石 原 莞 爾 とそ の 関係 者 を 中心 と した 共 同体 運 動 の変 容
一伊 地知 則 彦 が創 唱 した宗 教 的信念 体系 の伝播 ・浸 透 ・定 着 を通 して一
内村 琢也
AStudyoftheCommunityBuildingMovementsLedby IshiwaraKanjiandHisFriendsandItsTransformation
ProcessthroughPropagation,Penetrationand StabilizationoftheReligiousBeliefofIjichiNorihiko.
UCHIMURATakuya
1は じめ に 問 題 設 定 と分 析 枠 組 み
1936年 か ら1949に か け て,石 原 莞 爾 と そ の 関 係 者 を 中心 と し 「村 つ く り」
とい う一 種 の共 同 体 運 動 が 旧 満 洲,中 国 大 陸,山 形 県 庄 内 地 域(戦 後 ・山形 県飽 海 郡 遊 佐 町 ・西 山村:現 在 西 浜 部 落 と呼 ば れ る)で 展 開 さ れ た 。 しか し そ の 学 術 的 研 究 は ほ とん ど さ れず 今 日 ま で き て い る。
本 稿 で は,晩 年 の 石 原 が 特 に力 を 注 い だ 「西 山 村 つ く り」 へ と最 終 的 に収 敏 され る,西 山 村 以 外 の 特 定 地 域 で 行 わ れ た 「村 つ く り」に つ い て以 下 の よ う に グル ー ピ ン グを 行 い,共 同 体 運 動 の 変 容 過 程 を 解 明 す る。 グ ル ー ピ ング を 行 った 理 由 は,本 稿 の タ イ トル で あ る石 原 とそ の 関 係 者 に 焦 点 を 当 て た た め, そ の 関 係 者 とは いか な る人 物 で あ った の か,ま た ど うい った 社 会 的 背 景 を も
とに 石 原 と接 触 し得 た の か,石 原 と接 触 した こ と に よ りい か に共 同 体 運 動 が 展 開 され た の か を 明 確 に し,最 終 的 に3つ の 「共 同体 運 動 」 モ デ ル を 提 示 す る た め で あ る。 以 下,特 定 地 域 で 行 わ れ た 「村 つ く り」に 関 し,グ ル ー ピ ング を行 い た い と思 う。
先 ず,旧 満 洲 を 含 め た 中 国大 陸 に お け る大 農 園 事 業 に関 わ った,鐘 紡 社 長 ・ 津 田 信 吾,池 本 喜 美 夫,武 田邦 太 郎,近 藤 和 子,駒 瀬 秀 子 を 「Aグ ル ー プ」
と呼 ぶ 。 同 グ ル ー プ は池 本 を 首 班 とす る民 間 企 業 に よ るモ デル 農 場 ・農 村 の 創 設 ・経 営 を行 った 。 中 で も,武 田 が 従 事 した 鐘 淵 啓 明農 場 は大 農 場 経 営 の 中 で 唯 一,模 範 農 村 建 設 を 目指 して い た。 本 稿 で は,「Aグ ル ー プ」 が 関 与 した 「村 つ く り」 を脱 帝 国 主 義 的 「ギ ブ ア ン ドギ ブ志 向 的 共 同体 運 動 」 モ デ ル と呼 び,同 農 場 の 経 営 状 況 か ら 「村 つ く り」 の 内実 に 肉 薄 す る。
次 に,1940年 頃,石 原 莞 爾 は五 族 協 和 の 「村 つ く り」 を 構 想 した 。 当初 軍 人 に よ る と さ れ た,「 村 つ く り」 で あ った が,東 條 英 機 に よ って 頓 挫 す る。
石 原 は 軍 人 と して 果 た せ な か っ た 北 満 移 駐 に よ る五 族 協 和 の 「村 つ く り」 を, 民 間 人 を伴 う こ とで 補 お う と し,東 亜 連 盟 協 会 庄 内支 部 の 「村 つ くり」 運 動 に採 用 した。 戦 後,か つ て 庄 内支 部 が 目指 した 世 俗 的 「村 つ く り」 は 「西 山 村 つ く り」 へ と シ フ トす る。 西 山 村 は 行 政 区 分 上,山 形 県 飽 海 郡 に入 る。
1945年2月 の段 階 で 同地 域 の 農 村 改 革 が 東 亜 連 盟 運 動 で 企 図 さ れ て い た 。 発 案 者 は,後 述 の 桐 谷 誠[内 村2009:129]で あ った。 庄 内支 部 の 「村 つ くり」
と 「西 山村 つ く り」 に 関 わ っ た桐 谷 誠 ・武,精 華 会 員 の 修 錬 道 場 で あ っ た
「日輪 兵 舎 」 の 管 理 人 を務 め た 歌 川 平 次 郎 ・庸 子 夫 妻 及 び,小 松 健 作,渋 谷 孝(全 員 西 山精 華 会 に 所 属[「 武 田邦 太 郎 関係 文 書 」71]),仲 條 立 一,同 会 の 指 導 者 的 存 在 で あ った 石 原 莞 爾 とそ の 妻(1946年10月12日 入 植)を 「Bグ ル ー プ」 と呼 ぶ 。 「Bグ ル ー プ 」 総 数(後 に 入 植 す る武 田,近 藤 を 除 く)は 26名 と な る。 同 グル ー プ が 関 与 した 「村 つ く り」 を世 俗 的 「農 工 一 体 志 向 的 共 同 体 運 動 」 モ デ ル と呼 ぶ 。 「Aグ ル ー プ」 に属 した 武 田 が 西 山 村 に 入 植 す る以 前 に行 わ れ た 農 村 工 業 事 業 は こ と ご と く失 敗 す る。 以 後,武 田 が 同地 へ 入 植 した こ とに よ り 「西 山村 つ く り」 は宗 教 的 な 共 同体 運 動 へ と変 容 す る。
上 述 した宗 教 的 な共 同 体 運 動 は 石 原 を 信 仰 の 師 と仰 ぐ伊 地 知 則 彦 を 中心 と した 「わ と う会 」 に端 を 発 す 。 同 会 は 終 戦 直 後,旧 満 洲 ・長 春 に い た 伊 地 知 の下 に武 田,近 藤,駒 瀬 と い う鐘 紡 関 係 者 と蒙 古 で教 職 に 就 き伊 地 知 と深 い 人 間 関 係 を築 い て い た入 江 辰 雄 等 が 組 織 した 非 公 式 な宗 教 団 体 で あ る。 同会 所 属 メ ンバ ー を 「Cグ ル ー プ」 と呼 ぶ 。 同 グ ル ー プ が 関与 した 「村 つ く り」
は,「 大 聖 霊 信 仰 」 に よ る 「仏 国 土 建 設 」(「わ と う村 」 建 設)を 目指 した め,
「仏 国 土 建 設 志 向 的 共 同体 運 動 」 モ デ ル と 呼 ぶ 。 同 グ ル ー プ メ ンバ ー は 引 揚 に よ って,石 原 を 指 導 者 と し 「Bグ ル ー プ」 メ ンバ ー が 展 開 して い た 「西 山 村 つ く り」 に従 事 す る こ と に な る。 日本 へ の 引 揚 後 に 「西 山村 つ くり」 に 関 与 した 鐘 紡 関係 者 ・武 田,近 藤,駒 瀬 を 「A・Cグ ル ー プ」 と 呼 ぶ 。
