原著論文
Abstract
The purpose of this paper is a preliminary study to examine the morals that are the internal triggers of sports players in competitions.
Regarding the moral of sport, the conclusions of prior studies are that coping therapy studies and general ethics are given priority in sport.
This study aims to develop the discussions that are not limited to individual empirical aspects such as the former, but also follow the morals of sport, such as the latter. For the former, Kant's philosophy not derived from experience is valid. In addition, the especial logic to sport is approached from the reflection of the ancient history.
From the above examination, it is suggested that the sport itself has a fundamental contradiction between the practical interests of economic and political foundations and the close relationship between human reason to make them.
Keywords: Vernunft(reason), practical interest, internal trigger
キーワード:理性,実利,内的契機
スポーツ世界における道徳法則の検討
:カント哲学を中心として
1水 島 徳 彦(東海大学大学院)2
阿 部 悟 郎(東海大学)3
1 A study on the moral principle in sport: based on Kant’s philosophy
2 Naruhiko MIZUSHIMA, Graduate School Tokai University, 4-1-1 Kitakaname, Hiratsuka, Kanagawa, 259-1292, Japan
3 Goro ABE, Tokai University, 4-1-1 Kitakaname, Hiratsuka, Kanagawa, 259-1292, Japan
1. 序論 本稿の目的は,「今日的スポーツ世界」 1)に おける行為者の善い行為を検討するための予備 的研究である.ここでの善い行為とは,スポー ツ行為者の行為に関する道徳を検討することと 同様であると定義する.道徳を取り扱うにあた り,方法として,その行為者個人の内的契機は 勿論,スポーツのもつ本質的要素にも着目しな くてはならない.なぜなら,日常的な倫理とス Vol. 42(2020),No. 1,p. 33-45 https://doi.org/10.9772/jpspe.42.1_33
34 34 ポーツ倫理の間に存在する問題点を浮き彫りに することは,スポーツ行為者の行為に関する道 徳を検討するためには避けては通れない議論だ からである. 本稿において,筆者による「今日的スポー ツ世界」という用語がその射程に収めるものは, さしあたり「近代化」以降のスポーツ世界を示 す.この近代化という用語についても曖昧な線 引きであることを棚上げしたうえで,本研究で は「王侯貴族を継承した上流階級,産業革命に よって中産階級の仲間入りをした人々(新興中 産階級),そして都市環境下で肉体労働をする 人々(労働者階級)それぞれにスポーツが浸透 していく過程」 2)とする. これらのスポーツは,近代化していく中で パブリックスクールにおけるスポーツマンシッ プや,人格陶冶を目指す新教育(アスレティシ ズム)といった教育活動と結びつき,他方,国 民体操への転化,富国強兵など政治的要素を含 むようになる.それだけでなく,二十世紀前半 にはマスメディアの発達が政治的宣伝やコマー シャリズムを助長するようになった3).それら の利権を含むスポーツは,商業的問題へも接続 する. これらのスポーツ世界は,近代という一つ の転換期を経て,今日まで引き継がれてきた文 化である.そんな中,スポーツ世界において種々 の問題が表出していることも疑いようのない事 実である4).それは,さながら近代化という一 つのメルクマールから見ても「パンドラの箱」 5) における瓶の毒がごとく拡散し続ける禍といえ るかもしれない.しかし,パンドラの覗いた瓶 の底には希望が残されていたように,スポーツ のもつ豊かさにも,希望が存在するのである. 希望という曖昧さで,スポーツ世界を語ること はあまりにも楽観的であるが,これら諸問題に おける本質に目を向けていく営みはスポーツ世 界の零落を防ぐばかりか,豊かな文化へと導く 可能性を含むだろう. 本稿は,近代化以降の今日的スポーツ世界 をその射程に収め,スポーツ行為者の道徳を検 討するための予備的研究である.