1 清泉女子大学人文科学研究所紀要 第41号 2020年3月
草の字体
今 野 真 二
要旨 漢字には﹁楷書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂の三つの﹁書体﹂がある︒日本においては︑﹁楷書体﹂をくずしたものが﹁行書体﹂で︑﹁行書体﹂をくずしたものが﹁草書体﹂ととらえることが多い︒しかし﹁くずす﹂とい
うことは明確に定義されていない︒本稿では︑漢字の﹁草書体﹂をさらにくずしたものが﹁平仮名﹂であると
位置付けた︒そして︑﹁楷書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂﹁平仮名﹂を︑
3・ 2・ 1・ 体﹂を説明することを提案した︒これまでの研究においては︑﹁書体﹂について説明することばがなかったので︑ 0と数値化して︑これらの﹁書
この提案は有効なものと考える︒
キーワード楷書体・草書体・平仮名
はじめに
一字の重複もない一千字の四字ずつを一句とし︑最初の二句と最後の二句を除いて︑一句おきに脚韻をふむ﹁隔
句韻﹂の押韻方式で全体を構成する﹁千字文﹂と呼ばれる韻文作品がある︒韻文の作者は梁の周興嗣︵四七〇?〜
2
五二一︶で︑唐の李綽の﹃尚書故実﹄に︑梁の武帝が王子たちに書を学ばせるために︑﹁王羲之の書蹟の中から重
複しない文字一千字﹂︵小川環樹・木田章義注解﹃千字文﹄﹁解説﹂三八六頁︑一九九七年︑岩波文庫︶を選ばせ︑
周興嗣に韻文に整えさせたという記事があることが指摘されている︒王羲之は﹁なだらかな草書﹂︵同前︑三九八頁︶
の名手として知られていたことからすれば︑﹁草書の手本﹂︵同前︑三九九頁︶という位置付けであった可能性があ
ろう︒ ﹃東大寺献物帳﹄の﹁書法廿巻﹂の﹁同羲之書巻第五十一﹂には﹁真草千字文二百三行﹂と注されているが︑こ
の行数は︑﹁小川本千字文﹂と呼ばれ︑王羲之七世の孫︑智永による書写と伝えられている﹁智永千字文﹂の行数
と一致する︒現存する﹁小川本千字文﹂が﹃東大寺献物帳﹄に記録されている﹁真草千字文﹂であるとすれば︑﹁書
き手﹂は智永︵生没年未詳︑陳から隋?︶で︑それがかつて︑聖武天皇︵七〇一〜七五六︶︑光明皇后︵七〇一〜
七六〇︶の遺愛の品であったことになる︒
本稿では︑中国語母語話者によって中国語を書くための文字として使用された﹁漢字﹂︵汉字︶と︑日本語母語
話者によって中国語あるいは日本語を書くための文字として使用された﹁漢字﹂とを少なくとも原理的には区別し
て論じたい︒例えば︑Zev Handel ﹃Sinography
BRILL, 2019THE BORROWING AND ADAPTATION ﹄ ︵ ︶の副題は﹁
OF THE CHINESE SCRIPT﹂で︑︵中国語を書くための文字の︶﹁借用﹂や︵中国語を書くための文字を︶日本語に
﹁適応﹂させるという観点は重要であろう︒
漢字のみで記されたテキスト︑あるいはテキストに記された﹁漢字﹂から﹁書き手﹂の母語を判断することは当
然ながらできない︒﹁書き手﹂についての﹁情報﹂がテキストに識語のようなかたちで記されていれば︑判断する
ことができるが︑そうした場合は必ずしも多くないことが予想できる︒それでもなお︑稿者が区別したかたちでの
行論を試みるのは︑これまで︑そうしたことが曖昧なまま言説が展開してきており︑そのことによって漢字をめぐ
3 草の字体
る分析︑言説が曖昧になっていると考えるためである︒﹁東アジア﹂という空間を設定し︑﹁漢字﹂について論じる︑
あるいは﹁漢字文化圏﹂という概念に基づいて﹁漢字﹂について論じる意義に異を唱えるものではないが︑それも︑
個々の言語空間ごとに︑当該言語と﹁漢字﹂とのかかわりが具体的に分析︑考察できた上でのことではないか︒
本稿では︑日本語母語話者によって使われた漢字︑あるいは日本語を書くために使われた漢字を観察対象として︑
﹁草︵そう︶の字体﹂ということについて︑幾つかの提言を試みたい︒
一︑書体の位置付け
中国においては︑﹁篆書﹂から﹁隷書﹂がうまれ︑その﹁隷書﹂を簡捷化した﹁草隷﹂がうまれ︑﹁草隷﹂をさら
に省略化した﹁草書﹂がうまれたと考えられている︒そして︑﹁隷書から草書が発生する過程において︑いわゆる
行楷書に相当する書体が派生していたと考えられ﹂︵﹃書の至宝 日本と中国﹄︵二〇〇六年︑東京国立博物館・朝
日新聞社︑二十六頁︶︶ており︑﹁後漢の中期頃には行書の祖形ができあがり︑後漢の後期になると︑行書が実用書
として用いられるようにな﹂り︑﹁楷書の表現が完成されるのは︑唐時代を待たねばならないが︑楷書の萌芽は少
なくとも三世紀に遡ることができる﹂︵同前︶ことが指摘されている︒つまり︑派生関係にはあるが︑﹁草書﹂﹁行書﹂
﹁楷書﹂はもともとは別の﹁書体﹂であった︒しかも﹁草書﹂の成立が﹁楷書﹂よりもはやい︒
王羲之︵三〇三?〜三六一?︶についていえば︑﹁史書は八分・楷・行・草など各体をよくし︑特に楷書に優れ
ていたと伝える︒王羲之の活躍した東晋の四世紀といえば︑篆書・隷書の表現はすでに完成され︑通行書体として
の草書や行書が広く行なわれ︑前世紀に出現し始めた楷書はその表現を少しずつ変えようとしていた時代であった﹂
︵同前︑二十七頁︶ことが指摘されている︒とすれば︑王羲之の時点︑すなわち四世紀の時点で︑﹁草書﹂﹁行書﹂﹁楷
書﹂はいわば出揃っていたことになる︒
4
