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『宗教研究』160号(33巻1輯)

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(1)

――目次――

1,

キリスト教的実存, 宮本武之助, The Christian Existence, Takenosuke MIYAMOTO, pp.1-13.

2,

密教者としてのアティーシャ:とくに時輪の問題をめぐって, 羽田野伯猷, Atīśa as a Tantric

Buddhism, Hakuy

ū HADANO, pp.14-52.

3,

キヤケゴーァにおける著作活動の宗教的発展, 大谷長, Religious Development of the Authorship by

Søren Kierkegaard, Masaru

ŌTANI, pp.53-69.

4,

ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッドとサンユッタ・ニカーヤに関する一考察, 宮坂宥勝,

B

ṛhadāraṇyaka-upaniṣad and Saṃyutta-nikāya, Yūshō MIYASAKA, pp.70-88.

5,

とう

頭の考証(上):宮座の一問題として, 小野祖教, Historical Analysis of Usages To, Sokyō ONO,

pp.89-98.

(2)

キリスト教的実存

ナ - Ⅰ かも られ の中 関す こと、現在もその ょ この世界に実存する ないものである。し にあることを認め、 る 根本的経験を物語 うこ Ⅴ 限り たが この るも 生妾ニ ﹂いること 自己中心的な って実存にば 罪 世に実存しば じ のである。 、将来もそのように生 き 自律的な生き方は、必然 悪の必然性がからみつい めると同時に 罪 ある 老

とい

非存在によって 脅 働 ぎに関する根本的 経験を物語っている。

、いわば一生涯 あ ざとなって残るほど深刻な根本的経験である。

くられるのではな

れな っくり出すので はない。

之助

キリスト教的実

(3)

しかしキリス卜者は、神が とヰリ ることを生口 白才クる 。号目 い き 、共に生きょ ぅ とすること ことを告白する。これは神の またキリス卜者は、この世 する。彼は神の恵みを 3 げ ろ ものとみなすことが出来ない も 認める。彼は、人間の認識 ることの出来ない所のデモ ニ 義 ・人間中心主義に立つこと の頽 落した状態を深く悲しみ 人間社会から逃避することな じることを告白する。これは またキリス卜者は、彼が 、氷 ると同時に、永遠に現存する 告白する。これは永遠の生命 以上のべたキリス卜者の根 事実を示していると言ってよ でもない。彼は神によって 否 ﹁・イエスにおいて和らぎ、共にあろう

ようとしている彼に 、 神が自発的に近づ 生 き 得る よう に 、 彼を神と和らがしめる

関する根本的経験を物語っている。

全く脱却することが出来ないことを告白

ぇず聖潔を 追い求めるが、自らを完全な 活 のみでなく、彼の社会的生活について

た人間の実践力によって最後的に解決す

たがって科学万能主義、文化至上主

者︵ 神 ︶に捉えられたものとして、自ら

、そして罪悪と虚血とが食いいっている く、

、それを除くことを自らの責任と感

っている。 遠 なものでなく、自らに終り、死があること、 そしてそれが罪の結果であることを認め 神との交わりによって 、 彼の上が完成をもち、 神と共にある永遠的生を望み得ることを

的 経験を物語るものである。

されると同時に 、 救われ肯定されている

足 されるのでも、また単に肯定されるの

ような働きによって 、 神に対して究極的 く 2 )

(4)

キ リス

ト教的実存

神 論的に解釈され

ね 、神の中に飛躍的 連続は認められな

って新しくりくられ ︵ l Ⅰ︶ た 被造物であると告白する。 次にキリス卜者を審判することによって救い、

超越的、普遍的で

働 ぎはキリスト者を キリス卜者を審判す

超歴史的であると 同

て 、キリスト考に神

的な面をもって い

を 内的に証示する 超

にあって神に生きて

される。 キリストと共に 仲 の、フ ちに隠されているのである﹂。

イェスにあって 神 に 生きている者であることを、認むべぎである﹂。 ( 3 )

(5)

来 事は、歴史的事実

ス 卜者たちは、歴史

し 彼らに続くキリス

である。第一次的証

、この新約聖書の中

自身が、その記録し

して、更にイェス・

﹂のような神の働き

る 逆説としての現実

生命をもっものとし て 新しくりくられたものである。

にその生命をもっ

の中にあることに ダ

、この限界状況を回

﹂に プ ロテスタンテ

おいては常に危機の

ぎ はなされることに

であろう。プロテス

れにも拘らずキリス ( 4 )

(6)

キ リス ト教 69 実存 キリス ぎ 存在で しかしそ て 、もは う に神に 者はあく と人問と 1枚関係 となす 神

がそれ自身において無に等しい、神から離れ る 。キリス卜者は神から厳密に区別されるが、 ︵・Ⅰ︶ ・ている亡ぶべ を告白する。

働きによっ

離れ得ないよ り、キリスト ラ。むろん神 を、 神と﹁ 我 のような主体 創造の媒介で 一 一 こ ト を そ の ト T ︶新約聖書コリ ソ ト人への第二の手紙五・一 セ のは過ぎ去った 、 見よ、すべてが新しくなっ たがって 救 て 彼は 、ど 危機の中に るとみるこ おいて危機 のである。 ﹁だれでも キ たのでぬる﹂。 リストにあるならば、その人は新しく造られ ム いの確かさは、彼自身の状態にでなく、 こまでも絶対他力による救いの確かさを あるということは、神の働きが、この世 とは誤りである。プロテスタントにとっ の中にあるということは、いかなる場合 神の働きそのも もつのである。 に実存する人間 て、 彼がキリス にも絶望に陥る に者でおる。古いも ( 5 )

(7)

被造物の白 ︵ 2 ︶ いわれる。 を啓示し、 キリスト え 得る人間 目白な決断 める。キリ て汝と 呼び そして彼は ぎを反映し 係 ﹂をもっ 般 、または 一体人間 おいてのみ のみみずか 神はキリス という意味 キリスト

であると

本 的関係 創造的にこの関係を確立するのである。

ば ﹂に 答

げ とめ、 をもってそれにこたえる主体、言 い かえれば、

ことを 認 神に向 っ

ぇ られる。

栄光の輝 ﹁ 我 1枚 関 の 特質 一 づ げられることを認める。

0 対決に

において

ではない。

力 をもっ において、人格といわれるのである。 者は、この世界の中にあって、自己を実現し、

造 によっ して、創造の自由と、 ( 6 Ⅰ 6

(8)

