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2011
こべる刊行会NO
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ひろば⑪ 子どもたちが教えてくれた大切なこと 一 “言葉にできない” 野元里佐子 尼崎だより@ 東日本大震災の現地 へ 中村大蔵 いのちを生きる⑪ 東日本大震災に思う 長 谷川洋子 花とマグマ ー絵と詩 森 永 都 子| | 強 姦 | | 絵一一森永都子 森永都子 神など居ないと、断じたこ l チエも
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歳で廃人になり死に、フランツ・カフカも。 太宰治も、まともに生きられなくて死んだ。 何を手に入れても、性被害の場合、何の役にもたたない。 女性では、マリリン・モンロー、ビビアン・リ l 彼 女 ら は 名 声 、 金 、 を 得 た 。 し か し 、 役 に た た な か っ た 。 幼 い 頃 の 強 姦 で は 、 生きたいという人間の根っこの本能も ぶ っ た 切 ら れ て い る か ら 、 も と も と 生 き 難 い の だ 。 法は時効・時効l
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と 、 い そ が し い 。 苦労してない人など居なかろう。 いろんな時期、いろんな人生で。 けれど強姦は別。本能の全否定まで、 他者の言う苦労とやらにはない。 だから N 若い頃は苦労した μ と年くってしゃべれるように な る 。 H 強姦されたからこそ成功できた“などという例は無い。 最後の幕くらい自分で降ろして良かろう。ひろば⑩ 犬にしては長命一 やはり大切な家族の一員だっ− タクは飼い主の欲目を差し引い− て も 愛 矯 の あ る 犬 、 だ っ た 。 一 ひだまりの詩 私の教員生活は、タクの生きた年月とほとんど重なっ ている。低学年を受けもつことが多かった私は、何もな一 い教室にタクの写真を貼ることから新年度を始めた。新一
子どもたちが教えてくれた大切なこと|
野元里佐子︵小学校教員・岐阜市在住︶ 春がきた 向 田 邦 子 さ ん の ド ラ マ に ﹁ 春 が 来 た ﹂ と い う の が あ る 。 約三十年前に放送されたというそのドラマを、私は見て いない。見ていないのになぜ知っているかというと、久 世光彦さんのエッセイにあったからだ。もはや二人とも 故人であり、多分、そのドラマを記憶している人も少な いと思われるが、久世さんの向田さんへの哀惜に満ちた エッセイ﹃触れもせで﹄︵講談社︶の一文は、忘れるこ とができない。﹁﹃春が来た﹄の後にA
のに、さよなら ね 。V
と書いてあるような気がしてならない﹂と書いた 久世さんの思いは、別れを経験したことのある多くの人”
言
葉
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き
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に と っ て 、 共 感 で き る も の で は な い だ ろ う か 。。
一 年 二 月 四 日 、 立 春 の 日 。 実家の飼い犬タクが 旅 立 っ て い っ た 。 ま さ し く 、 ﹁ 春 が 来 た の に 、 さよなら ね ﹂ だ っ た 。 た か が 犬 か も し れ な い が 、 な 十 余 年 も 飼 っ て い る と 、 た と 思 わ ざ る を 得 な い 。 こべる 1し い ク ラ ス と 新 し い 担 任 に 緊 張 気 味 の 子 ど も た ち の 顔 が 、 タ ク の 写 真 を 前 に ほ こ ろ ん で 和 む 。 ﹁ か わ い い ね 。 ﹂ ﹁ ク マ さ ん み た い だ ね 。 ﹂ ﹁ タ ヌ キ だ よ 。 ﹂ そ し て 、 必 ず 出 る 二 つ の 質 問 が あ る 。 ﹁ 種 類 は 何 ? ﹂ ﹁ い く ら で 買 っ て き た
の
? 犬を飼っている子どもたちのほとんどが、今やペット ショップで犬を買ってくる時代である。以前、友人に、 ﹁今時めずらしい。そんなのはサザエさんの漫画でしか 見たことがない﹂と笑われたが、タクは、仔犬の頃、段 ボール箱に兄弟一二匹入れられて放置されていた雑種の捨 て ら れ 犬 で あ る 。 そ の 士 一 か 月 前 、 十 三 年 飼 っ て い た 犬 を 手遅れのフィラリアで死なせてしまい、後悔と悲しみか ら我が家ではもう二度と犬は飼うまいと決めていた。そ れなのにまたもや犬を闘うことにしたのは、捨てられて いた犬が、亡くした犬の仔犬の頃にあまりにもそっくり だったからである。本当に不思議なことに、生まれ変わ りとしか思えないくらいよく似ていた。 