以 上,A,B,Cグ ル ー プ が 「村 つ く り」 の 構 想 を抱 き,そ れ ぞ れ 独 自 の 活動 を 展 開 しな が ら も,最 終 的 に 「西 山村 つ く り」 へ 収 敏 され る。 本 稿 は, 社 会 変 動 や 人 的 資 源 の変 容 を 経 る こ とで,A,B,Cグ ル ー プ の共 同 体 運 動 そ の もの が 変 容 して い った 過 程 を 追 う。 特 に 「わ と う会」 の 宗 教 的 信 念 体 系 が武 田 に よ って 西 山村 へ 伝 播 さ れ,も と も と同地 に存 在 した 宗 教 的 信 念 体 系 が如 何 に変 容 した の か を,森 岡清 美 ・西 山茂[1979]が 妙 智 会 研 究 で 採 用 し た分 析 枠 組 み,① 山形 県 鶴 岡 市 湯 野 浜 へ の妙 智 会 信 仰 の伝 播 ・定 着 過 程 の研 究 と,② 妙 智 会 信 仰 の受 容 が,伝 統 的 な 宗 教 実 践 に どの よ う な影 響 を 与 え て い るか を論 じた 西 山 の研 究[西 山1978]を 参 考 に して解 明 す る。 た だ 本 稿 で は, 森 岡 ・西 山 の分 析 枠 組 み を,(a)西 山村 へ の 精 華 会 信 仰 の 伝 播 ・定 着 過 程 の研 究 と(b)「 大 聖 霊 信 仰 」 の 受 容 が,精 華 会 の 宗 教 実 践 に どの よ うな 影 響 を 与 え た の か を 論 じた 研 究 へ と変 化 させ た。 又,上 記 の 宗 教 的信 念 体 系 を 西 山 村 に定 着 させ た 「西 山村 つ く り憲 法 」 と,修 錬 道 場 「日輪 兵 舎 」 の 機 能 に つ い て 宗 教 社 会 学 的考 察 を 加 え た い 。
2鐘 淵 紡 績 会 社 農 務 課 によ る モ デ ル 農 場 ・農 村 建 設 一 「Aグ ル ー プ」 によ る共 同 体 運 動 一
(1)「Aグ ル ー プ 」 の 人 員 と 略 歴
「Aグ ル ー プ 」 が 行 っ た 「村 つ く り」 に つ い て,津 田 信 吾,池 本 喜 美 夫, 武 田 邦 太 郎,近 藤 和 子,駒 瀬 秀 子 の 関 係 か ら説 明 し た い 。
先 ず,津 田 信 吾 の 略 歴 を 紹 介 す る。 津 田 は 鐘 淵 紡 績 株 式 会 社(以 下 鐘 紡)・
社 長(任 期=1930年6月 〜1944年1月)で あ る。 津 田 は,1933年,ア ン ゴ ラ 兎 の 飼 育 を 開 始,1935年,別 府 種 牧 場 開 設,1936年,満 洲 の 王 府 種 牧 場 開 設 。 1937年2月15日,鐘 紡 農 務 課(農 林 部)を 設 立,以 後 大 陸 へ の 仕 事 を 拡 大 し た[鐘 紡 株 式 会 社1988:312]。
か ね て か ら 池 本 農 業 政 策 に 関 心 を 持 ち 共 鳴 し て い た 石 原 莞 爾(当 時,参 謀
本 部 戦 争 指 導 課 長)が,「 池 本 農 業 政 策')を 中 国 ・満 洲 で 実 現 す る こ と,満 洲 国設 立 後 の 中 国 と の融 和 と,現 地 の五 族 協 和 実 現 の道 を果 た す こ と にな る」
との 信 念 の も と に,1936年9月18日,芦 屋 の 津 田邸 で 中野 正 剛 と共 に 池 本 を 津 田 に引 き合 わ せ た(池 本 を 石 原 に 引 き合 わ せ た の は 中野 で あ った)。
池 本 の 語 る農 業 政 策 に 共 感 した 津 田 は,結 局,池 本 を鐘 紡 に 招聰 して 農 務 課 長 に任 命 し,農 務 関係 につ い て の 予 算 ・人 事 の 権 限 等 を 大 幅 に委 ね,大 陸 で の 農 務 関 係 事 業 の 拡 大 を 意 図 した」[鐘 紡 株 式 会社1988:312‑3]。
次 に池 本 喜 美 夫 の 略歴 を 紹 介 した い 。 池 本 は,関 東 大 震 災 の翌 年 に あ た る 1924年 に渡 仏 す る。1931年,フ ラ ンス 国 立 ナ ン シ ー農 科 大 学 大 学 院 を 卒 業 し 理 学 ・農 学 博 士 号 を取 得,翌 年 東 京 農 業 大 学 教 授 に就 任 す る。 帰 国 後,陸 軍 新 聞 社 に招 か れ,借 行 社 で 約100名 の将 官 や 青 年 将 校 を 対 合 衆 と し,「 世 界 に お け る 日本 」 と い う講 演 を 行 う。 同 講 演 の 眼 目は 「満 洲事 変 は必 ず 日支 戦 争 に進 む 可 能 性 が あ る。 ど ち らが勝 って も負 け て も,互 い に 百 害 が あ って 一 利 もな い 不 幸 を導 くだ け で あ る。 も し 日支 戦 争 とな れ ば,当 時 の わ が 政 府 の全 予 算 が8億 一 この4割 は陸 海 軍 の 予 算 一 で あ った が,お そ ら く数100億 と十 年 戦 争 を覚 悟 しな け れ ば な らぬ。 この 両 国 の 不幸 を未 然 に 防 ぐ一 案 が あ る。
中 国 の 国 民 の九 割 五 分 は 農 民 で あ って,そ の 大 方 は悲 惨 な 生 活 を して い る。
日本 は 千 年 来 中 国 文 化 の 恩 恵 を うけ て い る。 今 こ そ こ の報 恩 事 業 と して 農 民 の安 居 楽 業 の た め の 文 化 事 業 を起 こす べ き で あ る。 日支 戦 争 と な れ ば,そ の 緒 戦 で も十 億 ぐ らい は た ち ま ち失 うで あ ろ う。 そ の予 算 で,桃 季 物 言 わ ず と も道 お の ず か ら通 ず る で あ ろ う,モ デ ル 農 場 な い し農 村 の 幾 十 か を 寄 贈 す る こ とで あ る と提 案 した」[池 本1972:6]所 に あ った 。
1936年 頃 か ら陸 軍 ・軍 務 局 長 磯 谷 廉 介,作 戦 部 長 石 原 莞 爾 は軍 部 の 予 算 に 依 って,池 本 の 眼 目 で あ るモ デ ル農 場 ・農 村 の 寄 贈 を実 行 す る必 要 を 説 き, 中野 正 剛,風 見 章 は民 間 に よ るべ き だ と主 張 。 池 本 案 は,広 田 弘毅 首 相,石 黒 農 相,磯 谷,石 原,鐘 紡 社 長 ・津 田(上 述)と の協 議 の 結 果,軍 に 代 わ っ て鐘 淵 紡 績 に よ り遂 行 され る運 び とな っ た。 当 時 鐘 紡 は年 間1億 〜1億5千 万 円 の 利 益 を 中 国 で 上 げ て お り,農 林 省 の年 間 の 全 予 算 の2〜3倍 ぐ らい は 問題 な しと の見 解 の 下,池 本 案 の 実 行 の 任 を 拝 した。 た だ し,鐘 紡 が 同事 業 を 引 き受 け る条 件 が あ った 。 そ れ は,ギ ブ ア ン ドテ イ ク式 で は な い,ギ ブ ァ
ン ドギ ブ 式 の 事 業 目 的 と 明 確 な 目 標 を 設 定 す る こ と で,池 本 自 身 が 事 業 の 全 責 任 を 果 た す と い う こ と で あ っ た[池 本1972:6‑7]。
結 果,池 本 は1936年 に 鐘 紡 農 林 部 長 に 就 任 し,以 来 終 戦 ま で の10年 間(農 林 部 ・総 利 益 の 半 分 を 投 資 す る),文 化 事 業 と し て,日 本 及 び 中 国 大 陸 に お い て 農 牧 場 を 創 設 ・経 営 し た 。
最 後 に 武 田 邦 太 郎 の 略 歴 を 紹 介 し た い 。 武 田 は1935年,東 京 大 学 文 学 部 西 洋 史 学 科 を 卒 業[武 田 ・菅 原1996:巻 末],翌1936年 鐘 紡 農 林 部 入 社 。 武 田 は 池 本 の 部 下 と し て[池 本1944:9],中 国 河 北 省,吉 林 省 で 大 農 牧 場 の 建 設,経 営 に 参 加[武 田1988:巻 末]。1939年10月21日,社 長(津 田)命 令 の 出 張 の 形 で,池 本 と 共 に 第16師 団 長 ・石 原 に 会 う[「 石 原 日記 」1986:195]。