キリ ス、 ト教

的実存

世界のあらゆる 射よ ︵ 3 ︶ りも尊いことを認める。

ては、神はあくま

製作物との間に﹁ 我

もち、彼を人格とす

い 。キリス卜者は、

つのであって 、 自らの

ることを許さない 聖

神と混同されること

く 生きるのである。

により、人格的存

故 、社会学的見地か て 与えられて 的 活動によっ 間になり得な 間は、この自 棄であり、 ま ス 卜者にとっ である神に呼

に 文化

ての 人

べて 人

本 的要

て キリ

的 他者 う にキリ く 7 Ⅰ

(9)

自らを、自らの律法 社会的な生の形相を

体内個人として

において自律的であ

神との関係によって

映する よう に神に働

呼応の関係をも

円らに対する呼びか

。言 い かえれば、 常

に拉 ぎ 、 喜ぶものと

﹂によって 、

自らを

ぎ キリスト教的実存 の 論理が見出される。

神を信じたのであ フの ﹂ 0

となり、わたしたちのうちに宿った﹂。

なろ うか 。また人は

よゥか ﹂。

び、 泣く者と共に泣ぎなさい﹂。

(10)

キ リス

ト教的実存

してのみ、神の﹁ こ この意味においての み 自律的である・ -

、相互に呼応し、 交渉によって自己 表

ぎることに望みをも つのである。

、 共に生きようと

歴史や社会の法則に

対する呼びかけとし

倫理化しつつ、隣人 を 自由な人格として見出すのである。

めるが、自らの 人 真 であり、彼の生死を の国と神の義を求める ︵ⅠⅠ ノ

である。たしかに キ

くことほ出来ない。

に 呼応の関係をもつ

て 自らを見出すので ( 9 )

(11)

示すことが出来な

神に生きる者と 雄 るにすぎない。この世 働きかけを指し示す

わゆるカイロス

を、

神の救

いの

あって、キリスト・

﹂であるキリスト

により、単に自己妻

超越的に指し示

者は歴史的文化の世

ある。

のは、すべて添えて㎝ 与えられるであろう﹂。 一 一

(12)

キリス ト教的実存

たしのうちに生 き

な ささげられ

によって得ら

言 う 。もし 割

、もう一度 言

リストから 離

強くかたいて︶

だけで お る。﹂Ⅱ

たしたちは愛というⅡ

き キリスト教的実存 の 論理が見出される。 の 意味が否定された 所 によって成り立つので

徴は超越 的 である。 わにするのみでなく、

間 自身をあらわにす

、もしくはその生命

るだけであって 、神

が 単純に同一視さ ︵ 3 ノ ことは出来ない。

(13)

をなすことに ょ り、 ぎるようになることを 定 的なことが生じたこ ﹂とを意味している。 しかし彼はまだ完成されていないことを認め、

旋の時を待ち望んで

間 に生きていること 出現したキリストに ﹂に﹂を見る。ここに

。すなわち彼は 、こ

し 、この力の現実的

彼はこの歴史的現実

に 立ち、この神の働 ぎを象徴的に指し示す在り方をなすのである。 彼は、文化的活動

直接の机 手 として 白

のためにいのちを 捨プ ・ ,る べ き で よ のる﹂。

丘ゑ憎 し示す形式

て 、有限なる

ばならない。 (12)@ 12

(14)

キリス ト教的実存

自己を実現するにす 聖なる主体としての神

人間との間にも﹁ 我

ることを認める。三 % 由

なすことによって 、 るのである。そして 彼

現し、文化を創造す

である。

に 来だろうとする

働 ぎに対応する在り をもたない自己実現の る 。 を 象徴する性格をもち る 。

を 無視して、人間

よってつくられる 文

え、 神の働ぎを象徴 13@ d3)

(15)

しが

が 、チベットに き

ト の後期流伝仏教の

なく紹介されるのを 通 常 としてぎた。 しかし、かようなアティーシャ観のみならず、

きられるものがあ

ヘット仏教を推測す

0 間 題 にとどまらな

新認識の問題につたがるというべぎである。

いては、具体的に

来の学者の通常の仕

てこれに聯関性をもっ

密教者として

とくに

のァ

持駒

ティーシャ

問題をめぐっ

て @ 一

7

(14)@ 14

(16)

紐下

︶。

訊立 。そのため本書は チ ベ % してのアティーシャ ﹁ 緩 ㌧ 注め - い の 00 。の・の e ,

は 時論 暦 で、アティ

輸卒で、仏教のもっ

橋本光完訳九四頁

たいと思

土用

ピ几

卜 亡卜 Ⅰ

L

かう

てば、すでに﹁

旧稿を補筆したもの

本稿である。

その

をあらかじめ例示

であるからである。

Ⅰ出し馬のし

C

しし

︵の

(17)

今日においてもな

口 田口 王の ︵ い の目の口 ぺ ㏄ つ し オ Ⅱ し z, ︶ 緯 0, の・ ト e 。

マソ がある。彼もま

斗 三の ヨ 曲ヰ コ ,のめ㏄ 0 コ丁

といい、

本初伝

富室

︶目色 倖 ずら

ャが 、よしんば実際には チベソト における 時輪 の 最初の流布者ではな

円 Ⅰし口 円 , ロ 0 行Ⅰ ハ Ⅰ - で ・ トと 1. という。

な 主張はチャン ド ラ ・ ダス に起因する、と考えられる。

について、筆者の見 解 をあらかじめ回答しておぎたい。

ョ ーマ・ ド ・ ケレ

傾 ,何のあることを 否 ︵ l1 ノ

をもっておこたわれた

摘 してきたところである。

チベットにおいて

れがどうして一般に (161 16

(18)

密教者としてのアティーシャ 時輪暦と 考えられているのか、理解に苦しむ。

デを

き暦

﹂と よ び、

る 。 時輪暦 による記述

うない 0 しいていえ

位 として第二・第三

く おこなわれている

数の誤差を生じてき

問題の解釈が 、 自ら

暦を チベットに設立

﹂とがある。補足的に

柵が 紹介されている。

ャの 生没年等は時 輪

アティーシャより 多 少 後のことである。この一事をもってしても、

され弘められ、 依円 さ

である。

典 の一つとし、 時輪

ム派史 ﹂︵東北大学文学

である。

附随的かっ派生的ではあるがに対する 筆 者の見解を前もって

緊密な聯関にあったか 17 (17)

(19)

チベット大蔵経目録

その

D ところで

関係が如何に

らない。

の チベット

て おぎたい。

3f 日 o, z 。 、現存 看取さ 大蔵経 のいの ぺ ︶

時輪 ︵本尊名︶﹂と解説

解を示しているということができ る 。

昭 。 時輪 では回教 紀元を用いて、年数の計算がおこたわれている。

表した。

同時にそれは、

包環毬

でもある。

の 諸学者の主張にも ︵ 3 り かかわらず、それを支持することができない。 は下その論証をすすめ よう 。

(20)

