'2s日(毎月1回25日提行〕ISSN0919 4制3
N0.118
部落のいまを考える⑮ 部落差別の解消は可能か 山本尚友 ひろば⑬ 夫婦別姓論と家名の継承 鎌田明彦 編集人への手紙一気になること こべる刊行会部落のいまを考え る ⑮
部落差別の解消は可能か
山 本 尚 友 ︵ 世 界 人 権 問 題 研 究 セ ン タ ー 研 究 員 ︶ 十数年前から、自分自身でも妄想ではないかと思える ような考えが、頭を占めている。事は余りに重大なこと なので、ごく親しい人にこんなことを考えていると語る 以外は、自分の頭のなかだけでこの問、悶々と考えつづ けてきた。しかし、時間というのは不思議なもので、 日々考えているうちに、件の考えが馴染みぶかいものと なり、﹁重大なこと﹂だとしても二度わたしの考えを公 にして、皆さんの意見を聞いてみても良いのではないか と思えてきた。もちろん、以下に述べることを公表し、 結論部分だけが一人歩きしたら、かなり激しい反応があ るだろうことは承知している。しかし、このことを抜き にして部落問題に関するわたし自身の考えを、これ以上 先には進めることは難しいと思えるからである。 歴史にみる被差別部落の社会的位置 被差別部落の起源が、近世あるいは江戸時代ではなく、 中世期に求められることはこの間の研究で明らかになっ たといえる。そして、中世期には後に被差別部落に連な る人びとは﹁非人﹂という言葉で呼ばれていたが、その 非人身分が成立した時期が遅くとも平安末期の院政期で こべる あることも、ほほ承認された事実であるといえよう。非 1人身分が成立する歴史的前提として、九世紀以降の平安 京の大きな変貌があった。 平安京も成立当初は平城京等の宮都と同様に、住人の 大半が官僚とそれに仕える人びとで占められるという政 治都市として出発したが、荘園制が拡大し荘園からの収 取物の交易が増大するにしたがって、消費都市へと変貌 していった。この変貌のなかで平安京内に、官庁よりの 臨時の仕事などを生業とする都市下層民が新たに生れ、 それに次いで生活の手段を持たないだけでなく頼るべき 縁故も失った人びと、すなわち富者に物を乞う行為が僧 侶の乞食行と共通することから、乞食と呼ばれた人びと が都に多く集まるようになった。 荘園制が拡大していった九世紀は同時に綴れ意識が病 的なまでに昂進し、極めて煩現な規定が生まれた時期で もあった。それを、端的に物語っているのが延長五年 ︵九二七︶に成立した、﹁延喜式﹄の﹁臨時祭﹂に収めら れた触職規定である。これに先行する触械規定としては 貞観十四年︵八七二︶に成立した﹁貞観儀式﹄があるが、 ここでは穣れに触れた際に社参を遠慮する期聞が、喪は 三十日、産は七日などと定められていた。ところが、 ﹃延喜式﹄ではほぼ同様の規定をより詳細に述べたあと に、綴れに触れた﹁甲﹂と同じ部屋に同席した﹁乙﹂に も穣れが移り、さらにその﹁乙﹂と同席した﹁丙﹂も綴 れるが、﹁丙﹂と同席した﹁丁﹂は穣れないという規定 が新たに付け加えられたのである。 ﹃貞観儀式﹂では社参を遠慮する期間であったものが、 ﹁延喜式﹄では械れの残存する期間になったのである。 しかも、その綴れが人から人へと伝播するとなると、そ れまで寺社の境内や貴族の邸宅に動物が迷いこんで死ん だとしても、その家の人が片づけ、ついた穣れを水で清 めればよかったものが、畜死械は七日間なので片づけた 人は七日間は別の場所に移らないと、穣れが主人に移り、 主人は仕事に出られないということになったのである。 このようなことが起ることを避けるために、日限のあ る綴れが発生した際には、それを取り除く仕事を乞食に 頼むような習慣が生まれた。そのことが知れる史料上の 端緒は、寛弘七年︵一
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一O
︶に起った地震の原因を調 査したところ、大原野社の近くに葬送の輩がいたためと分った事件で、長元四年︵一
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一 一 一 一 ︶ に は 祇 園 四 至 内 の 葬送法師と呼ばれた人びとが、祇園社︵八坂神社︶の境 内に死骸を置いたため、その械れがもとで長雨になった として逮捕されている。また、時期的にはかなり後のこ とになるが、正治二年三二OO