こ の 話 を 子 ど も た ち に す る と 、 ﹁ 不 思 議 だ ね え ﹂ 、 ん な か わ い い 犬 を 捨 て る な ん て 、 ひ ど い こ と を す る ! ﹂ 、 ﹁ タ ク ち ゃ ん は 拾 わ れ て よ か っ た ね ﹂ と 、 口 々 に 言 う 。 そ し て 、 ﹁ 他 の 二 匹 の 犬 は ど う な っ た の ? ﹂ と心配そう ﹁ ア ﹂に聞いてくる。﹁二匹とも、別のおうちにもらわれていっ た よ ﹂ と 言 う と 、 み な 一 様 に ほ っ と し た 顔 に な る 。 今 思 い 返 し て み て も 、 四月の陽だまりのような光景だ と 思 う 。 さ な ぎ こ こ 数 年 、 ﹁ 小 一 プ ロ ブ レ ム ︵ 問 題 ︶ ﹂ と い う 言 葉 が さ かんに言われるようになっている。小学校では四十五分 間、椅子に座って授業を受けるのだが、それががまんで きない子どもたちが多くなってきたため、授業が成立し な い 場 合 が あ る と い う も の だ 。 そんな言葉が問題になる ず っ と 前 か ら 、 一 年 生 を 受 け も っ て き た ︵ 全 部 で 四 回 ︶ 立場から言わせてもらえば、とにかく一年生の担任の四 月の大変さは、経験した者でないとわからない。全エネ ルギーを子どもたちがいる時間に使い果たしてしまうと いう感覚である。ただ、一番忘れがたいのもまた一年生 の時に受けもった子どもたちだと思う。 ﹁先生とお別れするのはいやだ﹂といって、おいおい 泣いていたのは、教員になって三年目に受けもった S 子 さんだった。六月に転校していったので、 たった三か月 る で 、 F 「 子 あ さ し ん 週 ゆ 末 」 自 3 の担任だったわけだが、ばっちりした目に浮かんだ涙が 今でも忘れられない。学校に慣れなくて、朝からずっと 泣いている N 子さんの手をつないだまま、授業をしたこ ともあった。もちろんこちらは立ちっぱなしだから、 N 子さんも立ちっぱなしなのだが、手を離すと一層大泣き するので背に腹は代えられない。でも、一年たつと、ま な じ さなぎが蝶になるように、学校生活に馴染んでい く の が 不 思 議 で も あ り 、 ま た 喜 び で も あ っ た 。 図工で ﹁ わ た し の 大 好 き な も の ﹂ という題材で絵をか かわいい仔猫、かつ い た 時 の こ と だ 。 お い し い お 菓 子 、 こいい車、それぞれが好きなものを描いているのを見な が ら 教 室 を 回 っ て い る と 、 F 子さんが椅子に座っている ら し き 自 分 の 姿 を 描 い て い た 。 ﹁ こ れ は 、 分 の 絵 か な ? ﹂ と 尋 ね る と 、 にっこり笑って と 日
つ
よ く 見 る と 、 足 元 は 水 色 で 塗 ら れ て い る 。 に家族で行った足湯がすっかり気に入ってしまったそう だ 。 Y く ん は 、 国 語 の 物 語 絵 を 描 い た と き 、 主人公の顔を 青く塗って持ってきたので ﹁ こ れ で は 具 合 が 悪 い み た い こぺる だ よ 。 と 言 っ た ら 、 主人公の顔の横に な ん と か し て ﹂ ﹁ ア バ タl
﹂ と大きな字で書き込んで持って来た。 た しか に ﹁ な ん と か し た ﹂ の だ っ た 。 も ち ろ ん 、 ﹁ ア バ タ
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﹂ は ジ ェ1
ム ズ リ キ ャ メ ロ ン 監 督 の 大 ヒ ッ ト 映 画 の 題 名 で 、 念のために言うと、映画に出てくる仮想世界の人物たち は 、 全 て 真 っ 青 な 顔 を し て い る 。 Hくんは、台風が近づいているため午後の授業を切り 上 げ 、 翌 日 は 一 斉 休 校 と 決 ま っ た 日 、 ﹁ 先 生 、 明 日 、 う っ かり晴れてしまっても、休校ですか?﹂と聞きにきた。 使 い 方 は 間 違 っ て い る か も し れ な い が 、 その表現があま りにもユーモラスだったので ﹁ え え 、 う っ か り 晴 れ て も休校です﹂と答えた。そしてよくできたことに、翌日 は 見 事 に ﹁ う っ か り 晴 れ ﹂ だ っ た の だ 。 切手のないおくりもの 二年生の担任は、いやだ﹂と思ったことがある。三 回目の一年生の担任になった年だ。若くて、今より生意 一人前に仕事ができると思っていた。周りの多く 気 で 、 の 人 に 助 け て も ら っ た の に 、 仕 事 が う ま く い か な い の は 、 自分のせいではないと思い込んでいた。 O 校 長 先 生 に 、 たくさんのことを教えてもたつたのはこの年だった。 ﹁子どもは、未熟なのではない、未分化なのだ。混沌と して、秩序立っていないように見えるかもしれない。で一 も、よく見ると、自分たちで自分たちのルl
