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究
趾 會 哲 學 の 基 本 問 題
肚會封個人の問題を通じての
左右田哲學への一省察ー
南 亮
三
B良
本稿は往年左右田博士の指導室に列なりし頃の︑私の貧しい牧穫の旧つであろ︒今測らずも博士の長逝に逢ひ︑本誌編輯同入に
私に囑するに追悼論丈の起草な以つてしれが︑博士の命に依りて私の現に衷念しつ﹂ある繁忙事は到底微力なる私にその絵暇な
與へず︑未熟なる醤稿な掲げてその貴なふさがざるな得ざろは遣憾である︒
目次
一︑開題
杜會哲學の基本問題二六五
商學討究第・二借(下)
二︑杜會概念と個入概念
三︑﹃儂値杜會﹄と入絡
四︑債値の艦系
五︑結論・﹃入格償値﹄と﹃入格丈化﹄ 二六六
肚會哲學そのものが果して︑他の諸哲學よわ猫立せる一佃の範域と方法とを有するや否やは︑實
のところ未定の問題である︒固より縄濟哲學が経濟學の學的根族を研 撒する駕めに存在すると云ふ
が如く︑肚曾科學批制としての杜會哲學は存立し得るであらう︒然しながら︑一切の肚會問題の臨
着撫を明かにし︑肚會思想の批例者となり基準となるの肚會哲學︑云は団肚會の理想に關する形而
上學は祉會科學批割としての肚會哲學以外に︑別個の意義と重要とを有しなければなら諏︒從つて
此の意味に於ける肚會哲學の問題を繹ね︑之れを明かにすることは︑肚會問題を研究し枇會思想を
論ずる竜の\皆一齊に︑其の研媛の努力を注ぐべき根本的の課題であると思ふ︒
然らば斯くの如き意味に於ける肚會哲學の基本問題は何であるか︒余は之れに答へて︑そは趾會
劃個人の問題に他ならないと主張しπい︒固よう肚會劃個人の問題が肚會科學の出登黙である之と
9 は既に屡々稽へられたところである︒例へばジムメルは肚會封個人の問題を以て肚會學の基本問題
とし0り︑左右田博士は肚會と個人との概念と意味とを以て吾が経濟學の出登黙であるとし②︑スヂ
ーア・ソムロ③は政治學の︑而してゲオルビ・メーリスωは倫理學の基本問題を形成すると云つイ
ゐる︒余は懐穴別個の意味に於て肚會劃個人の問題は︑舷庭に所謂る肚會哲學のグルンドテーマで
あると考へるのである︒
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肚會は個人を離れて濁立の存在を有するものなるか︑或はま力個人以外に何等客観的なる存在を
有せざる竜のなるか︒是れ既に一個の重要なる問題である︒例へばリツケμトの門弟にして克く其
の歴史哲學を大成し尤るメーリスは︑肚會劃個人の問題を取扱ふに當つて些の疑をも懐く乙とな
く︑肚會と個人との概念上の匿別を前提とし︑直ちに肚會は個人の爲めに存在するものなるか︑或
は懐力反封に︑個人は肚會の欝めに存在する竜のなるかを問はんとしω︑京郡の西田博士は絶劃的
自由意思の立揚から︑個人的意識の根紙に一種の肚會組織を考へ︑斯くして肚會と個人との間には
融會哲加學の基本問贈魁噂二山ハ七
e 商學討究第・二巻(下)聖二六入
何等客観的有償値的なる匠別なしと論ぜらる㌧㈲︒
①P客o露凶3こU凶o寓o臥oげ§αqN乱︒︒9窪臣ロN︒ぎo昌︒・号戸06ヨo団窃o冨津.帆(Hう西oq口"目ゆ沁いリヒ6畠.×一鳩鵠O⇒目)
②西田幾太郎稿︑壮會と個人(哲學研究大正十一年四月第・七十三號)(大正十二年刊﹃藝術と道徳﹄に牧む)
固より吾等は肚會が軍に多くの個人の集團πるが故に慣値を生ずると云ふのでもなく︑まだ心理