本を追加したものである。 叫 ㎎

一 万 イー、 シャ 沖 Ⅰ /@@@ 白 l ほ の シ ュ ト つ 部 か い 駆

た 一 上

八の

典の

っお

ゾ の 「Ⅰ・ 万 ン

c ノ " t ⅩⅠ 。 卜 及 び 「 ア ン ギ

,子葉 増こンょ越 てれてん

ノン 目 Z な ト O の し 立

。 ソ Ⅰ ノ '

こ ギ か T の ュ

(21)

らない。 (2(n フ 20 , し 白 も フ 。

れ る

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皇条緒就喬馨

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し 転 学 菱 田 逆 の は 日

と 先 。 お こ 5 が つ ね い び す テ こ て ン い 述 い つ め て る と l ィ に と 疑 を わ お て 諸 こ シ も な い よ 半 デ い 者 ノン で の あ 次 は ま に あ 生 板 り ぐ な た 人 ろ

張 、 チ い プ を ナ

ト ブ持

ソ め

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輪れ

ぎ 看 一 " に た 大 何 で は

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ィ き ャこ た 適 時 テ の 強 い 茂 れ な シ 及 経 アァ ヒ い ャ ん デ は に 。 で 革命 ィ 偉 い と 史 お 、 ン l 人 と 関 い 。 の で か あ 関 心 つ の い ナ 観 取 ル 訳 録 ゲ り す @ ャ も さ て て え る に 評 え も タ ・ さ ナ な ァ も よ か ソ 著 れ ル Ⅰ " -" ア よ 7 っ さ 面 ち い

ら 仮 作 タ で ィ い ア も で し ン あ l て れ 時 チ 北 あ か 等 ろ シ 善 る谷 住 。 ) 輪 Ⅰ こ べ ソ て

さ プ 全 も ト { れ ト 著 た ン つ 人 も 時 の も と は

(22)

密教者とし ての アティーシャ

@o

密教においてどのよ

クラサン ヴァラ ︶

る 。

るが、 これは﹁ 勝楽 同時に無上流 Ⅱ・﹂ 1 無上疏 伽 ・ 母 タントラ部の密教 C

ム テンリ ソ 大蔵経 建

参照。当時、

として勢力

ストを求める

ことができたのであろう。

エ ム・チョー全書に

のの レ ・︵ 0 ︵・㏄の, 笘 n.. ﹁明明 燈史 ﹂ ho 一 ・お参照。

は アティーシャの

って当然補足 さるべ き ものがあるからでおる。

通常 依用 されて ぃ

、チベット大蔵経に

て 、多少立入って以下に論及しょう。

(23)

おコ

であるが、

及の

註釈﹁

、 ロ

ca 現観

Ⅰ口のの

分別﹂

旧メ

﹁ 口

ra 宴ヴ王

村隼

ザロ

約コ︶

コ尹之

め逗丘ヴ

0.

︶︶ 卸

田 かぬ

a

の先覚次第を扱っ

柑ご帥一

田デ

∼々

o.pAo

一の︶

、同

いる。

ておかなければな

四部作、即ち﹁

宝荘

0.

。 8

翻訳もある。これ

クティ崇拝を端的に示す密教である。

ーシャ

とよば

統を形成し、後世に

するために看過しえない事象である。

㈲砕金剛︵

へ一

ヴァ

ヂこ

ゅ宙廿曲臣 p 。 Z0. ぃ肚朝 と %

0. おお︶の翻訳がある。 また次のような自著もある。

(24)

密教者としてのアティーシャ

㈹無上疏

伽 ・ 画 所属の多羅

ぅが 、多羅に関す

梯に 属するものはさ

ヤ グプタ 著 ﹁多羅 天

コつつ Ⅰ 腱隼 Ⅱ づ のの 卸宙ダめコ笘 @

Zo, に い の︶がある。

外にもなお存在し

ある。 今 その一例を

に 属するものとして

著 ﹁ドーンビ・ へ| ル力の甘露光宙 隼ロナ Ⅰ︵の円山。 e に対する註釈﹂

および大幼歯︵ マハ

の 著作

0 の・ ぃ黛ダ ︵ 9 ︶

の 生起・先覚両次第 や

結合タントラは砕金

として後世に伝統 し ︵八︶ たことについては後述するであろう。

㎏ の

o の ︵ u ︶これらの点については﹁その 五 ﹂参照。 23 ( め )

(25)

㈲秘密集会︵ グフヤ サマー ヂャイ ㈲﹁秘密集会 世 自在成就 法 ﹂︵ Z0. 奏 0 じ 、 る 。第一は ヂ ニャー ナ パー ダ 流の秘密集会 マ Zo. ︶ののとの三部作があ 観、第二は観世自在の コ

Ⅱ無上輸

伽 ・ 父 タントラ Ⅰ に

・ 目 0 の︶に関聯をもつものである。

㈲無上疏

伽 ・画一般に関聯するもの

がある。本書は多 め *E 才 ㌧ 目ず曲 。 之 0, 悟 ㌧ じ

| シャから伝統した 、アティーシャの 密 である。 いつ 0S の著作・ 翻 楽優 破堤 舎 ﹂ G 擾デ 聴聞 録にょ れば、上記 が詰 るされている。

ある。

引の彼の書

破堤 舎 ﹂

0. ︶のめ e の ぬ

(26)

密教者としてのアティーシャ

テ,一 シャが翻訳し 狗 ヂ ニャー ナ パー ダ の あ ㈲ 黒 閻魔 敵 宮お 逼了日ゅ Ⅰ 田 ︶

聖典 金剛怖畏 ミゑ qp. ﹁一切如来身口意

ソトラ における ヂ 年 ︶参照。 ︵東北大学文学部研究年報第九号︶参照。 伝統のあったことも知られる。

た 密教者であった ハ ー ダ がイソ ド 密教 展 がすでにしばしば指摘したところである:︵ 4 工 ︶ ぎたい。

べ き アティーシャ

秘密集会と よ ばれる

サーチ

パダ

流に属す

これらは、アティー したと伝えられ、 チ

(27)

アティーシャ は、 類、さらに無上諭伽 の 希望も充分もち あ れを遺憾とし、チベ するに難くない。 かような ドムトク 大邱・ドーハの シュソ コルに所属するいわゆる 辞 ru ヴ ,落田即ち サ ラハ等の大邱︵マハームド - ハドマヮヂラ 、イソ ド ラ ブ ーティ等による七部 または八部の成就