︶に嵯峨から京都に帰 ろうとした藤原定家は、帰路に人骨があるのを嵯峨辺に きよめ 居住する﹁浄目﹂に片づけさせている。 このようにして、公家・僧侶・神官等の支配身分の者 が極度に械れを忌む慣習が成立したが、穣れに触れるの を最も恐れたのは天皇であった。古代の天皇制は政教未 分離な状態から出発したが、律令制を導入する中で次第 に宗教色を薄れさせていき、平安遷都の前後には最も政 治的権威を増し、宗教色を後退させたと見られている。 しかし、荘園制の進展は天皇の政治的権威の弱体化をま ねき、必然的に天皇は一度捨てかけた宗教者の主宰者に 戻ら、ざるをえなかった。こうして、天皇の清浄性を保持 することが、大きな政治的関心事となったのである。 その一方、穣れの除去に半ば専門的にあたる集団とし て乞食が意識されるようになり、彼らを﹁非人﹂と呼ぶ 慣習が生じたのである。このようにして、常に清浄であ りつづけねばならない天皇の対極に、その身自身が積れ ていると観念された非人が位置づけられ、非人の存在が 日本的清浄観の重要な構成要素となった。同時に、貴な る天皇に対して最も賎なる存在として非人が位置づけら れ、貴賎観念をさらに強固にする役割も果たすようにな っ た 。 非人身分が成立する時代の動向として見逃すことが出 来ないのが、平安朝期が有力な社会的他者の不在という 時代的特質を持っていたことである。﹁日本の俗に附し た﹂渡来系氏族に、日本的姓への改姓が許されるように なるのは天平宝字元年︵七五七︶である。この後、改姓 が盛んに行なわれて姓で出自を判別することが困難とな っ た た め 、 ﹁新撰姓氏録﹄が編纂されたのが弘仁六年 ︵ 八 一 五 ︶ のことであった。これらの動きの背景には、 対外文化の模倣と吸収、そしてそれへの反発が尊大な大 和意識を生み、肥大化するという事態があった。そして、 これと平行して、他者への関心が急速に減退していき、 こべる ついには寛平六年︵八九四︶菅原道真の建言によって遣 3唐使が廃止されるに至った。対外社会への意識が希薄と なり、日本人の意識が極度に内向するようになったと見 る こ と が で き る 。 また、古代前期より存在していた奴身分を中核に、七 世紀の中頃より中国の律令制に倣って賎民制度が作られ ていたが、これが八世紀に入ると奴蝉と良民との通婚が 増加、また奴稗の逃亡が頻りとなるなどして動揺がはじ まっていた。荘園制の進展はさらにこれに拍車をかける かたちとなり、九世紀の中頃には制度として実質上解体 しており、十世紀初頭の延喜年間には奴贈を停止する法 令 が 出 さ れ た 。 ひ や く せ い 古代の身分制度は、天皇とそれに支配される百姓と いうこ大身分によって構成され、百姓のなかに官僚と僧 侶・神宮等の支配身分があるとともに、それ以外の百姓 も天皇によりカパネを与えられる良民であった。これに 対して奴碑にはカパネが与えられることはなく、奴蝉は 身分外の・身分と位置づけられていたと見なすことができ る。ひとつの社会は、実質的にはその社会に属しながら 観念的には社会外とみなされる存在によって、その社会 の外周が明示され、社会外と見なされる存在が社会の周 縁をかたちぞつくることについては、すでに文化人類学の 成果に詳しいが、古代の日本において奴蝉はこの周縁的 身分として機能していたのである。 つまり、平安末期の日本には、国家のレベルにおいて も、社会のレベルにおいても他者の不在という事態が生 じていたのである。新たに非人という名辞を与えられた 人びとは、貴賎観念における最も賎なりという規定だけ でなく、浄機観念においてそれ自身が穣れた存在と考え られており、この社会的他者の不在という空白を埋める にもっともふさわしい存在であった。社会の一身分であ りながら、社会外の存在そして人外の存在と見なされる という特異な身分がここに誕生したのである。後に彼ら の特性は﹁異種﹂という言葉で表現されるようになる。 ﹁種﹂とは生れのことを意味し、例えば貴い存在は﹁貴 種﹂というふうに呼んだが、﹁異種﹂といった場合は き ん じ ゅ う ﹁人間﹂とは生れを異にした存在、昔の言葉で﹁禽獣﹂ ゃ﹁獣﹂といったものを意味した。 ﹂の非人の社会的位置が、その後も基本的に変動がな
かったことは、例えば江戸時代の身分制度をみてみると 了解されるであろう。江戸時代の身分は支配身分である 武士と被支配身分の平人の二大身分から基本的には構成 ち ょ う ゆ う されていたが、支配身分の中には﹁長袖﹂という言葉 で一括された公家・僧侶・神官があり、また平人身分は 農村にいる百姓と町に住む町人とに分れていた。以上述 べたのが﹁人﹂の身分で、これとは別に人外の身分とし て、神にひとしい﹁天皇﹂と禽獣のごとき﹁職多非人﹂ があると観念されていたのである。天皇と穣多非人はと もに社会外の存在であった。 明治維新の際、慶応四年︵一八六八︶三月にだされた 五箇条の誓文には、全くそのことは語られていないにも 拘わらず、人びとは四民平等の世が来たと考えた。そし て、四民とは﹁士農工商﹂すなわち武士と平人のことで、 穣多非人がふくまれないことは、誰にとっても自明なこ とであった理由はここにあった。ただ、中世そして近世 初頭までは﹁異種観﹂が穣多非人への差別を支えていた が、江戸時代中期頃を境に異種観は衰退し、それに変つ て﹁異人種観﹂が登場したことはすでに詳しく述べたの でここでは繰り返さないが︵拙著﹃被差別部落史研究﹂ 二章四節、岩田書院︶、この部落を異人種とみる見方は 一 九 六