ル を 作 り だ 一 し て い っ て い る 。 ﹂ ﹁ あ な た は 、 ﹃ 子 ど も が 言 う こ と を 聞 一 かない﹄と怒っているが、子どもは﹃この人に見捨てら一 れては困る﹄と思う人の言葉には、必ず耳を傾けるよう一 に な る 。 ﹂ ﹁ 子 ど も は 、 す ご い 存 在 。 社 会 の 宝 ﹂ な ど 、 今 一 で も 忘 れ ら れ な い 名 言 を く だ さ っ た 。 一 そして、学年主任の S 先生。学生時代に一応、フェミ一 ニズムを学んだ身としてはこの言葉を使うのに抵抗があ一 る が 、 ま さ に ﹁ 女 傑 ﹂ と い う 言 葉 が ぴ っ た り の 方 だ っ た 。 子どもたちには優しく、自分には厳しく、子どものため一 にならないと思ったことにはより一層厳しい方だった。 たとえ上司であっても、﹁そんなことされては、私たち一 が 、 誰 よ り 子 ど も た ち が 困 り ま す ﹂ と は っ き り 言 わ れ た 。 ﹁いつもありがとうね﹂が口癖で、毎日毎日不満や失敗一 だらけの私に対して、一度も怒ったりされず、たとえ少一 しでもうまくいったことを見つけて褒めてくださった。 二人とも別々の学校に異動になって、それからも交流一 が あ っ た が 、 先 年 、 S 先 生 か ら 頼 ま れ ご と を さ れ た と き 、 私はとても不誠実な対応をしてしまった。それは一年ぐ一 らいたってもずっと気になっていた。御家庭を何より大一切にされていた S 先 生 は 、 私 の こ と も 、 幸せになって﹂と、ずっと気にしてくださっていた。一 昨年、結婚したのを機に、あの時の非礼を詫びようと、 結婚の挨拶状を書いていたまさにその最中、 S 先生の許 報が届いたのだった。結婚してすぐに連絡を入れていた ら間に合ったのに。たったの二週間、年度初めの慌ただ ﹁ 家 庭 を も っ て 、 しさにまみれているうちに、取り返しのつかないことに なってしまった。﹁ゃったことの後悔より、やらなかっ たことの後悔の方が大きい﹂というのは私の人生訓とい うか行動の指針だが、どんなに後悔しても取り返しのつ か な い こ と も あ る の だ と い う こ と を 、 このとき頭を殴ら れるようなショックと痛みの中で実感した。 そ の 年 、 二 一 年 生 の 子 を 受 け も ち し た の だ が 、 友 だ ち と も 探め事があった子どもには、必ずこの話をすることにし た 。 ﹁ 少 し で も 、 自 分 に も 悪 い と こ ろ が あ る と 思 っ た ら 、 謝ったほうがいいよ。先生は、自分がとても悪いと思っ ていても、もう、謝ることができないんだよ。お友だち に、頼まれごとをしたのに、自分のことが忙しくて、親 切 に で き な か っ た の 。 と て も お 世 話 に な っ た お 友 だ ち だ っ た の に 。 悪 い こ と を し た な 、 いつか謝ろうと思っていた の に 、 そのお友だちは亡くなってしまったの。どんなに もう、謝ることはできない、取り返しが一 つかない。だけど、生きていれば、やり直すことはでき一 るの。生きていれば、相手に、自分の気もちを伝えるこ一 とはできるんだよ﹂と。子どもに話すことがあまり上手一 ではない私の話も、このときは本当に子どもの心にしみ一 たらしいことを、後の子どもの行動からうかがうことが⋮ できた。それは S 先 生 の 贈 り 物 だ と 思 っ て い る 。 美 し き 花 一 歌手で俳優の福山雅治さんに﹁美しき花﹂という曲が一 ある。数年前、入学式シーズンに、﹁お子さんのビデオ一 撮影をこれでどうぞ﹂という CM で流れていたものであ一 る 。 何 か で 聞 い た 話 だ が 、 福 山 雅 治 さ ん が 、 ﹁ こ の 曲 は 、 親が子を思う気もちになって作った﹂と言ったそうだ。 たしかに、歌詞には巣立ちゆく子どもたちへの愛情と精一 い っ ぱ い の エ
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ルが溢れている。実は、それを最初聞い一 い ぶ か た時、とても語しく思ったのだった。わたしは、福山さ一 んと同年である。ということは、この曲の作成時は三十一 代の後半だったことになる。しかも、現在に至るまで福一 山さんは独身である。だが最近思うようになった。﹁子一 謝 り た く て も 、 こベる 5を持って知る親の恩と言うが、子を持っていなくても、 親の恩を知ることもあるのだな﹂と。 今、わたしは特別支援学級を受けもたせてもらってい る 。 子 ど も の 人 数 が 少 な い 分 、 一人の子どもや、親さん と 接 す る 時 間 が 長 い 。 そ し て 、 ゆっくりお話を聞かせて も ら え る こ と が 多 い 。 自 分 も 、 きっとこのように、親に 心配してもらったんだろうな、と思うととが度々ある。 斗 ﹂ 宇 ﹁骨えば立て、立てば歩めの親心﹂ということわざが ある。