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日本統治下ミクロネシアへの移民研究-近年の研究動向から-: 沖縄地域学リポジトリ

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Author(s)

今泉, 裕美子

Citation

史料編集室紀要(27): 1-22

Issue Date

2002-03-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7687

(2)

史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002)

日本統治下 ミクロネシア-の移民研究

-近年の研究動向か

ら-今泉 裕美子

は じめに

南洋群 島-の移民 (以下、南洋移民) に関す る研究の多 くは、 日本 では、 1980年代 に南 洋群 島統治研 究の一環 として始 まった。 こ うした研究動向は、 日本のほかの植 民地圏-の 移民研 究が、植 民地 にお ける軍事 ・外交、植 民政策、現地民族運動、資本輸 出、金融な ど の研究 に先導 され る形で始まった ことを考 えた とき (岡部 。柳沢,2001:130-131頁)、南洋 移民研 究のひ とつの特徴 を示 している といえる。それは、南洋群島統治の支配構造の解 明 には、移民研 究が当初か ら重要な分野 として分析対象 にあがっていた ことである。 海外 では、 とくにアメ リカで、第二次世界大戦期 の軍事戦略的な地域研 究、お よび戦後 ミクロネ シア信託統治支配 に関連 して、 日本統治時代の資料収集、調査 、分析 がお こなわ lい れ、南洋移 民 は現地社会分析 の-対象 として取 り上 げ られた。 1980年代、アメ リカ本 土 で 日本 の植 民地支配が 「植 民地帝国」なる枠組みで総合的に研究 され始 めた際に、南洋群島 支配や南洋移民の研 究が行 なわれ ている (Myers, 1984)0 近年 の南洋移 民研 究は、社会学 、人類学、建築学、都市研究、環境学 な ど新 たな専門分 野 において、また国内外 の研 究者 が取 り組み をみせ 、着実 に増 える傾 向にある。研究が増 (2) えた背景のひ とつ には、植 民地研 究、移 民研 究の活発化 があ り、 とくに国民国家論や ポ ス トコロニア リズム研究が興隆をみせ るなか、南洋群島が従来の植民地研究の空 白部分 で あるこ とに加 えて、 「南」 とい う場やそ こにすむ人 々が地理的、空間的 「辺境」 にある と い うことについて、また 「境界」 を捉 えなおす対象 として関心 をひきつ けてい ることも指

IMAIZUMIYumiko:A SurveyofEmigrationtoMicronesiaunderJapaneseColonialRule.

(1)人類学の分野では、CoordinatedInvestigationofMicronesianAnthropology (CIMA)が組織され、 調査を進めた (Kiste&Marshall,1999)0

(2)近年の移民研究の動向については、木村健二氏 (木村,1993)、移民研究会 (移民研究会,1994)、 阪田安雄氏 (阪田,1999)、柳沢遊民 (岡部 ・柳沢,2001)の論稿を参照。

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(3) 摘 で き よ う。 さ らに、 1990年代 の 日本 の事情 をみれ ば、 日本 が 旧植 民地地域住民か ら戦 後補償 問題 に加 えて 「植 民地支配責任」 をあ らた めてつ きつ け られ た こ とも、研 究 を促す 契機 とな った よ うに思 う (今泉, 2000)0 一方 、南洋群 島へ移 民 を多 く送 り出 した地域や その行政機 関、引揚者 や その親族 、関係 (4) 者 た ちを中心 に、体験 を記録 す る動 き も 目立 って きてい る。 た とえば南洋 群 島在住 日本 人人 口の半数以上 を 占めるほ どの移 民 を送 り出 した沖縄県では、県市町村 字 レベル の歴 史 (5) 編纂 事業で、南洋移 民 にあ らた めて取 り組 み始 めた。沖縄 県では、移 民100周年事業や 、 世界 の ウチナー ンチ ュ大会 開催 な どが追い風 ともな り、近年 、海外移 民 に関す る歴史編纂 事業 が活発化 してお り、南洋移 民-の取 り組 み もこの動 きの一環 として位 置づ けるこ とが で きるO しか も南洋移 民 は、従来 もっぱ ら沖縄住民の 「戦争 体験」 の一部 として戦時の証 言 が取 り上 げ られ て きたが、渡航 までのプ ロセ ス、仕事や くらし、引き揚 げ、戦後の生活 、 については必ず しも十分 に取 り上 げ られ て こなか ったため、 これ らについ ての記録化 が進 め られ てい る。 以上 の よ うに近年 は南洋移 民研 究、記録化 が盛 んにな りつつ あるが、 日本 の植 民地 圏へ の移 民研 究 の蓄積 をみた とき、南洋移 民の研 究はいまだ初期 的段 階にある と言 わ ざるをえ ない。それ は、そ もそ も戦後 日本 の植 民地研 究では、南洋群 島が ほ とん どその対象 に され て こなかった ことに加 えて、南洋移民研 究が、従来移 民研 究で議論 をつみ か さねてきた諸 論点 に正面か らと りくんで こなか った ことに原 因があるよ うに思 う。 とくに、移民政策 と 移 民現象 との相互規定的 な関係 を、歴 史過程 のなかで実証的 に追究 しつつ 、植 民地支配 の 中に位置づ ける とい う研 究 がいまだ不十分 なのである。換言すれ ば、政策 とい うマ クロ レ ベル に視 点 を据 えた分析 と、移 民の仕事や くらし、支配の内面化 、な どの ミクロ レベル に (3)たとえば、オセアニアにおけるオ リエンタリズム形成の歴史と現在を考察 し、オセアニア理解や オ リエンタリズムに関する議論の深化をめざしたものに 『オセアニア ・オ リエンタリズム』(春 日, 1999)がある。 (4)移民体験の記録化は戦後行なわれてきたが、 1990年代以後、移民 した世代の子の世代が中心とな り、個人、引揚者親睦団体、戦前の所属団体などの単位で体験の記録化にあらためて取 りくんで いる (伊礼,1990)、(沖縄ロタ会,1990)、(川上,1994)、(サイパン会誌編集委員,1994)、(沖縄テ ニアン会記念誌編集委員,2001)0 (5)県の行政機関で移民を体系的にとりあげたものとして、『沖縄県史』(沖縄県教育委員会,1974) をはじめとして、ここ数年、移民関連の刊行物が相次いで発刊 されている (金武町史編 さん委員 会,1996)、(北中城村,2001)、(西原町史編集委員会,2001)、(沖縄県文化振興会公文書管理部史 料編集室,2002)。また、地元の刊行物として 『新沖縄文学』が「総特集 ・移民編」No.45 (1980年)、 「もうひ とつの戦争体験一台湾 ・フィリピン 。南洋群島」No.84 (1990年)を、『け- し風』が 「特集 :旧南洋群島のウチナーンチュ」第32号 (2001年9月)、を取 り上げた。

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史 料 編集 室 紀 要 第 27号 (2002) 視点 を据 えた分析が 、相互の関係性 を追究 しつつ、 日本統治下の南洋群島の全体像 を照 ら (6) し出す作業に必ず しも向か っていない、 との印象は否 めない。 しか しその一方 で、南洋移民 を取 り扱 う方法論が多様化 した ことや、南洋移民 とい う研 究対象が もつ性格一 第一次世界大戦期以後の現象であること、 日本 の南方進 出政策 との関 連、委任統治 とい う制度 下-の移民であること、移民による在住 日本人人 口が現地住民人 口の約2倍 にものぼった こと、 日本人人 口の約6割 を沖縄 出身者 が 占めた こ と、な ど一 に、 従来の移民研究では必ず しも十分 には意識 されて こなかった視点や方法が提起 されている ことも見逃せ ない。 そ こで本稿 では、南洋移民 を扱 う近年 の研 究について、移 民政策 と移民の実態それぞれ に関す る議論 を とりあげる。そ して、南洋移 民を移民政策 と移民現象 との関係性 において 把握す ることで明 らかになる事実や論点 を整理 し、今後 の研究の方向性 を展望す るための 準備作業 としたい。 なお、南洋移民を扱 った近年の業績 には、植 民地都市研究、建築学、 地方 自治体による編纂物、個人 による記録、ルポル ター ジュな どがあるが、 これ らについ ては必要に応 じて言及す るに とどめ、以上のよ うな業績 を含 めた南洋移民-の取 り組みに ついては稿 を改 めて行 な うこととす る。

