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講演「母乳育児のうそほんと」

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講演「母乳育児のうそほんと」 よこはま母乳 110 番相談員(母親)竹中恭子 (2001年8月東京都ウイメンズ・プラザ 日本母子ケア研究会にて講演したもの。日 本母子ケア研究会誌第2号に載った全文を掲載させていただいています。) 皆さんこんにちは。よこはま母乳110番という、2002 年に10年目を迎えます、ボラン ティア電話相談の相談員をしております竹中恭子と申します。これから45分間、「母乳育 児のうそ、ほんと」と題して、これまで体験したことをいくつかに分けてお話しします。 どうぞゆったりリラックスしてお聞きください。 出産に向け、情報セレクトは完璧と思った 初めての出産は1989年、ちょうどラマーズ法や夫立ち会い分娩が脚光を浴び始めた頃 です。 結婚前、経済関係の専門図書館で図書館員をしていました。情報を扱う職業柄、妊娠出産 についてかなり真面目に調べたつもりでしたが、実は正確な情報ではありませんでした。 とにかくラクな出産方法を知りたいと思っていたのです。これが良くなかったようです。 私達の世代は、生まれた時から男女共学、就職試験も男子と張り合い、残業、キャリアア ップは常に普通。だから、妊娠・出産・育児は、ある意味リスクでしかありません。保育 事情や地域サポート、家族の手助けすら期待できない社会の中で働き続けることは当然「子 どものマネジメントは大変だから産まない」「一人にしておく」、そういう捉え方しかでき ませんでした。だから、私としてはどうすればリスクを軽くできるか「できる限り調べて そのリスクを回避しよう」そんな姿勢でいました。赤ちゃんを抱いたこともありませんで したから生き物そのものが怖かった、そんな中で育ってきて、頭の中だけでかちんこちん に想像をしている、そんな妊娠準備期間でした。 それに妊婦さんってまだあどけないでしょう、生活にまみれてないと言うか。例えば哺乳 瓶は「スヌーピーかなあ。キティちゃんかなあ。プーさんにしようかな。」という感じ。グ ッズ類をコーディネートをして手に入りにくいブランドの最新型を揃えて・・・みたいな そんな発想ですから、母乳育児が何たるか、どころか哺乳瓶を使うことの意味や母乳や体 の仕組みすら考えてもいませんでした。 イメージとは程遠い、実際の出産 当時私の食事は、生活感のある食事を嫌っていたためひどい内容でした。例えば、ワイン グラスにハーブとカットトマト、モッツァレラチーズをもり、ちょっと食べて「いい感じ」 なんて思っていました。ご飯なんて生活感丸出しでいや、洋食が断然格好いい、そんな気 持ちでした。しかし、妊娠がすすみ体が変化するにつれ、きちんと食べないといけないこ

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とが次第に分かってきました。自分が考えていたことと違うことが起きている感じがして 「お産がこわい」。でもって毎日泣いてばかり。我慢して先生の言う通りにすればすぐ終わ る、そんな気持ちでめそめそ過ごしていたのです。 だから実際のお産はショックでした。陣通のとき空き部屋がなかった為、布団部屋みたい なせまい部屋に押し込められ、厳しい婦長さんが、「我慢できなくなったら呼んでください。 注射しますから。」と言うのです。 どの位我慢したらいいのか、痛みがどうなっていくのか、陣痛とお産の痛みの区別すらわ からず、無痛分娩を選択しなかったことに私はあわてました。結局、注射の意味も分から ないまま、早く呼んでしまえば早く終わる、的な浅はかな考えでナースコールしました。 飛んできた婦長さんの「もう我慢できないの!」にびっくり、もう怖くて、でも反面、本 当は質問する気持ちもあったのに「もう我慢できないの。」に「うん」と言えばもう我慢し なくていいのか?と思い「うん」と言ってしまいました。 間もなく点滴と注射をされまして、あれは促進剤だったと思いますがそれから先は2,3 時間であっという間に出産しました。多分自然分娩だったら、(二人目は自然分娩)もう少 し違う痛みだったのでしょうが、野蛮で今まで体験したことのない痛みに、マタニティブ ルーなのか薬の副作用なのか、わかりませんでしたがどよーーんと大変ショックを受けま した。 子供にはすまないことをしたと、今でも思いますが、このとき赤ちゃんの顔も見たくない、 と拒否しました。『お部屋を移し、お母さんが落ち着くまで赤ちゃんはこちらで預かりまし ょう』ということになり、その晩は主人が白い薔薇の花束を持ってお礼を言ってくれまし た、そこはイメージ通りでしたが何かが違う。