今までわたしはこのことわざを、親のエゴイズム だと捉えてきた。これができるようになったら次はあれ、 足し算ができるようになったら次は引き算、その次は掛 け算、というように。ぞれは自分自身が親から過大な期 待をかけられて、それに必ずしも応えてこられなかった というルサンチマン︵恨み︶があるからかもしれない。 でも、特別支援学級で子どもたちと一緒に過ごしてみて、 ﹁這えば立て、立てば歩めの親心﹂というのは、少しも エ ゴ で は な い と 思 う よ う に な っ た 。 子どもがひとつのことができるようになったら、それ を足がかりにもっともっと世界を広げ、可能性を伸ばし てあげたいと思うことこそが親心なのだと。いつの間に か私も同じような気持ちになっていたからだ。そんなこ
とに気づくのに、とても長い時間がかかった。子どもた ちと、そして親さんのおかげである。これからも、親さ んの不安や悩みや苦しみに、百%ではなくても寄り添っ ていきたいと、今まで以上に強く思うようになっている。 イ マ ジ ン 何か悲惨な事件や犯罪が起きるたびに、 する教育を﹂﹁心を大切にする道徳の授業を﹂という文 書が回ってくる。そのたびにうんざりした気持ちになる。 ﹁ 命 を 大 切 に 最近、育児に積極的に携わる男性を﹁イクメン﹂と呼ん でいるそうだが、ジョンリレノンは、生前、専業主夫と なって、日本で子育てをしていた。愛と平和についてずっ と考え続けたジョンは、﹁男が子どもを育てることに真 剣にかかわらなければ、この世から戦争はなくならない﹂ と 思 い 至 っ た の だ と い う 。 受けもちの二年生の子が、真顔で、 ﹁ 先 生 、 僕 ね 、 さ い と き は 、 とっても可愛かったんですよ﹂と言ったこ とがある。私は大笑いした後、反省した。彼は至極まじ めなのだ。自分が大人から見れば、どんなに小さくて、 可愛らしい存在であっても、自分よりもさらに、小さい ものが存在し、それは時に全力で守らなくてはならない ことを彼らは十分に自覚しているのだ。だからこそ、捨一 てられた仔犬の存在に心を痛め、捨てた大人の心ない行一 動 に 憤 慨 す る 。 生活科の授業で、一年生の手をつないで校舎を案内し一 て回る二年生の、誇りと自信に満ちた顔を見るのが、私一 は本当に好きだ。自分は、守られるだけでなく、誰かを一 守るべき存在でもあることを、一番分かっているのは子一 どもたちだと思う。昨年、インフルエンザの流行で学校一 の半数の学級が学級閉鎖になったとき、﹁先生、月食が一 いつ見られるか教えて﹂と言った子がいる。﹁月食の日 のお月様にお祈りすると、願い事がかなうんだって。だ一 から、みんなが早く元気になりますようにお祈りするん一 だよ﹂と、真剣に言っている。私が仕事でとても辛いこ一 とがあったとき、つとめて明るく授業をしていたつもり だったのに、帰り際に側へやってきて、﹁先生、泣いて一 い る の ? ﹂ と 聞 い て き た 子 が い る 。 こうした姿と毎日向き合っていて、謙虚にならないは一 ずがない。こうした子どもたちの姿こそが、﹁大切にし一 そのものではないのか。自分の子一 しかし、私はこうした子一 7 な け れ ば な ら な い 命 ﹂ こ"−る を 育 て た 経 験 は た し か に な い 。
どもの姿にどれだけ多くのことを教わってきただろう。 特別支援学級であっても通常学級︵この言葉があまり好 きではない。他にいい言葉はないのだろうか︶であって も 、 そ れ は 全 く 同 様 で あ る 。 ビューティフル・ネーム 特別支援学級を受けもって、﹁障がい﹂とは何か、と ず っ と 考 え 続 け て い る 。 今 の と こ ろ 、 ﹁ 自 分 は 健 康 だ し 、 学力的にも問題はないし、何の障がいもない。まさしく 健常者﹂と思う、その不遜な心こそが生きてく上での一 番 の ﹁ 障 害 ﹂ な の で は な い か と い う 考 え に い た っ て い る 。 ﹃青い鳥﹄という映画がある。原作は、重松清さんの 同 名 小 説 ︵ 新 潮 社 ︶ で 、 DVD になっているのでぜひた くさんの方に見てほしい。この映画のテ
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マ は ﹁ い じ め ﹂ である。重いテl
マであるにもかかわらず、どこか透明 感のある映画である。それは、この映画にかかわる人た ちみんなが、なんとか﹁傷ついた子どもたち﹂に寄り添 き つ お ん おうとしているからだと思う。阿部寛さん演じる、吃音 というハンディをもった主人公・村内先生をはじめ、み ん な が 、 本 気 の 言 葉 を 、 本 気 で 相 手 ︵ 映 画 を 観 て い る 人 ︶ と つ と つ に 伝 え よ う と し て い る か ら だ 。 、 だ か ら こ そ 、 前 々 と し た 一 村内先生の言葉は、どんな立て板に水のような美辞麗句一 よりも、子どもたち、そして観客の胸に響いてくる。 伊藤歩さん演じる新人先生が、﹁生徒の気持ちがどん一 どん遠くなっていく﹂と悩み、村内先生に、こう問いか一 け る シl
