功利主義における道徳的基準の問題
著者 若松 謙
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 30
号 1
ページ 49‑69
発行年 1981‑11‑25
その他のタイトル The Problem of the Moral Criterion in Utilitarianism
URL http://hdl.handle.net/10105/2395
功利主義における道徳的規準の問題
若 栓 謙 (奈良教育大学倫理学教室)
(昭和56年4月28日受理)
I はじめに
周知の如く、ベンサム(1748‑1832)やジョン・スチュアート・ミル(1806‑1873)といった イギリスの功利主義者達は、快楽および苦痛の欠如という意味での幸福が、人間にとって望まし い唯一の善であり(1)、従って社会を構成している人々の「最大多数の最大幸福」が、道徳の最高 原理であると主張した。 「私は、行為において何が正しいかということについての功利主義的規 準を形成する幸福が、行為者自身の幸福ではなく、関連するすべての人々の幸福であるというこ とを、 ‑‑‑再び繰返さねばならない。彼自身の幸福と他人の幸福との間で、功利主義は、利害を 離れた慈悲深い観察者と同じ程公平であることを、行為者に要求する。」 (p. 16)ところで、こ のように卓大多数の最大幸福(以下では「最大幸福」と略す)が、道徳の最高原理であるという ことは、正義や慈愛といった人間の果たすべき道徳的義務や規則が、人々に重んじられる究極の 理由が、 「最大幸福」の実葺鋸こ役立つことから説明されうることを意味する.正義なら正義とい った遺徳的義務が望ましい究極の理由は、 「最大幸福」の実鄭こ役立つが故であり、しかもこの ことは他の一切の道徳的義務、規則についても妥当する。それ故、 「最大幸福」が、道徳の最高 原理であると主張されるのである。
こうした道徳の最高原理が、何故功利主義者によって求められたかについて、 Ryan は次の様 に述べているO 「直観主義者は、如何なる第‑原理も与えないとはいえ、そして我々が与える如 何なる第一原理も、自明的ではないとはいえ、ミルは、理性的に正当化される人間の行為のため に、或る第一原理が必要であることを疑わない。我々が普通従う道徳的諸規則は、特殊な場合に 互いに対立することが分かる。そしてもしそうであるならば、どの規則が譲らねばならぬかを我 々に告げる、或るより一層高位の原理をもたないとすれば、我々は理性的に行為しえない。そし てもしも我々が、例えば或る特定の規則が優先さるべきことを決定する、 2つのより高位の原理 を与えることができるとすれば、我々は、これらより高位の規則間に対立がある諸状況をみるこ
とができる。唯一の安定した場所は、或る単一の最高原理に存しなければならない(2) 」例えば A、 B、 Cといった道徳的規則があるとする。これらは、それぞれ道徳的に正しい行為の仕方を 規定したものであるとはいえ、しかし状況によっては、 Aという規則に従うことが、別のBとい う規則の違反につながるといったように、諸規則間に対立が起こることもある。そこでこうした 場合に、 A、 Bいずれの規則を優先させるべきかを決定する、より一層高位の原理というものが 当然必要になってくるO従ってこれを更に突詰めてゆくと、唯一の最高の道徳的原理がなければ ならないことになる。こうした道徳の最高原理として、功利主義者は、 「最大幸福」を主張した というのである。従って「最大幸福」の原理は、すべての道徳的義務、規則が、そこから導出さ れ得る第一原理であると同時に、義務や規則が対立する場合に、いずれを優先させるべきかを決
49
定する根拠ともなり得るという意味において、一番究極的な道徳的原理であるということになる.
「もしも功利性(「最大幸福」の実現に役立つこと‑筆者付記)が、さまざまな道徳的責務の 究極的源泉であるとすれば、それらの要求が両立し得ない時に、それらの問で決定するために、
功利性が呼び求められる。」 (p. 24)
ところで、こうしたベンサムやミルの功利主義思想は、さまざまな批判、修正を施されながら も、現在に至るまで、英米の倫理思想に大きな影響を与えている。功利主義を無視して英米の倫 理思想を理解することは不可能といってよい程、それ程大きな影響力を今日まで持ち続けている のである。しかし1971年に出版された『正義論』において、ノ、‑バード大学の哲学教授、ロール ズは、 2世紀問にわたる功利主義の影響力を認めながらも、それと意識的に対決し、むしろそれ に取って代わるべき、より一層望ましい正義論を提唱しようとしている。 「私の目的は、功利主 義思想一般や、それのこうした種々の修正物の一切に取って代わる正義論を形成することであ る(3)。」ロールズは、一言でいえば、人間の平等性をより一層徹底させることによって、功利主 義を超克しようと意図したといえる。後に述べるように、私は、功利主義にも、平等性を尊重し ようとする思想が含まれていたと考える。本当に幸福な社会は、平等性が尊重されて初めて成立 するといった確信が、ベンサムやミルの思想の背後にあったと考えている。しかし彼らの場合に は、そうした平等性の尊重が、他の異質的諸要素と複雑に重なり合って、不分明な仕方でしか説 かれていないことも、又否定できないO それ故、ロールズのように、功利主義を超克しようとい う試みがなされるのも当然であると考える。そこでこの小論において、私は、功利主義の掲げる 種々の道徳的規準を取り上げ、その正当性を吟味してみたいと思うのである。功利主義の影響力 が大きいだけに、そうした道徳的吟味が不可欠だと思うのである。
Ⅱ 「功利性と正義との関係」についてのミルの議論
「最大幸福」が遺徳の最高原理であると主張する限り、ミルは、すべての道徳的義務が人々に 重んぜられる理由、更にそれらが人々を拘束する度合の強さも、すべて「最大幸福」の実現に役 立つことから説明しなければならない。『功利主義』の第5章において、ミルが、人間にとって 一番基本的な道徳的義務である正義に関して、そうし.た基礎付けを実際に試みているので、ここ ではそれを紹介することにする。
まず正義という義務の具体的内容が問題になるが、ミルは、それを4つに分けて説明している。
(1)互いに傷つけ合わないこと(この中には、互いの自由への不当な干渉の排除も含まれている) (p.55)(ミルはこれが一番重要な正義の義務であると考えている。 「かくして直接的に、或るい は又彼自身の善を追求する自由が阻止されることによって、他人に傷つけられることから、あら ゆる個人を守る道徳は、彼自身が非常に深く心にかけるものであると同時に、言葉や行為におい て表現し、強要することに、最大の関心を有しているものである。彼が人間の仲間の一人として 存在することの適切さが試され、決定されるのは、これらの道徳を守ることによってである。何 となれば、交際している人々にとって、彼が厄介者であるか否かは、それに依存しているからで ある。」 (p. 56) 「それらの道徳的規則を守ることだけが、人々の間に平和を保つ。もしもそれら の規則への服従が規則であり、不服従が例外でなかったとすれば、あらゆる人が、他のあらゆる 人において敵をみることになろう。その敵に対して彼は絶えず自分自身を守らねばならないであ
ろう。」 (p. 55)
(2)その人に相応しいもの(当然受けるべきもの)を与えること(p. 56)c 「各人が、 (善であれ 悪であれ)相応しいものを獲得することは、正しいと普遍的に考えられている。彼が相応しくな い善を獲得すること、又は相応しくない悪を経験するようにされることが、不正であると普遍的 に考えられている。 ・・‑‑一般的な仕方で言えば、人は正を為すならば善に値いし、邪を為すなら ば悪に値いすると理解される。そしてより一層特殊な意味において、人は、自分が善を為す、又 は為した人からは善を受けるに値いする。そして自分が悪を為す、又は為した人からは、悪を受 けるに催いすると理解される。悪に善をもって報いるという戒めは、正義の履行の場合とみなさ れることは決してなかった。」 (p. 41.)従ってあらゆる種類の忘恩、裏切りが、正義の義務に反 することになる。 「恩恵を受けながら、必要な時にそのお返しを拒む人は、最も自然的で合理的 な期待の一つを失望させることによって、真の害を加えている。そうした期待を、彼は少くとも 暗黙のうちに促進したのである。さもなければ恩恵はめったに与えられなかったことであろう。
期待を失望させることが、人間的邪悪さの間で占める重要な位置は、それが友情の裏切りや約束 違反のような2つの非常に不道徳な行為の主要な罪を構成するという事実において示されている。
人間が被り得る殆どの害が、これ程大きくはない。」 (pp. 56‑7.)