1

南洋庁の移民政策

南洋庁の移民政策 については、海軍統治期お よび南洋庁統治期 の南洋群島政策 のなかに 移民政策 を位置づ け、また南洋興発㈱ の事業 を南洋庁の拓殖事業の一環 ととらえて同社 の 移民事業 を分析す る もの (今泉 1991, 1993, 1994a, 1997b,2001a)、南洋庁 のパ ラオ支庁 内に設 け られた 「指定 区画移住地」-の政策 を分析す るもの (高村,1998)が ある。 これ ら論文 には、南洋興発㈱の移民事業 を南洋庁 の移民事業 と独立 した もの としてみ るか、否 かについて対照的な立場が示 され る。 日本人移民の出身地別 の政策 については、 もっ とも 人 口比率が高かった沖縄 出身者 についての分析がある (Peattie, 1986;今泉,1992)0 1- 1 南洋庁 と南洋興発㈱の移民政策の関係性 (6) たとえば南洋群島統治、南洋移民研究の先駆的な業績 として位置づけられてきた矢内原忠雄 (1893-1962)の諸研究を引用する研究は多いが、氏の帝国主義史研究、植民及植民政策研究とし ての方法論をふまえてこれ らを批判的に発展させ、かつ新たな実証研究を付け加えてゆく作業は、 いまだ充分に行なわれていない。

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今泉 は、海 軍統治期 (今泉,1991)、海軍 か ら南洋庁- の移行期 (今泉, 1993)、そ して 南洋庁統治期 (今 泉, 1994a) とそのなかの戦時体制期 (今泉, 1997a,2001a)それぞれ の時期 の政策分析 か ら、 日本の南洋群 島政策 の基軸 とな る方針 としてつ ぎの三点 を指摘 し、 これ ら方針 との関連 で南洋興発㈱ の成立 と移 民政策 を分析 した。 その方針 とは、第一 に、 南洋群 島を 日本 の経済的南方進 出の拠 点 とす ること、第二 に、対米軍事戦略上 の要地 とし て活用す るこ と、第三 に、南洋群 島の 「領 土化」を進 め ること、で ある。そ して移民政策 を 節-、第三の方針 に関わ るもの として分析 した。つ ま り、南洋群 島への 日本人移民の招致 とは、統治機 関の財源確保や 開拓 のた めの地場産業構築 に労働力 を投入す ることに加 え、 日本人勢力 を扶植 し、 日本 の支配基盤 を作 り出す こと、そ して、 日本 の支配 圏の最南端 に 経済的な南方進 出のた めの人的資源 を確保 し、訓練す ること、であった とす る。 つ ぎに南洋興発 ㈱ と南洋庁 との政策的関連 について は、そ もそ も製糖業 が海軍統治期 に 海軍 によって導入 され 、拓殖事業 のなかで最 も有望祝 され、保護政策 もとられ ていた分野 であった とい う背 景か ら説 明 され る。 しか し、海軍統治期 の製糖業 は、つ ぎの よ うな要因 か ら失敗 し南洋 興発㈱設 立 に向か うことにな る。 それ は、海 軍の企業任せ の放任主義や楽 観 主義 、保護 監督 の不徹底 に加 えて、製糖業の素人が事業 を行 なっていた ことである。 し たがって、南洋庁移行期 には政府 内で調査や議論が な されていたが、東洋拓殖㈱が南洋群 島での移植 民事業 に積極 的な意 向 を示 して調査 を行 い、南洋興発㈱設立 に至 った ことを明 らかに した (今 泉,1991:13頁)0 委任統治 の時期 については、政府側 と南洋興発㈱ との関係 について、海 軍 との関係 (今 (7) 泉,1993:72頁,80頁 注 (43)、南洋庁による多方面にわたる保護政策 を具体的に示 し なが らその政策 的 関係性 を指摘 した (今泉,1992:1391145頁,1997:66168頁)。また、国 際連盟 での移 民政策 に対す る評価 については、常設委任統治委員会が南洋群 島-の 日本 人 移 民大量招致 を現地住民の福祉 向上 を損 な うのではないか と懸念 したが、 しか し、 日本政 府 は移民政策 を隠匿せず 、む しろ委任 統治 の業績 に通 じるもの として次の よ うにア ピ-ル した ことを、委任 統治審査 の議事録 を もとに明 らかに した。す なわ ち 日本 は、 日本人労働 力 の大量投入 に よって、南洋群 島経済 の急速 な発展 、現地住 民-の間接的 な福祉 向上 を指 摘 し、 日本人移 民招致の必要性 、正 当性 を主張 したのであった (今泉,1994a:30-34頁)0 (7)ただし、政府 と南洋興発㈱が終始密接かつ良好な関係にあったわけではない。たとえば、南洋興 発㈱の蘭領ニューギニア事業にみるように、 日本の外交政策上、欧米 との間に摩擦を生み出しか ねない事業展開や松江初代社長の南進-の積極的な言動、あるいは南洋庁の頭越 しに海軍と接触 したことは、政府側 と少なからず摩擦を生じていた。

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史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 戦時期 の移 民政策 については、1935年 と1940年 の 「南洋群島開発調査委員会」の方針 を 比較検討 し、つ ぎの よ うな政策 を明 らかに した。それ は、1935年 には南洋庁 が製糖業以外 の分野 について積極 的な拓殖事業 を開始 し、移民の積極的招致 を掲げた こと、そ して南洋 拓殖㈱の設立 とその役割 に期待 したことである。 しか し、1940年 にはこれ ら政策 が期待通 りには実現 され ず、また 日中戦争 開戦後 の時局 の変化 か ら、 「東亜新秩序」建設 のた めの 「南方方策」、統制経済政策 との関連 で南洋群 島政策が再検討 され 、南洋移民 は労務需給 調整 の対象 となった ことを明 らかに した (今泉,2001a)。南洋群島での地上戦 が 「玉砕」 とい う事態 を生み 出 した ことについては、海軍 の軍事政策 を背景 に、大政翼賛会、南方挺 身隊、隣組組織 、教育や宗教政策 を取 り上 げる一方、南洋移民が政府や軍か ら防衛の対象 とみ な されていなかった こと、また移民たちは 「海 の生命線」 を守 る大 日本帝 国臣民であ ることに活路 を見出 さざるを得 ない者 たちであった こと、な どか ら説明 した (今泉, 1997 a)0 一方 、南洋 庁パ ラオ支庁 内バベル ダオブ島に設 け られ たガル ミスカ ン植 民地 を対象 に 「植 民区画移住地」を分析す る高村聴史氏 (高村, 1997)は、南洋群 島への移民 を 「企業移 民」 と「南洋庁移 民」に二分 して分析 し、南洋庁が移民政策 に 「消極的」であった と結論づ ける。 「企業移民」 とは、南洋興発㈱な どに 「雇用 され」 る 「労働移民」であ り、「個人が 直接 土地 の貸付 けを受 けるわけで も、 自作農 になるわけで もなかった」 ことに特徴 を求 め、 「南洋庁移民」 とは南洋庁 の 「植 民区画移住地」-の移民 と定義す る (同上論文,5頁)。 こ れ ら移民 を二分す る基準は、南洋庁 の関与が 「直接」であるか否か、す なわち 「庁行政 を直 接 的 に反 映す る」か否 か、 にあるとす る (同上論文、6頁)。そ して、南洋庁 のつ ぎの よ う な姿勢 に移民政策- の消極性 を指摘す る。その第-は、 「南洋庁移民」には入植許 可を得 る うえで厳 しい条件 が課 された こと、第二は、南洋庁が移 民招致 に何 ら適 当な保護手段 を と っていなかった こと、である。そ して、 これ らの対応 の理 由は、委任統治制度 の もとで国 際連盟 に報告す るため、 日本人 の定着、定住、土地所有の伴 う農業移民を公然 と招致す る ことに消極的 にな らざるをえなかった ことにある とみ る (同上論文,12頁)0 本論文 は、 これ までの南洋移民研究 において手薄であった南洋庁の 「植 民地 区画移住」を とりあげることで、南洋移民の多面的な実態、南洋庁 の農産体制 を明 らかに しよ うとした。 南洋群 島の主要 な商品作物 のひ とつ となった鳳梨 について、南洋庁の区画移住地での経営 を平時か ら戦時体制-の推移 のなかで分析 し、南洋庁、企業、移民の動 向をあ とづ けよ う とす る試みは、南洋群島における拓殖政策の実態 を描 き出す うえで不可欠な作業である。 l+Ill た とえば、南洋庁 の 「植 民地 区画移住」-の対応 が、 「試行錯誤 の域 を出ず、場辺 り的、 暫定的」 (同上論文,21頁)であった との評価 に至 る分析 は、 「植 民地区画移住地」は外商

