貧困学と三派の人口論 : 続日本人口論史
その他のタイトル A Note on the Japanese Population Theory (9)
著者 市原 亮平
雑誌名 關西大學經済論集
巻 9
号 3
ページ 253‑284
発行年 1959‑09‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15588
一︑新日本膨脹論 二
︑ 生 存 権 の 社 会 政 策
' 三
︑ 貧 乏 物 語
︵ 続 載
︶
すでにわたくしは関西大学経済論集第四巻七・八合併号いらい同第七巻二号にいたる間︑八回にわたり日本人口
史を連載してきた︒さいしよの意図が意外に膨んだためと一身上の事情があって︑
が︑此間各位より批判や激励の言葉をたまわりわたくしも力を得てふたたび日本現代人口論史を完結すべくここに
巻四
号六
六し
六七
ペー
ジ︶
に従
い︑
その第四期が当面の対象とされる︒ 筆を執った次第である︒ここでは日本人口問題史のわたくしなりの区分︵拙稿﹁わが国のマルサス研究史﹂経済論集第七
日露戦後ー四0年の反動不況の襲来︑四一年
の恐慌とオーヴァーラップする端緒的な農業危機の開始︒寄生地主制の明治四十年代の確立とこれと︒ハラレルにす
すんだ金融資本の端緒的成立を基軸にいよいよふかまった農工間の不均等発展により人ロ・食糧問題や農民の向都
貧困
学と
三派
の人
口論
︵市
原︶
ー 続 日
. 本 人 口 論 史
I
貧 困 学 と
︐ ︐ 會
派 の 人 口 論
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しばらく連載を休止していた 原
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︹ 一
︺
新 日 本 膨 脹 論
貧困学と一1一派の人口論︵市原︶
・離農問題︑さらに移植民問題がやつぎばやに提起されてゆき︑日本移民の出稼主義に端をもつ米加の移民排斥問
題や︑中小農の崩落化が絶対主義者に危機意識をいだかしめ︑日本社会政策学会が明治四二年には移民問題を大正
三年には小農保護問題を討議した次第については既稿であきらかにしたとおりである︒しかし第三期における社会
主義者の各様の帝国主義や移植民政策批判︵幸徳ー明治三五年︑西川光二郎
1 1明
治三
七年
︑森
近蓮
平ー
明治
四
0年︶があか
らさまにしたような日本帝国主義の諸矛盾はさきにみたようにこの期にはいつても拡大再生産されるばかりでやが
て﹁大正政変﹂なる国民運動へと顕現してゆき︑ついに大正五年の吉野作造の民本主義宣言を契機に津波のように
大正後期のデモクラシー運動へと集約されていったわけである︒大正期デモクラシー運動の口火を切った﹁大正政
変﹂やそれの土台としての日本帝国主義の諸矛盾が社会政策学会内部に微妙に反映してゆき︑大正初期に高野岩三
郎を中心とする自由主義ー生産力派が結晶しはじめるとともに高野と提携した福田徳三の﹁日本のプレンターノ﹂
的活躍が耳目を魅きはじめ︑ここに金井延に首導されたワグナー主義的守旧派との問に亀裂が生じはじめるととも
に︑やがて河上肇の貧困学への関心を媒介とする傾斜や高野門下の森戸辰男の登場は米騒動を契機とする学会の三
分裂を伏在させてゆく︒ところで本稿ではその伏線を学界と政界との二面より立体的に追求してゆき︑改良絶対主
義者後藤新平︑生存権の社会政策派福田徳三︑貧困学派の河上肇の理論や実践を姐上にのせながら︑
される立脚地がどのようにそれぞれの人口論研究に投影していったかが問題とされる︒
四
これらに代表
さきにオオルド・ニ.ッポンの危機に焦点をあててこれを契機に日本社会学派の教学化と社会政策学派の擬頭とが
招来されたことを述べたが︑明治天皇の死は絶対主義的カリスマの権威失墜ーーをいみし大正政治史の始発を象徴
していた︒この死の前年の十二月から東京市電従業員は片山潜に指導されながらストライキにはいったがやがて奔
流のような生活擁護のためのストライキがおき︑天皇の死後三日目に鈴木文治は労資協調のためわがくに最初の労
佑組合の全国的組織ー友愛会を組織していた︒すでに元老ーー'絶対主義者と政党とは帝国主義的諸矛盾の開花を
ふまえてあらたなかたちで対立をかもしつつあった︒二個師団増設問題にからみ上原陸相のため毒殺された西園寺
内閣の始末は︑軍閥の非立憲的専横をみてとった民衆をいた<刺戟したのであって︑
擁護という新熟字の高唱は言論社会に潮のように起つてきた﹂のである︵﹁内閣更迭五十年史﹂︶︒元老勢力は侍従長
兼内大臣として宮中に入ったばかりの桂に政局を託したのであり︑桂新内閣は官僚派の後藤新平︵遥相︶・大浦兼
武︵内相︶・若槻礼次郎︵蔵相︶・仲小路廉︵農商務省︶を核として形成された︒護憲運動の発端は﹁交詢社のストー
プの前﹂での話しあいにはじまったといわれる︒交詢社は福沢諭吉が時事新報記者と慶応義塾交友会のために起し
貧困学と三派の人口論︵市原︶
(1)
を検討することにしよう︒ 前稿においてわれわれは︑農業危機の端緒がひらかれたことに表現される︑日本帝国主義の諸矛盾の展開を基本的な二点にしぽつて︑
四
﹁輿論は一時に勃興し︑憲政 この二点を焦点として社会政策学会がおこなった闘論・討議を姐上にのせつつ学会内部に分
化を招来せしめた基礎要因をときあかしてきた︒ついでここに照明された基礎過程の変容が政治舞台面にどのよう
に反映していったか︑そしてここにもたらされる絶対主義の転身・修正がどのような第一日本人口論を生みだすか
・̲̲ . ̲~- . :
2!16
