日本近代知識人の思想と実践 : 有島武郎の場合
著者 金 春美
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 1993年4月13日, 主催者: 国際日 本文化研究センター
ページ 1‑24
発行年 1993‑10‑15
その他の言語のタイ トル
The throught and practice of modern Japanese intellectuals : the case of Arishima Takeo (1878‑1923)
シリーズ 日文研フォーラム ; 52
URL http://doi.org/10.15055/00005729
第52回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
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日本近代知識人の思想と実践
一 有島武郎の場合 一
TheThoughtandPracticeofModernJapaneseIntellectuals:
TheCaseofArishimaTakeo(1878‑1923)
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金 春 美
KimChoonMie
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォ!ラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海外
の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあります︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立っている
わけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議論や
情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒このフォー
ラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究者が自由な
テーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマルな﹁広場﹂を
提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を⁝機として︑皆様の日文研フォーラ
ムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長梅原猛
● テ ー マ ●
近代日本知識人の思想と実践
一有島武郎の場合一
TheThoughtandPracticeofModernJapaneseIntellectuals:
TheCaseofArishimaTakeo(1878‑1923)
● 発 表 者 ● 金 春 美 KimChoonMie
発表者紹介 金 春 美
KimChoonMie
高麗 大学文科 大 日文科教授
1943年 生 まれ 。1965年 ㍉ 梨 花女 子 大 学 英 文 科 卒 業 ◎1977年 、 韓 国 外 国 語 大 学 大 学 院 日本 語 科 専 攻 修 士 号 、1984年 、 高 麗 大 学 大 学 院 国 文 科 博 士 課 程 専 攻 、 博 士 号 を 取 得 。1979〜1985年 、韓 国外 語 大 日語 科 助 教 授 。1983〜1984年 、 東 京 大 学 比 較 文 化 ・文学 研 究 室 客 員教 授 。1984年 、韓 国 外 語 大 大 学 院 日語 科 主 任 。1985年 〜1989 年 、高 麗 大 学 日文科 副 教 授 を経 て 、高 麗 大 学 日文 科学 科 長 。1989年 よ り高 麗 大 学
日文科 教 授 と して現 在 に到 る。1992年8月 よ り1993年8月 まで 国 際 日本 文 化 研 究 セ ンタ ー外 国 人 来 訪研 究 員 と して 来 日。 専 門分 野 は韓 国 ・日本 近 代 文 学 の比 較 研 究 。
主 な論文及 び著作
「谷崎潤一郎論」1977年、韓国外国語大学院。
厂翻訳詩の意味 〈上田敏 の 『海潮音』 と金億の 『奥悩の舞踏』を中心に〉」
1979年、比較文学(韓 国比較文学会) 厂谷 崎潤一郎 の世界」1982年 、世界文学夏号
「金 東仁 の美意識」1979年 、『金 東仁研究』所収(Semun社)
「韓国近代文学史上 にみる明治学院」1985年 、明治学院図書館資料(明治学院大学)
「20世紀 日本文学 の思想論争」1986年、弘益(弘 益大学) 厂日本文学 の現住所」1986年、東洋文学
