Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/
Title 血脇守之助伝
Journal , (): ‑394
URL http://hdl.handle.net/10130/917
Right
第 十 章 専 門 学 校 へ の 昇 格
切り売り代価で留学費
医政面の基礎確立に東奔西走していた血脇院長は、また片時も学院の経営を疎かにすることができなかった。東京そし歯科医学院は厳選した講師陣を揃え、人材を誇っていたが'その施設面はいまもなお貧弱の誠りを免れなかったから
である。この充実策を図るには資金調達が至上のものであった。その頃のことである。幸か不幸か学院前の道路が市
の都市計画によって拡張されることを聞き及んだ。臨機応変の才略に長じた守之助は早速'市当局に働きかけ'その
真偽のほどを確かめ、計画の実現方を要望したが答えは要領を得なかった。そこで、監督官庁である東京府庁に陳惜
しへ府知事を訪ねたところ、紹介された土木局長が義塾の学友中山三代蔵であった。院長は隔意な‑'私事ながら校
舎増築、施設拡充が急務なことを述べ、学院前道路の拡張工事の促進方を要望した。幸い府側は市を督励すべ‑準備
を進めていたところであったので、話しは‑ントン拍子で進捗Lt程なく学院の敷地の一部の買収、建物取り壊しが
きまり'その弁償費として市から七千三百円が下附された。そこで院長は平岡願から買収した当時からそのままにな
っていた負債四千七百円に相当する土地家屋の抵当権を抹消し'剰余金二千六百円を得た。当面これだけあれば'
いささか胸をなでおろすことができた。
‑ 136‑
しかし'学院の経営という観点から振り返ってみると、これとて「焼石に水」に近く'学院の財源の第一等に位す
るものは'当時'第四回目に突入していた院外生講義録から得られる収入であった。しかも講義録の発行は当時寒夜
炎暑を物ともせず、精根の限りを尽‑していた奥村鶴書1人の細腕で成し遂げられていたのである。血脇治療所の収
入も相当なものではあったが、そこで働‑早川可美良や水野寛雨はむしろ報酬も多くへ悠々治療に従事していた。奥
村はこれに反して、最も学院の経営に尽‑しながら'その人達よりはるかに恵まれぬ立場を余儀な‑されていた。
守之助はこの奥村の犠牲的精神をみて'暗涙にむせぶことしばしばであったので、今回の二千なにがしの金は奥村
のために役立てようと思いついたのである。守之助は奥村を招いて、「君はわが学院の柱石である。学院発足以来の君の献身に対して衷心から感謝している。かねてから何かの形で謝
意を表明したいと思っていたが、学院の将来のためにも君個人のためにも君を歯科医学の本場で勉強させるのが一番
良いと思う。ここに二千円を提供するから米国に行き'新知識を充分身につけ、帰国したらいっそうわが学院のため
に頑張って欲しいと思う」
と申し渡した。
奥村はあまり突然のことであったので返事に窮したが、一面講義録編集にあたって、外国の歯科医学の発達振りを
知り、心惹かれていたので'
「おねがいします」
と一言返事をした。
奥村は米国へ出掛けるならは'フィラデルフィヤのペンシルバニヤ大学歯科部と思っていたので、数日後、守之助
にその旨を伝え'東京歯科医学院は最初の外国留学生を派遣することになった。
ー 137‑
時恰も日本は露国との間の戦争に狂奔している最中であったが'明治三十七年初夏'守之助は学院の将来を賭けて
留学生派遣を決断したのであった。そして残りは僅か六百円'これまた有意義に使用するため学院に初めて電話を購
入し、文明の利器を活用することにした。したがってへ守之助は再び徒手空拳、将来の栄光だけを目標に苦闘的経営
を続けていくのであった。