ず ︑ 真の国家経済の原動功となるものは︑業資本家たちからいえば︑経済国難に際して︑自分たちであるにかかわら ﹁桂は︑元来豊川良平や渋沢栄一など 本家としても藩閥とむすびついた政商的性格のつよい前期的独占資本家ー—l益田孝や渋沢栄一とは異なり近代的な 彼らは多く︑産業資本家の伯楽といわれた中上川彦次郎の手によって三井に登用され︑産業資本家としても銀行資 を資本の要求に従属させ限定された意味における﹁安価な政府﹂実現のための政党政治強化の意図を学んでいた︒ た︒彼らは﹁憲政擁護﹂をプログラムとして掲げながら︑資本蓄積を阻害する過重な軍事費の圧迫に反対し軍事費 けられる金融資本の体現者であったから︑自由競争の古典的時代におけるような自由主義的な性格はもちえなかつ 代にふさわしい銀行資本家であり︑あるいは産業資本家であり︑銀行資本と産業資本の合成・癒着によって特徴づ たもので幹事はすぺて三田の出身者でもつとも深い縁故をもつていた財界勢力は三井であった︒彼らは帝国主義時
独占資本家にふさわしい性格をもつていた︒平野嶺夫の﹁岡崎邦輔伝﹂は︑
の金融資本家たちとは︑例のニコボン政策でかなり深い関係をもつていたが︑産業資本家の方は省みなかった︒産
桂は金貸ばかりを優遇するという不満があった﹂といい︑交詢社と桂のあいだの対立を﹁産業資本家﹂と
﹁金融資本家﹂のあいだの対立とみたが︑厳密にいえば藩閥と結合したふるい前期的独占資本家と明治四十年産業
資本確立をあたらしい基盤として形成された近代的独占資本家との対立であり︑後者が政党政治をもりたて増師反
対︑廃税運動を憲政擁護と結びつけて組織した点に大きい意味があったのである︒
憲政擁護運動の資金は交詢社にあつまったプルジョアジーがひきうけ︑十二月十三日に東京の新聞記者や弁護士
は憲政作振会を組織ここに組織の端緒をえたが︑翌日交詢社の有志で寄つて憲政擁護会をつくり︑十二月二十四日
召集をみた第三十議会下で憲政擁護運動は活澄化した︒この圧力が議会内ーー政友会と国民党│ーにも反映しはじ 貧困学と三派の人口論︵市原︶四四
四五
め桂首相は絶対主義の苦肉の策として新政党組織化に一転した︒桂のこの新政党は絶対主義のため与党を形成して
いた山県直系の藩閥官僚大浦兼武を黒幕とした最右翼政党口央クラプと後藤新平ら官僚派と大石正巳•河野広
中•島田三郎ら国民党内の官僚派と三者が合作して樹立された(日本第二のオクチャプリスト!)。桂を支援した財界
の勢力は三菱の豊川良平と大阪の北浜銀行の岩下清周らであったが︑従来元老勢力との政党外での結びつきを利用
して政商が第二のオクチャプリストに賭けたわけで︑ここに絶対主義陣営は二分されることとなった︒大正二年一
月﹁全国同志新聞記者大会﹂がひらかれ憲政擁設に全力をつくすむね決議し毎日の新聞記事や論説でそれを実行し
たのみならず野党政党幹部が護憲運動を私的な野心をみたす具にしていることをみぬき民衆に警告を発し︑政友会
総裁西園寺も倒閣を決意するにいたった︒
米騒動当時の司法・警察側の資料を蒐集・検討した吉河光貞検事の﹁所謂米騒動事件の研究﹂は日比谷焼打事件
および大正初期の護憲運動と米騒動とを比較し︑前者の﹁各騒擾は執れも知識階級に属する者︑就中政党関係の壮
士群衆を率い︑群衆中には多数の中層階級を混じたるものにして︑下層民衆に所謂弥次馬として之に雷同追随した
るもので︑米騒動に在りては︑全く其の趣を異にし︑知識分子の参加極めて僅少なるのみならず︑その参加分子も
群衆を率いたるに非ずして寧ろ偶然其の渦中に投じ群衆中に単なる一分子として伍列したるもの多し︒而して各政
党の﹃米騒動﹄に対する態度は執れも消極に終始したものの如くなり﹂と要説しているが︑米騒動は民衆の生活lI
経済要求が衝動的に爆発してこれがほとんどすぺてであったのにたいし︑第一次憲政擁護運動は閥族打破・憲政擁
護なる政治スローガンが主でブルジョアジーや勤労民衆の経済
1
1日常要求はこの大同的スローガンのなかに包摂さ
れており︑それだけ知識階級の目的意識性と指導性とが大きく介入しえたわけである︒じじつ︑日露戦後の財閥主
貧困
学と
三派
の人
口論
︵市
原︶
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貧困
学と
三派
の人
口論
︵市
原︶
﹃責
任内
閣な
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党政
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受の
意見
﹄に
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る質
問に
導の金融資本の端緒的成立は市民諸科学や行政技術をまなぶ学生・教師・新聞雑誌記者などあたらしい中産階級イ
ンテリを一.の社会層として形成・定着せしめていた︒以上述ぺたように︑交詢社に代表された商工業プルジョアジ
ーと﹁全国同志新聞雑誌記者大会﹂に結集した中産階級インテリ層とに資金とペンの力でバックアップされた︒民
衆は各所に実力行使をおこないついに桂内閣は辞職したのであり︑これ﹁大正政変﹂または﹁第一次護憲運動﹂で
ある︒民衆の力で政府をたおしたーー・衆議院議長大岡が解散の暴挙をあえてするなら内乱がおきようと桂に圧力を
くわえこれが倒閣の契機となった'~最初の事件であり、桂内閣を擁護して焼打ちにあった国民新聞社の社長徳富
蘇峰は大正二年の暮に﹁生命を此中に打ち込んで﹂出版した﹁時務一家言﹂のなかで﹁勢力はすでに人民に推移し
た﹂と告白した︒だが民衆の行動は絶対主義に根本的な打撃をあたえることができず︑絶対主義の最後の城塞たる