書衰

0 夕燵ぢ t 。燵の㏄

こ等

の 部 に所属すべき種々の ウパ デーシャ等の伝授を 実際におこなった。また広くそれを流布したい と わせた, -O-8- しかしその後、弟子 ドムトクン によっ て 、その伝授を諫止された。アティーシャは 、, ト に来た意味がない と歎 したとしわれる , @ 、 -9- 1 。 彼 の 密教に関する関心がほぼ那辺にあったかを 推 ンの 制止、その他の事情によるのであろうが、 , ﹂の領域における彼の伝授活動はその後目立っ て l I Ⅰ Ⅰ Ⅱ無上諭仙一般に関するもの Ⅰ ヒ

シ を 種

ァ プ ン テ 閻 の

法敵

要 十 」

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ヱ考

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の・ の類に

ャカ扱蕊

研一も

,く が 、 l 一 ア ・ は ご

仏 教 史

参 照 。 "

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訳 で っ ク 」

も あ て シ に と あ ろ ア タ い ア ア

l れ 元

(26) 26

(28)

密教者としてのアティーシャ 減少している。かような事情を反映したのであ ろ うか 、チベット大蔵経に収載されている関係 文 献も多くない。 た だ 、﹁輪廻出離 意 と名づくる 歌 ﹂ ゼ 0. 燵あ ︶ 、 ﹁ 法界 見歌 ﹂ 稼 0. めの ︶ 巴 、﹁三昧資糧 品 ﹂ 我 0. ド 9 ︶、﹁超世間 セ 文銭 軌 ﹂︵ 之 0. 燵串 ︶、金剛乗の﹁根本過失 広註 ﹂︵ 峯 。 燵寒 ︶、﹁身口意 善住 ﹂︵ 之 0. 淫お ︶等の著作並び にその翻訳が収載 さ れているにすぎない。しかし、これらは多少 程 度の差はあるが、何れも後世にまでアティーシャ の法 として重視され 伝承されている。 幹 ︶プトン 著 ﹁秘密の門を開く﹂によれ ば、ダクポハ ゼの 派には、これが伝えられている 0 アティーシャ 伝、 聴聞 録 苦参照。 ︵ M ︶アティーシヤ 伝 、﹁デ フ テル丈し第十一巻、聴聞 録 等による 0 但し、アマナシカ ラ ︵不二金剛 集 ︶をはた して伝授したかど ぅ かは問題がある 0 何れにせ よアテ ー ィ シャはこれら を マイト リ ー パ から聴聞し 、ド ムトゥ ソ にも伝授した。 そしてド 々 は セ部書 の一つ﹁智慧成就﹂︵ z0. 燵む ︶の翻訳をおこ な っ たといわれる。 ︵ 刃 ︶アティーシヤ 伝 ︵ チム ︶Ⅱ 0 才 ・︶ op ︶︶ め ・ 同 ︵ 広 ︶ へ 。 ダお ・ 田 ・なお拙稿﹁ ヵ ーダム派 史 ﹂参照。 Ⅲ 九 髪及びァ一 ナソダ ガル バ の 法 ﹁一切悪趣を清むる威光王の儀軌﹂ Gpq づゅ宙 Ⅰお曲 円 い っ曲 ﹁∼ ぬ 0 片目 p 。 署 0. お 8 及びその一分﹁丸善﹂ ︵や: めム窄之 。 か ㏄のⅡアーナ ソダ ガルバ 著 ﹁金剛出現﹂︵づり 甘 0 才 せ : 才 0 ・ め 0 ︶ e 、 同 ﹁二束 勝 鼻薬 羅 儀軌 L ︵ 円 ︵ 曲 ∼ -0 ガせ 曲へい 古田 曲 里曲中口 凹けづ ︵ 由ダデ 才 。 め呂 ㊤、 同 ﹁タットヴァーローカ﹂︵真実損タン トラ の註釈、 之 o.N の︶ 0 ︶等の翻訳があったとも いわれる。しかし 現存の大蔵経には収録されていない。これにつ いては後述する。 ㈹般若波羅蜜の類 この類では、力ムパラ 著 ﹁般若波羅蜜多 優 破堤 企 ニ ︵ 之 o.N 定め︶を翻訳している。

ガ一

(29)

Ⅰ ノ

印行・

作 ・その他の槽梯の密教 タソトラ の聖典 と 勇 老成就 と 名づくる 別手﹂を。Ⅱ 舶 ㏄Ⅱの ㏄︶︵ か 恭 ︶ 何 構成 を示

@ 。

0 階梯の密教を

合と 著しい相違

である。

︶ 0. その他に よ れ

ぱ ならない。 尤妾

︵ 幼 ︶

破堤 舎 等と趣向をほぼ一つにするものである。 ろが多かったがためで

㈹何

% 富ォゅ臼 ︶Ⅰせもの類

︶等の自著 とキ -

の翻囲

Zo.p か 08 か 、または

トラ の仕方で解説し

て、 広く流布したの

(30)

密教者としてのアティーシャ 著 がある。 / づ い。㏄の㏄の・の。㏄ べ そ㏄の︶。︵ 2 7 ︶ 蔵経所収の翻訳・ は 多羅、不動、観音 一 摩耶 厳 飼主﹂︵如来 和 れる。多羅、不動、 器 た ﹁ディー パソマ ﹂ べ ㏄ e 等の翻訳及び ,目 摩 ぉ

が代

ら ヤ 耶 以 い チ 泰次、 は チ ま

宇土

て ル す に ド ャ ず

ア イ 、ヴィー ル

がある。これ

有 した。

。の 0 の 9 、意を

アティーシャ

ゲルク両派に ︵ あ ︶ 広く信奉された。

、﹁一切如来二一

尼 ﹂の 類 、﹁ 歓 等の翻訳をおこなっている。

・翻訳は多種多様である。

(31)

元 ︶北京版は三部。

羅尼が 記される。

て れらはすべて ァ

ヤ チャンドラ 著 ﹁金剛手 讃 ﹂が挿入さる べ ぎである。

zo の・のの 0 め・のめ︶の︵のの︶・のののめ︵ め ︶の︵ c. 参脩 。

と 補正すべぎであ る 。

見解に ょ れば、 へ |ヴァヂラ を守護神とす ,る 。

|グム 派︵㏄ 酊ァ|

は 、チベット

できよう。

,ヘット、とくに 衞 と 考えるべき理由が

が行 ・昨夕ントラに あると速断することは許されな威が ァヂラ Ⅰ論判︵チャ 30

(32)

密教者としてのアティーシャ Ⅰ ノ Ⅵ密教一般に共通するもの Ⅰ に

と 翻訳がある。 こ

のが多い。

及び著作を手掛り

描き出すか否か 、問

彼は時端者ではなく

る 。

その

なかった。然らば、 次に史書類においては如何であろうか。

B し 帯出版︶ 、ダ

0 ま ︶のごとぎ一般 史

ヵ ーダム派 史 ﹁明澄﹂

のの㏄ 臼 。 田 0 一の・の づ は ノ、 。 ハ

ク 派の歴史を詳細に

のあったことを示す 記述はみあたらない。

いては如何であろうかで 31 (3 Ⅰ )