(3)公平 「考究中の特殊な場合に影響を与えるべきであると想定されている諸考察だけによっ てもっぱら影響を受けること、そしてそうした諸考慮が命じることから異った仕方で行為するよ うに促す諸動機の誘惑に抗すること」 (p. 42.)が、公平だとされる。従って主観的な愛好、嫌悪 に基づく依惜最眉、差別待遇が、不公平の典型的な例である。 (p. 42.)ミルは、公平という義務 は、 (2)の「その人に相応しいものを与えること」から、必然的に帰結すると考えている。 「各人 に対してその価値に従って対処することが義務であるとすれば、即ち悪を悪によって抑圧するこ とと同様、善に善をもって幸糾、ることが義務であるとすれば、以下のことが必然的に生ずる。即 ち我々は我々に平等によく功労があったすべての人々を(より一層高い義務が禁じない時には) 平等によく扱うべきであり、社会は平等によく功労があったすべての人々、即ち絶対的に等しく
よく功労があったすべての人々を、平等によく扱うべきであるということが、生じる。」 (p.57.) (4)平等 幸福に対して、誰もが平等な要求をもっていること(p.58.)、或るいは誰もが平等な 扱いを受ける権利があること(p.59.)などが、その例であるとされる(4)。
ミルは、正義の義務の具体的内容を、このように4つに分けている。そしてこうした内容をも った正義の義務が人々に重んぜられる理由は、 「最大幸福」の実現に役立つことから説明できる と考えている。具体的に述べると、ミルは、正義という道徳的義務は、安全の利益を確保すると いう功利性から説明できると主張する(pp. 50‑51.)ミルによると、一口に人間の利益になる ものといっても、それはいろいろある。例えば或る人にとっては利益となるが、他の人にとって は全然役に立たないといった、それぞれの個人に相対的な利益もある。又止むを得ない場合には 捨てても平気だし、他の利益によって十分埋め合わせがつくといった利益もある。しかしもっと 大事な、すべての人間にとって常になくては済まされ得ない利益といったものも当然ある。それ がなくなれば、人間が生きてゆくことも不可能となるといった、必要不可欠な利益である。ミル によると、安全という利益は、そうした必要不可欠な利益である。安全という利益の卸蔭で、我 々は初めて生活することができ、又他のあらゆる利益を長い間にわたって保持することもできる からである。ミルにとって安全ということは、すべての人間にとって、肉体の栄養についで、あ らゆる必需品のうちで最も必要不可欠なものである。従って安全ということは、すべての人間の 幸福にとっても、又当然必要不可欠な条件である。ところが、正義は、互いに傷つけ合わないこ
とを初めとして、こうした安全を保つために必要不可欠な人間の在り方を規定している。従って 正義という道徳的義務は、安全を確保し、人々の幸福を保障するという社会的功利性から導出さ
れると、ミルは主張するのである(5)。
そして又ミルは、正義の義務が人々を拘束する度合の強さも、それがもたらす社会的功利性の 程度の大きさから説明できると考えている。例えば人間にとって他人から積極的な恩恵を受ける ことは、必ずしも必要ではない。そうした恩恵がなくても、人間は自分の力だけで、生活を維持 することができる。しかし他人から危害を受けないことは、常に絶対に必要である(p.56.)そ こで、社会生活を維持し、幸福を確保するにあたっての正義の不可欠性が、その義務の拘束性を 何よりも強くしているのだと、ミルは考えているのである。従って彼にとって正義という義務は 他のもの以上に重要で並外れて強い拘束力を有するにしても、それは、すべて「最大幸福」の実 現に役立つという功利性から説明できることになる。 「正義は、全体として考察されるならば、
社会的功利性の尺度において、他のいかなるもの以上に高く位置し、それ故他のもの以上に卓越 した拘束力を有する或る道徳的諸要求に対する名前である。 ・‑‑。」 (p. 59.) 「私は功利性に基づ けられる正義が、道徳全体の主要部分であり、かつ無条件的にそれの最も神聖で、拘束的な部分 であると考える。」 (p.55.)
