Title
ランボー「見者書簡」における詩人の目的
Author(s)
Tanaka, Naoki, 田中, 直紀
Citation
年報・フランス研究, 42: 41-54
Issue Date
2008-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/10349
Right
Kwansei Gakuin University Repository
ラ ンボー 「見者 書簡 」 にお け る詩 人 の 目的
田中
直紀
詩人 アルチ ュール・ ランボー は、1871年 5月 、年 の近 い恩師 ジ ョル ジュ・イ ザ ンバール と、その友人 であつた先輩詩人 ポール・デ メニー とに、後年 「見者 書 簡 」Lθs fθιtres dθ yo/amι と呼 ばれ るこ とにな る三通 の書簡 を出 してい る。 そ こで ランボー は来 るべ き詩人像 を提示 してい る。 とくによ り大 きな規模 をもつ デ メニー宛書簡 では、来 るべ き詩人・ 見者 と しての詩人像 の提示 、古代か ら同 時代 までの既存 の詩 人へ の批判 、 自らを見者 となす ための方法論 、新 しい詩 の 言葉 の探求 につ いて述べ てい る。 これ らの諸要素 はそれぞれ が他 の要素 とわか ちがた く、整理 され ぬまま渾然一体 となって叙述 され てお り、理解 を難 しくし てい る。本論 では、 このデ メニー宛書簡 について、設定 され てい る詩人の 目的 に焦点 をあてて、その背景思想 に触れ なが ら分析 し、既存 の詩人たちへの批判 との関わ りを明 らか に したい。 I来るべ き詩人 の 目的 と思想 的背景 プ ロメテ ウス的詩人 ランボーが提示す る詩 人像 がいかな るものか、そ してその 目的がいかな る も のか を、端的 に示す部分 を順 を追 つて見てみ よ う。 詩人 は 「未 知 な るもの」 に到達す る者 「見者 」でな くてはな らない、そ うな るた めには 自らに「感 覚 の攪 乱」の苦行 を課す必要 が ある、とランボー は言 う。 見者でな くてはな らない、見者た らな くてはな らない、 と僕は言 うのです。 詩人はすべての感覚の、長期 にわたるおおがか りな攪乱によって、 自らを見者42
ラ ンボー「見者書簡」 にお ける詩 人の 目的 とな します。 あ らゆる形態の愛、苦 しみ、狂気。彼は彼 自身 を探求 し、あ らゆる 毒 を呑み乾 して、第五元素 を確保 します。信念 と超人的力のすべてを要す るえも 言 えぬ責め苦によ り、彼 は 自らを とりわけ偉大なる病人、偉大なる有罪者 、偉大 なる呪われ人、一一 そ して至上の知者 となるのです。 なぜ な ら彼 は未知なるもの に到達す るのですか ら!
彼 は もとよ り誰 に もま して豊かだつた魂 を涵養す るの ですか ら! 「見者 」は 「至 上 の知者 」で あ り、「病 人 」で あ り「有罪者 」で あ る と、様 々 に言 い か え られ る。 「未 知 な る もの」 を獲 得 した な ら、それ に相 応 しい言 葉 に よ り、人 々 に分 有 させ る こ とを通 じて 、世 界 を変 容 させ る、 とい うの が 見者 詩 人 の 目的 で あ る。 すなわち詩人 とは火 を盗む者なのです。 彼 は人類 をになってお り、動物す らもになっています。彼 は 自分のつ く りな し た ものを感 じさせ、触れ させ 、聞かせねばな りませ ん。 もし彼方か ら持 ち帰 るも のが形 を有す るのな ら形をあたえます。 もし形がないのな ら無定形 をあたえます。 一つの言語 を見出す ことです。 詩人はその時代 に世界霊魂 の中で 目醒 める未知なるものの分量 を明 らかに します。 彼 は思考の様式 を超 えた ものを、彼 の進歩への歩みの記録 を超 えた もの をあたえ ることになるで しょう!
