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入会林野の領域支配 ガバナンス視点の有効性

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入会林野の領域支配

―ガバナンス視点の有効性― 川 村 誠* 入会林野研究に残された課題は多いが、「村々入会」のような、他村との関係において、いかなるガバナンスが働く のかの検討は未だ十分ではない。一村内における内向きのガバナンスだけでは、「村々入会」で生じる問題は解決さ れない。「村々入会」について分かる一級の史料は、複数の村々が関わる「山論」である。「山論」に関わる村々にと って、相手方の村々との関係だけでなく、時には領主の統治にも関わらざるを得ない。信州の伊那地方は、江戸時代、 「御林」から江戸向けの榑木を生産する村々と、それを支援する「夫食米」を供給する平場の村々を「榑木成村」と して組み合わせた統治が行われていた。「榑木成村」を地元とする「村々入会」について、入会林野のガバナンスを 検討した。その結果、領主支配におけるガバナンス及び村内でのガバナンスとも異なる、「村々入会」における相対 的に独自な「領域支配」のガバナンスを認めることが出来た。 キーワード:村々入会、「山論」、ガバナンス、領域支配 1. 問題の所在 入会林野をめぐる論点は未だ多い。筆者は、川 村(2018, p.67)において、入会林野の基軸に「共 同性」や「共同体」ではなく、「寄合(よりあい)」 による合意形成を置いた。「村」1)には「総寄合」 以外に、林野や水利など入会権者や水利権者それ ぞれに「寄合」があり、寺院には檀家や門徒の「寄 合」があった。そうした合意形成の場を束ねたも のが「村のガバナンス」であって、「村」そのもの だという認識を示した2) さらに、検討すべき課題が残されている。「村々 入会」のような他村との関係において、いかなる ガバナンスが働くのかである。「村のガバナンス」 が内向きに働くだけでは、「村々入会」で生じる問 題は解決されない。 ここでは改めて 2 つのガバナンスを区別した い。江戸時代、「村のガバナンス」については、 “地 方(じかた)のことは地方(じかた)に”と言い慣 わされてきた。これを、「分権的ガバナンス」(横 断的ガバナンス)と呼びたい。それに対して、幕 府や藩の支配体制は、ヒエラルキーが形成され、 各階層の中で権威的な合意形成が重ねられる。そ の結果、代官所を通じて「村」へ支配の意志が示 される。その支配の意志を受け取るのは、一般的 には庄屋や組頭など、いわゆる「村役人」であっ たが、「高札」の形で直接村民に示されることもあ った。この階層的な意志決定の流れが「階層的ガ バナンス」(縦断的ガバナンス)である3) そもそも幕藩体制とは、この2 つのガバナンス に支えられた構造に他ならない。本稿では、この 構造的視点から、幕藩体制下の入会林野とは何か、 改めて考えたい4) なお、「村々入会」について分かる一級の史料は、 複数の村々が関わる「山論」と考える。そもそも、 村々で解決できないから「山論」となるのであり、 「山論」を進める村々にとって、相手方の村々と の関係だけでなく、時には領主により制度化され た統治システムにも関わらざるを得ない。 本稿では、交錯するガバナンスの事例として、 信州の上伊那地方における江戸時代から明治初 頭の「村々入会」(「手良沢山入会」)に起こった「山 論」を取り上げる。 2. 議論の前提 伊那地方における入会林野や林野支配につい ては、比較的多くの研究がある。筆者も「手良沢 山」について、過去に川村(1975)、川村(1976)、 川村(1977)を発表した。川村の論考は旧稿であ り、誤字脱字も少なくない。細部において改稿を 必要とする。しかし、村方の文書を中心に、伊那