ところで、慈愛、寛大(物惜しみしないこと)といった道徳的義務(p.46)も、それが人々 の幸福の増大をもたらすが故に望ましいと賞賛されることは、明らかである(6)。それ故ミルは、
一切の道徳的義務の正当性は、すべて「最大幸福」の促進という最高の道徳的原理から説明でき ると考えていたのである(7)。
Ⅲ 「最大幸福」と正義
上述の如く、ミルは安全の確保という功利性に力点をおいて、 「互いに傷つけ合わないこと」
を初めとした正義の望ましさを、正当化しようとしていた。そこで、ここではそうしたミルの議 論の是非を問題にしてみたい。
(1)ミルが述べていたように、我々人間にとって、安全の確保が重要なことは言うまでもない。
安全なくして一日たりとも幸福な生活はあり得ないと、確かに言えるからである。しかし現実の 人間の安全を確保する在り方を考えてみると、それが常に必然的に、 「互いに傷つけ合わない」
という正義に導くとは限らないことも、又明らかである。この世の中において、人々の間にはさ まざまな利害の対立があり、厳しい生存競争が必然的に起こらざるを得ない面がある。そのため に現実の人間の安全の確保は、必ずしも「互いに傷つけ合わない」ということに結びつかないの である。例えば国と国との関係において、自国の安全を図ろうとする気持が、現実にはかえって 外国に備えての軍備の拡充に導いたりする。 「攻撃は最大の防禦なり」というわけで、自国の安 全を図ろうという気持が、かえって外国‑の不当な侵略戦争に発展したりする。お互いに軍備の 拡張などに金をかけなければ、もっと他の有益なことに金を使える筈なのに、現実にはそれがで きないのである。個人の場合でも同様である。生存競争の激しいこの世の中で、自分の安全を図 りたいという気持が、かえって他人を無視してでも、或るいは他人の権利を侵害してまでも、富 や権力を確保しようといった在り方に導くことがある。現実の世の中においては、生存競争、利 害の対立といったことが、必然的に起こる。そのために安全を確保したいという気持が、かえっ て他人を傷つけることに導き易いのである。従って現実の人間の安全の確保ということは、決し
て絶対視されることができない。その実現の仕方次第によっては、安全を図ること自体が、道徳 的には正にも邪にもなり得るからである。それ故、安全という利益から、正義という道徳的義務 を導き出そうとしたミルの議論には問題があるといってよい。
安全という利益から、正義という道徳的義務を導き出す以上、当然安全ということの方が、正 義よりも価値的に優先していることになる。従って安全を保つためには、時には正義を無視して
も構わないといった考え方が生じるかもしれない。しかしこれは勿論、道徳的には非常に危険な 考え方である。 「互いに傷つけ合わない」といった内容を含む正義を誰もが尊重するならば、確 かに安全は保証され、人々の幸福も実寛されるといえるかもしれない。しかし「互いに傷つけ合 わない」といった在り方を阻止する原因を考えてみると、少なくともその一つは、自分の生活を 維持し、安全を確保したいという欲求であることも否定できない。安全を確保しようという欲求 が、現実には(他人に対する)不当な抑圧、搾取、虐待に導いているのである。こうしたことを 考える時、安全を絶対視し、そこから正義の義務を導出しようとするミルの議論は不十分だとい える。現実には、そこから道徳的に不正な在り方が生じかねないようなものを規準にして、正義 の義務を導き出そうとしていると言ってよいからである。望ましい仕方で安全が求められ、幸福 が追求されるためにも、むしろ正義は、それ自体で尊重さるべきであると言える。
(2) 『功利主義』の第3章で、ミルは制裁の問題を扱い、どのようにして道徳的に望ましい在り 方(自分で邪を斥け、正を為そうとする良心的在り方)が成立するかを論じている。ミルは、人 間に生まれつき具わる社会感情(仲間と一体化したいという欲求) (p. 29.)と外的制裁(8)との共 同によって、良心が成立すると考えているのであるが、その際「最大幸福」と正義との関係を考 察するのに重要な2つのことを主張している。 ①社会感情を有する限り、人間は単に利己的であ るだけではなく、同時に愛他的でもあり、他人の幸、不幸に共感することができる。従って他人 の幸福を無視して平然としていられるといったことはあり得ない。社会感情が発達している人な らば、 「彼の仲間達の残りを、幸福の手段をめぐって彼と争う競争相手として考える気にはとて もなれない。自分の目的を達成するために、彼らがその日的において挫折するのをみたいとは、
とても思わないに違いない。」 (p. 31.) ②人類の歴史は、 ‑歩一歩平等の確立に向かって前進し ている。しかも各個人の権利を平等に尊重することが、 「最大幸福」に通ずる。 「ところで人々の 間の交際は、主人と奴隷の関係以外は、明らかに万人の利益が考慮さるべきであるという基礎に おいてのみ可能である。平等な人々の間の交際は、万人の利益が平等に考慮さるべきであるとい う了解に基づいてのみ存在し得る。そして文明のあらゆる状態において、絶対君主は別にして、
各人は対等な人々を有するから、誰もが、他の人々とこうした条件で生活するように拘束されて いるO そして誰かと、これ以外の条件で、永続的に生きることが不可能となる状態へ向かっての 前進が、あらゆる時代においてなされている。」 (p. 29.) 「政治改革の歩みは、 ‑歩一歩それをよ り自棄酎こする。利害の対立の諸源泉を除去し、個人や階級間の法的特権の不平等をなくすことに よってである。こうした不平等のために、その幸福が依然として顧りみられないままにとどまっ ている人類の大多数が存在しているのである。人間精神が改良されるにつれて、各個人に残りの すべての人々との一体感を生じさせる傾向を有する諸影響が、たえず増大してゆく。そうした諸 影響は、もしも完全ならば、残りの人々の諸利益が含まれていない、自分にとっての有利な条件 を、決して彼に考えたり、欲求させたりさせない。」 (p.30.)
