をそ の地 の統 治の 玉座 に就 けた
﹂︵
Hula ¯s at, II, p.712
︶ と記 録さ れる のみ であ る︒ 当時 一七 歳で あっ た彼 の正 式な 即位 にし ても
︑ホ ラー サー ンの 有力 アミ ール で彼 の後 見人 であ った ムル シド クリ ー・ ハー ン・ ウス ター ジャ ルー の意 向が 大き く︑ また 父王 の廃 位と いう 特殊 事情 もあ り︑ 年代 記の 記述 には 差異 がみ られ るし
︑最 盛期 を創 出し た王 のも のと して は淡 々と した 描写 とい え る︒
﹃ 歴史 の 精 髄﹄ の記 述 は ス ルタ ン
・ム ハ ンマ ド
・フ ダ ーバ ン ダ の 即位 の記 述と 同様 に定 型の 域を 出て いな い︒ 勝 利の 旗が 統治 の館 カズ ウィ ーン に近 づく と︑ トル コ人 もタ ジク 人も 貴人 も卑 賤の 者も
そ の天 国の 地の 住民 は出 迎え に馳 せ参 じ︑ 市内 とバ ーザ ール をさ まざ まな 手法 で飾 り付 けた
︒熟 練し た天 文学 者と 真実 を語 る星 見た ちが 時間 を算 出し
︑先 述の 年︵ 九九 五年
︶ズ ー・ アル カア ダ月 一四 日/ 一五 八七 年一
〇月 一六 日︑ 日曜 日に 軍隊 の星 であ るア レク サン ドロ ス大 王の ごと きシ ャー はダ ウラ ト・ ハー ナに 入り
︑チ ェヘ ル・ ソト ゥー ン宮 殿に おい
!
て天 国に 住む 祖父 の統 治の 座に 着座 した
︒︵
Hula ¯s at, II, pp.861−862
︶ こ れに 対し て︑
﹃ アッ バー ス大 帝記
﹄は スル タン
・ム ハ ン マド
・フ ダ ー バン ダ の 廃 位の 状 況 を明 ら か にし て い る︒ アッ バー ス・ ミー ルザ ーが ホラ ーサ ーン から カズ ウィ ーン に進 軍す る間 に︑ ムル シド クリ ー・ ハー ン・ ウス ター ジャ ルー はイ ラク のア ミー ルら との 間で 王の 交代 につ いて 交渉 を重 ねた
︒最 終的 にス ルタ ン・ ムハ ンマ ド・ フダ ーバ ンダ が自 らの 退位 を認 める と︑ 当時 カズ ウィ ーン 郊外 に天 幕を 張っ てい た宮 廷か ら多 くの 宮廷 人が 離反 し︑ 王子 に謁 見す サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 一
べく 市内 へと 急い だ︒ やは り宮 廷か ら離 反し てい た楽 隊は アッ バー ス・ ミー ルザ ーが カズ ウィ ーン に到 着す ると
︑ト ラン ペッ トの 演奏 でこ れを 迎え た︒ アッ バー ス・ ミー ルザ ーは その 日の うち にダ ウラ ト・ ハー ナに 入り
︑翌 朝︑ ムル シド クリ ー・ ハー ンの ワジ ール がス ルタ ン・ ムハ ンマ ド・ フダ ーバ ンダ と同 伴し てい たア ブー
・タ ーリ ブ・ ミー ルザ ーを 天幕 から 市内 に案 内し た︒ アッ バー ス・ ミー ルザ ーは シャ ーと 弟王 子を ダウ ラト
・ハ ーナ に出 迎え た︒ 貴 き繁 栄の 御方 は尊 敬す べき 父君 を出 迎え
︑謁 見に 際し て父 の手 への 接吻 の栄 誉を 得︑ 親愛 なる 弟を 心か ら抱 擁し
︑高 名な る父 の手 を取 って ハー レム 地区 に案 内し た︒ アレ クサ ンド ロス のご とき 御方 は︑ 日々 の不 愉快 な状 況に 世の 争い ごと に心 を痛 め︑ 健康 と平 穏の みを 望ん だ︒ 息子 アッ バー スと の邂 逅を 心か らお 喜び にな り︑ 自ら
!