武 田 は 当 時,鐘 淵 啓 明 農 場 勤 務 し て い た 。 石 原 の 意 向 に よ り,病 身 の 池 本 に 代 わ り に,『 池 本 農 業 政 策 大 観 」 を 書 き 上 げ た[武 田2005:3]。 同 書 は1942 年10月 出 版 さ れ た 。 又 武 田 は,石 原 に 近 藤 和 子,駒 瀬 秀 子 の2人 を 紹 介 し た 後,2人 を 満 洲 吉 林 省 王 府 牧 場(鐘 紡 が 経 営)に 連 れ て 行 き[野 村 資 料(1) 註2007:313],そ の ま ま 同 牧 場 に 滞 在 し た[入 江1982:278]。 「昭 和21年10 月,伊 地 知 と共 に 中 国 の 東 北,旧 満 州 か ら帰 っ た 武 田 は,山 形 県 鶴 岡 市 か ら 西 山 開 拓 地 に 移 っ た ば か り の 石 原 を 訪 ね,石 原 の 勧 め で 西 山 に 入 植 し[入 江 1982:306],伊 地 知 か ら 託 さ れ た 「わ と う村 」 建 設 に 従 事 す る[野 村2007:
72870
(2)「Aグ ル ー プ」 の 共 同 体 運 動 一 鐘 淵 啓 明 農 場 を 事 例 と して一
鐘 紡 は戦 中,中 国 大 陸 に5カ 所,満 洲 国 内 に5カ 所 計18カ 所 の農 場,牧 場, 工 場,研 究 所 を 所 持 して いた 。 この う ち 「村 つ く り」 に 関 係 を有 す るの は2 カ所 で 中国 ・啓 明 農 場,満 洲 ・王 府 種 牧 場 で あ っ た。 特 に 前 者,戦 前(河 北 省 茶 淀)・ 鐘 淵 啓 明 農 場2)にお い て 武 田邦 太 郎 達 が 模 範 農 村 建 設 を 目指 した 。 用 地 内 に は8つ の 村 落 が あ り,約1万 人 の 農 ・漁 民 を 有 した[武 田1940:35]。
農 場 事 業 の 眼 目 は 「住 民 の 生 活 を,政 治 ・経 済 ・社 会 ・教 育 ・宗 教 等 の 各 生 活分 野 に お い て お よぶ 限 り向 上 せ しむ る こ と,ま た そ れ を 日本 人 の 科 学 と技 術 と資 本 に よ って 如 何 に す れ ば精 神 的 に経 済 的 に十 分 の合 理 性 を も って 実 現 し得 る か を た め す こ と」[武 田1940:35]で あ っ た 。1939年3月15日,農 場
図1鐘 紡 農 務 課 関 係 収 支(昭 和20年 上 期 農 林 部 報 告 に よ る)(単 位:千 円) 14000000
12000000 10000000 8000000 6000000 4000000 2000000 0
■ 収 入(円)
■ 支 出(円)
文 化 事 業 へ の 投 資 額(円)
193919401941194219431944
(年)
内 に 希 望 入 学 制 の 小 学 校 を 開 校 し た 。60坪 の 公 社 一 棟 ・教 員 室1・ 教 室2・
教 師2名 ・児 童150名(農 家 の 子 供 。 男 子110名,女 子40名)。3ク ラ ス 制 で 1ク ラ ス は13歳 以 上 の 速 成 班(1年 半 で 卒 業),2ク ラ ス は12歳 以 下 の 普 通 班(3年 で 卒 業)で あ っ た[武 田1940:39]。
以 上,こ の 「村 つ く り」 に 関 す る 記 述 は 余 り な い 。 「鐘 紡 百 年 史 』 に よ る と,1944年9月 に 至 る ま で は,中 国,満 洲,内 地 を 含 め た18カ 所 の 農 場 経 営 は,設 備 投 資 等 先 行 投 資 の 為 に 当 初 赤 字 で あ っ た 。 推 測 で あ る が,1939年 の 収 入 は 内 地4カ 所 の 収 入 を 凡 そ 計 上 した も の で,1941年 以 降 に,中 国,満 洲 へ の 投 資 に よ り 収 入 が 大 幅 に 増 加 し た も の と 考 え る 。 農 務 課 関 係 収 支 は, 1944年 に は じめ て 黒 字 に な る(図1・ 表1)[鐘 紡 株 式 会 社1988:316]。 従 っ て,文 化 事 業 で あ っ た 啓 明 農 場 の 経 営 は 比 較 的 軌 道 に 乗 っ て い た の で は な い か と 推 測 す る。 比 較 的 良 好 で あ っ た 文 化 事 業 も,日 本 の 太 平 洋 戦 争 敗 北 に よ り,終 焉 を 迎 え る こ と を 余 儀 な く さ れ る 。 以 上,本 節 で は 「Aグ ル ー プ 」 の モ デ ル 農 場 ・農 村 建 設 を 事 例 と し て 脱 帝 国 主 義 的 「ギ ブ ア ン ドギ ブ 志 向 的 共 同 体 運 動 」 モ デ ル の 特 徴 を 論 じ た 。
表1鐘 紡 農 務 課 関係 収 支(昭 和20年 上 期 農 林 部 報 告 に よ る)(単 位 千 円) 年 収 入(円) 支 出(円) 文 化事 業へ の投 資額(円)
1939 1321000 2081000 660500
1940 1482000 2698000 741000
1941 3557000 5013000 1778500
1942 4684000 6343000 2342000
1943 6385000 7194000 3192500
1944 11477000 11357000 5738500
[註]内 地(6施 設),朝 鮮(2施 設),満 洲(5施 設(本 稿 で 取 り上 げ た 王 府 種 牧 場 を 含 む)),中 国(5施 設(本 稿 で 取 り上 げ た 啓 明 農 場 を 含 む))に お け る 農 務 課 収 支 で あ る 。 終 戦 に よ り,鐘 紡 は 内 地 の 根 室 ・別 府 ・鹿 屋 ・大 隅 の4 農 牧 場 以 外 す べ て の 施 設 を 失 っ た[鐘 紡 株 式 会 社1988:315‑6]。
3東 亜 連 盟 運 動 に お け る 世 俗 的 「村 つ く り」
一 「Bグ ル ー プ」 によ る共 同 体 運 動 一
(1)北 満 移 駐 に よ る 「村 つ く り」 構 想 と挫 折 一 東 亜 連 盟 村 つ く り一 東 亜 連 盟 協 会 代 表 ・木 村 武 雄 を 中 心 と し た第1段 階 の東 亜 連 盟 運 動(1939 年9月 一1941年6月)と 同 時 期 に,第16師 団長 ・石 原 莞 爾 が 構 想 した 北 満 に お け る東 亜 連 盟 村 建 設 に つ い て論 じた い。 石 原 は 北 満 開拓 と そ の意 義 につ い て,「 国 防 の た め に も,東 亜 連 盟 結 成 の た め に も,北 満 の 開 拓 は そ の 基 礎 事 業 を な す もの で あ る」[石 原1977:150]と 論 じ る。 そ して,開 拓 地 は 先 住 民 族 の も の を 買 収 す る3)の で は な く,民 族 協 和 ・王 道 楽 土 を 建 設 す る た め に
「本 当 の 未 墾 地 を拓 い て」 行 か な け れ ば な らな い と主 張 す る。 又,こ の 未 墾 地 に,軍 隊 が 「新 しい生 活 様 式 を 生 み な が ら国 防 の第 一 線 に立 つ と,開 拓 民 の生 活 も,簡 易 剛 健,而 も快 適 な 真 に 日本 民 族 の 大 陸 生 活,特 に超 非 常 生 活 に適 す る もの た るべ き こ と は云 うま で も な い。 こ の北 満 開 拓 の逞 しい 建 設 事 業 は 同 時 に 日本 に於 け る簡 易 剛健 生 活 運 動 の 前 衛 を な す もの で あ る。 そ う し て か か る気 持 ち で 日本 の 農 民 が多 数 北 満 に移 って 行 った な ら ば満 洲 国 建 国 の 精 神 で あ る民 族 協 和 に も極 め て よ うい 作 用 を な す もの と信 じ る」[石 原1977:
150]と い うo
