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体操競技トレーニング計画の現象分析論

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Academic year: 2021

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はじめに

運動の指導実践場面では、未だ解決できない問題 が山積みである。特に競技スポーツでは、競技会の出 場を決めた瞬間から運動発生に絶対的な期限が刻ま れるので切迫性を必然的に持つことになる。そこでは、

一般的な指導法だけを教授して選手の自得に任せ、

拱手傍観しているわけにはいかない。大学での実技授 業も「できるようにさせる」という運動発生が中心だが、

単位を保留したり再履修させたりなど運動発生の期限 が延長されることもあるが、競技スポーツの現場ではそ うはいかない。さらに競技結果によって指導者の能力 も同時に評価されるから、その切迫性から社会的規範 から外れるような指導を展開することさえ珍しくない。

このような切迫した事態の解決には、実践場面の問 題を<直接的>に捉える必要がある。<直接的>と は対象となる運動を直接自然科学的に精密分析する のではなく、人間の営みとしての「自己運動(1)」を基柢 に据えた現象学的人間学の立場から、<直接的>に 運動を地平分析することを意味する。つまり、形式的一 般化へと向かう因果分析ではなく、現象学的な地平分 析により、実践での運動問題の実存を明らかにするこ とが不可欠となる。だから、自然法則性を導き出す自 然科学とは別の、「現象野(2)」における本質法則を明 らかにする「現象分析論」を展開することになる。

本論の射程は、一般的な体操競技のトレーニング計 画が実践場面で具体的にどのように展開されるかを例 証によって地平分析し、そこに潜む問題性を人間学的 運動学の立場から浮き彫りにするものである。

1. 人間学的運動研究の本質的必然性

実践的なスポーツの指導現場は、運動発生がその 中心的営みとなる。日々の練習は、必然と自由、つまり

「ねばならぬ」「したい」の闘争を始原とするパトス的 なるものに満ちあふれ、常に決断が迫られている。しか し、その決断は動機づけとか因果的作用とかによって 決 定されるものではない(3)「 行 為 の 始 原は決

(Entscheidung)である(4)」というパトス的なるものを主 題化したとき、科学はその客観的合理性を守るためそ れに関わることを放棄せざるを得ない。ヴァイツゼッカー は、チェスの勝負を例に「原因と結果しか知らない自然 科学者は、実は『野次馬(Kiebitz)』に過ぎぬ。彼は勝 負を横から見ているだけで、勝負の進行には関係しな い。彼はルールを知っているだけで、勝負に手を出そう としない(5)という。選手が何を考え、指導者が何を考 え決断したかということが運動発生の始原なのだが、

切り取られた現象を語る「結果からの予言者(6)」は後 を絶たない。

優秀な指導者は職人気質なところがあり、自らの経 験の地平分析によって決断した采配でも、結果が悪け れば何も語らない。逆に素晴らしい采配によって勝利に 導いても、「選手が素晴らしい」と評価し、またその姿を 隠してしまう。我が国の芸道の世界は不立文字に代表 されるような禅の思想に深く切り結び、無師独悟を原則 にしているから、師匠の苦労などは当然伝えるべきもの ではないと考える(7)。スポーツの世界においても<職 人>と呼ばれるような指導者は芸道の精神を大切にす ることが多いから、後継者を養成するかという問題には あまり関心がない。どんなに優れた技能を持っている指

体操競技トレーニング計画の現象分析論

Phe nome no l o g i c a lAna l y t i c si nt heTr a i n i ngSchemeo fAr t i s t i cGymna s t i c s

金子 一秀

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導者でも、また、素晴らしい技能を身につけた選手でも、

その技能を伝承できなければ墓場に葬り去られてしま うから(8)、運動文化の伝承問題は非常に重要となる。

しかし、競技の世界では常に勝負がつきまとうからこの ような問題の公道化はなかなか進まない。

運動文化の伝承問題を明らかにしようと思えば、「主 体概念(9)」を導入しなければならないから、自然科学 はその任から解放され、現象学的人間学の立場に立 たざるを得ない。スポーツ運動学がこの人間学的立場 に立つのも、スポーツ実践での動感発生問題を解明す ることが目的となるからである。また、その研究は我々 の運 動 文 化の伝 承に直 結するからスポーツ運 動 学 は<伝承論>と呼ばれることになる。

このような、実践的な人間学的運動研究の立ち後れ はスポーツの発展にも大きな影響を及ぼすが、いまだス ポーツ運動を対象化し、精密分析することが運動発生 に寄与すると信じているからやっかいである。主体概念 をブラックボックスに入れて分析する精密分析は、どう しても運動発生という問題に関われない。人間学的な 運動研究が立ち後れているから、いつまでたっても精密 分析結果が運動発生に寄与するという誤解が後を絶 たない。「自然科学というものは、科学が取り扱い得る 面だけを抜き出してその面に当てはめる学問で、たとえ ば人生論などや人間の自意識の問題などに自然科学 的な考え方を入れることは場違いで、それは、科学が無 力なのではなく、科学が取り上げるべき問題ではないの である(10)。」つまり、実践的な運動発生場面で、「反逆 身体(11)とどう戦うかという動感形態の生成問題は、