ところで守之助は、明治三十七年米国セントルイス市で開催された万国歯科医大会に「日本歯科医師の過去及び現
在」と題する論文を提出し'国外事情にも日を配っていたが、奥村の派遣は外国事情の摂取に大いに役立つことを切に
希望していた。九月に入ると各所で奥村の送別会が挙行された。九月十四日'守之助はじめ多数の学院関係者の見送
りを受けて奥村は勇躍新橋駅から出発し、その日の午後横浜埠頭から暫しの別れを告げてモンゴ‑ヤ号で出帆した。
奥村の教科目は前年米国から帰朝し、学院の講師に迎えられたドク‑ル佐藤運雄(後日本大学歯学部長)、小川勝
一、早川可美良、水野寛商などによって分担教授されることに決まった。
自重の校舎
明治三十八年春、年々学院への入学希望者が増加するので'守之助は学則の改正を断行し、修業年限を二カ年とし
た。それとともに丁度学院が夏季休暇に入る七月下旬を選んで校舎の増'改築工事を起工した。この設計は親友森山
松之助の手により'日頃の蓬葛を傾けた苦心の作であった。そして早‑も休暇明けの明治三十八年九月十一日には改
築工事の一部である総二階三十五坪の大教室と技術実習室とが落成し'同時に守之助の診療所及び住宅も新築され'
‑ 138‑
明治39年4月8日 落成式を行 なった東京歯科医学 院校舎 (水
明治39年4月
112 宿 直 室 113 空 地 114 技術実習室 20
1 図 書 室 203
治 療 室 204 患 205 階者控室
段の間 206 露台顕微鏡実習室 207 標本お よび薬品重 208 第一教室 明治39年 校舎設計図 101廊玄 関下
:
‑
I.;
I 105 昇 降 口 106 事 務室 107 諮 師 宣 108 生徒控室 109 第二教室 11
0 湯 呑 所
111 小 便 室 覚めも目
るよう なモダン な 建 物 が出 現し たさにら。 十 二月に は 本 館 二 階 八 十 一・
〇
八 坪と 付 属 平 家 九 坪四 合 四 勺 の 棟
上
終治三十九年四え、明も 月 八に日 落 成 式を 挙 げた。 いま や 旗本 屋 敷の面 影はな十くへ
新平男爵等政官界の名士が威儀を正して整列Lt次々と立ち上がって祝辞を述べる様は1段と意義深く'聴衆をただ
ただ感嘆させるのみであった。
このとき'院長は式辞として'これまでの日本の歯科医学の発展の歴史を述べながら、九尺二間の長屋からの脱却
を心嬉し‑感じると遠慮がちに語っている。
さて'司会の役を割り当てられた金杉英五郎は、「親友血脇君の奮励努力には全‑感服している。当医学院の完成はまことに異例のことである」
と述べ、大日本歯科医会会長高山紀斎は当日欠席のため副会長榎本積1がメッセージを代読し、校運の隆昌を祈念
する。大日本歯科医会東京都部長富安晋、日本歯科医学会会長伊沢信平に次いで登壇した石原久は'
「日本には歯科医学研究者のための教育所が必要なのに文部省や国はいままで何もしてこなかった。この見捨てら
れた歯科医学が相当の地歩を保ってこられたのは、実に先輩諸君の努力である。今日またこのような立派な学校が出
来上がったということに対して、血脇院長に感謝する。これから歯科医学の花が咲き実を結ぶことを信じる」
遠山椿舌は、
「歯科社会のみならず日本国家の幸福である。高山歯科医学院時代のことを考えると'随分進歩したものだと思
う。あの頃は畳の上に椅子を並べていたのだから'歯科医師法ができて発布されることになっているが、一片の法律
とはいえ'法令があれば斯学は一段と進歩する。しかも、第一条、第一項には歯科医たるものは文部省の指定したる
学校を卒業した老となっているのである・⁚‑」
川上元治郎は'
「私は医事週報社社長としてきたのではない。血脇君のもっとも古い友人として祝辞を述べたい。私は新潟の出身
‑141‑