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洋進 出のために南洋群 島を開拓実験地 として活用すべ きとの方針実現 とはなった ものの、 南洋庁 は経験やデー タを蓄積す ること以上の 「経営」 とい う点で及び腰で あ り、砂糖以外 の商品作物生産体制構築 には、必ず しも積極的ではなかった ことが明 らか に されてい る。 また、1930年代後半か ら、 「植 民地 区画移住地」が 「開拓農村」か ら 「食糧基地」- と変 化 した ことについての指摘 は、海軍統治期 に提 出 された海軍の報告書にお ける議論、た と えば、パ ラオ諸 島 を戦時の軍用食糧 自給基地 として活用すべ きだ との議 論 (今泉, 1994 b)に照 らす と、興味深 い。 しか し、本論 の前提 をなす移 民の二分法 には、南洋庁 と南洋 興発㈱の移民政策 が区別 され るべ きで ものであるとい う論拠が説得力 をもって示 されてお らず、た とえば、政策決定者がその政策の直接 の実施者 には必ず しもな らない ことや、南 洋興発㈱下の 「小作人」の土地 との関係や定着 をめ ぐる実態な どをみて も、二分法の有効 性 には疑問が残 る。 1- 2 沖縄 出身移民への政策 沖縄 出身移 民- の政策 については、M.良.Peattie氏の研究 (Peattie,1984,1988) と今 泉 の研 究 (今泉, 1992,1997)を と りあげる。 Peattie氏 は、海 軍統治期 と南洋庁統治期 の移民政策 に言及 し、前者の時期 には、政府が 戦略的な利害 か らしか南洋群 島に着 目していなかったため、移民受 け入れ に積極的に対応 していなかった とす る (Peattie,1988: 155)。 そ して、南洋庁 の移民政策 については、南 洋庁が南洋興発㈱ と同 じ立場であった とい う点 を指摘す るに とどめ、南洋興発㈱の事業 を 通史的 に紹介す ることで説 明す る。 同書 は、明治期 か ら第二次世界大戦敗戦 までの60年間を対象 に、 日本人の ミクロネ シア 進 出を描 き出 した大著で あ り [なお 同書の要約 が (Peattie, 1984=)]、 「遠 く離れ た孤 島に お ける、精力 的 で、進取 の気性や起業者精神 に富んだ 日本人 の興 隆を描 き出」 (Peattie, 1988:xvii) そ うとした ものである。南洋庁統治期 については、政治経済分析 よ りも、植 民地社会 、医療 ・衛生、環境 、集落の形成、建築物な ど日本人の活動 を諸側 面に 目配 りし (8) つつ叙述す る手法 が とられ る。移民政策 は、松江春次 『南洋 開拓拾年誌』 (1932年) を中 心 に、南洋庁 の公 刊史料 の ごく一部 を断片的に組み合 わせて描かれ るため、南洋興発㈱が (8)ちなみに現地住民については、勤勉でエネルギッシュな日本人とは対照的な存在として描かれて お り、統治に抵抗する意思も力を持たない、さらに日本による支配の経験も泡沫の夢のようにし か記憶 していないお人よしな人々、として描き出されている。同書の概要は、 日本でも相次いで 翻訳 され (Peattie,1992,1996)、日本内外の学界、言論界で 日本のミクロネシア統治に言及する ものは、同書に依拠 して議論を展開するものが少なくない。

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史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 南洋庁 の移民政策 を一方的に牽引 してい くよ うな叙述 となるO さて、沖縄 出身者 については、彼 らが契約 を破 った り、 よ り儲 かる楽な仕事 に移動す る ことか ら、1941年 に南洋庁が導入 を拒否す るに至った ことを紹介す る。 この南洋庁による 沖縄 出身者移民-の政策 は、GeorgeKerr(Kerr,1958)の議論 に依拠 し、琉球処分以来の 沖縄県 にお ける本土出身役人 による沖縄 出身者差別 と同 じ文脈 で説明 され る。1941年 をも って、南洋庁 の20年 にわた る沖縄 出身者 の受 け入れ積極政策 が転換 した と考 える Peattie 氏 は、 これ を従来指摘 され ていなかった事実 として強調す ることか ら (Op.°it.:339, Notes52)、以下二点 についてやや詳細 に検討 を加 えたい。 その第-は、分析 に用いた資料が南洋群 島全域 を対象 とした ものではな く、南洋庁がパ ラオ諸 島バベル ダオブ島に設定 した 「指定区画移住地」について言及 した ものだ とい うこ とである。 この移住地に沖縄 出身者が少 ない ことは事実であるが、本資料 を事実 として提 (9) 示す るに も、資料の性質上、南洋庁の移住地政策 に関す るさらなる裏づ けが必要であろ う。 そ して第二は、仮 に南洋庁が南洋群 島全域-の沖縄 出身者移民の導入 を手控 えた として も、 その理 由を、彼 らの労務状態が南洋庁か ら低 く評価 された ことにのみ求 めることの妥 当性 である。 この時期、南洋群島では軍関連施設建設や食糧増産 に労働力 を欲 してい る状況に あ り、一方 、内地 (この場合 は沖縄 県 も含む) で も戦時統制経済下で労働力動員 に躍起 と なっていた。沖縄県では、1940年 に県 内労働力 の払底 と徴兵猶予者 の増加 か ら、南洋移民 に 「禁足令」を出 してい る (1940年 11月2日付 『琉球新報』)。戦時統制期 の南洋移民政策 に ついては、いまだ政策や実態の把握が不十分 であ り、 さらなる検討 を要す るが、同時期の 沖縄 と南洋群 島の戦時統制経済の実態 をつ きあわせて考察す る必要があ り、沖縄 出身者-の差別 とい う文脈 でのみ とらえることは、政策の一面を捉 えたにす ぎない とい えよ う。 (9)資料の一つは、南洋庁が 「一般沖縄人には先づ植民地農家経営の能力なしとみた」ことから区画て l,I 移住地より 「暗に之(引用者注 :沖縄人)を排するの策をとったものゝ如 くであ」 り、「その原因の -はその生活様式か ら来るものが主たる点 と見受 けらる丁 .' ゝ」 とい うものである (著者不明 「沖縄人の入植排せ らるる」南洋経済研究所編 『ガルミスカン川を潮 りて』南洋資料第327号,南 洋経済研究所,1943年 10月,10頁)。今ひとつの資料は 「朝日村開拓古参者」安田勝男による談話 で、指定区画移住地では

沖縄県人が開拓や農業に専念せず、炭焼きなどをして 「二重生活みた いにやる人」がいるため、「昭和十六年末でしたか南洋庁では徹底的にこれを放逐 してしまった」 結果、移住地のひとつアイライ (瑞穂)村以外には沖縄県人はみられなくなった、というもので ある (南洋経済研究所編 『パラオ朝 日村建設座談会記録』南洋資料第259早, 南洋経済研究所、 1943年8月,44-45頁)。なお、後者の資料についてPeattie氏の注 (Peattie,1986:339,Notes52) は、南洋資料第277号、すなわち南洋群島経済研究所 『内南洋方面先覚者物語』南洋経済研究所、 1943年,44-45頁、をあげていたが該当箇所がなく、しかし上記の第259号資料には存在 したため、 Peattie氏の誤記と考えてこれを用いた。

(9)

次 に、今泉 の沖縄 出身者政策 に関す る議論 は (今泉, 1992)、南洋庁が、統治の対象 を 現地住民 と日本人 にわけ、前者 を 日本-の同化 の対象 とし、後者 を現地住 民を 「啓発」す る模範 とな るべ き開拓移住者 と見てきた ことに対 して、沖縄 出身者 は必ず しも 日本人の範 (10) 暗 に入れ られていなかったのではないか、 との視点か ら分析 を進 める。そ こで、南洋興 発㈱ の経営初期 にお ける沖縄 出身者-の政策 を、沖縄 出身移民によるス トライキに焦点 を あてて分析 し、南洋庁、南洋興発㈱ に 日本人一般 とい うよ りは沖縄 出身者 ゆえの対応があ った とした。 しか し同論文では、南洋庁や南洋興発㈱ の対応 が沖縄 出身者 ゆえの対応 なの か、労働者 一般への対応 なのか、がいまひ とつ明瞭ではなかった。 この点 について後年発 表 され た論文 (今 泉, 1997b)では、沖縄 出身者 たちが労働 問題 を 「沖縄 問題」 として捉 えた こと、また沖縄県人会 な どのス トライキ支援 を示す資料の分析か ら、南洋群 島社会の 沖縄 出身者 が抱 え込ま ざるを得なかった問題 を南洋庁や南洋興発㈱ との関係 において明 ら かに した (本論文 については 2- 2を参照)0 以上の諸研究にみ るよ うに、政府 の南洋移民政策は、海軍統治期以来の南洋群 島政策分 析 を通 じて明 らかには されたが、1930年代 の とくに後半以降、統制経済か ら戦時、敗戦時 にいた る分析 はいまだ手薄である。 また、移民の進 出先の産業 については、本稿で取 り上 げた高村論文のほかには、いまだ南洋興発㈱や、製糖業の発展 したサイパ ン支庁に研究が 集 中 してい る傾 向にある。南洋群 島経済 において研究がいまだ不十分な領域 をあげる と、 南洋庁 「植 民区画移住地」諸地域 にお ける実態、 コプラ、タピオカな どの農業、鰹 ・鮪、 Hll 真珠貝、高瀬 貝な どの水産業、燐鉱石やアル ミニ ウムな どの鉱業、建築材 ・樹木繊維 の 材料 を採取 した林業、そ して これ ら分野-の企業進 出、 さらに移民を含む在住 日本人 を対 象 とした商業がある。上記 の諸産業の展開が、南洋群 島政策、すなわち委任統治制度や現 地住民政策 との関係づ けのなかで明 らかに され、また各支庁 (あるいは島喚) ごとの政策 展開の実態分析が行なわれ るなかで、南洋移民政策が明 らかに され る必要 を指摘 したい。 さらに、製糖業が南洋群 島経済の中心的な位置 にあ り続 けた ことは確かであるが、その比 重が他 の産業の発展 との関係 において どの よ うに変化 したかを分析す ることも必要であろ う。 各産業の分析 について付 け加 えれば、た とえばパ ラオの漁業の場合、沖縄 出身漁夫 を中 心 とした小規模 な漁業経営の競合 と組合設立、 ここ-の南洋興発㈱進 出 と漁民 との対抗 関 (10) なお、沖縄出身者の意識に視点をすえ、現地住民を啓発すべき 「日本人になること」をプロレ タリア化 との関連で分析 したものに、冨山一郎氏の一連の業績がある (冨山,1995,1996,1999)0 (ll)南洋群島の鰹節製造については高村聴史氏 (高村,1999)による研究がある。

