記 念 論 文
日 本 人 口 論 壇 昭 和 初 十 年 史
南亮
一
β 良
豫定目次
にしがき
第一章日本入口問題の諸論議
第二章﹁産めよ殖えよ﹂の入口論孚
第三章入口問題・入口理論の一般研究
第四章特殊人口問題及び入口理論の研究
第五章マルサス人口理論の研究
第六章入口思想史及び諸學説の研究
第七寧欧米入口丈献の翻露・紹介
むすび
日本人口論壇昭和初十年史一
二
は し が き
本稿は商學討究の十巻完成に因みてその嚢刊の年(大正十五年・昭和元年)から昭和+年十二月に至る満十
ヶ年間の日本人口論壇を同顧し︑この間に嚢表せられたる主要人口文献を手探りに如何なる人が︑如何なる問
題を︑如何に取扱ふて來たかを編述しながら︑昭和初十年間の研究所産とその動向とを描出しようとするにあ
る︒本稿は先づ筆者自身の興味と︑限られたる準備期間に於ける個人努力の制約とのために︑飾にかけるべき
問題を可なり狭い範團に限定せねばならなかつた︒讃者はこの範園を前掲の豫定目次で一覧せられたであら
う︒次いで筆・者は︑この稿を草するに當り︑纏まつた著書や翻課書については多く自家所藏本に擦つたけれど
も︑雑誌論文の槍索については小樽高商圓書館及び東京商大圖書館を利用し︑なほ足らざるものは慶慮義塾固
書館と上野の帝國圖書館とについて補ふといふ順路を採つたにも拘はらす︑それでもなほ資料を霊くし得なか
つたことを自白せねばならない︒要するに︑かういふ作業を短期間に完了することは個人の力を超えたことで
あり︑叉あらゆる文献を淺りなく検索するといふことは特に日本の諸雑誌に不備な現在の學校圖書館の三つや
四つを騙けめぐつても殆んど不可能に近いといふことになるのである︒ーそこへ持つて來て︑机上に堆積さ
れた雑多な資料を何う整理したらよいかが︑ひどく筆者を悩ませた︒問題は可なり⁝狭い範園に限定したとはい
ふもの瓦︑何分にも十ヶ年にわたる諸家の︑思ひ思ひの角度からする︑幾つとも数へ切れないほどの著書論文
である︒その畳え書きを机上に堆積したま﹂私は荘然として旬日を過ごした︒そして途に︑た讐一つの執筆責
任感が筆者をこの稿に騙り立てはじめたのは︑約束の期日を過ぎる幾日か後のことなのである︒
だが筆者は︑さういふ事情にも拘はらす︑本稿をもつて無駄な勢作とは思ふまい︒出來上らない先から筆者
には︑この稿が勢力徒らに多くしてその割りに効果の上がらないものだといふ見透しは明かにつくけれども︑
今まで知らなかつた熱心な研究家を知り︑思ひも設けぬかくれたる榮作を堀り出して知見を廣め得たことは︑
筆者にとつて何よりも仕合はせなことであつた︒その代りに又︑今までに編まれた幾つもの人ロ文献目録の中
に何度も繰り返へし記録せられたる論文が全く愚にもつかぬものであつたウ︑目録の上では論文としか受取れ
ぬ悉のが事實上は外國丈献の邦課であつたりして︑筆者をいらだたせたことも一再に止まらなかつた︒謂ゆる
文献目録が︑今まで多くさうであつたやうに︑軍に雑誌の表紙を見て筆者名と論題とを韓記する程度のもので
あるとすれば︑後の研究者にどれだけ禍ひをのこすか知れない︒本稿はこの窯出來るだけ周到且つ親切であり
たいと思ふ︒ーかくて先づ筆者は︑本論を︑昭和初十年間の日本人口問題の諸論議から始めるであらう︒
第 嗣 章 日 本 人 口 問 題 の 諸 論 談
學 問 研 究 の 刺 戟 な り 動 機 な り が 現 實 生 活 の 直 接 の 問 題 か ら 燭 稜 せ ら れ る と い ふ 例 し は 決 し て 勘 く な い ︒ 日 本
に 於 け る 人 ロ 問 題 ・ 人 ロ 理 論 一 般 の 研 究 が 直 接 に ﹁ 日 本 の 人 口 問 題 ﹂ に 關 す る 諸 論 議 の 獲 展 に 員 ふ て を る 部 分
日 本 入 口 論 壇 昭 和 初 十 年 史 三
四
が可なりに大きい︒昭和元年(大正十五年)は第二同國勢調査の施行せられた翌年であつて︑この頃からして
漸く日本人ロの正確なる増加の姿を見ることが出來るやうになつた︒政治家は慌てた︑學者は捻り出した︑ヂ