であるが、血脇君は木綿の衣に兵児帯一巻を捲きつけて私のところへ参られた。私は歯科医は頗る結構であるからや
ってみたらよかろうというた。そして当時は高山の学校がただ1つだから'二人で評議一決は大げさだが'血脇君は
高山の寄宿舎に入った‑‑」
石黒思慮は、「私は今日佐々木信綱君の竹柏会に呼ばれて森鴎外君の文学の演説を聞‑つもりであったがこちらの学校の様子を
見にきた。血脇君とは御懇意にしているが私も甚だ無性でいままで学校を訪れたことはない。たまたまつい先頃も散
歩の途中、この建物をみたのですが、モダンな自重の建物なのでホテルでも建てているのかと思っていた。しかし'
みて、血脇君の学校と居宅で、びっくりした次第である。文部省の政府委員に歯科医学校は東京に本当にあるのかと
聞いたら'まず血脇の学校であろうという話しであったが'今日きてデタラメの答弁ではなかったことを大いに喜ん
でいる‑‑。私は幕府の医学校に学んだが、下谷和泉橋通りに佐藤道碑とい‑御典医がいた。その人は将軍の歯を抜
‑ときには'釘抜きみたいなもので抜いてほおそれおおいので、絹糸で縛ってそれをせっせと引っ張って抜いたのだ
そうで'その糸をみせてもらった。ここにいる伊沢君の御養父も黒田侯の歯の方の御典医であった‑‑」
後藤新平は、
「血脇君の事業は医学社会のみならず'東京市二百万人の幸福である。このような事業が個人の力で成り立ってい
ることはまことに驚きに堪えない。血脇君に多‑の人が学び公益に努めるならば私は喜びに堪えない。この学校に職
を奉ずるもの、この学校に学ぶものは血脇君に負けないように'成功、不成功にこだわらず力を尽‑すことを学んで
いただきたい」
式典が終わり'直ちに別室で来賓には立食の饗応、学院生徒には紅白の餅を配り'歓談数刻にして散会した。
‑ 142‑
今回落成した新校舎は瓦葺漆喰塗総二階二五坪九合八勺で、その内訳は'第一、第二教室'技術実習室'顕微鏡
実習室'予備教室、治療室'図書室'患者控室へ事務室'講師室'薬品標本室'院長室、生徒控室'湯番所、小便
室'宿直室'便所二カ所などであったが、当代唯1の歯科医育機関として誇るに足る設備を備えていた。
式前に校内参観が行なわれたが、来賓はじめ歯科関係者は一様に驚嘆の声をあげ、なかには目に涙する歯科界関係
者も少なくなかった。
四月十日、新校舎で授業が開始され、五月一日から予定通り治療室で附属医院を開院し、その監督として、東京歯
科医学院出身の'守之助が特に将来を嘱目した俊才花沢鼎を抜擢した。また花沢監督の下には助手十名を任命し、晋
‑患者を収容し、生徒の治療実習に供することにした。したがって明治三十九年五月一日は本邦において歯学生の臨
床実習が開始された記念すべき日である。
また図書室には欧米各国から守之助に寄贈された著書を集め、職員、生徒の研究の便宜を図った。旧校舎時代には
二学年の授業が同時にできず、一日を分割して各学年別に授業を行なっていたが、その不便はここに解消されるに至
った。
このように外見内容共に面目を1新した東京歯科医学院は、歯科医育上にl紀元を劃するものとして斯界から歓迎
され、特に榎本積一、富安晋、一井正典、佐藤運雄、河村利次郎など二十名は、醸金を通じて守之助の義挙に祝意を
蓑すべく、全国の歯科医に呼びかけた。
忽ち五月末には約1千五百円にのぼる寄附金が集まったので、その内六百円を在米の奥村鶴書に急送し、教授用参
考用晶の購入方を依頼した。
ー 143‑
改革と刷新
奥村は優秀な成績でペンシルバニヤ大学歯科学部を卒業し、直ちにニューヨーク'パルチモア、シカゴ等の歯科医
学校を視察Lt栄あるドクトル・オブ・オーラル・サージェリーとして明治三十九年八月五日帰国した。
奥村を迎えた守之助は我が子が成人して眼前に現われたような気がした。かつて奥村を横浜からモソゴリヤ号で送