!
∨∨
統治 と王 権︵
saltanat w a p a¯d sa¯h ı¯
︶ から 退き
︑い と高 き御 方の 頭を 王冠
︵
ta¯j w a h a¯j -i sa¯h ı¯
︶ で飾 り︑ 父祖 から その
∨
御方 まで 伝え られ た精 神の 導き
︵
wada ¯y i’-i irsa ¯d ı¯
︶ を気 高き ご子 息に 委 ね られ た
︒そ れ まで イ ラ クの 軍 隊 に おい ては 貴顕 から 下層 の者 たち まで アッ バー ス・ ミー ルザ ーと して 知ら れて いた 祝福 され た御 方の 名は
︑シ ャー
・ア ッバ ース とな った
︒︵
TAA, I, pp.372−373
︶ 即 位の 翌日 に︑ アッ バー ス1 世は チェ ヘル
・ソ トゥ ーン 宮殿 にア ミー ルや 政府 高官 を招 集し
︑ス ルタ ン・ ムハ ンマ
!
!
!
ド・ フダ ーバ ンダ があ らた めて アッ バー スが 世俗 の統 治と 精神 的な 後継 を統 合︵
ja¯ mi‘-i saltanat-i su¯r ı¯ w a h ila ¯f at -i m a-
‘nawı ¯
︶ した こと を 認め た
︒王 座 の前 に 並 んだ キ ジ ル バシ ュ の アミ ー ル た ちや ア ー ヤー ン た ちは
︑シ ャ ー・ ア ッ バー スへ の忠 誠を 誓っ た︒
﹃ アッ バー ス大 帝記
﹄に は︑ こ の間 の 詳 しい 日 付 が 記載 さ れ てい な い︒ し かし
︑ふ た つ の 年代 記の 記述 を合 わせ ると
︑ア ッバ ース 1世 が恐 らく 算出 され た日 時に 市内 のダ ウラ ト・ ハー ナに 入っ たそ の日 にハ ーレ ムの 閉鎖 空間 での 禅譲 が行 われ
︑そ の翌 日︵ ズー
・ア ルヒ ッジ ャ月 一五 日/ 一〇 月一 七日
?︶ のう ちに
︑チ ェヘ ル・ ソト ゥー ン宮 殿に おい て正 式な 即位 式が 行な わ れ たと 考 え るの が 妥 当 であ ろ う︒ ま た︑
﹃ア ッ バ ース 大 帝 記﹄ の 記述
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 二
は︑ 王冠 が王 権の 象徴 であ るこ と︑ サフ ァヴ ィー 教団 の教 主と して のシ ャー の役 割が 維持 され てい るこ とを 明ら かに する
︒ア ッバ ース
・ミ ール ザー とシ ャー の間 の交 渉に はカ ズウ ィー ンの ムジ ュタ ヒド が仲 介に 入っ てお り︑ イス ラー ム的 な即 位儀 礼の 要素 は確 認は でき ない もの の︑ 禅譲 がイ スラ ーム 法の 専門 家の 立ち 合い のも とで 行な われ てい たこ とは 間違 いな かろ う︒ イ スマ ーイ ール 2世 から アッ バー ス1 世の 時代 は︑ タフ マー スブ 1世 が整 備し た首 都カ ズウ ィー ンが 王朝 の政 治の 中心 地と して 機能 して いた
︒そ のな かで 即位 式は
︑王 権の 誇示 を目 的と して
︑宮 殿を 舞台 とす る見 せる ため の演 出が 発展 して いっ たと いえ るが
︑特 に王 冠な どに 象徴 され る世 俗的 な要 素が 取り 入れ られ てい った こと が特 筆さ れよ う︒ 第 三 章 サ フ ァヴ ィ ー 朝後 期 の 即位 式
⑴ 第6 代サ フィ ー1 世 ア ッバ ース 1世 は約 四二 年に わた る統 治の 間に サフ ァヴ ィー 朝領 内に 平和 と繁 栄を もた らし た︒ 彼は 首都 をカ ズウ ィー ンか らイ スフ ァハ ーン に移 した が︑ 実際 には 晩年 は夏 をイ スフ ァハ ーン