とにかく精神的な落ち込み具合がすごかっ たのです。その病院では、赤ちゃんは新生児室ではなく、看護婦さん達の控え室のような 畳の、寝泊まりする部屋でそこで臨時の助産婦さんがつきっきりで、抱いたりあやした見 ていてくれました。生後すぐの赤ちゃんにミルクは足しませんから、糖水をあげごまかし てくれていたようです。 まだ布団部屋にいる私に主人が面会時、助産婦さんが赤ちゃんを連れてきて私の枕もとに 置いてくれました。私と主人が話していると、赤ちゃんは主人の声がすると主人を、私の 声がすると私を見ました。「この子はお腹の中にいる時の声を覚えているのね。」ふたりで 話したその意味をもっと深く捕らえていたら、赤ちゃんを返さなかったのでしょうに、何 の疑いもなく助産婦さんに返してしまいました。「少しならしてみる?」「おっぱいあげて みる?」という助産婦さんの申し出を断わり、赤ちゃんを引き取ったのは結局丸二日たっ てからです。当時預かってくれた助産婦さんは、多分全て分かっていたのでしょう、今思 い出すととても残念な表情をしていました。 抱き方さえままならず、乳房トラブルに 三日目に赤ちゃんを引き取りましたが、泣かないのです。あきらめたのか、最初から泣

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く力もないのか、弱々しい感じの子で、体重は2500g位で、何より寝てばかり、おほ とんどおっぱいを飲んでくれませんでした。 娘は7月5日生まれでしたから真夏だったので家族がすいかと牛乳を山のように冷蔵庫に ストックしてくれ、私はそれをがばがば飲んだり食べたりしたため、あっという間におっ ぱいはパンパン、乳首つるつるになってしまいました。ところが娘は、そうなるとおっぱ いを益々飲まないので乳房は腫れてボール状に。今度は、胸の痛みでお産を恨んで泣いて いるどころではなく、大変でした。何本もある細い乳管の一本だけが詰まりそこにカーッ と圧力がかかるわけですから痛いのは当然です。もちろん助産婦さんにケアして頂きまし たが大変でした。 抱き方もよく分からず腱鞘炎にもなりました。退院したものの、おっぱいをあげるタイミ ングもわからず、泣いたらあげてください、と助産婦さんが母乳指導してくれましたが泣 かないからいつあげていいのかわかりません。 しかもよく痛みとともに母乳が詰まって全く出なくなりました。横浜市内で母乳外来を探 しましたがほとんどなく、あっても火、水曜の2時から3時までと短い診療時間で、痛い ときにすぐに対応してくれるような仕組みではありませんでした。そこで困ったあげく出 産した病院の助産婦さんを訪ねました。「水道のトラブルはは24時間受付けるのに、どう して母乳の詰まりは受付けないの」そう思いました。 その助産婦さんは、勤務時間の合間をぬって空き部屋を確保して対応してくれました。直 接山西先生に指導を受けた人ではありませんでしたけれど、山西先生の本を熟読していた 人で、手当てしながらいろいろと自然育児の話もしてくれました。その人に手伝ってもら いながら母乳育児を続けましたが、相変わらずトラブルは続き、寝不足、ぎっくり腰や腱 鞘炎と散々な状態でした。そういう状況では赤ちゃんが可愛いと思えず、夜中に抱きなが ら「どうして私がこんな目にあわなければいけないの」そう考えては泣いていました。 山西先生に出会い 生後3ヶ月位の時、例の産院の助産婦さんが「高カロリーの食事はおっぱいが詰まりやす いのよ、この本読んでみて」と山西先生の『母乳で育てるコツ』を貸してくれたので、夢 中で読みました。 あの本は先生のかなり昔の本ですが、厳しい食事制限の方の話が例として沢山載っていま したので「これは特殊な人の例」とその時は思いました。ただ、卵・牛乳がいけないかも しれない、ことは妊娠中に読んだ安藤和津さんのエッセー本で知っていました。安藤さん は「自分に食物アレルギーがあり、生まれた子供は腫れぼったい埴輪みたいな目の子だっ たので、卵を制限したところぱっちり目の美人だったと分かった。おっぱいと食事制限。 色々な考え方があるが自分は制限するほうを選んだ」と本の中で言っています。そして「実 際、コップにおっぱいを絞ってみると、乳汁が油膜がはり真黄色いドロドロした時と青白 くてさらさらした時がある事に気づいた」ともありましたので、私は自分もそれを試して