こうした2つの確信、即ち社会感情を有する限り、人間は他人の幸福を無視して平然としてい られるといったことはあり得ないという確信と、 (人類の歴史は‑歩一歩平等の確立に向かって
前進しているが、こうした)各個人の権利の平等な尊重が、 「最大幸福」に通ずるという確信と があったが故に(9)、ミルは、 「最大幸福」を道徳の最高原理として掲げ、しかも「互いに傷つけ合 わない」といった内容をもった正義を、それを実視する必然的手段として説くことができたのだ と思われる。しかしミル自身のこうした確信には極めて楽観的な面も含まれているし(10)、更に 残念なことに、現実の人間のすべてが、常に平等性の尊重に幸福を見出しているわけでもないこ とに注意する必要がある。実は、ミル自身がそれを認めている個所がある。 「他方同時に、奴隷 に行使すべきいかなる権利も与えていない諸制度が、不正と考えられていない。何となれば、そ うした制度が不便と考えられていないからである。功利性が身分の区別を要求すると考える人々 は、富や社会的特権が不平等に配分されることを不正と考えない。しかしこの不平等を不便と考 える人々は、それを又不正と考える。政府が必要であると考える人は、誰も、長官に、他の人々 に認められていない権力を与えることによって構成されるような不平等に、いかなる不正もみな い。」 (p.43.)前にも述べたように、ミルは、正義の具体的内容が多様であり、互いに対立的で あるが故に、道徳の最高原理として、 「最大幸福」を主張したのであったが、しかし、その「最 大幸福」が何処に成り立つかについては、人によって見解が随分異なるのである。たとえミル自 身が、道徳的に望ましい内容の幸福を考えていたからといって、他のすべての人が、そうだとは 限らないのである。しかも今の引用文ではっきり示されているように、 (奴隷制度が幸福に役立 つから便宜だといった場合のように)幸福の具体的内容が、道徳的に正しい在り方と対立し、そ れを貫く障害となるといったことは、現実に起こり得るのである。従って幸福と道徳とをはっき り区別し、個々の幸福の具体的内容の正、不正を判定する道徳的規準が、常にもっとはっきりと 示されるべきだと思われる。幸福の具体的内容は、個人の場合であれ、国家の場合であれ、人に よって随分違う。しかもその内容が現実に常に道徳的に望ましいとは限らない(ll)。しかも道徳 的に望ましい内容をもった幸福でも、それをどのように実現するかによって、現実には道徳的な 不正を生じさせる場合もある。それ故、幸福は、常にその内容、実現の仕方に関して、道徳的観 点から、その正、不正を厳しく吟味さるべきであって、決して絶対視さるべきでないといえる。
ミルの「最大幸福」が、道徳の最高原理であるという主張は、彼が予め道徳的に望ましい幸福を 暗黙のうちに想定していた(12)から、初めて言えることであって、すべての幸福内容について言 えることではないと思われる。それ故、 (幸福の内容やその実現の仕方の正、不正を厳しく吟味 するためにも)一般的には、道徳が、 「最大幸福」の実理の仕方を規定すべきだといえる。
(3)次にRyan があげている、かなり極端な例を紹介する(13)或る社会が流血の惨事を惹き起 こしそうな不穏な事態にあるとする。そこで支配者は、都合のよい一人の無実の人間を選び出し、
彼にすべての罪を着せ、処刑することによって、そうした惨事を避けようとする。しかも無実の 人間が罰せられたことが分かれば、人々が動揺するだけであるから、その無実の人が有罪である ことを人々に確信させるために、あらゆる方策を講ずる。かくして流血の惨事を避けるために、
一回だけこうした非常手段に訴えるとする。ところでこのことによって、たとえ社会が平静な状 態に戻り、秩序が回復されたにしても、そうした非常手段が正義に通っていると言い難いことは 明白である。無実の人は、秩序を回復させるための手段として悪用せられ、その人権を無視され たといってよいからである。こうした場合には、秩序を維持し、 「最大幸福」の実現を図ること と、人権の平等な尊重という意味での正義とは、明らかに対立する。しかしこうした場合、ミル にしても、無実の人を処刑することに断じて反対すると思われる(14)。
同じ様に、人間の自由という権利と「最大幸福」とが対立する事例を、 Mac Intyreが指摘し
ている。 「しかしながら幸福の概念は、別の仕方で道徳的に危険である。何となれば我々は今で は、人間の順応性、即ち人間が殆どあらゆるものの受容、それへの満足に、多様な仕方で条件付 けられ得るという事実を、意識しているからである。人々が彼らの運命に幸福を見出すというこ とは、彼らの運命が存在すべきものであるということを伴わない。その幸福のために支払われる 代価が、如何に大きいかという問題が、常に提出され得る。かくして最大多数の最大幸福という 概念は、家長的ないし全体主義的社会を弁護するために用いられ得るであろう。そうした社会に おいて、幸福のために支払われる代価は、個人の選択の自由である。自由と幸福とは、一定の環 境では、徹底的に両立し得ない価値である(15)。」
ベンサムやミルは、人間の平等性を尊重し、その基本的権利を少しでも多く尊重することが、
「最大幸福」を実現するための必要条件の一つであると、暗黙のうちに想定していた。又自由こ そ、人類の知的、道徳的進歩の原動力であり、幸福な社会にとって必要不可欠であると考えてい たことも明白である。しかしそうした暗黙の前提を度外視して、 「最大幸福」だけを取り出して みると、それは、かえって人間の基本的権利そのものの侵害に導くこともある。全体の利益のた めに、個人の権利を無視する。全体の秩序維持のために、個人の自由を全く抑圧する。こうした ことは現実に起こり得るのである。 「最大幸福」が、 (ベンサムやミルの意向と全く対立する)国 民の権利を無視した全体主義的国家のスローガンとして掲げられることは、過去にあったし、そ
してこれからも又起こり得ることと思われる(16)。
すでに義務の分類のところで述べたように、ミルは、正義の義務は、人間の権利と密接に結び ついていると考えていた。即ち、我々は本来、その生命や財産を不当に奪われてはならない権利、
不当な差別待遇や抑圧をされてはならない権利を有する。それが故に、我々は相互に、その生命 や財産を尊重し合い、公平に対処し合う義務を有すると考えていたのである。しかし「最大幸福」
を道徳の最高原理として主張する限り、ミルは、個人が有するこうした権利が尊重さるべき理由 を、 「最大幸福」の実現に役立つという効用に基づいて説明しなければならない。しかしそれは 十分な形では決してできないと思われる。これらの人間的権利が、 「最大幸福」の実現のために 役立つから尊重される以上、前者は常に後者によって制約されている。従って後者の実現のため に役立たない場合には、無視ないし抑圧される可能性を常に秘めているからである。社会全体の 幸福ということと、個人の権利の尊重とは、現実に時として対立するし、それらが常に必然的に 結び付くとは言い難い。しかも両者が現実に対立する時、全体の幸福のために、個人の権利が、
