遺跡とともk、繩文時代早・晩期の重要た遺跡で あるととが確認された。立た、との調査の報告で は、当遺跡採集の旧石器時代の遺物も合わせて報 じられており(註1)、当該期の包含局の存在が 予察された。昭和38、 40年の一連の調査は、主 忙旧石器時代石器群の検出を目的として実施され たもので、その結果、ナイフ形石器、台形石器、
細石刃を中心とする三枚の文化層が確認された。
これら石器群変遷の事実は、第■文化届から百花 台タイプの台形石器を多量K検出したととと合わ せて、九州kおける旧石器文化の研究上重要衣知 見をもたらしている。
本報で紹介ナるS地点は、上記二回の調査か行 たわれ九地点とその場所を異忙Lて仏る。一般忙 百花台遺跡自体は、ある程廣広範左地域を占める と.思われるか、遺跡内kおける遺物の散布状況や 密集地点が総合的K理解されているとは言仏難仇。
とのS地点は、旧発掘地点から土黒川牝沿って約 500 加下うたところで、両地点は伺一台地上の 河川側忙距籬を隔てて位置して仇る(第1図)。
現在は柴田定男氏所有の耕地であり、地目は芋畑 である。ととでは、旧発掘地点と区別する意味で、
柴田氏の名を貸りτ「百花台遺跡S地点」と称L ておく。当地では押型文士器を吐じめとして、繩 文時代の遺物もかなり採染でき、石鯲の数は(現在 採染分だけで)70個以上忙もの懐うている。旧石 器時代の遺物は、 100が程の比較的集中した範 囲から採集され、その分布の状態は、繩文時代の 遺物の散布域と明確左異左りをみせて山る。特忙、
細石刃、細石核は径5机程の集中区を有しており
、興味深゛。平面豹た観察の九め土眉の序列忙つい ては不明であるか、耕作土は黄桐色のふかふかし た軟質土で、旧発掘地点の第2層忙対比されるも のと思われる。ただし、遺物の種類からみて、深 耕kよる撰乱作用はか左りひどく、安定した包含
、層は密集域の周辺k存在してⅥる。
れの特徴忙ついて述べる。
ナイフ形石器〔第2図1・ 2〕1は青灰色を呈 tる黒咽石を用いた恰ので、素材は縦長剰片と思 われる。基部を久損するが、残存部でのプランテ 一γグ加工の部位は、左側全辺と右側辺の基部よ りの一部である。 2は乳灰色を呈する黒曜石製の 縦長剥片を素材として仏る。先端部を欠損し、残 存部でのプランティング加工疫は両側辺の全てk 認められる。基部調整は施されて山たい。
台形石器〔第2 図3 6 ・ 9 〕 5点あるか、
素材の形状、整形加工法の違いから3つ忙分類で きる。 3 5は、縦長の石刃状剥片を素材忙した と思われ、おそらく、切裁手法忙よって数個忙切 断された後、両側辺忙プランティ yグ加工を施さ れたものであろう。とれら吐、他忙比べて極めて 小形であるという点や、 5忙みられるよう左刃部 よりの両側辺の張り出し等の特徴から「百花台型 台形石器」の範時k入れられよウ。 6は前三者忙 比べ、力n工法kついては抵擢同じであるが、素材 忙不定形な剥片を用゛る点で異之っている。 9は 横長の不定形剥片を素材牝用いており、その両面 忙平坦剥詐を施して整形した、のである。断面の 形状は、前四者が薄い偏平な台形を呈ナるのk対 し、厚みのあるνソズ状を皇するのが特徴的であ る。これは、所謂「枝去木型台形石器」と称され るものである。石材は、 3が青灰色を呈する黒曜 石であるのを除山て他は全て漆黒色の黒畷石である。
尖頭器〔第2図7・ 8〕 7は硫質頁岩製の二 控尖頭器である。素材の主要条11雛面は、全面側辺 からの調整剥雜kよって被われており剰離方向
、が縦か横か明確で壮仏。基部を欠損する。調整加 工は、一側面の憶とんどを残し、二面牝施されて
いる。 8は、基部と先端部の一部忙加工を施した 安山岩製の尖頭器である。
細石核〔第2図10 12、第3 図 1 9 〕採 集資料の中で、細石刃忙次山で多いのがとの細石 核で、半欠品を含めると15点を数える。本遺跡 の細石核は、その製作諸工程の違いから二つのグ ノレープ忙分けられる。
1 類第2図10U 細石核と第3図 10の削片 を含白。これは、一般K「タサビ形細石核」及 び「舟底形細石核」と称されるものと同様のも 3.遺物
採填した石器は、火まかk分類して、ナイフ形
石器、台形石器、尖頭器、細石刃、細石核、使用
痕のある剰片である。細石刃、使用痕のある剥片
以外は採集資料をすぺて図示した。以下、それぞ