︑冬 をカ スピ 海南 岸の マー ザン ダラ ーン 地方 で過 ごす こと を習 慣と して おり
︑亡 くな った のも マー ザン ダラ ーン であ った
︒彼 は同 地方 に出 立す る前 に滞 在し てい たカ ズウ ィー ンで 重体 とな り︑ すで に亡 くな って いる 長男 の息 子で 当時 一八 歳の サー ム・ ミー ルザ ーを 後継 者と して 指名 して いた
︒こ のた め第 6代 シャ ー・ サフ ィー 1世 の即 位は
︑サ ファ ヴィ ー朝 のシ ャー の交 代と して は︑ 比較 的平 和裏 に進 めら れた もの とな った
︒ ア ッバ ース 1世 が亡 くな ると
︑同 行し てい たア ミー ルた ちは 首都 イス ファ ハー ンに 急使 を派 遣す る一 方︑ シャ ーの サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 三
遺体 を同 市に 向か って 移送 させ た︒ イス ファ ハー ンの アミ ール たち は反 乱の 発生 を恐 れ︑ アッ バー ス1 世の 遺体 の到 着を 待た ず︑ 当時 はイ スフ ァハ ーン のハ ーレ ムに いた 新シ ャー の即 位の 決行 する こと にし た︒ サフ ィー 1世 時代 の年 代記 は次 のよ うに 伝え てい る︒ 一
〇三 八年 ジュ マー ダー
Ⅱ月 四日
/一 六 二 九年 一 月 二九 日
︑月 曜 日 の夜
︑︵ イ ス ファ ハ ー ンの 高 官 た ちは
︶ム
!
ジュ タヒ ドの サイ イド
・フ サイ ン・ ジャ バル
・ア ルア ーミ リー
Sayyid H usain Jabal al-‘A milı ¯ ¯
の 息子 ミー ルザ ー・
!
ハビ ーブ
・ア ッラ ー
Mı ¯r za¯H ab ı¯b Alla ¯h
やミ ール ザー
・ア ブド
・ア ッラ ー・ シュ ース ター リー
Mulla ¯ ‘Abd A lla ¯h
∨∨
!
Su ¯s ta rı¯
の 息 子 ム ッ ラ ー・ ハ サ ン・ ア リ ー
Mulla ¯ H asan − ‘Alı ¯
や ハ キ ー ム
・カ ー シ ュ フ ァ ー・ ヤ ズ デ ィ ー
Hakı ¯m
∨
!
!
Ka ¯s fa¯ ’ Yazdı ¯
の息 子ミ ール ザー
・ガ ージ ー
Mı ¯r za¯G a¯z ı¯
など のウ ラマ ーた ちや 学識 者た ちと 協議 した
︒そ の幸 運な る時 に︑ 彼ら は天 国に 住む 幸運 なる 星の 合一 の御 方︑ シャ ー・ イス マー イー ルの 腰帯 と剣 とを 御方 の身 につ け︑ アリ
・カ プ宮 殿で 玉座 と冠 をそ の素 晴ら しき お姿 で飾 った
︒そ して いと 高き 祖父 に代 わっ てパ ーデ ィシ ャー の座 に就 けた
︒こ の偉 大な る祝 典の 祝い のた め︑ 太鼓 とト ラン ペッ トの 音を 七つ の地 の住 民の 耳に 届け
︑あ らた に勝 利と 統治 の旗 を立 てた
︒そ の当 時︑ 統治 者の 不死 鳥の 翼の 影に いた 者た ちは
︑足 下の 接吻 の栄 誉を 得た
︒夜 のう
!
ちに
︑こ の幸 運な 御 方の 名 と して シ ャ ー・ サフ ィ ー が 定め ら れ︑ そ の名 で 知 られ る よ う にな っ た︒
︵
Hula ¯s at al-
siyar, pp.37−38
︶
∨
翌 日 に は民 衆
︵
‘a¯ mma
︶ た ちが 王 宮︵
daulat-sara ¯- y i sa¯h ı¯
︶に 殺 到 し︑ か つて シ ャ ー・ イス マ ー イー ル 1世 に よ って
!