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年代頃までつづき、大正・昭和期の部落問題の 啓発の中心が﹁異人種観﹂の克服にあったことは、まだ 記 憶 に 新 し い 。 天皇制が現代にもたらすもの 以上のように被差別部落の歴史を概括すると、その差 別の根底には天皇と穣多非人が貴賎・浄穣観によって二 項対立的に捉えられ、それを基礎に異種・異人種観によ り社会外の存在とされたことがあるといえるであろう。 日本の近代化はこの両者に大きく揺さぶりをかけ、その 結果、部落差別の発現のありょうもこの間に大きく変化 したことは言うまでもない。天皇は少なくとも戦後にお いては、ことさらに聖性を言いたてる言動は少なくなっ て、天皇・被差別部落はともに人外の存在とは意識され こぺる な く な っ て い る 。 ﹂のような変化の基礎には、人間観の大きな転換があ 5った。江戸時代に将軍綱吉が生類憐みの令を出して、自 分が愛好していた犬の保護を命じたことは良く知られて いるが、実は憐れむように命じた生類は犬だけでなく、 牛馬や鳥などと共に子どもや老人など人間の弱者もふく まれていた。前近代の人びとは、広く生類のなかに人間 をもふくめる視点をもっていた。このような人間観の中 で、被差別部落は人外と見なされたのである。 ま た 、 日本人の伝統的意識は、亡くなった先祖は盆な どの折にわれわれの世界にもどってくると考えていたが、 その先祖は神に他ならなかった。このような、神観念が 基礎になって天皇が神でありえたわけだが、近代に日本 が受容した神観念からは天皇が神であることを説明する ことが難しく、﹁現人神﹂などという言葉を発明しなけ ればならなかったが、その言葉はすでに死語となってい る 一方、明治の開国は日本の対外関係を大きく変えた。 外国との交流が盛んとなり、日本人が外国へ、外国人が 日本に来るようになった。しかし、島国という特性のた めか、大半の外国人は一時的に日本に滞在するにとどま って、日本人の生活意識を変えるほどの変化をもたらさ な か っ た と 思 わ れ る 。 最も日本人の生活意識に影響を与えたのは、明治三十 七年︵一九
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四︶から本格化した朝鮮への植民地侵略で、 これ以降、多くの朝鮮人が日本に渡来するようになり、 日本人の家の隣に朝鮮人が住むという事態が生まれた。 朝鮮人が新たな他者として姿を現し、被差別部落だけが 日本社会の周縁を形成するという事態はなくなった。 しかし、このような変化が部落に対する異種観を一掃 するものと言いうるかというと、決してそのような楽観 視を許すものではないとわたしは考えている。というの は、本居宜長がいみじくも言っているように、この日本 においては多くの事柄が﹁神ながら﹂に存在していて、 ﹁事﹂を言いたてるすなわち理屈によって合理化される 必要がないような存在形態をとっているからである。被 差別部落への差別にしても、それが殊更に理屈だてられ たのは異種観の衰退期に﹁異人種﹂という事だてがおこ なわれたこと以外はない。ほとんど時代は、あるがまま に差別が存続し、あらためて部落差別を合理化する理屈を唱える必要はなかった。すなわち、部落差別は理性の 領域ではなく、感性の領域において存続しつづけてきた の で あ る 。 ﹂のような日本の風土において、意味をもつのは内実 や実質ではなく、形や形によって伝えられるある種の雰 囲気にも近い枠組みである。天皇と被差別部落が貴賎に おいてあるいは浄機において対をなすことは、事あらた めて語られることはないが、しかしこの両者が対関係に あることについては、おおよその人はなんとはなしに感 じ 了 解 し で い る 。 非常につづめた言い方をすると、天皇制の存続そのも のが部落差別の存在を保障しているといえる。すなわち、 被差別部落の成立に大きく関係し、その存続の基本的枠 組みを提供していた、天皇制が日本社会に今も存在し、 そして当分それが無くなる見通しが立っていないことで ある。ここでいう天皇制は単に政治制度に極限されるも のではなく、社会や思想・文化さらには生活習慣や物の 感じ方にまでいたる、天皇制が長きにわたって存続して いることに規定されて生じたもの全般である。 ひとつの王家が、千年以上にわたって一つの国の支配 階級でありつづけるという、他の国や地域にはないこの 制度が日本社会にもたらしている影響ははかりしれない ものがあるが、部落差別との関わりからみて重要なのは、 文化の同質性を担保するものとしての天皇制であろう。 