り出したときにはさすがに心細かったが、いま旦別にする奥村の何と達し‑成長したことよ'よかったよかったと守
之助は心の中で咳くのであった。
「お土産話しも多いだろうが'十分休養を取りたまえ」しかし守之助の心の中は逆であった。一日も早く米国の事
情を知りたい。そして奥村に思う存分腕を振わせてみたいと思っていたのであった。
数日後、守之助は院長室に奥村を呼んで厳そかに申し渡した。
「君を学院の講師に任命する」
奥村の顔の表情は全‑変わらなかった。あたりまえのことと思っていたからである。
「君に学院の幹事を兼任してもらいたい」
院長の口調は厳そかであったが顔は微笑みかけていた。「甚だ大役ですが院長のお手伝いとして引き受けさせていただきます」
奥村は多弁ではなかったが、夢多き青年で、かつ実行力に富んでいたので、早速その作業に取りかかり、短時日で
授業規程、学則を改革し'その結果'学院の修業年限を三カ年とし、三年は臨床実習'学年の開始時期を九月とし
‑ 144‑
東京歯科医学院の講師陣 (奥村鶴吉帰国間 もなくの頃撮影 さ れたと 思われる)。後列左 より早川可美良,花沢鼎,水野
寛商,前列左 より 奥村鶴吉,佐藤運堆,白井(小川)勝一
た年はか三二九九十三治明五たれ布発歯月月らさ日日。、 科 医師 法 が施 行さ れた三は令省部文に十月十ま七第十日、 号を以てっ 公 私立 歯規布公科則が定指校学医れ情勢はさ、 急 速に 進た授則'んが学たいでて業規定施設等しっも。、 そ れに 準 拠てし
改 革す必要に迫れのたているらであるま。 たへこのよう な 準 備を進め傍るら
、 血 脇院 長は指定学校の 願 書を提専門学校格続努て、指を昇出力をけてい目しし、 たのである。 十 一十七には務省号科歯てを三四月第令内規も医師日っ 則 が 発 令さ れた
。 奥
村 鶴 書 は八学か明に帰年九十三治月国て院内のらし 整 備に 没頭久沈黙守間そかたいてを悪のくしLっしし。t' を 練り、 守 之 助とも 度々 意見を交 換歯科界理の想をし、 阻 む 底の強いを痛感て流た守談相に助之い、でのこしとし
明治四十年1月歯科学報誌上に掲げられた迎年の辞がそれである。きさ「明治四十年今方に来りぬ‑‑戦後の国運隆々として事業'学芸共に一大発展のときわれわれ歯科医もまたこの気
運に乗じ'一致団結して多忙の未来に処することが大切である。
今後の歯科医は専門的常識を高めることに努め'珍奇な症例や手術にのみ注意を向けないで普通症例に対処する理
論解明や技術研修に努め'それによって日常の症例や手術を十分に消化できるようになることが大切である。平凡な
課題を1歩ずつ検討することが、歯科医療の基礎となり'必須の知識となるのである。歯科医学は元来実用の科学で
プラグマティズムに基礎を置き、精密深遠な科学としての探究とともに、目前の山積する課題にとりくまねばならな
い。これまでややもすれば論弁に流れ'要旨を没却し、大局をみる目を失っていたのではないかと思う。日本歯科医
学会は歯科医学研究の中枢であるにもかかわらず'めざましい活動をしていないのは'深遠な学理にかたより、珍奇
あるいは稀有の問題を重点にしているからではなかろうか。学会発表はもっとプラクティカルな面'ポピュラーな面
を重要視すべきで、「テーブルクリニック」や「示説」を多くして1般臨床家の真に役立つもので充実させる必要が
ある。さらに学術用語の制定'東洋歯科医学史の調査研究へ公衆歯科衛生の振興等にも努力すべきである。そうすれ
ば、今沈滞の学会活動は今後ますます盛んになってい‑はずである。
歯科医養成にあっては'万巻の書物を机上に重ねへ学理にいかに通じていようと実用の能力を欠くならばその知識