はじめから自然科学の分析対象ではない。しかし、現 場で直接運動発生に関わっている指導者や選手がそ の地平分析を行わないから、いつまでたっても運動発 生の問題は自得のまま放置されてしまう。人間学的運 動学の立場に立った個別の競技論が精力的に展開さ れなければならないのだが、自然科学的思考に慣らさ れた我々は、現象学的客観性を保証する人間学的運 動分析を単なる主観的な記述としか理解できないよう である。

2. 人間学的運動学を基礎とした

専門競技論の拠点

スポーツの 実 践 場 面 では 、新し い「 動きか た

(Bewegungsweise)(12)」の発生が日々努力されてお り、その努力は競技の中で具体的な結果として評価さ れる。練習ではいくらうまくできていても、競技会でその 成果が発揮できなければ<練習場のチャンピオン>と 陰口をたたかれ、その努力が完全に否定されるほど厳 しい世界である。言い訳は山ほどあっても、誰も耳を傾 けてくれないし、指導者も「教師の隠れ蓑(13)」をまとえ ない。ところが、競技スポーツの指導者でさえ自らの指 導力を棚に上げ「選手に能力がない」と嘆き、「能力あ る選手なら教えられる」という。少なくとも、その道の専 門家であれば選手の多少の能力差は指導力で埋めら れるはずだが、自らの指導力を棚に上げ、上達すれば

「指導者のおかげ」であり、上達しなければ「選手の能 力がない」と嘆く輩は後を絶たない。それは自らが指導 者としての能力を持ち合わせていないことを公言してい るに等しいが、それに気づかないまま呑気な指導が展 開される。

一方、一言で選手の運動の欠点を改善させるような素 晴らしい技能を持つ指導者もいるが、指導力の差はどこに あるのかという「能力性(Vermöglichikeit)(14)」の解明が 立ち後れているから、指導者養成はエピステーメの詰 め込みでお茶を濁さざるを得ない。また、指導者の指摘 を十分に理解したうえで、さらに創意工夫を行い素晴 らしい成果を上げる選手がいるのも事実である。「一つ 言えば十が分かる」などと評価される選手は確かに能 力があるといえる。しかし、その能力を単なる学業成績 と勘違いしたり、あるいは選手の身体条件の差と理解 し、体力論へと向かうことが少なくない。現場の指導者 たちは、学業成績が良くても、また、どんなに素晴らしい 身体条件を有していても全く役に立たない選手を知っ ている。そのような条件を持ち合わせていなくても素晴 らしい技能を発揮する選手もいる。それは、学業成績 や体力論を否定しているのではなく、指導現場で捉え られる選手の能力性は別の次元で語られていることを 意味している。

結局、実践場面で評価される選手の能力とは<覚

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えがよい>とか<すぐにできる>などという身体知の形 成力であり、各競技における選手の能力性は、人間学 的運動学を基礎とした個別競技論の中で取り扱われ る問題である。競技規則もそれぞれの個別の専門競 技論のなかで厳密に研究されるのでなければならない。

スポーツが国際化し文化の異なる国々が、自国が有利 になるように競技規則を変更していくようでは、運動文 化の伝承は崩壊の道をたどることになる。例えば、国際 化された柔道を「日本の柔道ではない」と嘆いても、競 技発生の文化的背景を視野に入れた競技規則の研 究が立ち後れてはなす術もない。体操競技においても、

審判員の分業制や10点法の廃止などは多くの問題性 を残している。採点競技の根幹を揺るがしている現在 の規則においても、専門家たちの競技規則の研究が 立ち後れているから、もはや食い止めることができない 流れとなっている。

いままで、体育・スポーツに関わる研究は、既存の親 学問に寄りかかっているものが中心であった。そのよう な流れの中で実践的な研究が理論として認められず、

このようなスポーツ文化の存続にさえ発展するような重 要な問題は放置されてきた。実践的な研究というのは、

そのスポーツに身を置いた専門家でしか取り扱えない 問題だが、その専門家でさえ研究となると全く別の分野 に身売りする破目に追い込まれる。実技理論とか実践 理論は真の研究ではないという批判に正面から立ち向 かわないから、このような問題が放置されてきた。このよ うな競技論は自然科学的な運動研究とは別の次元で 展開される理論領域であり、まさに<目的論的発生運 動学>が基礎となるのでなければならない。この研究 の立ち後れは、教員免許更新制度や体育指導者養成 機関のカリキュラムにまで影響を及ぼしている。

どんな能力を持つ体育教師がよいのか、その能力は どのように育てるのかなどという理念それ自体が実践 的な立場から研究されないため、形式的なカリキュラム を展開する体育指導者養成機関の乱立を促すことに なる。各競技で指導者の能力性を明らかにしたうえで、