しか し,石 原 の 東 亜 連 盟 村 建 設 構 想 は東 条 に よ り頓 挫 させ られ る。 そ の一 連 の 同行 に関 して 角 田 は,「 東 条 は16年1月 の 閣議 声 明 を 以 て 暗 々裡 に東 亜 連 盟 の 解 散 の意 図 を表 示 し… … … 石 原 の 薫 陶 を う け て東 亜 連 盟 思 想 を も鼓 舞 さ れ た 第16師 団 を 石 原 宿 縁 の 地 満 洲 に移 駐 さ せ る こ と も之 に関 連 す る予 防 措 置 と して 取 止 め とな り,石 原 の孜 々 と して錬 成 した対 ソ浸 透 の新 戦 法 の 北 満 展 開 も こ こ に一 場 の 夢 と化 した」[角 田1967:531]と 説 明 して い る。
以 上,石 原 の 東 亜 連 盟 村 建 設 構 想 につ い て論 じて き た。 結 論 と して,北 満 に 師 団 を送 り東 亜 連 盟 村 を 建 設 す る こ と は水 泡 に帰 した が,退 役 軍 人 ・石 原 は 東 亜 連 盟 協 会 山形 支 部 か ら庄 内支 部 を 独 立 させ,民 間 レベ ル で 東 亜 連 盟 村 建 設 を 目指 して い く。 「村 つ く り」 を 行 う主 体 が軍 → 民 間 へ と変 化 した の で あ る。 次 節,民 間 レベ ル の 「村 つ く り」 につ い て そ の特 徴 を論 じた い 。
(2)民 間 レベ ル で の 「村 つ く り」
一 東 亜 連 盟 協 会(同 志 会)庄 内 支 部 を 事 例 に一
退 役 か ら5カ 月 後 の1941年8月1日[平 田1942:75],石 原 莞 爾 は郷 里 で あ る山 形 県 鶴 岡 市 に帰 る とす ぐに 東亜 連 盟 協 会 山 形 支 部 か ら庄 内 支 部 を独 立 さ せ る。 庄 内 支 部 独 立 は,交 通 手 段 を考 慮 に入 れ て の 決 定 で あ り,「 庄 内 は 山形 県 と い う行 政 枠 に縛 られ る必 要 は な い」 とい う石 原 の 考 え か ら き ま っ た
こ とで あ った[野 村2007:675][内 村2009:73]。
庄 内 支 部 独 立 と軌 を一 に して 「庄 内 支 部 運 動 要 領 」 が発 表 さ れ る。 同運 動 要 領 は 支 部 を独 立 させ る上 で 石 原 が 示 した もの で,同 年9月28日 に 草 稿 が ま とめ られ,『 東 亜 連 盟 』(1942年1月 号)に 所 収,「 庄 内 支 部 運 動 要 領 」(以 下
「要 領 」)と い う単 行 本 の 形 で 翌 年 の1943年3月1日,東 亜 連 盟 同志 会 庄 内支 部 か ら 出版 され た[『 全 集7」1977:41][内 村2009:73]。 「要 領 」 の 内容 で あ るが,同 書 は3章 建 て で 構 成 さ れ 非 常 に短 く,民 間 人 ・石 原 の構 想,池 本 農 業 理 論 を反 映 して い る。 以 下,「 要 領 」 の 要 点 で あ る。
2.実 践
イ.朝 鮮 人,満 洲 国 留 学 生 の 指 導
ロ.新 時代 に於 け る共 同 生 活 創 造 の 急 先 鋒
1会 員 の 同 行 賛 美 に よ る協 カ ー 致,新 しき生 活 方 式 の 共 同体 験 2隣 組 及 至 同業 組 合 の 最 高 犠 牲 者 た る べ し
ハ .庄 内が担任す べ き経済力 の検討,こ れ に基づ き 1池 本 農 業 政 策 の 庄 内 に於 け る実 践
2庄 内工 業 建 設 へ の 協 力 3満 洲 移 民 へ の協 力 [「要 領 」1986:278]
「要 領 」 で 掲 げ られ た,共 同 生 活 創 造 の 急 先 鋒 と して 行 わ れ た 「村 つ くり」
の 内 実 に触 れ た い。 庄 内支 部 運 動 を 事 例 と した 松 沢 哲 成 は,「 村 つ く り」 と は最 終 戦 争 必 勝 の た め に,「 村 全 体 を総 合 的 に 「運 営 」 し,そ の す べ て の 能 力,と くに生 産 力 を増 大 させ る こ とが 「村 の 立 直 」=「 改 革 」 で あ る。 最 終 的 に は,東 亜 連 盟 村 の建 設 が 目指 され て い た。 も う少 し具 体 的 に い え ば,私 的利 害 を追 求 す る農 会 ・産 組 ・信 組 ・村 会 な どを 改 革 す る一 方,「 適 正 農 家 」 を 基 礎 に して農 村 工 業 を 興 し北 満 移 民 を 行 う こ とが 目的」[松 沢1982:307]
で あ っ た と 同支 部 の 「村 つ く り」 とそ の 特 徴 につ い て ま と めて い る。
松 沢 に対 す る反 論 で あ るが,最 終戦 争 との 観 点 で 「村 つ く り」 を 構 想 して い た と い うの は 石 原 莞 爾 個 人 に 限 定 され るべ きで あ る。 又,庄 内支 部 運 動 の
「村 つ く り」 及 び 「西 山村 つ く り」 に 従 事 した 「Bグ ル ー プ」 メ ンバ ー は, あ くまで 農 村 で の 生 産 力 向 上 を 目指 し 「農 工 一 体 志 向 的」 な世 俗 的 「村 つ く
り」 を 展 開 す るの で あ る。
次 に,庄 内支 部 運 動 の 実 態 に触 れ た い。 同 支 部 員 ・平 田安 吾 に よ る と,
「当支 部 運 動 も未 だ 組 織 運 動 以 外 に歩 を 進 め 得 ず 」[平 田1942:65]と1942年 11月 現 在 の 同 支 部 運 動 の 内 実 を 『東 亜 聯 盟 』 紙 上 で 報 告 して い る よ うに,
「村 つ く り」 は現 実 に は遅 々 と して 進 ん で な か った模 様 で あ る。 一 方 で,「B グ ル ー プ」 メ ンバ ー ・桐 谷 誠 が 開 い た 農 場 が 同 支 部 運 動 の 農 地 改 革 の 一 環 と
して 実 験 さ れ て いた こ と は見 逃 せ な い[内 村2009:129]。 こ の桐 谷 が 開 い た 農 場 こ そ,次 節 論 じる 「西 山村 つ く り」 が展 開 され る場 所 で あ った 。 庄 内支 部 の 「村 つ く り」 は,東 亜 連 盟 運 動 がGHQに よ り解 散 を 命 じ られ た1946年
1月 以 降,石 原 を 中 心 と し た 「西 山 村 つ く り」 へ と 変 化 し て い く。
(3)山 形 県 遊 佐 町 の 開 拓 一 「西 山 村 つ く り」 の 歴 史
山 形 県 遊 佐 町 の 開 拓 地 入 植 は,戦 後1946年 に 始 ま った。 そ の1つ が 西 山 開 拓(高 瀬 地 区)と 呼 ばれ る と ころ で,「 西 山村 つ く り」 が行 わ れ た 地 域 で あ っ た[結 城 編1974:259‑60]。 本 稿 で は 先 ず,西 山 開 拓 の歴 史 的 背 景 か ら論 じ た い 。 『改 定 遊 佐 の 歴 史 」 に載 った 入 江 の 記 事 を参 照 した い。
西 山開 拓 は,石 原 莞 爾 氏 の教 え に よ って 発 した。 も と も と西 山 砂 丘 地 一 帯 の 松 林 約3百 町歩 は,石 原 氏 の 教 え を 受 け て い た桐 谷 誠 氏 の 所 有 地 で あ っ た が,桐 谷 氏 が そ こ に鍬 を 入 れ た の は 昭 和18年 で あ っ た。
石 原 氏 は 早 くか ら,戦 争 が 全 くな くな る永 久 平 和 時 代 の近 く始 ま る こ と を確 信 し,こ の新 し い時 代 に そ な え て,都 市 解 体,農 工 一 体,国 民 皆 農 の 革 新 的 社 会 建 設 を 唱 導 して い た 。 特 に戦 後 は,日 本 再 建 の 基 礎 が 国 民 食 料 の完 全 自給 に あ る こ とを 力 説 して い た 。
桐 谷 氏 が地 味 の やせ た砂 丘 地 に開 拓 の鍬 を入 れ た の は,こ の よ うな石 原 の理 想 によ り,自 分 の所 有 地10数 町 歩 を提 供 して,新 社 会 の基 本 細 胞 た る農 村 部 落 を先 駆 的 に実現 しよ うと したので あ った[結 城 編1974:260‑1]