その際,道徳 に関連する議論として経験由来の諸要素を含め ないカント Kant, I (1724-1804) の哲学思想は有 効であり,そのカントの道徳論を,氏の著作で ある『人倫の形而上学の基礎づけ Grundlegung zur Metaphysik der Sitten(以下,『基礎づけ』)』 6) (1785)を援用しながら考察を進めていくこと とする. 2. 本論 2.1 先行研究の検討 2.1.1. スポーツ倫理に関する研究 先行研究を検討するにあたり,多くの学術 的研究7)を通覧した上で,「スポーツ世界」・「道 徳」・「倫理」に関する研究とあわせて,「カント」 の研究についても分析の対象とした. スポーツ倫理の研究については,友添らの 論文に有意義な指摘がみられた8).友添らによ れば,スポーツ倫理に関する研究は,スポーツ の倫理的問題状況が競技場の内外を問わず,こ れまでに存続した問題と並んで,新たな価値判 断基準を要請するという問題状況に端を発す る.そして,この要請に応えるべく,1972 年 に国際スポーツ哲学会 The Philosophic Society for the Study of Sport の設立によってスポー ツ倫理の研究は本格化したという9).さらに, 1970 年代以降に本格化したスポーツ倫理の研 究は,眼前の問題状況に対症的に提言する各論 が目立つばかりか,明確な倫理学の方法論に依 拠した理論構築というよりも,むしろ一般倫理 学の成果を意識している程度であると指摘して いる10).そのような今日のスポーツ倫理に関す る研究は,大別すると二つの論調であるという. 一つは「スポーツが人格陶冶の機能を有するか 否かという研究」 11)であり,もう一つは「現実 の倫理的逸脱状況に対しての提言を含んだ規範 033-046_原著論文_水島氏.indd 34 033-046_原著論文_水島氏.indd 34 2020/06/03 15:25:442020/06/03 15:25:44
的研究」 12)である.以上のような現状について, 友添らは「現実を十分に分析しないで観念的な 世界観の形成に耽ることをやめること」 13),「理 論的枠組みを持たないで近視眼的な実践への対 応に終始することをやめること」 14)であると結 んでいる. これらの指摘を受けて,本稿では今日的ス ポーツ世界における現実を再検討し,スポーツ 世界の本質に踏み込んでみたい.この件につい ての詳細は,のちの節に譲ることとする. 2.1.2 スポーツ倫理とカントの道徳論 友添らの研究と同時に,スポーツ倫理にカ ントの道徳論を援用した研究として,竹村ら15) と尹16)の論文も参照した. 竹村らは,日常から切り離された非日常的 なスポーツ世界の道徳のあり方が確立されてい ないことを指摘した.その上で,フェア・アン フェアな行為の本質を検討するために,カント の快 Lust の概念に依拠し,スポーツ界独自の 理論構造の枠を超えた道徳の検討へ立ち返るこ とを試みた17).一方で,尹は竹村らの論文に対 して,スポーツ内部の問題に一般倫理学の思想 を持ち込み,結果的にスポーツの本質を放置し て人間の行為自体だけを批判し,スポーツとい う領域における独特な構造を無視した,行為自 体における一般的分析に過ぎないと論及した18). さらに,尹はスポーツのみならず,医療や政治 などの倫理的領域において,その独自性を認め た上で,多様性を隠れ蓑にし,あらゆる倫理的 価値を正当化し得る「文化的価値相対論」に帰 着することのないように留意し,次のように論 を進める.それは,佐藤の「身体的契機」「知 的契機」「感性的契機」をもとにする文化概念 19)を基底に据え,疎外態としてのスポーツ文化 に注目し,スポーツにおける倫理的価値観の相 剋のための定言命法の方式を「スポーツ的定言 命法」20)として提示している21). 人間の行為一般を全集合とすれば,スポー ツ行為は明らかにその部分集合であるだろう. この点において,竹村らの指摘は的を射ている といえる.しかし,尹の指摘するようにスポー ツそのものがもつ独自性という要素は,正確に 一般倫理の諸要素と一致するわけではない.具 体的には,スポーツを行う行為者の主張する正 当性と,その行為を観る第三者の一般的な倫理 による問題意識が必ずしも一致しているわけで はない.それは,スポーツ行為者が対戦相手の 怪我を弱点とみなすべきかどうかという論争に も現れるだろう.つまり,これまでの研究では, これらの一般倫理とスポーツ倫理の問題につい て,今日まで決定的な解答を出すことができて いないのである.ゆえに,スポーツ倫理に関す る問題の本質に目を向けるとき,一般生活の行 為者とスポーツ行為者における倫理的な問題意 識の違いに目を向けることは欠くことのできな い要素なのである.換言すれば,一般倫理とス ポーツ倫理の間に存在する「スポーツがもつ何 かしらの独自性」は看過してはならないのであ る. とはいえ,文化的価値相対論に陥ることな く,スポーツ独自の倫理的価値観を相剋しよう という尹の試みは慧眼に値する.しかし,その 文化的相対性を検討するにあたり,「柔道と Judo」など野球や跆拳道といった限定的なス ポーツの国際化への歩みを基底にその相剋性を 語る手法のみではスポーツの独自性を帰納的に 導出することに限界があるように思われる.な ぜならば,スポーツの国際化という文化的側面 はスポーツの在り方を示す法に関する議論を喚 起するものではあるものの,スポーツそのもの がその成立の背後に無自覚に背負う文化的独自 性を見落としてしまうためである.従って,よ り長期的な視点でスポーツを捉えることで,「ス ポーツがもつ何かしらの独自性」を明確に浮き 上がらせる必要があるだろう. そこで本稿では,はじめに「スポーツがも つ何かしらの独自性」を明らかにしたい.方法