は畳の上の水練と同じであるということを十分にわきまえ、臨床学と基礎学との充実した歯科教育を実現しなければ
ならない。
これからの歯科医教育はシステマチックな実物教育を行なうべきで'われわれは手芸の能力'頭脳において白人に
劣っているとは思わないが教育のシステム化が遅れているので'そのような方針をたてれば、わが歯科医青の前途は
‑ 146‑
洋々たるものがある。東京歯科医学院は'文部省の公立私立歯科医学校指定規則に則り今後の本科生入学資格を中学
校卒業者に限定することにしたが、この決定は歯科医学の根底にかかわる重大決定で'有為の人材を教育するとい‑
大方針に基づ‑ものである。
歯科医師会規則は発布されてすでに約二カ月を経過しているが'いまだ1会も創設されていない。有志が慎重な態
度をとっておられるからであると思うが'歯科医師会は歯科医権の伸長と医風の矯正を主眼としているから'政権相
奪、私情による暗斗に陥ることなく、歯科医師と歯科医術の尊厳のための存在であってほしい」
これらの意見は'今日なおそのまま通用する生々しい息吹きを感じさせるものがある。歯科医制について法律的な
面での前進は計られたが、歯科界の実情は党派的な勢力関係がからんで'時代の進展に必ずしも同調しない傾向すら
見受けられ、特にお膝下の東京市では歯科医師会の成立すら危ぶまれる状況にあったことへの警鐘であったのであ
る。
東京歯科学講習所開設
明治四十年七月二日'麹町区大手町商工中学校内に共立歯科医学校が開校式を挙げ、四日から開講した。この学校
は中原市五郎の発起にかかわり'現在の日本歯科大学の前身である。
この当時の歯科医志望者は医術開業歯科試験合格を目指して勉強していたので'歯科医学校は予備校的存在であっ
た。したがって金銭的あるいは時間的に余裕のある人は、東京歯科医学院の本科生になって昼間学習を行なえたがへ
かなり多くの志望者が学院別科生として夜間校へ通学していたのである。それに今度共立歯科医学校ができたので、
‑ 147‑
昼間就学の機会を得られない好学の士にとっては好都合であった。
一方、東京歯科医学院は昨年来増改築を行ない専門学校へ昇格を目ざしていたが'専門学校では夜間通学の別科生
を収容することができな‑なるので経営的にも大きなマイナスが予想された。そこでなるべ‑早い時期に歯科学講習
所を新設し'昼間の学校と夜間の学校とを組織的に分離した方が得策と思われたので、明治四十年五月三十一日に右
講習所の設置申請を行ない、六月七日許可を受けた。そして七月1日開校式を挙げ二日から開託した。
学則での授業開始は毎年九月十1日と定められているのに、この年限り七月二日授業開始としたのは、その頃すで
に九月頃専門学校昇格許可の情報が入手されていたためらしい。
話習所は午後六時半から八時半または九時半まで閑話し、修業年限は1カ年で翌明治四十1年から二カ年となっ
た。授業料は毎月二円五十銭で'奥村を託習所の主事とした。
この講習所は校名を後に変更して東京歯科医学校となり'校長に守之助が就任し、その時を期して細菌学(担当綿
引朝光)を学科課程に加えている。東京歯科医学校は昭和三年九月を以て廃校となったが、刻苦精励有為の士を多数
輩出した。
富安晋が開校式の祝辞として'
「東京歯科医学院は専門学校を目指して大拡張を計っておられる。これは大変結構なことではあるが教育体制が変
更されることによって歯科医学を学ぶのに不便を釆たしてしまっては困る。この講習所は専門学校制の欠点を排除し
て有為の人材を歯科界に送り出すのに将来大いに役立つであろう」
と述べたとおりの使命を果したのであった。
ー 148‑
専門学校設置認可
明治四十年七月十七日、東京歯科医学院の最終卒業生二十名が巣立っていった。この中の一人筒井健治(現在九