元老勢力は無傷のままのこされ︑桂ののちに山本権兵衛大将が絶対主義の選手としてえらび出され組閣した︒徳富
は最初の護憲運動の﹁総勘定は︑久しく政界の正面に跛恩したる長閥を退治して︑政界の一隅に雌伏したる薩閥を
院迎したりと云ふに過ぎず﹂と書いた︒山本内閣は薩閥と政友会との情意投合の結果として︑政友会を与党化し同
志会と国民党とを反対党として発足することとなった︒
第二のオクチャプリストとして桂の手によって成った立憲同志会に内紛をのこしたまま桂は大正二年に歿した︒
満鉄総裁としての経験から第二次桂内閣に逓信大臣としてはいり︑大陸政策を進言して桂に容れられ︑その新党結
成にのぞんで傘下にはせ参じた後藤新平は︑身は政党内にありながら心は政党外に馳せ桂在世中の五月に文書﹁立
憲同志会員諸君に質す﹂を起草し︑欽定憲法論を主張し政党政治に不信を投げつけていた︒その一節にいわく︑
「桂公がはじめた大石(正巳)•河野(広中)らの諸氏と会見した際、
四六
259
易く︑政見の実行を傷けることもすこぶる大きい︒﹂
四七
たいして答へたところは明々白々で︑すこしの疑問をはさむぺき余地を存しない︒いわく︑内閣の更迭についてはわが欽定憲
法の条章をかたくまもることが必要である︒イギリスその他の慣例をもってわが大憲を曲解することをゆるさない︒国務大臣
は天皇を輔弼してその責めに任ずるものである︒議会にたいする責任をもつて進退すべきものでないことは︑憲法があきらか
に規定するところである︑と︒⁝⁝島田︵三郎︶はいわく︑内閣に反対するものが過半数を占めたときは︑衆議院を解散する
か︑内閣が辞職するか︑ここに︱つをとらなければならない︑そして解散の結果なお政府反対党が多数であるときはどうする
のか︑と︒桂は答えて︑内閣が辞職するだけであるといった︒ここにおいて桂と会合諸氏との意見は全く融和して︑ともに憲
政のために努力することを誓った︒思うに︑元来︑桂が政党を組織しようとした真意は︑これをもつてただちに政権授受の機
関たらしめることにはなく︑国民の健全な政治思想を養い︑指導し育生して政機の運用を完全にしようとしたのにほかならな
い ︒
. . . . . .
だから︑いやしくもわが憲法を固くまもるにおいては︑身を政党におかないものの組織した内閣であっても︑その政
策がわが主張に合一するときは︑かならずしもこれを授けるのにやぶさかではないであろう︒それがわれわれの主張の現に政
友会の主張と相異る所以である︒⁝⁝われわれは︑衆議院において多数を擁するが故にかならず政権を掌握しなければならな
いという信念はもつていない︒⁝⁝政治の実際においては︑多数党を有するものが多くの場合に内閣組織の地位に立つのを
利とする︒けれども︑多数党の組織なるが故に政権が自分たちにあるといい︑かくて政党内閣主義を実行するものであるとい
うが如きは︑つまり本末を頴例するものであって︑わが憲法における政権の領域をこえるもの︑もとより我党のくみしえない
ところである︒⁝⁝そもそもわが国政の動力たるべきもの︑衆議院がその︱つであることは疑いをいれないが︑貴族院もまた
衆議院と同等の権限をもち︑ひとしくその責務を負うものであることは明白である︒そして︑枢密顧問もまた憲法所定の機関
であって︑重要な職責をもつている︒もしこれら諸機関の存在と機能を尊重しなかったならば政権運用の円滑は決して望むこ
とができない︒ただ一に民意の代表機関だといつて衆議院のみを偏重するならば︑勢い他の機関の権能を軽視する結果に陥り
貧困学と三派の人口論︵市原︶
260
貧困学と三派の人口論︵市原︶
をみ
てと
り︑
ここに﹁廃税戦﹂ や後年にいたりすこぶる意気投合 山本内閣での原敬内相が数日にわたる騒擾の終想処置にあたって﹁民心は日露戦後ようやく変化している﹂こと
﹁もしなお︹桂内閣︺が辞職しなかったならば︑ほとんど革命的騒動を起したことであろうとおもわ
れる﹂と洞察したのにくらべ︑これは守旧的な君主大権論であり︑政党政治の否定論であった︒後藤の憲法論は政
党にとつては獅子身中の虫ともいうべきもので︑いきおい彼は孤立し脱党した︒正伝﹃後藤新平﹄の著者は後藤の
﹁伯は三井と三菱の二大財閥に日本の経済界の支配権が移ろうとするのを憂え︑さら
にこの二大財閥二大政党と結托して政治的制覇をこころみることを痛心したものと思われる︒そして︑この二大勢
力にあたるべきものは︑工業労佑者を中心とする労佑党にあらず︑農民を基礎とする農民党にあらず︑ないしは中
産階級を支柱とする自由主義政党にもあらずして︑
史﹂︶をくりひろげた︒ 心事を憶測して迩べている︒
日本の実情としては三井・三菱以外の富豪の連合勢力のみが既
成二大財閥の支援する二大政党にあたることができるであろうと考えた︒すなわち︑伯が年来顧客であった神戸の
鈴木(かつて後藤が民政長官をしていた台湾と関係のふかい鈴木商店のこと'~市原註)
した東京の安田善次郎や浅野総一郎などの諸勢力を糾合することのみが︑二大政党と二大財閥の専権を抑制できる
と思考したのであろう﹂と︒後藤の脱会によって同志会ははやくも内紛を暴露したが︑十二月二十三日同志会は加
藤高明を総裁に推し結党式をおこし反対党としての姿勢をととのえたのである︒
同志会を中心とした野党は民衆対策として生活問題の解決を政府に迫り︑︵羊沢国城﹁大正政戦
野党は大衆課税の軽減によって民衆の革命化を防ごうとし間接税の廃止または半減を要求
しブルジョアジーは営業税の撤廃と農業保談関税の廃止とで︑地主には地租軽減でそれぞれ奉仕し︑あたらしい情
勢のながで地主とブルジョアジーとを情意投合せしめんとしたが︑いづれも審議未了でもちこされた︒憲政擁護会 四八
一月の悪税廃止第一回書志大会で国民党の古島一雄は憲政擁護会の運動方針を宣明した︒