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史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 係 、またパ ラオの水産業 と トラックやサイパ ンのそれ との相違 、南洋群 島水産業 としての 統括、 さらに内地漁業 (静 岡な ど主要な漁業地や漁夫 の出身母相 にお ける漁業) との関係 (t2) が明 らかに され る必要があろ う。 これ ら南洋群島の諸分野、諸地域 の拓殖事業が、南洋 群 島経済を どの よ うに成立 させたのか否か、を踏 まえ、南洋興発㈱ 、南洋拓 殖㈱や中小の 企業 との関わ りをみてゆ くことは、移民の個 々の動 きをみ る うえで、また、移民政策 の全 体像 を明 らかに して ゆ くうえで不可欠 な作業である。 移 民政策は しか し、政府側 の一方的な政策決定によるものではな く、む しろ、移民、そ して移民 を送 り出す地域 との相互の関係 のなかで成立す る。つ ぎに、移民の側 に視点 をす える研究か ら、移民政策 との関係 を把握す る うえでの論点 をみてゆきたい。

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南 洋 移 民 の実 態 本章では南洋移民 として故郷 を離れ る動機 、流出形態、現地での労働 、生活 、集団形成 な ど、移民の側 に視 点を据 えた研究 を とりあげる。 南洋移民は、その本籍別構成 を多い順か らみ ると、沖縄県、東京府 (お もに八丈島、小 笠原諸島)、福 島県 、山形県の出身者 が多かった。 また戦時にな ると、軍施設建設要員 と して移民の形態 を と りなが ら朝鮮半島の人々が大量に招致 され ている。南洋移 民の実態研 究では、出身地域 を単位 に分析 され る傾 向にあ り、後述 のよ うに沖縄 出身者 が取 り上げ ら れ ることが多い。 これ ら研 究に先駆 けて、聴 き取 りに基づ くル ポル ター ジュが数多 く発表 され てきた こと について触れてお きたい。南洋移 民のル ポル タージュは、本人 も含 めて親族 に南洋移民 を もつ ことか らこのテーマ に取 り組 んだ ものや、必ず しも直接的には ミクロネ シアに関わ ら ない問題-の取 り組 みか ら南洋移 民に関心が及んだもの も少 な くない。 これ らルポル ター ジュには、南洋移 民 を彼 らが生 きた時代の 日本 を照 らし出す存在 として、また戦後 日本が 抱 え込んだ諸問題 に とりくむ うえでの よ りどころ となるべ き体験 をもつ存在 として、 とら えてゆこ うとの関心が看 取 され る。 お もな ものをあげ ると、 自身 も含 めた親族やその知人たちの移民体験、 とくにサイパ ン 島や南洋興発㈱下での労働 に焦点をあて、沖縄 出身者 が抱 え込んだ問題 を指摘 した赤嶺秀 光氏 (赤嶺, 1978, 1984,2001)、東 京大空襲 を記録す る取 り組みか ら、サイパ ン島の南 (12) 「南洋漁業」および沖縄の 「南洋漁業」については片岡千之助氏 (片岡,1991)、上田不二夫氏 (上田,1991)、の研究がある。

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洋興発㈱ の経営 とその もの とで沖縄 出身者 によるス トライキを扱 った鈴木氏 (鈴木, 1978, 1979, 1993)、 山形県か らのサイパ ン移民に焦点 をあてた野村進氏 (野村, 1987)、宇都 宮の第十 匹師 団歩兵第59連 隊の南方派遣 に関連 してパ ラオ移 民 を取 り上 げた滞地久枝氏 (揮地, 1990)、反戦 。反基地運動 を戦い抜いた沖縄 の農 民女性 の足取 りを南洋移民体験 か ら照射 しよ うと した平松幸三氏 (平松,2001)、鈴木均氏 とともに東京大空襲 を記録す る活動 か ら、爆 撃機 が飛 び立ったテニア ン島- の移 民 を と りあげた石上正夫氏 (石上, 2001)、な どが ある。 なかで も野村氏の著作は、 日本各地 の帰還者お よび現地住民か らの 聴 き取 りや 、文献史料 を駆使 し、海軍統治期か ら米軍 占領 下の収容所生活 にいたるサイパ ン移民の くらしを描 き出 した。 山形の起業家や農民個人の個人史 を機軸 としなが ら、山形 以外の移 民、現地住民 との関係 をも明 らかに しつつ、 日本 の南洋群島支配 の全体像 を描 き 出そ うとす る先駆 的な仕事 となった。一方、研究の分野では、沖縄 出身者 をとりあげるも のが圧倒 的に多い。

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移民の動機 および形態 南洋移民の動機 お よび形態は、沖縄県の移民、出稼 ぎ分析 のなかで とりあげ られている (13) ものがある。 本稿 では、沖縄移 民の動機 が 「自由意思」 に基づ くものであることに特徴 を見出す西原 文雄氏の研究 (西原,1991) と、近代沖縄 の労働力流出構造 を分析す るなか で、南洋移 民の流 出形態 を明 らかに した向井晴史氏の研究 (向井, 1993)を中心に、移民 の動機や形態 に関す る議論 とりあげる。 西原氏 は、沖縄 か らの移 民送 り出 しの 「社会的条件」 を分析 し、移民の形態 を満州事変 以前 と以後 、す なわち 「十五年戦争期」の二つの時期 に区分 し、南洋移民 を前者 の時期 の 移民 とす る (西原,前掲書)。す なわち、満州事変以前 の移 民一 中南米、ハ ワイ、南洋-の ■ママ 移 民- は、 「経済的事 由によ り、個 々人の 自由意志 に もとずいてな され た」 (同上書, 295 頁) ものである とし、満州事変以後の移民を 「経済的事 由もさることなが ら、 日本帝国主 義 の侵略政策 の一環 として、 占領地維持 のための 「人的資源」の確保 とい った侵略政策 を 補完す る役割 を担 わ された」 として、前者 とは 「趣 を異にす る とい うべ き」ことを主張す る。 そ して、満州事変以後の移 民を 「国策移民」 と呼び、満州移民 と 「南方移 民」 を対象 に分 析 を進 めた。 しか し、南洋移民 と南方移民が区別 され るのか、あるいは重複す るのか、は (13)沖縄の移民 ・出稼ぎの背景、送出地域を分析するものには安仁屋政昭氏 (安仁屋,1977)、金城 功氏 (金城,1980)、石川友紀氏 (石川,1980,1989)などがあるが、本稿では南洋移民を具体的な 分析対象 とした論稿をとりあげた。

