Title
冊封使録に見る植物利用
Author(s)
盛口, 満
Citation
沖縄大学人文学部紀要(22): 77-82
Issue Date
2019-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/23886
Rights
沖縄大学人文学部
〈資料紹介〉
冊封使録に見る植物利用
盛口 満
要 約 琉球王国時代に渡琉した冊封史たちの残した冊封史録の中には、当時植栽されて いた植物や、その植物の利用について記述がなされている。その内容と、1960 年代 以前に琉球列島の島々の里山で見られた植物利用とをつきあわせ、琉球列島の植物 利用のさらなる解明を試みる。 キーワード:冊封史録,琉球列島の里山,植物利用 はじめに 琉球王国時代、王府は、国王の代替わり毎に中国(明および清)からの冊封使使節を迎えた。 この使節団は琉球からの帰途にあたって、数ヶ月の風待ちをする必要があり、その間、必然的 にさまざまな琉球の文物や風物を見る機会を得ることになった。特に 1534 年以降は、各使節団 は中国に戻って後に、「使琉球録」と呼ばれる見聞録を残す慣例となり、これは当時の琉球につ いての貴重な情報源となっている(岡本 2012)。 1719 年、冊封使として琉球に渡り、8 ヶ月あまりも琉球に滞在してのち中国に帰還した徐葆 光の記述した『中山傳信録』(原田訳註 1982)には物産という項目の中に、当時の琉球で栽培 されていた作物のほか、徐が見聞きした樹木や果物、鳥獣や魚類に関する記述がある。例えば アダンに関する記述を抜くと「葉が長く、両辺に棘がある。長らくたつと、林ができ地中根が でてからみあい、丈夫な垣にすることができる。葉で筵をつくれるし、根から縄ができる。花 を開くのが男木で、白く蓮のような花弁が、その先をあわせ左右からおりたたんだようになっ て十あまりの花びらがまっすぐに立つ。(中略)(実は)大きさは瓜ほどで、模様がそのまま突 起になり、それらはみな六角であって、食べられる」となっており、実際のアダンによくあて はまる記述となっていることがわかる。また、これとほぼ同じ内容の記述が、1755 年に冊封副 使に任命されて渡琉した周煌の『琉球国志略』(原田訳註 2003)の中や、1799 年に冊封副使 に任命されて渡琉した李鼎元の『使琉球記』(原田訳註 2007)の中にも見られ、『中山傳信録』 の記述が以後の冊封使録に大きな影響を及ぼしていることがわかる。 琉球列島では、1960 年以降、身近な里山環境が大きく変化し、それ以前の様子を容易にうか がい知ることができなくなっている(盛口 2011 ほか)。著者は、かつての琉球列島の里山の 様子を島々の年配者の方々から、植物利用についての聞き取りを行う中で明らかにできないか という試みを続けてきた(盛口 2018 ほか)。『中山傳信録』に代表される冊封史録の記述は、このようなかつての自然利用を解明する上で活用できる資料ではないかと考え、本論を執筆する こととする。 1.『中山傳信録』にみる植物利用の記録 『中山傳信録』の物産の章には、「野菜」「木」「花」「果物」「竹」という区分で植物の記述がな されている。それぞれにあげられた種数は、以下の通りである。 「野菜」 30 種(これらに加え、キノコ 3 種、海藻4、5 種の名もあげられている) 「木」 25 種 「花」 約 48 種 「果物」 23 種 「竹」 11 種 この数字を見てわかるように、食用になる植物(野菜や果物)や観賞用の植物(花)の割合が 多いのは、王府の客として接待される日々を送った冊封使の記録であるからだろう。また、多く の植物はその名だけを列挙されており、その中で特に選ばれたものが説明文をつけて紹介がなさ れるという構成となっている。 このような全体の傾向からすると、先のアダンの記述は、名の記述にとどまらず、長文の説明 文がつけられていること、さらに葉や気根の筵や縄への利用や、植物そのものの観察記録も含ま れていることから、『中山傳信録』の植物の記述の中では、やや特異的な例と指摘することがで きる。これは、アダンが中国から渡琉した冊封使の目に珍奇なものとして映った事に加え、アダ ンが当時の琉球の人々の生活において、きわめて重要な位置をしめていたことを物語っていると 考えられる。 著者は 2011 年より、琉球列島の島々において、年配者から、1960 年代以前の植物利用につ いての聞き取り調査を続けてきた。琉球列島の島々と一口に言っても、大きさも最高標高も様々 であるが、大きく、高島と低島に区分することができる(目崎 1985)。1960 年代以前、島々 の人々が半ば自給自足的な生活をしていた時代には、隆起サンゴ礁からなり山地や川のない低島 では、高島に比べ、利用できる植物資源が非常に限られていた。