昨年以来︑第一期の事業としては︑立憲の本義に照して時に桂内閣に肉薄し︑
ざるにいたらしめ︑
四九
は憲政擁渡なる当初の方針貫徹のためこれと財政問題とをむすびつけ︑減税運動に着手することを決定︑大正三年
これをしてついに桂冠のやむべから
ついで全国に遊説してその主義を宣伝したから︑第二期を劃したが︑われわれはここに第三期
の事業として憲政擁設の主旨を拡充し︑その実体上の弊害を匡正するため︑悪税改廃の第一着手として営業税・織
物消費税・通行税の全廃を期せんとするものである︒﹂あつまったのは薪炭商・織物商その他の実業団体代表者で
あり︑悪税の根源を官僚政治に帰し︑とくに間接税よりも営業税の撤廃に重心を置いたので︑憲政擁設運動も業者
内部の対立|ーたとえば織物税廃止期成同盟会における機元と販売業者の対立などー—lが力を殺ぎ政友会のために
またまた葬られてしまった︒すべての提案を否決された野党はシーメンス︑ヴイッカース両事件をめぐる海軍の漬
職事件を追求︑貴族の反政府策動によって腹背から狭撃された山本内閣はついに倒れるにいたった︒元老は絶対主
義のたてなおしのため大隈重信に組閣を命じたが︑大隈は非政友三派に基礎をもとめて組閣︑彼は﹁犬養・尾崎は
破壊のみをくわだてるから︑かえつて彼らを捕えて改善させることが必要だ﹂と語って︑尾崎行雄を入閣させるの
に成功した︒尾崎は憲政擁設の指導的地位から内閣に椅子を移しヒ首を民衆に向けかえたわけである︒
しかし︑営業税問題は未決のままであったからブルジョアジーの撤廃運動をいぜんつづけた︒六月十九日︑全国
商工大会営業税全廃実行委員会が東京商業会議所でひらかれ廃税の決議が採択された︒しかし第一次大戦に日本政
府も参加したので︑廃税運動をすすめていた大日本商工協会は﹁本会は︑時局にたいし挙国一致の実を表すため︑
営業税廃止の件を一時中止したり︑同意を乞う﹂と各地の支部に打電した︒ブルジョアジーが廃税運動を挙国一致
貧困学と三派の人口論︵市原︶
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262
貧困
学と
三派
の人
口論
︵市
原︶
を議題とし︑ の精神で中止しているのに︑日本社会政策学会は大正四年十二月の第九回大会で﹁社会政策より観たる税制問題﹂
この問題につき是非を論じた︒その討論の内容の紹介は学会論叢第九冊にゆずるとして︑大内兵衛氏
が﹁ワグナーに対する日本の敬意﹂においてこの大会の印象をったえているから︑こころみに引いておく︒
﹁もし人あって︑当時日本学会のオリンビアであった社会政策学会をのぞく機会をもったとするならば︑彼は︑そこに立つて
いるドイツ人ワーグナーの巨像に驚くに相違ない。試みに…•9・同学会の研究報告『社会政策より見たる税制問題』をあげて見
たまえ︒そこでは報告討論の問題は日本のことに関しているにかかわらず︑討論の当否の判断の基準は大体ワーグナーであ
る︒第一に主たる報告者たる田中穂積博士はワーグナーの説を紹介している︒そして彼はそれに反対だといつているにかかわ
らず
︑実
際に
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めて
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︒次
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︵重
義︶
︑小
川︵
郷太
郎︶
︑高
野︵
岩三
郎︶
︑福
田︵
徳三
︶の
諸博士はいづれも実際においてほぽワーグナーによって自己の意見を立てている︒﹂
大隈内閣の外相加藤高明は外交問題について元老の干渉を排除しようとしたが︑彼と元老とのいがみあいは国際
ー—外交政策にもおきた。それまでの日本の外交政策は日英同盟を基軸としてたてられていた。明治三十五年に締
結された日英同盟は日露戦争をたたかう日本の布陣を完成したものであったが日露戦争が勝利してのち明治三十
八年と同四十四年に同盟は更新されこの同盟は日韓併合をたすけ戦後の植民地経営を主としてイギリス・アメリカ
の資本援助に頼ることを可能にしていた︒日英同盟は明治四十年に日仏協商によって補定され日仏協商のあとに日
露協商が締結され日英同盟を軸とした日仏・日露の協商関係は対独包囲陣の一環を日本帝国主義が占めたことを意
味していた︒大隈内閣もやはり日英同盟を国際政策の中心に据えており︑とくに加藤外相はもつとも忠実な日英同
盟の信条者であった︒しかし日露戦争後における東洋の風波は日本とロシャとの間よりも︑むしろ日本とアメリカ
五〇
(2)
五
との間に高かった︒アメリカはあらゆる方法をもちいて満洲に進出しようとし︑日本とロシャとを満洲から駆逐せ
んとした︒この不安を解消するものとして初代の満鉄総裁後藤新平は﹁新旧大陸対峙論﹂を案出︑日露同盟という
国際政策の衣裳に包んで明治四十年の秋︑時の韓国総監伊藤博文に献呈していた︒新旧大陸対峙論というのは︑新
大陸
1
アメリカの勃興にたいし旧大陸1
1
1ヨーロッパが結合しなければならぬということを進化論の立場から釈明し
たドイツのエミール・シャルクの著書から発案したもので︑これを後藤はアジアにまで拡充し︑アメリカにたいす
るヨーロッパとアジアの連合を主張したもので︑この旧大陸連合の手段こそほかならぬ日露同盟であった︒後藤の
筋書きどおり明治四十二年訪露の旅に就いた伊藤博文はハルビンで横死し︑伊藤の遺志を継いで桂も訪露しながら
実現の機を失い、桂の死後は主として元老によって日露同盟がはかられていた。かくして、山県•井上ら元老勢力