ン が あ る 。 ﹁ 人 を 教 え る っ て ・ ・ ・ ど う し た ら い い んでしょう?﹂と。これは原作の小説にはないシi
ン で ある。これもまた原作にはないが、村内先生の答えは最一 後、学校を去っていくところで語られている。村内先生一 は、ゆっくりと、ひとことひとことかみしめるように、 新人先生にこう語る。﹁きっと、人に何かを教えること一 など、簡単にできることではありません。教師にできる一 のは、多分、生徒のそばにいてあげることだけなのかも一 し れ ま せ ん 。 も し 、 運 が よ け れ ば 、 何 か を 伝 え る こ と が 、 で き る か も し れ な い 。 ﹂ この文章を書いている途中に東日本で大きな地震が起一 き た 。 連 日 の 報 道 に 、 心 を 痛 め 、 何 か し た い と 思 っ て も 、 募金以外に何もできない自分を歯がゆく思う。自分も含一 め て 多 く の 人 が そ う な の 、 だ ろ う と 想 像 す る 。 だ か ら と い っ て、学校で子どもたちに﹁こんなときだからこそ、心を一 一つにして乗り切りましょう﹂などと言っている同僚を一み る と ﹁ ち ょ っ と 待 っ て 。 そんなに簡単に、そんなこ とを言わないでほしい﹂と思う。 心は、ひとりひとり別々のものだ。飼い犬の死、とい う小さな出来事であっても、私たち家族がタクと過ごし た思い出は別々のものだし、悲しみもそれぞれのものだっ た。お互いの悲しみに、たとえ家族であっても踏み込む ことは、できなかった。人は、自分以外の誰かに成り代 わることはできない。だからこそ、私はこう思う。自分 も子どもたちも、自分以外の誰かに寄り添うために勉強 するのだ、そのために学問はあるのだと。被災者何万人 という数字の向こう側にある、ひとりひとりの美しい名 前に込められた、かけがえのない人生に心を寄せるため に。知識と、経験と、科学的思考力と、社会学的想像力 の あ り っ た け を 駆 使 し て 、 自 分 に 何 が で き る か を 考 え る 、 そのために。﹁障がいのある子﹂﹁被災者﹂と名付けたと たんに、見えなくなってしまうものが、きっとある。 春よ、来い ﹁先生、ここだけ、色が違うね﹂。運動場にしゃがん だ子どもが言う。続けて、﹁校長先生だね﹂と。記録的 な猛暑となった昨年の夏、運動会の練習を前に、でこぼ一 この、グランドに黙々と土を運ぶ校長先生の姿を、子ども一 の目はちゃんと捉えていた。子どもは本当によく見てい一 る。大人よりずっと物事の本質をよく知っている。特別一 支援の学級で過ごしてみてよく分かった。普段あまり気一 づかなかった、学校生活がいかにたくさんの人に支えら一 れ て い る か と い う こ と を 。 一 校長先生、同僚の先生方、教科指導に携わるフリ
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の 一 先生、保健の先生、事務の先生、図書館の先生、支援の一 先生、栄養士の先生、校務員さん、調理員さん。そして一 誰よりも、子どもたち自身に。ただ、言葉にできない。 感謝の気持ちでいっぱいである。気恥ずかしくて偉そう一 なことを言っているのを承知で書くと、特別支援教育と一 結婚生活は似ている。相手のことを理解しようとするこ一 とはとても大切、だけれども、百%理解できなくても、そ一 れはそれでいい。理解しようと努力する中で得られるも一 のがたくさんある。そして、相手に何かしてあげること一 よりもずっとずっと、相手から学ぶことの方が多い。こ一 こでもまた、感謝である。でも、もしかしたら、すべて一 の人間関係でそのように考えることができたら、本当は一 と て も 幸 せ な の で は な い か と 思 う 。 こぺる 9手元にある写真のタクは、菜の花畑の向こうから、 目散に走ってくる。昨年の春のものだ。人生は、思いも かけないことがやってくる。何度も何度も、大切なもの を 失 っ て い く 。 で も 、 春 は 、 来 る 。 四月は、どんな出会いが待っているだろう。 *お読みいただいて、気づいて下さる方がいらしたらと てもうれしいが、この文章の副題、中見出しはすべて歌 の 題 名 を 拝 借 し て い る 。 ・ 春 が き た ︵ 童 謡 ︶ ・ ひ だ ま り の 詩 ︵ ル ク プ ル ︶ ・ さ な ぎ ︵ ま き ち ゃ ん ぐ ︶ ・ −言葉にできない ︵ 小 田 和 正 ︶ ︵ 財 津 和 夫 ︶ ・ 美 し き 花 ︵ 福 山 切手のないおくりもの 雅 治 ︶ ・ イ マ ジ ン ︵ ジ ョ ン U レ ノ ン ︶ ・ ビ ュ ー テ ィ フ ル ・ ネ ム ︵ ゴ ダ イ ゴ プ 春 よ 、 来 い ︵ 松 任 谷 由 実 ︶ ﹁ さ な ぎ ﹂ は 、 映 画 ﹃ 青 い 烏 ﹄ −まきちゃんぐの ス ト で 印 象 的 に 流 れ る エ ン デ ィ ン グ ・ テ ー マ 曲 で あ る 。 のラ