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84 地方の幕藩体制や「山論」のリアルを示した点で、 意義があると考えている。とくに、「御林」の統治 システムと「山論」に関わる村々の関係をみる上 で得るべき内容があると思われる。 そこで、本稿では旧稿を前提に、江戸時代の伊 那地方におけるガバナンスのあり方に焦点を当 て、史実の付加は最小限に止める。伊那地方の最 近の研究を含め、文献研究は他日を期したい。 3. 幕藩体制下の「伊那山」支配 3.1 「山論」の村々 伊那谷は、東西に南アルプスと中央アルプスが 迫り、中央を諏訪湖に発する天竜川(河川延長 213km)が流れる。上流域は、河岸段丘が広がり、 “伊那平”と呼ばれる盆地を形成している。一方、 下流部は南アルプスに続く渓谷を刻み平場の少 ない地形となって、遠州灘へ注ぐ。この上流部は、 上伊那地方(「上伊那」)、下流部は下伊那地方(「下 伊那」)と呼ばれている。 「山論」の舞台となった「手良沢山(てらさわ やま)」は、「上伊那」にあって、“伊那平”でも天 竜川左岸の丘陵地に広がる約 600 町歩の入会林 野である。入会林野の北端は、諏訪地方と国境を 接している。江戸時代、諏訪地方は「諏訪領」、伊 那地方は「伊那領」と呼ばれていた(図1)。 「山論」に登場する村々は、水田集落と云う点 では共通性があるが、入会林野や支配領主との関 係ではそれぞれ異なる特徴を持っている。 同じ“伊那平”にあっても、丘陵部の山側 3 カ村 (野口、中坪、下寺)は「山元」あるいは「山方」 と呼ばれ、一方の天竜川とその支流の三峰川に面 した平場の3 カ村(福島、野底、上牧)は「入方」 または「里方」と呼ばれる5) この「山元」3 カ村の野口、中坪、下寺と、寛 文の「山論」の際、連署した八手(やつで)は、 中世以前から「手良郷」と呼ばれ、地理的にはひ とまとまりの村々である。水田の用水は、「手良沢 山」からの同じ水流れに依っている。 ただし、八手は「手良沢山」への入会に参加で きていない。これは、江戸時代の初期に下寺から 八手が分村となったことが関係していると考え られる。その替わりかどうか、八手のみ「諏訪領」 との国境「日影・日向・青山入会」に入会ってい る6) 図1 上伊那における「手良沢山入会」と「榑木成村」 諏訪湖 天竜川 【諏訪領】 【伊那領】 日影・日向・青山入会 【入方3カ村】 福島    野底 中 手良沢山入会 南 上牧 央 ア 【山元3カ村】 ア 【榑木成村】 ル 野口 ル 小野 プ 中坪   プ 上穂 ス 八手 ス 下寺 入会関係の方向

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85 さらに、注目されることとして、村々の領主支 配はマチマチである。「山方」3 カ村の内、野口と 中坪は幕府領(千村平右衛門預り)であり、下寺 は旗本知行である。また、「入方」3 カ村の中で、 上牧と野底は「高遠藩」領であるが、福島は下寺 とは異なる旗本知行地である。しかも、福島は別 の旗本知行との「相給」となっている7) なお、「上伊那」にあって、「手良郷」の中の3 カ村(野口・中坪・八手)及び天竜川右岸、西天 竜に位置する小野と上穂2 カ村の計 5 カ村が、幕 府領でも特別な役割が与えられ、「榑木成村」と呼 ばれる。 この「榑木成村」は統治システムと関係してお り、多少とも解説を必要とする。 3.2 「榑木成村」の仕組み 下伊那では天竜川左岸の南アルプス山麓が、サ ワラ(椹)、ヒノキ(檜)、ネズコ(黒部)など針 葉樹の用材資源に恵まれ、江戸時代当初から幕府 の蔵入地(「伊那山」)とされた。また、その多く は、「御林」とされた8)。とくに資源的に豊富な天 然林地帯を「榑木山」と称し、下伊那5 カ村(鹿 塩、大河原、清内路、遠山、漆平野)が指定され た。 その「榑木山」からの伐出を担うのは、下伊那 6 カ村(加々須、小川、南山、鹿塩、大河原、清 内路)であった。この6 カ村は、「山方」と呼ば れ、貢納も榑木で行う「木年貢」の村々だった。 文字通り「榑木成」の林業山村である(図2)9) 生産された御用榑木については、「下伊那」の 「榑木山」や「榑木成村」に属する村々の出役に よって天竜川への流送が行われた。出役には別途 に「扶持米」が提供された。 それでは、米作地帯の上伊那5 カ村は何をして いたのか。幕府の榑木生産のシステムの中では、 「里方」と呼ばれ、実際に榑木生産を担う下伊那 6カ村への「夫食米」(「山中夫食米」)の供給であ った。手良沢山に関係する上記3 カ村以外にも天 竜川右岸の2つの村、小野と上穂(うわぶ)が「榑 木成村」だった。この5 カ村は、「里方」と呼ば れていた10) 「手良沢山」は刈敷や薪炭林はあっても、「榑木 山」のような用材立木は江戸時代始めには既に無 かった。また、「下伊那」における榑木生産の際に、 図2 下伊那「榑木成村」6 カ村と「榑木山」5 カ村 注)「榑木山」の内、鹿塩、大河原、清内路は「「榑木成村」でもあり重複

天竜川

【上伊那5カ村】 「夫食米」 中 【榑木山】 【下伊那6カ村】 【榑木山】 央 南    加々須 鹿塩 ア ア 榑木生産 小川 榑木生産 大河原 ル 清内路 ル 南山 遠山 プ プ 鹿塩 漆平野 ス ス 大河原 清内路   【榑木成村】