一つのテキストを文字化するにあたって︑顔真卿﹁湖州帖巻﹂のように﹁行書体﹂を選択して︑すべて﹁行書体﹂
で文字化する︒あるいは黄庭堅﹁諸上座帖巻﹂のように﹁草書体﹂を選択して︑すべてを﹁草書体﹂で文字化する
ということはもちろんある︒しかしまた︑︵ここでは楷行草に話題を絞るが︶楷行草三書体が﹁出揃って﹂いれば︑
これら三書体を︑あるいは二書体を﹁併用﹂あるいは﹁混用﹂することは原理的には可能であることになる︒先に
述べた智永﹁真草千字文﹂は﹁真﹂すなわち﹁楷書体﹂と﹁草﹂すなわち﹁草書体﹂で文字化した﹁千字文﹂を併
置︵併用︶したもので︑それは﹁わざわざ﹂そうしたとみるべきであるが︑そうしたことが可能であるし︑実際に
そうした例が確認できる︒
日本においては︑﹃白氏文集﹄を楷行草の各書体で文字化した︑小野道風︵八九四〜九六六︶﹁三体白氏詩巻﹂が
ある︒これも﹁わざわざ﹂とみるべきであるが︑﹁併用﹂の例といえよう︒さらに小野道風﹁玉泉帖﹂は﹃白氏文集﹄
巻第六十四から詩を選び︑﹁行書体﹂と﹁草書体﹂とを織り交ぜて文字化したものである︒巻末に添えられた小野
道風の識語には﹁以是不可為褒貶縁非例体耳﹂とあり︑つねの書法ではないことを述べていると思われる︒具体的
にどのようなことを﹁非例﹂と述べているかであるが︑やはり﹁行書体﹂と﹁草書体﹂とを混ぜ用いたこと︑すな
わち﹁混用﹂をそのように呼んでいるとみるのがもっとも自然であろう︒このことを小野道風を離れて一般化でき
るかどうかについては︑慎重に判断する必要があるが︑仮に一般化した述べ方をするならば︑九世紀末から十世紀
初めにかけての時点では︑漢字のみを使うテキストにおいて︑という﹁限定﹂を附しておきたいが︑﹁書体﹂を﹁併
用﹂することはあっても﹁混用﹂することはなかったことになる︒しかし︑その一方で︑小野道風﹁常楽里官許詩﹂
は﹁褚紙とみられる料紙二枚を継ぎ︑行書と草書を自在に駆使した筆致をみせ︑緩急や太細の変化にも富み︑道風
の能書としての力量を遺憾なく発揮している﹂︵﹃書の至宝﹄三三二頁︶とみなされている︒また﹁絹地切﹂︵山形・
本間美術館蔵︶において﹁同じ文字にあってはきわめて意図的に濃淡やくずし方を変えていることが十一字すべて
5 草の字体
で指摘でき︑同種のくずしを繰り返すことから生じる鑑賞上の単調さを回避するための工夫とみられる﹂︵同前︑
三三三頁︶との指摘もある︒小野道風﹁屛風土代﹂においては︑道風自身による文字の︵おそらくは︶かたちに関
わる推敲のあとがみられることが知られており︑何らかの意味合いで﹁フォーマリティ﹂が意識された場合に︑ま
ずは﹁文字のかたち﹂がそうした意識の対象であったことが窺われる︒
智永の﹁真草千字文﹂が聖武天皇︑光明皇后遺愛の品であったとすれば︑当該時期において﹁真草千字文﹂を披
見した人々は︑﹁楷書﹂と﹁草書﹂とを併置したテキストを﹁みた﹂ことになる︒第七十一回正倉院展の図録︵二〇一九
年︑奈良国立博物館︶の一〇四頁に﹁図
4﹂ ﹁ 図 5﹂と名づけられた図版が掲げられている︒これらは続修正倉院
古文書別集第四十八巻に収められているもので︑﹁図
4﹂には六文字ずつ三行の楷書の文字と︑その左側には四行
にわたって草書の文字が墨書されている︒草書部分は智永の真草千字文︑王羲之の十七帖と重なりがあることが指
摘されている︒草書部分の三行目は︑﹁得示帖﹂末尾の﹁王羲之頓首﹂を思わせるし︑四行目に大きく書かれた﹁也﹂
は上野本﹁十七帖﹂最末行の行頭に大きく書かれた﹁也﹂を思わせる︒
﹁図
5﹂は右側は﹁﹃千字文﹄の冒頭二行などを墨書した短い紙片︑左は界線の引かれた料紙に﹃古文尚書﹄周書
第一を途中まで墨書したもので﹂﹁余白には草書の字体を楷書と対照した一覧が書かれ﹂︵図録一〇三頁︶ている︒
楷書としては﹁戌・念・攝・通・氣・令・法・宣・徳・獲・手/足・能・覺・舎・後・皆・應・倶・薪・遼/起・動・
所・實・然・顕・此・微・失・喩・親・命・/憶・虚・別・量・軆・常・重・其/速﹂が書かれていると思われる
が︑不分明な字もある︒三十一字は﹁千字文﹂に使われている字である︒これらが﹁真草千字文﹂をみて記された
かどうか︑もちろんわからないけれども︑﹁草書﹂と﹁楷書﹂を対応させるという﹁行為﹂が行なわれていたこと
には注目しておきたい︒
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二︑草書体と草化
佐藤栄作は﹁草の字体へ﹂︵﹃アクセント史資料研究会論集Ⅳ﹄︑二〇一〇年︶において︑次のように述べている︒
ひらがなは︑漢字の草書体をさらに簡略化した一種の﹁極草﹂ともいえるものである︒用法の上で漢字と袂を分
かっても︑﹁かたち﹂の上では草書に含まれるとできる︒ならば︑ひらがなの字体エレメントを記述することは︑
草書の字体と字体エレメントを明らかにすることそのものであったといえる︒たとえば︑江戸の寺子屋で子どもた
ちが学ぶことはまず手習いであり︑それは︑仮名に続いて﹁真︵楷書体︶﹂ではなく﹁草︵行草書体︶﹂の漢字を書
くことであったとされる︒つまり︑庶民が関わる漢字は︑第一義的には﹁真﹂ではなく﹁草︵行草書体︶﹂であった︒
現代人は︑楷書︵教科書体︶を学び︑明朝体・ゴシック体を読む生活であるから︑行書が精一杯で︑草書はお手上
げである︒様々な書体を楷書の字体の実現形の一つとして捕えようとするから︑草書が極めて難しいと感じるのは