シリ アか ら招 聘さ れた 十二 イマ ーム 派の 学者 アリ ー・ カラ キー の子 孫ミ ール
・ダ ーマ ード
Sayyid M uhammad B a¯q ir
Da ¯m a¯d
が 礼拝 を行 った 後に
︑前 の晩 に挙 行さ れた 即位 式が 同じ 建物 で繰 り返 され
︑昨 晩は 同席 でき なか っ た 統 治に 関わ る様 々な 階級 の者 たち
︑イ スフ ァハ ーン 住民 が足 下の 接吻 の栄 誉に 浴し た︒
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 四
サ フィ ー1 世の 即位 式に つい ての 記述 から は︑ 伝統 的な イス ラー ム的 な要 素と 神秘 主義 教団 的な 要素 の保 持が 明ら かと され る︒ 夜中 の即 位式 と翌 日の 即位 式で はそ れぞ れ高 名な 十二 イマ ーム 派の ムジ ュタ ヒト が列 席し
︑新 王の 即位
︵!
︶
をイ スラ ーム 法の 立場 から 正当 化 して い る︒ 一 方で
︑﹃ ア ッ バー ス 大 帝 記補 遺
﹄は
︑ア ッ バー ス 1世 の 遺言 に 従 い︑ サフ ィー 1世 の即 位式 の準 備に あた った 者た ちの なか にス ーフ ィー らの 名前 も挙 げ︑ それ がス ーフ ィー の規 則に 則っ て行 われ たこ とを 言及 して いる
︵
Z TAA, pp.6−7
︶︒
Newman
に よれ ば
︑ア ッ バ ース 1世 の 治 世を 支 え た新 旧 勢 力 は新 支配 者の 支持 者と して 即位 式の 挙行 に関 わり
︑サ フィ ー1 世時 代は 依然 とし てス ーフ ィー の原 理と シー ア派 の原 理が
︵"
︶
サフ ァヴ ィー 朝の 国家 体制 を支 えて いた
︒も っと も︑ スー フィ ー的 な儀 礼の 要素 は︑ 年代 記の 即位 式の 記述 から は確 認さ れな いこ とに は留 意す べき であ る︒ 一 方︑ イス マー イー ル2 世時 代に 導入 され た世 俗王 権の 要素 につ いて いえ ば︑ サフ ィー 1世 の即 位式 では 更に 凝っ た演 出が 施さ れて いる こと がわ かる
︒新 王は 王朝 の創 始者 シャ ー・ イス マー イー ル1 世の 腰帯 と短 剣を 帯び てア リ・ カプ 宮殿 に登 場す る︒ 腰帯 と短 剣は 王権 移譲 の象 徴で ある
︒そ して
︑戴 冠し て王 座に 着座 する 際に は︑ 夜中 にも かか わ らず 楽 の 音に よ っ てこ れ が 周 知さ れ る︒ ま た一 連 の 行事 は 翌 日 には 繰 り 返さ れ
︑不 在 だ った 政 府 関係 者 の み な ら ず︑ 一般 民衆 にも 王権 の威 光を 示す べく 公開 され た︒ ア ッバ ース 1世 の統 治は 四二 年の 長き にわ たっ たた め︑ 即位 儀礼 に限 って いえ ば︑ それ 以前 の即 位儀 礼が サフ ィー 1世 の即 位儀 礼に どの よう な影 響を 及ぼ し︑ どの よう な発 展の 過程 を経 たの か検 証す るの は難 しい
︒即 位式 の手 順が 事前 にど の程 度準 備さ れて いた のか もわ から ない
︒あ るい は︑ アッ バー ス1 世の 謁見 儀礼 など
︑他 の宮 廷儀 礼が 参考 にさ れて いた のか もし れな い︒ いず れに して も︑ アッ バー ス1 世の 平和 な繁 栄の 時代 が︑ 見せ るこ とを 念頭 に巧 妙に 演出 され た即 位式 を可 能に した こと は確 かで あろ う︒ サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 五
⑵ 第7 代ア ッバ ース 2世 サ フィ ー1 世は カン ダハ ール への 遠征 に向 かう 途中 にカ ーシ ャー ンで 急死 した
︵一
〇五 二年 サフ ァル 月一 二日
/一 六四 二年 五月 一二 日︶
︒ 一四 年に 満た ない サフ ィー 1世 の統 治 の後 半 に おい て そ の 政務 を 司 って い た のは 大 宰 相 のサ ルー
・タ キー で︑ サフ ィー 1世 の崩 御の 四日 後の 一〇 五二 年サ ファ ル月 一六 日/ 一六 四二 年五 月一 六日 にカ ーシ ャー ンで 挙行 され たア ッバ ース 2世 の即 位式 も︑ サル ー・ タキ ーが 取り 仕切 った
︵
cf. N ewman, p.81
︶︒ サフ ィー 1世 は遺 言を 残し てい なか った ため
︑ま だ九 歳八 ヶ月 の少 年で あっ たそ の息 子の
︑首 都で ない 地方 都市 での 慌た だし い即 位に
︵!