(33)

ソはトブク、 サキ (32) 32 読 め ナ ご 流 ノン ク の ん と の

ウ 戎 金 は そ ) " は 書 ど , し

牡撫

]

弓 |か り

こ の

詳詳

細 し

"" """ 。 く刀 。 の

説で

明 あ キど

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時 " と ト 、 / る 分 派 輪 プ を ラ カ が ; 等 の

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る。

@ 史 ト オ 旨 総 " " の 遠 保 く 誰 何 従 せ ら っ ら 寄 て れ 年 る す ァ で る テ お と 々 ろ こ l う

らシ

の ャ

っ 時 た 輪 入 に

と る い 伝 わ 統 な 史 げ 及 ね び ば チ な へ

な ト い 流 。 布 こ 史 の の ご 上 と か は ら 次 は に 全 述 く べ 注 る 責 ,じ、 聴 す 聞 る 録 に の 足

類に

ょ らな つ い て も % ま そ た ら

(34)

密教者としてのアティーシャ

カパ はアティーシャ

、ツォソカパ の密教

Z 田 。 H ゅ卍 とをもって ぅ ると考えられる。

ていた い 。また 次

時輪 が伝統するに 当 てはいない、と考えたければならない。

ハ丈 琉 伽の名がみえ

輪 の先覚次第を想起

他の多数の六支輪 伽

の 伝統系譜が示され

伝記を詳細に扱い、

ハ丈 琉伽 はみあたら む

信頼すべ き アティー

ンの 聴聞 録 のみに 記

托した、または何人

ずしも 時 輪の独占的

の 人文 琉仰 が 時輪の 33 く 33)

(35)

(34) 34 さ て の び 筈 「 し 粗 ら 相 も 封 ま

で三

た と 次 し 教 室 し し 宜 な っ の ま べ か 時 も の 「

す三文

のか

的ム

トャア

のテ

イー る マ 及 哲 二 つ ク イ ィ シ

あ ソ の 「 に の 八 ャ 伝

ら ン の ィ と る ア

子訳

述 で か こ ご l し ィ ク 官 べ あ は と シ l シ と た る

じ き ャ ア シ テ し も 口 を l

そ 伝 除 シ れ に い ャ よ ょ た 伝

近 在 そ は し れ

1

3

ノ づくし 3 ) ワ, し か く よ ハ - @ @. プ し わ と 先

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も 聯 典

こ で古寺 考 お な のあ の

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慮 い っ す て た べ 理 Ⅰ

従っ

ぎ性 解す

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ゆ め Ⅰ ト 一 士 @ こ

人文

ん け @

こ 琉 の 伽 聴 な 拡 聞 る 大 録 も 六 @ の の 牙し 一 一 "" 一 口 " じ コ ; が

(36)

密教者としてのアティーシャ

ブパ ・チャド イ ル ヂ ソバ 締僻 といわれる﹁ア - ア イ ーシャ 伝 ︵ 広 ︶﹂

0. べ 0 お ︶の改編である。

プパ の﹁アティー シ

拠は、 彼の師ラク ス ︵㏄ -

を 改編した チム 一切

その中葉を降らない 古 いものである。

﹁三十 講 ﹂の大部

学匠クンガーギャ ソツ

、学的資料に充分た

はかって論及したことがある。

れるアティーシャ

ぇ ないような点をも 含

おこない、チベット

記述は全くみあたらない。

の 密教者であった

ず、 次に述べる 諦 聴 聞 録の記述とも軌を一にする。

を 述べ、それが後 鵠

(37)

荘厳成就﹂

︶丹のど、﹁

行歌

(36 ノ 36 ろ う の そ

は要こ

な で プ み

ト よ 次 の ソ う 。 に ア そ こ テ

ねめ

ィ そ

ソ プ の カ ト ど 五 パ 、 ノ の や め よ ゲ 聴 ぅ レ 間 な ぺ 銀 幣

ょ|ザ

がに

教 し シ ン っ チ ポ て べ 等 の プ ト 聴 ト に 聞 ソ お 録 が こ の 聴 な 記 聞 わ

述 し れ ょ た た ァ い シ | ル l た 伝 り と か ィ て ャ イ 統 も こ を l は

の ・ に 」 パ お 惰 ろ 知 し む る く 主 た 、 と め そ し に

め て 「 膀チシ 内 記 聴 を 系 容 す 聞 も る 録 : の

他 こ に 尊 ル め 心 な と ょ と 。 ム テ 弼 覆 に っ し 典 ぅ す て

勝 「 か る 彼 」 ハ 楽 現 ら 。 の

フの

で と 密 P %

タ観

ン 」 い 教 69o3

( 二リ

l 々

Ⅰの。師伝」

てい 臼 か 曲, 力 、 呂る

Ⅰ 牡 杵ヨ に の の つ @ カ の 。 @@ り Ⅰ T レ は 援 l う @@. Ⅰ ・Ⅰ ふぺ - オし い 占は

(38)

ち ﹁年金剛﹂

0

宝田。 ムこ 即ち パドマ 羅 儀軌﹂

0.

燵ご 、﹁ 薄

. ︶

MN と等の法が伝えられた。 一 シャ

ガーリー

めと

。。

0.

︶ ミ

e

、大邱

その他併せて五十種に及ぶ法が伝えられた。

るが、大蔵経に

11をも多数伴って

トラ

の解説は、ハベ

@ 帥

ャの

密教として興味深いものがある。

﹁デ

テル

第セ章

︵ 0

︶・

ンポ聴聞

録之

0.