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86 労役を提供した場合もあったかもしれないが、継 続性のある制度にはならなかった。「上伊那」5 カ 村が肝心の農作業を休んでまで「上伊那」から「下 伊那」の伐採や流送の現場に出向くことには無理 があったと考える。 「夫食米」が実際にどのように供給されたのか、 詳細は不明だが、榑木生産が実施された年の年貢 割り付けをみると、「夫食米」の分を差し引いた年 貢支払いになっている11) なお、上伊那5 カ村の場合、米そのものを下伊 那へ送ったとすれば「米成」あるいは「石代納」 のはずが、江戸時代の始めから「榑木換算」によ る金納だった。しかも、一般的な「石代納」では なく、あくまで「表高」の石高を前提に、年間の 榑木生産数量が決められ、金1 両当りの榑木数量 により年貢高(金納)が決められた。実際には、 その年の米相場により、換金の上、年貢として納 めるのであった。これは「榑木代納」あるいは「榑 木成」と呼ぶべき算出方法である12) とくに、「里方」5 カ村にとっては、「石代納」 よりも「榑木代納」の勘定が大幅に有利だった13) なぜそうだったのかは、分からないが、榑木生産 のシステムを維持することが優先され、「榑木成 村」が優遇されたのかもしれない。 なお、前澤(2019, p.64)によると、「伊那」に おける「榑木成村」は、千村平右衛門預かりの村々 の他、「上伊那」に1 村、「下伊那」に 27 カ村存 在する。飯島代官所の支配地や旗本知行地など多 様だが、江戸時代前半から金納化した。ただし、 その多くは、江戸時代の始め木材需要の盛んだっ た時代に、村々の近場の林野から榑木生産を行い、 その分の年貢を納めていた村々が多い。本年貢に 組み込むか「小物成」に入れるかはともかく、雑 多な年貢だった。 同じ伊那地方にあって、千村平右衛門による 「榑木成村」のシステムに編入されたのは、「上伊 那」5 カ村、「下伊那」6 カ村、さらに「御林」の ある「榑木山」5 カ村(内 3 カ村は「榑木成村」 と重複)だけだった。 3.3 千村平右衛門による「伊那山」支配の特徴 幕府の榑木生産と「榑木成村」のシステムを「榑 木奉行」として統括していたのは、木曽衆出身の 千村平右衛門であった。美濃の久々利(現在、岐 阜県可児市久々利)に陣屋を置き、現地には、「下 伊那」の飯田荒町に代官所を設けていた。また、 天竜川の遠州「船明」(ふなぎら)には川番所を設 け、さらに河口の掛塚湊からの積み出しを仕切っ た。「榑木山」の伐採と榑木への加工の後、「渡場」 にて天竜川に流し(「管流」)、「船明」にて検収の 後、筏に組み、河口の掛塚湊へ送ったのである。 「伊那山」支配の千村氏は、「木曽山」の山村氏 と同じく、身分としては尾張藩の家中に属したが、 幕府領の「預け地」支配の代官を任されていた。 石高は、久々利と「伊那」で5,000 石余り、幕末 まで大きくは変わらなかった。この幕府と尾張藩 との両属については、林(1959)が詳しい。 「伊那山」支配のための千村平右衛門による統 治には、ある顕著な特徴が認められる。 第1 に、支配下の村々は天竜川で結び付いてい るとはいえ、統治に選ばれた上伊那」5 カ村と「下 伊那」6 カ村は、その立地が相互に分散的で、“一 円知行”の「領域支配」には程遠い。各村の隣村に は、旗本知行あるいは私藩の村々が存在した。統 治形態として、「伊那山」支配は、領域の広さや石 高を競うものではなく、強いて言えば、分散配置 のネットワーク型だった。 第2 に、「御林」支配についても、「榑木山」へ の伐採が「下伊那」6 カ村の勝手な伐採が許され ていたことも注目される。「榑木山」以外の「御林」 においても、「御林」への入山制限が緩いのである。 この点は、「木曽山」や飛騨と比べて実証的な研究 が待たれる。 第3 に、「上伊那」5 カ村の役割が興味深い。榑 木生産の「夫食米」など、費用を捻出するためな ら、もっと多くの村々を幕府領として「榑木成村」 に組織化すればよいと思われるのに、5 カ村に限 られていた。これは、どちらかと言えば、石高制 の中で千村平右衛門の石高に合わせるためだっ たとも考えられる。この点も、今後の検討課題で