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みて卵と牛乳を制限しました。 ところが、制限しているつもりでもスーパーで売っているごく普通の市販品に、卵や牛乳 が入っているという認識がないため生クリームたっぷりのショートケーキをパウンドケー キに、卵丼を天ぷらに、程度の制限で制限できていると思っていまして当然おっぱいの調 子は良くなりませんでした。授乳中うなぎを食べろ、周りがそう言いましたので「おっぱ いがでるなら」と一生懸命うなぎ食べました。すると、正月早々腫れあがり、例の助産婦 さんは不在で診てもらえず、自然育児相談所ならと2日の夜中に駆け込み、そこで初めて 山西先生に診て頂きました。 マッサージが気持ち良く、白い脂肪の塊の栓をポンッととって「ほら、こういうのがあな たの乳腺にはゴロゴロ入ってるのよ」と見せられたとき「はぁ∼」とため息が出ました。 また、何を食べたらいいか分からないと泣く私に「赤ちゃんのいやがる物をやめれば何を 食べてもいいのよ。赤ちゃんの様子見てやっていければいいの」と言われびっくりしまし た。赤ちゃんの様子を見て、見ながらやっていく?ということは決まりがないじゃない。「品 目も分からないの?」と目の前が真っ暗になりました。 食事制限のはじまり 大船在住、といっても横浜市のはずれでほとんど鎌倉寄り、そこから都内に出て環七を通 り山西先生方の相談所まで行くには3時間近く時間がかかります。帰りは外食するつもり でしたので主人と相談し、とりあえずうどん屋みたいな所で“梅しそうどん”を頼みまし た。ところがその“梅しそうどん”に揚げ玉がたくさん入っていました。でも「かつ丼」 でなく「梅しそうどん」なんだから大丈夫と残さず食べました。ところが、帰り道おっぱ いがまた腫れあがってきたのです。 この一件で、私のおっぱいはとても詰まりやすいという認識ができ、食事改善にもっと真 剣に取り組むことにしました。何かしなくてはと、相談所にあったアレルギー食品の会社 から食品を取り寄せて見ることにしました。それが届くまでの間はとにかく乳腺がつまら ないよう、ご飯と野菜中心に食べました。松村先生の本もお借りて読み、そこにあった厳 格食からはじめてみました。 あまり知識もなく始めた除去食で、スーパーで買った白米を炊き、小松菜等の葉ものをお 浸しにして食べるわけですから体は冷えるし美味しくないし、どんどん気持ちが陰鬱にな って行きました。それでも1ヶ月半くらいは頑張って厳格食を続けました。 ところが、禁断症状はお刺身が食べたいとかステーキが食べたいとかよりも、濃いアミノ 酸の味や旨味に対しての渇望感でした。薄味だとよく噛むけれど、濃いものを食べなれて いた私の場合、ろくにかまないで飲み込んでいたのです。本当に噛まない食生活をしてい たのだなあとその時実感しました。禁断症状はきつく、ただただ我慢だけし、乳腺が詰ま っては東京の自然育児相談所まで駆けつけていたので、山西先生も気の毒に思ったのでし ょう、自然育児のベテラン訪問助産婦で横浜の国橋さんを紹介してくださいました。

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自然育児との出会い 国橋さんが家に来てくださるようになって、体も心も段々落ち着いていろいろな情報が入 り、除去食と自然食は違う、健康母乳食と除去食も違うことがわかってきました。 よこはま自然育児の会という、サークルにも入会して、お友達もできました。自然育児の 智恵を学ぶ中で一番驚いたのはお産のことです。母乳に関しては出産直後から母子同室た ったら苦労はしなかったことや抱き方、飲ませ方、授乳時間に法則性はなく、赤ちゃんに 合わせて自然にやればいい、と聞いて本当にびっくりしました。人は哺乳類と初めて感じ ました。自然に合わせた、子供に合わせた昔ながらの育児を知った時「じゃあ世の中に氾 濫している今の育児情報は何だろう」と思いました。 私が法則性にこだわり苦しみ続けた理由は育児書のこの言葉からなのです。 「3時間おきに泣きます」 「3時間おきじゃなかったら母乳不足」 「1日8回以上は母乳不足を疑いなさい」 母乳栄養か人工栄養か、それは栄養価の違い位しか普通の人には分かりません。しかし、 本当はライフスタイルそのものを変えて、子どもに合わせること、それが母乳育児です。 ただし、その情報は全く一般誌には書いていない、そう気づいた時、情報産業の一端にい た一人としてとても衝撃を受けました。これだけの情報化社会で、しかもこんなに重要な 情報なのにこれほど知られていないことが今の世の中にあっていいのかしら!そこまで思 いました。今考えるとその驚きと「この真実を知らせなくては!」という使命感が発展し てよこはま母乳110番を開設したのかもしれません。 よこはま母乳110番を開設したきっかけ よこはま自然育児の会の91年度の代表になった時いちばん驚いたのは、母乳相談の電話 が自宅に殺到したことです。