初めて体育教師に求められる指導力という一般理論 が展開されるのでなければならない。それが分からない まま体育教師の教員免許の更新制度が発足すれば現 場は混乱するばかりとなる。このような研究は専門機関

で精力的に行なわれなければならないし、それは体育 大学の専門実技教員の義務といっても過言ではない。

この実践理論として専門競技論の重要性が前景に立 てられた上で、本学体操競技部におけるトレーニング計 画の実践的な現象学的分析へと主題の照準を絞るこ とができる。

3.トレーニング計画の重要性

「測定種目でも採点種目でも、実際の運動訓練にと っては運動系の質に決定的な意義がおかれる(15) 量的結果が勝敗を左右する陸上競技でさえ、「記録が 良ければ何でも良い」と自らの動きかたへの工夫を放 棄すれば記録向上はのぞめない。採点競技である体 操競技も、技の習得なしに高い競技力を発揮できるは ずもない。それらは、<動きかた>を覚えて確率論的に 安定してくれば良いというような低レベルなものではな く、まさに<私はできる(Ich  kann  mich  bewegen)>と いうような自在位相まで引き上げられなければ勝負にも ならない。1回しか許されない試合の演技の安定性を 形式的な確率論で語れば数学者に笑われてしまうし、

試合となると練習の成果が発揮できないことをメンタル 面だけの問題として一面的に片付けてしまえば、<動 きかた>の工夫の意味も失われる。現場の指導者は 選手にどのような技能が身についたかを動感観察し見 抜かなければならない。身体知の形成は反復を基本と するが、場当たり的に練習が展開されれば動感発生は 時間がかかる。だから、期限を持つ競技スポーツにお けるトレーニング計画は重要な意味を持つ。しかし、巷 間では筋力トレーニングに代表されるような「媒介運動

(16)」を<トレーニング>と理解する傾向が強く、一般的 な技能向上のトレーニングを<練習>と呼んで区別し て使われる傾向がある。

「トレーニング」は英語の trainingから転用されたも ので、その原形のtrainは、特定の能力(技術)を発達 させ、また、特定の職業に向くように、組織立った訓練を 与えることを意味し、「引く、引き上げる、育て上げる、犬 馬を調教する」などを意味し、被訓練者の積極的な「引 き出し(erziehen)」の活動が原義をなす。つまり、他か らの強制だけではなく、自ら進んで努力していく<練

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習>の意がその活動の根底にあるという(17)。当然、人 間の訓練的活動がトレーニングを意味するから、犬馬を 調教する意味とは截然と区別されるべきだが、いまだ、

身体知の形成を「習慣的匿名性(18)」に埋没させるこ とが<トレーニング>と誤解し、調教的な指導を展開す る指導者も少なくない。

4. 体操競技のトレーニング計画

体操競技のトレーニング計画は、一般的に一つの競 技会に向けての周期を<基本期><試合期><休 養期>の3つに分ける。年間に3つの競技会があれば 各試合に向けたトレーニング周期が3回行われることに なるが、机上で形式的なトレーニング計画を練っても実 際にはうまく機能しない。というのは、計画実施は現実 のそのつどの障害を克服しなければならず、例えば、練 習中の怪我や故障、日常生活における不注意から起 こる事故でさえトレーニング計画の変更を余儀なくされ るからである。形式的で固定的なトレーニング計画を展 開すれば、不測の事態のため全ての計画が失敗に終 わってしまう。長期的な計画を精密に立てるほど、何ヶ 月後の試合が失敗に終わることがすでに分かるような 情けない事態に陥ってしまう。トレーニング計画を作成 するには、何層にも及ぶ不測の事態を想定したトレーニ ング計画を背景に持つことになるから、専門的知識や 実践経験は不可欠となる。ところが、トレーニング計画と して資料を作成するときには、指導者が捉えている地 平構造に隠された何層にも及ぶ計画は背景に沈んで いるから、トレーニング計画を形式的に理解することが 少なくない。実際には、当初の計画通り練習が展開で きることの方が珍しく、地平構造分析をしないでトレーニ ング計画を作成した指導者は、その都度の計画の変更 に日々頭を悩ませることになる。また、自らのトレーニン グ計画のずさんさを棚に上げ、予定が遅れている選手 に危機感をあおれば不測の事態が起こりかねない。所 詮計画通りに行くものではないとして、トレーニング計画 も作成せず支離滅裂な練習を展開するようでは、素晴 らしい成果を上げることもできない。

そのような中で経験豊富な老練の指導者は、何層に も折り重なる地平分析に基づくトレーニング計画を持っ

ており、不測の事態で補欠選手を使わざるを得ない事 態に陥っても、残り少ないトレーニング期間ではじめから 予定していたかのような素晴らしいチームを作り出すこ とができる。また、怪我などでトレーニングを中断せざる を得ない選手でさえ、その復帰時期を完全に読み切り、