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87 ある。 3.4 資源の枯渇と「休山」 「伊那山」からの木材生産は、江戸はじめ市中 の需要に向けたものであった。サワラ榑木は汎用 性が高く、そもそも榑木年貢は、サワラ榑木が指 定されていた。しかし、サワラを中心とした榑木 生産の時期は意外に短く、享保期に至って「尽山」 となり、サワラを中心とした御用榑木の生産は激 減した。 こうした状況に対して、幕府側は榑木生産を控 える「休山」の政策を取った。当初は、10 カ年の 伐採手控えに始まり、次第に「休山」が常態化し ていった。 しかし、「下伊那」の「榑木山」および「榑木成 村」にとって、「休山」は榑木年貢が納入できない わけで、山間地の経済活動はもとより生活全般が 滞ることになった。 まず、榑木生産を前提に得られる「夫食米」や 代官所からの「扶持米」が入ってこない。さらに、 御用榑木を流送することで、天竜川の津止や流送 路整備が行われたが、幕府の榑木調達が滞れば、 民間の榑木その他の注文材も搬出は難しくなり、 「下伊那」における木材生産全体に支障が生じた と考えられる。 ただし、松原(1997)、松原(2000)、松原(2003) によると、享保期の「尽山」以後も、「下伊那」の 「榑木山」では、サワラ以外の諸木が伐採されて いる。前述のように、「御林」への入山が相当に自 由だったことが伺える。 一方、「上伊那」の「榑木成村」にとっては、事 態に基本的な変化はなかった。「夫食米」の供給 (どの程度の供給となったのか、はっきりしない が)を前提に、水田耕作に専念して「榑木代納」 を続ければよかった。 千村平右衛門の統治に当たっての「起請文」 (1687(貞享 4)年)が残されている。そこには 前書きの冒頭で、「今度地方御預り所并御榑木役被 仰付候」14)とあり、「榑木役」について誓紙を出し たことを明らかにしている。 「尽山」でも幕府から「榑木役」が外された形 跡はない。それでは、その「榑木役」はどうなっ たのだろうか。長い「休山」の結果、「榑木成村」 のシステムは総じて空洞化したと言えないだろ うか。 しかし、別のシナリオも考えられる。「伊那山」 支配の中で、「榑木山」は「御林」支配とすれば、 「地方御預り所」としての「地方(じかた)」支配 は、「下伊那」6 カ村および「上伊那」5 カ村の合 計11 カ村でしかない。しかも、村々の統治は石 高制をベースにしていた。 つまり、「休山」でも、各村々が石高制に従って 貢納の役目を果たせば、「地方(じかた)」の統治 は果たせるのである。 また、林(前掲1959, p.186)によれば、「木曽 山」の山村氏と同じく、「伊那山」の千村氏も、単 に「御林」奉行にとどまらず、1 万石の格を持っ た大名のように、参勤交代の役に付き、江戸城内 での扱いも高いものだった。元々、木曽衆が戦功 により家康の直参扱いで久々利に知行地と陣屋 を設けることが出来たことが、事の始まりとみて よいのかもしれない。ともかく、石高制をベース とした「榑木成村」支配は、明治維新まで存続し た。 4. 「手良沢山入会」におけるガバナンス構造 4.1 寛文・延宝の「山論」 1672(寛文 13)年、「入方」3 カ村(福島、野 底、上牧)は「山元」野口を相手に「山論」に及 んだ。訴えた先は江戸表の勘定奉行である。 争点は多岐にわたるが、採取種目と馬の頭数の 制限に始まり、林野からの水流れによる用水にま で及んだ。千村代官所の理解としては、「入方」3 カ村からは従来、「山手」を出して、牛馬を「無限」 に入れ草木を採取できたとの主張に対し、「山元」 はその主張を認めず、「山元」4 カ村においても各 村々15 疋という制限があったとの主張で「山論」 となった。つまり、「入会利用」をめぐる争論との 認識だった。 以下の「訴状」と「裁許」の論点整理は、川村

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88 (前掲1975, p.51~55)によるが、新たに項目を 立て直した。 (1)「入方」の主張としては、「手良沢山」への入 会について、畳表を「山手」として、刈敷や夏草 はじめ薪や萱等々に至るまで取って来た。しかし、 近年、「入方」の採取を古木からの薪材のみに限る としている。 (2)「山元」である野口の言い分としては、古木 の薪材についてのみ、「山手」を受け取って入会を 認めてきた。しかし、他の立毛の「諸色」(草木) について認めたことは一切なく、「山手」を取った こともない。 (3)「入方」からは、「夏草」の採取について強い 主張があった。しかし、「山元」の主張として、「山 元」において野口及び中坪2 カ村で採取してきた もので、下寺や八手にすら採取を認めてこなかっ たと主張した。 (4)さらに、「夏草」に限らず「入方」による草 木の採取は、山を荒して用水の利用に差し障ると した。 (5)これに対し「入方」は、「入方」からの「入 会利用」が山を荒したことはなく、むしろ「手良 沢山」における「山元」の新田開発こそ山を荒し たとする。 (6)用水については、「入方」にとって「手良沢 山」からの水流れに依存して来たとするが、「山元」 は「入方」が水を使えば、「山方」の水田に差し障 るとし、さらに「入方」は天竜川に面しており、 井堰の利用が可能であるとした。 (7)注目されることに、「入方」から野口への訴 状に対する「返答書」は、野口、中坪、八手、下 寺という「手良郷」4 カ村が連署している。前述 のように、八手は入り会っていない。 (8)結論的に、「入方」は「先規の如く」利用で きることを主張し、「山元」は今後、「古木の薪」 をも取らせないとの主張となった。 (9)両者の主張は真っ向からぶつかり、国境や領 地についての争いと同じように、「論所」として扱 われ、1673(延宝 1)年、「裁許」に至った。その 際、絵図が作成された。 延宝の「裁許」について、代官所が作成した「沢 山論所御扱之覚」が残されている。さらに、裁許 に基づいて「山元」と「入方」双方が取替した「取 替申一札之事」がある。 しかし、文書の細部は“玉虫色”にされているか に見える箇所もあり、他の写しと比較しなければ、 明確に出来ない。 今分かることの第1 は、「手良沢山」において 「入方」による採取可能な「諸色」に制限(「留物」) が設けられたことである。 第2 に、「入方」が最も望んでいた「夏草」に ついて、「七月十七日より二十一日迄五日間」に、 1 村当り「牛馬三十八疋」まで認めるというもの だった。 第3 に、絵図面の作成によって、「手良沢山入 会」の範囲が明示され、「入方」の利用地域が示さ れた。 すなわち、「入方」の入会は認めながらも、「山 元」の言い分にも配慮したものだった。 4.2 「村々入会」における「領域支配」の有無 寛文・延宝の「山論」によって、村々の関係が どうなったのか考えたい。 (1)「入方」の入会が認められたことは明白だっ た。すなわち、「山元」による「入方」の入会停止 は認められなかった。このことは、「入方」3 カ村 にとって、連携してリスクの高い訴訟に賭けた成 果といえる。 (2)ただし、「手良沢山」の「山方」とくに「地 元」の位置にある野口にとっても利点があった。 まず、「山元」と「入方」の関係において、入会の 採取品目や入込みの期間などに制限を設ける現 状が認められた結果、「山元」支配の優位性が保た れたことがある。また、絵図面によって、「山元」 による入会林野支配の範囲が明示された。 (3)つまり、「手良沢山」に関して、野口村が他 村に対し、入会林野の地元として支配を認められ たとの意識を持ったのではないか。「山論」の論点 として、単に入会の是非ではなく、「手良沢山」そ のものの支配をめぐる争いが底流にあった。