的個人が直ちに有償値的なる肚會の基礎となるとの説に満足する竜のでもない︒さうながら一面︑
肚會甥個人の關係を以て一切の肚會哲學の基本問題とするの前に︑更に其の根本に遡りて︑肚會と
個人との概念を考究するの必要を戚じ︑而して他面︑絶封的自由意思若しくは唯心論的形而上學に
最後の安静黙を求め得ずして︑個人のほかに何等かの意味に於ける有債値的なる肚會を想定せざる
を得ない吾等は︑先づ肚會と個人とが概念上如何なる決定と匪別とを受くべきやを問はなければな
ら澱︒之れが本篇に於ける第一の問題であう︑而して叉︑第二の問題へのフオァァルバイトカるも
のである︒一
然らば斯くの如き概念的の規定と匠別とを受けπる肚會と個人とは如何に交渉し︑ま允調和すべ
きか︒換言すれば個人と群衆︑個人と團膿︑否な一般に肚會との關係は如何に解すべきか︒之れが
本篇に於ける第二の︑而してま控終局の問題である︒實際上之れに關聯して吾等に其の解決を迫り
來πるべき事實問題は決して一二にとΨ唆らない︒否な一切の肚會問題は究極の解明を蝕庭に求む
べきであるω︒
④左右田喜一郎著︑丈化債値と極限概念︑大正十一年刊︑五〇頁蓼照
例へば肚會の利盆と個人の利盆とは如何にして一致すべきやの問題は其の一である︒固よb絶劃
的自由意思の立場よりする西田博士の如くω︑肚會と個人との間に何等客観的・有慣値的なる匠別
なしと考ふることを許さず︑從つて叉︑自己を愛することが他を愛することであう︑他を愛するこ
とが自己を愛することであるとの論構に満足し得ない吾等は︑必然的に此の問題に逢着せざるを得
ないのである︒然しながら既に一度びカントの洗禮を受けπる吾等は︑最早や此の聞の矛盾を去り
調和を立つるに於て︑紳よりの豫定調和を説くライブニツッ︑乃至は個人的利盆の追求の結果は自
然的に或は寧ろ必然的に肚會の利盆に合致すべしと説くアダム・スミス㈲に︑多大の敬意を表しつ\
竜猶ほ吾等の學的︒理論的の要求を満足せしめ得べく竜ない︒然らば吾等は肚會の利盆と個人の利
盆とが︑永久に合致することなき二個の竿行線と観ずるに於て︑唯物論史の著者として︑まπ現代
に於ける濁逸マールブルビ學派の襲生を促しカる肚會思想家として著名なるエフ・ア・ラγゲと共
に︑﹃偉大なる肚會的理想の下にエゴイズムスを屈服せしめ︑祉會生活に於ける人間の完成を新し
社會哲學の基本問題二六九
商學甜究第二巻(下)二七〇
き目標として︑軍に個人的なる利盆を追求する小息みなき努力に代ふるにあらずんば︑新しき時代
は到底凱歌を奏せ綴であらう﹄ωと嘆ずべきか︒或はま力阯會的目的論の立場よう︑二個の卒行線
の無限の延長に於ける一致を想ふに於て︑吾が左右田博士と共に︑肚會と個人とは寧ろ自己目的其
れ自からとしての人類に考ふべき二個の方面であるとしω︑此の雨者が櫨つて以て係はらしめらる
ると之ろの文化償値並に創造者慣値の相互間に於ける認識論的關係に基づいて各般の肚會問題は究
極的に解明され得べきもの︑而して叉されざるべからぎるものと主張すべきか⑤︒或はまπ二個の
直線的進展とは見ることなく︑云は思積極・消極の爾極ようする集中的︑若しゃは螺線的の賢展と
考ふるに於て︑吾等はマールブルビ學派の大成者πるメゥル・ナトルブと共に︑肚會と個人とを背
反的なる劉立と考ふる乙となく︑常に一個の︑而して永遠に成生の過程を追うて止まざるところの