「カ トリック作家 と しての遠藤周作」1988年、東西文学
「日本 の私小説」1988年、東西文学
「有島武郎論(1)〈一知識人の 自己模索〉」1988年 、高麗大学人文論集
「有島武郎論(2)〈文学 とキ リス ト教〉」1989年、東西文学
「日本耽美主義文学の系譜」1989年、外国文学
「宮本百合子の 『伸子』」1990年、文学思想
「村上春樹論」1991年、現代文学
厂私小説への回帰 〈開高健 を中心 に>1992年 、文学思想 厂日本の映像世代 と文化」1992年、文化 ・芸術(韓 国文化振興院)
「金 東仁研 究」1985年、(高麗大学民族文化研究叢書25、高麗大学 出版局)
翻 訳
村 上 春 樹 『風 の 歌 を 聴 け』1991年,(Moum社)
村 上 春 樹 『中国 行 きの ス ロ ー ・ボ ー ト』1992年(Moum社) 開 高 健 『掌 の 中 の 海 』etc.1992年 、(文 学 思 想 社)
はじめに
今日は近代日本知識人のあり方について︑有島武郎を中心に話したいと存じま
す︒なぜ今有島であり︑もうその単語が国語辞典にしか残っていないものとさえ
思われる知識人などという時代錯誤的な話しなのかと思われるのではないでしょ
うか︒それで前置きが少し長くなるかも知れませんが︑まず私がこのテーマに関
心を持つようになった契機から話させていただきたいと存じます︒皆様もご存知
かと思いますが︑五︑六年前の韓国は全斗煥(身○⇒UOo団彗)大統領の軍事政権
に対する全学連の反体制運動の渦中にありました︒このような闘争は朴正照大統
領の時から引き続いていたものでしたが︑キャンパスでは︑反体制派の学生の焼
身自殺︑投身自殺が相次ぎ︑学生を支持する先生方は拘留されるなどの激動期で
ありました︒当時私は丁度学科長をやっておりまして︑学生達と堂々めぐりの︑
結局平行線に終わってしまう話し合いを何時間もつづけたりして︑私なりに苦し
んでいたのです︒金芝河という反体制派詩人は﹁焼身自殺などするな︒それは犬
死だ︒﹂と言うような事を言って反体制派から批判にさらされたりもしましたけれ
ど︑学生たちの論理に非現実的な面もあって︑私としては妥協できない部分も多
い︒しかし︑同時に妥当な主張である事も否定できないということで︑自己ディ
レンマに陥っていたのです︒金束圭高麗大学教授は﹁今日韓国の知識人の正しい
位置はどこであり︑どこであるべきか︒韓国現代史上︑今ほど知識人たちが孤独
で︑脆弱であり︑結局自己幻滅を覚えざるを得ない時はなかっただろう︒﹂と一九
八八年六月十八日付の東亜日報に書いておりますが︑そういう激動期を経たので
す︒と言うわけで︑七〇余年前の日本という異国での文学者のあり方ではありま
したが︑激動期を生き︑思想と実践という問題にぶつかって悩んだ有島武郎の存
在が身近に感じられたのでした︒その後︑幸いに韓国も徐々にではありますが︑
民主化のプロセスを辿り始め︑学生運動も下火になり︑先月には全学連の自発的
解体宣言という段階に至りまして︑私ものんびりと︑﹁谷崎潤一郎に於ける桃源境
志向﹂などという優雅なテーマにとりかかったりしておりましたが︑どうも最近︑
といっても実は日文研に来訪研究員として来日して二︑三個月ほど経った去年の
十二月頃から︑改めて有島武郎の言う思想と実践の問題が気になり始めたのです︒
何故今さら有島か︑とのご質問に対する答になるのではないかと思われる記事が
先月朝日新聞にでておりましたので︑ちょっと引用させていただきたいと存じま
す︒これは東大の小森陽一さんが一世紀末︑読み直される漱石﹂という題で書か
れたものですから︑有島に該当させるのは少々強引に過ぎるかなとも思われるの
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ですが⁝﹁漱石の小説も︑文明批評も︑文学批評も︑すべて現代の問題であ
ることを実感した︒あるいはその言葉と認識を︑先入観を捨ててその文字どおり
の意味に於いて捕らえる事に依って︑二〇世紀末の最も重要な課題が見えてくる
ことを確信した︒(中略)漱石を生きる︑ということは︑産業資本主義と科学文明︑
近代の国民国家と戦争︑メディアと政治︑言語と文学︑そしてその中で生き死に
する近代の個人について一気になおかつトータルに︑原理的に考えるという事に
ほかならない︒﹂少なくとも私にはここでの漱石を有島に読み変えてもいいのでは
ないかと思われるのです︒もう少し詳しく説明させていただきますと︑私は今日
本語でしゃべっています︒しかもかなり日本語ができる︑と思われるのではない
でしょうか︒ところが︑日本語で日本の方に話していながら私自身は何かコミュ
ニケーションがとれていない︑言おうとしてしていることが意図通りに伝わらな
いと言う思いが非常に強く感じられてならないのです︒私は一〇年前にも東大に
