現代建築の一面として、様々な分野の影響を受けて建築表現が 多様に展開・発展してきたことがいえるであろう。本論は映画の 理論である「モンタージュ」を建築において展開することを目的 とする。
今日都市や生活のなかで建築を考えるとき、その内部にたくさ んの人を引き入れ、表層においても都市の中でたくさんの人と接 するため、そのさまざまな人々の公共性や機能の複合性などを建 築に包含しなければならず、単一の視点から想定される空間の広 がりや空間内の配置だけでは建築を創造することは難しので、そ の建築の中に複数の異なった視点を考える必要がある。このよ うな建築は多面的な性格を持つことになる。S・ギーディオン
(1888-1968) は著書『空間 時間 建築』で、近代建築に現れた建 築の多面的な性格に対して、新たな空間概念「時 - 空間」が必要 であることを指摘する。それは建築を空間内での把握・配置する ことではなく、時間内で把握・配置し、結合することである。
近代以降多面的な性格を持った建築に必要となる「断片の時間 内での結合」は、映画で「モンタージュ」によってあたり前のよ うに行われている。そこでこの多義的な建築における時間像がい かなるものか、また建築における有効性を、映画的手法である「モ ンタージュ」の考察から展開する。
□ 研究方法
前半ではギーディオンの『空間 時間 建築』で描かれる時間像と、
絵画や映画における諸芸術の時間の概念を対比させて分析し、「モ ンタージュ」の性質がいかに反映しているかを見る。次に映画に おける「モンタージュ」の種類とそれがつくりだす時間像を分析し、
それを参考に後半では「モンタージュ的」手法が見られる建築に おける時間像を考察する。
G・E・レッシング(1729-1781)によって「時間芸術」とは分 離させられる「空間芸術」の分野である建築、絵画において近代 に現れる時間という概念は如何になるものか考察し、その「モン タージュ」との関係を確認する。映画における時間とともに「モ ンタージュ」の二次元・三次元といった違いのある他メディアに おける有効性の論証と、その領域の考察を行う。
□ 建築と時間
ギーディオンは著書『空間 時間 建築』で新しい建築の概念「時
‐空間」を用いるとき、近代以前の建築が観察者が単一の視点から 建築を眺めるという方法である透視図法を発展させていたのに対 して、科学の発展やキュビスムや未来派といった絵画の影響でそ の対象を観察するために空間的な配置では把握することができな い多面的な視点を想定したものである。ギーディオンの説明には 二つ側面があり、一方はバウハウス校舎などの観察によって得ら れる「複数の視点」の同時性のなかに現れる。他方は、ル・コルビュ ジェ(1887-1965)のいわゆる「建築的プロムナード」と呼ばれる シークエンスやハイウェイにおける「観察者の移動」のなかに現 れるものである。この二つはある意味では同時性/継起性という 違いはあるものの近接する二つを結びつける作用としては同じも のであるだろう。ギーディオンはこの二面性を建築の多面的な性
質を捉えることができる新たな空間概念として同様に扱っている。
近代の空間概念はこのような多面的なものを「一つの時間の連続 の中に結び合わせながら相互に関連づけなければならない」ので ある。時間によって多面的な建築は全体性をもつのである。
□ 絵画と時間
近代以前の絵画の対象はそれらしく描くことであり、空間内で の配置であったが、近代のキュビスムや未来派の絵画の対象は時 間内での配置である。P・ピカソ(1881-1973)の「ラルレシャンヌ」
は顔の正面と側面を見せる、この絵画は観察者あるいはモデルの 動きが絵画の中に表れる。あるいはコラージュなどの手法では一 つのキャンバス内に複数の場面を集める。このように時間の絵画 は時間を表現するためにその一つのキャンバス内にその対象の内 在的なエレメントを複数並置することで像を組み立てて表現して いる。このときその芸術の性質上、それ自身の持続を持っていな いので、エレメントの並置ではただの集積でしかなく、それを一 つの全体として把握するためには、作品は観察者の知覚上の参加 と意識上の飛躍を必要とするのである。同時に並置される断片は、
観察者によって過去 - 現在 - 未来と連続する時間のように俯瞰的 な位置から全体を見下ろし、連続する継起的な軸上に、あるいは 時間のパースペクティブの中に精神上で配置される。