無視、抑圧されてきたのは、歴史上の事実なのである。従って個人の権利をそれ自体として尊重 するためには、むしろ(「最大幸福」の実現に役立つという)有効性に関わりなく、個人の権利 を正当化することが必要であるといってよいが、それは功利主義者であるミルには、不可能なこ
とであったといえる。功利主義の立場に立つ限り、功利性を度外視しても、それ自体尊重すべき ものがあるといった主張は、決して為され得ないからである(17)。
(4)次に幸福の総量の問題を考えてみる。周知の如くベンサムは、強さ、持続性、確実性、遠近 性、多産性、純粋性、範囲という7つの基準を立て、それによって快楽や苦痛の量を測定するこ とを提唱した(18)。これらの基準に基づいて、或る行為なら行為が、社会の構成員のすべてにも たらす快楽、苦痛の量を測定する。そして全体としての快楽の総量が苦痛の総量にまされば、そ の行為は道徳的に善い行為といえると考えたのである。従ってベンサムの「最大幸福」原理は、
快苦の量的計算という考え方と常に密接に結び付いていたのである。これに対してミルはどうか といえば、彼は後に述べるように、肉体的快楽と精神的快楽との質的違いを認め、ベンサムと異
なる面を有することは否定できない。しかしそのミル自身も、やはり「最大幸福」を道徳の最高 原理として受入れ、たえず幸福の総量の増大を問題としていたのである。 「最大幸福原理によれ ば、 ‑・・・それとの関係において、そしてそれのために他の一切のものが望ましい究極目的は、 ・‑
‑質や量の点において可能な限り苦痛を免れた生存、可能な限り享受において豊かな生存である。」
(p. ll.) 「功利主義の規準は、行為者自身の最大幸福なのではなく、総計された幸福の最大量で ある。」 (p.10.)従って幸福の総量を重視する態度は、ベンサムだけでなく、ミルにもあったと いえる。そこで次にこうした立場の問題点を考えてみたい。
Frankenaが、次のような例をあげて、功利主義に反論を加えている(19)。ここにRi, R2と いう2つの規則があるとする。そして実際には非常に困難なことではあるが、功利主義者の主張 するように、これらRi, R2それぞれの規則に人々が恒常的に従って行為した場合の結果を、
我々が知り得ると仮定する。そこでこの結果の価値を測定した時、即ち一人一人にもたらされる 幸福の量を計算し、その総量を測った時、 Ri, R2は、結果として人々の全体に全く同量の幸福 をもたらしたとする。このように仮定する時、功利主義の立場に立つ限り、 Ri,R2 という 2つ の規則は、全く同等に有効だということになる。一方を他方に優先させる理由は、全くないと言 わねばならない。しかし2つの規則は、それに従った結果もたらされる幸福の総量を、社会の 成員達の間で、全く異なった仕方で配分しているということはあり得る。例えばRlに基づいて 行為すれば(特に優遇する理由もないのに)比較的少数の人々にだけ多量の幸福が与えられ、他 の多くの人々には、 (何ら差別する理由がないのに)少ししか幸福が与えられない。しかしR2 に基づいて行為すれば、成員達のすべてに平等に幸福が配分されるといった違いはあり得る。こ の場合Rlは不正な規則であり、 R2の方が道徳的により望ましいと言うことができる。しかし 人々の全体にもたらされる幸福の総量だけを重視する限り、功利主義者は、 Ri, R2 という 2つ の規則が道徳的に全く同じ価値を有すると主張しなければならない筈である。従って単なる功利 性の原理だけでは、公平ないし、平等という道徳的価値を基礎づけることができない Frankena はこのように主張しているのである。そしてこれは正当な批判であると思われる。単なる総量を 重視する立場だけでは、より平等な配分の方を、道徳的により一層望ましいと正当化することは 決してできない。それ故「最大幸福」の原理が道徳的に有効であるためにも、平等性の尊重とい った(配分を規定した)別の道徳的原理が更に必要になってくるといえる(20)。 Ryanも、幸福の 総量を最大にすることが、その配分において極端な不平等を含む場合があることを考慮して、次 の様に述べている。 「正義は一般幸福を最大化しようとすることから独立な原理、それに或る仕 方で対立する原理である。財の平等ないし公正な配分を欲することは、財を最大化しようと欲す ることと同じではない(21)。」 「より大きな幸福を生み出せといった量的道徳目標は、正義や公平 といった配分的道徳目標に還元され得ないし、又それを生み出すことができない(22)。」これは真 実だといってよいと思われる。
更にB. Williams は、単に幸福の総量ではなく、平均を問題にしてみても不十分だと指摘し ている(23)。例えばSlとS2という2つの社会があるとする.そして、それぞれの社会におけ る平均効用(社会全体の幸福の総量を、構成員の数で割ったもの)を算出して、それが同じであ ったと仮定してみる。しかしそれで2つの社会が道徳的に同じような状態にあるとは決して言え ない。たとえ平均が同じであったにしても、一方の社会では比較的平等に配分されているが、他 方の社会では、非常に少数の者が多量を独占し、大きな不平等が支配しているといった可能性が あり得るからである。従って総量や平均を重視するだけでは、道徳的に不十分だと言わざるをえ
ないO ミルは、功利主義と聖書におけるイエスの立場とを同一視し、後者の平等を尊重する態度 は、功利主義の理想的完成を示すと述べているが24)、これは問題だといってよい。総量を重視 する限り、決して平等や公平の尊重とはつながらないからである。
(5)以上、幸福の具体的内容の唆昧さ、慈恵性(幸福‑道徳的善とは言い難いこと)、 「最大幸福」
と個人の権利との対立、幸福の総量の問題などを論じてきたが、結局、幸福は、道徳の最高原理 とは言えないと思われる。ミル自身は2つの理由(即ち個々の道徳的義務を基礎付け得ることと 義務同士の対立を調停し得ること)に基づいて、幸福こそ道徳の最高原理であると主張したので あるが、そうした主張は、道徳的に不十分だと結論せざるを得ない Mac Intyreは、「こうした 仕方で功利主義を支える試みは、我々の諸価値に偽りの統一を与えようとする誤った試みであ る(25)。」と極付けているが、私自身もそのように考えざるを得ない。現実の我々自身の道徳体験 を考えてみる時、一般に我々は、幸福を決して絶対視していない。個々の状況における幸福の具 体的内容が何であろうと、我々は常にそれを幸福以外の別の道徳的規翠(例えば平等性の尊重) に照らして、その道徳的正、不正を問題とする。このことは自分自身の幸福の場合であろうと、
他人(ないし社会全体)の幸福の場合であろうと、事情は変わらない。我々は決して幸福を絶対 視しない。しかも我々は、道徳的に正しい在り方に対立するものとして、幸福への欲求に警戒心 を抱くこともある。幸福が我々にとって切実であるだけに、それだけそれが不正‑の誘田となり 易いからである。従って(本来道徳的に正しいものに対して従属的地位を占めるべきもの、時と して不正への誘因となり得るものである)幸福を絶対視し、それに遺徳を基づかせようとするこ とは、一種の本末繰倒と言わざるをえない。道徳的に望ましい仕方で幸福が求められるためにも、
道徳的正、不正の究極的規準は、幸福とは別なものに求められるべきだと思われる。