母乳育児というのは、炎症などを起こして初めて医療の対象 となるのであって、もともと生活の一部です。母乳もお産も生活の領域です。だからこそ、 専門家には聞けないようなことがいっぱいありまして、先ほど申し上げましたように医療 の谷間といいますか、相談にのってもらえるところを皆捜していたのでしょう、一日7, 8本、多いとこには15本くらい電話がかかってきまして、家の電話がパンク状態になり ました。母乳育児サークルの代表なら相談にのってくれるかもしれない、知っているかも しれないとみなさん、電話をかけていらっしゃるのです。こんなに求められているのに、 こんなに皆困っているのに。自分なんかでいいの?そんな気持ちになりましたが、電話は いっこうに減らないで、増える一方。 もちろん、私は素人ママですよ、と念をおして医学的なことには答えませんし、電話です から、赤ちゃんの様子もおっぱいの様子も見ないで無責任なことは言いません。ひたすら

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話を聞いて、求められれば、たまたま母乳育児サークルの代表として先輩ママとして、生 活者の一人として、そういう場合はこんな人が多かった、という体験談をお話するだけで す。難しいケースには信頼できる専門家への橋渡しを心がけ、できる限りの連携もとって いました。でも電話はどんどん増えつづけ、家族のがまんも限界にたっし、ついに相談が 2000件を超えた時点で「この電話を公共のものにしよう」と決心しました。 そこで今自宅で鳴りっぱなしのこの電話を、別回線にして皆が交代でとってくれればいい と思いついたわけです。お母さんたちの集まりだから週一日2、3時間の開設時間にしよ う、それ以外の時間は留守録にしておいて、とにかく電話相談窓口を開設しよう、そうす れば今よりずっとラクになるに違いない。これをつくるにはまず「人、場所、お金」だ! と考えたのです。で、会には B 会員と呼ばれる専門職会員がいるのですがその方たちを集 めて会議をしまして、「人もいる、場所もある。それは竹中の自宅でけっこうです。あとは お金の寄付をお願いします!」と言って開設を決めました。1991 年の秋のことでした。そ れから準備委員会というのをつくって200問くらいの想定質問集をつくり(50人くら いのお母さんたちが協力してくれました。)1年の準備期間をへて1992年の9月に「よ こはま母乳110番」を開設しました。 組織づくりに奔走 最初はしろうとが体のことで相談にのるなんてとんでもない、という批判もありました。 でもね、「それは専門家の思い上がり、体のことは誰が語ってもいいのですよ」と横浜市女 性協会の職員たちが応援してくれたのです。わずかですが、助成金もいただきました。で もまだわかっていなかったのは、取材を受けることの怖さです。何といってもいちばん驚 いたのは開設の日にどこで聞きつけたのか神奈川テレビの昼のニュースがきましてキャス ターに「はいっ、1分間でどうしてこれをつくったか、話してください」とマイクをつき つけられたこと。もう頭の中はまっ白。でも必死でしゃべりました。「そうか。それが説明 できなければいけないんだ。それが自分の役割なんだ!」とマイクを突きつけられた瞬間 にわかったからです。昔財界の広報センターに勤めてはいましたが、広報マンでも何でも なかったわけですが、自分は何をすればいいのか、その時からまるで電気が走ったみたい にわかってしまいました。 あとはひたすら走りつづけました。開設資金づくりは横浜そごうの9階の市民フロアで、 もとの上司のつてを頼って NTT に場所を借りて展覧会をして自分が描いた授乳中の母子の 絵を売ってつくりました。寄付も沢山いただきました。当時はどこでも子どもを抱いて絵 をかついで寄付のお願いをしに行きました。 ちらしや寄付のお願い文、礼状、相談員の研修テキスト、収支表、交通費の明細、当番表、 協力医療機関のリストやカルテの集計表など、運営にはさまざまな書類とそれを企画した り、実際に活字に打って、レイアウトして印刷して、という作業をしました。せっせとコ