何事もなかったかのように当初のトレーニング計画に復 帰させ、計画を遂行する指導者もいる。何度も修羅場 をくぐり抜けたベテランの指導者と経験の浅い指導者 の違いは、この「地平分析(19)」の能力差に求められる ことになろう。

少なくともその地平分析能力の前提には、実践での 指導力としての「観察」「交信」「代行」「処方」という 4つの促発分析能力が基礎となる(20)。促発能力は創 発能力を基礎とするから専門的な運動経験が全くない 場合、実践に役立つトレーニング計画の地平分析が難 しいから、運動と無縁のマネジメントの専門家がこのよ うな世界に立ち入れないのである。

5. 本学体操競技部の

トレーニング計画の例証分析

(1)年間トレーニング計画

どんな競技スポーツでも、最高の技能を獲得するに は長年の努力が必要なことは言うまでもない。だからこ そ、長期的な展望を持ち現役選手としてのピークをどの 時期に設定するかは重要な意味を持つ。しかし、我が 国においては一人の現役選手が引退するまで指導者 が替わらないことは珍しく、中学、高校、大学と進学する たびに指導者や練習仲間が替わっていくのが現状で ある。指導者が替わり新しい指導者がその選手の年間 トレーニング計画を立てる場合、過去の指導者の指導 方針、指導目標などを把握する必要に迫られる。大学 に入学してきた選手たちの「運動生活史(21)」への遡 及は、年間トレーニング計画を作成する前提条件とな る。その上で、大学であれば4年間というトレーニング期 間でどの程度まで競技力向上の可能性があるか、また、

それに必要な基礎技能は持ち合わせているかなど厳 密な現象学的分析に迫られる。基礎技能が不足して いるといって、そのトレーニングだけを行っても具体的な 成果がないまま卒業を迎えることになるから、指導者は

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いつも理想と現実の板挟みで苦しむことになる。

年間トレーニング計画は、数ある試合の中で重要と 思われるものを取り出し、目標となる試合に向けてのト レーニング周期を分けることから始める。本学体操競 技部では、東日本学生体操競技選手権大会(東日本 インカレ)と全日本学生体操競技選手権大会(全日本 インカレ)という2つの競技会を目標にしている。他にも 競技会はいくつもあるが、この2つの競技会を中心的な 試合におくのは、東日本インカレは全日本インカレの予 選を兼ねており、全日本インカレは全日本体操競技選 手権大会(全日本選手権)の予選を兼ねているからで ある。そのような中で、本学体操競技部では年間トレー ニング計画の基本期・試合期・休養期は、2つの競技会 を中心に以下のように分けることになる(表1)。しかし、

このような部を代表する試合に出場できない選手もそ れぞれの試合に向けて日々練習が展開されているか ら部員のトレーニング行動は複雑である。

(2)各トレーニング期についての地平分析

① 基本期のトレーニング地平分析

基本期では、次年度の全日本インカレに焦点を合わ せた技の習得が課題となる。指導者は、大学を卒業す る選手やこれから入学する選手などの情報をもとに、次 年度の全日本インカレの他大学の戦力分析をすること からはじめる。このような戦力分析をした上で、基本期 の目標技が決定されることになるが、指導者が上位の 競技力を維持するために必修となる技を決めても、その 技を覚える選手がまったく関心を示さないようでは意味 表1 本学体操競技部の年間トレーニング計画

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をなさない。「優勝が目標だ」とか「やればできる」など 選手の期待感をあおったところで、現実に技を覚える選 手たちが<なじみの地平>で了解できなければ絵に描 いた餅となってしまう。我々の技は身体知によって形成 され、それは努力志向性に支えられ、その空虚から充 実を目指すことが必至となる(22)。本人がいま持ち合わ せている動感素材を駆使して、覚えるべき技が潜勢的 に了解されたときのみ実現可能な技として<関心>を 持つことになり、具体的な練習に入れるのである。

現場の指導者は、そのような動感充実の本質的必 然性が重要と知っているから、ときには強制的に、また、

脅迫的に技を覚えることへ向かわせてしまうことさえあ る。我々の動感意識は、危機感をあおることで充実す る可能性をもつから、指導者は飴と鞭をもつ調教師へ と変貌する本質可能性がある。「できればよい」と手段

(Mittel)と方法(Methode)の区別もつけず叱咤激励 するようでは、「芸を覚えたサル」の調教と同じレベルに なってしまう(23)。それでは、運動文化の伝承の担い手 としての指導者の資格もない。しかし、昨今のアスリー トは単なる芸人として祭り上げられ、それを取り巻く人た ちの操り人形のような様相を呈してきている。「泳ぐのは 僕だ」と主張した北島康介は、水着が選手の記録を塗 り替えたと主張する企業に対して、まさに自らの技能を 主張したかったのだろう。このような、選手の技能を支 える道具の開発は一種のドーピング問題圏とも考えら れるが、この問題は改めて別稿にするしかない。