と大隈内閣とくに加藤外相とは裁然国際政策を異にしていたが︑ためにこの二元的な外交路線が絶対主義に特別な
権力機構の多元性とからみあって︑ここにいわゆる﹁二元外交﹂の深刻な葛藤がはてしなく露呈されてきたのであ
り︑大隈内閣はこの二重外交を利用した山県一派の官僚・軍閥の陰謀によって倒れた︒この陰謀の一中心となった
のはあいかわらず後藤新平で︑大正四年十月二十三日の読売新聞は大隈改造内閣の存命中にもかかわらず︑はやく
も﹁寺内後藤の提携︑挙国一致内閣準備︑寺内擁護党の糾合﹂という見出しで朝鮮総督寺内正毅と後藤との提携が
決定的となったことを報じていた︒大隈が辞表を出して︑間髪を入れずはやくも組閣の命は元帥寺内正毅にくだっ
た︒かくて大逆事件いらいの絶対主義の危機に絶対主義者がとつておいた寺内を首班とする新内閣は︑絶対主義支
配をあらたに建てなおすため後藤を副総理格の内相として送りこみ︑大正五年十月九日に成立したのであった︒
貧困学と三派の人口論︵市原︶
26‑4
比せよー︑
大正末期にはじめた政治の倫理化運動の努頭に掲げた
﹁第一に日本の日本iわれを知ること︑ 貧困学と三派の人口論︵市原︶
︑︑
︑︑
︑︑
︑︑
︑
一︑新日本主義はわが民族わが国家の内部として発展する偉大な個人主義ー!乃ち︑個人主義的国家主義である︒
第
五 ︱ ︱
地主もプルジョアジーもそれまでたたかつてきた地租軽減と営業税撤廃運動を中止して厳かに﹁国家理由﹂
S t
a a
t s
r a
s o
n のために脆拝した次第はさきに述ぺたとおりであるが︑大正五年一月に岩野泡鳴・三井甲之らによっ てはじめられた雑誌﹁新日本主義﹂は第一次大戦に剌戟されておきた挙国思想︵挙国一致内閣とうらはらの9
・︶
を背
後
﹁新日本主義﹂創刊号に掲げられたつぎのような宣言は次に検討する後藤の﹁大日本主義﹂と符節
二︑新日本主義は︑わが皇室とわが国体を十分に尊崇するが︑形式ばかりの忠君愛国を標榜するものとは違い虚偽を含む叫び
︑︑
︑︑
︑︑
︑
三︑新日本主義は︑世界に対しては内部的帝国主義である︒
四︑この主義は︑国家民族を離れて空想的に人類若しくは個人を取扱おうとする種類の個人主義・社会主義・並びに個人の偉
大性を認めぬ単純な国家主義をもつとも排斥する︒
後藤新平の﹁大日本主義﹂は彼のいう﹁生物学の原則﹂を基盤にしておりーー北一輝の社会進化論
1 1国体論と対
ニに世界の日本ー~彼を知ること、第三に日本の世界'~われを知らしむること」なるスローガンに約現されてい
たが︑大正五年二月に著した﹁日本膨脹論﹂はこの大日本主義を背景として絶対主義的ポビュレーショニズムを吐 き出したもので︑日清戦争における徳富の﹁大日本膨脹論﹂や日露戦中における河上の﹁日本尊農論﹂の第一次大 戦中における正当な遺産相続者たることをしめしていた︒ところでここで︑後藤の政治思想とその軌跡とについて
を断
じて
採用
しな
い︒
を合するものであった︒ー̲│ にもつていた︒
265
述シキタル科学ノカナリ︒﹂ 体ナリ﹂なる表現にしめされている︒また文中の一節でいう︑
五
彼は医学をおさめ愛知病院長︑内務省衛生局長などを歴任︑明治三十一年台湾総督府民政局長になり児玉源太郎総督とのコン
ビで治安の確立・台湾銀行の設立︑資源開発など植民地経営に敏腕をふるった︒日露戦後初代満鉄総裁として大連築港︑撫順
炭田開発などのほか文化学術諸施設を充実させ﹁文装的武備﹂を唱えた︒すでに触れてきたように第二次第三次桂内閣の逓相
となり︑一時同志会にも参加︑寺内内閣樹立に尽力してその内相となり︑シベリヤ出兵にさいしては外相に転じた︒大正九年
に東京市長に就いた︒同十二年にソ同盟極東代表ヨッフェをまねいて日ソ復交に努力した︒関東大猿災後︑第二次山本内閣の
内相兼帝都復興院副総裁として大規模な東京復興計画をたてた︒晩年には政治倫理化運動をとなえ︑対ソ︑対中国の国交調整
を意図したが︑これは彼の新旧大陸対峙論および大アジア主義にもとづくものであった︒
ところで彼の思想的原型は彼が明治二二年内務省衛生局長時代に初刊した﹁国家衛生原理﹂でほぼあきらかであるが︑この書
は全巻五編中%までが国家論で︑根本思想として支えたのはプルンチュリーの国家論︑スタインおよびマイエルの行政学でド
イツ観念論哲学の背景をもつ国家有機体説の完全な使徒であったことは文中の﹁国家ハ最上ノ有機体クルノミナラズ至高ノ人
﹁ダーウィン氏出デショリ︑心理オョピ物理ノ説二変易ヲ生ゼ
シコトーニシテ足ラズ︒コトニ生物学ハ頗ル長足ノ進歩ヲイタシタルコト︑実二驚クベシ︒コレガタメ︑人類ノ生活上二幸福
ヲ与ヘシコトキハメテ大ナリ︒娩近︑国家学モマタ︑ソノ基礎ヲ生物学ニトラザルペカラズトノ説ハ︑ダーウィン氏ノ説ヲ紹
﹁今ヤ生物世界二於テ︑生存競争ノ道須曳モ離ル可ラザルノ説ハ︑当世ノ諸国挙テ肯許スル所ナ
リ︒故二荀モ生ヲ有スルモノハ︑競争ノ攻撃二抵抗シ若クハ之ヲ剋制シテ︑適当ノ給養生殖ヲ営ヽヽヽ得ルニ非ズンバ︑其生存ヲ
全クスルコト能ハズ︒独リ人類二至テ︑何ゾ然ラザルノ理アランヤ︒人類モマタ実二生物一種ナリ︒﹂と︒これは明治前代の思
想家がそうであったことについて検討したように︑ダーウィンの進化論︑スペンサーの社会進化論の素朴な適用に拠つている
ことをいみしている︒彼によれば︑この人類の生存競争において﹁生活を侵襲﹂してくるところのものは︑
貧困学と三派の人口論︵市原︶
ややくわしく註解して以下の行論の便宜にしよう︒
﹁幽現ノニ体﹂で
‑. . ・ . .'.
,: 冒 . . . .... ,・'...
. ・・‑・・.... 一.← ‑ .. 一止..~.. • ... ‑c.'., ・・:........ ‑・.....