きわめて、同質の文化と思想そして感性がこの国をつら ぬいてきた。言霊思想や浄穣観念など、他の社会で多く 原始ないしは古代社会までは認められるものの、その後 は消滅したような思想が、今も生きているような固なの で あ る 。 浄穣観念などを今更もちだすのは古い、葬式でもらう 清め塩をつかう人が何人いる、という反論も一理あると も思う。しかし一方で、明治の開国に前後して外国から もたらされた新しい伝染病が猛威をふるったが、それが 比較的短時間で克服されたのは日本人の浄穣観の存在で、 外からふりかかるものを忌む感覚が極度に強かったこと が、このようなことを可能にしたという説もある。 わたし自身も、それと符合する体験をもったことがあ こベる る。十数年前、よく部屋に遊びに行っていた友達が重い 7
皮膚病に擢ったことがあった。その部屋には沢山の友人 が遊びに来ていて、四畳半の部屋に五、六人で雑魚寝す ることもよくあったが、皮膚病以来わたし自身もふくめ 誰も泊まらなくなった。ところが、その友達にはアメリ カ人の友人も多く、ある日ひとりのアメリカ人をふくめ て数人で呑んだとき、帰ろうとする日本人のわれわれを 尻目に、そのアメリカ人はすでに寝込んでいたその部屋 の主人、すなわち皮膚病の友達と同じ布団にもぐり込ん で寝てしまったのである。清め塩のような穣れにまつわ る儀礼が変化しても、この感覚の根強さは相当のものと 見るべきであろう。 さらに、身分意識の強固な残存は日本社会のあちらこ ちらに見受けられる。わたしはあれこれあげつらうより、 敬語の存在そのものがこれを決定づけていると見ている。 敬語の社会的機能は、人と人の関係を上下関係において 秩序づけるところにまずはある。これは、 ひとつの社会 において人と人が平等ではなく、まずは上下関係におい て規定されるということを意味している。身分とは人が 社会においてとる位置のことであるから、人の社会があ るかぎり身分は存在するわけで、例えば現代日本であれ ば会社の中に種々の身分が存在している。その関係が日 本ではなによりもまず、上下関係が優先するのである。 また、これに年齢階梯身分の強固さをつけ加えるべき であろう。身分というと、現在では職能的に分節化され た身分のことをまずイメージしてしまうが、身分がまず は年齢階梯身分から発したものであることは、職能的身 分の身分呼称に﹁年寄﹂﹁若年寄﹂など年齢階梯身分の 呼称を準用したものが多いことで分る。年齢階梯身分も 社会的身分のひとつと見なさ、ざるをえないのである。そ れが日本において強固であることは、 いちいち説明する ま で も あ る ま い 。 敬語は消滅するどころか最近ではますます煩頂化の傾 向にあり、また人と人の関係を定義づける礼儀の修得は 成人になるうえで必須のものでありつづけており、日常 生活のすみずみにその意識は生きている。わたしは、こ のような日本社会に定着していて、通常はわれわれの意 識のすみにものぼらないようなこれらのものが、部落差 別を支えていると考える。
存続する社会的周縁の位置 一方、社会外としての部落の位置は比較的測定しやす ぃ。つい最近、わたし自身が関わった ﹃ 京 都 市 人 権 問 題 に関する意識調査報告書﹂︵世界人権問題研究センター、 二 O O 二 年 ︶ では、障害者以下十一の項目についてその 関心度を問うたところ、﹁少し関心がある﹂という回答 にはあまり差は見られなかったが、﹁関心がある﹂とい う回答は大きく二つの群に分れたのである。 つまり、四 O%以上の人が﹁関心がある﹂と答えたのは障害者・子 ども・高齢者・女性であり、﹁関心がある﹂が三O%未 満のものは同和地区・在日韓国朝鮮人・外国人労働者 婚外子・アイヌ・刑を終えて出所した人であった。
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感 染 者 の 問 題 は 一 一 一 一 ・ 一 % で 、 こ の 両 者 の 丁 度 中 間 に 位 置 し て い た 。 関心度が低い問題はいずれも京都市民にとって﹁身遠 い﹂問題であったわけだが、同和地区・在日韓国朝鮮人 の問題がほぼ同じ関心度であったことは、単なる偶然で はないであろう。というのはわたしはここ十数年間、大 学で同和問題の講義を担当しているが、授業のなかであ るいは期末の試験でいつも驚かされるのは、被差別部落 と在日韓国・朝鮮人をなんとはなしに同一視している人 が多いことである。授業ではそれぞれの歴史や現状を話 しているわけで、知識としては両者の違いを知っていて も、感覚のレベルでは両者を一括りにしてしまう見方が なかなか抜けないことを、この事実は示しているのであ る。