当然である︒しかし︑﹁極草﹂のひらがなと草書の漢字を身に付け︑カタカナは知っていても︑楷書の漢字はよく
わからないという人々にとっては︑草書と楷書との﹁難しさ﹂は逆転する︒
まず︑平仮名を﹁漢字の草書体をさらに簡略化した一種の﹁極草﹂﹂とみる﹁みかた﹂に注目したい︒﹁漢字全体
の形を変えることによって平仮名が成立した﹂という﹁みかた﹂はひろく認められていると思われる︒右で﹁形を
変える﹂と表現したことが﹁漢字の草書体をさらに簡略化した﹂ということであるはずで︑それによって︑﹁平仮名﹂
は漢字とは視覚的に異なる別の文字体系となることができた︒成った﹁平仮名﹂側から表現すれば︑﹁平仮名は漢
字の草書体をさらに簡略化することによって漢字の草書体ではなくなった﹂ということである︒本稿では︑まず︑
7
草の字体 ﹁平仮名﹂を﹁極草﹂とみなすことにする︒そうみなすことによって︑漢字の﹁草書体﹂と﹁平仮名﹂との間に積
極的に連続性を﹁みる﹂ことになる︒また佐藤栄作︵二〇一〇︶では﹁漢字の草書体をさらに簡略化﹂したと表現
しているが︑﹁草書体﹂が﹁極草﹂に至るというプロセスを﹁簡略化﹂という表現ではなく︑﹁草化﹂という用語を
使って表現することを提言したい︒﹁宇﹂から構成要素である﹁于﹂を省き︑﹁ウ﹂のみにすることも﹁簡略化﹂と
表現できるが︑これを﹁省略化﹂という用語を使って表現し︑﹁平仮名は草書体の漢字を草化したもの﹂﹁片仮名は
楷書体の漢字を省略化したもの﹂というように︑はっきりと分けて表現するための提言である︒
﹁草化﹂の﹁内実﹂を説明するならば︑﹁縦画+横画﹂を基調とした書き方ではなく︑そこに﹁連続的・回転的な 動き﹂が加わったということになろう︵
1︒従来︑﹁楷書体﹂を崩して﹁行書体﹂に︑﹁行書体﹂を崩して﹁草書体﹂︶
に︑という表現がひろく行なわれてきているが︑﹁崩す﹂の﹁内実﹂が明瞭に説明されることはなかった︒﹁崩す﹂
を︑一つの文字の内部でいえば︑﹁縦画+横画﹂を基調とした﹁楷書体﹂に︑画と画との関係でいえば︑﹁連続的﹂
で︑画の形状としていえば︑﹁回転的︵曲線的︶﹂な形状を持ち込むことが﹁崩す﹂であるといえよう︒文字を書く
スピードということでいえば︑それは﹁速い﹂ということであろうし︑文字の形状全体からすれば︑﹁簡略化﹂と
いうことになる︒日常的に使う文字はある程度の速度をもって書く必要がある︒となれば︑漢字は﹁楷書体﹂では
なく︑︵﹁行書体﹂︶﹁草書体﹂が使われていたことは当然といえよう︒そのことからすれば︑江戸期の寺子屋で︑﹁平
仮名﹂についで﹁草書体漢字﹂を学んでいたことは理にかなったことといえよう︒
先に述べたように︑聖武天皇︑光明皇后が智永﹁真草千字文﹂を所持していたのだとすれば︑八世紀の日本列島
上に﹁楷書体﹂と﹁草書体﹂とが並べられたテキストがあったことになる︒当該時期において﹁行書体﹂をどのよ
うに位置付ければよいかについては︑不分明であるが︑﹁行書体﹂を﹁楷書体﹂と﹁草書体﹂の中間に位置付けて
よいとすれば︑﹁両極﹂はみえていたことになる︒本稿では︑日本語の表記ということがらを︑現存するテキスト
8
に十分に沿って記述することを考えたい
︵
2︶
︒そして
︑八世紀から二十一世紀までの日本語にあてはまるような
﹁writing system﹂の記述を視野に入れながら︑考えを進めていきたい︒
三︑楷書体・行書体・草書体
汎用性のあるモデルにするために︑﹁楷書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂をどのように関連づけるかについて考えてみ
たい︒先に平仮名を﹁極草﹂とみなす﹁みかた﹂について述べた︒次のように便宜的に数値化してみたい︒
平仮名=極草
0 草書体漢字
1 行書体漢字
2 楷書体漢字
3 楷書体漢字側から説明すれば︑楷書体漢字は﹁縦画+横画﹂を基調として成っているとみる︒文字内部には基本
的に画と画との連続がなく︑回転的な形状もない︒﹁草化﹂は﹁連続性・回転性﹂によって実現すると考え︑﹁草化﹂
によって﹁楷書体﹂の特徴が減じるとみる︒
1減じると別書体である﹁行書体﹂になり︑その﹁行書体﹂から
1減
じると﹁草書体﹂になる︒﹁極草﹂とみなした平仮名がほとんど一筆で書けることからすれば︑﹁草書体﹂はその﹁直
前﹂のかたち︑すなわち二筆︑一筆で書けるかたちであることになる︒
1減じることによって︑異なる書体であることが視覚的に認められるようになる︒したがって︑
0・ 5であると︑
どちらとも判断しにくいことになる︒
2・ 75であれば︑楷書体寄りの行書=行書味を帯びた楷書︑
2・ 25ならば行
9 草の字体
書体寄りの楷書=楷書味を帯びた行書ということになって︑記述がわかりやすくなる︒
江戸期などに手書された文書をみると︑﹁行書体漢字
2+平仮名
0﹂が使われている︒前者と後者との﹁差﹂は 2であるが︑この
2︵以上︶が無理のない文字選択と設定する︒﹁無理のない﹂はもちろん﹁自然﹂ということで
あるが︑視覚においても︑形状的な融和度においても︑ということである︒﹁楷書体漢字
3+平仮名
0﹂は﹁差﹂
が
3であるので︑無理はないが︑融和度は﹁行書体漢字+平仮名﹂よりも﹁おちる﹂ともいえよう︒数字がちかい
ほど融和度は高まる︒
例えば︑﹁秋萩帖﹂で使われている文字は︑機能としてみれば﹁仮名﹂であるが︑文字形状は草書体漢字にちかい︒
それゆえ︑漢字から仮名に移行する中間段階とみなされ︑﹁草仮名﹂と名づけられたのであろう︒これはたぶんに