イデーとし︑此の肚會の究極的なる理想的中心黙は正に﹃申一耶﹄と解せらべきものと観ずべきか⑤︒
蓋し吾等の沈思熟考を重楓べき問題でなければなら澱︒
ω西田幾太郎︑前掲論丈(哲學研究七十三號).三九一頁
②}o︒巳旦≦・β年︒h男讐剛︒葛℃7臼8島c︒壽︒2℃●恥いN
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ω左右田喜一郎稿︑デレオロギー考察(思想︑大正十二年一月號)入○頁
⑧左右田喜一郎著︑丈化償値と極限概念︑大正十︼年刊一五〇頁
⑥屈三署象o壱℃一a三忌=3ロ&O︒葺︒冒巴蜀3}o昌帥同紀♂ロ謄ψいーρ・‑
また個人間の︑乃至は肚會への個人の服從犠牲は之れを如何に解すべきやの問題は其の二であ
る︒近時肚會奉仕なる語の流行に連れて︑第二十世紀の理想を以て個人の肚會的貢献に在りとし︑
京郡の財部博士は︑肚會奉仕を義務と観ずる以上に報恩と観ぜしめ︑﹃身のπめに君を思ふは二π
心︑君の完めにぞ身をば忘れて﹄とうカへる大楠公の詠の如く︑菅に軍律に強ひらる㌧が駕めのみ
ならず︑自憤克く君の爲め︑國の爲め︑砒會の爲め身を忘る\の途を知るべしとて︑肚會奉仕・自
己犠牲を論ぜらる㌧ω︒さうながら既にカントの人格主義の道徳を學び︑更に丈化慣値實現の過程
として何人と錐竜各々特殊の地位を輿へらるべしとする所謂る文化主義の立場よか︑其中の人格の
或るものに封する絶封の服從︑絶樹の犠牲を要求するの先天的理由あう得ざることを左右田博士②
に依り敷へられπる吾等は︑斯くの如き無意義なる︑而してまπ何等の學的根振を有せざる個人聞
の︑乃至は肚會への服從・犠牲の敷へに満足し得べくもない︒愛と犠牲と服從との敷を説き︑﹃人
その友のために己の命を摺つるは之よわ大なる愛はなし﹄ωと敷へた基督でさへも︑高き香膏を基
督の足に注げるマリァを見て︑此の香膏を何ぞ銀三百に責うて貧しき者に施さ冒るや︑と云へるイ
祉會哲學の基本問題︑二七︼
商學討究第二巻(下)二七二
かムスカリオテのユダの詰問に封して︑﹃彼に與はる勿れ︑我が葬りの日のカめに之を貯ヘカリ︒貧し
き者は常に汝等と共にあれど我は常に汝等と共に在らず﹄ωと苦しい答辮をなしカではないか︒吾
等は基督の言葉にも卒等思想の宇面を窺ひ︑鼓庭に領値哲學的の意味をすら認め得るのである︒然
るに人格の債値を奪重するの蝕う︑偉大なる一個の人格の儒めには多数者を犠牲にする乙とをすら
是認し︑斯くて貴族主義的なるニイチエの道徳にも相當の理由を認めむとする人(西田博士)④あ
るに於て︑且つは左右田博士が︑各人が此の世に生き得べき唯一の存在理由として或る債値實現の
過程として︑凡ての人格は其の各々の庭を占め得べきものであり︑或る超越的慣値に劃する竜のと
しては︑各人格は代置し得べからざる其れ自身固有の地位と重要とを有する竜のとして見らるべき
ものである働と説かれながら︑﹃償値の燈系﹄に於ては所謂る創造者慣値の尊嚴を高調し︑鼓庭に個
人の意義は鑑くωと論ぜらる\に於て︑慣値の創造に墾輿し得ぎる家庭に於ける妻の地位︑四+年
間稀代の學的天才に仕侍したる名もなき一ランペ︑其の他多くの非創造的なる︑否な︑他に服從し
仕侍することに依りて天才をして天才尤らしめ︑創造者をして創造者πらしめつ\あると乙ろの無
歎の群衆の︑存在の理由と歴史的の意味とは︑之れを如何に解すべきか︒余は心窃かに之れを疑ひ︑
而して自から肚會思想の批判者禿う基準虎うと稻へつ\ある文化主義(左右田博士)の到底一個の