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89 (4)訴訟を受けて、訴状への「返答書」を出す段 階で既に、野口が「手良郷」の3 カ村、中坪、八 手、下寺を「山元」として、領主の違いや入会林 野への関わりの強弱を超えて、いわば“村々連合” を組んでいたことにも注目したい。立場の異なる 村々を含め、「山元」4 カ村として、「入方」3 カ 村に対抗したのである。 (5)他方、「山論」の経緯の中で、領主側の顔が 見えるのは、「裁許」の覚え書きをはじめ村々の取 替文書などに「裏書」(表に書かれているが)とし て署名人として登場するだけである。複数の知行 相互に代官所が斡旋に努めたという形跡はない。 関係の村々から代官所に斡旋を求めたことも認 められない。 (6)新田開発が奨励されていた時代に、用水や入 会林野の確保は必須条件だった。開田の用地はじ め、「切畑」(焼畑)の拡大もあった。同時に水源 の確保も必要で、一般に、入会林野は領主にとっ ても「地方(じかた)にとってもフロンティアだ った。「手良沢山」も例外ではなかった。“「山元」 「入方」関係”の背景には、このフロンティアがあ った。「山元」はフロンティアに優位な位置を持つ 「領域支配」を維持しようとしたのである。 なお、寛文・延宝の「山論」の後も、「山論」は 続いた。延宝の「裁許」の枠組みは変わらなかっ たが、「入方」による利用内容の拡張につながる行 為は頻繁にあり、「山元」からはその都度、抗議が あった。 4.3 「山論」にみるガバナンス構造 川村(1975, p.50~51)によると、「山元」「入 方」の村間格差について、“平沢・筒井論争”があ った。平沢清人は、「山元」との関係は入会林野か らの距離だけではなく、アクセス権はじめ利用内 容に格差が認められるとした。さらに、その格差 には大別して3 段階あり、「地元」(「山元」)、次 いで入会う中で「入会方」と「入会」の差があっ たとした。 それに対して、筒井泰蔵は、そもそも「地元」 と「入方」には大きな格差は無く、入会林野との 距離で名付けられるものでもないとした。 平沢は「手良沢山」に触れ、「山元」側は、野口 を「本地元」、中坪・下寺を「入会」、福島・野底・ 上牧を「入方」としたという。何れにせよ、「地元」 である野口にとって、譲れない一線がこの村間格 差(“「山元」「入方」関係”)だった。 「村々入会」の場合、「山元」が他の村々の入会 を排除することは出来ない。「山元」の優位を守り ながらも、関係する村々の入会をも可能にするた めに、この村間格差をガバナンスの中軸に置いた と考えられる。各村々の利用頻度や採取量をコン トロールするためである。ただし、「村間格差」の 下位に置かれた村々からは、当然のことながら不 満がでる。この点からも「山論」は繰り返された のである。 見方を変えると、繰り返される「山論」が「村々 入会」の枠組み作りや微調整を担っていたとも考 えられる。各村の「内山」入会とは違って、「寄合」 のような合意形成の場は無い。「村」の「寄合」の ように、その都度、議論をして“全員一致”に持ち 込むのとは、大きく異なる。 もちろん、訴状や「返答書」」に連署する「村役 人」による話し合いがもたれたことは想像に難く ない。しかし、「村役人」は必ずしも村民の総意を 代表しているわけではない。つまり、「村々入会」 においては、ガバナンスに必要な合意形成の場や プロセスに欠けるのである。 入会林野利用の制度(社会的ルール)を決める には、「山論」における“村々連合”が“「山元」「入 方」関係”を超えて、組織的に制度化されなければ ならないが、そうはならなかった。ただ、「山論」 が繰り返される中で、八手は度々引合いに出され たが、入会が認められたのかどうか、はっきりし ない。 結局、「山論」が起きる度により権威的な合意形 成システムを導入する他なく、訴訟の場における 「裁許」や「内済」が有効だった。その意味で、 「山論」は必然だった。 しかし、権威といっても、連署の領主相方が仲 介に乗り出すことは原則としてなく、結局、勘定