のかミ・︵ 0 一 ・ め肚

(39)

だ ヒ ( 「

メ役 (Ⅰ ロ

間銀

㏄ 濯 「 員 ン 肚

の 類に一致してと かれる。 共通の釈 タソトラと 味の ﹁ 正 結合の釈 学 ﹂なの あろう。・ て ︵ 4 , ︶ 三タソトラ の 釈 としている。 シャのインド人の 弟子。 (38) 38

(40)

密教者としてのアティーシ ャ

アティーシャ伝にも

し 弘めたとは考えられ

㊧には、上記の外に タントラの註釈は ツヱ ール

細し流に似る 、

密集会としては問題 %

沃 に手引を与える。㏄

記述がない。

ト人才ンチュ ソパ が ヂ ニャ 随順して著作したものであった。 ダ 糸の秘密集会﹂は 、ッ チベットにおいて著名である。 ャ流と称せられるものが 濯頂 並びに 聖 父子 流 として えたにとどまるらしい。 | シャは 聖 父子流の十一 1々パー ダ の でソ ダラ儀軌﹁四百五十﹂に オ ン ヵパ 等にも伝えられ、先述したよさに ある。アティーシャが ロ ンパ・ガルゲー ァ は 附随的な比較的重要でな い 断片的な法を 代 相承並びに五代相承の二系統を学んだ、 ll Ⅰ ド 秘密集会﹂

リゴシ バ︵ 守億の

こ 。またこの流派 Ⅰ ソ

Ⅱ無上

楡伽 ・ 父 階梯の密教 ︵

(41)

ま ナ - Ⅰ 無上疏 伽 般 アブ し 属するものではあるが、

ュウ

派の

伝統

閻魔敵に関するアティー

閻魔

、金剛怖畏と共に大い

上記の諸聴聞

には現われた

もに次第にその伝統を失

にい

他にもみ

げられる。

シャの多 に流布し 、 い 。おそ たったの

の翻訳や著作が収載されて

これに関する多数の伝統があ

らく

%

流等

派の

であろう。かような例は

、こ

1ヤ 弟子にも伝授

閻魔

︵クリシュナ・サマーリ︶

︵ 4 4 ︶ ︵ 4 ト ヘリ︶

れ シ る ( ャ 。 ㊦ 流 即 の ち タ ア ン 一 ア ト

l の シ 註 ヤ 駅 に が タ ツ "/ ェ h@ 1 ノン の 流 註 に 釈 似 が る あ と つ い た ぅ わ プ け ト で ン は の 理解せら なく、それは後世の作品なのである。 ﹁デ フ テル 史 ﹂によれば にの点が ブ トンの聴聞 にとどまり、後世にい じめて体系が整備され い う 、つまりアティー 口 ンパ・ガルゲ一 ァに 録の場合と異なる。しか たって チベ, ト人 クソガ 、 盛んとなり、ニュー ル シャ 流 といってもそれは

は ャ ッ

に論通信

0 な 製 小 た

でわ 件件

こ あ れ す 見 と セ ブ "-

ィ た て シ る l と は ャ 。 C40)@ 40

(42)

する金剛手﹂の

潅頂

、サル

ーシャばかりではない。

ところが多かったらしく、

41 く 41) の アティーシャ ㈲アティーシャ流の九 % 等

ミ ゴム キノン︵ イ Ⅱ 八 リ ハ ツ - 口円

:コク・リンチノギャ

の 著作﹁金剛出現﹂

警 ﹂

o, N の時の零・︶

単独で翻訳した。その

はその忠誠なることを ︵ 仰 ︶

アティーシャが不パ 一か からチベットのガーリート。 ィ

﹂のと ぎリ ソチ ソザソポ は、 楡伽 タント

どめ、他の﹁九 % ﹂、

イ ーシャに﹁一切 悪 ︵ 仰 ︶

て 、ゴム チソ に伝えた コ ㎝ 楡 価格 梯 以下の密教

ことである。︵

6 4

お ︶﹁秘密の門を開く﹂︵ 0

∼・

(43)

ず, ・で・の・︵ 口 ・ ノこ 参照。 く 42 Ⅰ 42

りお 肚では、アティ

には精通していた

1々 ソダ ガル 程度精通していたか疑問である。

︵ 0 一 ・ ミ ・なお西蔵撰述仏典目銭∼ ロ &m* 、 b. の・︵下目︶ 参照。 ㈲アティーシャ流の阿 閣 の 類

巳 、大翻訳官 リソ

述 したよ う に、﹁ 一

陀羅尼の一聯の儀軌

して広く流伝した。

化﹂の場合と同様な 合致するところがあったためであろう。

伝統を保持し、後世、

誌されているが、

聴聞録の類にはみあたらない。

(44)

密 牧者 としてのアティーシャ

(,)

51

ハ ツ卜 Ⅰ く 43 く 43) は 聴聞した。

㈲無垢

頂髭 れを聴聞した。アティー えられ行われている︵∼ 0 一 , 0 ど 。

㈹観音・馬頭の類

1ク リ ・パに伝授された ぇ られる﹁六字成就 法 ﹂ 及 随伴して伝統した。また ケ ︵︵ 0 プミ ︶。﹁十一両 WW 土日﹂ べこ。 泊 シ 。流の無垢 頂髪 とょばれ、後世にまで 伝 馬頭の類は、先述の多羅とともに広く流伝 びその註釈は、生起・先覚両次第をはじめ ルガンマ 6 ガせの 7 の ゆ p か @ ︶ ゅ ︶とよばれる﹁ 大 及び﹁六字﹂は 、テ ルタン寺の竜 姿 な法と そ れ を

ソ 屈由 ノ " 一 @l 諸 を ド

が 種 ト 甘 流 テ ( ィ " Ⅰ 充 / し と し て Ⅰ -j ム 統

尤, Ⅰ い ギ ン る セ し ン と ( は ン セ ン 及

せのい二の。先にのべた

勾幅

び グ ン

Ⅰ の 片 - @ ヤァ Ⅰ - 目 シ イ一 ヱ て

小文 久 ・

ゴが

抽 、 さ れ

比丘

Ⅰ月の ㏄ | ナ - Ⅰ 系 統

の に ヒ ン

(45)

て材 ) 44

その

人 あるが、さらにこ の 大乗﹂とも よん で 。ところで、密教内 ャ伝 ︵ 広 ︵ 田 , 目 ,チム

られている。その 詳細 は 煩をおそれてここで は 省略する。

伽 階梯以下とくに

シャ 伝 、力しタム派 史 等に徴すれば、右に述べ たところよりその数も

。・これは、アティー ャは 各階梯の密教の

この点については 次 0 章において論及したい。

場合も他の場合と

ても精しく説いてい

って彼が時輪の精通

援引した諸学者の主 張は支持されえない。

(46)

の て 密教者 45

伽 ﹂は通常の無上 楡

階梯の密教には最高

㈲ 輪制 C キ qp の曲 旧 自尽。 之 0. 持 8 ㈹金剛四座おめ︵ 目さゴ吾 P 之 o. ぉじ

㈲大約

母 ︵ 目 。 アゅ ・。。 w 穂 , z0. トはこ ㈲仏相応百口口ロ アい の の 日韓 om ダ z0. 窩 e

㈲仏頂

蓋 G 荻ま ア pFp づゆ一ゅ 。 Z0. お七

剛 四座﹂︵ビルシャ

、﹁ 勝楽 ﹂︵ 輪

ソ トラ目録﹂

ア イ ーシャが 楡伽 と無上職 伽 の 両 階梯を挿入増補したのである。 ㈲無上疏 伽 オロ 拍ア廿専 0q 三 % 由サョ 。 ナ屈 。 レ 月日 日ゆ

的 o 曲 ( ) Oq 。 ぺ 。 お

㈹大輪

伽 オコ 主 J% ︶ せ 0q,0 肝ヲで 0 。 三の ダ 卸せ 0 ぬの ︵ 0 宙か 0 。かごに精しい。 である。その七階梯は次のまうである。 ① 作 いる。 下 寺ゅ ㈱ 行 9% 。 P の pq ぜゅ