十六歳)(明治十七年三月十四日生)は当時の模様を次のように記している。「東京歯科医学院には制服はなかったが制帽は決められており、帝国大学型の角帽でそれに金'銀モールで作られ
たTDCの徽章がついていた。(高山歯科医学院の制帽は角帽にふさを下げたアメリカンハイスクールスタイルであ
ったから'それとは少し異なっていたらしい)。そして'学生は角帽に和服、袴姿で通学していた。(明治四十年九
月専門学校昇格からは制服が制定され黒の立襟「セビロ」金釦五箇、腕釦二箇となり、着地も冬服は「セル」または
「メルーン」'夏服は「セル」と指定された)
筒井健治は明治三十九年九月'三年生として二十八名の同級生とともに編入学を許され、午前中学科、午後病院実
習の教科を受けた。この二十八名の大部分は開業医の助手経験者であったので、診療や技工にはあまり苦痛を感じな
かった。この当時の病院の特徴として'学校の後援者である開業医が病院で学生の指導にあたりtと‑に榎本積一先
生は患者から絶大な信頼を寄せられていた。この病院では局所麻酔剤として塩酸コカインを使い'抜歯が無痛的に行
なわれた。当時人々は抜歯は痛いものと思っていたから'無痛抜歯は世間の大好評を博した。しかし、病院内の治療
台は開業医が使い古しを寄贈したものであったからお粗末であった。
水野寛爾'早川可美良先生は奥村先生の不在中から血脇先生の両腕として活躍されていたが、いずれも自宅開業を
しておられた。花沢先生は当時研究に没頭され、研究室におられたが'このクラスのために歯科病理学の特別講義を
‑ 149‑
明治40年頃の臨床実習室 義講れ先け受たの引はこきら。
生にてとっ
初 め ての 経 験で あっ た
」 現 在 残さ れている 記 録と 多 少の 食い 違 い はある が' 当 時 の 学 生 側 から 見 た 学校像と し て 興味深いのも がある。 こ の 東 京 歯 科 医 学院 最 終 卒 業 生の 巣 立
つ 少し 前 のこと で あ る。 東 京 歯 科 医 学院 は明治四 十 年 六月 五日 付 で 専門 学 校 設 置 の 件 およ び 徴 兵 猶予の 件を出 験いいよよし、 次の目 標 に 向 かっ て 前 進を 始 め た。こ れ に 応え て 文 部 省と 東 京 府 から 視 学官が来校し 構をな内ま‑く 臨 検し た。ちろも ん 歯 科 医 学 校とし ての 施 設はほぼ 完 全に 近 かっ た から、 視 学 官の 苦 言 を 呈 する 余 地はなかたっ がtばのらこL‑ 件に つき 音 沙汰 が な かっ た。
既 述のよう に 要 路 かのら 消 息 によ れば'九月 頃と いことう で あっ た が、
待 つ身の つでさら、 守 之 助 やそ の 門 弟 は さ す がに 焦 燥 感を 免 れはでなるこきと かっ た。
そ の 頃の明る いスニとュー い え ば、
野口 英 世 がこの 九月 からフラロクェIッ 研 究 所細の 菌 部 長に昇 進 すること が 確 定し たと
いうことぐらいで
あ
明治四十年九月十二日、文部省告示第二百四十号を以て'待ちに待った専門学校設置が認可された。しかし徴兵猶
予の件はやや遅れて十月二十六日認可されたので、これによって本科生のみは在学中徴兵猶予の特典をうけられるこ
とになった。
この設置認可の前後数日はさすがにあわただしく'専門学校の教授細目や時間割の実行案をテーマに講師協議会が
結成され'奥村はじめ講師の面々は白熱した討議に投入した。このような関係で本来ならば九月十1日から授業を開
始する予定であったが、一週間おくれて九月十八日から授業を開始し、同日午前九時'専門学校認可後初めての入学