以 上,西 山 開拓 の 歴 史 的 背 景 につ い て 簡 単 に触 れ た が,「 西 山村 つ く り」 は, 庄 内 支 部 運 動 の 桐 谷 農 場 に端 を発 し,石 原 を 指 導 者 と して い た事 が 伺 え る。
石 原 入 植 当 初 は 世 俗 的 「村 つ く り」 の様 相 を呈 して お り,「Bグ ル ー プ 」 が 関与 した 「村 つ く り」 を 世 俗 的 「農z一 体 志 向 的 共 同体 運 動 」 モ デ ル と呼 ぶ。
又,石 原 入 植 前 に,歌 川 等 精 華 会 メ ンバ ー が 同 会 信 仰 を 西 山村 に もた ら した こ と も無 視 で き な い。 次 節 で 論 じ る,石 原 の 西 山 入 植 に 伴 い,精 華 会 信 仰 は 同地 に定 着 す る。
(4)西 山 開拓 と石 原 入 植 一 村 つ く り にお け る 経 済 的 挫 折
「西 山村 つ く り」 の 指 導 者 ・石 原 に 於 け る,西 山 入 植 の ① 時 期 と② 動 機 を ま とめ る と以 下 の よ うに な る。
①1946(昭 和21)年10月12日,石 原 は鳥 海 山 麓 の 山形 県 飽 海 郡 遊 佐 町(当
時 は 高 瀬 村)の 日 本 海 に 面 し た 砂 丘 地,西 山 に 入 植 し4),こ の 新 天 地 で 新 し い 「村 つ く り」 を 計 画 し た5)。
②1946年9月26日(木)の 「石 原 日 記 」 に 「大 井,加 藤 吹 浦 行 引 止 メ ノ タ メ 安 藤 服 部 卓 四 朗 」[「 石 原 日 記 」,野 村 資 料2007:418]と い う 記 述 に 見 ら れ る よ う に,石 原 の 入 植 を 大 井,加 藤 が 引 き と め た 。 し か し結 果 的 に 彼 ら の 努 力 は 実 を 結 ば ず,石 原 は 西 山 に 入 植 す る こ と に な っ た 。 石 原 の 西 山 入 植 の 決 定 的 要 因 に つ い て,野 村 は 「桐 谷 兄 弟 の 覚 悟 」6)[野 村2007:724]が 大 き か っ た と 分 析 し て い る 。
次 に,石 原 の 同地 入 植 後,「Bグ ル ー プ」 メ ンバ ー が 「西 山村 つ く り」 の 資 金 源 と して着 手 した 農 村 工 業 事 業 につ い て 述 べ た い。 「Bグ ル ー プ」 の 桐 谷 誠 は,農 村 工 業 事 業 と して 電 気 製 塩 事 業 に 参 画 した。1947年5月10日 か ら 突 貫 作 業 を 開始 し,9月19日 に塩 が 出 た が,本 格 的 な電 気 製 塩 事 業 は 行 え な か った[内 村2009:136]。 結 果,「 西 山村 つ く り」 の 資 金 源 と頼 ん だ農 村 工 業 が 不 発 に終 わ り,西 山 村 内 に不 協 和 音 を響 か せ る こ とに な る。 村 内 の 社 会 的連 帯 を 図 る上 で,重 要 な 役 割 を 演 じた の が次 章 で 論 じ る 「仏 国土 建 設 」 と い う宗 教 的 な 「村 つ く り」 を 目指 した 「Cグ ル ー プ」 メ ンバ ー で あ っ た。
4伊 地 知 則 彦 とわ と う 会 一 「Cグ ル ー プ」 に よ る共 同体 運 動 一
(1)伊 地 知 則 彦 と石 原 莞 爾
伊 地 知 則 彦 は1914年2月25日 に 鹿 児 島 県 で生 まれ た。 実 家 は 日蓮 宗 の 檀 家 で あ った 。 た だ,石 原 に 会 う以 前,宗 教 に無 関 心 で あ った 。1937年 の 渡 満 後, 国民 学 校 の教 師 と な った 伊 地 知 は,満 洲 国建 国 に よ る理 想 と現 実 の 差 に苛 ま れ(倫 理 的 剥 奪),1938年3月,新 京 に 出 向 い た。 同 地 で 石 原 に 出会 い,「 日 蓮 の 霊 と仏 の 予 言 」ηへ の 信 仰 に 初 め て 出 会 っ た の で あ る(以 後,石 原 独 自 の信 仰 を 「日蓮 シ ャー マ ニ ズ ム」 と呼 ぶ)。 当時 の事 を,伊 地 知 は,「 廣 い く 大 海 原 の 中 に長 い年 月 の 間,濤 の 間 に \ \浮 き沈 み して そ の 表 面 に は 青 い苔 さ へ まつ は りつ いた 一 個 の 浮 遊 水 雷 が 突 如 と して あ る岩 礁 に触 れ て(初 め て 自己 内在 の霊 感 にふ れ て 。)轟 然 爆 発 した や うな もの で あ つ た」[伊 地 知1942:
182]と 回 想 して い る 。 つ ま り,石 原 に 触 発 さ れ,伊 地 知 は 「日 蓮 シ ャ ー マ ニ ズ ム 」 に 目 覚 め た の で あ る 。 以 後,伊 地 知 は 一 週 間 に 一 度 必 ず 石 原 の 宿 舎 を 訪 問 し た 。 そ の こ ろ 石 原 が 多 忙 で あ っ た た め,秘 書 の 杉 浦 か ら 「日 蓮 主 義 信 仰 の 立 場 か ら 現 実 の 東 亜 の 諸 問 題 を 如 何 に 解 決 す べ き で あ る か 」[伊 地 知1 942:182]を 学 ぶ 。 杉 浦 の 帰 京 に と も な い,伊 地 知 は ハ ル ビ ン へ 向 か い,独
自 に 日 蓮 信 仰 を 深 め て い く[伊 地 知1942:183]。 伊 地 知 は 日 蓮 信 仰 へ の 造 詣 を 深 め て い く 中 で,「 真 の 協 和 と は お 互 い が 同 じ仏 の 子,神 の 子 と し て の 自 覚 か ら 出 発 す べ き も の で す 」[伊 地 知1942:270],「 口 の 先 だ け 「世 界 一 家 」 や 「八 紘 一 宇 」 や 「四 海 同 胞 」 で は,も う ど う に も な ら な い と こ ろ ま で 来 て い る の で す 。 相 手 の 心 の 裡 に 仏 性 を 見 る が 為 に は,己 の 心 の 裡 の 真 性 を み が か ね ば 駄 目 で す 」[伊 地 知1942:269]と い う結 論 に 達 し,当 初 の 悩 み を 解 決
し う る 東 亜 連 盟 運 動 に 奔 走 す る 。
(2)伊 地 知 則 彦 と 「わ と う会 」
終 戦 直 後 の混 乱 の 最 中,満 洲 の 各地 か ら長 春 の 伊 地 知 の 元 に 男女16名(ほ か に 子 供6名)が 集 い共 同 生 活 を 行 った 。 男 女16名 中 に は,入 江 辰 雄,近 藤 和 子,駒 瀬 秀 子,武 田邦 太 郎 等,「 西 山 村 つ く り」(後 述)の 関 係 者 が い た。
彼 らを 中心 に 「わ と う会 」 が 結 成 され た 。
同 会 の 指 導 者 ・伊 地 知 は 「(日蓮 の 『種 々 御 振 舞 御 書 」 の一 節 で あ る:引 用 者 挿 入)法 華 経 の 肝 心 諸 仏 の 眼 目た る妙 法 蓮 華 経 の五 字,末 法 の 初 に一 閻 浮 提 に弘 ま らせ た も うべ き瑞 相 に,日 蓮 先 が け した り。 わ と う共 二 陣 三 陣 つ づ い て,迦 葉 阿 南 に も勝 れ,天 台 伝 教 に も超 え よか し」[入 江1984:220‑1]