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史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 明 らかではな く、また、 「国策移民」もお もに満州移民に焦点 をあてて議論 されているため、 この時期 の南洋移民 については南方移民の政策、実態 と関連づ けて今後、検討すべきであ る とい えよ う。 なお 、 「昭和期」の南洋移 民 を、西原氏 と同様 「南進 国策 にのった強力な 宣伝」 に基づ く 「南方移民」の範晴で とらえるもの として、安仁屋政昭氏の研究 (安仁屋, 1998)があ る。 7て さて、西原 氏が二つの時期 に区分 した基準は、 「自由意志 にもとずいて」いたか否か、ひ いては国策 を担 わ されたか否か、は、移民の意志 (あるいは動機) と政策 との関係 をど う とらえるのか、に関す る重要な論点であ り、満州移民 と南洋移民の動機や移 民 を とりま く 諸条件 を比較考察す ることが必要であろ う。 なぜ な ら、政府 の移民推進政策 の成功の鍵 は、 移 民 してゆ く人 々の 「自由意志」を どうひきつ け、吸上げてい くのか、にあ り、満州移民を みて も、昭和大恐慌以降貧窮化す る農民たちが、 よ りま しな生活 を求 めた こ とが、移民た ちに移 民政策 を受容 させ ることになったか らである。南洋移民の動機 につい ては、筆者が 聴 き取 りを したなかで も、貧 困を最大の理 由 としなが ら、起業心や 冒険心、共同体の束縛 やつ らい仕事 か らの解放、知識技術の習得 、徴兵忌避、な ど様 ざまあ り、それぞれの動機 がアクセ ン トをつ けなが らわかちがた く存在 している場合が多々み られた。 また これ ら動 機 には、時代 、出身地域 、世代、階層な どによって一定の傾 向 もみ られた。 したがって、 移民た ちの動機 が本人 を とりま くいかなる諸条件のなかで育まれたのか、を歴 史的にた ど る ことは沖縄 の社会経済状況 を照 らし出 し、なおかつ 、個 々人の 「自由意志」と「国策 を担 う」こ との重層 的な関係 を解 明す ることになるであろ う。以上 に指摘 した こ とは、実 は、 西原氏が論文 の冒頭 に掲 げた五つの課題設定のなかで提起 されてい る (同上書, 196頁)0 各項 目は重複す る内容 であるが、筆者 な りに上記 に指摘 した問題 をふまえて整理す ると、 ①移民政策の 目的 と、県民の反応、②満州 と南方-の移民の相違、すなわち陸軍の北進政 策 と海 軍の南進政策 それぞれ の下での移民の特徴づ け、③ 日本 の勢力圏拡大政策 と個々の 移 民 との重層 的な関係 の解 明、④ 日本 の勢力拡大政策 の時期 区分 とそ こでの移 民の位置づ け、⑤移民た ちの階層、出身地域 による特徴づ け、の必要性 である。 これ ら五項 目は、他 地域 の移 民研 究で もいまだ充分な分析が行 なわれてい るとは言い難 く、南洋移 民研究にお いて も追究 され るべ き重要 な課題 であるといえよ う。 移民 の動機 を 「自由意志」とす るか否かの議論 に関連 して、南洋移民 を 「客観 的に植民で あ り、主観 的 に移民 であった」 とみ る ものに石川朋子氏 の研 究 (石川 ,2001) がある。

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11い 「植 民」、 「移 民」 の定義 がな され ていないため、議論 の展 開か ら推測すれ ば、1930年代 後 半か ら 「南洋移 民 と "南進"が重 な り、その結果 "南進"の担い手 としての役割 をもつ こ とにな る」 との評価 があることか ら (同上論文:111-112頁)、"南進"政策 の担い手であ るこ とを 「植 民」、生活 のための南洋興発㈱-の渡航 を 「移 民」と捉 えた と考 え られ る。 こ う した把握 は、移 民 たちが政策 の担 い手 となった時期 を 「国策 の基準」以降 に設 定 した こと を除 けば、西原氏 と同 じ立場 にたっ ものである。南洋移民 を 「移 民意識 」か ら分析 しよ うと の試 み は、移 民政策 と移 民現象 との関係 を移民の側 か ら照射 しよ うとす る点で積極的な意 味 を もつ作業 であ る。 しか し、 「生活 の場」を提供 した南洋興発㈱ での生活 が戦場 に変わ り、 移 民が これ に 「巻 き込まれてゆ く」との認識 に基づ き、 「主観 的 には移 民で あった」との結論 が、 同社 の事業展 開か らのみ導 き出 され た こと (同上論文,112頁)、つ ま り 「移民意識」 を直接 の分析対象 としなかった こ とは、石川氏 の問題 関心 を必ず しも説得力 ある分析 に結 びつ けてい ない よ うに思 われ る。 南洋移 民 に関 して用い られ る 「移 民」、 「植 民」 の概念 に ついて は、当時の政府 諸機 関、知識人 ・文化人、企業や斡旋業者 、移 民 な ど、使 い手 によ る意 味 内容 の違 い を明 らか に し、移 民政策や移民の実態 とつ き合 わせ る こ と、そ こに政策 決 定者側 と移民す る側 の 「意識」 のズ レや一致がみ え、 「移民意識」が明 らかになるのでは ないかo また南洋移民 と一言 でいって も、性別 、世代、階層 、出身地域 、時代 に よって多 様 であ り、 これ ら多様 な側面か らみた 「移 民意識 」に どの よ うな特徴 があ るのか、それ が政 府 の南洋群 島政策 と南洋興発㈱ の事業展 開 との関連で分析 され る必要が あ ろ う。 つ ぎに、労働形 態 を分析 した向井氏 (向井,前掲書) は、1930年代 にフ ィ リピン移 民な (】5) ど海外移 住 が停滞 し始 めたの とは対照的 に、南洋移民が大 き く増加 し、30年代後半 には、 海外移 住 の総流 出者 のなかで南洋群 島の 「重要性 が決定的」 になった とす る。 その理 由に は、南洋興発㈱ の労務政策があった とし、海外 では労働者 として流 出 しな けれ ばな らなか (14)両者 について、分析対象を特徴付けるカテゴリー として用いる場合には、予めこれを定義する 必要が指摘 されてきた。たとえば、移民政策や民衆が置かれていた位置を捉えるうえで、移民本 人ではなく、渡航先を勢力圏である「殖民圏」、非勢力圏である 「移民圏」に区分する必要性を主 張したが木村健二氏は、現象としての 「植民」、「移民」を、戦前、戦後の政府、研究者などの議論 から分析 し、上記のカテゴリーについて次のようなことを明らかにした (木村,1993)。それは、 第一次世界大戦後に両概念が 「形式」 と 「実態」に区別 して用いられるようになり、「形式」にお いては勢力圏-の移住を 「植民」、非勢力圏-の移住を 「移民」に、また、「実態」では「植民」には 永住 と非人間的なものがあること、「移民」には永住 と出稼ぎがあること、そ して、「移民」、「植 民」は必ず しも対立しない内容 としても使われていたこと、である。 したがって木村氏は、「移民」、 「植民」はこれをカテゴリーとして用いるのではなく、対象 とすべき実態にそ くして分析べきだ としている (同上論文:8-10頁). (15) 海外 と植民地の双方を含む、とする。

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史 料 編 集 室紀 要 第27号 (2002) ったのに対 して、南洋群 島-は 「小作農」 として流出できた こ とが、沖縄 の農民を南洋移 民に駆 り立てたのだ とみ る。 この点は、ほかの海外移民に比べて南洋移民では女性の 占め る割合 が高い こと、昭和12年以降沖縄県農家戸数が減少 し始 めること、に も裏づけられ る とす る。 そ して南洋移 民 によって 「出稼 ぎ的流 出 とは異 なる挙家離村形態 を とる流出が可 能 となった」と結論づ ける。 南洋移 民の始原期 においては男子単身型 の移民 が多 く、のち に家族単位 の移民、あるいは家族の呼び寄せが増加 した ことはすでに指摘 されてきたが、 向井氏の研究ではこ うした移民形態の変化 が、1930年代の沖縄 の農家戸数 の実態か ら裏付 け られた ことになる。 沖縄県の南洋移民 については、県内の市町村別渡航者数 を示す信頼できる資料が限 られ ているが、南洋庁や外務省 な ど政府資料 には本籍別、男女別、年齢別 、 さらに南洋群 島の 出入 り者数 な どの統計がある。 そ して県援護課、引揚者団体な どによる戦前 、戦後引揚者 資料 も存在す るため、各 出身地域単位 で引揚者 に関す る悉皆調査 をすす めれ ば、 より実態 に近い数が把握できるであろ う。 また南洋移民は、 とくに1930年代後半か ら労働者の割合 が激増 し、彼等 の多 くが契約 をもたない労働者 であったことか ら、戦時統制期 における沖 縄 の南洋 向け労働力流出形態 、単身者 の流出形態が明 らかに され るべ き分野 として残 され ている。 2- 2 職業 ・生活 南洋移民の仕事や生活 の実態 については、移民受 け入れ に中核 的な役割 を果 した南洋興 発㈱ の移 民、 したがって同社 の中心的事業である製糖業が発展 したサイパ ン支庁 (お もに サイパ ン島やテニア ン島) を対象 とす るものが多い。 ここでは今泉 (今泉,1997b,1998 -1999)、飯高伸五氏 (飯高,1999)の研究 をと りあげる。 今泉 (今泉,1997b)は、1920年代後半か ら30年代初頭 にお けるサイパ ン島在住 日本人の 社会団体の分析 を通 じて、移 民を含 めた在住 日本人が直面 した問題 とその解決-の動 きを み ることで、サイパ ン島が南洋興発㈱ の企業城 下町的な発展 を遂 げた ことを浮 き彫 りに し た.す なわち、在住 日本人が 「糖業単一主義」 と批判 した問題 の背景 を、南洋庁や南洋興 発㈱ の事業展 開のなかで、また、サイパ ン島最大の商業地ガ ラパ ン町の人 口 ・職業構成、 お よび南洋興発㈱蘇作農 場 の移 民たちの雇用形態や仕事 の内容 をふ ま えて明 らかに した (同上論文,72-77頁)。つ ぎにこの時点では、在住 日本人の経済を含む諸問題 を解決 しえ る団体が社会団体 であった とし、 「南洋振興会」、 「サイパ ン沖縄県人会」 を と りあげ、両 団体の成立の背景や 中心的 メンバーの経歴 、問題解決-の取 り組みを示 した (同上論文, 77-80頁)。 とくに沖縄県人会 は、邦人会や他府 県出身者単位 の郷友会 も存在 したにも拘わ