式を挙行した。このときの入学生は、一年級百二十七名'二年級四名、三年級三名'計百三十四名であった。ゆし血脇校長の論示につづき、奥村幹事の学則及び教科説明が行なわれた。講師協議会で決定した学科課程とその担当
は次のようになっていた。
一年
物理及化学
解剖及組織学
歯科学通論 朝比奈
新井
佐藤
歯牙解剖及実習並どこ技術
歯牙組織学花沢 春彦
春次郎
運雄
奥村鶴書
鼎
英語学神崎保太郎
二年
病理学総論山村正雄
‑ 151‑
外科学総論茂木
薬物学橋本
歯科調剤学及実習塚原
歯科病理学及手術学・英語学
歯科治療学佐藤道雄
歯科材料学及歯冠継続及架工術水
歯科治術学実習及臨床講義斉
歯科理工学実習早川可美良
三年
口腔外科学同臨床講義佐藤運 野寛爾
藤清太郎
矯正歯科学同臨床講義及臨床実習指導同
口腔外科学臨床講義山村正雄
診断学大意及実習
細菌学及実習
細菌学実習
小 中 児
川 州 玉
林平
恒次郎
勝一
歯科治術学臨床講義及臨床実習指導花沢
歯科技工学実習及臨床実習指導及英語学奥村
歯冠継続及架工術実習並どこ臨床二関スル技工指導 潤鶴書
水野寛爾
‑ 152‑
臨床実習指導
臨床実習指導
曽 血
根 脇
守之助
龍蔵
学生会の発会と同窓会の転進
このような専門学校昇格の喜びは学生にとっても無上の喜びとなり'気運熟して明治四十年十一月三日天長の佳節(天皇誕生日)、午前九時から目黒恵比寿麦酒株式会社の運動場で東京歯科医学専門学校学生会の発会式および記念
運動会が開催された。
これまでは、在学生は入学と同時に同窓会に入会することが慣例となっていたためへその時まで学生会は存在しな
かったのである。飯田町駅から汽車または電車に乗って新宿駅へ、新宿から汽車に乗って恵比寿の駅へ、全員一団と
なって会場にのり込んだ。
会場にはTDCの校旗(この校旗については不詳)と日章旗とが翻り、紅白の峻幕、万国旗のデコレーション、そ
れに舞台、模擬店などが設備されへ華やかな興味を醸し出していた。
音楽隊の‑1ドにより君が代の大合唱が始まるといよいよ開会式である。
次いで血脇校長の音頭による天皇陛下'東京歯科医学専門学校'同学生会の万歳三唱が会場にこだました。「釆餐各位並びに会員諸君'本日天長の佳節に際し、ここに学生会の発会式および運動会を開くことを得たるはわ
れわれの深‑喜びに堪えざる処である。
学生会はここに晩々の声を挙げ'さらに前途に発展を試みんとす。吾人は学術部および運動部が共に誉れある成果
‑ 153‑
を挙げんことを期待する‑‑」
奥村鶴苦学生会長の挨拶が終了する寸前、「にわかに陽光赫々たり'人皆勇み立ちて競技に入る」と当時の記録は
伝えている。
もっとも、その後しはら‑して雨に見舞われ、泥人形の運動会になってしまったので進行を中止し'ビヤホールで
祝盃をあげながら雨宿りとシャレ込み'日を改めて九日に再び運動会を続行した。
景品は盛沢山で'金牌二個'銀牌三十六個、英国製のオーバーコート'その他豪華賞品が揃っていたから出場者の
競争心が余計にあおられたのであろう。
なお、この少し前、十月二十七日午後七時から東京歯科医学専門学校同窓会の臨時総会が開かれ、校名変更に伴う
同窓会名変更および組織改変の事後承諾を求める件が可決された。学生会の発会式前に処理しておかねはならぬ事項
であった。
ところで'当時の記録からは学内で専門学校昇格の祝賀会を開いたという記載は見当たらない。学生会発会式がこ
れを兼ねていたのかも知れないが、不思議の感を今に残している。
この学生会の発会に先立つ半年前、東京歯科医学院同窓会は'明治四十年四月八日午後一時十分から第十三回総会
を開催した。
この第十三回総会は同窓会が院友会や歯科協会時代とは異なって'親睦'時事問題の研究等を必ずしも優先せず、
学会活動に本格的にとり組むことを決意し、転進を開始した記念すべき会であった。血脇会長は開会の辞の中で「今