とい う説 の 「わ と う」 と い う言 葉 を 「法 華 経 の 核 心 で あ り,多 くの 仏 の 教 え の 中 心 で あ る妙 本 蓮 華 経 が 第 五 の五 百 年 に全 世 界 に広 ま って ゆ くべ き き ざ し と して 今,日 蓮 が さ き が け と な った。 弟 子 た ち よ(わ と う共)二 陣 三 陣 と 自 分 につ づ い て大 法 を広 め よ」[入 江1984:220‑1]と 解 し,同 会 ・修 錬 道 場 を 「わ と う道 場 」 と任 命 した 。 道 場 内 で 指 導 者 の 立 場 に あ っ た伊 地 知 は,涌 山先 生 と呼 ば れ て い た[野 村 資 料,2007:425]。
道 場 内 の宗 教 的 実 践 で あ る が,お ま い りの 時 間 を毎 朝9時 と定 め,法 華 題 目 を 唱 え て い た 。 唱 題 中 に,「 使 者 ・伊 地 知 」[入 江1996:215]が 大 聖 霊
(① 日 蓮 の 大 霊 。 ② 仏 教 的 に 言 う と,久 遠 実 成 の 本 仏 。 宇 宙 の 中 心 生 命 で, 根 本 霊 体[入 江1996:10]。 同 じ 大 聖 霊 で も ① ・② を 二 重 の 意 味 で 使 っ て い た(入 江1996:235))か ら は 御 霊 教 ・教 え を 受 け て,実 践 に う つ し て い た 。 入 江 の 言 葉 を 借 り る と,「 大 聖 霊 か ら 伊 地 知 の 脳 裏 に 御 意 志 を 感 得 さ せ,一 同 の 指 導 に 当 た らせ た 」[入 江1984:250]と い う の で あ る 。 こ の 大 聖 霊 信 仰
こ そ が,伊 地 知 が 石 原 か ら 学 び 創 唱 した 特 殊 な 宗 教 的 信 念 体 系 で あ っ た 。 当 初,大 聖 霊 は 聖 霊(み た ま)と 呼 ば れ て い た が,大 聖 霊(1946年6月4日 [入 江1996:234])へ 呼 称 が 変 更 さ れ る 。 そ の 他,同 会 メ ンバ ー は,道 場 で
『法 師 品 』 と 神 通 力 を 中 心 に 学 ぶ[入 江1984:227]。 以 後,道 場 内 の 実 践 は, 1946年7月27日 ま で 継 続 さ れ る 。
(3)日 本 内地 へ の 引 揚 と 「大 聖 霊 信 仰 」 の伝 播
「Cグ ル ー プ」 メ ンバ ー は,1946年7月27日(「 わ と う道 場 」 を解 散),日 本 に 向 け長 春 を 立 つ 。 石 原 が 西 山 へ 入 植 した10月12日,伊 地 知 は武 田 と入 江 に 付 き添 わ れ 福 岡 県 ・小 倉 病 院 に 入 院 す る。2日 後 の,10月14日 に 大 聖 霊 か ら伊 地 知 へ 「そ れ か ら今 後 は立 派 な 「わ と う村 」 をつ く るの だ。 これ は い ま は 涌 備(武 田邦 太 郎 の法 名:引 用 者 挿 入)に 一 切 を ま か せ る。 し っか りす る の だ 」 と い う御 霊 教 が あ った 。
伊 地 知 が 「わ と う村 」 建 設 地 に つ い て 尋 ね る と 「き っ と見 当 た る。 涌 備 に こ れ を 委 せ るの だ 。 き ま って い る の だ 。 日蓮 は 申 さ ぬ とて よ い。 使 者 よ安 静 に せ よ」 と大 聖 霊 が 答 え,村 つ く りの 構 想 は伊 地 知 か ら武 田 に 引 き 継 が れ, 10月18日 午 前2時,伊 地 知 は他 界 す る[入 江1996:241‑243]。
「わ と う会 」 の 指 導 者 ・伊 地 知 が 掲 げ た 「わ と う村 」 構 想 は,敗 戦 を 迎 え た 「社 会 の ア ノ ミー 状 態 」[堀1971:47]の 中 で 起 こ っ た 。 後 に,世 俗 的
「村 つ く り」 を 行 って い た 「西 山 村 つ く り」 に組 み 込 ま れ 中心 的 信 念 体 系 と な る。 以 上 「Cグ ル ー プ」 が 目指 した 「村 つ く り」 を 「仏 国 土 建 設 志 向 的 共 同体 運 動 」 モ デ ル と 呼 ぶ。
本 章 最 後 に,伊 地 知 に よ る石 原 莞爾 論 を掲 載 した い。 伊 地 知 は 「石 原 莞 爾 を大 聖 霊 の使 者 本 化 上 行 菩 薩 賢 王 が,永 久 平 和 実 現 の た め に,こ の 地 上 に 出 られ る準 備 の役 割 を も って 出 る人 と して 」[入 江1996:223]認 識 して い た。
又,1945年3月 の 石 原 宛 伊 地 知 書 簡 にお い て,石 原 の功 績 を伊 地 知 は 以 下 の よ う に ま と め讃 嘆 して い る。
御 老 兵 様 は 仏 の 使 者 本 化 上 行 菩 薩 賢 王 の 出現 を熱 烈 に 待 望 さ れ ま した。
そ して そ の 準 備 の た め に,本 門 戒 壇 建 立 の 絶 対 必 須 条 件 と,日 蓮 聖 人 が
『三 大 秘 法 抄 」 に 示 して お られ た 「王 法 の 妙 法 化 」 に つ い て,具 体 的 に 指 導 し 自 ら率 先 身 を も っ て実 践 され ま した。 それ は宗 教,政 治,経 済 等 の す べ て を 妙 法 化 し,大 聖 霊 の 御 心 に か な う よ うに す る た め,法 華 経, 御 遺 文 を も と に した,民 族 協 和,東 亜 連 盟 運 動 の展 開 で あ りま した 。 こ
う して 日蓮 聖 人 の遺 言 で あ った 永 久 平 和 実現 に 向 か って,人 類 の 進 む べ き道 を具 体 的 に 明示 され ま した[入 江1996:226]
た だ し,上 述 した 伊 地 知 の 石 原 論 は,後 々,偶 像 崇 拝 的 で,精 華 会 運 動 に と っ て マ イ ナ ス で あ る と 同 会 幹 部 の 小 泉 菊 枝 に 批 判 さ れ る こ と と な り[野 村 資 料 2007:486],争 い の 種 と な る 。
5武 田邦 太 郎 の 西 山入 植 と 「西 山 村 つ く り」 一 共 同 体 運 動 の 変 容
(1)武 田邦 太 郎 の 入 植 一 大 聖 霊 信 仰 の 伝 播 と浸 透
武 田邦 太 郎 は,「 西 山村 つ く り」 が 経 済 的 問 題 に 直 面 した 最 中,西 山 村 に 入 植 し,「Bグ ル ー プ 」 の 現 状 を 打 破 す るた め,「 西 山村 つ く り憲 法 」 制 定 に 協 力 した 。 同 憲 法 は1947年9月 に 制 定 され た(石 原 の 指導 に よ り武 田 が 石 原 の構 想 を文 章 に した もの で あ っ た)。 以 下 「西 山村 つ く り憲 法 」 で あ る。
一 我 等 は 日蓮 大 聖 人 の 信 仰 に よ り,日 本 お よ び世 界 復 興 の先 駆 と な る べ き理 想 農 村 部 落 を 建 設 す 。 部 落 建 設 が 物 心 両 面 に 於 て 略 々 完 成 の域 に達 した 時,部 落 名 を 改 め て わ と う村 と呼 称 す 。
二 我 等 は 等 し く 日蓮 大 聖 人 の 御 子 な り。 互 の人 格 を 心 よ り合 掌 し,寸 毫 も軽 悔 離 反 の心 な く,必 死 異 体 同心 の 聖 訓 に 副 ひ 奉 る覚 悟 な り。
三 部 落 の 政 治 は徹 底 して民 主 的 な らざ るべ か らず。 そ の重 要 事 項 は,
悉 く部 落 会 の 決 議 に よ っ て 行 う。 道 に か な い た る言 論 に は,よ し小 児 の 意 見 な りと い え ど も全 部 一 人 残 らず これ に服 す。
四.部 落 の 政 治 運 営 に意 見 あ る場 合 は,部 落 会 に お い て 公 明正 大 に こ れ を発 表 し,全 部 落 民 の 検 討 を 求 む 。 筍 も腹 蔵 し,若 は陰 口 を 利 き,或 は私 見 を 他 者 に強 制 せ ず 。