視覚的印象に基づく判断であったが︑平仮名を少し漢字側に寄せた︑つまり﹁平仮名
0﹂を故意に漢字側に
0・ 5
寄せたとみれば︑説明がわかりやすい︒漢字を
0・ 5﹁草化﹂する︑あるいは平仮名を
0・ 5﹁非草化﹂する︒そ ういうことができた時期があった︑とみたい︵
3︒︶
四︑﹃万葉集﹄の場合
平安時代に書写された﹃万葉集﹄テキスト︑﹁桂本﹂﹁藍紙本﹂﹁金沢本﹂﹁元暦校本﹂﹁天治本﹂を﹁五大万葉集﹂
と呼ぶことがある︒これらのうち︑﹁桂本﹂﹁藍紙本﹂﹁金沢本﹂を具体的に採りあげ︑右の数値化がどの程度有効
であるかを検証してみたい︒﹁桂本﹂として﹃日本名筆選﹄︵一九九四年︑二玄社︶︑﹁藍紙本﹂として﹃日本名筆選﹄
︵一九九四年︑二玄社︶︑﹁金沢本﹂として﹃日本名筆選﹄︵二〇〇四年︑二玄社︶を使用する︒図として掲げた画像
は︑すべてこれらから引用させていただいた︒
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四・ 一
桂本
五四三番歌は笠朝臣金村の長歌であるが︑長歌は十七字︑十六字︑十六字︑十五字︑十五字︑十六字︑十五字︑
十五字︑十五字で九行に記されている︒各行の文字数が揃ってないことは︑厳密に揃えようとしていないことをあ
らわしていると考えるが︑第一行が︑写経などでの一行十七字と同じであることは興味深い︒五六七番歌の左注﹁以
前天平二年庚午夏六月帥大伴卿怱生/瘡脚疾苦枕席因此馳驛上奏望請庶〜﹂もやはり第一行が十七字で記されてい
るので︑十七字は偶然とはいえないと考える︒
また︑字と字とをつなげて書いている箇所はない︒﹁之﹂は草書では︵縦長の︶二画になるが︑三画または二画
でも縦長の形状にはなっておらず︑行書体漢字で書かれているとみてよい︒
五四三番歌には平仮名書きが対置されず︑そのまま五四四番歌の反歌に続く︒反歌のうしろには︑平仮名書きが
置かれている︒平仮名書き﹁おくれゐてこひつゝあらすはきのくに/のいもせのやまにあらましものを﹂は︑﹁お
くれゐて﹂﹁こひつゝ﹂﹁あらすは﹂﹁きのくに﹂﹁のいもせの﹂﹁やまに﹂﹁あらまし﹂﹁ものを﹂のように︑連綿を
多く使って書かれている︒行書体漢字
2と平仮名
0の組み合わせは︑ごく一般的な組み合わせとむしろみておくべ
きであろう︒注目すべきは︑非連綿で書かれた漢字と連綿を多く
交えた平仮名との﹁対比﹂で︑そこに︵おそらくは︑といってお
くが︶書き手の工夫があったとみたい︒語の切れ目とはおよそ一
致しない三字︑四字続く連綿は︑平仮名のつながりを文字よりも
図像にちかづけているようにさえみえる︒五八一番歌︵いきてあ
れは〜︶︑五八二番歌︵ますらをも〜︶はともに平仮名で二行に
記されているが︑二行は重なるように記されており︑﹁可読性﹂
図1
11 草の字体
という観点からすれば︑必ずしも読みやすくはない︵図
1︶︒また七四九番歌﹁ゆめにたにみえはこそあらめかく
はか/りみえすはあるはこひてしねとか﹂の﹁り﹂は二行目行頭に︑一行目の﹁ゆめにた﹂四字に相当するぐらい
のスペースに大きく書かれており︑﹁みえすは﹂の﹁す﹂は﹁え﹂に重なるように記されているなど︑文字の大き
さも揃っていない︒
平仮名書きの歌は︑場合によっては図像であり︑場合によっては︑料紙に描かれた絵との一体化をはかっている
可能性も考えておく必要があるいはあるか︒
四・ 二
藍紙本
行書体の漢字を基調として︑それに草書体が混じる︒例えば︑一六六五番歌﹁為妹吾玉拾奥邊有玉縁将来奥津白
浪﹂の﹁将﹂字は行書体と認めてよいと思われるが︑続く一六六六番歌﹁朝霧尓沽尓之衣不干而一哉君之山道将越﹂
の﹁将﹂字は旁りの部分が一筆で書かれており︑草書体と認めてよいと思われる︒基本的に︑漢字と漢字とは続け
書きされていない︒一六七〇番歌﹁朝開滂出而我者湯羅前釣為海人乎見/反将来﹂では︑﹁出﹂﹁而﹂﹁将﹂は草書
体で書かれており︑歌によっては︑草書体をやや多く使うことがある︒一六七一番歌の第五句﹁敢而滂動﹂︵あえ
てこぐなり︶の﹁而﹂もほぼ一筆で書かれており︑﹁而﹂は草書体で書かれることが多いか︒一六九一番歌の﹁三
更刺而﹂︵よなかをさして︶の﹁而﹂も草書体で書かれている︒
一六八三番歌﹁妹手取而引与治䔎手折吾刺花可開鴨﹂は一行で書かれ︑左隣に﹁いもかてをとりてひきよちうち
たをり/わかさすはなはひらくへきかも﹂と平仮名書きされた歌が並べられている︒﹁ひきよち﹂にあたる箇所は﹁引
与治﹂であるが︑漢字の﹁与﹂は二画目がまっすぐには書かれておらず︑﹁与﹂の二画目の直角にちかく右に曲が
る部分があるが︑平仮名﹁よ﹂の二画目はまっすぐで︑平仮名の字源は﹁与﹂であるが︑差がはっきりとあること
12
がわかる︵図
2︶ ︒ 平仮名は二字から三字が続け書きされている︒
漢字と平仮名との﹁融和﹂をはかって書かれているようには
みえない︒
四・ 三
金沢本
行書体の漢字を基調として︑それに草書体が混じる︒例えば︑八十七番歌﹁在管裳君乎者将待打靡吾黒髪尓霜/
乃置萬代日﹂の﹁将待﹂二字は草書体で書かれている︒続く八十八番歌の﹁何時邊乃方二﹂︵いづへのかたに︶﹁我
戀将息﹂︵わがこひやまむ︶の﹁邊﹂︑﹁将﹂は草書体で書かれている︒﹁将﹂字は藍紙本においても草書体で書かれ
ることがあった︒藍紙本と金沢本とは書き手が異なっているにもかかわらず︑ともに﹁将﹂字が草書体で書かれて