年からは純然たる学会の体裁に改め諸君と共に発展せん」と演説した。
‑ 154‑
この措置は、東京歯科医学院がやがて専門学校に昇格することを予測してへ学術研究の発展をいっそう計ろうとい
う主旨に基づいてとられたものであるが、その年の九月十二日文部省が専門学校設置を認可したので'十月二十七日
の臨時総会で校名改称に伴う同窓会名の変更および在学生を同窓会員籍から除く件が承認された。
しかしこの1年間は学校の方も多事多端であったため'軌道にのり始めたのは翌年の総会からであった。
第十四回総会は明治四十一年五月十日午前九時から開催され'会員、来賓百会名、傍聴学生二百余名を前に、これ
からの同窓会のあり方を血脇会長は次のように説明した。
「是ヨリ第十四回同窓会総会ヲ開キマス'規約ニヨリマス‑本会ハ去'四月二開クべキ筈デアリマシタガ'本年ハ此
学校ノ増築工事ノ延引致シマシタ為ニ'予テ御断り致シタ通り本日二延期致シタ訳デアリマス。本日ハ北ハ北海道ノ
札幌'青森県、長野県'西ハ京都府ナドカラ態々御臨席ニナリマシタ会員諸君モ御座イマス'其御熱心ナル点二就キ
マシテハ私共係リノ者一同ガ深ク感謝致シ'深ク光栄卜致ストコロデアリマス。元来此同窓会ノ総会ハ亜米利加ノ学
校デハ﹃アニュアル‑1ティング﹄トカ申シマシテ、毎年一回同窓ノ老ガ集ッテ互二研究シタ成績ヲ発表スルトカ'
或イハ討論ヲスルトカ云フ一ツノ研究機関努々親睦ノ楼関ガアルノデアリマス。我日本ニオキマシテハ伝染病研究所
同窓会卜云フノガアル。之レハ単二懇親会的ナモノデナクシテ立派ナル学術ノ研究団体トナッテ居リマス。我学校ノ
同窓会モ幾多ノ変遷ヲ致シテ居リマシタガ、段々準備が出来マシタノデ、昨年ノ定期総会ヨリ一種ノ学術的研究団体
卜致シテ毎年一回同窓ノ老ガ寄集ッテ互二研究シ合ッタトコロヲ発表スルトカ若クハ討論ナドヲ致シ、又重ネテ此機
会ヲ利用シテ東西南北二散在シテ居ルトコロノ同窓ガ集ッテ昔話ヲ談リ合ウト云フ組織二致シタノデアリマス。昨年
ハ其改正ノ第一回総会デアリマシテ多少‑多少卜云フヨリハ大イニ不行届ノ点ガアリマシタガ'本年ハ校舎ノ増築
モ完成、昨年ヨリハ多少‑モ進歩シタル総会ヲ開クコトガ出来ルダロウ‑考へテ居リマス。殊二会員諸君ノ御熱心ナ
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いささル非常二遠方ノ土地カラ態々御出席下サレタ方々ガへ大分御見ユニナリマス。ココデ互二研究ノ結果'脚力此歯科社
会二貢献スルコ‑ヲ得てシタナラバ、膏二吾々同窓ノ者バカリデナクシテ全体ノ吾々社会二於テ相当ノ利益ガアルデ
アロウト感ジテオリマス。本日ハ来賓並二会員諸君ノ有益ナル御話﹃ク‑ニック﹄﹃デモンストレーション﹄其他ノ
珍ラシキ陳列品モアリマスルノデ'ユルユル御聴取リ又御1覧ヲ願イトウ存ジマス。例ニヨ‑マシテ昨年度ノ報告ヲ
致シマシテ新役員諸君ヲ推薦致シタイト存ジマス‑・⊥
このような学会形式は第十三回総会の時にも採られていたが'第十四回ではそれをもっと徹底した形で行なった。
もっとも学会とはいっても、当時の学会は'いゆある研究発表専門の会ではな‑'歯科界の先進者による啓蒙講演が
主体となっていた。
この会では'商社の展示も行なわれたから'現在の学会とほとんど同じ形式で運営されたわけである。
同窓会のこのような運営形式は、大正十四年の十一月一日の第三十回総会までほとんど同じ形で踏襲された。
なお、学会が終了すると引き続いて同窓懇親会が開かれるのが恒例で、後には料亭が利用されることもあったが、
この日は'第一教室で盛大な立食パーティーが開催された。
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