︶
は︑ 王位 継承 をめ ぐる 反乱 の発 生を 未然 に防 ぐ意 図が あっ たの であ ろう
︒ア ッバ ース 2世 時代 の代 表的 年代 記で ある
﹃ 至高 の天
国﹄
Huld-i barı ¯n
︵
Huld, pp.369−371
︶︑
﹃ア ッバ ース の書
﹄
‘Abba ¯s -n a¯m a
︵
Ta ¯r ı¯h-i jaha ¯n -a¯r a¯ -yi ‘Abba ¯s ı¯
︶
︵
AN, pp.338
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!
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−342
︶と
﹃皇 帝の 物語
﹄
Qisas a l-ha ¯q a¯n ı¯
︵
Qisas, pp.266−270
︶は
︑こ の時 代の 年代 記の 特徴 とし て華 美で 比喩 を 凝ら した 表現 に満 ちて いて
︑実 際に 何が 行わ れた のか 解明 に困 難な 部分 もあ るが
︑表 現の 差こ そあ れ即 位式 につ いて の具 体的 な情 報に は大 きな 相違 はな く︑ アッ バー ス2 世の 即位 儀礼 はサ フィ ー1 世の 即位 儀礼 を踏 襲し たも のと なっ てい るこ とが 明白 であ る︒
!
!
∨
王 朝の 創始 者イ スマ ーイ ール 1世 の剣
︵
tı¯g
︶を 帯び た新 王は
︑天 文学 者
Maula ¯n a¯ M uhammad S afı ¯‘ Munajjim Hura ¯s a¯n ı¯
∨
が 算 出 し た 夜 中
︵
sab
︶に
︑ア ミ ー ル た ち︑ ワ ジ ー ル た ち︑ 政 府 高 官 た ち
︑貴 顕 た ち の 列 席 の も と に 統 治 の 座 に 着 き︑ アッ バー ス2 世の 名前 が定 めら れた
︒そ して 翌 日︑ あ らた め て 公へ の お 披 露目 と し ての 即 位 式が 行 わ れ︑
﹁ その 喜ば しい 天命 の夜 に御 方の 即位 のフ トバ は天 上人 の耳 に届 けら れ︑ 地上 人も また
︑人 が住 む地 域の 統治 の委 託の 雄弁 なる フト バを その 勝利 の日 に耳 にし
﹂︵
Huld, p.371
︶ たこ とに より
︑ア ッバ ー ス2 世の 即 位 の正 当 性 が法 的 に 承 認さ
!!
れ た︒ そ し て︑ 有 力 者︑ ア ー ヤ ー ン や 使 者 た ち の み な ら ず︑ 富 裕 層 か ら 一 般 民 衆 ま で
︵
az marduma ¯n -i hwa ¯ssa wa
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 六
‘awa ¯m
︶︑ カー シ ャ ーン の 幅 広い 階 層 の人 間 が 足 下へ の 接 吻の 栄 誉 に 浴し た
︒ま た︑ ア ッバ ー ス2 世 の名 で 貨 幣 が鋳
!
!