常軌 を逸 した ものが常軌 とな り、皆 に吸収 され 、彼 は 進歩 を倍加 させ る乗数 となることで しよう! そ の 「未 知 な る もの 」 は 、 か つ て の 人 類 に とつ て の 「火 」 の よ うな もの 、 そ れ が もた らせ られ る こ とで 、 生 活 様 式 ひ い て は 文 明 状 態 が根 底 か ら変 わ る よ う な何 か 、 で あ る。 そ れ ゆ え見者 詩 人 は 「火 を盗 む 者 」す な わ ちプ ロメテ ウス に 喩 え られ る。 そ して この喩 えか ら 「未 知 な る もの 」 の獲 得 が何 か しら禁 忌 に触 れ る事 業 で あ る こ と も示 され る。 人 類 を助 け るた め禁 を破 り罰 を受 け る、叛 逆ランボー「見者書簡」における詩人の目的
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者 に して救済者 であ り犠牲者 、知恵 を もた らす者 、 とい うプ ロメテ ウスの属性 は、先 の 「至上の知者 」「有罪者 」 とい う属性 と重 な る。また、その過酷 な宿命 において、「呪われ人」 とい う属性 と重 な る。 上の引用部 か らは、「未知 な るもの」の在処 として、「世界霊魂」 なるものが 想 定 され てい るこ とがわか る。後 で詳 しく見 るが、既存 の詩人 た ちを批判 した 部分 では、人 々は 「世界知性 」が絶 えず放 出す る 「イデー」の 「ほんの一部を拾 い集めて来た」 とある。 この よ うに 「世界霊魂」や 「世界知性 」の うちに、人 々 が未 だ知 りえぬ ものが秘 め られ てい る とされ てい るので あ る。 以上 を 目的論的 に整理 してみ よ う。その大 目的 は、プ ロメテ ウスが人類 に「火 」 を もた らし、その生活様式 を一変 させ た よ うに、かつ ての人類 に とつての 「火 」 の よ うな 「未知 な るもの」 をもた らし分有 させ ることを通 じて、世界 を変 える こ とで あ る。 そ してその 目的 を果 たす ためには、第一 に 自分 自身 が 「未知 な る もの」 に到達 した 「見者 」 とな らね ばな らい。 それ には 自身 に激 しい試練 を課 す必要 が ある とされ る。 そ して第二 に、その 「未知 な るもの」 を人 々に伝 え分 有 させ るために、それ に相応 しい 「言葉」 を編 み だ さねばな らない。極言す る な らば、 この ランボー の企 図 にお いては、新 しい詩 の創 出は、それ 自体が 目的 なのではな く、世界 を変 えるた めの手段 であ る とい うことにな る。 逆 に言 えば、「見者 」でない よ うな詩人 は、真 の詩人 で あ る とは言 えない とい うこ とに もな る。 そ して 「見者 」で あ るこ とと、見者詩人 であ るこ ととは、書 簡 中には明言 され てい ない ものの、一定の区別 を され るべ き もので ある と言 え そ うだ。「未知 な るもの」に到達す る者 が 「見者 」で あつて、その要件 を満 たす 詩人 が見者詩人 なのであ る。 見者 とはイ可か 「見者」《voyanb)と い う語 は、そ もそ もは旧約聖書にお ける預言者 を指す言 葉 の一つ で ある。預言者 は、神 の言葉 を人 々に伝 える仲介者 で あ り、人 々の教 導者 で あ る。マル ク・アイ ゲル ジ ンガーが見者 書簡 に寄せ た論考 に よれ ば、見者 の語 の意味は これ を含 め大 き く四つ に分類 され る。第一が 旧約 の預言者 、第二ランボー「見者書簡」における詩人の目的 が グノー シス派 、イ リュ ミネや ス ウェーデ ンボル グ とその後継者 にお いて、超 自然 的知覚 を持つ者 、第二が夢遊病 的な精神状態 において過去や未来の情景 、 超 自然 の神 秘 をあ りあ りと見 る 「第二の視覚」 を有す る者 、そ して とくに文学 の世界 において余人 には窺 い知れ ぬ ものをあ りあ りと見 る詩人 である①。 これ らの定義 は後 に来 るものは先 の ものの性 質 をひ きつ ぎ、それ ぞれ相互 に重 な り 合 ってい る。 近代文学 の世界 では詩人 と見者 を重ね たのは ノ ヴァー リスが最初 で あ る。 その後 フランス文学 にお ける見者概念 の展 開 をアイ グルデ ィンガー は 次 の よ うにま とめ る。 バランシュからヴィク トール・ド・ラプラー ドにいたるまで、ミシュレ、バルザッ ク、ヴィク トル・ユゴー、テォフィル・ゴーチェをつ うじて、見者の意味するところ は、よくよく多様化をこうむ り、新たな見地から再聖別 された。見者 とは預言者で あり、精神世界のマスターであり、またあるいは魔術師であり秘儀参入者であ り、 秘教や交霊術の流派の信徒であ り、そ してもちろん芸術家であり、小説家であ り、 とりわけ詩人、創造の神秘を究め、可視の世界を不可視に結びつける徴を、類比に よって読み解 く役 目を担わされた詩人である。)。 