尼 崎 だ よ り ⑮ 尼 崎 市 在 住 ︶
東日本大震災の現地へ
中村大蔵︵阪神共同福祉会・ 大津波と共に暮らしてきた三陸の人たち ひいし 土淵村の助役北川清といふ人の家は宇火石にあり。 や ま ぶ し 代々の山臥にて祖父は正福院といひ、 学者にて著作 多く、村のため尽くしたる人なり。清の弟に福二と お ほ いふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大 つなみ 海輔に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の 子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりあ り き 。 ︵ 柳 田 国 男 ﹃ 遠 野 物 語 ﹄ 角 川 文 庫 ︶ 推察するにこれは明治二九︵一八九六︶年の大津波の こ と だ と 思 わ れ る 。 その後、昭和八︵一九三三︶年と昭 二回目の現地入り︵四月二七1
二 九 日 ︶ で 見 た も の は 、 が れ き 一 瓦磁の散乱する中で行政の動きを待たずして、自力で仮十 設住宅を自宅跡に建設している東北人の姿である。 二九日、立ち寄った岩手県釜石市唐丹駅下の集落は全一 滅していた。幸い避難が早く死者は出さなかったが、防一 潮堤の一部はものの見事にひっくり返されていた。 防潮堤の片隅に﹁小白浜漁港海岸保全施設事業﹂と書一 かれた標識がある。そこには明治二九年、昭和八年の津一 波被害も併せて記されており、高さ二了五メートル、 幅八・五メートル、長さ四二0
メートルの大構造物を工一 期一一年を費やして建造したとある。今、津波はそれを一 ものの見事に乗り越え、崩落させたのである。津波は防一 和 三 五 ︵ 一 九 六O
︶年にも彼の地は大津波に襲われてい る 。 一 二 陸 地 方 は 津 波 と 共 に 歩 ん で き た 歴 史 が あ る 。 潮堤の高さに倍する波頭を高台にまで打ちつけていた。 この防潮堤は一九六O
年のチリ地震での壊滅的被害を 経て建造したものである。この防潮堤完成を記念して、 時の知事中村直は﹁浪を砕き、郷を護る﹂と石碑に彫っ こぺる た。だが、浪に砕かれ郷は消滅した。標識には﹁避難に 勝る防護なし﹂と書き加えられていた。今回の大津波に 11この石碑と標識はびくともせず残っていた。何とも皮肉 ほ ん なことである。唐丹湾を少し回り込んだところにある本 ごう 郷地区では、これまた一九六
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年のチリ地震後に建造さ れた防潮堤を越えた津波で、大きな被害を受け死者も一 人出た。消防分署横の避難所を管理している自治会長は ﹁防潮堤が出来たので家を建てたのに、 また失うことに なった﹂と淡々と語った。この避難所には、内陸部に身 を寄せるべき先を持たない人たちが数世帯住んでいた。 二九日時点でまだ水道は止まったままだった。 け ろ ベ 東隣りの花露辺地区では寝たきりの老人が津波にさら わ れ た と 、 そこの住人の若い主婦が教えてくれた。彼女 お お っ ち は町全体が消失した大槌町から嫁いで来たという。道を 聞く私たちに答えながら、 ﹁ 実 父 が ま だ 行 方 不 明 だ ﹂ 告げ、私たちを丁寧に﹁お気をつけて﹂と見送ってくれ た この両地区の境には一八九六年の津波被害を記録した あ ざ け 石碑が建立されていたが、今回の津波はその碑文を噸る ように削ぎ落としてしまった。それにしても、 一 九 六O
年の津波の年に植えた桜並木が悲しくも美しく咲き誇つ て い た の が 印 象 的 だ っ た 。 と 噂には聞いていたものの津波がかくも破滅的なエネル一 ギl
を持っているとは、実際に見るまで実感できていな一 かった。私の津波体験は昨年二月二八日沖縄に押し寄せ一 た、これまたチリ地震による津波であった。沖縄のハン一 セン病療養所に向かっていた私は、興味本位で最初は恐一 る恐る高台から海を眺めていた。有線放送から流される一 津波到着予測時刻がだんだんと遅れるなかで、私の足は一 次第に海辺に近づいた。そして療養所愛楽園入り口にあ一 たる旧羽地村︵現名護市︶まで下りてきた。ちょうどやっ て来た地元の消防車に﹁危険だからすぐ立ち退くよう﹂ 警告された。この地は、これまた一九六O