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ピーの山を作っては皆に発送したり配ったり。本当に必死でした。 開設前は、みんなで相談電話に出てあとは留守録にしておけば全然ラク、になると思って いたのにちっともラクにはならず、開設してみてすぐにこりゃ大変、ということがわかり ました。組織の立ち上げにかかわったのだという自覚すらなくて無我夢中で始めてしまっ たことでしたが、やってみて一人では到底できないことだと即、わかりました。そこで、 私がいなくてもできる体制を至急つくろうと、場所を移動することにしました。私の家で しているかぎりは開設場所に行く手間が省けて私はラクだし、どんな事態になっても私と いう人手だけは確保できる、でも私という人手が倒れたり家族の反対で中止したりすれば 後が続かない、と気がついたからです。 一人の力に頼らない仕組みづくり 幸い、助産婦さんの一人が貸家を提供してくれて、そこに場所を移しました。今までは誰 も行く人がいなくても竹中さんが電話に出てくれる、とみんな思っていたのですが、今度 はがんばって「誰かが」行かなければ相談の電話を取る人がいない!というわけ大勢のお 母さんが子どもをおぶって必死で来てくれました。事務機能も、誰がいつ来てもわかるよ うに運営の仕方に工夫をこらし、そこが単路線の駅から少し遠かったこともあって、炊き 出しや、勉強会を開いての人集めもしました。乳幼児連れだと、乗り換えや徒歩がとても 大変ですから、複数路線のもより駅で待機して、子どもの手を引いてくるお母さん相談員 を乗せて開設場所に届ける送迎ボランティアを募って何人か乗り合わせての開設場所に行 ったりもしました。でも、結局、送迎ボランティアのお母さんも子ども連れなので、そん なに沢山乗れない。(笑)バザーも同じでして、荷物を運ぼうにも、売り子を募ろうにも、 一人の大人の人手を確保しようとすると、子どもが2人くらいついてきますので、たちま ち7、8人。赤ちゃんを抱いているから荷物は沢山持てないし、おむつやら何やら自分た ちの荷物と子どもであふれかえる。もう少し大きくなってくれたらくれたで、幼稚園に行 き出してお迎えの時間が迫ってきて来られなくなっちゃうやらで、どこをどうやっても能 率が悪い非能率大集団(笑)。 おまけに2才以下の子どもというのはしょうちゅう熱を出しますし、次の子の妊娠や出産 もあるし、約束していてもあてにならない人の大集団でもあるわけです。この人たちのマ ネジメントができれば私はどんな組織のマネジメントもできるかも。どんなローテーショ ンも組めるわ、と思ってしまったくらいです。でも、楽しかったです。皆生き生きしてい ました。乳腺炎になったり、子どものアレルギーで苦しんだり、ますます忙しい身の上な のに人の相談に乗るどころじゃない人たちの集まりなのに、それだけに皆、熱心に研修を 受け、カウンセリングの勉強もしていました。 お母さん同士によるサポートの重要性 専門家に聞けないことも「うちもこうだったの」「お宅もそうだったの」と共感を得ること

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でほとんど解決するのが育児の世界の特長です。 そういう、お母さん同士によるサポートの重要性を当事者のお母さんたち自身が一番、よ くわかっていたのだと思います。専門家の先生によりますと、それはメゾカウンセリング と呼ばれる分野で、隣人愛の精神とも言い、専門家が指導するカウンセリングとは違って 隣りの人に声をかけてあげる、ぽんぽんと肩をたたいて励ましてあげる、そういう種類の カウンセリングのことだそうです。 マザートゥマザー、お母さんからお母さんへ。よこはま母乳110番ではあくまで当事者 による親しい自然な感じの相談機関を目指すために、自分たちにできること、できないこ との境界線をはっきりさせ、手に負えないときに知識をもった専門家にきちんと橋渡しで きるような体制を心がけています。 電話相談は正直言って非常に好評で、ひっきりなしにかかっていていますが、現在も人員 確保が大変な為、週1回10時から12時の2時間しか開設していません。 以前働きながら母乳育児をしている母親のために会社の昼休み時間の13時まで開設時間 を延長していたことがありました。すると、幼稚園児の母親相談員はお迎え時間の関係で 前半の当番しかできず、二交代の人員が必要になってしまうのです。それに3時間だと子 どもの機嫌ももたないので、結局もとの2時間に戻しました。ですから相談件数自体24 時間対応の所とは比べものにならないくらい少ない数ですが、ごく普通の母親の声がたく さん寄せられ、ごく普通の母親相談員が答える貴重な電話相談だと思います。 10年前に比べて母乳育児の情報も格段に増え、他の相談機関もいくつか出来きました。 でも留守番電話に「どうして電話をとってくれないの!」という悲鳴のような声が入って いたり、「周りのみんなが母乳をやめろと言う。ミルクを足せと言う」と沈んだ声の相談も たくさんあります。だからこそこの相談の火を消さないようにと私はいつも思っています。 生活の智恵と、専門家の裏づけを結び付けて欲しい 最後に私がどうして母子ケア研究会つまりここへ来たかというお話をしたいと思います。 