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90 奉行所に持ち込まれることが多かった。それだけ に、勘定奉行としても決定的な判断を下すことを 避け、「内済」に努めたのである。 「手良沢山」においては、延宝の「裁許」によ って下された枠組みを前提に、明治維新を迎える。 その間、「山元」側は、“「山元」「入方」関係”を 維持することに努め、「入方」は入会利用の拡大に 実力行使も辞さない構えだった。 「村々入会」におけるガバナンスは、第1 に領 主支配のガバナンスが、飛び飛びの村支配であり、 「御林」はともかく村々の「領域支配」への力は 弱かった。それに対して、入会林野の場合は「領 域支配」への強い意識があり、「山元」「入方」双 方にその意思は持続されていた。 さて、伊那地方のように一部の私藩を別にして、 小規模な幕府領や旗本知行の村々が集まった地 域において、領主支配の縦のガバナンスと分権的 な村々のガバナンスとは乖離しがちである。しか し、両者の接点として「山論」があり、個々の領 主支配を飛び越えて、江戸の勘定奉行に結びつき、 入会林野のガバナンスを形成したと考える。 「手良沢山」をめぐる「領域支配」とそのガバ ナンスについては、もう一つ考えるべき問題があ る。千村平右衛門の「伊那山」支配で形成された 「榑木成村」が、「上伊那」の「里方」である「手 良郷」における「地方(じかた)」のガバナンス形 成にいかに関わったのかである。 「上伊那」の幕府領である「榑木成村」の場合、 「夫食米」の供出を前提に「本年貢」は相当の優 遇措置が施されていたと考えられる。しかし、「山 元」3 カ村(あるいは 4 カ村)にとって、そのこ とが「手良沢山」の「山論」に有利だった証拠は ない。 ただし、「入方」3 カ村からみて、「手良沢山」 とその「地元」が幕府領であることに対し、相当 に意識していたと思われる。そのことは明治に入 ると、ただちに“御一新”の要求となって表れたこ とでもわかる。 5. 明治維新によるガバナンスの大転換 明治維新は言うまでもなく幕藩体制の解体で あり、千村平右衛門も版籍奉還となり、「榑木成村」 は廃止される。「榑木山」(「御林」)は後に改めて 国有林(その後一部は「御料林」)となった。これ らの過程は幕藩体制における縦のガバナンスの 解体であり興味深いが本稿では触れない。 ここでは、入会林野のガバナンス構造(「山元」 優位の“「山元」「入方」関係”)はどうなったのか、 明治に入っての「山論」を通して見ておきたい。 1872(明治 5)年、「入方」から、延宝の「裁許」 破棄の申し立てがあり、「山論」となった。 川村(1975, p.58)によると、同明治 5 年の「内 済示談書」が残されている。 (1)「山税」については、「里方」「山元」の区別 なく6 カ村割にして、野口より納める。 (2)「刈敷」の採取については、「明山」(山の口 明)から「山元」の先刈りを認めるが、その後は 6 カ村区別なく採取できるが、「里方」は馬の入り は一日一度とする。「休山」は6 カ村同様に秋分 彼岸の入りから。 (3)「夏草」の採取は「明山」からの「山元」の 先刈りを認めるが立秋以後は6 カ村同様とする。 ただし、「里方」の馬入山は一日一度に限る。 (4)萱(かや)については、「明山」より 6 カ村 同様に採取を認める。 (5)その他、「灰炭焼き」や「立木」伐採の禁止 さらに手良沢山への往来の心得が合意されてい る。 上記の「山税」を「山元」「入方」の区別なく6 カ村で割る(村割り)という点に、大きな変化を 知ることができる。元々、「山元」3 カ村が石高割 で支払ってきた税である。「山元」による村間格差 を前提とした「領域支配」が崩されたことを示し ている。 すなわち、支配の平等である。延宝の「裁許」 以来、「入方」が絶えず望んできたガバナンスにお ける平等性は、“御一新”により実現されたのであ る。ガバナンス構造の一新に他ならない。 しかし、刈敷や夏草の採取条件に付いては、「山