年のチリ地震一 津波で学校が倒壊し、死者まで出したところである。 そのような軽率な行為と体験を無残に打ち砕き震え上一 がらせたのが、今回の三陸訪問であった。 人智の及ばざる事態に人の愚かさを知る こちらのテレビで見た映像は、まさしく息を呑むもの であったが、現地に立つと声が出ない。足がすくんだ。 あ と か た 阪神淡路大震災ですらその後に﹁跡形は残った﹂。だ一が、津波が襲った所は﹁跡形さえ残さなかった﹂。 そ の 周辺は船が人家に乗り上げ、その人家も今まであった場 所ではない。車はコンビニや会社の大ガラスを打ち破つ み づ て何台も突っ込んでいる。水漬く瓦礁の海原にはカモメ が舞う。時折吹く一陣の風。仙台空港と海岸との聞を歩 く。見事に何もない。この場に立って先ず浮かんだもの は ﹁ 寂 饗 ﹂ ﹁ 寂 実 ﹂ で あ っ た 。 ﹁ 鉦 泣 吊 ﹂ そ し て 私は阪神淡路大震災に遭い傷を負ったが、幸いにも生 き 延 び る こ と が で き た 。 そ れ で も 、 あれほどの大惨事に もう遭うことはないだろう、少なくとも私が生きている 聞にはと、何の確証もなく思っていた。神戸には地震は 来ないと何の確証もなく思い込んでいたことが、いとも 簡単に覆されたことなどたちまち忘れていた。 今、眼前に起っている人智の及、ばざる事態に、人間の 愚 か さ を 知 る ば か り で あ る 。 阪神淡路の被災者救援活動を通じて、山を越え海を越 ぇ、海峡をも民族をも越えた救援に感激した私は、 そ の 後の災害、とりわけ県外、国外の災害には義援金を募り、 それを手にして出来るだけ現地に飛ぶように努めてきた。 しかし現地へ行ったのは、九九年台湾大地震、二
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う す ぎ ん −O
年 有 珠 山 群 発 地 震 、O
四 年 新 潟 中 越 地 震 、O
七 年 能 登 一 半島・中越地震だけである。阪神淡路後に起こった国内一 外の災害に義援金すら手渡さなかったケl
ス の 方 が 多 い 。 今回の現地入りは自責の念に駆られながらのものであっ た 。 昨 年 一O
月の奄美豪雨での被災者救援に行くと言い一 ながら、日常の忙しさにかまけていたのだ。決意はいと一 も簡単に崩れるのだと、あらためて知ることになった。 今は、阪神淡路以上のものが、私が生きている聞に必一 ずやまた来ると確信するようになった。 民間からの友好関係︵ヒューマンライン︶を 四月、二度目の現地入りはこれからの救援場所をどこ一 に定めるかが課題であった。尼崎市が保健師や職員を継一 続的に派遣している宮城県気仙沼市を重点的に回った。 尼崎市の派遣が、国・県の広域防災計画で予め決められ一 与 ん M L v ν ていた上からの方針であっても、これも何かの縁であろ一 vつ
一
行政職員の派遣は時が来れば﹁ここまで﹂と手を引く一 のは致し方ない。ライフラインは時の経過とともに復旧一 こベる 13す る 。 民 間 の 動 き は 、 ﹁ 船 頭 多 く し て 船 山 に 登 る ﹂ の 戚 凶 もあり、遅々として一挙にことが進まないが、やり始め る と 、 それはヒューマンラインとして連綿と続くことに もなる。私たちは阪神淡路大震災で﹁人を助けるのは、 また人である﹂ことを体験した。行政が友好姉妹都市な る関係を産業や人口規模などで結ぶことはよくある。 の 中 で 、 ひ と つ く ら い 民 間 が リ ー ド し た 友 好 関 係 ︵ ヒ ュ
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マ ン ラ イ ン ︶ を 結 ん で も よ い の で は な い か 。 五 月 下 旬 の 三 回 目 の 訪 問 で は 、 具体的に支援活動を継 続して行なう場所、施設を定めたいと思う。 震災なかりせば出会わなかった人たち 今回の被災地行きにもまた新たな出会いがあった。 原発事故の影響もあるのだろうが、阪神淡路の時より も出足は低調とはいうものの、今回もまた多くのボラン テ ィ ア が 現 地 を 目 指 し た 。 づれにと渡した、園田苑の資料を読んだからだ。 ﹁ 私 、 中 国 の ハ ン セ ン 病 村 に 一 ヶ 月 い た こ と が あ る ﹂ としゃべり始めた。そしてこの震災ボランティアが終れ ば二年間フリィピンのレイテ島へボランティアに行くの ハ ン セ ン そ お く 病療養所邑久光明園看護学校卒業で同園での勤務体験を一 持つ男性である。お互いがそのことを知ったのは被災地一 へ向かう狭い車の中だった。しかも、入手困難な車を斡一 旋してくれたのは、岩手県西和賀町︵旧沢内村︶の元村一 長 太 田 祖 電 さ ん の 孫 で あ る 。 一 いつものことだが、人と人との出会いは偶然のように一 見えても、そこには必然が隠されていることを、今回も一 知 る こ と に な っ た 。 一 なお園田苑で八ヶ月の長期滞在︵歴代最長記録︶とな一 る家庭裁判所からの補導委託少年は、何回もの就職面接一 四月の訪問には介護福祉土をして山形県に赴くことになった。 に失敗していたが、今回、彼も被災地復興支援作業員と はじめ看護師など四名と同行した。女性の看護師とは初 対面である。現地へ向かう車中で ﹁ 中 村 さ ん 、 ハ ン セ ン 病に関心を持っているの?﹂と聞いてきた。道中のつれい の ち を 生 き る @
東日本大震災に思う