ヤーナリズムはそれを︑いやがうへにも焚きつけた︒昭和勢頭の爾三年間は︑日本人ロ問題は政治的︑學問的
に最も大きい流行問題の一つとなつたのである︒
﹁ 人 ロ 問 題 は 決 し て 今 年 の 新 問 題 で は な い ︒ ﹂ ー と 矢 内 原 敦 授 は 昭 和 二 年 七 月 襲 表 の 一 論 文 で 書 い て ゐ る ー
﹁大正十三年の人口自然増加が七十四高三千人と獲表せられた時も︑大正十四年のそれが八十七高五千人と稜
表せられた時も︑世人はその實歎の大なるに驚かされて人口問題の論議が頓にやかましくなつた︒殊に大正十
四年の人ロ増加が八十萬蔓を突破せることが稜表せられて以來︑即ち昨年︹昭和元年∪この方︑人口問題は火
急の問題として一暦徹底的に世人に意識せられ︑その神経を刺戟した︒前内閣︹若槻内閣︺も人ロ食糧調査會
の設置を決定した︒雑誌といふ雑誌︑論客といふ論客にして人ロ問題を論ぜざるものはない有様となつた︒﹂
しかし﹁それは昨年の問題でありし如く又今年︹昭和二年︺の問題である︒甲論乙駁して一年を過ぎた︒而し
て昨年度︹昭和元年︺の人ロ糟加百萬人と聞きて︑世人はアレヨくといふ間に燃え損がれる火の手を見るが
わ如くに思はないだらうか︒﹂
人ロ問題が﹁燃え損がれる火の手﹂といふやうな形容は少しく大袈裟に響くかも知れないが︑時人の心に映
つた問題の重大さを率直に表現して面白い︒まさに﹁アレヨくといふ間に︑﹂矢内原氏の論文も書かれたので
1)矢 内 原 忠 雄,時 論 と し て の 入 口 問 題 『中 央 公 論 』42年7號(昭 和2年7月) 34‑・3S頁 。
ある︒同じ年の十一月には︑少しく毛色の鍵つたものとして︑別の筆者がかうも書いてゐる︒
﹁最近人ロ問題がしきりに喧しく唱へられ︑こ玉に解決されねばならぬ我國の諸枇會問題の最も根本的な或は
少くとも最も重要なるもの︑一が横はつてゐるかの如く吹蕪する者さへある︒政府に於ても既に本年︹昭和二
年︺初め若槻内閣の時代に人ロ食糧調査委員會なるものが設けられ︑之を引き織いだ政友會︹田中︺内閣は更
に一居﹃積極的﹄に︑一暦根本的に之を解決せんと意氣込んでゐるといふ話である︒殊にさる五月十九日︑嵐
の様な金融恐慌︑二十日間のモラトリウムで︑財界の混齪︑生活破綻者の績出の眞只中に於て︑下條内閣統計
局長が︑突如として︑昨年度︹昭和元年︺の人口増加百萬を突破すると傳へたるに︑さらぬだに肚會的不安に
おびえてゐる人々の注意は一暦切實に此の問題に集注されたかに見える︒更に叉當時新聞紙上で喧しく傳へら
れた國際経濟會議(五月四日‑二十三日)に於て︑日本の代表が專ら強調した問題も亦これであつた︒日本の
わ代表は︑﹃人ロ過剰の我に資源を供給せよ!﹄と叫んだ︒﹂
かういふわけで當時の人ロ論文は非常な分量に上つてゐる︒雑誌といふ雑誌︑論客といふ論客は殆んど総動
員の形であつた︒これらの主要所産は後の諸章にも分類して記録せらる玉であらうが︑今特に日本の問題をの
み取扱つた文献のうち特色的なものを一わたり探ぐつてみると︑先つ目につくのは︑
の高田保馬氏﹁産めよ殖えよ﹂である︒掲載誌の﹃維濟往來﹄は随筆專門の雑誌としてこの年︹昭和元年︺の
三月に創刊せるものであるが︑その七月號には特に﹁人口問題の封策﹂といふ特輯欄を設けて右高田博士の外
口本入ロ論壇昭和初十年史五
2)淡 徳 三 耶,入 口論,『 杜 會 科 學 』3巻4號(昭2年11月),63頁0
3)『 経 濟 往 來 』 互巻5號(昭 和 元 年7月),15・ 一一17頁 。 後 に 随 筆 論 丈 集 『入 口 と貧 乏 』go‑‑95頁 に牧 録o
六
に高畠素之︑鶴見蕨輔︑北澤薪次郎︑田川大吉郎︑山川均︑小村欣一の計八氏の随筆短丈をか﹂げ︑さらに毬
頭には末廣巖太郎氏の﹁毛鑓の人口問題﹂などといふものを飾つてゐる始末である︒高田博士のものも六號活
字で僅か二頁あまりの随筆的小論であるが︑人ロ増加問題などで騒ぐのは愚の至りだとし︑﹁眞の問題は來るべ