㈲儀軌

オ ︵ om, 馬 。本 の汀曲

(47)

自註﹂には多数の聖

ャ 伝も同様であるこ とは、 先に述べた。

を本領としていた

きる。 このことは他の面からも保証される。

ヂラ ︶の成就者 ぅ

成就 し 、その マソダ

に 七年、九年或は十

ク T ティの 打 ともよ

輪 をも修めた。また

持 さ 5 けたのもこの

る 。 い まその詳細に

勝楽 ﹂︵ 輪制 ︶の密教

らをア ヴァドゥー テ

いる。この点については、アティーシャ 伝企広 ・ チム Ⅱ﹁明澄 史 ﹂、

o ︶

部分は無上疏 伽 ・

ィバ、ア ヴァドクー ( ㏄ ) 46

(48)

密教者としてのアティー シヤ

﹂で

茶棋尼が

彼の自

ティーシャは、なお

面目のほどを推知すべきである。

密教を捨てないと

0

この誓いは終生

ても、夜は茶

棋尼

金剛

﹂、﹁金剛

ンザソボ

を心服せし

成就に専心せしめた

両尊 、とくに へ一 するみるべ き 著作・ たとしても、実はあ やしむに足らないわげである。 翻し、筆者が調査し

| シャの密教もまた

域 においてはインド を 知り う な @ 把

(49)

母の﹁ 輪制 成就 法 ﹂であった。

があった。その 理

る 、という悪評が イ

︶も﹁明 澄史 ﹂も一致 してこのことを誌している。

もっともよく知り

である。彼は﹁菩提

の 大王﹁ 輪制 ﹂は 八

すべく、アティー シ

大きい影響力をもっ

、 輪制 ︵チャクラサ

っている。もって 、 かくいっても彼は決

したということであ

し ㍉

を 発表している。

ろ 1 。 ,, 。 ﹂ め弗 五五車︵ 0 ロ ・︶の ㏄ ぬ ・ 卜め ・ く 48) 48

(50)

密教者としてのアティー シヤ 49 く 49 Ⅰ

その

ダ WHp 目下 p 。 し 曲か l ロ 。

﹁本初 仏 タントラ﹂と は 一体何であるか、問題とすべぎであろう。 ﹁本初 仏 タントラ﹂といえば﹁ 時輪タソ トラ﹂を 、

て やチャ ソ ドラ・ ︵ 舶 ︶

た 諸学者の説11 ァ

直ちに﹁ 時輪 タント

せられた、と考えられる。ここに問題がある。

るといわれ、また 時 輪の註釈 書 ﹁無垢 光 ﹂

0, の お nZo. 記ミ︶

する。しかし 時輪の

説くことは 時輪 に限

タントラ﹂と﹁ 時輪タ

有 なものではなく 密

えない。一応検索し

たらない。

比丘スニ , ︵ 肝 ︶アティーシャ 伝 ︵ チム ︶︵ 巳 ・ 0 こ 品 ︶アティーシャ 伝 ︵ 広尚 0 一 ・のの・ 同 ︵ チム ︶︵ 0 一 ・︶ き

(51)

この﹁本初仏天 タソトラし 及び﹁ 濯頂決示 ﹂は 援引された。かかる第二秘密、第三般若、第四 ばし ば インド密教においてとりあげられた 課 は 種子の衰退せる老人や比丘に対して、秘密 る 即事のそれはさげるべきことを推賞する。 0 所説とは点前において異なる。 一 ・ 時輪 タン かりではなく、内容的な相違にもよる。 ところで右の場合、今一歩をゆずりアティ 初 仏人タントラ﹂といったとしても、すでに えに、アティーシャが時論に精通していたと またこの﹁菩提 道燈 ﹂の﹁本初私大 タソトラ して援引されている。この限りアティーシャ 権記である筈である。それにもかかわらず、 りあげ、信奉 し 伝承したといふ形跡はみ とめ | シャが、 時 輪の根本 タソ 時輪 のそれが伝説的であり いうことにはならない。 ﹂は、﹁菩提 道燈 ﹂を結論づげ に由来する ヵ ーダム派にと アティーシャの後継者や カ られない。これは何故であ トラ なる﹁本初 仏 タントラ﹂を意識して﹁ 本 また、彼は単に口伝をさげたにすぎない の るというべ き 最も重要な 濯頂 の問題の権記 と っても、同派の性格上、死命を制する重要な | ダム派において﹁本初仏天タントラ﹂をと ろ うか 。いわゆるアティーシャの﹁本初仏天 ト し ・ 題 擢 ぅ か 般 で 頂 秘 」 し 若 あ な 密

p

」、

両曜 る

如何

に 燈 句 に す 頂 対 」 に 時 べ を 応 所 ょ 輪 き 梵 す 到 っ も か 行 る の て そ と 者 の の か は も の 「

本み例ふぅ

問題は げるべぎではない、とい 、ァ ティーシャ は 外ではない。 時 輪の註釈 行わるべきこと、従って 初 仏天タントラ﹂並びに が見出せないのは、単に ぅ 典拠として かりでなくし ﹁ 血垢光 ﹂で 二棟交会に ょ ﹁ 濯頂決示 ﹂ 口伝のため ば ﹂の十二旬である。 し

所説にもとずくとい ハ月 ︶Ⅰ り U ある。

︶両人の口伝による く 50) 50

(52)

密教者とし ての アティーシ ャ

ラ ﹂であったとすれ

あろうか。疑問なき

ハ のごときにおいて

の 延長となすにすぎ ず 、特別の図心と評価を与えていない。 堤通 燈 ﹂の末文及び トラ総論﹂において 濯

は 何ら其体的な比定 ブトソ がとる常套 約

れを アティーシャが

ぎ ものであり、アテ にすぎないのではないか、とも考えられる, ⑰ 6 O たのであろうか。筆者の気付いたところでは、 ﹁一切一一一勝 げ耶集 ﹂

・ へ| ル力、ラトナ・

、﹁ 吋輪 タントラ﹂を

ては、古来チベット 人

いことになる。しか を 彼此参酌すれば、

置 をしめていなかっ 5 Ⅰ (51)

(53)

(52) 52 所 て と ナ - Ⅰ

以 は ア に 何 と

断ぜ

トドリ ) 3 6 ) 乙 o 6 ) 1 6 ( ) 0 ( ) リ Ⅱ ト 9 が あ ベ ティチ 変り れに 仏 ャ い 、 を 教 に 。 本 え 史 お 論 な め げ の い

埋 る は 解 時 じ に 輪 め 聯 の 1C 開 聞 か を 題 か も は @ ず つ ナ - Ⅰ 重

W.