これは、わたし自身の経験からもいえることで、佐賀 県に生れ幼少の頃に鎌倉から川崎に移り、小学校一一年で 東京都文京区に移ってから二十七歳まで東京という経歴 は、ほほ東京育ちと言っていいだろう。このため、高校 の文化祭で部落問題研究会の展示を見るまで被差別部落 の存在はまったく知らなかったが、それを知ったときわ たしは、﹁朝鮮人のようだ﹂と思ったのである。わたし が中学のときに住んでいた板橋区には、近所に朝鮮学校 こペる があって﹁あそこの子は陪一嘩つよいから、気をつけろ﹂ という親切な忠告も、つけていたが、実際に朝鮮学校の校 9庭に遊びにいって、そこの生徒から喧嘩をふっかけられ ることもなく、拍子抜けした経験ももっていた。また わたしの義母が朝鮮人集落のすぐ近所に住んでいて、 つも水がしみだしているような急な崖にそい、その崖を 一方の壁にして建ち並んでいる朝鮮人集落を見慣れても 、 ‘ , − o ’ν ナ ム このようなわたし自身の経験からくる感覚が、被差別 部落を朝鮮人と同じものと感じたのであり、この感覚は 韓国・朝鮮人問題そして部落問題にも関わってからもぬ けることはなく、長いあいだ両者をひとつのものと考え て自分でも怪しまなかったのである。 このような事実から、被差別部落がいまだに日本社会 の周縁に位置する存在と見なされていると、わたしは考 えるのである。在日韓国・朝鮮人は被差別部落と同一視 されることによって、日本人の意識のなかでは他の外国 人とは異なる独特の位置を占めていて、そのことが在日 韓国・朝鮮人問題に微妙な影響を与えているのである。 朝鮮が日本の植民地となったあと、多くの朝鮮人が日本 に渡ってきたことは前に述べたが、彼らの来住は日本人 の外国人観を一変させるような衝撃を日本にもたらすも のではなかったようである。 u
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ひとつは同じ極東のアジアの人間として外貌が日本人 と同じであったこと、また社会的には種々の差別があり ながらも法的には日本人であったこと、朝鮮人の社会的 メンタリティーが日本人と極めて近く、郷に入れば郷に 従う傾向が強かったこと、さらには内鮮一体運動などを 展開して朝鮮の文化を日本が抹殺しようと図ったことな どが影響したものと思うが、日本人は充全な他者として 朝鮮人と出会うことはなく、半ば外国人、半ば日本人と いう微妙な位置に彼らを置いてきた。ここに、被差別部 落と在日韓国・朝鮮人が同一視される根拠があると思わ れ る 。 以上に述べてきたようなことから、被差別部落の日本 社会における社会的位置は、それが生成した平安時代か ら現在まで、基本的には変化がないと見ることができる であろう。もちろんこれは、例えば部落差別と関連の深 い浄穣観念が、過去もそして現在も日本社会に通底して いるとしても、その意味あいや重要性は時代ごとに変化があったように、まったく同じものが通時代的に存在し ていたわけではない。その内容は時代ごとに大きく変化 し v ながらも、部落差別を支えた基本的枠組みは維持され ているということである。 部落差別を成り立たせている要因については種々の側 面から分析が可能だが、これまで一貫して歴史的側面か らの分析が優位であった。その歴史が現在の部落差別を 大きく規定していると、多くの人が認めていた結果であ ろう。被差別部落の歴史がこれまで概括してきたとおり であり、また現在の状況もこれまで述べてきたとおりで あるとすると、これは部落差別を解消するという見通し にも、大きく影響せざるをえないことは勿論であろう。 部落の歴史は、部落差別の解消が極めて困難であること を告げている。 すなわち、部落差別を解消するために は、これまでの日本を日本あらしめてきた諸々の習慣と 思想そして感性を変えていくことが必要であるとみざる をえないからである。 生活文化を根底からくつがえすような変化そのものは、 陸地で国境を接し、異民族による支配を経験した地域で は、少なからず起ってきたことであり、それを通じて古 いものが更新されてきたのである。しかし、極東の端に あって国境をすべて海でかこまれ、歴史上一度も革命を 経験したことのない日本で、このようなことが起る可能 性は低いと見ざるをえない。 日本でこのような変化が起るためには、最低限のこと として天皇制の廃絶が必要であるだろうが、先の大戦後 の最も天皇制が危機に陥ったと考えられた時でも、その 支持が過半数を割ることは一度もなかった事実は重い。 キリスト教やイスラム教などの強固な原理をもった宗教 を信じる集団が、極めて短期間に日本人口の三割以上を 占めるというような変化なしに、天皇制の廃絶というよ うなことが実現するとは思えないからである。 このような見通しには、 いくつもの反証が可能であろ ぅ。わたし自身、この見通しの妥当性について、 い ま だ 検討中といわざるをえない状態にある。しかし、わたし の見通しがまったく間違っていたとしても、現在、部落 差別をどのような手順と方法で解消していくかについて、 こペる その試論すら提示されていないことも事実である。 11