しかし、その一方で、植物資源 の限られた低島では、特定の植物を多用途で利用するなどの工夫もまたみられた。そのような低 島において、特異的に利用がなされていた植物の一つにアダンがあげられる(盛口 2018)。ア ダンは、先に紹介しているように、『中山傳信録』においても、筵や縄への利用が言及されてい る植物である。すなわち、1960 年代以前の植物利用は、その歴史を琉球王国時代に遡及するも のもあることがわかる。 では、冊封史録の中から、当時の植物利用を探ることとしたい。聞き取り調査から、1960 年 代以前の植物利用に関して、いくつかの用途および植物種はとりわけ頻繁に利用が語られるもの ……つまり、それだけ重要度の高いもの……ということがわかった。それは、以下のようなもの となる。 用途:緑肥用植物、繊維利用植物、燃料源、建材、建材、屋根葺き材、家畜の飼料、魚毒植物、 非常用食料源、子どものおやつとなる野生の果実、野山から採取されるキノコ類 植物種:アダン、シュロ、ビロウ、ソテツ、ルリハコベ、竹類 沖縄大学人文学部紀要 第 22 号 2019
上記の「用途」及び「植物種」に関連する記述を、『中山傳信録』で見てみることにする。 あ)繊維利用植物 「木」の項に、シュロの名があげられている。シュロは葉柄部の皮から採取できる、耐水性に すぐれた繊維が有用であることから、琉球王国時代、王府から村々へ植栽を命じていたほどであっ た。例えば 1878 年に著された、王府による植樹制度を記録した文章によると、金武間切りにお いて、ソテツの苗を 17520 本、シュロの苗を 350 本、イヌマキの苗を 212 本植栽したとある(豊 見山 2015)。なお、ソテツは非常用食料源、イヌマキは建材として有用な植物であり、以下に あらためて取り上げる。 シュロは、聞き取り調査からは、1960 年代以前は各島々において普通にみられたものの、現 代はすっかり姿を消してしまっていることがわかっている。琉球列島において、シュロは栽培下 でないと生育ができないようで、野生化した個体をみることはない。すなわち、シュロはもとも と琉球列島に自生していたわけではなく、外部より持ち込まれて栽培されていたものであると考 えられる。そして、『中山傳信録』の記録より、18 世紀初頭には、すでにシュロが栽培されてい たことがわかる。なお、『中山傳信録』の中には、先にすでに紹介しているように、アダンの気 根から繊維を取ったことも記述がある。 い)建材 琉球の特産品としてイヌマキがあることを「木」の項で紹介している。「木目が堅密で家を作 るには梁や柱はすべてこれを用いる」としている。イヌマキはシロアリの食害に対して耐性があ るため、建材として重宝された。 う)魚毒植物 含まれる成分を利用して魚を麻痺させて漁獲するのが魚毒漁である。琉球列島からは、聞き取 り調査と文献調査から、現在までに 36 種の植物が魚毒として利用されていたことがわかってい る。このうち、広い範囲の島々で利用が見られたのがルリハコベである。またイジュも奄美大島 から石垣島にかけての範囲で魚毒の利用が見られた植物であるが、イジュの利用は基本的に高島 に限られ、沖縄島においても、その利用は北部において顕著である。 『中山傳信録』には「木」の項に地分木という名称の木があげられており、「白い花が叢生して 冬に開く。毒があって、魚を酔わせる」と魚毒利用に使われていたという説明がなされている。 この地分木の正体について、冊封史録の注釈書を手がけている原田禹雄はサンゴジュであろうと いう推定を行っている。サンゴジュの地方名にワジチという名があることから、ワジチが分地木 と表記され、さらに地分木に転じたというものである(原田 2002)。表記からの推定は別として、 サンゴジュは春期に白い花を叢生させ、魚毒として利用される木であることは確かである。また、 聞き取り調査の結果から、サンゴジュの魚毒利用は沖縄島北部と久米島からのみ聞き取っている (奄美大島と徳之島からはサンゴジュではなく、ゴモジュの魚毒利用が聞き取れている)。このこ とも、地分木がサンゴジュであるという推定に反さない。ただし、現在のところ沖縄島中南部の 聞き取り・文献調査で、魚毒利用植物としてサンゴジュの名があがったことがない。サンゴジュ は高島的環境での生育が見られる木であるからだ。『使琉球記』には首里の王宮内に地分木が植 えられていたという記述がある(なお、『使琉球記』には地分木は、葉に毒が有ると書かれてい