□ 映画と時間
映画は映写機で一秒間に二十四コマの静止画像を連続して一定 の速度で映し出すことで運動する映像を生み出している。このと きその映像を結合している知覚作用を、エイゼンシュテインは映 画の「基本現象」として「モンタージュ的現象」と呼ぶ。一般的 に言われる、編集作業としての「モンタージュ」を含めてそれは、
エイゼンシュテインによれば一貫した「映画作品のすべての『等 級序列』」であり、映画の時間はこの「モンタージュ的現象」から 生まれている。この時間は映画全体において変化・移行し続ける、
「可変的な現在」である。これは「モンタージュ的現象」によって 連続し、時に「モンタージュ」によって自由に繋げられ際立たさ れる時間である。これによって映画全体は、昼 - 夜といった時間 の変化や、過去 - 現在 - 未来といった時間の飛躍を可能とし、相 対的な時間を浮かび上がらせる。
このように映画の時間は一方では「現在の可変的性質」、他方で は「全体への統合」のなかにあり、いずれにしても「モンタージュ」
を介して現れるものである。
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時間の概念によって建築はその多面性を捉えられるようになっ た。これは絵画で見られるようなその対象の分解とその再結合に よって継起的に、あるいは同時的に把握される。このとき、その 多面性を意識上で連続した系列に結びつけ全体の変化を捉えるこ とでその継起的な時間を理解しうる。
それに対して映画はすでにその作品内部に持続がある。この持 続を構成するのが「モンタージュ的現象」である。「モンタージュ」
は編集段階において「ショット」と「ショット」を結合させる方 法だが、この「モンタージュ的現象」は映画の内部で一貫しており、
それは近接したものを連接させる観察者の知覚作用に依拠するも のである。
建築や絵画に見られた作用と「モンタージュ」とは同じ近接し
「建築と時間」―モンタージュを通して建築と時間の可能性を考え―
建設工学専攻 507092-5 山名 豪 建築計画研究 指導教員 赤堀 忍
introduction
Ⅰ 諸芸術と時間
たものを連接させる主体の知覚上の作用でもあるので、それは二 次元・三次元あるいは同時的・継起的といったメディアの違いに はよらない作用であり、建築や絵画に現れる多面性の結合はこの 知覚作用によるものであろう。対象の多面性を把握する時間の概 念は「モンタージュ」的現象に依拠していて、「モンタージュ」によっ て時間は時計で測られる時間のように計測された数量として生じ るのである。
映画的方法である「モンタージュ」は、「ショット」と「ショット」
を並列させて、その描写を結合させるとともに、第三の意味を創 造させるため、弁証法的過程が備わっている。その過程は「モン タージュ」によってその映画に観察者を参加させることでなされ る。このとき作品は「モンタージュ」の構成によって変化する全 体 = 時間であり、規定される〈理念〉を規定することになる。こ の章では各モンタージュ研究から現れる時間の像を考察する。
□ グリフィスのモンタージュ
D・W・グリフィス(1875‐1948)のモンタージュは経験的に 分化した諸部分の総体を合成させる。モンタージュによるリズム で男/女や北部/南部などの分化した諸部分のイメージやロング ショット/クロースアップによって諸サイズや次元などを連関し 交替すること(並行モンタージュ)で、同時に示された二つの場 面は作用・反作用を起こし有機的に合成され、新たなシチュエー ションへと行動を変化させていく。あるいは交替を速くすること で、そのイメージを収束・接合させる(加速モンタージュ)。その 変化は、男/女や北部/南部などの二元論の「間」の収束にあり、
全体は行動を介して「有機的」にその隔たりを埋め合わせて融合・
合成され、外面的なシチュエーションを変化させていくのである。
□ エイゼンシュテインのモンタージュ
エイゼンシュテインはグリフィスによるところが多いが、その 合成は経験的な合成ではない。それをエイゼンシュテインは「パ トス的なもの」と呼ぶが、エイゼンシュテインは諸部分である
「ショット」の特別な点を設定し、その特別な点としての「ショッ ト」の対立(対立モンタージュ)からシチュエーションの変化だ けではなく、質の違うものの共時的な合成や、質のつまり形式の 次元をも変化させる。この変化はグリフィスのときのような外面 的・相対的な変化ではなく、対立による「質的な飛躍」をもって「弁 証法的全体」にまとめられる。