となると、わたしたちは当面解消されない部落差別と いうものと直面し、それを前提として思考を展開せざる をえないことになる。しかし、振り返って考えると、部 落差別の解消が大きな変革なしにはなしえないという考 えは決して目新しいものではないのである。全国水平社 の第五回大会で社会主義を支持する人びとが主導権を握 って以来、ベルリンの壁の崩壊まで部落解放運動の主流 は、社会主義革命が部落差別の解消にとって不可欠であ るとの立場をとってきた。また、 ソ連や中固などの社会 主義の実情を知る一部の人びとは、両国での少数者への 処遇の実際から、社会主義革命が実現してもすぐには部 落差別の解消にはつながらないだろうという見通しをも っていた。社会主義革命の実現可能性の後退が、現状の 日本社会を前提に差別解消に取り組まざるをえないとい う立場を強制したにすぎないのである。 ただ、この間の部落をめぐる変化と社会主義の消長は、 近代化および近代化のひとつの変種としての社会主義革 命によって、部落差別の解消に宜結するという見通しが 立てづらいということを示している。近代化が社会的少 数者への差別を往々にして廃絶しないことは、すでに多 くの事例によって結論づけられたとみてよいであろう。 わたしたちはいよいよ部落差別を解消する、有効な見通 しを持ち合わせていないことを自覚せざるをえないので あ る 。 当初わたしは以上のような現状認識を示したうえで、 次にはこのような展望からどのような解放運動が導きだ されるのかについて述べる予定でいたが、すでにこれま で述べたことだけでも、従来の部落解放運動や部落差別 を解消する取り組みから大きく逸脱しており、また解放 運動について述べるためにはまだ二、三考えを煮詰めな ければならない点もあることから、 一応ここで筆をおき 後半は別稿としたいと思う。
ひろば⑮
夫婦別姓論と家名の継承
鎌田明彦︵京都府立総会食料館勤時粉︶ 夫婦別姓論を唱える人が年々増えており、国民の過半 数となっている。ところで、この主張をしている人たち は、家名ということについてどのように考え、どのよう に扱おうとしているのだろうか。今まであまり論じられ たことのない事柄について考えてみたい。夫婦別姓論と親子同姓
人々には、姓と名という二つの名称がある。従来は姓 は家族名称、名は個人名称という役割分担のもとに二つ の名称が使い分けられてきた。夫婦別姓論というのは、 この役割分担を変更して姓を個人名称に切り替えよう、 という主張である。姓が個人名称に切り変わるのなら、 当然親子は別姓になる筈である。 ところが、今論じられている夫婦別姓論では、親子同 姓は自明の前提となっている。親子のつながりを明らか にするために親子を同姓にするというのならそれはそれ で一つの考え方である。しからば、子は父とも母とも同 姓でなければならない。したがって、父と母は同姓でな ければならない。そういう理屈になる。 両親のうち一方の親とは、同姓でなければならないが、 他方の親とは別姓であってもかまわない、という奇妙な 制度の理論的根拠は何か。誰も説明していない。何故こ のような制度が提唱されたのか。それは家名を継承する ため、ということ以外には考えられない。2
ダブルネl
ム
論
人々が有する二つの名称の内二っともが個人名称にな ってしまえば家族名称がなくなる。しかし、人々が家族 単位で暮らしているという事実は今なお変わりはない。 その家族に名称がなくなれば不便ではないか。:::ここ で登場するのがダブルネl
ム論である。田中さんと木村 君が結ぼれて一緒になればその家族名称を田中木村にす ればよい、とする主張である。これは非常に分かりゃす い主張である。しかし、また疑問も生じる。新たな家族 こベる 13名称の作り方を何でダブルネ
l
ムに限定しなければなら な い の か 。 二人の人聞が組んで一つの団体を構成するとき、その 名称の付け方には二つの流儀がある。一つは漫才師の流 儀でありもう一つは歌手の流儀である。前者の例は、ダ イマル・ラケット、サブロl
・ シ ロl
、エンタツ・アチ ャコ、大助・花子。後者の例は、トワエモア、ザ・ピl