造さ れた
︵
Qisas, p.270
︶︒ 夜 中 の 即位 式 が どこ で 挙 行 され た の かは 書 か れて い な い が︑ 翌日 の 即 位式 は
﹁支 配 の吉 兆 の 新 年 の 日
︵ノ ウ ル ー ズ︶ に︑ 信徒 の 館 カ ーシ ャ ー ンの ダ ウ ラト
・ハ ー ナ の 建物 の 上 のホ ー ル︵
‘ı¯w a¯n
︶を 日 の出 の 場 と定 め
︑あ ら た めて 世界 保護 の玉 座に 座り
︑期 待に 待つ 者た ちを 迎え られ た﹂
︵
Huld, 370
︶と ある ので
︑や はり 同じ くダ ウラ ト・ ハ ーナ
︵!
︶
で行 われ たの であ ろう
︒
⑶ 第8 代サ フィ ー2 世 続 くサ フィ ー2 世は 一年 半後 には スラ イマ ン1 世と して 即位 し︑ 生涯 に二 度の 即位 式を 行っ たシ ャー であ る︒ 彼の 時代 には 同時 代年 代記 が残 され てい ない が︑ その 当時 イス ファ ハー ンに 滞在 して いた フラ ンス 人宝 石商 のシ ャル ダン がそ の即 位の 様子 を詳 細に 描き 残し てい る︒ ア ッバ ース 2世 は一
〇七 七年 ラビ ーⅡ 月二 六日
/一 六六 六年 九月 二五 日に
︑カ スピ 海南 岸地 方か ら南 の山 岳地 帯に ある 滞在 先の ダー ムガ ーン で亡 くな った
︒遺 言は なか った
︵シ ャル ダン の提 示す るヒ ジュ ラ暦 と西 暦は 一致 しな い︒ ヒジ ュラ 暦が 正し けれ ば西 暦は 十月 二六 日︑ 西暦 が 正 しけ れ ば ヒジ ュ ラ 暦 はラ ビ ーⅠ 月 二五 日
︶︒ 二
〇歳 に な る 長男 サフ ィー
・ミ ール ザー は父 王に よっ てイ スフ ァハ ーン で幽 閉状 態に あり
︑八 歳に なる 次男 ハム ザ・ ミー ルザ ーは 母と とも に父 王と 同行 して いた
︒政 府高 官た ちの 議論 の結 果︑ 長子 サフ ィー
・ミ ール ザー が新 シャ ーに 選出 され
︑即 位式 の日 時を 算出 する 天文 学者 二名
︑儀 礼に 用い る宝 石類 の移 送と 保全 の責 任者 四名
︑儀 礼に おい てシ ャー の足 下に ひれ 伏す べき 五名 の大 官︵ 首相
︑総 監︑ 奴隷 たち の将 軍︑ 法務 長官
︑第 一国 務長 官︶ の名 代五 名を 含む 特使 がイ スフ ァハ サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 七
ーン に派 遣さ れた
︵シ ャル ダン
︑一 三│ 五四 ペー ジ︶
︒ 七 日後 のジ ュマ ーダ ーⅠ 月三 日/ 十一 月一 日︵ 西暦 に従 えば
︑ラ ビー
Ⅱ月 二日
/一
〇月 二日
︶に イス ファ ハー ンに 特使 が到 着す ると
︑そ の夜 のう ちに 新王 の即 位式 が挙 行さ れた
︒シ ャル ダン の詳 細な 描写 から 主要 な儀 礼を 順に 従っ て書 き出 して みる
︵シ ャル ダン
︑七 一│ 九〇 ペー ジ︶
︒
⑴ 即位 儀礼
・天 文学 者た ちが 告げ た戴 冠に 佳き 時間
︵午 後一
〇時 すぎ
︶に 儀式 開始
︑夜 中一 二時 近く に終 了
︵!