いる例があることには注目しておきたい︒八十九番歌の﹁君乎者将待﹂の﹁将﹂字︑九十番歌の﹁迎乎将往﹂︵む
かへをゆかむ︶の﹁将往﹂は草書体で書かれている︒あるいはまた九十四番歌では﹁将見円山乃﹂︵みむまとやまの︶
の﹁将﹂が草書体で書かれ︑﹁将見﹂は続け書きされている︒﹁将見﹂が﹁ミム﹂に対応することが意識されており︑
ひとまとまりのものとして書くという意識が自然にはたらいたか︒それは例えば︑九十五番歌の詞書き﹁内大臣藤
原卿娶采女安見児時作歌一首﹂の﹁内大臣﹂において︑﹁大臣﹂は続け書きされていることと通う︒
一〇三番歌の第四句﹁古尒之郷尒﹂︵ふりにしさとに︶の﹁尒之﹂ははっきりと続け書きされている︒金沢本に
は縦にのびた一画で書ける形状の﹁之﹂が散見する︒一二〇番歌の平仮名は﹁わきもこにこひつゝあらすはあきは
きの/さきてちりぬるはなにあらましを﹂で︑その左隣に一二一番歌﹁暮去者塩満来奈武住吉乃浅鹿乃浦尒/玉藻
苅手名﹂︵ゆふされはしほみちききなむすみよしのあさかのうらにたまもかりてな︶が書かれている︒﹁去﹂﹁満﹂﹁住﹂
図2
13
草の字体 ﹁玉﹂は草書体で書かれている︒なぜこれらの字が行書体ではなく草書体で書かれているか︑という問いは当然の
問いであると同時に︑答えが出しにくい問いといえよう︒﹁漢字列全体に変化を与えるため﹂というような答えは︑
一つの答えとしてあり得るであろうが︑ではなぜこれらの字であったか︑ということについては答えていない︒
そもそも筆画の少ない漢字は続け書きがしやすいという﹁条件﹂があり︑そうした漢字は行書体から草書体へ向
かいやすいということがあるのではないだろうか︒その一方で繰り返し書いたために︑筆法が成熟して行書体から
草書体へ向かいやすくなったということも考え得る︒ただし︑例えば﹁之﹂は三画の字であるが︑二画目三画目を
続けて書くことは自然で︑全体二画︑あるいは初画と二画目とを続けて全体を一画=一筆で書くことはさほど難し
くないであろう︒したがって︑﹁之﹂は草書体へ向かいやすいという﹁条件﹂を備えている︒実際に︑金沢本にお
いては︑多くの﹁之﹂が草書体で書かれている︒
テキスト全体でいえば︑一三八番歌あたりから︑草書体がやや多く使われるようになり︑一九九番歌などはかな り草書体を使って書かれている
︒四九一番歌あたりからは
︑漢字と漢字との続け書きも散見するようになり
︑
五〇二・五〇九番歌などは草書体を基調としているように思われる︒
﹃日本名筆選﹄の解説︵島谷弘幸︶は﹁金沢本﹂を﹁速筆で歯切れの良い筆致で︑リズミカルで流動感に溢れて
いる︒料紙との調和を計りながら︑一字一字の字形にとらわれず︑全体の流れと躍動する美しさを追求している﹂
と説明する︒
﹃書道辞典﹄︵二〇一〇年︑二玄社︶は﹁そくひつ︵速筆︶﹂を﹁用筆法の一︒遅筆に対していう︒行筆の速︵す
みや︶かなことをいう﹂︵一六四頁︶と説明している︒﹁ちひつ︵遅筆︶﹂は﹁用筆の一︒速筆に対していう﹂︵一七六
頁︶と説明されており︑ほとんど何も記述されていないに等しい︒島谷弘幸は﹁一筆一切経﹂を採りあげ︑﹁一切
経を二十三年間で完写するためには︑三日間で二巻の書写が必要で︑定信は速筆とならざるを得なかった﹂︵一六六
14
頁︶とも述べている︒﹁速筆﹂はもちろん︿筆を速く運ぶこと﹀であろうから︑全体としてみれば︑﹁速く書く﹂と
いうことにつながるであろう︒しかし﹁用筆法﹂とみる以上︑単に速く書いたということではなくて︑一字一字に
ついて︑ある筆運びが認められ︑それが用筆法としての﹁速筆﹂であるはずではないだろうか︒右に引いた島谷弘
幸の言説は︑速く書く経験があったから︑﹁速筆とならざるを得なかった﹂と述べているようにみえ︑筆法として
の﹁速筆﹂と速く書くということとが明確に分けられていないように思われる︒つまり︑﹁筆法を語ることば﹂が
確立していないようにみえる︒
五︑粘葉本﹃和漢朗詠集﹄の場合
藤原公任︵九六六〜一〇四一︶撰﹃和漢朗詠集﹄は︑上巻を春・夏・秋・冬の部︑下巻を雑部とし︑各部に朗詠
題をたて︑漢家詩文︑本朝詩文︑和歌の順に作品を配列している︒漢家詩文と本朝詩文とは作者によって分かれる
が︑結局︑テキスト全体としてみれば︑﹁詩文﹂﹁和歌﹂という順で作品が並べられていることになる︒そして﹁詩
文﹂は漢字で︑﹁和歌﹂は平仮名で文字化されている︒
﹃和漢朗詠集﹄の書き手︵写し手︶には︑漢字と平仮名とを併置したテキストであることが初めからわかってい
るはずで︑そうなれば︑漢字と平仮名とをどのように併置するか︑﹁詩文﹂部分の漢字をどう書くか︑﹁和歌﹂部分
の平仮名をどう書くかということが十分に意識されていたと思われる︒
テキスト冒頭の︑朗詠題を並べた箇所はほぼ楷書を基調として文字化されている︒しかし︑﹁立春﹂の冒頭
1﹁逐
吹潜開不待芳菲之候迎春乍/變将希雨露之恩﹂続く
2﹁池凍東頭風度解窓梅北面雪封寒﹂においては︑
1は行書を
基調として草書体を混ぜ用い︑
2は行書を基調として楷書体を混ぜ用い︑というように楷書体︑行書体︑草書体を
15 草の字体
自在に使用していると思われる︒
﹃和漢朗詠集﹄は﹁和漢﹂を謳うけれども︑﹁漢家詩文﹂二三四︑﹁本朝詩文﹂三五四︑合計五八八に対して﹁和歌﹂
は二一六にとどまり︑﹁詩文﹂が﹁和歌﹂の二倍以上収められている︒その﹁二倍﹂は文字数において︑というこ
とではないが︑当然のこととして︑テキスト全体では︑漢字によって文字化された箇所が多い︒となれば︑﹁漢字︵部