ナツ、ピンクレディ、こまどり姉妹。 夫婦の名称では、何故前者の流儀に限定しなければな らないのか。それは、後者の流儀にすれば、家名が断絶 してしまって後に続かないからである。 3 家 名 の 継 承 へ の こ だ わ り 以上の 1 及 び 2 で述べたことの帰結として言えること は、今言われている夫婦別姓論は、家名の継承を絶対条 件としてその範囲内でしか制度の改革を考えていないと いうことである。夫婦別姓論というのは如何にも進歩的 な新しい思想のように思われているが、その実態は家名 にこだわる古い思想である。選択制夫婦別姓論が法制化 されても人々が家名を継承していくということについて は変わりがない。むしろ、息子がおらず娘しかいない人 にとっては、家名の継承がしやすくなる。自民党の中に も選択制夫婦別姓論に賛成する人が増えているのはこの た め で あ る 。4
民主主義思想の基本概念 民主主義思想の基本概念とは、人を遺伝的産物として 扱わずにそれ自身の産物として扱うことである。親の地 位や状況や所業が子にストレートに影響を及ぼす制度や 習慣や考え方を民主主義の敵対物として我々は厳しくこ れに対峠してきた。部落差別は我々が是正しなければな らないものとして対峠してきた典型的なものの一つであ る 。 そのような立場からすれば、親の姓を承継することを 子に義務付ける制度というのは、非常に不健全な思想に 基づくものであると言える。親の姓を承継することに価 値を見いだす人はそのようにすればよい。しかし、自ら が新たな姓を創造したいという人に対して何で親の姓を 承継することを強制しなければならないのか。そういう 人には新たな姓を創造することを可能にするような制度改正を提起すべきではないのか。
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夫婦別姓論のマイナス効果
現在のわが国は男性優位である。それが証拠に九八% の ケl
スで夫の姓が夫婦の姓になっている。このような 状況のもとで夫婦別姓が制度化されれば九八%のケl
ス で子は父親の姓を名乗ることが理論的に予想される。こ のことは昔から夫婦別姓をしている中国や韓国の例を見 ても明らかである。子は父とは同姓であるが、母とは別 姓ということになれば、男女平等の観点からすれば状況 は悪化することになる。﹁それが嫌なら夫婦別姓を選択 しなければよい﹂では答にならない。何故なら彼らは今 の状況が男女不平等だと言って現状変革を唱えていたの だ か ら 。 6最後に
私は部落差別解消のために闘ってきた立場から、今唱 えられている選択制夫婦別姓論には、根本的な欠陥があ るように思う。先祖とのつながりを名称の上で明らかに することをルl
ル化するということは、人を常に先祖と の関わりで見て評価するということであり、民主主義の 思想に反する。日本国憲法の精神からすれば、結婚とは 愛し合った彼と彼女とが今までの家族から離脱して新し い家族を作ることである。したがって、新しい姓を創造 すべきである。このような立場から私は﹁夫婦創姓論﹂ を提唱している。これは、例えば田中花子さんと木村一 郎君が結ぼれてその姓を瀬田にすることも可能とするも のである。この場合のそれぞれのフルネl
ムは、瀬田田 中花子と瀬田木村一郎となる。この場合の田中や木村は ミドルネl
ムということになる。そして職業生活では、 それぞれが田中花子あるいは木村一郎と名乗ることにな り、人生の途中で結婚を機に職業生活上の名称が変わる という従来から指摘されていた不便が解消する。そして 地域生活では、瀬田さん御夫婦として共通の家族名称を 持つことになり、二人の聞に生まれた瀬田聖子さんは、 父とも母とも同姓となる。なお、夫婦創姓論についての 詳しいことは、拙著﹃夫婦創姓論﹂︵星雲社︶を御一読 さ れ た い 。 こぺる 15編集人への手紙|気になること Y − J ︵ 京 都 ︶ 前略ご無沙汰しております。近況なども申し上げるのが順序 でございますが、省略して要点だけを話しさせていただきます。 さて実は、﹁こぺる﹂等の先生の文章について、最近、一点 気になることがあります。それは、時折﹁かもがわ出版﹂の出 版物が引用されることです。 ご承知だと思いますが、﹁かもがわ出版﹂の編集責任者・ Y 氏︵社長だと思いますが、手元に資料がない︶は私もよく知っ ている人ですが、元日共の機関誌﹁京都民報﹂の記者でありま す。また、この出版社の同和問題に隠する出版物を全部取り寄 せれば分かりますが、まさしく日共の主張と軌を一にした﹁為 にする﹂主張であります。たしかに﹁かもがわ出版﹂は、独立 した出版社ですが、私に言わせれば、こと同和問題に関するか ぎり、日本共産党の主張をベ l ルにくるんで出す出版物、﹁党 利党略﹂の巧妙な出版物だと思っています。そしてこのことは、 私の偏見ではないということを確信を持って言えます。否、共 産党系の意見であっても、正しいものは正しい、そんなことに こだわる方がおかしい、と一言うのであれば、私は何も申すこと はありません。共産党と意見が同じ場合は、私もしばしばあり ます。しかし自らの意見を補強するのに雑誌﹁部落﹂の論文を 引 用 し た り し ま せ ん 。 