乳灰色不透明の黒昭石を用いており、素材の形状 は球形もしくは馬平右板状の礫である。打面を形 成した後、石核調整剥艇をあ立り密紀施さナ、細 石刃剰取を行なうため、細石核の側面及び背面忙 は自然面を多く残す結果とたうて山る。第3図6 は、とれちの細石核の打面形成か窪たは調整剰睡 の際生じた剰片を素材とした細石核である。
第2図11・ 12及び第3図1の細石核は、長崎 県大村市野岳遺跡で代表される「野岳・休場劉」
(註2 )の典型例である。 12吐.正裏而とも細石 刃剰取が行吐われているか、端正な細石刃吐得ら れて山たい。仇ずれも漆黒色の具W電石製である。
これ牝対して、第3図2 ・ 3 ・ 5 の細石核吐、野 岳劉の特徴のーつである偽柱及び円錐形の体形を もうてい衣い。カ・しろ 1 類忙認められる背緑の条11 礫痕を有しており、 1類の中でもやや特異であろ。
しかし、背緑k残された調整剰緋痕と打面の剛係 等が不明硫であり、 Cこでは1類の範醐で捉えて おきた仏。第3図の8の細石核は青灰色黒昭石を 利用し九もので、苛面の側方剰離か特徴的である。
左側面を打面、矧石刃剥取面を主要剥籬面とした 剥片素材利則の可能性かある。
打面調整は、第3図2を除いてナべての細石核 忙施されているが、打面転移、複設打面は全く認 められな仏。第3図4は下方からの細石刃制離痕 が認められる唯一の両設打面石核である。
細石刃〔第3 図 11 26、第4図 1 9 〕現 在立で忙採集した細石刃の総数吐、 114本である。
その部位別、石材別の個数は第3表k示すとおり である。とれを見ると、細石刃の石材は細石核と 同じく黒園石の罪であり、その中でも漆黒色の
士器を含力ためこの種の石器忙つ山ては所属時
、期の判定が困難である。ととでは石材及びその風 化の進行度等から判断した。全て、石刃状の剥片 の側辺k使用の痕跡が認められ、その剰雌も深く 及んで仏る。打面部を有している資料を観察する と、全て無調整打面である。 15虻つ仏て吐繩文 時代のものである可能性か高い。
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以上、各々の石器の特徴忙つⅥて詳述したか、
ことで、とれらの石器群の理解の仕方忙つ山て若 千の私見を述べてみたい。
S地点の石器組成を評価する忙あたっては、や はり旧発掘地点の所見と照、らし合わせて考察する のが妥当であろう。先の百花台遺跡の調査では、
第1文化層一細石器を主体とし九石器群、第Ⅲ文 化層一台形石器を主体とした石器群、第Ⅳ文化屑 ナイフ形石器を主体とした石器群の三者か、Ⅳ
→皿一、1の層準を形成ナると山ウ結果が得られて いる。これと比較してみると、 S地点の石器組成 忙は、旧発掘地点では出土して仇な゛ものが存在 して゛る。ミ稜尖頭器及び枝去木劉台形石器がそ れで、とれちの帰属kついては問題が多い。一般 忙三稜尖頭器はナイフ形石器文化期k属するか、
その下限と台形石器との関係や、いまだ明確kさ れてⅥ壮い百花台型と枝去木型の台形石器相互の 編年的位匿づけ等、この石器群のもつ意味は大き い。ようて、 S地点の石器群は、旧発掘資料K比 べて、その組成上複雑なものであり、旧発掘地点 での成果をその京ま適応して石器群を分籬・編年 ナることはできない。 S地点と類似した石器組成 を、つ遺跡として、表採資料ではあるが、池崎・
吉留氏の報告忙よる尻無平遺跡<文献3>がある。
当遺跡は、鹿児島県西北端の八代海上忙浮かぶ長 島k所在する恰ので、採集された資料は、ナイフ 形石器、台形石器、三稜尖頭器、スクνイパー、
ノ、^.石核、細石刃、細石核等である。との台形石器の 隠とんどが百花台夕4 プの、のであり、石器群叱 みられる西北九州的様相は、報告者が指摘する立 地の西北九州的様相と共忙興味深仇事実である。
尚、報告者は、この石器群忙つ仏ての時期的区分 松ナイフ形石器・台形石器・尖頭器と細石刃・細
.
小結
ものが2以上を占めてぃる。とれは、細石核の石
材のあり方と同じ傾向を示している。部位別では、
頭部が略半数で一番多く、次いで胴部がと続仏 て山る。細石刃の長さ忙つ仇ては時間の都合で割
愛したか、お、そらくとの頭部と胴部の仏ずれ、 1.5 m 2m忙収まるものと思われる。使用痕は、第 3 図 13 ・ 17 ・ 25 ・ 26、第 4 図 4 のよう忙細か
゛連続ナる刃と硫れとして認められる。その頻度、
部位等忙つ山ては肉眼での限界、あるので省略した。
使用痕のある剥片〔第4図10 16〕全部で 7点図示した。採集資料忙吐、繩文時代の石器、
、