五.部 落 の 行 政 事 務 は部 落 長 これ を 担 当 す。 対 外 折 衝 並 に財 務 に 関 し, 各 一 名 の 補 佐 を置 く。 部 落 長 会 長 は毎 月 最 終 会 の部 落 会 に お い て 当月 度 の行 政 事 務 報 告 を 行 う。 部 落 会 長 お よび 補 佐 の職 務 は無 給 の 奉 仕 な
り。
六.部 落 は5つ 又 は6つ の 隣 組 を も って構 成 し,各 隣 組 は 概 ね5戸 を も っ て 構 成 す る。 明 日の 隣 組 を 今 日の 華 族 の ご と くな ら しむ る が 我 等 の理 想 な り。
七.農 業 は 金 銭 収 入 の 手 段 に あ らず,耕 地 は す べ て村 有 とす 。 戸 当 り3 反 歩 乃至5反 歩 の 耕 地 を 隣 組 単 位 に共 同 経 営 し,食 糧 の 自給 を 図 る。
但 し特 殊 の 研 究 や 嗜 好 に応 ず るた め各 個 適 当 に若 干 の 自家 圃 場 を もつ こ と を妨 げず 。 炊 事 ま た は 隣 組 単 位 に共 同 す 。 共 同 耕 地 の経 営 並 に炊 事 の経 費 は隣 組 の 共 同 負 担 な り。
八.現 金 収 入 は工 業 に よ る,工 業 は村 営 と し,農 工 一 体 の原 則 に 従 っ て 常 に農 業 経 営 と調 和 して行 う。 我 等 は 速 か に資 本 即 経 営 者 即 労 働 者 の 理 想 を実 現 す 。
九.自 然 に 即 した る簡 素 高 雅 の 農 村 生 活 を 創 造 す 。
十.教 育,衛 生,娯 楽 等 に 関 す る公 的支 出 は,各 個 の 負 担 能 力 に 応 じ部 落 会 に お いて 決 定 せ らるべ き 部 落 会 費 を も って 支 出 す 。
十 一.聖 訓 に反 した る言 動 あ りた る もの は,毎 週 の法 華 例 会 に 於 て 御 宝 前 に1悔 す 。 如 何 に忠 告 す る も心 よ り1悔 し得 ざ る も の は部 落 会 の決 議 に よ って,わ と う村 建 設 よ り離 脱 せ しむ 。[入 江1985:288‑9]
同憲 法 は,日 蓮 信 仰 を前 面 に押 し出 した 憲 法 で あ る。 第 一 条 中 の 「わ と う村 」 が 「西 山村 つ く り」 に お け る 同志 的 団 結 の 理 想 と して 文 字 化 され た 。 こ の
「わ と う村 」 を実 現 す る こ とが 同 志 間 で確 認 され た の で あ る。 要 す る に,「 西
山村 つ く り憲 法 」 が 制 定 され る と 「西 山村 つ く り」 の方 向 性 が 変 わ り,石 原 を 指 導 者 と す る精 華 会 の メ ンバ ー に 活 躍 の場 が 与 え られ た の で あ る。 た だ一 つ だ け注 意 しな けれ ば い け な い の は,精 華 会 幹 部 ・小 泉 菊 枝 は 当初,「 わ と
う会 」 の 指 導 者 ・伊 地 知 に対 して,一 抹 の不 安 を 抱 い て い た と い う こ とで あ る。 小 泉 は,彼 の 信仰 が偶 像 崇 拝 的 で,精 華 会 運 動 に と って マ イ ナ ス だ と思 っ て い た[野 村 資 料2007:486]。 小 泉 は 精 華 会 信 仰 に は な い 「大 聖 霊 信 仰 」 に 根 ざ した 「わ と う村 」 構 想 を 支 持 して い な か った の で あ ろ う。 た だ,伊 地 知 に 「日蓮 シ ャー マ ニ ズ ム 」 を 教 授 した 石 原 が,伊 地 知 を 高 く評 価 して い た こ
と,「Cグ ル ー プ」 出身 の 武 田 が小 泉 の 疑 問 を 払 拭 さ せ た こ と を 切 っ掛 け と しで),西 山 村 在 住 の 精 華 会 員 に 「わ と う村 」 構 想 の 意 義 を浸 透 さ せ え た と 思 わ れ る(上 述 の 憲 法 で 可 視 化)。 以 後 これ ま で の 精i華会 信 仰9)の 柱 「五 五 百 歳 二 重 の信 仰 」 と 「本 門 戒 壇 の確 立 」 に 「霊 な る父 日蓮 の 預 言 を 信 じる」
「大 聖 霊 信 仰 」 が加 わ り,新 た な 「西 山村 つ く り」 が 展 開 さ れ る。
「西 山農 場 」 で 上 記 の 憲 法 で 掲 げ られ た部 落 会 会 長 とい う ポ ス トに 就 い た の は,「A・Cグ ル ー プ」 の武 田 で あ っ た[入 江1985:291]。 武 田 の 西 山入 植 に つ いて 「Cグ ル ー プ 」 メ ンバ ー の 入 江 辰 雄 は,「(伊 地 知 か ら:引 用 者 挿 入)「 村 つ く り」 の 教 え を 受 け た 武 田 は,西 山 こ そ 「わ と う村 」 建 設 の 地 と 信 じ,翌 年(1947年:引 用 者 挿 入)5月 に武 田 らが 入 植 」[入 江1982:272]
した と論 じて い る。 しか し,入 江 の 記 述 で は 武 田 の入 植 日 を特 定 で きな い。
そ こで,野 村 資 料 を便 り に武 田 の 入 植 日 を特 定 した い。 武 田 の西 山 入 植 に 関 し,野 村 資 料 に は具 体 的 日時 の記 載 は な い が,1947年5月6日 付 石 原 宛 小 泉 菊 枝 書 簡 を見 る限 り,小 泉 が 「定 め し武 田先 生 も も う西 山 農 場 に お 帰 りの御 事 と存 じま す」[野 村 資 料2007:498]と 西 山 の 石 原 に宛 て て い る こ とか ら5 月6日 以 前 の こ とで あ る と推 測 で き る。
以 上,本 節 で 詳 細 を検 討 した武 田 の 西 山入 植 と部 落 会 会 長 就 任 が 「西 山農 場 」 運 営 の 出発 点 で あ っ た。 又,別 の観 点 か らい う と,「 仏 国土 」 を意 味 す る 「わ と う村 」 つ く りへ の 出発 点 で も あ った。 次 節,西 山 村 に お け る修 錬 道 場 「日輪 兵 舎 」 の 機 能 とそ の 用 途 に つ い て論 じた い。
(2)西 山 村 にお ける 修錬 道場 の機 能 一 精 華 会 信 仰 と 「大 聖 霊 信 仰 」 の定 着 一
本 節 で は 西 山 村 に お け る宗 教 的信 念 体 系 の 定 着 を 意 味 し,「 教 団 の地 方 拠 点 の 充 実 で あ る と と もに,宗 教 的 信 体 系 の地 域 社 会 で の制 度 化 ・恒 久 化 へ の 足 が か り」[磯 岡1999:41]と い う役 割 を果 た す で あ ろ う修 錬 道 場 「日輪 兵 舎 」 の 用 途 とそ の 機 能 に つ い て論 じ る。
先 ず,「 日輪 兵 舎 」(別 名:西 山 道 場,日 輪 講 堂)の 用 途 と して,当 時 「B グ ル ー プ」 に属 して い た 仲 條 立 一 は,「 私 ど も が西 山農 場 で 汗 を 流 して い た 頃 は,東 亜 連 盟 の 同志 を は じめ と して 全 国有 志 の 修 錬 道 場 で もあ り,ま た戦 後 の 混 乱 の最 中 に あ って,娯 楽 や コ ミュニ ケ ー シ ョ ンに飢 え て い た 近 郷 の青 年 男 女 が,昼 の 農 作 業 を 終 え て か ら5キ ロ もあ る道 の りを 通 い,歌 や 踊 りの 練 習 を して部 落 毎 の お祭 りの 演 出 を 熱 心 に工 夫 した場 所 で も あ った 。 ま た石 原 莞 爾 先 生 を尋 ね て こ られ た 方 々 が 宿 泊 さ れ た り,酵 素 肥 料 の実 習 も こ こ で 行 わ れ た 」[仲 條1996:231]と 「日輪 兵 舎 」 が 多 目的 に使 用 さ れ て い た と 回 想 して い る。 特 に全 国有 志 の 修 錬 道 場 と して の 機 能 が重 要 で,新 しい 精 華 会 信 仰(旧 精 華 会 信 仰+「 大 聖 霊 信 仰 」)の 西 山 村 定 着 に 貢献 した と考 え られ る。