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らず 、同会が南洋振興会 も含 めた異議 申 し立て活動 に活発 に関与 した こ とに、 日本人社会 にお ける沖縄 出身者 の特殊 な位置づけが示 されている とした。南洋庁や南洋興発㈱の対応 ついては、在住 日本人側 か らの批判に一部譲歩す るかの姿勢 を見せ なが ら、実際にはこれ ら団体 を南洋群 島統治の一端 に取 り込んでいったことについて、法制度や組織 な ど具体例 をあげて指摘 した。そ して1930年代半ば以降、 とくに戦時体制構築 に向か うなかで、 これ ら制度や組織が体制に吸収、再編 され ていった とす るが、その具体的な検討 には及んでい ない。 本論文は、近代 アジアにお ける 日本人の経済活動 を、経済団体の活動 を通 じて明 らかに しよ うとした論文集 のなかの-論稿であ り、他論文 と読み比べてみ ると、本論文に示 され た よ うな南洋群 島の特色 が浮 かび上がって くる。 しか し、同論文が依拠す る資料の制約 に 留意 しつつ も、南洋振興会、沖縄県人会 と、南洋興発㈱下の小作人、労働者 の要求事項が 必ず しも一致 していない ことを分析す る必要性 を指摘 したい。すなわち、南洋振興会 の要 求事項 には、沖縄 県人会幹部 を含む在住 日本人 中小商工業者 の利害が強 く反映 されてお り、 日本人 中小商工業者、あるいは地盤 を築 きえた沖縄 出身者 たちについては沖縄出身者 の地 位 向上 を含 めて、 自らの利害 を追求 した側面 を重視すべ きであろ う。他方 、南洋興発㈱下 の沖縄 出身移民た ちも、同社 か らの処遇 に 「沖縄差別」 とい う問題 も指摘 してお り、県人 会 とい う後 ろ盾 を必要 としていた。 したがって、各団体、集 団の構成員が、職業階層 によ っていかなる利害 をもち、関係 を取 り結 んでいたのか、の解 明が必要であろ う。 この作業 は、南洋庁や南洋興発㈱が在住 日本人の どの層のいかなる利益 を実現 させ ることで支配 に 取 り込 も うとしたのか、 を解 明す ることになろ う。 つ ぎに、今泉 (今泉,1998-1999)は南洋移 民を含む在住 日本人 について、沖縄 出身者 を中心にす えなが ら、八丈島出身者 、女性 の渡航者 に も視点 をひ ろげ、聞 き取 りに基づ く 個人 の歴史か ら南洋移 民の仕事や生活 を描 き出そ うとした。た とえば、 「南洋 は沖縄 の延 長」 と言われてきた ことについて、沖縄 の生活の持 ちこみ、沖縄芝居、料亭、同郷者集 団 での交流な どに もスポ ッ トをあて ると同時に、南洋移民個人 の戦前 と戦後 の関係性 に も視 点 を及ぼ して仕事や生活 を とりあげる。女性 については、写真結婚 を例 に、女性たちが限 定 された選択肢 のなかで南洋渡航 を決 めることには、貧 困か らの離脱だけでは説明 しきれ ない動機 があった とし、出身地域 での社会経済的な制約 か ら解放 され るチ ャンス として南 洋 に渡 り、南洋群 島社会 の形成 にいかに関わったのかを示そ うとした。 また、各島の主だ った 日本人街 に作 られ、街 の経済や 日本人社会の社交に少 なか らずの役割 を果 した料亭に ついて、経営者 、芸妓 ・酌婦 の仕事 を紹介 し、戦時にも言及 した。八丈 島出身者について は、東京 出稼 ぎ とな らぶ今ひ とつの選択肢 として、あるいは東京 出稼 ぎの延長線上 に南洋

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史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 移民 を選 んだ こ とを指摘 した。 「沖縄 の延 長」 な る言 い方 につ いては、だれ が、 どの よ うな状況 を述べた ものかを明 ら かにす る必要 が ある一方 で、 「沖縄」 の どの部分が、 どの よ うに 「延長」 され てい るのか、 た とえば 「沖縄 出身者 -の支配」 (今泉,1992:132頁) な る政治的な分野か ら、経済、社会、 生活 、集 落形成 にいた る諸側面の分析 を通 じて、南洋群 島にお ける沖縄 出身者 の 占める位 置や地域社 会 の形成 が明 らかに され る必要が あろ う。 また、移 民女性 については、満州移 民男性 の花嫁 (「大 陸の花嫁」) となった女性 について、結婚 とい う個人的 な選択が、一方 では大 陸- の憧れ 、封建的 な農村秩序 と家制度 の呪縛 か らの解放欲求 、経済要因、使命感 な どに よる個人 の人生選択 である と同時 に、他 方 では国策遂行 に多大 な影響力 を及 ぼす と い う構 造 が解 明 され てい る (相庭,1996)。 南洋移 民女性 について も、上記 の よ うな業績 を踏 ま えた実態研 究 、比較研究 が望 まれ る。 す なわち、向井氏が指摘す るよ うに (向井, 前掲書 :155頁)、南洋移 民ではほかの海外移 民 に比べ て女性 の割合 が高い とすれ ば、職業 比率が最 も高か った農業従事者 のみな らず 、渡航 女性 の よ り多様 な事例 を分析す ることが、 南洋移 民 の特徴 を明 らか にす るこ とになるだ ろ う。 飯高氏 は、マ リアナ諸 島の製糖 業が現地住 民社会 に大 きな変容 をもた らし、貨幣経済 に 巻 き込んでい った こ とを明 らか にす る うえで 、ニ コラス 。トーマス (Nicolas Thomas) に よる 「植 民地的プ ロジェク ト」 とい う概念 を用 い、行政官、企業家、 日本人移 民、現地住 民な る行為者 が様 々な思惑 を絡 ませ あい

、「

『パ フォーマ ンスや洗練 され た実践』 を展 開 し なが ら、場 当た り的 に状況 を構成 して ゆ く様子」 を明 らか に しよ うとした (飯 高,1999: 110頁)。 そ こで、 日本人移民については、南洋興発㈱ に関わった二人の沖縄出身者 のライ フ ヒス トリーか ら、南洋群 島で 「一定の経 済的実現 を果 してい こ うとす る戦略性 の中を生 きていた」 とし、その 「戦略」 の傾 向か らつ ぎの よ うな結論 を出 した。 それ は、沖縄 出身 者 たちが ある程度経 済的な地位 を上昇 させ た一一方 で、 自らの意 図 とは無 関係 に南洋庁や南 洋興発㈱ が推進す る南進政策 を担 わせ られ た 、 とい うものであ る (同上論 文:128-129頁)0 本論文 では、南洋庁 が力 を注いだ製糖業 の展 開か らもた らされ た、現地土地制度や相続 制度 の変容 、土地 の賃貸、売却 に よって現地住 民経済 も変容 し、貨幣経済 に巻 き込まれ て いった こ とを明 らか に した。各行為者 が 「様 々な思惑 を絡 ませ」 あ うことにつ いて、沖縄 出身者 は 自らの意 図 とは無 関係 に政策 を担 わ され てい った と把握 され たために、現地住 民 との関係 は南洋庁や 南洋興発 ㈱ を媒介 とした 関係 が描 かれ 、両主体が直接 的 に 「思 惑 を絡 ませ」あ う場 面 はみ えて こない。 しか し、本 論文 の問題 関心 は、南洋移 民研 究 にひ きつ け て考 えれ ば、従来 の研 究が欠落 させ て きた分野 を指摘す るもので ある。す なわ ち、従来の 南洋移 民研究 では、移 民 と現地住民 との具体的 な関係 を分析す ることは殆 どなかった。 ま