266
貧困学と三派の人口論︵市原︶
あり︑幽とは形而上で現とは形而下である︒したがつて人類の畢生の行為は﹁貿易殖産トイヒ︑道徳経済トイヒ︑学術工芸ト
ィヒ﹂千差万別にみえるが︑すべてこの﹁幽現二体ノ侵襲︱ー抵抗シ︑若クハコレヲ剋制シ︑若クハソノ平和公正ヲ維持シテ給
養生殖ヲ営︑モッテ心体ノ健全発達二満足ナル生活環境︑スナハチ生理的円満﹂を享有しようとする目的にほかならぬ︒そ
して一般の動物もそれぞれ共存の必要から社会をもつが︑人類の社会は﹁人類が有スル良知良能︱ーヨッテ︑社会団結ョリ享有
スベキ利益﹂が最も大であることによって他の動物社会とは区別される︒彼によれば︑国家とは次のように規定づけられる︒
—「人類協カ一致ノ経営ヲナスニアリ。一ハ防禦性(消極性マタハ陰性)一ハ産出性(積極性マタハ陽性)ノコトコレナリ。産
出上ノコトトハ工芸︑殖産︑電信︑鉄道︑汽船︑交易︑教育奨励ノコトコレナリ︒而シテ︑防禦性ノコトトハ︑禁令ヲ設ケ社
会ノ秩序分業二就テ安寧ヲ図ルコト︑アルヒハ人民ノ不慮ノ不幸二就テ先機応変ノ策︑スナハチ予防策ヲ設クルコト︑アルヒ
ハ他社会ノ人類二対峙シテ︑侮辱侵略ヲ予防スルコト︵則兵事︶コレナリ︒コレラノ経倫ヲ政権ノカニカリテ弁理スベキ人類
社会ノ形勢ヲ名付ケテ国家トス︒﹂かくて︑生物学的進化論に一元的な世界観の基体をみた後藤は彼のいわゆる﹁生理的円満﹂
を享有する方法を︑非常に広い言葉で﹁衛生﹂といい︑それが衛生であるなら国家は﹁衛生的固体﹂であるとするのである︒
│﹁惟フニ国家ハ︑ソノ至尊ナル生活分子スナハチ人類ヨリ成レル衛生的固体二外ナラズ︒^﹁国家ナル衛生的固体ノ機能ヲ
モッテ︑一ノ地球二瞥フレバ︑ソノ中心軸ハ衛生ニシテ︑ソノ一極ハ生理的動機ナリ︒ソノ他極ハ生理的円満ナリ︒﹂.さらに
﹁只管我が同胞ノ生理的円満ノクメニ︑否我が帝国ノ生理的円満ノタメニ︑ソノ用ヲ全ウスルノ道ヲ開カンコ
トヲ希望スルモノナリ︒﹂と述ぺている︒ところがこの粗野な社会ダーウィニズムが必然にもたらす矛盾をいかにすべきか1
ー彼が伊藤︵博︶内閣の第十議会に提出させるのに成功した﹁伽救法案﹂と﹁救貧法案﹂の理由書でいつている︒
立憲治下ノ盛世二在テモ︑尚且多数ノ国民ハ︑少数ナル在朝者及富有者ノ為二名挙卜利腺トヲ供スル器具タルヲ免カルルコト
能ハサル乎︒是理二於テアルヘカラサル所ニシテ︑而も事二於テ之ヲ見ルヲ如何センヤ︒﹂
襲ヒ︑而シテ貧者ハ纏フニ船棲ナク︑糊スルニ糟糠ナシ︒老幼ハ餓渇ヲ塗二訴︑へ︑病者ハ疾苦ヲ市二叫フ︒﹂と︒みづからが 論はつづいて︑
﹁富者ハロ酒肉二飽キ︑身後羅ヲ
五四
﹁特
リ怪
ム︑
あるゆえ︑まづ償金の約十分の一たる三千万円を帝室の御料に納め︑幸ひにしてまた﹁慈恵ノ恩賜トシテ︑臣民之ヲ拝受スル
ノ栄ヲ得ルニ﹂至ったなら︑これを﹁明治伽救基金﹂として国立施療院︑労工疾病保険法︑国立孤児棄児救育児︑地方救貧制
度︑軍族救誰会︑貧民幼稚園︑貧民救育法などをおこし︑これらの社会的行政制度をもつて﹁一大凱旋門二代ヘン﹂と具申し
たの
であ
る︒
このような家族国家観││家父長的慈恵的な︑いわゆる﹁絶対主義的社会政策﹂観の倫理的要素によって緩和し隠蔽され着色
された後藤の社会ダーウィニズムは大正五年︑通俗大学文科第三巻の﹁日本膨脹論﹂におよんで︑彼の衛生官僚さらに植民地官
僚としての半世の体験によって肉付けされ発展せしめられ﹁国家ヲ以テ万有境外ノ最高有機体ナリ至高人体ナリ﹂とする国家
ー社会有機体説に堅く結晶せしめられ︑大戦中に證酵した超国家主義
1 1絶対主義的ナショナリズムを代表して遠く日清戦役時
に書かれた徳富の﹁大日本膨脹論﹂と呼応したのであった︒ところでこの﹁日本膨脹論﹂がすでにあきらかなように︑日本人
口論の一般的定型としての︑家族国家観を核心とした社会進化論に俗流マルサス説を癒着させた帝国主義的膨脹論であること
は︑いうまでもないが︑しかも彼はここで﹁血液と土地とに依つて民族の膨脹を力説する旧き植民政策﹂を排撃し﹁世界的開
化主義即ち文化的政策の真意義﹂を高唱し︑﹁一般に植民政策と言えば其言葉それ自身が既に一種の政略的意味を含み其背景
には何等か辛辣危険の分子を蔵するやの嫌なき能はざるを以て︑娩近進歩せる学者間には新植民政策なる語が漸次勢ひを得て
識者の歓迎を受くるようになってきた︒併しながら所謂新植民政策なる言葉にも尚伝襲的観念の附着せるあるが為め︑未だ其
貧困学と三派の人口論︵市原︶
るか
ら
﹁国家衛生の原理﹂で粗野に肯定した優勝劣敗ノ生物学的法則を明治二九年日清戦勝後に眼下に︑
五五
﹁多数乏資ノ民︑相率ヰテ
皆属隷傭奴トナラサルヲ得﹂ぬ窮状をみて自己否定しているのである︒明治四四年桂首相に具申した恩賜財団済生会設立案や
それの母胎となった﹁軍国の社会政策﹂︵太陽︑明治三八︑一︱巻一号︶案の原型をここにみることできる︒すなわち彼は伊藤
博文に﹁建設的社会制度論﹂を提出し︑日清戦争の結果︑領土を入れ償金を収め得たのは﹁偏二我皇威聖徳二依ル﹂ものであ