ユ ゴー は、革命後 の教会の力が弱 まった社会 において、教会 に代わ る人 々の 心 の教導者 と して見者 を もつて 自ら任 じていた ことを指摘 してお きたい。 この よ うな心情 は、多かれ少 なかれ 多 くの ロマ ン派詩 人 、そ して隠秘学の思想家 に 共有 され ていた ものであろ う。 また、アイ ゲルデ ィンガー は、小説家や詩人 とは区別 して、隠秘学 にお ける voyanceの概念 の展 開 につ いて も触れ 、メス メルや 、エ リファス・レヴィ らにつ いて言及 してい る。 と りわけ レヴィはユ ゴーや 、ボー ドレール に多大な影響 を 与 えた ことが知 られ てお り、 ランボーがその著作 を読 んだ と見 られ てい るこ と か ら、注 目す るべ きで あろ う。 先 にみた ところ と考 え合 わせれ ば、叛逆者 とい う性質 が付 与 され てい ること が、 ランボー にお ける「見者 」観 の特徴 であ る とい える。
ランボー「見者書簡」における詩人の目的 その大 目的、背景 に ある神秘 主義思想 「世界霊魂」「世界知性」「第五元素」といつた術語か らも、「見者書簡」の背景 には十 九世紀 に象徴派お よびその周辺 の文学者や芸術家の間で大いに流行 を見 た神 秘思想③が あ るこ とがわか る。新 プ ラ トニスムや カバ ラ思想 、錬金術哲学 に共通 の世界観 の根本 をなす のが、世界 は"一者"から流失 した、 とす る流 出説 で あ る。 まず一者 か ら世界知性 が、そ して純粋霊魂 が流 出す る。 ここまでの三 段 階が叡 智界 であ る。 その下位 に形相 と質料 か らな る物質界 が生 じる。 そ して 物質界全体 の魂 が世界霊魂 で あ り、個 々の人 間の霊魂 で あ る個別霊魂 は、海水 の 中の網 の よ うに世界霊魂 の中に浸 され てある。観想 (テオ リア
)に
よつて流 出の階梯 を上昇 し一者 との合一す るこ とこそ一般 に神 秘主義 の眼 日であ る。 ま た、 よ り上位 の階梯 で起 こるこ とは、 よ り下位 の階梯 で起 こるこ とと響 きあい 反 映 しあ う。 これ が万物照応 であ る。 世界霊魂 は純粋霊魂 と相 互 に浸透 してお り、 これ が叡 智界 と物質界 を媒介す るもの となってい る。つ ま り世界霊魂 は個 別霊魂 と宇宙全体 との媒介 となってい る。錬金術哲学 では第五元素 とは、一者 との合一 を経 た完成 した人格 の象徴 であ り、あるいは魔術 の作用媒介 としての 世界霊魂 と同一視 され る。魔術 とは この媒介 を とお して、 自らの意志 を世界 に 作用 させ る技術 で あ る。 そ して魔術 師 は多 かれ少 なかれ 、一者 の計画の完成 を 地上 において促進 させ る とい う目的 を有 し、使命感 を有す。 「未知 なるもの」を詩人が人々に もた らす ことで、「常軌 を逸 した ものが常軌 とな り、皆 に吸収 され」れ、世界 が進歩 してい く。 ランボー は来 るべ き社会 で は女性 が従属的地位 か ら解放 され 、男性 にない優れ た認識力 を発揮す る として い る0。 しか しそれ以外 には、 ランボーが促進 させ よ うとす る 「進歩」のいか な るものか、社会 は ど う変化す るかについての具体 的叙述 は とば しい。 この書簡 がパ リ・コ ミュー ンの時期 に書かれ た こともあつて、ともすれ ば ラン ボー の 目的 を政治的 に とらえる向きもあるよ うだが、実の ところは政治思想 よ りも上記 の よ うな神 秘主義 にのっ とって考 えるべ きものであるのは確 かである。 「未知 なるもの」の在処 として想定 され るのは「世界霊魂」「世界知性」であ り、ランボー「見者書簡」における詩人の目的 一 種 の 苦行 に よつて 「未 知 な る もの」を把 握 し、言 葉 と観 念・事 物 の アナ ロジー (照応
)に
よ つ て 、人 々 にそれ を伝 え よ うとい うの で あ るか ら。 もち ろん ラ ン ボー は コ ミュー ン に も一 定 以 上 の 関心 と共感 は抱 い て い た か も しれ な い が 、社 会 を変 え るた め に は 、政 治 よ りも心 を変 え な くて は な らな い 、 とい う考 え に傾 い て い るの で あ る。 感 覚 の 授 乱 「未 知 な る もの」の源 泉 にせ ま るた めの方 法論 は以 下の よ うな展 開 を見せ る。 まず 必 要 な こ とは 、「自分 自身 」 の 「全 面 的 な認 識 」 で あ る。 詩人た らん とす る者の第一の課題 は、自分 自身の認識、それ も全面的な認識 です。 その魂 を探 り、調べ、試 し、学ぶのです。魂 を知 ったな らそれ を涵養せねばな りま せん。このことは一見簡単なよ うに思われ ます。すべての脳髄 において 自然な発達 はな されているのですか ら。多 くのエ ゴイス トが著者 を僣称 してきま した し、他の 者 もそれ を 自身の知性 の発展 に帰す ことで しょ う!