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91 元」に譲歩した形となっている。ここに、入会利 用の“平等性”が持ち出され、「領域支配」の考えが 強まれば、結局、「山割」(分割)に行き着く。 ところが、この「内済示談書」にみられる転換 をさらに覆す大転換が起こった。「手良沢山」の官 林編入(国有林への移行)である。 千村平右衛門支配下の「御林」の多くは、「官林」 (国有林、一部は「御料林」)に編入された。しか し、“伊那平”の一端にある「手良沢山」は「御林」 であったことはない。なぜ「官林」に取り込まれ たのか、「榑木成村」の支配地だったことから編入 になったのか分からない。北に接する「日影・日 向・青山入会」は、結局、民地として残り、その 後、入り会っていた旧村でそれぞれ区有林として 分割している。 川村(前掲1975, p.59)によると、明治前半と 思われる書付が、野口の「村役人」宅に残されて いる。“御一新”により生じた事態についての怨嗟 の声に満ちている。ここに「暴吏本山盛徳」が登 場する。島崎藤村の小説「夜明け前」でも“暴吏” として有名だが、本山盛徳の一存で決められるも のではなかった15)。今後の研究課題として残され ている。 おわりに 「山論」を通して、「村々入会」に関係する村々 の「領域支配」への強い意志を論じた。もちろん、 領主支配ではない村々の行動に「支配」という言 葉を当てるのは、あくまで仮説的なものである。 なお、村間格差を伴う「支配」といえば、何か 強い利用規制あるいは「地元」による独占的な利 用のイメージが強くなるかもしれない。しかし、 江戸時代の現実から見れば、「階層的ガバナンス」 による「支配」も、分権的ガバナンスによる「支 配」も随分と緩いものだった。「御林」を中心とし た「伊那山」支配は前者の例であり、入会林野の 「領域支配」は後者である。 江戸時代にあって、「支配」は排除を意味しない。 「御林」も入会的な利用の場であったし、石高制 による分散的な支配地を持つ領主にとっても、ガ バナンスの構築が容易だったに違いない。「村々 入会」は、当然ながらメンバーである他村の入会 を排除しては成り立たない。しかし、他方、「支配」 の緩さが、繰り返される「山論」を引き起こしも した。 “御一新”の後に来た官林編入は、「支配」の変更 ではなく、排除性の強い「国有林」への変更であ った。「入会利用」を伴う「御林」は消滅したので ある。「入会利用」を期待した村々にとって、“下 げ戻し訴訟”は必然だった。しかし、「支配」から 「所有」へ、その壁は高いものとなった。 注 1)本稿では、一般名詞としての村や村々と区別して、 特に「寄合」を軸とした村のあり方を示すために、「村」 の表記を用いる。 2)一般に「統治」と訳されることの多いガバナンス (governance)であるが、統治という漢字語であらわ される意味よりも、はるかに広い社会システムや制度 をカバーしている。かつて筆者は、川村(2008, p.5) において下記のような定義を試みた。「ガバナンスと は,相互に異なる主体(actors アクター)による合意 形成の制度化と定義できる。制度化のプロセスにおい て,継続的な合意形成と合意形成の場が確保される。 また,合意形成に参画するメンバーによって,ガバナ ンスの性格は変化する。」。つまり、合意の制度化であ る。あるメンバーシップの下、合意がメンバー間の社 会的ルールとして承認され実行されはじめてガバナ ンスとなる。 3)この「階層的ガバナンス」と「分権的ガバナンス」 の定義は、既に川村(前掲2008, p.5)で試みた。 4)幕藩体制と村々の位置付けの議論は、中村(1972, p.218~222)に始まり、幕藩体制そのものの理解にも 変化をもたらした。近世史を中心に歴史認識の変化は 激しく、近年は概説書ながら、高埜利彦(2015)や水 本邦彦(2015)に著しい。本稿では。ガバナンス視点 を導入して、より自由な論議を心がけた。 5)本稿では、後述の「榑木成村」における「上伊那」 を「里方」、「下伊那」を「山方」と呼ぶと紛らわしい ので、「手良沢山」では「山元」・「入方」を使用する。 6)「日影・日向・青山入会」は、諏訪領の村々を地元と する6,000 町歩に及ぶ広大な入会林野であり、「伊那