Ⅳ 価値に応じた配分と平等
すでに述べたように、ミルは、正義という遺徳的義務の内容を4つに分けて説明していた。し かしそれら正義の異体的内容同士の間でも、当然対立が生じる。その典型的例は、公平と平等と の対立である。例えば富や栄誉などを配分する場合、公平を重視すれば、価値に応じた配分(そ の人があげる成果が大きければ大きい程,それだけ豊かな富などの配分に与ること)が生じ易く、
これは富の平等な配分を要求する立場と明白に対立するからである。それ故、ミルが価値に応じ た配分と平等な配分とのいずれを,より一層重視していたのかという問題が生じるが、彼はやは
り前者を優先させている。 「遺徳論者や立法者の評価において、幸福に対するあらゆる人の平等 な要求は、人間生活の避けることができない諸条件や一般利益(その中にあらゆる個人の利益が 含まれている)がその格率に諸制限を置く場合を除いて、幸福へのあらゆる手段に対する平等な 要求を含む。そしてそれらの制限は、厳密に解釈されるべきである。正義の他のあらゆる格率と 同様、これは、決して普遍的に通用されないし、叉適用され得ると主張されない。」 (pp. 58‑9.) こうしたミルの言明は、 「社会は、より有能な労働者からより多くのものを受取る。彼のサーど スは、より有益であるから、社会は、それらに対するより一層大きな報酬を彼に支払うべきであ る」 (P.54)と考える立場に、ミルが組していることを明らかにする。 「最大幸福」を遺徳の最高 原理とする限り、社会への有益性が何よりも重視されるO それ故価値に応じた配分が当然優先さ れるのである。そしてこうしたミルの立場が尤もであると言える面がいろいろあることは否定で きない。例えば仕事を真面目にやって成果をあげる人と、怠けてろくに仕事をしない人を全く同
じ様に扱うことは、明らかに不合理といえる。それでは真面目に働く人が、かえって働く意欲を なくしてしまうと思われる。成果に違いがある以上、その違いに応じて対処するのが当然であり、
そうしないのは不公平なのである。昔のように家柄、身分といったものが、決定的意義をもって いた時代においては、身分のよい家柄に生まわたというだけで、ろくに仕事をしなくても、高い 社会的地位と報酬とが保証されていた。こオ=こ対して、家柄や身分の低い家に生まれた者は、い くら真面目に働き、成果をあげても、十分に報われないといったことが、実際にあった。こうし た封建的悪弊を打破するためにも、成果を重視することは、道徳的に望ましいといえる面がある のである。又、 (今日の日本の文化勲賞などのように)社会的に功績があった人を称える場合に おいても、価値に応じた配分は、確かに有効な原理といえる。業績や成果を挙げた人を差置いて、
他の人に栄誉を与えることは、明らかに依惜最眉であり、道徳的にも許され得ないといえる(26)。
こうしたことを考えれば、価値に応じた配分が、社会的に重要な意義をもっていることは否定 できない。古代ギリシア以来、これが正義の最も重要な内容の一つとして規定されてきたのも、
よく理解できると思われる。そこで私自身も、これの正当性は十分認めている。但し、これを絶 対視するだけでは、問題も生ずると考える。道徳的には、人間の平等性の尊重の方が、より一層 重要であって、価値に応じた配分は、 「平等性の尊重と両立し得る限り」といった制限条件がつ けられないと、危険だと思うのである。そこでその理由を、次に述べる。
(1)価値に応じた配分は、人間が努力してあげた成果に基づいて、富、権力、名誉などを配分 しようとする。従ってそれは現実に成果を挙げた人だけを優遇し、逆から言えば成果を挙げ得な い人々を冷遇、無視するということに、当然ならざるを得ない。そこでそれが極端になり過ぎ ると問題が生じる。成果や業績を挙げることができない人々の、人間としての権利が、極端に 等閑にされ、不平等を助長するだけになるからである。例えば有能で、成果を挙げた人だけに 高い報酬と地位とが与えられ、そうでない人々には極端に安い給料と低い地位しか与えられな いとする。そうすると後者の人間としての権利は、大きく制限を受ける。給料が安くて、生活 するのがやっとだとすれば、衣食住あらゆる面において貧しい生活を強いられる。知識や教養 をつけることは、恩いもよらない。さらに上役の命令通りにしなければ、何時解雇されるか分 からないといった不安定さが、彼らの人間として生活する権利、自由などを大幅に制限する場合
もある。そして又、病人や老人、障害者など、現実に成果をあげる可能性が少ない人々は、も っと惨めな境遇に追いやられざるを得ない。価値に応じた配分ということだけが強調され過ぎる と、こうした人々の生きて生活する権利などは、全く無視されてしまう可能性がある。 「何ら 成果をあげ得ないのだから、人間として無価値だ」と、冷たく、放置されてしまい易いからで ある。そこで価値に応じた配分ということだけでは、不平等を助長するばかりで、有害といえ
る面もある。価値がなく、無能とみなされている人も、同じ人間なのである。しかも生まれつ きの不運や病気などのために、働きたくても働けない人々さえ存在している。そこで人間の平等 性の尊重に基づいて、こうした人々の生活水準の向上に努めるのも、大切なことである。有能な 人だけを優遇し、そうでない人々を冷たく放置して顧みないことは、道徳的に許され得ない。こ うした意味において、価値に応じた配分ということ自体が、 「人間の平等性の尊重と両立し得る 限りにおいて」といった制限条件を必要とするといってよい。価値に応じた配分という考え方に 基づいて、下積みの生活を送っている人々を、ますます惨めな境遇に追いやること(無能とみな
されている人々を棄てて顧みないこと)は、道徳的に許され得ないといえる。 (2)道徳的に考えて みれば、成果をあげる有能な人々と、そうでない人々との間においても、人間としての平等性の
尊重は何処までも維持されねばならない。そこで例えば、 「自分は有能だから、無能な人間を動 物と同じ様に扱使おうが自分の慰物にしょうが、一向構わない」といった身勝手な考え方は、道 徳的に許され得ない。しかし単なる価値に応じた配分だけが強調されると、対人関係においてと かくこうした望ましくない在り方が生じ勝だといえる。従って現実の人間に成果、業績などの違 いがあろうと、 「すべての人間が、自分と同様、平等に生きて生活する権利をもっていること」
が、絶えず自覚されていないと、道徳的に危険だといえる。 (3)価値に応じた配分は、現実にこの 仕の中で行なわれており、しかも放置しておいても或る程度自然に生じる可能性がある。例えば、
現実に与えられる報酬には差があるし、文化勲賞を初めとした栄誉も実際に与えられている。人 間は人を同様に扱うことよりも、むしろ選り分けることの方に、強い関心を持っているせいか、
この世の中では現実に価値に応じた配分は、成り立っている。放置しておいても人を選り分け、
何らかの基準によって差別待遇することは、現実に生じる。こうした意味で、放置しておいても 不平等は生じる。しかしこのことを逆からいえば、平等は、努力しなければ保てないということ にもなる。そして放置しておいても自然に生じるものよりも、努力しなければ保てないものの方 が、より一層尊重されねばならないといえる。価値に応じた配分は、現実に行なわれているから、