次年度の全日本インカレの状況を他大学の戦力分 析をした上で、初めて基本期で習得すべき具体的な技 が決定される。体操競技の初心者に数ヶ月で全日本 インカレレベルの技を習得させることは困難なように、本 人の基礎技能を見抜き、また不足している基礎技能を どのくらいの期間で習得できるかを指導者は読み切ら なければならない。それを間違えれば、長い間選手に 無駄な努力を強いることになるから指導者の責任は重 い。またそこでは、指導者はいかに短い期間でより高度 な技を教えられるかという指導力が必然的に求められ る。一方、そのような指導力を駆使しないでも、次々と優 秀な選手を集め、戦力を向上させても同じ結果となるか ら、指導力とは選手の勧誘力におきかえられると開き直 る指導者もいるし、少子化現象から大学の生き残りを

かけてか、広告塔としてスポーツ選手を利用する傾向 も強くなっているからやっかいである。

基本期は、次年度の全日本インカレをシミュレーショ ンした上で、目標技の習得を目指すことになる。本学の トレーニング周期の基本期は10月頃であり、技の習得 を部員一同で目指し、またその成果発表の機会として 部内競技会(表1)を設定している。

② 試合期のトレーニング地平分析

試合期とは、基本期で習得した技を実際の演技へ と組み上げ試合へと向かう時期である。それは、それ ぞれの目的に応じてⅠ期〜Ⅴ期へと分けられる(24)

a.Ⅰ期トレーニング

Ⅰ期は、今まで個技として習得してきた技を演技とし て構成する時期であり、新しい技を入れて最後まで演 技を遂行する能力を高める時期である。本学では、基 本期が12月に終わり、1月から本格的な試合期へと入 ってくる。トレーニング周期としては2期あるが、東日本 インカレ以後にⅠ期に入る時間的余裕はないので、次年 度の演技構成の枠組みと演技の続行力はこの時期に 養うことになる。特に冬場の時期の練習は寒くて身体 が動きにくいので学外の暖房設備のある体育館での学 外練習を行っている(表1)。

指導者がいくら理想的な計画を作成しても選手が本 気で取り組むかどうかに左右されるトレーニング計画は、

その立案から実施までのお互いの共通理解を得ること が重要となる。度重なるミーティングを行ってトレーニン グ計画を説明し、その意味内容を伝えるのは指導者の 努めだから、トレーニング計画がずれ込むのは指導者の 能力不足といえる。最近では、選手が熟練した技との 動感差が分からないまま「できた」と慢心する傾向が強 く、技の質の向上が難しくなっているのも事実である。

b. Ⅱ・Ⅲ期トレーニング

東日本インカレを目標にして3月から4月半ばまでが

Ⅱ・Ⅲ期のトレーニング期となる。ここで2つのトレーニン グ期を截然と区別しないのは、この時期に試合に向け ての予定が遅れている選手と順調に進んでいる選手 との差がはっきりするからである。一般的には、Ⅱ期は、

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Ⅰ期の目的が達成された後、それぞれの技や組み合わ せの質の向上を目指す時期で、Ⅲ期は、実際に試合で 求められる質の高い演技構成を組み上げる時期とな る。

基本期のトレーニング不足でより高い質の演技へと 向かえない選手は、Ⅱ期の練習に時間をかけざるを得 ないが、最終的に新しい技を使うかどうかの決断も迫ら れるのがこの時期でもある。指導者があきらめて基本 期の技を捨ててしまえば、昨年度と何も変わらない演技 となってしまうし、Ⅱ期の熟練を求めてあまり長い間トレ ーニングをしてしまえば、試合という期限までに演技が 構成できないことになる。日頃から技の習得に関わって きた指導者が技を抜かざるを得ない決断に追い込まれ るときは、選手の努力不足に腹を立てながらも自らの指 導力のなさに情けなさを感じることになる。自らの努力 を無意味と結論づけることを指導者が嫌がり、いつまで も演技の構成に取り組まず、個技の習得に執着してい ると、実際に試合を抱えた選手の不安をあおり、怪我に 追い込むこともあるから注意しなければならない。指導 者の心情と全体を見渡した冷静な判断が求められる のがこの時期の難しいところである。

試合という重圧の中で不測の事態が起こる可能性 があるから東日本インカレに向けてもⅣ期の練習は必要 となる。たとい練習でも未熟な技に負荷をかければ怪我 が起こる可能性もあり、そうなれば全日本インカレという 先の目標に向けてのトレーニング計画は変更を余儀な くされる。逆に低い習熟のままで技を使えば、試合で怪 我が起こる可能性もあるから、この時期のⅣ期トレーニ ングは非常に神経を尖らせる。残念ながら、今年はこの 時期の練習で2名の怪我人を出してしまった。1名は段 違い平行棒での、「空中局面を伴う技(Flugelement am gleichen Holm)(25)」の実施で落下し怪我をした。