次 に 「日輪 兵 舎 」 の 使 用 頻 度 を計 上 した い。 「A・Cグ ル ー プ 」 に 属 した 駒 瀬 秀 子 の 「西 山の 聖 日」 と い う記 事 を 見 て み た い。 そ の 中で,駒 瀬 は,
東 北 は3月 と言 い ま して も,風 雪 あ ら く寒 さ嚴 し う ご ざ い ま す 。 日蓮 大 聖 人 を お父 様 と仰 ぎ,新 ら しき 村 つ く り建 設 に全 力 を 注 い で お り ます 同 志 に と りま して,最 も嬉 し く最 も樂 しい事 は,日 蓮 大 聖 人 の御 聖 日を お 迎 し,心 よ りお祝 い す る事 で ご ざ い ます 。 月 に一 度 の 月 例 會 は,な る べ く こ の 御 聖 日 を お 選 び し て い た し ま す … … ・1年 を 通 じ ま し て 御 聖 日 の き ま っ て い る 月 例 會 は 左 記 の 如 くで す 。
2月16日 4月28日 5月12日 7月8日 7月16日 9月12日
宗祖 降誕 會 立正會 伊豆法難 會 顕正會 宣正會 龍 口法難 會
10月13日 鶴 林 會 11月11日 小 松 原 法 難 會
O
この 外 週 に1度 の例 會 を もち,月 例 會 と同 じよ うな順 序 で,午 後7時 半 か ら始 め られ,8時5分 前,宗 歌 お 供 え,正8時 勤 行 の 後,如 説 修 行 讃 歌 の 順 序 で 終 り,1週 間 の勉 強,西 山精 華 會 の協 議 等 それ ぞ れ 話 し合 い
ます[駒 瀬1949:34,37]
と1949年3月 当 時 「日輪 兵 舎 」 で 行 わ れ た会 合 の 詳 細 に つ いて 記 して い る。
聖 日 と週1度 の 会 合 とな る と年 に最 低56回 の 会 合 が 「日輪 兵 舎 」 で 行 わ れ て い た こ とに な る 。 以 上,「 日輪 兵 舎 」 は西 山 村 に於 け る聖 を 司 る空 間 と して 機 能 して い た と推 測 す る。 経 済 的 に は 不 発 で あ っ た西 山村 で あ った が,精 華 会 の メ ンバ ー を 中心 と した 宗 教 活 動 が 定 期 的 に行 われ て お り,同 会 の 信 念 体 系 に依 る宗 教 的 統 合 が 行 わ れ て い た 。 つ ま り,「 日輪 兵 舎 」 は 新 しい精 華 会 信 仰(旧 精 華 会 信 仰+「 大 聖 霊 信 仰 」)に 根 ざ した 宗 教 的 な 「村 つ くり」 に お け る同 志 的 団結 を 生 む と い う機 能 を 果 して い た の で あ る。
た だ し,指 導 者 ・石 原 の 死(1949年8月15日)を 境 と し状 況 は一 変 す る。
「西 山村 つ く り」 関 係 者 が 徐 々 に西 山 を 後 に し,最 終 的 に は 「西 山村 つ くり」
は水 泡 に帰 す。 又,村 つ く りの推 進 団 体 で あ った 精 華 会 も解 散 す るの で あ る。
従 って,本 節 で 論 じた 「日輪 兵 舎 」 は 西 山村 にお け る新 し い精 華 会 信 仰 の恒 久化 ・制 度 化 に 失 敗 した と言 わ ざ るを え な い。 しか しな が ら,入 江 が 「西 山 村 つ く り憲 法 の 精 神 は堅 持 さ れ」[入 江1985:306]た と して い る よ う に,武 田 の 努 力 に よ り共 同体 運 動 は形 を 変 え て 残 って い った と考 え られ る。
6む す び に か え て
本 稿 に お い て,1939年 か ら1949年 に か け て 石 原 莞 爾 と そ の 関 係 者 が 中 心 と な っ て 展 開 し た 「村 つ く り 」 と い う 共 同 体 運 動 の 実 態 と そ の 変 容 過 程 を 追 っ た 。 特 に 晩 年,石 原 が 力 を 注 い だ 「西 山 村 つ く り」 へ と最 終 的 に 収 敏 さ れ た,
「村 つ く り」 に つ い て 以 下 の よ う に グ ル ー ピ ン グ を 行 っ た 。 又,グ ル ー ピ ン
グ と並 行 して,各 グ ル ー プの 特 徴 を 反 映 させ た 「共 同体 運 動 」 モ デ ル を提 示 した 。
① 「Aグ ル ー プ」=脱 帝 国 主 義 的 「ギ ブ ア ン ドギ ブ志 向 的 共 同 体 運 動 」 モ デ ル で,鐘 紡 ・津 田 信 吾,池 本 喜 美 夫,武 田邦 太 郎,近 藤 和 子,駒 瀬 秀 子 が 関 与 し,1944年 に農 務 課 収 支 が 黒 字 に転 じ,比 較 的 良 好 な 「村 つ く
り」 が 行 わ れ て い た と推 測 す る。
② 「Bグ ル ー プ」=世 俗 的 「農 工 一 体 志 向 的 共 同 体 運 動 」 モ デ ル で,石 原 の 北 満 移 駐 計 画 に端 を 発 し,東 亜 連 盟 協 会 の 庄 内支 部 を 中心 に 展 開 さ れ た 。 同支 部 の 「村 つ く り」 は,戦 後,「 西 山村 つ く り」 へ と変 容 した 。
③ 「Cグ ル ー プ」,「A・Cグ ル ー プ」=「 仏 国土 建 設 志 向 的 共 同体 運 動 」 モ デ ル。
最 後 に,西 山 村 で 行 わ れ た 共 同体 運 動 の変 容 を, (a)西 山村 へ の 精 華 会 信 仰 の伝 播 ・定 着 過 程 の 研 究
(b)「 大 聖 霊 信 仰 」 の 受 容 が,精 華 会 の宗 教 実 践 に どの よ うな 影 響 を 与 え た の か を論 じた研 究
とい う,序 論 で 提 示 した2つ の分 析 枠 組 み を通 して 整 理 した い。
1946年 当 時,西 山 開拓 が は じま った 段 階 で,歌 川 等,精 華 会 員 が 「西 山村 つ く り」 に従 事 し,西 山 村 に精 華 会 信 仰 が持 ち込 まれ た。 そ の後,精 華 会 の 指導 的 立 場 に あ っ た石 原 が 同 地 に 入 植 した こ と に よ り,同 地 に精 華 会 信 仰 が 定 着 した 。 石 原 入 植 後 に 行 わ れ た農 村 工 業 事 業 が 失 敗 した 後,「Cグ ル ー プ」
の 武 田 が 同 地 へ 入 植 し,「 大 聖 霊 信 仰 」 が 伝 播 さ れ た 結 果,宗 教 的 混 乱 を 招 く こ と に な った 。 しか しな が ら,石 原 と伊 地 知 の 信 頼 関係,及 び,武 田が 小 泉 の 疑 問 を説 い た こ とで 宗 教 的混 乱 を 回 避 す る こ と が で き,新 しい 精 華 会 信 仰(旧 精 華 会 信 仰+「 大 聖 霊 信 仰 」)が 構 築 さ れ た 。 同 信 仰 は,「 西 山 村 つ く
り憲 法 」 と修 錬 道 場 「日輪 兵 舎 」 の 機 能 を通 して 同地 に一 時 的 に定 着 した。
最 終 的 に,「 西 山村 つ く り」 は,② 「Bグ ル ー プ」 の 世 俗 的 「農 工 一 体 志 向 的共 同 体 運 動 」 モ デ ル か ら③ 「Cグ ル ー プ」 の 「仏 国土 建 設 志 向 的 共 同体 運 動 」 モ デル へ と変 容 した と い え よ う。
歴 史 学 的 考 察 を 中心 に 論 じ られ て きた 従 来 の 石 原 莞 爾 研 究 に,宗 教 社 会 学 的考 察 を加 え た 本 稿 が,新 しい研 究 視 座 を提 供 で き た とす れ ば幸 い で あ る。