それが極端な依惜魚貝や差別待遇にならないようにすることが、むしろ大切である。そしてその ためにも、人間の平等性が常に尊重されねばならないと思われる(27)。
こうした理由のために、私は単なる価値に応じた配分よりも、平等性の尊重の方をより一層重 んじる。前にも述べたように、何も価値に応じた配分が不必要だという訳ではない。それも確か に必要である。しかしそれは平等性の尊重と両立し得る限りでのことであって、そうした条件を 無視して、価値に応じた配分だけを強調するのは、危険だと考えているのである(28)。それ故ミル の考え方を無条件に肯定することはできない。ところで、カントは、単によい成果をあげる、あ げないといったことが、道徳的には決定的意義をもたないと考え、次の様に述べている。 「善意 志は、 ‑‑‑何か或る予期された目的の達成に役立つことによって善なのではなく、それ自体にお いて善である。一一たとえ特別な運命の不意によって、或るいは無慈悲な自然の乏しい賦与によ って、その意図を貫徹する能力が、善意志に全く欠けているにせよ、或るいはその最大の努力に も拘らず、善意志によって何一つ達成されず、その結果善意志(勿論それは単なる願望ではなく 可能な限り全力を尽くして手段を図る)のみが残るにせよ、それでも善意志は、その仝価値をみ ずからのうちに有するものとして、それ自身宝石の如く輝くであろう。有益か否かは、この価値 にいささかも関わりをもたない(29)。」カント も(私と同様) 、人間の価値は、単に富や権力の有 無、文化的才能の有無といったことだけによって決まるのではなく、道徳的であるか否かによっ て決まると、考えているのであるが、その道徳的に善い行為を為そうとする場合にも、人間の主 体的努力以外の運、不運(例えば生まれつきの才能、或るいは社会環境にまつわる運、不運)が その達成に現実に影饗を及ぼすことを認めている。 (善いことの実現に向かっても、不運の故に それが達成され得ないことは、経験的事実である。)それ故主体的努力の善し悪しを問題とする 道徳の立場からすれば、たとえ何ら成果をあげ得ないにしても、 (全力を尽くして善の実現に向 かったならば)その人は、 (幸運に恵まれてそれを達成した人と同様に)道徳的価値、人間とし ての価値を有している。カントはこのように考えたのである。そしてこうした考え方は、以下の
∴つの主張と必然的に結び付く。即ち、 (1)人間にとって道徳的であるか否かが、決定的に重要な ことであり、他の一切の事柄(例えば皮膚の色、国籍、性、才能や素質の賦与といった生まれつ きの違い、そして又、富、権力、地位、文化的業績といった、人間の努力にも、それ以外の運、
不運にも依存する違い)以上に重んじられるべきであるとするならば、そして道徳的に善い在り 方を為し得る可能性が、すべての人間に与えられている限り、本来すべての人間が、他のあらゆ
る違いに関わりなく、平等の価値を有する。等しく尊重されねばならない(2)従って現実によい 成果をあげる、あげないといったことも、それだけで絶対視さるべきではない。そうした有効性
に関わりなく、 (道徳的善を為す可能性を有する限り)すべての人間が、平等に尊重されねばな らない。こうしたカントの考え方は、単なる価値に応じた配分だけを絶対視せず、むしろそれを 人間の平等性の尊重と両立し得るように制限することに、当然導くといってよい。そして価値に 応じた配分だけを強調するミルの立場よりも、道徳的にすぐれていると思われる(30)。
Ⅴ 精神的価値と平等の問題
功利主義者として、ベンサムもミルも「最大幸福」を道徳の最高原理として受入れ、しかもそ の幸福を快楽及び苦痛の欠如と同一視していた。しかし快楽の質的違いを認めるか否かで、両者 には決定的な相違もある。快楽を重視するが故に、功利主義は、人間を低級な動物と同一視する 卑しい、豚にだけ相応しい教説であるという批判に対して、ミルは、功利主義は、肉体的快楽と 精神的快楽とを質的に区別し、しかも後者の方をより一層重視するのであるから、決して卑俗な 哲学ではないと反論している。それ故ベンサムと異なり、ミルは明確に快楽の質的相違を承認し ているのである。ミルによると、人間は他の動物と異なっているという意識、しかも他の動物よ りも勝れているという意識(尊厳の意識)をもっている(p.9.) こうした意識の故に人間は 動物と同種の欲求をいくら十分に満たすことができたにしても、それだけでは幸福と感じない。
たとえそうした快楽を十分に与えられたにしても、下等な在り方に身を落したくないという鋳緒 が、それだけに耽ることをやめさせる。こうした事実がある以上、肉体的快楽と、学問や道徳に 対する精神的快楽とをはっきり区別し、後者の方が質的に勝れていると考えるのは当然である。
「獣の快楽を十分に与える約束がなされたからといって、低級動物に変えられることに殆どの人 は同意しないであろう。愚者や出来損いや悪漢が、自分達以上にその運命に満足していることを 説き付けられたにしても、知性的な人が愚者に、教養ある人が無知な人に、洗練された感情や良 心の持主が、利己的で卑俗な人になることに同意することはないであろう。」 (p.8.)
こうしたミルの考え方は、当然望ましいといえる。体験される快楽の量だけを重視し、それだ けによって物事の価値が決まるとすれば、とんでもないことになるからである。例えば学問的に 真実な事柄と、そうでない事柄とがあるとする。この場合勿論学問的に真実な事柄の方が、遥か
に高い価値を有する。ところが体験される快楽の量だけを重視する立場からすれば、もし或る人 がこの2つの事柄に同じ量の快楽を感じたとすれば、両方とも同じ価値を有することになってし まう。しかしこれは明らかに問題である。真実なものは、個々の人間が現実に感じる快楽とは独 立に、それ自身の基準をもっている。卑近な例を挙げれば、 2+3‑5といったことは、我々が そのことに快楽を感じようが感じまいが、客観的に真実なことである。又2+3‑5といったこ とは、我々がそれにいくら苦痛を感じようと、 2+3‑4とか6になったりする訳ではない。 2 十3は常に5なのである。従って我々は自分の感じる快楽を、無条件に絶対視すべきではない。
偽りのものにいくら快楽を感じたからといって、偽りのものが真実に変わる訳ではない。しかも 偽りのものに快楽を感じていると、真実なものに対してますます盲目的になり、人間として堕落 してしまうといえる。そこで真実なものに対する快楽と偽りのものに対する快楽とを、はっきり
質的に区別し、前者の方をより一層重んずべきだと思われる。ミルの快楽の質的相違の強孟即ま、
こうした客観的に意義あるものと、そうでないものとを、はっきり区別することにもつながる限 り、単に快楽を絶対視する立場よりもより一層望ましいと思われる(31)。
しかし精神的快楽を重視し、例えば学問などの精神的価値の実現に向かうことは、 (一般には 望ましいとしても)それだけで常に道徳的善につながるという訳でもない。そこで最後にその理 由を述べる。 (1)現実に学問の探求に向かっている人が過度の高慢に陥っているとする。そして 精神的価値の実現に向かい得ない人々を軽蔑したり、悔ったりしているだけであるとするならば、