一―― しか し怪物的な魂 を 成す ことこそが問題 なのです。つま りはコンプラキコス式 とい うこと!
顔 に売 を 植 えつけ育てている男を想像 して見て くだ さい。 「コンプラキコス」 とは、ユ ゴーの作品『 笑 う男』L獅
““θσロゴガι(1869) に登場す る人物 で、子供 を人身売買 し、崎形化 の手術 を施 して見世物 にす る。 第一の課題 と して 自分 自身 の認識 をあげ るこ とは、神秘哲学 の伝統 に適合 し た こ とで あ る と言 える。 と りわ け新 プ ラ トニスムか ら錬金術哲学や カバ ラに向 う流れ では、 ソクラテ スがデル フォイの神殿 で えた とい う 「汝 自身 を知れ」 と い う言葉 も、 この よ うな意味において とらえ られ てい る。小宇宙 としての人間 が、 自らの内に、宇宙全体 の縮 図 を見いだす こ と、ひいては内な る神 と合 一す るこ とまで、すべ てが この この標語 の 中に集約 的 に表現 され てい ることにな る。 既存 の詩人への批判 を展 開 した部分 では 「自身 に働 きか け」 るこ とで、 自ら の うちな る「世界理性」の作用 を存分 に感知す ることの必要性 が説 かれてい る。ランボー「見者書簡」における詩人の 目的
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また先 に見た ところでは、「未知 な るもの」は「世界霊魂」の中に 目覚 めるもの で あつた。「私 とは一個 の他者 である」とい うフ レー ズ も、文脈上、基本 的には 「自分 自身」の 「全面的認識」によって、 自らの内に 「世界霊魂」や 「世界知 性 」 の働 きを感 知す るこ とにかかわ るもので あ る6)。 しか しなが ら、 ランボー においては、「全面的認識」そ して 「未知 なるもの」 の把握 は、新 プ ラ トン派的な静かな観 照ではな く、 自らの心身 に力ず くで変形 を加 える苦行 (「信念 と超人的力 のすべ て を要す るえ も言 えぬ責 め苦」)を
通 し て可能 で ある とされ てい る。詩人 に必要なのは 「すべての感覚の、長期 にわた るおお がか りな攪乱」を 自らに加 えるこ とであ り、「あ らゆる形態の愛、苦 しみ、 狂気 」を味わいつ く し、「あ らゆ る毒 を呑 み乾 して、第五元素 を確保」す ること であ る、 とランボー はい うのだ。 普遍言葉の探求 見者理論 は、一般 的 には新 しい詩 の創 出につ いての理論 ととらえ られ てい る が、ドメニー宛 書簡 では「未 知 な るもの」へ の到達 の必要性 とそのための方法論 に割 かれ た字数 に比 して、詩 の言葉 についての言及 はそ う多 くはない (イザ ン バール宛書簡 ではまった く言及がない)。 まず 、「詩人 とは火 を盗む者 」で ある と言 つてい る段落 の、「彼 は 自分 のつ く りな した もの を感 じさせ ……・一つ の言 語 を見 出す こ とです」 とい う部分があ り、段落 を変 えて次 の よ うにつづ く。 一― もつとも、どのような言葉も観念なのですから、普遍言語の時代が到来する ことで しょう!