﹁今其威徳二依テ得タル所ノ償金ヲ以テ︑之ヲ仁政厚徳ノ支途二供スルハ︑至仁至徳ナル聖旨ノ万︱二副フ﹂もので
268
本の指専的地位を確立すること﹂︑すなわち︑ 内容を適切に言い現わせるものということが出来ぬ︒此故に予は更に之を改めて︑新に文化政策てう名を用ゆるの寧ろ妥当なる﹂を主張し︑﹁大日本主義と小日本主義との分岐点は従来の所謂植民政策を執るか︑将た予の所謂文化政策に重きを置くかに婦着するのである︒前者は器械的︑武断的膨脹に傾き︑後者は有機的︑文化的膨脹を主とする︒これ新植民政策と旧植民政策︑乃至は旧帝国主義と新帝国主義との差異点にして︑共に大日本主義を目的とするものたりとも︑おのづから其方響︑手段︑理想を異にせぜるを得ない︒﹂と述べているのであって︑この後年の満蒙王道楽土論︵覇道と対する︶の前駆としての︑いわゆる﹁大日本主義﹂にもとづく膨脹論をまづ理解しなければならない︒それには明治三九年南から北へ転じ初代満鉄総裁に就いた彼の満洲経営の根本原則であった︑いわゆる﹁文装的武備﹂を知らなければならない︒就任三カ月ごの彼はメモに﹁対清政策の無能無策︑対清政策の不振︑ビロカラチーの圧迫︑官僚の嫉妬︑陸海軍の専横︑守旧派の無識﹂と書き込んだが︑たんに﹁営利的鉄道事業﹂ではなく﹁帝国の植民政策の先駆隊﹂として彼のいわゆる大日本主義にもとづく満洲経営を生物学的原理に立つておこなうため︑ここに﹁文装的武備﹂論がうち出されたのであった︒彼はこれをつぎのように説明する︒ーー﹁南満経営は租借地に都督府という全権の政府の出店を置くに抱らず︑主体は満鉄でなければならぬということになった︒これを主体にしなければならぬということに極まったわけは︑まづ総理大臣西園寺侯もその他の人も︑文装的武備をいう私の意見を容れられたからである︒そこで︑文装的武備とは︑一寸いつてみると︑文事的施設をもつて他の侵略に備へ︑一旦緩急あれば武断的行動を助くるの使を併せて講じておくことである︒﹂﹁一旦緩急ある場合には︑たちまちにして武力をもつて席巻する用意をしながら︑教育・学術・衛生などのいわゆる文化諸事業をもつてロシャ︑支那などを圧倒し後進民族を馴化し真に日
﹁文装的武備とは︑王道の旗をもつて覇を行うことである﹂︒このような発想
は衛生局長時に
C .R . Laucas,
i H st or ic al Ge og ra ph y o f t he Br it is h c o lo n i es , 8 1 89 1 90 1.
に拠つてまなんだイギリスの科学的
植民政策を我田たる生物学的植民政策観に引水して成った﹁台湾統治救急策﹂ーー井上蔵相への具申書ーにいちはやくみら
れるのであるが︑そこではつぎのように述べられていた︒
ー﹁凡ソ植民経営ノ大体ハ今日ノ科学ノ進歩二於テハ︑須ク生物I ' 貧困学と三派の人口論︵市原︶
五六
五七
学ノ基礎二立タザルベカラズ︒生物学ノ某礎トハ何ゾヤ︒科学的生活ヲ増進シ︑殖産︑興業︑衛生︑教育︑交通︑顎察︑皆此
二基ヲ開キ︑以テ生存競争場裡二立チテ︑克ク適者生存ノ理ヲ増進スルコト之ナリ︒彼レ動物ガ克ク寒暑ヲ凌ギ飢渇二堪へ︑
境遇二順応シテ生存スルガ如ク︑吾等ハ時卜処トニ随ヒ︑克ク諸般ノ困難二打勝チ︑施設肯紫ヲ得テ︑台湾統治ノ上二光輝ヲ
発揚セザルベカラズ︒﹂彼はこのような生物学的政治観や新植民政策観を固陪頑冥な法律家の概念論ーー守旧的形式主義ーー
﹁小
日本
主義
﹂ 1 1
﹁旧植民政策﹂と対置させたのであって︑これは彼が修正絶対主義者
1 1
﹁自由主義﹂的官僚派であることをし
めすものである︒加藤弘之流の粗野な社会ダーウィニズムを修飾せんがため倫理的要素をもちこみ提唱した﹁軍国主義の社会
政策﹂論︑旧植民地官僚によって施政されてきた軍事的封建的植民政策を文装せんとする﹁文装的武備﹂論ー!これらの諸論
がしめす修正絶対主義
1 1
﹁自由主義﹂官僚派の何たるかについて︑鶴見祐輔は﹁後藤新平伝﹂でつぎのように指摘している︒
│̲﹁彼︹桂︺の新内閣は桂直系と山県直系との二大勢力の寄合世帯であった︒内務の平田と農商務の大浦と︑文部の小松原
とが山県系であって︑世に官僚系と謂われたる勢力の代表者であった︒殊に平田は山県の大番頭で山県の政治思想の代表者で
あった。彼は堅実であり法理的であり、保守的であった。••…•これに対し桂直系と目すべきものは:…•新参後藤伯が単身これ
を代表するの外はなかった︒⁝⁝これ等の形態については︑国民新聞社長として桂を極力援助し︑深くその枢機に参霊してい
た徳富蘇峰が次のごとく語っている︒桂内閣の内には二つの潮流があった︒その︱つは後藤伯の所謂﹃文珠組﹄と名付けてい
た勢力で︑平田︑大浦︑小松原の三氏を中心とするものであった︒これに対立する勢力は後藤伯一人であった︒この二つの系
統が対立していた為に︑桂首相は﹃二頭立の馬車を御していた﹄ようなものである︒ーー'後藤伯は艇々︑﹃彼等三人︵平田︑大
浦︑小松原︶が自分をいぢめる﹄と言っていたが︑文珠組の思想は官僚主義︑後藤伯の主義は自由主義であったので︑腿々衝