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た扱 うに して も、植 民地社会の序列 (一等 国民 :日本人(内地出身者)、二等国民 :沖縄 出 身者 、朝鮮 半島出身者、三等国民 :現地住民。ただ し、二等 と三等は話者 によって入れ替 わ る場合 もある) を指摘す るに留まった。 しか し、 日本人移民たちのなかには、チャモ ロ、 カナカ と呼ばれ た現地住民たちと、土地、家の賃貸関係 に留ま らない、生活 の諸分野で さ ま ざまな関係 を取 り結んだ人々がお り、南洋移 民の生活 を描 く場合 にも、現地住民 との関 係 が見落 とされ てきたことがむ しろ不 自然であった。植 民地社会にお ける現地住民社会 と 日本人社会の関係 は直接 的な ものであると否 とを問わず、明 らかに され る必要があろ う。 さて、本論稿 のいまひ とつの 目的には、近年 のオセアニア人類学による 「ある特定の立 場 か ら行 なわれ た歴史叙述 の特権化」 に対す る批判に基づ く次のよ うな作業があった。そ れ は、「行政 の史料か ら読み取れ る歴 史 を特権化 し、開発 の成否 とい う観 点か ら議論 を行 な う先行研究 を乗 り越 えて、多元的な相 を とって立ち現れ る製糖業の進展 を対象化す るこ とで様 々な利害 関心 を担 った行為者が構成す る

「部分的な」(partial) な歴史 を示す こと、 である (同上論 文, 134頁)。 この批判 のなかの 「歴史叙述」の 「特権化」について述べれ ば、 近年 国内外 の様 々な研究領域 で行なわれ てい るもので もある。 しか し、批判の矛先 を向け られ てい る歴 史研 究の分野ではつぎのよ うな議論があ り、南洋移民研究を行 な ううえで も 必要な論点であ ると考 え、付 け加 えてお きたい。 それ は、研究者 の問題意識 の明確化 と同 時に、対象 を捉 える うえでの 「重層性や複数性 の視点」、 「矛盾的認識 の方法」、 「存在拘束 的な認識 」 をもつ必要性 である (大門,2001)。飯高氏 が設定 した行政官、企業家 、 日本 人移 民、現地住 民 とい う主体の分析 にひ きつ けて述べれ ば、 日本人移民や現地住民が、行 政官や企業家の政策 に一方的に動か され たのではな く、相互規定的な関係 をもつ もの とし て とらえるための、視点 と方法の必要性 を説 くものである。 これ ら主体が重層的に関わ り あい、 どの よ うな生活の場 を築 き上げたのか、を歴史過程のなかで明 らかにす ることは、 各主体 を動態的 に捉 えなが ら日本 の南洋群 島支配 を解明す ることに もなろ う。 お わ りに 本稿 は、近年 の南洋移民研究のなかで、政策 と実態 との関係性 をめ ぐる議論 をとりあげ、 その論点 を明 らかに した。そ こで最後 に、南洋移民研究が、移民研究 と植 民地研究の双方 にまたが る領域 であることか ら、 これ ら二つの研 究分野ですでに指摘 されてきた問題 にひ きつ けて本稿 を整 理 し、 さらに南洋移民研 究側 か ら提起できる論点 を提示 して しめ くくり としたい。

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史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) まず 、移 民研 究 の側 か らは、つ ぎの よ うな問題 が指摘 され てきた (木村, 1993; 阪 田 1999)。 それ は、 「移 民」、 「植 民」 な どの用語 をめ ぐる混乱、統計 を含 む事実 関係 の掌握や 綿密 な史料考証 の欠如 、各地域 の移民 に関す る比較検討 、あるいは移 民 の総括 的検討 の不 十分 さ、であ る。 さ らに、移 民の階層 、斡 旋機 関の介在 の仕方 、渡航 先 での定住 の様式や 地元社会 との関係 、 日本人 内部 の諸団体 の状況、労働や農 業、営業の実態 、子弟教育の展 開、移 民送 り出 し地域 との関係 について も、各渡航先 の特徴 を踏 まえなが ら対 比的、総合 的 に検討 され る必要性が指摘 され てい る。 上記 の指摘 は、南洋移 民研究 で も、つ ぎの よ うな問題 として現れ てい る。 た とえば、用 語 をめ ぐる混乱 は、南洋移 民 で も 「移 民」、 「植 民」、 「出稼 ぎ」、 「移住」 な ど多様 な表現 が あるが、 この表現 がいかな る実態 を反 映 させ た ものなのか を追究すべ き ことは本稿で も指 摘 した。 つま り、政府諸機 関、知識人 。文化 人、企業や斡旋業者 、そ して移 民 した人 々な ど、それ ぞれ の立場 が表現 した 内容 のズ レや一致 を、資 。史料(聴 き取 りを含 む)の丁寧 な 分析 に よ り、歴 史的 に把握す るこ との必要性 である。 また、渡航先 を異 にす る移 民につい て、各渡航先 での仕事や生活 が総合的、対比的 に把握 され るべ き との指摘 は、個 々の事実 の発 掘 に力 を入れ るあま り、研 究 の細分化 に迷 い込む こと- の警告で もある。 南洋移 民研 究で も、諸事実 を明 らかにす るこ とが歴 史 の空 白を埋 める ことに留ま らず 、 日本 の南洋群 島支配や 日本 にお け る移 民の全体像 を描 き出す方 向に向か う必要が あろ う。 つ ぎに植 民地研 究 では、1990年代 に入 り、 ポス ト ・コロニアル研 究や 「帝 国」史 、 「帝 国 意識 」研 究な どの新潮流が現れ たが、 これ ら新潮流 の強調す る社会史 ・文化 史研 究が、政 治 史 。経済史 の実証成果 と有機 的 に結びつ け られ ていない との指摘が あ る。 したがってそ の問題 を克服 しなが ら植 民地 の全 体 的 な歴 史像構 築 をめ ざすべ き ことが求 め られ てい る (岡部 ・柳 沢,前掲書:12頁)。南洋群 島統治研 究では、政策やその もとでの実態 の把握 は い まだ未 開拓 の領域 を多 く残 してお り、上記 の新潮流 の問題 を指摘す る以前の段 階にある。 す なわ ち、上記 の移 民研究で も問題 として指摘 され た統計 を含 む事実 関係 の掌握 、綿密 な 史料 考証 が、本稿 で論 じた ことを含 む視 点 、方 法 を通 じて進 め られ る必要 があ ろ う。 南洋 (16) 群 島関係 資料 は研 究 の進展 に伴 な って発 掘 が進 み、加 えて、研 究の方法や視 点 の多様化 に よる文字資料以外 の資料 の活用 、 さらに資料 の僅少性 、散在 の仕方 に 日本 の南洋群 島政 策 の特徴 を看 取 し、南洋群 島政策 の周辺 、隣接領域 か ら実態 に迫 るこ とも可能 となってい (16)た とえば、個人の所蔵資料を中心に南洋群島資料を紹介 したものとして山口洋児氏によるリス ト (山口,2000)、がある。

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(17) る。 以上 のよ うに南洋移民研究は、移民研 究、植 民地研究の膨大な蓄積 をふ まえて進 め られ る必要 がある一方で、南洋移民 とい う対象が もつ特徴 ゆえに、従来の研 究領域では必ず し も充分 に取 り組 まれて こなかった視点や方法 も提示 してい る。以下、三点か ら論 じたい。 その第- は、 とくに勢力圏-の移民についての、第一次世界大戦期以後 とい う歴史的な 条件 を反映 させた把握である。台湾、関東州 、樺太、朝鮮 よ り時期的におそ く始まった南 洋移 民は、 しか し、満州事変以降の大陸-の大量移民が始 まる前の段階 に、海軍が主張す るよ うな 「平和的 ・経済的」南進政策の一環 として始まった。 この時期 はまた、世界の植 民地支配体制 の再編、アメ リカを中心 とす る国際的な政治経済的枠組みの形成期 にもあた る。 日本 の南洋群 島委任統治 の受任 は、上記 の よ うな国際的な条件 をの も とに可能 となっ たのであ り、 しか も、のちの 「大東亜共栄圏」構想 の 「南方圏」 をなす こ とになった地域 への進 出を現実化す る うえでの決定的な一歩 となった。 第一次世界大戦後 の国際的な条件 とその もとでの 日本の動 きは、移民た ちの 「意識」に も少 なか らず投影 されてい る。それは大正デモ クラシー下、労働運動、社会運動 の活発化 が、移 民 を余儀な くさせ られ る社会経済的な底辺層の人々の 自覚 を促す一方、西欧列強 と 肩 を並べて戦争 に勝利 し、 しか も戦争 の被害 よ りも利益 を得た ことで育まれた 日本国民の 「一等国」意識 が、 とくに 日本 の植 民地 を含むアジア及び太平洋 島喚地域 の人々に対す る優 越 的な意識 となって醸成 され ていったか らである。本論 でみた南洋興発㈱ でのス トライキ も、サイパ ン島 とい う場での局地的な事件 として捉 えるのではな く、上記 のよ うな視点で (18) 分析 され る必要があろ うO また、移民 と現地住民 との関係 について も、 日本人の 「一等 国」意識 が南洋群 島でいかなる形 で表現 され、以後、 日本 の国際的な地位 の変化 に応 じて どのよ うに変化 していったのか、か ら分析す ることもできるであろ う0 (19) 第二 には 「地域 史」 との接点 をもつ ことによる実態把握 の広が りである。南洋群 島の 日本人人 口は、現地住民人 口の約2倍 にのぼ り、現地住民人 口をは るかに凌駕 した ことに (17)南洋群島関係資料の所在の特徴 とこれ との関連で南洋群島研究を議論 したものに、横浜国立大 学ワークショップ「植民地資料と植民地研究」(2001年7月 30日、於横浜国立大学)での筆者の報告 がある (今泉,2002). (18)南洋庁は、1929年のサイパン島における労働争議に思想的な背景はないとしているが、この時 期も含めたサイパン島での争議には、沖縄や内地で労働運動に参加 した り、社会主義思想の影響 を受けた者たちの関与もあった(今泉,1998-1999:第8、9回)。 (19) この場合の地域史とは、日本史研究の一分野として郷土史-地方史-地域史と発展してきたも のをさす。以下の議論は、鹿野政直氏 (鹿野,1998)、による。