たとえどんな言語であろうと、辞書を完成するとい うことになれ ば、アカデ ミー会員にならなくてはいけないでしょう、一一化石以上に死んだ存在 ですが。弱い連中なら、アルファベ ットの最初の一文字について考えはじめるだけ で、たちまち狂気の中へ踏み込んでしまうでしょう! この言語は魂から魂へ伝わるものであり、香 りを、音を、色彩を、すべてを要約 するものであって、思考を引つ掛け、引き寄せる思考なのです。48
ランボー「見者書簡」における詩人の 目的 この あ とには先 に見た 「詩人 はその時代 に世界霊魂 の 中で ……」 とい う部分 がつづ く。 新 しい詩 の言葉 の構想 を主題 と した部分 は、 これ で全部 であ る。 あ とは次章 で見 るよ うに、既 存 の詩 人へ の批判 において、断片的 な言及 が あ るのみであ る。 「普遍言語」とは、「創世記」で人類 の言語が多数 の言語 に分かたれ る前の原 初 の言語 であ る。 キ リス ト教神 秘主義者 ヤ コブ・ ベ ー メに よれ ば、それ は媒体 を持 たぬ感 覚表現 の道具た る 「感 覚語」であ り、人 間以外 の動物 が用いてい る が ご とき言語 で ある。ベー メは これ をあ らゆ る歪 曲 と幻想 か ら解放 され た唯一 の言語 である としてい るC)。 ランボー にお いて も、おお よそそ の よ うな ものが 想 定 され てい る と見 える。 「香 りを、音 を、色彩 を」 をい うところは、明 らかにボー ドレールの『 悪の 華』の 「万物照応 」か らの借用 で ある (「・…ひそかな深 い統一のなかで ‥・さま ざまな香 りと、色彩 と音 とはかたみ に応 えあ う」)。 ボー ドレール においては地 上の様 々の事物 間の 「照応 」が、描 かれ ていたが、 ランボー は さらに事物 と言 葉 とのアナ ロジー に よる対応 関係 を導入 してい る。 ここには レヴィの次の よ う な叙述 に見 られ る魔術 的 な言語観 が背景 にあ る と言 え よ う。「可視 の ものは不 可視 の ものの発現 であ り、あ るいは言 いか えるな ら、完全 な言 は、感知 可能 な 可視 の諸事物 の 中にあ るが、それ は我 々の感 覚 には感知不 可能 な、我 々の 日に は不可視 な もの と、正確 な対応 関係 を有す るのであ る」。)。 Ⅱ既存 の詩人た ちへの批判 を とお して ロマ ン派の登場 まで ドメニー宛 「見者書簡」では、前半部 と後半部の二箇所 において、ランボー は詩 の歴史 をふ りか え りなが ら、過去か ら当時 までの詩 人た ちの多 くに激 烈 な 批判 を加 えてい る。 しか しロマ ン派 においては、批半Jすべ き要素 も多々あ りな が ら、 よ うや くは見者 で あ る とい う要件 を満 たす詩人が出て きた とい う。 そ し てボー ドレール は真 の見者 と呼ぶべ き詩人 とす る。 ランボー の、詩 の歴 史 の把 握 の妥 当性 、そ して個 々の詩人 に対す るランボー の激烈 な批判 の妥 当性 につ いランボー「見者書簡」における詩人の 目的
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ては、個別的 な検討 はお くこ とに したい。 問題 なのは、 ともか くもランボーが 来 るべ き詩人 は ど うあ るべ きで あ る と考 えてい るか、 とい うこ とで あ る。 ランボー は、まず書簡 の前 半部 で、古代 か ら中世 を経 て ロマ ン派 の登場 にい た るまでの詩 の歴 史 をきわめて手短 にふ りか え り、次 の よ うに断 じる。「すべ て が韻 を踏 んだ散文 で、遊びであ り、無数 の愚 かな諸世代 の脱力感 と栄光なので す 」。 そ して、 ラシーヌ を大胆 に もばか もの呼 ばわ りしなが ら、「そんな遊 び は 二千年つづいた」 と、つづ ける。彼 は先人 を憎む こ とは新人 の特権 である、 と 言 つてはばか らない。 前半部 にお ける、既存 の詩 に対す る批半Jの総括 は、以下の よ うな ものであ る。 もし毛様 した愚か者たちが、自己についてあやまつた意味づけばか り見ている といったことさえなければ、はるかな昔から(!)そ