突した︒﹂と︒
以 上 の 略 説 に よ っ て
︑ 後 藤
﹁ 日 本 膨 脹 論
﹂ の 背 景 な り イ デ オ ロ ギ ー 的 核 心 な り は 大 体 把 束 で き た と お も わ れ る か ら
︑ こ の 著 述 中 か ら 絶 対 主 義 的 ポ ピ ュ レ ー シ ョ ニ ズ ム
( 1 1
大日本主義︶を吐きだした一節を引くにととめ︑
貧困学と三派の人口論︵市原︶
これから
,, ● ~ ー・こさ~ ~ 一'.̲̲̲ .~:_.__ ' ・: ‑'
270
貧困学と三派の人口論︵市原︶
全貌を推量してもらおう︒
﹁我国の人口増加が敢て列強の背後に落ちず︑世界的膨脹力に富みつつあるは︑吾人の最も意を強うするところである︒見よ
仏国の産児減少は現に如何なる状態にあるかを︒⁝⁝仏蘭の家庭には常に二つの幽霊が褪つて居る︒︱つは小児の出産を恐る
ること︑他は有害なる生命保険の思想である︒之が為に仏国民は青年の時代より早くも活動の元気を失い︑努力奪斗の精神を
消磨し︑活々として奢俊遥逸の悪風に侵染し︑彼等自ら発育の芽を枯らして居るのである︒即ち知る︑人口減少は単に国民の
数量的縮小を来すに止まらず︑精神的に国民を腐敗せしめ︑向上発展の元気を阻喪せしめて︑遂に滅亡の悲連に誘うものなる
を︒斯くして仏国民は漸次劣弱に傾き︑独力を以ては到低独逸に対抗し得ざる事を自覚するに至り︑止むなく久しき以前より
英国指導の下に排独協商連合の一分子となり辛うじて其の余端を保ち︑其均勢を支持するの有様となった︒人口減少の惨害と
流毒とは以上の例に見るも極めて明ではないか︒︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑然るに近来我国の論者中︑往々生活難救済の一法として人口制限を説き︑避妊を是認すべしなど説く者あるは︑区々たる眼前
の小計に悩惑して︑天下の大勢を達観するの明なき近眼者流の空語である︒生活難救済は別に方法あり︑人口の制限に依りて
国民の生活を安易ならしめんとするが如きは︑膠柱弾琴の徒が無為姑息の非募債主義を唱うると同様︑消極的退嬰的の亡国思
想である︒若しK口過剰を患うべしと思惟せば︑呵ぞ進んで世界的植民政策の為に奮励せぜる︒何ぞ積極的に世界的膨脹を試
みるの雄図に努力せざる︒我日本民族は断じて此の種の愚論に耳を傾けてはならない︒﹂
﹁顧みて我国の人口に就て観るに︑明治元年には二千五百万人即ち朝鮮現在人口の倍数に充たなかったが︑今日は約八千万人
の多数に上つて居る︒其新版図に属するものを除き︑純粋の母国人のみを挙ぐるも実に五千五百万人を算し︑且つ年々の人口
増加数は五十万人を下らない︒仮りに明治元年を二千五百万人とし●同四十五年を五千万人として推算すれば︑明治元年より
同四十五年までの人口の累計したる総数は︑実に十六億八千九百二十一万人即ち約十七万人の多きに達する︒更に同様の計算
を朔及せしめて︑神代より今日に至るまでの人口の累計を求むとせば︑其の数の絶大なる︑真に吾人の想像を越へ︑只簡単に
五八
u ‑ ]
生 存 権 の 社 会 政 策
五九
地主・プル 無数というの外はない︒現在の我国民的精神は実に此の無数の生霊の結晶である︒而して此の無数の生霊の中核であり更に之を超越せる一大神霊は︑畏くも中興の英主にまします明治天皇の御英魂である︒明治天皇こそは実に開国以来の億兆の霊気を御一身に体現せられたる超人であり人間神である︒これ洵に大和民族の絶顛に立てる灯明台であって︑其の霊光は我々七千五百万の同胞を照し︑新版図の生民を照し︑やがて世界の万民を照すべき無限絶大燭光である︒而して大日本主義とは此の無限絶
大燭
光其
物の
異名
であ
る︒
﹂ 日本人口問題史の第三期にあらわれた新マルサス主義の紹介や産児制限論にたいし河上肇が絶対主義的ポビュレ ーショニストとして攻撃をくわえたのとまったく同様の筆法で︑端緒的農業危機の開始を背景とする第四期にます ます影轡力をふかめた﹁生活難救済の一法﹂としての﹁消極的退嬰的の亡国思想﹂たる人口制限や︑避妊を駁撃し ているわけである︒このあたらしい段階における家族国家観
i大日本主義を背骨とする観念的人口膨脹論が︑
ぎに考察するような商工業立国論を背骨とする福田の民本主義の経済理論や家族国家観と抵触する河上の貧困学と
あい対立するのはいうまでもない︒後藤の日本膨脹論とあい前後して提示されたこの二論をつぎにみてみよう︒
つ 地主とプルジョアジーは開戦にかえりみて政府に休戦を申しこんだが民衆はたたかいをやめなかった︒官庁統計
にあらわれたストライキの件数は大正元年
1四九︵参加人員五七三六名︶︑同二年—四七(五二四二名)、同三年ー五
0
︵七
九
0四名︶となっており︑明治四十年の六
0(
参加人員︱︱四八三名︶︑四十一年の二四(‑四ニー四名︶の水準に
は回復していなかったが︑同四十四年の一七︵参加人員二四五六名︶にくらべると飛躍的にふえていた︒
貧困
学と
三派
の人
口論
︵市
原︶