□ ドゥルーズのモンタージュ
G・ドゥルーズ(1925-1995)はH・ベルクソン(1859-1941)の 思想から映画を現象学でいうところの「自然的な知覚」のように 理性的に把握しうる特別な点 ( イデア)の対置、つまりポーズの 連関、切断が可能な総体としてではなく、純粋持続、つまり連続 を備えた相互浸透するイメージであると考えた。この時「ショット」
まさにもろもろの運動であり、動く切断面「運動イメージ」であ る。この「運動イメージ」は知覚イメージ、情動イメージ、行動 イメージの作用 - 反作用する感覚運動的連鎖を表現し、「モンター ジュ」はその「間」、隔たりを埋める役割を担う生きたイメージで ある。このとき時間は、モンタージュによって際立たされる全体 の変化であり、運動から間接的に生じるものである。しかし、ドゥ ルーズはそれとは異なったイメージの存在をも指摘する。それは 感覚運動的な連鎖不能によって知覚イメージから行動イメージへ と延長されないときに時間を感じうるものにするやりかたによっ てあらわれる直接的な時間イメージである。
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ここには三つの時間のタイプがあるといえるだろう。一つ目が 動かない断面の並行や対立の「モンタージュ」による結合(グリフィ
Ⅱ モンタージュ
スやエイゼンシュテイン)。二つ目が連続的に変化していく「運動 イメージ」。三つ目が直接的な「時間イメージ」である。
前章のモンタージュの考察を参考にし、レイヤーの重ねあわせ によるその諸部分の関係と総体、そして運動から建築家の空間原 理と全体 = 時間像への試みを考察する。
□ ミース・ファン・デル・ローエのモンタージュ
パースペクティブは本来、主体の人間的視点を空間に見出すた めに描かれるのだが、ミースの「レザー邸」や「小都市のための 美術館計画案」のパースペクティブは、特定の場所から見た正確 な表象ではなく、直交するはずの視野すらも同時に一枚の画面に 複合されて描かれる。ミースはモンタージュによって時間を縮減 させ、運動を取り除き、そこにあらわれるテクスチャ、壁や柱、
彫像、外部の映像などの「ショト」の同時的な並置を行う。この ように並べられる対象はミースの空間概念「ほとんど何もない」
弁証法的全体への多面性の統一である。
□ バーナード・チュミのモンタージュ
『ラ・ヴィレット公園』は点・線・面のシステムの重ねあわせから、
「それらは、衝突し、ねじれ、補強し、時には無関係なものを生み 出す」ことを目論まれている。ここでは異なるシステムを共時的 にモンタージュし、多様な意味合いを生み出す強度を上げている。
線のシステムは「運動学のプロムナード」といい、共時的なモンター ジュによって連続した変化をする「運動イメージ」をつくりだす。
そのイメージは各個人間での統一した意味を持つのではなく、次々 と変わる風景を手がかりに各個人が「唯一単独の事実よりはむし ろ、解釈の多様性を提起する」ことを期待しているのである。
□ カルロ・スカルパのモンタージュ
スカルパの建築『ブリオン家の墓地』は連続的な形態の重ね合 わせから構成し、その動線は視界の領域とともに洞察され、無意 識に流れていく時間的なあるいは映画的な建築である。しかし、
この床と床、床と壁、天井と空という重ね合わせの分岐点をギザ ギザ、あるいは巧みなディテールの処理によって運動は停止され、
そこに視線を集中させる。つまり連続にではなくその「間」に向 かわせるこの建築は「直接的な時間イメージ」を持つ建築である。
建築において現れる時間像は映画と同じように「モンタージュ」
を介してその対象に参加し、運動・変化を捉えることで間接的な 時間を得てきたものであろう。そのため映画と同様の種類のイメー ジを見ることができた。それは一方で動かない断面の継起であり、
他方では「運動イメージ」である。これは建築に多面性と全体性 を欲するのならば有効であると思える。しかしながら、また空間 的な配置でもなく、時間的な配置でもない、その連続の不可能の 中に時間を感じうるものにするイメージがある。
「レザー邸」 「小都市のための美術館計画案」
「ラ・ヴィレット公園」 「ブリオン家の墓地」