の片 目の知性の産物を集め ては、その作者を名乗るような、そんな無数の骸骨 どもを一掃するにはおよばな かったのです! 世界知性は、ごく自然のこととして、常にそのイデーを放出しつづけてきま した。 人々はこの脳髄の産物のほんの一部を拾い集めて来たのです。それによつて活動 し、それによつて書物をものにして来た、このように歩んで来たのです。人間は いまだ 目覚めてお らず、あるいは大いなる夢幻に浸つてお らず、よつて自身に働 きかけることをしていないのです。役人や著作家ばか りです。作家、創造者、詩 人、そのような人間はいたためしがあ りません! ランボー は人 間主体 の あ らゆ る活動 、そ していわ ゆる創 作活動 の うちに、世 界知性 の活動 の現 われ を見す かす。 しか し多 くの 「愚 か者 た ち」 は、 自らもそ れ の活動 にあず か つていなが ら、その こ とにまった く無 自覚 で あ り、 よつて世 界知性 の働 きを存分 に具現 しよ うとは しない、 とい うのだ。 ここで 「片 目の知 性 」 が 「世界知性 」 と対置 され てい る とす る③のは不適 当で あろ う。概念 的 に 「世界知性」と対置 され るものがあるとすれ ば個 々人の知性 である。そ して個 々50
ランボー「見者書簡」における詩人の目的 人 の理性 の うち、 自らの内奥 に 「世界知性 」 の働 きを認識 しない もの を ランボ ー は 「片 目の知性 」 と呼んでい るである。 その よ うな知性 の持 ち主が 「役人や 著作家」 と して、「作家 、創 造者 、詩 人」 と明確 に区別 され る。後者 は もちろん 「見者」である とい う要件 を満 た した者であ り、その よ うになるには、「目覚 め る」 あ るいは 「夢幻 に浸 る」 こ とが必要 であ る。 これ ら表 面的 にみれ ば矛盾す るよ う言葉 を もつて表現 され てい るのは、 自らの うちに世界知性 の働 きを感 知 し、その働 きを活性 化 させ 、その作用 の 中に没入 し、それ を経験 しつ くす 、 と い うことにちがいあるまい。そ してその よ うな精神 的営み において こそ、「未知 な るもの」が存分 に把握 され るのだ、 とい うこ とであろ う。 さらに、その働 き を感 知す るこ とこそ、「自己」 の真 の意味 を知 る ことで もある。 書簡 の前半の、上記 引用部 とつ らな る部分 を見 る限 りでは、ロマ ン派 もまた、 「役人や著作家」、「片 目の知性 の もちぬ し」に分類 されているとおぼ しい。「ロ マ ン派 は、歌が作 品 と して、す なわ ち歌い手 に よつて歌われ かつ理解 され た思 想 と して、成 立す るこ とが めったにない とい うこ とをよ くよ く示 してい るので す」。ロマ ン派 は無 自覚 に世界知性 の産物 のほんの一部 にあず か りつつ 、その拠 つて来 る ところを知 らない し、その産物 の真意 も知 らない、 と言 うのである。 ロマ ン派 とボー ドレールに対す る評価 書簡後半のふ たたび ま とまつた詩 人へ の批評 があ らわれ る部分 では、対象 と な るのは ロマ ン派以降の詩人 で、 ロマ ン派 につ いては、 ここでは よ り多 くの字 数 を割 いてふ たたび と りあげ られ てい る。 前半部 では ロマ ン派 は十把一 か らげ に酷評 され ていた よ うに見 えるが、後半部 では ランボー が ロマ ン派 に対 して留 保 つ きなが ら 「見者」 と しての一定の評価 を与 えてい るこ とがわか る。 第一次 ロマ ン派 と第二次 ロマ ン派の間には区別 が も うけ られ 、前者 に対 して後者 をよ り高 く評価す る。 そ してボー ドレールヘ の賛辞 がつづ く。 まず第一次 ロマ ン派 につ いては次の よ うにあ る。 第一次 ロマ ン派は見者 である とい うことが どうい うことか よくよくわか らないランボー「見者書簡」における詩人の目的 まま見者で した。彼 らの魂の涵養は偶然には じまったものです。放置 された蒸気 機関車が、余熱によつて、少 しのあいだレールを走るようなものです。 よ うや く見者 が あ らわれ た とい う点では、詩 の歴 史上の大 きな進歩 ではあ る。 確 か に第一次 ロマ ン派 においては 「未知 な るもの」の把握 に必要 な 「魂 の涵養 」 がい くぶ んかはな され てい るのだ。 とはいえ、それ は彼 らにおいては、意図せ ざる偶発事 だ ったにす ぎない。「放置 され た蒸気気機 関車」が 「余熱 」で少 しの あいだ走 る、 とい うのは、 ここでは要す るに意 図せ ざる ところで起 こる動作 の 例 で、「魂 の涵養 」が偶発 的 に進 んだ こ とのた とえ となってい る。つ ま り、その こ とに必要 な意志や 自覚 も方法論 も欠 けてい る とい うのである。 ラマルチーヌ は 「時お り見者」だが、「古す ぎる形式」 に東縛 されてい るとい う。ユ ゴーの うちには 「破滅 した も古臭い巨大 な もの」が あ り過 ぎるい う。未 知 な らぎる既 知 の ものがあ り過 ぎる、 とい うのであろ う。 自ら 「見者」 を 自認 していたユ ゴ ー で あるが、 ランボーか ら見れ ば 「見者 」 として不十分 なのである。 ミュ ッセ については と りわ け多 くの字数 を割 いて、「ロー ラ」の よ うな詩 は詩 心 がす こ しで もあれ ば誰 にで も書 ける、な どといつた、ほ とん ど罵倒 に近い よ うな批半Jがつ らね られ てい る。