分︶をどう書くか﹂ということが意識にのぼりやすいと思われる︒
漢字の﹁楷書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂が連続した三つの﹁書き方﹂と意識されていたかどうかは現時点では不分
明であるが︑それこそが﹁書体﹂ということをはっきりと定位するために明らかにすべきことがらの一つであるこ
とは疑いがない︒この三つが︑少なくとも粘葉本﹃和漢朗詠集﹄の書き手のような書き手に﹁連続した三つの書き
方﹂と認識されていたのだとすれば︑そうした﹁モデル﹂を考える必要があることになる︒先には﹁自在に﹂とい
う表現を使ったが︑それは﹁連続した三つの書き方﹂を言い換えたものでもある︒﹁楷書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂
が書き手の内部で連続していなければ︑﹁自在に﹂三書体を使うことは難しい︒本稿では︑佐藤栄作に従い︑平仮
名を﹁極草﹂と位置付けているが︑平仮名が使われるようになってから︑平仮名を﹁極草﹂とみなし︑その平仮名
と﹁草書体漢字﹂とを︵意識の上で︑と表現しておくが︶﹁つなぐ﹂感覚をもち︑その﹁感覚﹂を内包して漢字の﹁楷
書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂をとらえなおすというようなことはなかったのだろうか︒それが﹁和様﹂ということと
かかわるのではないか︒右では﹁粘葉本﹃和漢朗詠集﹄の書き手のような書き手﹂といういささかまわりくどい表
現をした︒粘葉本﹃和漢朗詠集﹄の書き手は︑藤原行成と伝えられているが︑現在ではそれは否定されているので︑
右のように表現したが︑言い換えれば︑漢字を自在に書くことができる書き手︑あるいはそうしたことに意を用い
る書き手である︒したがって︑例えば︑藤原行成︑小野道風︑藤原佐理が活躍した時期と同時期に生きた人々すべ
てが﹁楷書体﹂﹁行書体﹂﹁草書体﹂を﹁連続した三つの書き方﹂ととらえていたと主張しようとするものではない︒
16
むしろそうとらえていた人はごく限られていたと推測する︒
﹁粘葉本﹂においては︑一一八〜一二二の﹁詩文﹂が右側︑一二三〜一二五の﹁和歌﹂が左側の丁に書かれている︒
右側の丁に書かれている﹁詩文﹂五作品はいずれも行書体に草書体を混じえている︒﹁和歌﹂を翻字する︒
世中たえて桜のなかりせはゝるのこ/ゝろはのとけからまし︵一二三︶
わかやとのはなみかてらにくる人は/ちりなむのちそ戀しかるへき︵一二四︶
みてのみや人のかたらむ山桜て/ことにをりていへつとにせむ︵一二五︶
﹁和歌﹂は平仮名のみで書かれていることが多いが︑右三首においては︑どの作品にも漢字が使われている︒ま
た一二四では︑﹁わ︵和︶﹂﹁と︵東︶﹂﹁に︵仁︶﹂﹁ち︵地︶﹂﹁か︵我︶﹂﹁へ︵邊︶﹂が草書体漢字にちかい形状で書
かれている︒﹁我﹂を字源とした﹁か﹂は﹁秋萩帖﹂にもみられる︒また﹁へ︵邊︶﹂は﹁高野切第三種﹂に使われ
ている字形と酷似している︒﹁粘葉本﹂の書き手が行書体漢字に草書体漢字を混ぜ用いた右側の丁と﹁融和﹂させ
るためにこうした形状の平仮名を使ったことは疑いがないだろう︒では︑その時に︑﹁こうした形状の平仮名﹂と
意識していたか︑﹁草書体漢字﹂との連続相の中で選択されたか︒和歌は平仮名で文字化しているのだから︑﹁こう
した形状の平仮名﹂と意識していたはずだというみかたはもちろんもっとも自然なみかたであるが︑和歌すべてが
平仮名で書かれているのではない︑ということを考え併せれば︑﹁漢字と仮名とが渾然一体となる﹂という瞬間が︑
何らかの条件下にあったということを絶対的に否定できるだろうか︒
あるいはまた︑一二六から一二九の詩文が右側の丁︑一三〇の詩文と一三一︑一三二の和歌が左側の丁に書かれ
ている箇所がある︒詩文は草書体を基調として︑行書体を混ぜ用いて書かれているが︑左側の丁では︑一行目が詩
17 草の字体
文で二行目からが和歌であるために︑いっそう﹁融和﹂的に書かれていると思われる︒和歌は一三一が﹁さくらち
るこのしたかせはさむ/からてそらにしられぬ雪そふりける﹂︑一三二が﹁とのもりのとものみやつこ心あらはこ
の/はるはかりあさきよめすな﹂であるが︑一三一の﹁さ﹂は﹁斜﹂を字源としたもので︑﹁秋萩帖﹂や﹁高野切
第三種﹂でも使われている形状であるし︑﹁故﹂を字源とした﹁こ﹂も﹁秋萩帖﹂で使われている︒﹁し﹂は縦にまっ
すぐにのびているのではなく︑﹁之﹂を少し思わせる形状をしているが︑これは右側の﹁詩文﹂一二八で﹁講誦之座﹂
の草書体の﹁之﹂にちかい︒また︑﹁詩文﹂一二六で使われている草書体漢字の﹁心﹂は﹁和歌﹂一三二の中で使
われている漢字﹁心﹂とちかく︑こうしたことによっても︑﹁詩文﹂と﹁和歌﹂とが連続︑﹁融和﹂していることが
感じられるが︑これらはすべて﹁有意﹂の現象とみたい︒
なぜならば︑右で指摘した﹁邊﹂を字源とした﹁へ﹂︑﹁斜﹂を字源とした﹁さ﹂は﹁高野切第三種﹂では旋頭歌
を書いた次のような箇所で使われているからである︒
旋頭歌 たいしらす よみひとしらす うちわたすをちかたひとにもの まうすわれそのそこにしろくさ けるはなにのはなそも︵一〇〇七︶
かへし はるされはのへにまつさくみ
図3
18
れとあかぬはまなひなしに たゝにのるへきはなのなゝや︵一〇〇八︶
右の旋頭歌二首は︑﹁草書体漢字﹂で書かれているといってもよい文字で書かれている︒もちろんそれを平仮名