て さ タ く 拠

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要 に ガノ な ァ 問 テ 題 ィ ン で, l ヴ

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学説 ⅠⅡ ァ こ と ナ - Ⅰ

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四 し 年 た 度 文 記 部 し 省 て 科 謝 宇 恵 究 を 賢 妻

Ⅰ l - Ⅰ - 研 の @ " 。 究 戊 @ の 部 )

(54)

キヤケ ゴ ーァに 於ける著作活動の 宗教的発展

理的 著作という 範 、周知のように、彼の ぅ 事によって、キヤ

で、その間に少しの は 、彼自身の宗教的 彼の著作活動の中に 、

的に

宗教的な意 自身の内面的な宗教 11仮名使用の問題を

きな課題である。 そ

象 とする﹁キヤ ケゴ 日 の一環をなすものに過ぎない︶。 53 (53)

キヤケ

ゴー

著作活

於ける

動の宗

砲発展

(55)

してもし過ぎる

だが、彼が元来宗教的

よって初めて充分に

示教的覚醒と建徳︵

逆説的

示教的なもの

作用が徹底的である

救うためには深く

潜 もぐ

審美的な作品から

出し宜も伍

づ 0

つ Ⅰ田仮

のと永遠なもの、毛並

ものであるからであ

的なものはその実存

於て、審美的なも

とい身は化石しょう

ての

美の調べを

(54)@ 54

(56)

火附

げられた恐るべ

ものに徹せんとしての

のの影であった。

周知の如く、キヤ

ゴー

の段階理論に於て

ものとして皮肉が

述べられる。そして︵

キヤケ

ゴー

に従って︶

たのは、ソクラテスで

信仰︶の類似を示すと

ソクラテスは審美来

Ⅰ 鏑 へぬ

丁ギ

0 コリ

ことして

知識へと反省させられる

ユ邑

。 よ

0 口 已も

へ 欺

入れ

ゲシゲと

眺め返して見る

ソクラテスが審美的有限

置く事によって

彼はその

よって体現された審美的

して

1.

示しているという事に外ならない。

為すは知らぬから

に対する純粋な信頼性

55 Ⅰ 55)

(57)

げる天衣無縫な主張を表わしたものだが、

弁を弄し大言壮語の粉飾に託っげてまで

野望であり、彼等がかかる不徳義をなす 目

兎 も月ソクラテスに於て人は有徳たるため

理 に従って行為すべぎであった。もとより

方向に於ける永遠の真理 l 認識であった。

であるのみならず、外面的審美的にも本来

認識によって、個人は存在の核心となる。

世界はただ彼に対してのみ中心を持って い

0 日哲学的断片 ヒ 第一生色 と 言われる。 ソ

性 と内面性の間の矛盾を避ける ヴヱ一ルと

してのソクラテスに於てはかくの如くであ

、しかも審美的現実的表面に於ける本質的

ぅ より、倫理的1審美的であった︶。 け れ

し 皮肉にも自己自身への﹁絶望﹂を通じ 的につたがる事となるのである。

る 事を初めて明かにしたのが キヤケゴ|

る 存在関連は質的に新たな光によって 照

には絶対的な矛盾関係が提 正 される。審美 ァ であった。キリスト教 萌 される事になった。そし 的なものは今やその全性格 又 或る意味ではソクラテス して立身出世しょうとする 的のための知識を与えよう に 真理の認識が必要であっ それは内在的認識であり、 個人ががく永遠なものの 内 的な真剣さに関与するので それ故に﹁ソクラテスの 観 るのである、なぜなら、 彼 クラテスはこのような永遠 して現実性の前に軽やかに った 。そしてソクラテスは な 倫理性を包摂的に把捉 し ども、本来的な審美家にあ て 、倫理的な永遠者と理念 (56) 56

(58)

キヤケ ゴ ーァに 於ける著作活動の 宗教的発展 57 (57)

に真理を明示した

内に留まり、そこで

自己主張しょうとする事は

人を絶望に導く。

者でありながら、

2

が絶望の形であ

上げようとしない

精神がないなら、

規定として考え得

性からでなくては

ぎとしての絶望の可

には永遠なものの

というものはあり得ないからである。

限界に絶望し

、そ

活動を通じて終始

著作活動をして稀有

絶望に到る多様な形

中で述べた。これら

ゅ魔

的な力の実験だっ

(59)

的に崩壊するに

や 何の未練も持っ 事

L 第一編︶ものだと彼は言っている︶。 的なものが反抗する

り 反抗するに価すべ

性を獲得する事にな とする傲慢さにも 拘

閃光が、対立者とし

遠 なものを指示せし

ものが、かくの如く

・コープの著作活動に

奉仕している。︵作品 状記 ではなくて真面 自体が、﹁厳密な意 理 的、宗教的なも

、審美的なものが 審

スト以前の世界︵ 異

、アブラハムを

に 従って生き、本質 (58) 58

(60)

キヤ ケ ゴ ーァに 於ける著作活動の 宗教的発展。 現 わすのである。 教 的な倫理的理想は又その性格 ぎ 替えられる。このような状況の 而に 於て如何にして永遠なものを すであろう。だがやがて彼はその かの如くに知らしめられるであろ 最も善良な倫理家だったろ う、し 施さによって反撃的に報われるの ある、その破片の朋 れ 落ちる昔の 極 的に耳を傾げる用意が出来て ぃ のたろ う 。かくの如くにして、 倫 はそれ自身の内に可視的世界を越 不敬的前提に墓いている。 を一変する、一般人間的法律であっ 不に 冊 かれている倫理家が其体的な 時間的なものに於て実現出来るか 倫叩 Ⅲ努力の只中で、人間的努力の ぅ 、それは誠実さと率直さと従順 さ かも彼が実行在の中でその有徳さの を 知るだろう。それは人間的倫理的 決さを彼は前に一度聞いた事があ る、 彼は質的に興った方向を持つ 運 理 的なものの克則な努力はそれ自体 え た目標を持っている。倫理的なも く ・ づ目め肚 。㌔・。 げに ⅢⅠ 八 | い う は 、 彼を 引入れしめ、彼の

彼を眼覚ましめ

は 逆に倫理的な あるとも下った。 孤立 諦念 る事 もの ㏄ 59 (59)

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