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92 領」からは八手を含め11 カ村、「諏訪領」からは9 カ 村の合計20 カ村が関係する「村々入会」である。こ の入会林野の経緯も興味深いが、本稿では触れない。 この入会林野に関する研究は少ない。箕輪町誌編纂刊 行委員会(1986)「箕輪町誌歴史篇」が、「日影・日向・ 青山の三山の山論」p.859~896、として詳しい。なお、 本稿の「上伊那」に関する図1 には、八手からの入会 関係を示すために「日影・日向・青山入会」の相対的 な位置のみ表わした。「手良郷」から八手だけが関係 している経緯は不明。 7)川村(前掲 1975, p.52~54)に掲げた「山論」文書 に各村の領主名がある。また、「高遠藩」やその他の旗 本知行については、上伊那郡誌編纂会(1965, p.614~ 705)が、「近世の政治組織」、として言及している。 8)「御林」は「榑木山」とは異なり、「上伊那」におい ても各地に置かれていた(前掲「箕輪町誌」p.936~ 947)。例えば「榑木成村」の上穂にあった「御林」の 場合、御材の伐採時でなければ、地元の入会が可能で あった。また「高遠藩」が、高遠城下の用材生産を目 的に、榑木生産を試みたこともあった。 9)図 2 は、川村(1977, p.86)を前提に、「榑木成村」 および「榑木山」を区分した上で各村名を明示した。 10)「榑木成村」の成立期は、はっきりしないが、千村 平右衛門支配下で、当初は各地に「榑木成村」の指定 を試みたことも考えられる。その名残として、「手良 沢山入会」の「入方」である福島は貢納の一部が「榑 木成」計算だったとの指摘がある(前掲「上伊那郡誌」 p.797)。年貢の「免定」を確かめないと分からないが、 あり得ることと考える。さらに、川村(1977, p.88~ 89)によると、「榑木成村」の成立については、“所・ 平沢清人論争”がある。所三男が、江戸初期の伐採によ り良材が奥地化することにより、より資源的に有利な 山間の村々が榑木生産を代替わりした結果、「榑木代 納」が広まったとした。それによって「榑木成村」が 慶長年間には成立していたとして、“慶長年間成立説” を出した。それに対して、平沢清人は、江戸初期から の幕府領の再編の中で、現物納など種々の年貢形態の 整理が進み、榑木換算が残って幕府領を中心に「榑木 成村」が成立したとした。成立時期としては、寛文年 間にまで下がるとしている(“寛文年間成立説”)。この “所・平沢論争”は千村平右衛門による「伊那山」支配 の成立とも関係して重要な論点だが、本稿では議論に 参加する用意がない。 11)前掲「上伊那郡誌」p.784~785 には、1683(天和 3)年の、野口、中坪、八手、小野 4 カ村の年貢計算 が示されている。 12)「石代納」とは異なる「榑木成」については、川村 (前掲1977, p.82~84)において不十分ながら論証を 試みた。 13)金納において、「石代納」より「榑木成」が有利な ことは、川村(前掲1977, p.89)で議論している。 14)この「起請文」は貞享年間の誓紙であるが、それ以 前から「榑木役」に就いていたのかどうか分からない。 それもあり、「伊那山」における「榑木成村」の始まり がはっきりしない。 15)藤村の「夜明け前」については、議論が多々あると ころ、本稿では、西川(2006)を参照した。 文献 林董一(1959)「山村甚兵衞と千村平右衛門―わが近世 封建制における二重封臣関係について―」『法制史研 究』1959(9)、183~211。 可児町史編集室(1973)『可児町史 資料編』可児町、 p.62。 上伊那郡誌編纂会(1965)『長野県上伊那郡誌 第二巻 歴史篇』上伊那郡誌刊行会 川村誠(1975)「上伊那地方における林野利用の史的研 究:その1 手良沢山山論の展開」『京都大学農学部演 習林報告』47、48~61。https://repository.kulib.kyo to-u.ac.jp/dspace/handle/2433/191600 川村誠(1976)「上伊那地方における林野利用史的研究: その2 手良沢山をめぐる「内山」争い」『京都大学農 学部演習林報告』48、97~114。https://repository.ku lib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/191616 川村誠(1977)「上伊那地方における林野利用の史的研 究:その3 伊那地方の榑木生産と手良郷」『京都大学 農学部演習林報告』49、81~92。https://repository.k ulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/191637 川村誠(2008)「グローバル化する森林・林業問題と政 策課題」『林業経済研究』54(1)、3~17。 川村誠(2018)「入会林野考―ガバナンス構造と比較制 度論―」『入会林野研究』38、65~77。 高埜利彦(2015)『天下泰平の時代(岩波新書シリーズ 日本近世史③)』 前澤健(2019)「榑木成諸村の年貢 2―年貢収納からみ る『榑木成』―」『飯田市美術博物館研究紀要』29、51

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93 ~66。 松原輝男(1997)「信州大河原・鹿塩両村御榑木山の近 世における林相 その1:諸木伐出の歴史に基づく検 討」『情報文化研究(名古屋大学)』6、39~70。 松原輝男(2000)「信州大河原・鹿塩両村御槫木山の近 世における林相 その 3:槫木の原木サワラの分布と その採出」『情報文化研究(名古屋大学)』11、1~30。 松原輝男(2003)「近世信州伊那郡大河原村の自然環境 と人間」、『語り継ぐ天竜川』56、p.1~95、建設省中 部地方建設局天竜川上流工事事務所 箕輪町誌編纂刊行委員会(1986)『箕輪町誌 歴史篇』箕 輪町誌編纂刊行委員会 水本邦彦(2015)『村―百姓たちの近世―(岩波新書シリ ーズ日本近世史②)』 中村吉治(1972)『幕藩体制論』山川出版 西川善介(2006)「島崎藤村『夜明け前』における木曽 山林事件の虚実:林業経済史の立場から」『専修大学 社会科学年報』40、229~239。 (*元京都大学) (投稿受理2021 年 3 月 11 日)

参照

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