新しい技を覚えるときはまず安全な環境で行われ、 る程度の熟練が認められれば試合に近い環境での練 習へと切り替えることになる。その練習段階で失敗した ときの身の安全を保証する動きかたを覚えなければな らないが、その選手は不測の事態に対応できず怪我を してしまった。安全な環境での練習中でも落下するよ うな不測の事態は起こるのだから、その身のこなしに危 険性が潜んでいることを指導者が指摘できなかったと

いえよう。そのような危険性の指摘は何度もしたと言っ ても、実際にそのような動きかたが身についていないの だからやはり指導者の責任は重い。全ての責任を担っ ている指導者なのだが、「あれほど言ったのに」と急に 傍観者となる指導者がいないわけでもない。

「安全に下りる」ということと「落下する」という二つ の動感形態は<コツ>と<カン>の隠蔽原理に支え られているが(26)その「縁取り分析(27)」の甘さが指導 者のミスとしてあげられる。しかし、落下した場合の身の こなし方を具体的な習練対象として取り出しても、それ は<落下>という切迫した先読み能力を駆使する状 況ではなく、あくまでも<下りる動きかた>の習得にとど まってしまうから難しい。

c. Ⅳ期トレーニング

Ⅳ期は、練習場ではある程度の熟練を示し安定して いる演技を、試合などの負荷に対応できるように準備す る期間である。本学では、全日本インカレに照準を合わ せているので、東日本インカレでは、全日本インカレに向 けて新しく構成した演技を試す意味合いが強い。また、

基本期で習得した技をこの時期に高い熟練まで引き上 げるのは難しく、このような目標を持たざるを得ないのが 現状である。つまり、東日本インカレは競技成績よりも、

怪我なく新しい演技構成が遂行できれば、多少の失敗 は覚悟の上で臨むことになる。しかし、練習場という温 室育ちの演技をそのまま試合で行わせるのは危険が多 く、東日本インカレ前にもⅣ期のトレーニングを行うこと にはなる。それは、全日本インカレに向けてのⅣ期トレー ニングよりは負荷も軽く、試技会などにそのトレーニング の意味合いを持たせる程度である。

しかし、今年はこの時期の試技会中に跳馬の着地 で2人目の怪我人を出してしまった。その試技会は、通 常では怪我を回避できる安全な環境で行われていたの だが、それにもかかわらず怪我がでた。それは、体勢の 崩れた技を本人が強引に修正したことが原因と考えら れる。多少未熟な技でも怪我がなくこなせれば、次の全 日本インカレに高度な熟練を示す技へと持ち込めると いう指導者の意図と、試合に出場する選手の演技の 価値観とのずれがこのような事態を巻き起こしたようで ある。試技会で失敗してもよいというのは指導者の考え

(8)

方であって、実際に演技をする選手は失敗をしたくない という思いで試技会に臨むものであり、「代行能力(28) に地平分析を欠いた指導者のミスと考えられる。自ら が負荷をかけようが、周囲から負荷をかけられようがそ れに動じない演技遂行力を高めるのがⅣ期の目的で あるが、Ⅲ期の練習を十分に展開できた上で行うべき ものであり、中途半端な習熟位相のままⅣ期を展開し たことによって怪我を招く事態に陥ったと考えられる。

また、今年の全日本インカレ前にはⅣ期のトレーニングを 展開したのだが、実際の試合ではその成果は認められな かった。とくに、段違い平行棒や平均台などは組み合わせ 技が多いので<カン>による先読み能力が重要となり、 期の成果はこの2種目の結果で判断しても良いほど難し い種目である。<カン>は<コツ>と隠蔽原理を持つから

(29)地平に沈んだ<コツ>がそれを支えていることはいう までもない。少なくともこのⅣ期は動感志向作用の<空虚

(Leer)><充実(Erfüllen)>に働きかけなければなら ないのだが、ときには形式的なⅣ期の展開に指導者が 満足してしまうからやっかいである。

具体的なⅣ期の練習としては、全員がミスなく演技を 行うまでチーム練習を続けたり、演技の準備を行わせな い不利な状況で演技をさせたりと、いろいろな工夫で厳 しい条件を与えることになる。しかし、過去の練習を振 り返ってみても、Ⅳ期でチーム全員が演技をミスなくでき るほど負荷に耐えられる準備をしたにもかかわらず、実 際の試合で全員が失敗をした例もある。練習ではチー ムで全員がミスなく演技できるほどの練習が展開できな かったがミスのない演技を行い優勝したこともある。つ まり、Ⅳ期というのは形式的な統計処理によって、その 成果を因果関係で表せるほど単純ではない。選手が 厳しい状況を捉え、自らの演技遂行の<命綱>をより 太く強いものにしていくことが目的となるⅣ期だから、 の練習で選手が何をとらえたかを指導者は注意深く見 抜かなければならない。