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 職員室で仕事をしていると、同僚たちが ﹁ 地 震 や ! 地 震や!﹂と口走りながら次々と帰ってきた。テレビ中継 を見るうちに、同僚の軽口がだんだん消えていく。 港の倉庫を呑み込む津波の画面に、職員室全体に重苦 し い 雰 囲 気 が 漂 い 、 みんな黙って画面に釘付けになって いる。阪神淡路大震災よりはるかに大きいと直感する。 その映像は中南米まで中継で流れたようだ。すぐ﹁大 丈夫?﹂というメl
ルが知人たちから送られてきた。日 がたつにつれ、暖昧な日本の報道と違い、海外では福島 原発の問題性について端的に報道されていることがわかっ た。なぜ日本の当事者である私たちには明確な事実が知 らされないのだろう? 石巻市の避難所名簿一 を数日間読み続けた。インターネットの検索サイトに携一 帯カメラで写された避難所名簿を掘り起こすべ l ジ が あ 一 り、その腫大なファイルを一枚一枚見ていった。目が痛一 くなるほどのたくさんの名前。家族で避難できたひとた一 ち。ひとりきりで避難したひと。名前から湧き出るイメ l 一 ジは、テレビの映像とはまた違う。ていねいで秩序だっ た字もあれば、書きなぐられた字もある。避難所のそれ一 ぞ れ の 状 況 が 目 に 浮 か ぶ 。 幸いなことに知人は無事だった。今この瞬間にも私の一 ように知人や家族を探し続けている人がどれほどいるこ と だ ろ う 。 一 職員室では若い同僚たちが﹁今は被災地に入れないけ一 ど、ゴールデンウィークの時にボランティアに行けたら﹂ と話している。私も足引っ張りにならないように、一緒一 理科を教えた一 行 方 不 明 の 知 人 を さ が す た め に 、 に 参 加 し た い な あ 。 こぺる 三月に卒業した子どもたちには一年間、 のだが、彼らの生活の中で気をつけてほしいこと、 た と 15え ば ﹁ 水 溶 液 の 性 質 ﹂ の 単 元 で は 界 面 活 性 剤 の こ と を 、 ﹁ 電 気 の 利 用 ﹂ の単元では電磁波のことを付け加えた。 しかし子どもはこちらが覚えていてほしいことは覚えな い も の ら し い 。 八 十 七 人 の う ち 一 一 人 ぐ ら い は 覚 え て い て く れ る か し ら 。 ただ、後悔していることがある。 ﹁ 電 気 の 利 用 ﹂ と い う単元では、電気は作ることができること、電気が生活 に必要不可欠であること、光・熱・動き・音に変換でき る こ と を 学 ぶ 。 ﹁ 必 要 不 可 欠 ﹂ というところで、発電方 法を教えるバージョンがあったのだが、原子力発電のと ころを意図的に飛ばしてしまった。肯定的に教えること は し た く な か っ た か ら だ 。 福島原発の大事故が収束していない。原子力発電のし くみや、どこが危ないかをどうしてしっかり教えなかっ な り わ い たのか。私は教えることを生業とする者として、根源的 なところで大きなミスを犯した。新しい六年生にはきちっ と 教 え よ う と 思 う 。 職員室に帰りたくない私がいる。年齢のせいだろうか。 五十代後半のグループにも若者、グループにも入ることが 目上・目下の序列がはっきりした体育会系の集一 結束は堅く、六年生の担任や校内の重要なポスト一 を仕切ることが彼らのステータスになっている。 振り返って、五十代の集団を見ると、男性教員たちは一 見事にバラバラだ。女性教員は、、グループ化して反目し一 合ったり、中には子どもや管理職の悪口で憂さを晴らし一 て い る ひ と も い る 。 無理して集団に入る必要はない。そんなわけで 集団からはぐれた一 で き な い 。 二 十 代 か ら 三 十 代 前 半 の 若 い 同 僚 と 話 す の は 楽 し い が 、 彼らの仲間に入れるわけではない。高学年をひっぱって い く た め 、 スポーツが得意なひとが多く採用されている せ い か 、 団 だ 。 ま あ 休み時間に理科室で過ごしていると、 六 年 生 た ち が 時 々 や っ て き た 。 彼 ら の 相 談 に 乗 っ た り 、 とりとめのない話をするのが楽しかった。 子どもたちに と っ て 私 と い う 存 在 は 、 ﹁界面活性剤や電磁波のことを 教 え る 教 員 ﹂ で あ る よ り も 、 話 を 聞 い て く れ る 、 こ J
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η ノ ア アι
大人。結局それでよかったのかもしれない。濃水飛山記 マ わ た し は 三 一 月 十 二 日 の 朝 刊 か ら ひ と 月 、 なぜか新聞が捨てられなくなってしまい ましてね。その後も記事の切り抜きとフ ァイリングが日課となっています。社会 面から政治面までざっと日を通し、ここ ろに響いたり、大事だなと感じた記事と か写真をサインペンで、たとえば五月十 日 の 朝 刊 な ら ﹁ 日 ・ 5 ・