るが、サンゴジュは魚毒として利用する場合、葉を使用する)。これはおそらく観賞用に栽培さ れていたものであると考えられ、実際に魚毒漁に使われたことはなかったであろう。 『中山傳信録』の中には魚毒利用との関連は書かれておらず、「花」の項に「人家の石垣の上に 植えられていることが多い。防火に役立つ」という説明とともに紹介されているのが、吉姑羅と 表記されている植物である。「幹はサボテンに似ており、葉はベンケイソウに似」、「福禄木(ふ くろぎ)という」という記述もみられる。原田禹雄は『琉球国志略』の中で、吉姑羅にキリンカ クの名をあてている。著者もこの植物はトウダイグサ科のキリンカクであることに同意する。ト ウダイグサ科の多肉植物のキリンカクは、江戸末期に書かれた、奄美大島の風物を紹介する『南 島雑話』にも絵が載せられており、明治前に琉球列島に渡来していた植物であることが確かであ る。なお、『中山傳信録』にはキリンカクの別名としてフクロギの中をあげているが、現在、キ リンカクに近縁のフクロギという和名を持つ植物もあるため、ややこしい。文献調査においては、 石垣島でキリンカクを魚毒として利用していた記録があり(岩崎 1974)、聞き取り調査からは 沖永良部島でキリンカク(またはフクロギ)を魚毒として利用していたことがわかっている。日 本本土では、キリンカクが宝暦 13 年(1763 年)に「近年、琉球ヨリ来ル」という渡来の記録 が残されており、それ以前より琉球列島にこの植物が渡来していたことは明らかであるが、『中 山傳信録』からは、さらにさかのぼり、18 世紀初頭にはキリンカクが栽培されていたことがわ かる。『中山傳信録』の記述から、キリンカクは観賞用、防火用として生け垣などに植栽された ものが、島によって魚毒として転用されるようになったものだろうと考えられる。 え)非常用食料源 琉球王国では、先に少し触れたように、シュロ同様、ソテツの植栽も励行された。そのため、 王国時代、沖縄島と伊江島で、あわせて 755151 本ものソテツが植栽されていたという記録も ある(豊見山 2015)。ソテツはその実を毒抜きして食料として利用しただけでなく、食糧難の おりには、幹を切り倒し、その中に含まれるデンプンを、毒抜きして食料として利用した。また、 低島ではソテツの枯れ葉は燃料として重宝され、島によってはチッソ分を多く含むソテツの葉は、 緑肥としても利用された。『中山傳信録』においては、利用についての記述はなく、「あちこちに 植えられている」という一文が、王府による植栽の励行を物語るのみである。一方、『琉球国志略』 には「島の人は、その根を搗いて、粉にして食料にあてる」と、その利用についても書かれている。 お)子どものおやつとなる野生の果物 子どもたちのおやつとされるような野生の木の実も、高島と低島では、どのような植物を利用 するかが異なっていた。『中山傳信録』の中で、こうした在来の野生植物の果実の利用が読み取 れるのは、フクマンギとモモタマナ、アダン、ヤマモモ、キイチゴ類、シイといったものとなる。 このうち、ヤマモモとシイは高島的環境で利用の見られる果実であり、首里近辺に滞在していた と考えられる。冊封史たちは、他地域から持ち込まれたものを見聞きしたのではないだろうか。 また山米または野麻姑当という名の植物も「実はたわわにつき(中略)甘酸っぱくて食べられる。 また、バイオレットの染料にできる」と書かれているが、『琉球列島植物方言集』(天野 1979) では、シマヤマヒハツがこれにあてられている。シマヤマヒハツは、沖縄島中南部のような低島 的環境でよく見られる植物であり、紫色の甘酸っぱい実を房状につけることから、この推定はあ たっているのではないかと考えられる。なお、『中山傳信録』の中では、フクギの実を「食べられる」 沖縄大学人文学部紀要 第 22 号 2019
としているが、フクギの実はガス臭く、これまでの聞き取り調査から、その食用利用を聞いたこ とがないため、この記述に関しては検討が必要だろう。 『中山傳信録』には、悉達慈姑という名の木に、「実は葡萄のように、房にたわわにつき、深藍 色である。(中略)食べられない」という説明をつけている。原田禹雄によれば、これは沖縄口 のシラチグ(和名:コバンモチ)のことであるとしており、実際、コバンモチは青い色の、一般 に食用とされることのない実をつける。ただし、コバンモチは高島的環境に生育する木であり、 自然状態では首里近辺では見ることができない。そのためもし原田の推定が正しいとすると、冊 封使たちは植栽がなされたものを見て記録したことになる。ところが上記のように、『中山傳信録』 には悉達慈姑の実は食べられないとあり、そのような植物を植栽していたとしたらなぜであろう かという疑問があらたに生じることになる。 植物研究家であった故多和田真淳によれば、コバンモチの実は、かつて旧七月の盂蘭盆には ミョウガ、ナシカズラとともに供えられたものであるという。