︶
・王 宮地 区に ある ター ラー ル・ イ・ タウ ィー ラ︵ 厩舎 のホ ール
︶で の挙 行
・タ ーラ ール の 中央 に 四 つの 聖 器︵ 黄 金の 玉 座
︑冠
︵タ ー ジュ
︶︑ 剣
︵シ ャ ムシ ー ル︶
︑ 短剣
︵ハ ン ジ ャ ル︶
︶を 安 置
・高 官や その 名代 たち はシ ャー の左 右の 決め られ た席 次に 従い 着座
︑政 府高 官の 全員 一致 で新 シャ ーが 選出 され た 旨が 書か れた 書簡 が将 軍に より 読み 上げ られ る
・新 王の 名前 の選 定︵ サフ ィー
・ミ ール ザー は自 分の 名前 の継 続使 用を 望む
︶
・シ ャイ フ・ アル イス ラー ムが 書簡 を確 認
・シ ャー はメ ッカ 方向 に顔 を向 けて 玉座 に着 座︑ シャ イフ
・ア ルイ スラ ーム によ る神 への 祈願 の後 に︑ シャ ーの 左 脇に 剣︑ 右脇 に短 剣が 帯か され
︑最 後に 戴冠
・博 学の 士に よる 四段 構成 の祈 祷演 説︵ 神の 賛歌
︑預 言者 とイ マー ムへ の賞 賛・ 感謝
︑王 権が 神の 命令 によ るも の であ るこ と︑ 新王 のた めの 祈り
︶
サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 八
⑵ 即位 式終 了後 の行 事
︵!
︶
・カ イサ ーリ ーエ の上 階で 楽器 の演 奏︵ 以後
︑二
〇日 続く
︶
・新 王の 名前 での 印璽
・貨 幣鋳 造︵ 翌日 の祝 儀の ため に直 ちに 貨幣 鋳造 を遂 行︶
・翌 朝の 午前 九時 から 一〇 時ま で︑ シャ ーは 再び ター ラー ル・ イ・ タウ ィー ラに 着座
︑拝 謁の 栄に 浴し うる 身分 の 者た ちが 足下 に接 吻
・儀 式の 後︑ 新シ ャー は王 宮周 辺を 約一 時間 かけ て騎 馬で まわ り︑ 市民 にお 披露 目 サ
フィ ー2 世の 即位 後に 国内 状況 の不 安定 が続 いた こと やシ ャー の健 康状 態が 損な われ たこ とか ら︑ 即位 の時 に幸 運の 星位 をと る時 間が 選ば れな かっ たこ とが 原因 であ ると いう 意見 が出 て︑ 一年 半後
︵一 六六 八年 三月 二〇 日︶ に宮 廷は 新た に佳 き日 時を 選定 して
︑シ ャー を新 たな 名ス ライ マン で即 位さ せる こと を決 定し た︒ 即位 式は チェ ヘル
・ソ トゥ ーン 宮殿 に変 更さ れた が︑ 初回 とほ ぼ同 じ手 順で 進め られ たと いう
︵シ ャル ダン
︑二 三八
│二 四〇 ペー ジ︶
︒ サ フィ ー2 世の 即位 式の 場と なっ た宮 殿や 彼が 身に 纏っ た王 権の 象徴 とな る品 々に はヴ ァリ エー ショ ンが 生じ てい るし
︑儀 礼の 手順 につ いて はペ ルシ ア語 の年 代記 には 記録 され てい ない 細部 にわ たる 描写 がな され てい るが
︑儀 礼の 基本 的な 枠組 みや 手順 はサ フィ ー1 世時 代の もの が踏 襲さ れて いる こと はあ きら かで ある
︒サ ファ ヴィ ー朝 後期 の即 位式 の特 徴と して 挙げ られ るの は︑ 第一 に夜 中に 列席 者が 限ら れた 状況 で即 位式 が挙 行さ れ︑ 翌日 にあ らた めて お披 露 目の た め に儀 礼 が 繰 り 返 さ れ た こ と で あ る︒ こ れ は イ ス マ ー イ ー ル 2世 時 代 か ら 始 ま っ た
﹁見 せ る 王 権
﹂︵ 羽 田
︵
2000
︶︶ とし ての 即位 式が
︑サ ファ ビー 朝後 期に 独自 に発 展し たも のと いえ る︵ 内輪 と公 での 二度 の即 位は
︑ア ッバ ース 1世 に前 例を 見い 出す こと もで きよ う︶
︒ ただ し︑ サ フィ ー 2世 の スラ イ マ ン とし て の 二度 目 の 即位 式 は 朝 九時 サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 の 首 都 と 即 位 式
三 九