先ほど110番を開設した社会的な使命を、テレビに出演した時はじめて感じたという話 をしましたが、お母さんという特殊な立場とその限界は常に感じています。それは日々の 活動でもそうですし、取材され、報道されるときもです。 医者でも助産婦でもないということは何の専門知識ももたずに本当に体験だけでものを言 うということです。だからこそ、今まさに悩んでいる最中の母乳育児中の、お母さん相談 員の人手が必要なのです。みなさん私たちの活動の様子があまりに大変そうなので子育て が終わって時間ができた熟年層の方を募るといいのではなどとおっしゃいますが、子育て、 特に授乳期間などというのは人生のほんの一時期なのでどうしても実感が薄れてきてしま う。私も、あんなに苦労したにもかかわらず母乳育児時代のことが、人ごとのようにかん じられるなあ、と最近は思います。だから、どんなに大変でも現役の母乳育児中の人員が

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必要だと思っています。ただ、それだけではいけないのも事実だと思っています。 そこで私達母親が専門家に何をしてもらいたいか、ということですが、それは正しい知識 を諭してほしいことです。母乳育児の場合特に、体験から出た知識はとても役に立ちます が先輩ママとしての体験を伝えることはできても正確な医学的な知識は持っていないため、 お姑さんやご主人が納得しない場合が多く「小児科医は、ミルクを足せと言ってる」など と言われてしまいます。こういったときに専門家の裏付けや指導、ちょっとしたアドバイ スやサポートがあれば母乳育児の知恵はさらに効力が発揮されるように思えます。 ここにいらっしゃる自然育児を研究しているみなさんでしたら、私が実践した母乳育児の 知恵、お母さん達が自分達で得た知識が貴重でどんな研究事例よりも優るということを、 よくご存じだと思います。そうした、たくさんの事例を持っている私たちのような母親の 自主グループと手を組み、是非とも世に情報として発信していって頂きたいと思います。 最後に 育児を経験して分かったことは沢山あります。それは育児というのは後悔の連続だという ことです。ああすればよかった、こうすればよかった、現在も後悔の連続です。ただ、知 らなくてする後悔と、知っていて選べた後悔はぜんぜん違う。知らなくてしてしまったり、 出来なかったりしたことの後悔は、本当につらい。 娘を産んだその晩、例の布団部屋に近かったので助産婦さんに抱かれて控え室で過ごすま りもの声はじつは一晩中聞こえていました。その声を聞いていたのに、知識のなさから、 私は抱くことすらしなかったのです。生まれたばかりの赤ちゃんがどれほど母のあたたか いおっぱいをもとめていたか・・・。母乳の正しい仕組みや自然出産の不思議を知識とし て知ってからというもの、私はその時のことを思い出しては悔しくて悔しくて何度も夜中 に飛び起きる日が何年も続きました。あのときのまりもがどんなに私を求め泣いていたの かと思うとたまらない気持ちでした。 そういう知らないで選んでしまった、後悔するお母さんを少しでもなくすためにはみなさ んのような専門家の知識と裏付けが、必要です。私たちお母さんの生活の知恵とそうした 正しい知識、この二つをセットにして一緒に世の中に出していって頂きたい。より多くの お母さんと赤ちゃんが楽しい母乳育児を行っていくために、手を携えていけたらと思って います。今後ともよこはま母乳110番のことをご支援ご協力くださいますように、よろ しくお願い致します。 質疑応答(抜粋)

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(A さん) 子供が2、3歳位まではこのような活動に興味をもち、協力してくれる方も多 いと思いますが、学童期をむかえ子どもの成長に伴い、その方々はどういう形で協力され、 成長し変わっていかれますか? (竹中) 「よこはま自然育児の会」という400人位の育児サークルが母体となり、その中 の有志が作ったボランティア団体。それが母乳110番です。 私はよこはま自然育児の会・92年度代表を務めた時、“会長だから知っているだろう”と 自宅に母乳相談の電話が殺到、多い時で一日15件少なくて7、8件、電話がふさがって パニック状態になりました。そこで、これを“一般の公共電話にしよう”と思い電話を開 設したわけですがその時一番気をつかったのはスタッフのことでした。 母乳育児は、人生のほんの一時の通過点に過ぎませんが、よこはま自然育児の会の歴史自 体は長く、毎年任期を一年にし、役員を入れ替え継続してきた育児サークルです。新しい 人を入れ替えるということは、常に研修を続けなければならない、そうなると事務の引継 ぎや対外的な活動もとても厳しいのですが、この「思い」を伝えよう!