その 中で注 目すべ きは次の一文である。「ミユ ッ セ は何 もできませ んで した。 カーテ ンの薄紗 の背後 には ヴィジ ョンがあつたの です。 しか し彼 は眼 を閉 ざ したのです」。つ ま リミュ ッセは 「目覚 める」あるい は 「大いな る夢幻 に浸 る」 こ とをあえて しなか つた と言 うので あ る。 ここに ラ ンボー の第一次 ロマ ン派 に対す る批判 の要諦 がある と言 えよ う。第一次 ロマ ン 派 が、い くぶ ん見者 ではあ るものの十分見者 ではなか った とすれ ば、それ は彼 らが 自覚 的かつ果敢 に 「未知 な るもの」の把握 に挑 まなか つたた めで ある、 こ れ が ランボー の下 した判断で あ る0)。 つづ く部分 の、第二次 ロマ ン派 、そ してボー ドレールヘ の批評 は、 これ まで と うつてかわ つて好意 的 な調子 を湛 えてい る。 第二次 ロマ ン派 はす ぐれ て見者 です。テ オ フ ィル・ゴー チ ェ、ル コン・ド・リール 、
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ラ ンボー「見者書簡」 にお ける詩人の 目的 テオ ドール・ド・バ ンヴィル。 とはいえ不可視の ものを探 り前代未聞なことを聞 く ことは、死物の精神 をふたたび採 りあげることとは別なのですか ら、ボー ドレー ル こそが第一の見者であ り、詩人の王であ り、真 の神 なのです。 しか し彼 は、従 来のあま りに芸術家的な環境の中で生きたので した。そ して彼 の誇 るべ きもの と されてい る形式 もつま らない ものです。未知な るものを作 り出すためには、新 し い形式が要請 され るのですか ら。 第一次 ロマ ン派 とちが つて、第二次 ロマ ン派 は 「す ぐれ て見者 」で あ る と言 う。さ らにボー ドレール を 「第一の見者」に して 「詩人の王」「真の神」 と称える。 ここまで大家 を含 む詩人たちに対す る辛辣 にす ぎる批半Jがえん えんつづ いて来 た こ とに対 して、 この賛辞 はい ち じる しい対照 をな してい る。 「死物の精神 をふたたび採 りあげる」 とい うのは、当然 なが ら 「未知」な ら ぬ “既 知"のものに依存す る とい うこ とであ る。対 して 「不可視 の もの を探 り前 代未 聞な こ とを聞 くこと」、 これ は先 の 「目覚 め」「大いな る夢幻 に浸」 るこ と で可能 な こ とであ り、つ ま り「未知 な るもの」を把握す るこ とで あ る。す なわ ち 「見者」であるための要件である。 しか し文脈か らみれ ば、第二次 ロマ ン派 も 第一次 ロマ ン派 よ りは、 この点 でおそ らく勝 ってい る とはい え、十分 に要件 を 満 た してはいない ら しい。 ボー ドレール こそが真 にその要件 を満 た してい る。 とはいえ、そのボー ドレール に さえ、 ランボー は不満 足 な点 を指摘す る。 そ の詩 の 「形式」が、た とえ一般的 には称賛 され てい るものであって も、「未知 な るもの」 を表現す るのに相応 しくない もので あ る、 と言 うので あ る。 爾後 の部分 では、 フラン ソワ・ コペ 、カル チ ュール・ マ ンデ スや 、その他今 日ほ とん ど顧 み られ ない者 を多 く含 む同時代 の詩人 た ちが列挙 され 、短評 がそ え られ る。そ してその締 め くく りと して、高踏派 と呼 ばれ てい る流派 の中には、 二人の見者 がい る と言 つて、アルベール0メ ラ とポール・ ヴェル レーヌ とをあ げ、 と りわ け後者 は 「真 の詩 人」で ある と して、ボー ドレール に次 ぐよ うな高 い評価 を与 えてい る。やがて この手紙 の四ヶ月後 には、 ランボー はパ リにのぼ り、 この二人 の見者 をは じめ とす るパ リの詩 人 た ち と交流 し、そ して ヴェル レランボー「見者書簡」における詩人の目的
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―ヌ との放浪生活 に入 るであろ う。 そ して彼 との相互影響 関係 の中で従来の韻 律 を破 った詩 を編 みだす こ とにな るで あろ う。 以上 の よ うに、過 去 か ら同時代 までの詩 人 た ちへ の批評 が、いかな る観 点か らな され てい るか を考 えれ ば、ここで もや は り、来 るべ き詩人 は、「未知 な るも の」 に到達す ることと、それ に相応 しい 「普遍言語」 をものにす ることと、三 段 階の要件 を満 た していな くてはな らない とい う主張が、追認 され るのであ る。 詩人 た ちへ の批評 は一貫 して この観 点か らな され てい るのだ。 そ して さらに、 「未知 なるもの」への到達は、自らの内に「世界理性」の働 きを感知す ること、 「自己」の意味 を問い直す こととつながつてい るとランボーが考 えてい ること が、や は り詩人 た ちへ の批判 の叙述 の中か らわか るのである。 結語1871年