客員研究員として一年間お世話になったのですが︑その時は今のようなズレは感
じなかった︒一〇年の間に日本はより豊かになり︑経済大国としてグローバルな
影響力を及ぼすようになった︒日本の方々も︑特に若い世代は︑国境意識を持た
ないくらい国際化している︒それなのに私は宇宙から迷い込んできたE・Tのよ
うな違和感を払拭できずにいる︒それが第一の問題です︒一昨年私は村上春樹の
﹁風の歌を聴け﹂を翻訳したのですが︑主人公の︿私﹀に小指のない女の子が︑
﹁本当のことを聞きたい?﹂と言って︑一週間前にデートを断ったのは実は堕胎手
術のためだったと言う事を話そうとした時︑︿私﹀は[去年ね︑牛を解剖したん
だ︒腹を裂いてみると︑胃の中にはひとつかみの草しか入っていなかった︒僕は
その草をビニールの袋に入れて家に持って帰り︑机の上に置いた︒それでね︑何
か嫌なことがある度にその草の塊を眺めてこんな風に考える事にしてるんだ︒何
故牛はこんなまずそうで惨めな物を何度も何度も大事そうに反すうして食べるん
だろうってね︒﹂﹁分かった︒何にも言わないから︒﹂と女の子は言いますが︑彼女
はそういう彼を優しい︑と受け止めています︒つまり他人の内面世界に踏み込ま
ない︑僕の世界にも干渉しないでほしい︒という︑一定の距離を保つ事が︿優し
さ﹀になっているのです︒最近よく聞かれる勹同Oh①ω匹oづ巴匿αω(機械マニアの子
供達)と呼ばれる︑幼児期からハイテクの世界に慣れている子供達は情報過剰の
社会を生き︑小学校三︑四年生のほうが文明批評においてはむしろ担任の先生より
優れているかも知れない︒しかし︑彼らは縦横のつながりが全く無い︑個の存在
として人間より情報が先行している世界に住んでいる︒しかもそれが当然になっ
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ている︒対話というものの必要を感じないくらい︑彼らの個人的空間はまとまっ
ている︒優しさ︑思いやりという言葉がスローガン化してしまって︑やたら目に
つく町の中で︑そもそも他の人と分け合う共通の関心事項というものが行方不明
になってしまったのではないかという気がするのです︒日本の若い女性が結婚相
手に望む条件の一つである優しさの語源は﹁身も細くなるくらい他人のために思
い煩う﹂ことではなかったのでしょうか︒(山上憶良﹁世間を憂しとやさしと思へ
ども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば﹂︑﹁貧困問答﹂万葉集巻五︑八九三岩波
書店﹁日本古典文学大系﹂の注には﹁やさしの語源は痩ス←ヤサシー痩せるよう
な気がする︒世間に対してつらくて︑身も細るように感じる﹂とある︒)話が少し
飛躍しますが︑もしも日本が本当に他人に対する優しさ︑思いやりというものを
根底に据えて経済援助をするなら︑(貿易黒字が多すぎて︑しかもそれは日本製品
が優秀だからなのに︑とにかくうるさい︒見返りとしてお金を出そう︑等という
事はないでしょうが︒)︑実質的に出している金額に見合った評価を受けられるの
ではないだろうか︑などと考えていますと︑﹁私の意味する積極的な生活というの
は︑他の人と連関して考えられねばならぬ生活を言うのだ︒多くの人が苦しんで
生活しているのに︑自分だけが楽な生活ができるということは一つの矛盾だ︒﹂
(﹁生活ということ﹂一九一一年十一月)と言い︑貧困などの社会問題は﹁連帯責任
の理として覚醒したものの双肩にある︒﹂(一八九八年十二月三一日︑日記)との
認識下に︑﹁思想は一‑つの実行である︒私はそれを忘れてはいない︒﹂(﹁惜しみな
く愛は奪う﹂一九一七年六月)という信念を貫いた有島の存在が︑改めてクローズ・
アップされて来たのです︒ここで取りあげる余裕はないのですが︑このような有
島の﹁富﹂に対する姿勢は︑いま話題の﹁清貧の思想﹂につながるものだったと
言えます︒これは大正十一ー十二年間の彼の書簡︑特に友人の足助素一︑弟の生
馬宛のものと︑その日記に詳しいですから︑興味がある方は読んで下さい︒
二番目はこれは長い間︑ことに韓国と比較して私が関心をもってきた問題なの
ですが︑近代日本の知識人の役割に関するものです︒三年前に開かれた日文研の
国際シンポジウムでシンガポールからいらっしゃった容応萸さんは﹁アジアにお
ける日本﹂というテーマで発表した論文で︑日本の知識人の個人の世界︑私的世
界への沈潜︑つまり非政治的︑超政治的な姿勢がどういう意味を持つか︑と言う
問題を取りあげました︒容さんは北村透谷︑与謝野晶子に限定しましたが︑反政
治的.非政治的な態度をとり︑私的世界に没頭しているはずのものが︑結局は直
接的︑間接的に日本の軍国主義に加担する事になり︑無関心・無批判であった結
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