と認めることはできるが︑旋頭歌ゆえに︑特別な書き方をしたことは疑いないだろう︒﹁かへし﹂﹁のるへき﹂の﹁へ﹂
は﹁邊﹂を字源とした﹁へ﹂︑﹁はるされは﹂の﹁さ﹂は﹁斜﹂を字源とした﹁さ﹂で書かれている︒
長谷川千秋は﹁使用字母からみた﹁秋萩帖﹂の仮名﹂︵﹃秋萩帖の総合的研究﹄二〇一八年︑勉誠出版︑所収︶に
おいて︑﹁﹁秋萩帖﹂では︑字母︵引用者補本稿内では﹁字源﹂と表現している︶となる漢字の草書に近い形が選
択されており︑九︑十世紀の仮名資料では漢字から抽象化︑略体化された形が選択されているといえる︒つまり︑
総じて﹁秋萩帖﹂の草仮名は形において漢字と親和的であり︑九︑十世紀の仮名は漢字から視覚的に分離する傾向
にあるといえ︑両者の字体の指向は対立的である﹂︵八十七頁︶︑﹁﹁粘葉本﹂の書風は﹁高野切﹂系統に属するため︑
﹁高野切﹂系統に属する﹁高野切﹂﹁深窓秘抄﹁蓬莱切﹂﹁粘葉本﹂の四本の使用字母を﹁秋萩帖﹂と比較してみる︒
すると︑﹁高野切﹂系統の本と﹁秋萩帖﹂とは︑八十二字母が一致するという結果が得られる︒﹁秋萩帖﹂にない字
母は三十二字母︑﹁秋萩帖﹂にあって﹁高野切﹂系統にない字母は二十八字母である︒﹁秋萩帖﹂は﹁高野切﹂系統
の草仮名とよく一致していることになる﹂︵九十三頁︶と述べている︒
佐藤栄作は﹁仮名であることと﹁秋萩帖﹂﹂︵﹃秋萩帖の総合的研究﹄所収︶において︑﹁仮名の完成とは﹁漢字を
背後に持つ開いた体系﹂ではなく︑﹁閉じた小さな体系﹂であることが条件である﹂︵四十二頁︶と述べ︑﹁秋萩帖﹂
の冒頭について︑﹁実際には︑中国の法帖などを手本としながら︑仮名の字母と同じ漢字︑あるいは字音の類推によっ
て使用可能であろうと判断した漢字の草書を書いたのではないか﹂︵五十五頁︶と述べる︒そうであれば︑仮名と
19 草の字体
しての使用が他資料にあまりみられない︑すなわち仮名としての使用実績があまりなさそうな字が﹁秋萩帖﹂にみ
られることは当然ということになる︒必要に応じて︑書き手が﹁漢字の草書﹂を使ったということになる︒佐藤栄
作は﹁秋萩帖﹂が仮名﹁一枠に複数の字が用いられている﹂︵五十四頁︶ことに着目し︑そうしたことを﹁意図的︑
それゆえ臨時的な色合いが拭い去れない︒閉じた﹁草仮名﹂という文字セットが存在し︑そこから選ばれたとする
のは無理があるように思われる︒それぞれの音節を表し得る漢字︵の草書︶を持って来て﹁仮名漢字﹂として用い
ているととらえたい︒つまり︑﹁秋萩帖﹂の草書の字は︑まさに漢字の草書であるとしたい﹂︵五十四頁︶︑﹁これは
﹁仮名漢字﹂として草書の漢字がまさに﹁補給﹂された場面ではないか﹂︵五十五頁︶とも述べる︒
こうした時期においては︑﹁草書体漢字﹂と﹁平仮名﹂との間には︵濃厚な︶連続性があったといえよう︒佐藤
栄作は仮名の﹁一枠に複数の字が用いられている﹂ことに着目しているが︑こうした状況は明治三十三年に︑改正
小学校令が示されるまで続いたとみることもできる︒しかしまた︑それは漢字からの﹁補給﹂を許す﹁文字社会﹂︑
漢字からの﹁補給﹂を受け入れる﹁文字社会﹂であり︑佐藤栄作が﹁近年出土している木簡や土器などに歌を書い
た字など︑仮名の条件を満たしている可能性が高い﹂︵五十九頁︶と述べるように︑﹁文字社会﹂を﹁一枚岩﹂とみ
ないほうがよい︒つまり︑﹁漢字からの補給﹂には漢字についての﹁情報﹂が必要であり︑そうした﹁情報﹂をも
ち得る人のみが︑﹁漢字からの補給﹂が可能であったとまずは考えておく必要があろう︒
おわりに
本稿では︑﹁草の字体﹂をどのように定位させればよいか︑ということについて︑原理的に︑また実際の文献に
就いて考えることを目的としている︒採りあげた文献は︑平安時代に書かれたものであるが︑最終的には︑江戸期︑
明治期の﹁草の字体﹂についても同じように論じることができるような﹁説明の枠組み﹂を確立させることを目的
20
としている︒
現時点では︑漢字の﹁楷書体=真﹂﹁行書体﹂﹁草書体=草﹂に関しては︑﹁楷書体=真﹂と﹁草書体=草﹂を﹁両
極﹂ととらえ︑﹁行書体﹂は中間に位置し︑かつ﹁楷書体﹂との間に﹁回路﹂を形成していると考えているが︑そ
うしたことについては今後さらに整理していきたい︒
註︵
1︶石川九楊は﹁﹁書聖﹂とは︑何を意味するのか﹂︵一九九七年︑二玄社﹃書の宇宙
6﹄書の古法︿アルカイック﹀王羲之︶
において︑﹁王羲之筆と伝えられる書を点検してみると﹂︵引用者補楼蘭晋簡において﹁縦横運動に主律されていて回転運
動を欠﹂き﹁縦画+横画﹂として書かれている﹂箇所が︶﹁たいてい﹁縦画+横画﹂ではなく︑縦画の収筆を起点に右回りで上向し︑連続的︑回転的に書かれている﹂︵五〜六頁︶︑﹁楼蘭晋簡の︿動﹀字は︑画数を減らした行書の殺字法にすぎないが︑
十七条にみる王羲之の殺字法は︑右上から左下へ向かう斜画を先行させた殺字法によっており︑これは現在もなお草書体の
規範でありつづけている︒これは︑王羲之段階において︑ほぼ殺字書法として定立したといえよう︒この殺字法は︑右上から左下へ向かう筆触が意識の度を高めたことに生じたと考えられる︒右上から左下へ向けての接触摩擦の高い﹁押し出す﹂
書法が安定的に定着したことは︑王羲之段階の筆触が︑楼蘭晋簡のような単純な二折法の﹁トン・スー﹂や﹁スー・トン﹂
の段階を超え︑筆触に複雑な意識が生じたことを証している﹂︵六頁︶︒これらの言説は︑王羲之の書法についてのものであるが︑﹁草書体﹂を﹁連続的︑回転的﹂ということと結びつけている点に注目したい︒