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史 料 編 集 室紀 要 第 27号 (2002) 特徴 をもつ。 しか も在住 日本人の約6割が沖縄 出身者 であることは、南洋群 島社会が沖縄 を中心 とす る移 民の出身地域 の動 向を反映せ ざるをえない ことは本稿 で とりあげた諸研究 が示す通 りである。一方 、移 民を送 り出 した地域 は、南洋群 島 と資金 、情報 、人、モ ノを 往来 させ ることによって、 日本の南洋群島統治 といやお うな く関係 し、連動す ることにな った。 「地域史」 については、歴史研究の立場か らの整理 があ り、やや乱暴 に要約すれば、 地域住民 を主人公 とし、その 目線 か ら暮 らしの場 を描 き出す ことで、地域の個別性 を明 ら かに し、同時にその地域 を一部 とす る 日本史、ひいては世界史の全体像再構築 をめざす も のだ とい う (鹿 野,1998)。南洋移 民には、朝鮮半島出身者や僅 かなが らの台湾 出身者 も い るので、 これ ら地域 も含 めた移民送 り出 し地域の 「地域史」と南洋移民研究が接点をもっ ことは、つ ぎの よ うな理解 をひろげることになろ う。 それ は、各出身地域で育まれた意識 や くらしが、南洋群 島社会の形成 に どのよ うな特徴 を与 え、植 民地支配の基盤 をつ くって いったのか、他方 、移 民 を送 り出 した地域 は どのよ うな変容 を余儀 な くされ、また 日本の 南進政策、南洋群 島支配 にいかに関わったのか、 とい う点か らの両地域像 の捉 えなお しで ある。 こ うした地域像 の捉 えなお しは、両地域の関係性追究に も及ぶであろ うし、 日本の 南進政策や植 民地支配体制の捉 えなお しに もつながるよ うに思 う。 上述の南洋群 島社会 の形成 に関連 して、 「南洋群 島」 とい う地域単位 に視点 を及ぼす と、 南洋群 島 として くくられたマ リアナ諸 島 (グアム島を除 く)、カ ロ リン諸島、マーシャル 諸 島は、 日本 の支配下におかれ ることでま とま りをもた ざるを得 な くなった。すなわち、 南洋群 島を単位 とす る政治経済体制の構築、現地住民は もとよ り、南洋移民 も含む 日本人 が南洋群 島 とい うくくりの中で島々の間を移動 し、南洋群 島 とい う地域の内実 を作ったの である。 日本人移民 も現地住民 も1930年代 とくに半ばか らの各地の拓殖事業の展開に伴 な い、あるいは進学な どのために島を移動す ることが多 くなった。従来 は、最 も経済が発展 したサイパ ン支庁 内の島に定着す ることが多 く、 自らの居住地域 にだけ しか意識が及 ばな かった移民たちが、南洋群島のなかの 「奥南洋」 と呼ばれたサイパ ン支庁以東 の島々につ いて具体的に意識 し始 めたの もこの時期か らである。一方、現地住民に とっては、戦後ア メ リカが南洋群 島 とい う単位 をそのまま信託統治 に した ことで、歴史体験 の共有化、一体 感 が よ り強まることになった。 もちろん、アメ リカの戦略 によってこれ ら地域 は4地域 に 分裂 させ られ、独 立す るが、いまひ とつの ミクロネ シアにあた るナ ウル共和国やキ リバス 共和国、あるいはほかの太平洋 島喚地域 との関係 に比べれ ば、 4地域 が一体感 を維持 して い ることは否定できない。 旧南洋群 島地域 の人々の歴 史体験の共有は、戦後、 日本人引揚 者 たちが この地域 と交流 を維持 してきた こととも無関係 ではない。 日本の支配か ら生まれ た南洋群 島なる地域形成 の実態 をみ ることは、太平洋 、 ミクロネ シア とい う地域の歴史の

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中で 日本 の植 民地支配 の意 味を問い、戦後の ミクロネ シア と 日本 との関係 を捉 え直す こ と に もなるであろ う (今泉, 1996)0 最後 に、第三 には、移 民の戦前 を、戦後 の連続性 のなかで明 らかにす るこ とである。 南 洋移 民 とな る こ とで得 た知識や技術 、文化(料理 、歌 、踊 り、祭 り、儀 式 な ど)、人 間関係 のネ ッ トワー ク、意識 は戦後 も様 ざまな形 を とって維持 され 、活用 され、 あ るいは押 し隠 され た。 これ らは南洋群 島時代 において、平時か ら戦時体制、戦闘そ して敗 戦 とい う過程 を経 るなかで、新 たな要素 を付 け加 え変容 してい った もので もある。 た とえば、看護 婦 の 仕事 は、数少 ない女性 の専 門的な職業 として、あるいは理想的 な女性像 を実現す る職 業 と して、若 い女性 た ちの憧れ の的で もあったが、他方 、内地や故郷 の看護婦学校 に通 えるこ と、また狭 い 島の社会 か ら脱 出す る、 とい う意 味 も加 わってい った。 そ して、戦闘や収容 所 で就業 した看護 婦 たちの戦後 は、内地 に先駆 けてアメ リカの新 たな技術や薬 品の知識 を 得 た経験 か ら、復興過程 の郷 土で活躍 した者 もいれ ば、あま りに悲惨 な施療 の経験 か ら仕 事 を離れ た者 もい た。一方 、同郷者 団体の要職 にあった者 は、戦後、引揚者 団体 を組織 し た り、政治 家や企業家 となって地域復興 に様 々な関与 を してお り、 とくに米 軍 占領 下の沖 縄 では彼 らの動 きが注 目され る。 ごく一例 をあげたに過 ぎないが、戦前期南洋移民 を含 む 日本人た ちが獲得 し、青 くんだ技術や意識、人 とのつなが りが、引き揚 げて後、戦後 日本 の復興や発 展過程 で地域社会 に どの よ うに活 か され たのか否 か、彼 ら一人一人 の戦前の体 験 を、戦後 くらした地域 のなかで捉 えなおす こ とは、戦後 日本 の政治、経済 、社会 の分析 に新 たな視 点 を もた らす こ とにな ろ う。 <引用文献 > 赤嶺秀光 うちなあん ちゅ 1978年 「"南洋"に浮沈 した沖 縄 人」『別冊-億人の昭和史 日本植民地史3 台湾 ・南洋』 毎 日新聞社. 1990年 「南洋移民とは何だったのか」『新沖縄文学』(特集/もうひとつの戦争体験一台湾 ・フィ リピン ・南洋群島)No.84. 2001年 「南洋移民は幸福だったか」『け-し風』第32号. 安仁屋政昭 1977年 「移民 と出稼ぎ-その背景」沖縄歴史研究会 『近代沖縄の歴史 と民衆』増補改訂版,至 言社 (初版1970年) 1998年 「移民政策」沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編 『沖縄戦研究 Ⅰ』沖縄県教育 委 員会 . 相庭和彦他,1996年 『満州 「大陸の花嫁」はどうつくられたか』明石書店. 平松幸三(編),2001年 『沖縄の反戦ばあちゃん』刀水書房. 飯高伸五, 1999年 「日本統下マ リアナ諸島における製糖業の展開-南洋興発株式会社の沖縄県人労 働移民の導入 と現地社会の変容-」三田史学会 『史学』第69巻第1号.

参照

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