き 出 生 率 の 減 少 ー 人 ロ 増 加 の 止 む こ と を 如 何 に し て 防 止 す べ き か に あ る ︒ 而 も 此 大 な る 潮 流 の 水 先 は 既 に 大
へぬヘへ都市の知識階級に押よせ來つ玉ある︒人口の増加は何等問題ではない︑此水先のあとにほうばいたる流のみな
のぎり迫らむとすることが問題である︒﹂と指摘し出でたところに特色があつた︒けれどもその結論は又右の所論
以上に異彩を放つてゐた︒曰く︑﹁私は信する︒た穿産めよ殖えよ︒姑息なる救濟策などに頼らなくても事はす
む︒窮すれば即ち通ぜむ︒殖えさへすれば︑而して之に懸じてすべての丈化的活動ことに維濟的活動が盛んに
な れ ば ︑ 國 内 は な ほ く 多 歎 の 人 ロ を 養 ひ 得 る 飴 地 が あ る ︒ 商 工 業 立 國 の 基 礎 の 確 立 し 得 な い の は 生 活 費 の 不
の相臨に高きが故である︑國民の努力乏しきが故である︑而してこれは人ロの増加の足らざるが故である﹂と︒
もしもこ玉に河上肇といふ篤學者が京都大學にゐなかつたとすれば︑昭和壁頭の日本人ロ論壇は今吾々が同
顧してさう思ふほど華々しいものではあり得なかつたに違ひない︒少くとも高田博士の一随筆は然かく世人の
注意を受けすして過ぎ去つたであらう︒だが︑そこに︑マルクス的理論の武器を鍛へ直して河上博士が待ち構
へてゐた︒翌月の八月に二冊連績して刊行せられた河上博士の個人雑誌﹃肚會問題研究﹄は次の三丈を載せ
,て︑世上に流布する﹁俗論﹂を次々に薙ぎ倒して行つた︒ー
4)高 田 保 馬 著,入 口 と貧 乏,昭 和2年11月, 5)同 上94‑‑95頁o
日本 評 論 肚 刊,91頁o
の
﹁ 資 本 主 義 末 期 の 一 症 歌 と し て の 人 口 過 剰 の う め き 1 人 ロ 過 剰 の 原 因 お よ び 封 策 に 關 す る 世 論 の 批 判 ﹂
わ﹁鈴木文治氏の人ロ制限論(人ロ問題批判拾遣の一)﹂
﹁ 生 活 難 の 事 實 を 言 葉 の 上 で 否 認 す る こ と に よ り 之 を 解 決 せ ん と す る ︑ 高 田 ︑ 氣 賀 二 博 士 の 意 見 ‑ 資 本 主 義
り辮謹論の現象形態の一つとしての曾侶的扮装(人口問題批判拾遺の二)﹂
﹁燃え援がれる火の手﹂は河上博士の鮮かなる手法によつて確かに一杯の冷水が注ぎかけられた形である︒火
は泪えたのかと観衆は片唾を呑んだ︒當の批判を受けた﹁世論﹂の代表者達も︑或ひは時利あらすとしてか或
ひは自家所論の不備を悟つてか︑しばし河上博士の論鋒に立ち向ふもの定も見えなかつた︒深い瘡痩を幅岡に
養ふたのちやがて高田博士が宿敵に向つて論陣を張り直し始めたのは翌昭和二年の秋のことである︒吾々はそ
の経緯を次の章下で詳しく語るであらう︒こ︑では論職を離れての猫立の諸文献を取扱はねばならない︒しか
めし昭和元年にはこの外に目星しい論文も見當らない︒八木仲一氏﹁人ロ問題﹂といふのが目に燭れたが︑これ
は學生の論文らしく︑人ロ問題の解決はフレッチヤー氏咀囎法によつて︑食物を節するにありなどと論結して
ゐる︒
昭和二年から三年にかけて上田博士主幹の雑誌﹃企業と肚會﹄は若干の注目すべき論文を掲げた︒筆者は次
の二つを例示したい︒
の土田貞次郎氏﹁我國の人ロ及食糧問題﹂
日本人口胎壇昭和初十年史七
6)『 杜 會 問 題 研 究 』73冊(昭 元 年8月1日),r‑32頁 。
7)『 杜 會 問 題 研 究 』74冊(昭 元 年8月Io日),18‑34頁 。 因 み に これ ら諸 丈 に 昭 和2年 叢 丈 閣 よ り、『入 口 問 題 批 列 』 と題 す る軍 冊 子 に 纏 め て 出 版 され †:0 8)大 倉 高 商 経 濟 研 究 會 登 行 『商 業 糧 濟 研 究 』1號 〔昭 元 年12月)173‑‑187頁 。 9)後1こ 同 氏 箸 『新 自 由 主 義 』 昭2年7月,同 丈 館 刊,297・ 一・324頁 に 牧 線 。