いままで楽な状況で展開されていた練習が厳しい状 況に追い込まれれば誰でもミスは出るものである。負荷 がかかるからミスが出るのであって、逆にミスが出ない のは負荷がかかっていないという解釈も成り立つ。しか し、このような練習を展開して演技の安定が認められる と、指導者は負荷に耐えられるようになったと自己満足

することがある。選手がⅣ期の練習を「普段の練習と 変わりない心構えで演技をすればよい」と結論づけて いればこの練習は全く意味を失っているのに、指導者 が気づかないことも多い。ミスが解消されるまで何度も 繰り返して練習すればその負荷には免疫になりⅣ期の 目的を失ってしまうことさえあるから、実践場面は常に

「反論理(30)」に支配される。

Ⅳ期トレーニングは形式的な練習に陥りやすいから、

指導者は選手の性格や考え方、また、その年々のチ ームの雰 囲 気などを考 慮に入れて、どのような負 荷 が<命綱>をはっきりさせるかを考えることになる。今 年の全日本インカレのⅣ期の練習は、予定していた選 手を2人欠いてチームを編成し直したから、このⅣ期の あり方を十分に捉える必要があったが、実際の試合の 場で平均台上で足が震えるような選手や、練習ではみ たことのないミスを犯す選手がいたということはⅣ期の トレーニングの内容の検討が甘かったといえる。精神 的・肉体的苦痛を選手に与えることがⅣ期の目的では なく、<命綱>をどう見つけさせるかがその目的であ り、そのためには、指導者は選手の動感志向性を読み 取る力能力に磨きをかけなければならないだろう。

d. Ⅴ期トレーニング

練習での障害を克服し自らが<命綱>を確信した うえで、このⅤ期が迎えられることになる。Ⅴ期は、十分 な練習を経たあとの試合前の最後の調整時期で、もは や余計な心配をしないで、自らの力を信じることが大切 となる。しかし、選手は技術的なあるいは戦術的な微に 入り細にわたる無用の長物を試合に持ち込んだり、指 導者もよかれと思う助言を精一杯選手に詰め込んでし まうことがあるが、このような無用の長物は自動化を破 壊してしまうことになる(31)。動感発生は生成と消滅を 繰り返す「ゲシュタルトクライス(Gestaltkreis)に従うか (32)、新たな動感発生を求めたときには動感形態の 消滅へと向かい、練習で十分に練り上げた技を捨てる ことにもなる。

本学でも、試合前の最後の試技会が終わった後に、

このようなⅤ期を迎えることになるが、すべての練習が 終わり「後は試合を待つばかり」と練習もせずに休む選 手が出てくるのもこの時期である。Ⅴ期の練習は非常

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に難しく、「練習をやりきった」という充実感は選手を過 剰な体調管理へと向かわせ肝心な練習を積極的に行 わなくなることがある。だからⅤ期をどのくらいの期間に するかは重要な問題であるが、一般的には3日程度で ある。本学でも試合のスケジュールなどから逆算して、

1〜2日程度であるが、それも選手の競技レベルによっ て差があるので、毎年固定的な日数とはならない。

このような、試合期のⅠ期〜Ⅴ期のトレーニング期を経 て、ようやく試合へと向かうことになるが、どんなに順調 に試合期の練習をこなしたとしても、実際の試合はそう 簡単にうまくいくものではない。たとい、当初の予定通り 全くミスがなく完璧な試合をこなしたとしても、その時点 ですでに選手や指導者は試合の演技に新しい価値を 生みだし、「もう少し練習をしていればもっとよかった」な どと反省するものである。そのことは、試合結果と練習 とを機械論的因果で結んでいないことが意味される。

常に、高い熟練を目指しての練習を展開するのが我々 人間の営みだから(33)、目的論を無限に展開していく ことになる。目的が達成されたと同時にその目的は消 え去り、新たな目的が生まれるから試合直後に練習を したいという衝動が起こることは珍しくない。

③ 休養期のトレーニング計画

試合直後の新たな価値意識で自らの試合を反省す る態度を持つから選手には休養期が必要となる。本学 でも、全日本インカレが終わった段階で10日ほどの休 養期にはいることになるが、そこでは何かを成し遂げた 充足感と、新たな価値意識の充実化が目的となる。 かし、練習の目的を単なる結果と機械論的因果で結ぶ 選手は、次の目標を見失い完全な休養をしてしまう。休 養期が終わって練習を再開したとき、充実した休養期 を送った選手は直ちに次の基本期の練習にはいるこ とができるが、開放感に浸り競技選手としての自覚を失 った選手は、いままでの財産を捨て1年前の選手へと 戻ってしまう。

このようなことが現場ではよく起こるから、「選手は休 まない方が良い」という結論を出し、休みも与えず練習 を強要する指導者もいる。バカンスなどで選手が長期 休暇を取るような国の選手でも世界のトップクラスの技 能を有するのだから、練習日数が単純に技能向上と比