私が言いたいのはそんなことでなく、﹁為にする意見﹂﹁政 党・団体などに規制された意見﹂は排除する、何物にも捉えら れない自分の意見を大切にする、そういう先生の考え方に共感 している先生の﹁仲間たち﹂からすれば、日共に加担したり、 共鳴したりするための雑誌に寄稿された論説が先生の参考意見 となったり、﹁その通り﹂として取り上げられるのはいかがと 存じます。そのことは多くの先生の共感者や﹁仲間たち﹂の、 不必要な不信感に発展しないかと恐れます。 失礼を申し上げましたが、少し気になりましたので一筆まで。 つ μ 日 υ 0 0 ハU 1 ょっ μ コメント おそらく Y −ーさんは本誌﹁鴨水記﹄の欄で、寺園敦史さん の文章にふれたことを指しておられるのでしょう。しかし、事 柄は﹁こぺる﹄の編集姿勢とも関係するので、 Y − ー さ ん に は 公開の場で応えたいとお伝えした上での掲載です。 わたしの書くものがどのように読まれようと、それは読み手 の自由です。ただ、わたしが紹介もしくは引用する文章・記事 の書き手、掲載雑誌、出版社を理由にして批判されると困って しまいます。古人も﹁人を以て言を廃せず﹂といいました。意 味するところは、論者の立場や資格、所属する集団・組織によ ってその意見をあたまから無視したり、否定したりしないとい うことです。﹁誰が語っているかではなく、何が語られている かが肝心﹂というのが、わたしの基本的立場であり、本誌の編 集 姿 勢 で す 。 Y − J さんの反論とともに、読者からのご意見を お 待 ち し て お り ま す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶
鴨水記 マ﹁五月のある日、私は﹁モシリ﹂ ライブ実行委員会という会合に参加 した。アイヌ詩曲舞踊団﹁モシリ﹂ の木次公演︵略︶を実現させるため、 またそれを機にアイヌ民族の過去と 現在、そして共生社会を考えるため に結成されたものである。会場は木 も り か や ぶ 次町にある﹁食の杜﹂の茅葺きの家。 樹聞を渡ってきた風が二開通しの部 屋に森のにおいを残して流れている。 ︵略︶会は﹁シアトル酋長から米国 大統領への手紙﹂の朗読で幕を聞け た。︵略︶白人の迫害に対し、高い 精神性で対峠した先住民族︵インデ ィ ア ン ︶ の 崇 高 さ に 感 動 し た 。 / そ れ に導かれるようにして、私たちもま た自らの生活の中で、人として尊厳 をもって生きることについて、気負 いなく語ることができたし、アイヌ 文化の伝承や民族復権についての支 援は、静かにしてなお熱い思いとな り、共感が会場を包み込んだ。自然 との共生や有機農法、人権に心を寄 せる人たちが集い、共に生きようと する社会を模索する広場がそこにあ っ た 。 私は同和問題にかかわ そして、歴史的社会的差 別による市民権の侵害とそれによる 厳しい生活実態を告発し続けてきた。 常に、集会や大会、市民運動の最前 列にいた。集会はいつも盛況だった。 しかし、振り返ってみれば、﹁同和 問題の解決は国の責務、国民的課題 である﹂と、そこにはいつも﹁黄門 様の印龍﹂があった。疑う余地のな い正しさに権威が伴っていたという 点で、そしてそれゆえに人の心を聞 く力にはついに欠けていたという点 で 、 そ れ は ま さ に ﹁ 印 寵 ﹂ だ っ た 。 / 今年三月をもって三十三年間続いた 同和対策特別措置法は、大きな成果 を得て失効した。同和地区と周辺地 長 い 年 月 、 っ て き た 。 域との経済的・物質的格差はほとん どなくなった。しかし、今もっとも 求められる人と人とのつながり H 共 生社会への道が今なお遠く、暗く思 えるのはなぜだろうか。わたし自身 がそうしてきたように、集会は今も 前傾姿勢で拳を突き上げているよう に思える。﹁黄門様の印龍﹂もなお チラチラと見え隠れしているのでは ないか。/茅葺きの家に流れていた風 と、穏やかに紡がれていた語り。私 はそれに心地よく身を任せながら、 自ら闘士として懸命に生きてきたこ れまでを考えていた。私たちが本当 に求めるべきは、あの茅葺きの家の、 あの広場ではなかったか、と 0 ﹂ マこれは部落解放同盟島根県連副委 員長秋風進さんの文章です︵﹁山陰 中央新報﹂回・日・叩︶。友人が送 ってきてくれたもの。みなさんにも 読んでいただきたく、ほぼ全文を採 録 し ま し た 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9 阿件社 Tel. 075 414 8951 Fax. 075 414 8952 E-mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010ー7-6141 第118号 2003年1月25日発行