というのはかえっ てやる気が継続するように思えます。今まで千人近くの人がこの10年の間、母乳110 番に関わってきました。 ただ、苦労されたお母さんは意外と長く活動を続けてくれます。例えば乳腺炎ですごく痛 い思いをした人、姑に猛反対され泣く泣く混合育児をして最終的に母乳一本にしたお母さ ん、そういう体験をもった人は執念があって継続してくれます。実際にお母さん達のケア をする助産婦さんは本当に忙しく、関わっていただけることは少ないのですが、幸い母乳 110番の場合横浜市の「おっぱい保健婦」として有名なよこはま自然育児の会の生みの 親の朝倉さんが顧問で、ずっと見守って下さっています。 (B さん) 開業助産婦をしています。自宅のお産に来る人、助産院に来る人、病院に来る人、 それぞれみな求めるものが当然違います。竹中さんの体験にあったように、食べ歩きや美 白、ダイエットなどに興味を持っているけれど、出産はなるべくリスクを避け一番自分に 合うお産を、という方が病院に多くいらっしゃるように感じます。 どうすれば本当の意味で、楽で楽しい母乳育児を、妊娠初期に伝えられるのか、体験した 側からこうすればもっと早く私達のアンテナと、ピピッとつながるんじゃないかなってい う所を教えてもらえますか。 (竹中) そうですね、私はずっとそれを考え続けてきましたが、インターネットは一つの ヒントになると思います。 特に子育て関連のネットは、数の多さもさることながら、上下なく情報を伝えることが特 長だと思います。素人がつくったサイトでも人気が出れば、何十万何百万という人がいっ ぺんに見る媒体となりうる、ということです。 私自身も、妊娠中から本当の情報を得ることが一番重要だと思い、母乳の育児書を作ろう

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かと思っていました。今の、病院出産の一連の流れでは、産んでしまったらどうしてもミ ルクになっていきます、その流れにストップがかけられるのが妊娠中ではないかと。 ここ数年、インターネットの普及はすさまじく、ごく普通の人がさまざまな知識を入手し ています。東京の自然育児の会会員はすでに1800人を超え、昔はマニアックといわれ た自然育児情報も違和感なく検索入手する方が増えています。雑誌より“生きた情報が得 られる”ことに皆気づき始めていることの現れではないかと思います。 それともうひとつ、ネットの特長に父親を巻き込むことができること、があげられます。 パパのアクセス数は物凄く、会社の昼休みなどを利用してでしょうか?「妻の初めての妊 娠、出産にかかわる質問」や「母乳ですごい苦労している」とか「赤ちゃんが年中泣いて いるから母乳不足じゃないか」「妻が離乳食作りに苦戦、簡単メニューはありませんか」な どたくさんの質問が寄せられています。また、パソコン操作がよくわからないママのため にパパが質問を打ち込んで、結果、いっしょに母乳110番からの返事を見る、というこ ともあるようになりました。こうした思わぬ形で男女が育児に参画するというのも現代の 育児のひとつの特長ではないかと思っています。 ただ病院、産院など専門家として病院にいる方は難しいですね、一種のサービス業ですか ら。フルコースを出す病院に妊婦さんがみんな行ってしまうとか。ただそれが楽な人もい れば痛い思いをした人もいて十人十色でしょう。失敗例の情報も含めて伝えたくて「産院 選び」の本を出版したグループもいますし、そういう今までは伝わりにくかった情報も今 後はどんどん一般に伝わっていくと思います。 私はお産も育児も、ラクで自然で楽しいよ、と気軽に伝えていけたらと思います。そこに 母乳育児を広めるヒントがもっとあるのではと思います。そうしても現状を説明してしま うと苦労話ばかりしてしまい反省するのですが。 (C さん) 勤務助産婦です。外来で保健指導を担当しています。私が指導している患者さ んの一人に、思いがけない妊娠だったためか、妊娠をいい方向に受け入れられない方がい らっしゃいます。竹中さんが苦労されたその経験をふまえての二人目の妊娠時、どう感じ、 お産を乗りきっていかれたのか聞かせて頂けますか。 (竹中) 私は二人目を妊娠した頃はすでに、「自然育児は得意」「母乳は任して」みたいな感 じででした。でも、ミルク育児が良くないとか、母乳育児が絶対いいとかは思っていませ んし、自然分娩でなくちゃと思いがちなメンバーに言い方に気をつけるよう、注意するこ ともあるくらいです。 というのも私の友人で母乳推進論者がいまして一生懸命母乳育児を広めようと世界的な母 乳の権威、山内先生のビデオをご近所のお母さんを集めて見せて、その結果ミルク育児の 母親達が落ち込んで大変だったことがあったからです。確かに母乳は素晴らしい、だから