例するわけではない。むしろ、休養期を迎えるにあたり その意味を選手に伝えるのが指導者の必然的な役割 となる。

結語並びに展望

本論において、一般的な体操競技のトレーニング計 画と本学体操競技部のトレーニング計画を比較しなが ら、実践的な問題について例証による地平構造分析を 示してきた。このトレーニング計画は全日本インカレに臨 む選手を対象に作成されているが、実際は、まだそこに 至らない部員のトレーニング計画も並行して実施されて いるから複雑である。また、団体選手権に力点を置い てのトレーニング計画だから、それぞれの個人的な試合

(二次予選・国体予選等)がこの期間中に行われると 計画はさらに複雑となる。特に、それぞれの試合に向か う選手達の技がどのような習熟レベルにあるかを一瞬 で見極める<観察力>が弱いと、このような複雑なトレ ーニング計画が形式化してしまう。また、<代行能力>

の不足が空虚な<処方分析>へと向かわせ怪我をさ せる状況に追い込むミスを誘う。実践場面で指導者は ミスを犯しながら促発能力を高めていくしかないとその 方法論を放棄してしまえば、いつも未熟な指導者のもと での犠牲者は絶えない。このような実践的な例証研究 を精力的に行い、促発能力向上の方法論を構築する ことは焦眉の急であることはいうまでもない。

長い間、運動研究は実践の場を捨て自然科学へと 傾斜していったようだが、その結果から誤差許容として はじき出された一人の選手でさえ、実践ではどう育てる かという現実問題に直面する。数学的形式化による一 般化は実践に役立たない。そのために、現象学的人間 学の立場に立った<人間学的運動学>を基礎とする 競技論が精力的に取り上げられなければならない。「で きれば教えられる」というのであれば、年老いて動けな くなった指導者は必要なくなるし、運動に関わる知識だ けを有していれば実技指導ができるというなら、体育指 導者養成機関で実技授業を展開する必要もなくなる。

これらの問題を解決するためには、競技論の中で専門 指導者の能力性を明らかにしていく必要があるし、その 責務を果たすのが体育大学の専門実技教員と言って

(10)

も過言ではないであろう。

(平成1920年度 実践研究活動補助費による)

−引用参考文献−

1)ヴァイツゼッカー/木村敏・濱中淑彦訳(1995)

①:『ゲシュタルトクライス』 みすず書房 31頁 2)メルロー=ポンティ/竹内芳郎・小木貞孝訳(1970)

『知覚の現象学1』みすず書房 103頁以降 3) ヴァイツゼッカー(1995)①:前掲書 193頁以降 4) ヴァイツゼッカー(1995)①:同書 295頁 5) ヴァイツゼッカー(1995)①:同書 295頁 6) ヴァイツゼッカー(1995)①:同書 293頁 7)金子明友(2002)『わざの伝承』明和出版

45頁以降 8) マイネル/金子明友訳(1981)

『マイネルスポーツ運動学』大修館書店 9頁 9) ヴァイツゼッカー(1995)①:前掲書 31頁 10)中谷宇吉郎(1968)『科学の方法』

岩波新書 13頁以降 11)金子明友(2005)②:『身体知の形成(下)』

明和出版 100頁 12)Straus,E.: Von Sin der Sinne ,

Springer Verlag,1956 S.263 13)金子明友(2002):前掲書 82頁

14)金子明友(2005)①:『身体知の形成(上)』

明和出版 34頁 15)マイネル(1981):前掲書 149頁

16)金子明友(2002):前掲書 289頁以降 17)金子明友(1994)『体操競技のコーチング』

大修館書店 117頁以降 18)金子明友(2005)②:前掲書 89頁

19)金子明友(2007)『身体知の構造』

明和出版 61頁 20)金子明友(2002):前掲書 516頁以降 21)金子一秀(1990)『運動学講義』

金子明友・朝岡正雄編著 所収 運動学ゼミナ ール資料 運動の生活史をどうとらえるか

232頁以降 大修館書店 22)フッサール/山口一郎・田村京子訳(1997)

『受動的綜合の分析』国文社 19頁以降

23)金子一秀(2007)

動感促発分析の能力差を問う 伝承7号 運動伝承研究会編 50頁 24)金子明友(1994):前掲書 148頁以降 25)FIG: Wertungsvorschriften− Kunstturnen  der

Frauen Ausgabe 2009 S.25

26)ヴァイツゼッカー/木村敏訳(1995)②:

『生命と主体』所収 人文書院 108頁以降 27)金子明友(2007):前掲書 193頁以降 28)金子明友(2002):前掲書 526頁以降 29)金子明友(2005)②:前掲書 29頁

30)ヴァイツゼッカー(1995)②:前掲書 94頁以降 31)マイネル(1981):前掲書 405頁

32)ヴァイツゼッカー(1995)①:前掲書 221頁 33)マイネル(1981):前掲書 399頁

参照

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