5月 の書簡 に跡づ け られ てい るのは、何 よ りもまず預言者 的・救世主 的存在 た る見者詩人 としての使命感 の 目覚 めであ る。 ランボー は魔術 的 な詩 に よつて人 々の精神 に変化 を惹 き起 し世界 を変 える とい う大 目的 を掲 げる。 しか しその叙述 をつぶ さに追 って見れ ば、その前提 とな る 「未知 な るもの」への到 達 の方法論 に、大 目的その ものや 、その手段 た る新 しい詩 の言葉 に比 して、多 くの部分 が割 かれ強調 され てい るこ とがわか る。 いずれ にせ よ、 これ は ランボーの詩 と詩人 についての意識 の断絶 を跡づ ける もので あ る。「見者 書簡 」書簡成 立か ら一 ヶ月 もたたぬ うち、6月 1日 付 け書簡 で ランボー はデ メニー に、あず けてあつた初期詩篇 の詩帳 を焼 き捨 て るよ う依 頼 してい るのだ。 ランボー は 「見者 書簡」 において、歴 史上 の 自らに先 立つ詩 人 の、そのほ とん どに激 しい批判 を浴 びせ てい るが、のみ な らず その否 定は、 見者詩人 としての使命感 に 目覚 め る前 の 自分 自身 に対 して もお よば され てい る ので あ る。そ うして、まわ りの大人 たちを感 嘆せ しめた ところの 自身 の詩業 を、 自ら全否 定す るのだ。 さいわいな こ とに とい うべ きか、デ メニー は ランボー の 依頼 に応 じるこ とな く、詩帳 は後世 に残 され るこ とにな るのだ ったが。 「新 しい韻文詩」「後期韻文詩」と呼ばれ る新 しい形式の韻文詩 を編みだす以54
ランボー「見者書簡」における詩人の目的 前 の 、 ラ ンボー の伝 統 的 な形 式 に よ つ た韻 文 詩 群 は 、通 常 ひ と く く りに あつ か われ て い るが 、 しか しこの5月に起 こった ラ ンボ ー の詩 につ い て の意識 の 大 き な変 化 を顧 慮 す るな らば 、 この 時 期 を もつて 、 さ らにそ の前 期 と後 期 とに 区別 して 考 え るべ きで あ ろ う。 註 :使用テ クス ト毛θι″θs du yayanι αθθι15 maゴIθZλ 6dit6es et comment6es par
G6rald SchaeffeL pr6c6d6es deく くLa voyance avant Rimbaud〉 〉par Marc Eigeldinger9 Droz‐ Minard,coll.Textes litt6raires francais,1975。 (以下 Ⅳ
GS,MEと
略記) その他参照 した主なテ クス ト:Cuyres,6dition de Suzanne Bernard et Andr6 Guyaux, Bordas,coll.Classiques GarnieL nouvelle 6dition revue,1991.(以 下CR:SB,AGと
略記
)引
用はすべて拙訳による。 引用 中の強調部分はすべて原文による。(1)LV:GS,ME,ppll‐13.
(2)LV:GS,ME,p.100。
(3)Jean‐Baptiste Baronian,Par20ramaご θ■2万ιι6raι urθ Fanιas″guθごθねr2脚θ
Franfaおθ Des Dri饉燿θS aごθmaヵ2000,La Renaissance du livre,pp.118‐ 120.
(4)こ の部分の女性観 にはジュール・ミシュ レの影響が認 め られ る。
(5)こ のフ レーズをめ ぐる様 々な議論 については別の機会に詳細に検討 したい。
(6)ス ーザン・ソンタク、川 口喬一訳『 ラデ ィカルな意志のスタイル』晶文社、1971[1966]、
pp.31‐32によつた。
(7)Elip力 as Lびvtt Dogme et rituel de la haute magie,Busse」iδ
“,2003〔1856〕,p62他。 なお レヴィはボー ドレール に先立って 「万物照応」 と題す る詩 をものに してお り、 そ こにも言葉 と事物の対応の主題が見 られ る。 (8)中 地義和氏の見解。 中地義和『 ランボー 精 霊 と道化のあいだ』青土社、1996年 、 p.151。 (9)も つ ともシュザ ンヌ・ベルナール によれば、ランボーは一時は ミュ ッセの 「ロー ラ」 にひ とかたな らぬ影響 を受 けていたのであ り、それ故かえつて反感 を強調 している のだ とい う。R:SB,AG,p.362、 「太陽 と肉体」への註釈。 (本学博 士課 程後期課 程 単位 取得 退 学)