それは道徳的に許され得ない。現実に精神的価値を享受し得る人は、自分の努力でそうなった限 り、確かに人間として立派な面も有する。しかしそうした人は、自分が大きな幸運にも恵まれて いたことを忘れるべきではない。例えば経済的に余裕のある家庭に生まれたとか、素質や能力に 恵まれていたといった、自分の努力以外の幸運が必ず伴っているのである。そこで、こうした恵 まれた条件を感謝せず、学問を為し得ない人々を単に軽蔑しているだけであるとすれば、その軽 蔑は、単に恵まれた者が恵まれない者に対して抱く不当な軽蔑にすぎないといえる面が必ずある。
世の中には貧しいが故に日々の生計を維持するのが、やっとだという人も現実に存在している。
又経済的に恵まれていたならば、十分に素質や能力を伸ばすことができたのに、そうし得ず、一 生を恵まれないままに終ってしまう人も、現実に多数存在している。そうした人々を自分よりも 価値的に低い人間とみなし、無視しようが虐待しょうが一向構わないと考えることは、明らかに 人間の平等性の尊重と対立する。自分の恵まれた条件に対する感謝の念を忘れた、偽りの自負
(自分は自分の力だけで生き抜いてきたのだといった過信)が、恵まれない人々との連帯感の喪 失に導いているのである。生まれつきの勝れた素質や才能、それらを青くむのに都合のよい環境 などは、すべての人々に平等に与えられている訳ではない。 Aという人には与えられているが、
別のBという人には与えられていないといったことが現実に生じる。しかしAにはそうした恵ま れた条件を与えられる固有な資格があった訳でもない。 AもBも同じ人間であり、運、不運が、
そうした条件の違いを決定しているのである。そこで恵まれたAは、恵まれないBに対して、同 じ人間としての連帯感を決して忘れるべきではないといえる。人間が人間である限り、誰もが衣 食住の充足なくしては生きられない。そこでそうしたことに大して心を煩わすことなく、精神的 価値を享受し得ることは、人間として大きな恵みを与えられていることを意味する。ところがそ うした恵みに対して感謝することを忘れると、恵まれない人々との連帯感が失われ、自分の特権 的地位は、あたかも自分の力だけで獲得されたものだといった恩い上がりが生じてしまうのであ る。そこで恵まれない人々との連帯性、 (誰かが衣食住の充足だけに専心しなければ、自分の生 活が成り立たない以上)恵まれない人々の犠牲に支えられて自分の生活が成り立っているのだと いった感謝の念に欠けると、学問探究は、不当な自負や優越感を青くむだけで、道徳的に有害と いえる面もある(2)いくら精神的価値の実現が大切だからといって、それだけを絶対視するこ とは決して許されない。真理といった精神的価値を実現するためには、道徳を等閑にしてもよい といった存り方は、人間として許され得ない。例えば研究費を得るために不正を働く、生体実験 をするといったことは許されない。真理の探求に適進する人も、常に社会という場の中で活動し ているのである。それ故どのように研究するか、どのように人と接すべきかについては、 (研究 成果を高めるといった効用性とは別に)道徳的反省を絶えず必要とする。しかも探求の成果であ る知は、現実には必ず何らかの形で実用化される。そしてどのように実用化されるかによって、
人間にとって望ましくない場合もある。例えば公害の場合のように、知の利用が自然環境を歪め
ることもある。人体に有害な毒ガスやその他の兵器の製造に用いられることもある。知をどのよ うに利用するかは、人間が決めることであるが、その人間自身が道徳的に善い人でないと、知は 絶えず悪用されてしまう。そこで知の利用ということに対しても、常に道徳的反省が必要だとい える(3)学問の探求は、人々との対立、競争、或るいは、倣憤、野心、嫉妬、冷酷などと必然的 に結び付くことがある。学問上の対立、過度な自己愛が、これらを絶えず煽るのである。そこで 真実なものに対する畏敬の念のみならず、平等性の尊重といった道徳的態度に欠けると、不公平、
憎しみ、独断、冷淡、虚栄、専横といったさまざまな悪が生じ得る(32)。
以上3つばかりの理由で、私は、学問などの精神的価値の実現を、即道徳的善とは考えない。
真理を追求する学問は、今日自然科学、社会科学、人文科学といったようにさまざまに分化して いるが、しかしそうした学問を学べば、人間がおのずから道徳的にも成長し、善い人間になると いったことは、残念ながらない。いくら学問が重要だからといって、その学び方、心掛け次第で 道徳的に有害な結果が生じることもある。学問は人間としての完全性に到達するための必要条件 ではあっても、十分条件では決してない。従って学問の探求に向かう場合でも、常に人間の平等 性の尊重、人間愛というものに支えられていないと、かえって人間として堕落する可能性もある といってよい。勿論、道徳的善と同じように真理はそれ自体として尊重されねばならず、目先き の利害、安易な実益性を度外視しても追求さるべき面があることは言うまでもない。そして真実 なものがもつ尊さは、いかなる人間的、宗教的権威によってさえも覆され得ない絶対性をもつこ とも言うまでもない。しかし人間が人間として完全であるためには、学問だけでは十分でない。
学問のもつ厳しさ、尊さ、喜びの一切を認めた上でも、 (それらをより一層完全なものにするた めにも)道徳性が絶対に不可欠である。従って単に精神的価値の実現と道徳的善の実現とを同一 視すべきではなく、むしろ両者の非連続性にも注目した方がよいと、私は考える。ミル白身は、
精神的快楽ということで、学問と道徳とを同列に置き、両者の分裂、対立といったことを、厳し く問題にしていないように思われるので、最後にそれに触れてみたのである。
Ⅵ おわりに
以上、主としてミル『功利主義』を中心として、そこにみられる善悪の規準の問題を論じて きた。ミルの「最大幸福」を重視する考え方が、 (彼自身の意図に反して)個人の権利の侵害に 導き易く、それ自体十分とは言い難いこと、価値に応じた配分や精神的快楽の強調も、人間の平 等性の尊重と結び付かない限り、道徳的に危険な面を有することを指摘した訳である。そこで結 論として言いたいことは、一番基本的な道徳的規準は、人間の平等性の尊重であり、他の価値規 準は、すべて、これと両立し得る限りにおいて、それなりの道徳的意義をもち得るのではないか、
ということである。平等性の尊重という根幹を抜きにして、他の道徳的価値規準を絶対視したと ころで、道徳的には問題が生じるばかりだと思われる。そこでミルのように、遺徳の全休を(必 ずしも道徳的に望ましい内容を有するとは言い難い)幸福というものの基礎の上に再編成し直そ
うという試みも、結局失敗に終っていると考えざるをえない。しかしこの小論では、ミルにおけ るもう一つの重要な問題、即ち自由の問題を十分に扱うことができなかった。自由も人間にとっ て絶えず守られるべきものである限り、それと平等性の尊重との関係は、倫理的に非常に重要な 問題である。しかしこの問題についての私自身の見解は、簡単な形でならば別の拙論(『ロック の政治思想』奈良教育大学紀要26巻)ですでに述べたし、ミルの『自由論』の全体をここで扱う