︵
2︶例えば︑石塚晴通は﹁漢字字体史研究︱序に代えて﹂︵﹃漢字字体史研究﹄二〇一二年︑勉誠出版︶において︑﹁書体﹂を﹁漢
字の形に於て存在する社会共通の様式︒多くは其の漢字資料の目的により決まる︒楷書・草書等﹂と定義し︑﹁字体﹂を﹁書体内に於て存在する一々の漢字の社会共通の基準﹂︑﹁字形﹂を﹁字体内に於て認識する一堂の漢字の書写︵印字︶された形
そのもの﹂︵二頁︶と定義している︒したがって︑この定義においては︑﹁字体﹂が﹁書体内﹂に定義されているが︑それに
ついてはここでは措く︒﹁書体﹂を﹁多くは其の漢字資料の目的による決まる﹂と定義した場合︑その﹁漢字資料の目的﹂はどのようにして知り得るのか︑という疑問が生じる︒石塚晴通は︑別の箇所では︑﹁漢字字体と其の文献の性格とは密接な関
21 草の字体
連があることが判明してきている﹂︵三頁︶とも述べている︒﹁其の﹂は︑﹁当該漢字が使われている文献﹂のことであろうし︑
﹁文献の性格﹂と表現した時の﹁性格﹂はどのようなことを指すのかという疑問もある︒こうしたことも疑問ではあるが︑それも措く︒なにより﹁其の文献の性格﹂をどうやって測定するのか︑﹁性格﹂はどの程度のカテゴリーとして提示し得るのか︑
ということがある︒例えば︑明治期に出版された漢語辞書について︑この﹁文献の性格﹂をどう測定するのか︑あるいは判
断するのか︒これはフォーマリティの高い文献であるということが文献外の情報によって判断できたとすると︑そのフォーマリティの高い文献に使われている字体がフォーマリティの高い字体だということにならないか︒あるいは︑そうやってこ
の字体はフォーマリティが高い字体であろうという﹁見当﹂がついた後には︑そのフォーマリティの高い字体が使われてい
るから当該文献はフォーマリティが高い文献であると判断するということにならないだろうか︒そうなると判断が循環的であることになる︒
︵
3︶浅田徹は﹁元永本古今集を読むために﹂︵﹃国語文字史の研究﹄十二︑和泉書院︑二〇一一年︶において︑﹁和歌は平仮名で
書くものだったために︑和歌を書く書風は︑漢字の書風とは異質なものとして発達した﹂︵一一八頁︶と述べ︑﹁桂本万葉集﹂について﹁漢字と平仮名の書風の懸隔は甚だしい﹂﹁この両者︵引用者補桂本万葉集の漢字と平仮名のこと︶を交じえて﹁漢
字仮名交じり﹂の一体的な表記体が形成できるだろうか﹂︵同前︶と述べ︑さらに﹁粘葉本和漢朗詠集﹂の平仮名と漢字とに
ついて︑﹁平仮名の一字一字がずっと整斉な形態を持っていて︑かつ漢字が和様の柔和な筆致を持つものであっても︑これを混在させて仮名交じり表記体を作るのは難しいだろう﹂︵同前︶と述べている︒その上で︑﹁大きく言えば︑平安時代初期は
平仮名形成の時代︑中期はその美的洗練の時代︑後期は漢字との調和へ至る時代であったと見ることもできる︵このことは︑
早く飯島春敬に指摘がある︶︒結局︑書記史は平仮名を作り替えることで︑漢字交じり表記の運用に適した字体を作り出したことになるだろう︒定家本のような︑和歌に多くの漢字を当てる写本は︑そうした趨勢の上に登場しているのである﹂︵一二〇
頁︶と述べている︒
22
The script of Sō(草)
KONNO Shinji
Abstract In Japanese, there are three terms used to refer to the different styles of writing kanji characters: kaishotai (楷書体), gyōshotai (行書体), and sōsyotai (草書 体). “Standard,” or “noncursive” kaishotai characters that have been “broken” (くず した) are referred to as gyōshotai, and gyōshotai characters that have been futher
“broken” are referred to as sōsyotai. However, the matter of “breaking” (くずす) kan- ji characters has not yet been adequately clarified. Therefore, this paper uses the term hiragana (平仮名) to refer to sōsyotai characters that have been futher “broken.”
it assigns the numbers 3, 2, 1, 0, respectively, to characters that are written in the kai- shotai, gyōshotai, sōsyotai, and hiragana styles. Since in previous studies there has been no word to adequately clarify the notion of shotai (書体, handwiriting style) this proposal is considered to be valid.
key words: kaisyotai sōsyotai hiragana