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一生懸命訴えるのは構いませんが、その本当の仕組みを知った時点から私が感じたような 後悔と苦しみをミルク育児中のお母さんがもつ可能性だってあるわけです。そこに注意し てものごとをすすめないと本末転倒でしょう。知識は本来、人を幸せにするためにあるの ですからね。それと、母乳110番を母乳推進団体のように考える人がいるのですが、そ れは違います。母乳110番は相談機関ですから、極端な話、相談者が心から救われたと 感じればミルクだって母乳だって混合だって構わないのです。 ご質問に話を戻しますが、二人目育児になる前、自然育児の知恵を山ほど仕入れて今度こ そクリアするぞというつもりでしたが、本業のイラストレーターとしての仕事を始め、ち ょうどシェフのつくるフランス料理の絵を描く仕事を受けていました。レストランに通っ て描き、その後それを食べる、その仕事が妊娠の直前で、どうなったかというと、二人目 はつぶし飲みだったので、乳首は切れる、黄色いすごい塊が奥までたまりその乳質の悪い おいっぱいを出しきるまでは凄まじい痛いの日々を送る、そんなはめになったんです。山 西先生に「あなたってどうして苦労ばっかりするの」と言われましたねえ。 二人目の妊娠を決意したのは一人目の後悔があったからこそで、子どもは一人で手一杯と 思う反面、その苦労があったゆえに今度こそうまく楽しい出産や母乳育児をしたいと怨念 のように思い続けたということもあるかもしれません。 二人目のお産はもう後悔したくなかったので病院側や医師に「不必要な医療介入は何もし ないでほしい」と話し、娘と主人に立ち会ってもらいました。娘が足元で「ママー頑張れ! ママー頑張れ!」と応援してくれてとてもいいお産でした。上の娘の時、どうしてあんな に鬱になったかを振り返ってみますと助産婦さんの“わめきたてない、声を出さない、は したない声を出したらみっともない”この言葉から我慢ずくしのお産だったからではない かと思います。あのガマンがいけないのかもと思い、今回は病院中に響き渡るような声で 思い切り叫びました。気持ちよかったですねえ。病院はきっと迷惑だったと思いますが。 (笑) ただどんな人もそうだと思いますが、望まない妊娠にしろ、望んだ育児にしろ、想像した その通り細部までいかないことはよくあります。だからといっていくら専門家でも母親が 落ち込まないようにすべてのサポートをすることはできませんよね。特にお産は状況によ ってどうなるか分からない。実際私は、2度目は自然分娩、先生も納得し、出産直後から 母子同室。ところが年取った一人の看護婦さんだけが、“お母さんはゆっくり休むべきだ” の考えで、その人がやってきて赤ちゃんを連れていこうとしたのです。正直いってあわて ました。「どうしよう」と思っていると、1回目のお産で私と折り合わなかった婦長さんが 来て「連れていってはだめ。この人は、おっぱいをあげたい人なんだから」と言ってくれ たのです。 私はその時はじめて「ああ、前回のお産は自分の意思がないからいけなかったのだ」とい うことを知りました。すべて受け身で人任せ、まるで歯の治療のようにちょっと我慢すれ ば終わる、そんな気持ちでいたことがそもそもの間違いだったのだ、とわかったのです。

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もっときちんと自分の体ともお産ともそしておおげさにいえば子どもを産む、育てるとい う自分の人生とも向き合わなくてはいけなかったのだということが、この時ようやく解り ました。 先ほどの、「どんな風にその患者さんに勧めたら正しい知識をもってもらえるか」のお答え にもなるかと思いますが、少なくとも女性が自分自身の体のことを自分で考えながら実行 していくこと、それを私たちのようなお母さん団体や専門家がサポートしていくこと。そ こが重要なのではないかと思います。 助産婦の皆様方には一人目二人目と大変お世話になりました。本当に感謝しています。助 産婦さんがこの世にいなかったら私はどうなっていただろう、そう思うお母さんは多分に 多いと思います。妊娠、出産、育児、母乳。女性の体を一生通じトータルにみていく職業、 それは現在助産婦さんという職業を除いてはありえません。だからこそもっともっと頑張 って欲しいと思っています。本日は本当にありがとうございました。

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