その理由としては「これらの実は おいしくはないが、私たちの先祖が飢えをしのぐために食べた」からであるとしている(多和田 1965)。冊封史録には、コバンモチについて、利用については書かれていないが、王国時代に おいても、コバンモチは盆行事などと、何らかの関わりがあり、植栽がなされていたものであっ たのかもしれない。しかし、多和田によればコバンモチの実が手に入らないような地域(すなわ ち低島的環境)では、コバンモチの実の代わりにホルトノキの実を利用していたともある。この ホルトノキは、沖縄島中南部でも普通に見ることのできる木である。また、このホルトノキの実 も、熟するとやや藍色味を帯びた黒色を呈する。そのため悉達慈姑はコバンモチではなく、ホル トノキではないかという可能性も考え得る。盆の供え物としてホルトノキとコバンモチの利用が、 それぞれどのような地域で見られたのかについて明らかにすることは、今後の課題である。 か)野山から採取されるキノコ類 琉球列島においては、日本本土に比べ、野生のキノコ類の利用は少ない。ただし、聞き取り調 査から、種類はそれほど多くないものの、島々によって特徴的なキノコの利用があったことがわ かっている。 『中山傳信録』に記述されているキノコ類は、キクラゲ、シイタケにくわえ、松露があり、「九 月十月の頃、大きいマツの下の土の中にできる。まんまるで白く、きのこの類で味がとてもよい。 具志頭産のものが一番よい」と書かれている。ところが、これまで、聞き取り調査からは松露ま たは、上記の説明に該当するようなキノコの利用について聞き取れていない(マツ林より発生 するキノコとしては、ハツタケについては、各島において利用が聞き取れている)。戦禍、1960 年代以降の里山の変化、マツ枯れの流行などによって、王国時代に比べ、マツ林が減少している のがその原因であるのかもしれない。琉球列島において、松露またはそれに類するキノコの利用 が近年までみられたのかどうかは、今後の課題としたい。 2.考察 琉球列島の島々において、1960 年代以前の里山と呼ばれるような環境において利用されてき た植物のいくつかは、『中山傳信録』の書かれた 18 世紀の初頭においても、すでに同様の利用 が見られたことがわかった。中国からの公的な使者である冊封史たちの記録は限定的なものであ るとはいえ、例えばキリンカクやフクギ、シュロといった在来ではない有用植物がいつから琉球
列島に渡来していたかの一端を明らかにしてくれる点において貴重な資料だということができよ う。さらにコバンモチまたはホルトノキと考えられる木の実の利用や、フクギの実の食用利用の 有無、松露と呼ばれるキノコの利用など、これまでの聞き取り調査では聞き取ることのなかった 植物利用に関しての記述が冊封史録の中に見られた。これらに関しては、今後、聞き取り調査に よって関連する事例が聞き取れるかに注意を払いたいと考える。 琉球列島の里山は、1960 年代以降、大きく姿を変え、琉球王国時代から続いていた植物利用 も途絶えつつある。琉球列島の里山の多様性を後世に伝えるために、冊封史録などの記録もヒン トにしながら、新たな聞き取り調査を続けていく必要があると考える。 引用文献
磯野直秀 (2007)「明治前園芸植物渡来年表」『Hiyoshi Review od Natural Science』42 号 , pp.27-58 岩崎卓爾 (1974)『岩崎卓爾一巻全集』伝統と現代社 岡本弘道 (2012)「近世琉球の国際的位置と対日・対清外交」周縁の文化交渉学シリーズ 6『周縁と中心の 概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』, pp.89-98 多和田真淳 (1965)「林政八書の植物 4」『琉球新報』(1965 年 2 月 10 日号) 豊見山和行 (2015)「琉球王府による蘇鉄政策の展開」安渓貴子・当山昌直編『ソテツを見直す 奄美・沖 縄の蘇鉄文化誌』ボーダーインク , pp50-65. 原田禹雄 (2002)「“中山傳信録”の動植物」『がじゅまる通信』27 号 , pp.5-12 原田禹雄訳註 (1982)『中山傳信録』言叢社 原田禹雄訳註 (2003)『琉球国志略』榕樹書林 原田禹雄訳註 (2007)『使琉球記』榕樹書林 目崎茂和 (1985)『琉球弧をさぐる』沖縄あき書房 盛口満 (2011)「植物利用からみた琉球列島の里の自然」安渓遊地・当山昌直編『奄美沖縄環境史資料集成』 南方新社 , pp.335-362 盛口満 (2018)「奄美群島の植物利用」鹿児島大学生物多様性研究会編『奄美群島の野生植物と栽培植物』 南方新社 , pp.156-168