36 としては,スポーツそのものの成り立ちと一般 の世界との関係性に注目する.この独自性を明 らかにするべく,単なる観念的世界に耽ること なく現実を眺望し,歴史的事実をその論拠にす る.その際,今日的スポーツ世界の射程である 近代化以降のみならず,古代におけるスポーツ の成分に着目する. 2.2 スポーツの成分 −歴史的見地から− 本節では,スポーツの歴史のうち,古代の 沿革について触れるにとどまるが,その中で 「スポーツがもつ何かしらの独自性」に作用す る「何かしら」の存在を明らかにしたい.ただ し,スポーツの歴史から導かれる「何かしら」 の仔細については,断片的な歴史的事実のみで, その全てを把握することは不可能である.ゆえ に,この点については慎重を期さねばならない. よって,本稿においては暫定的に「スポーツが もつ何かしらの独自性」に作用する「何かしら」 を示唆するにとどめる. はじめに,スポーツという概念について史 学的見地から確認しておきたい.稲垣は史学的 な見地からスポーツを次のように説明してい る.それは,「スポーツ」の起源を「労働」(マ ルクス)と「遊び」(ホイジンガ)に求め,こ のことは,人間の本質規定に端を発するもので あり,ヒトが人間になるための最大の契機を労 働や遊びに求めるものであるという.しかし, これらの根底にはハイデガーの主張する「存在 不安」があり,ともすると,ヒトが存在不安に 怯えて,その安寧を求めた最初の身体技法は「祈 り」であると論じる22).この稲垣の見解に倣い, スポーツの史学的見地として「労働」「遊び」「祈 り」を前提に論を進めていくこととする. 2.2.1 古代のスポーツの沿革 古代において,スポーツという概念は存在 しない.しかし,古代の英雄が名誉のために競 技をしていた痕跡は多く残されている.古いも のでは,ホメロス Homeros による『イリアス ILIAS』 23)第二十三歌での記述にもみられる. 以下にその梗概を引用する. アキレウスとミュルミドネス勢は,パトロ クロスの遺体を囲んでその死を悼む.その夜 アキレウスの枕許にパトロクロスの亡霊が現 れ火葬を督促する.火葬を終えた後,アキレ ウスは様々な商品を賭けて葬送競技を催す. 最後の槍投げでは,戦わずしてアガメムノン の勝利を宣言し,今や彼への恨みが全く解消 したことを暗に示して終わる24). この時,葬送競技として,戦車競技,拳闘, 角力,走り競べ,槍試合,鉄塊投げ,弓射,槍 投げが行われた.そこでは,それらの競技はパ トロクロスを弔うものとしての祭儀の意味合い を含む.このことは,スポーツのもつ「祈り」 の要素にあたる.稲垣によると,この祈りの要 素については主に古代オリンピアの祭典競技が それに該当するという25).また,アキレウスの 用意した商品は,参加者全員に与えられた26). 榊原によれば,古代のスポーツでは「商品を目 指して最善を尽くし,他者に勝ることが当時の 競技精神であった」 27)という. しかし,ここで注意しなくてはならないの は,行われたこれらの競技のほとんどが「闘い」 に関係しているということである.それは,単 に「祈り」に根ざしたものでもなく,古代スポー ツの競技精神だけでは説明できないのである. ここで,榊原が指摘するスポーツの成り立ちに 関する考察を援用したい.ウォーラーステイン らの理論モデル28)を援用した榊原は,近代ス ポーツの中で中心を占めるスポーツを「中心ス ポーツ central sport」,周縁部分に位置づくス ポーツを「周縁スポーツ」とし,その原初形態 やルーツを体系的に分類している.この分類に よると,原初形態としてみられるのは「生活」 と「遊び」である.「生活」は例えば,日常生 033-046_原著論文_水島氏.indd 36 033-046_原著論文_水島氏.indd 36 2020/06/03 15:25:442020/06/03 15:25:44
活での移動などの実用として扱われているため 「労働」に該当すると考えられる.また,「遊び」 はその遊びのために目的的に作られたものであ り,そのまま「遊び」に該当するといえるだろ う.一方で,ルーツとしては「実用」「遊び」に 加えて「闘い」と「祭祀」があげられている29). 先に述べたアキレウスの葬送競技について も,祭祀という性質が表出しているだけでなく, 「闘い」そのものが多くの点で見受けられる. このような闘いは,生存競争や,政治的諸関係 に内包されながら戦争のための訓練としての体 操などに接続していくことにもなる.より優れ た身体をもつ兵士は闘いにおいて,重用される のである.そこには単なる生存としての実用と は別に,闘いの実用という概念すら見え隠れす るのである. また,権力を争う闘いと政治的諸関係は同 値であり,スポーツに対する概念は流動的であ るといえる.そのような関係性は,古代に遡っ ても見受けられる.具体的には,「オリンピア の祭典がローマ帝国という強大な権力に支配さ れた時期には,競技や大会は権力者の私物と化 していたという.権力者(パトロン)のお抱え のプロ競技者などは,優勝すると凱旋将軍と同 等の名誉と実益を得るのである.加えて,開催 地のオリンピアは観光地と化し,プロの集うオ リンピアの祭典は,ローマ帝国内に居住する全 民族の四年に一度の娯楽として繁栄したのであ る」 30). この史実は,祈りや古代の競技精神とは相 異なる点を示す.それは,競技者自身が,抽象 的な名誉に加えて,実利を伴う凱旋将軍と同等 の実益を享受している点である.ただし,それ は競技者自身のみの利益であるならば,権力者 は競技者を援助するはずがない.権力者がオリ ンピックを私物化したのは,次のような二つの 事情があるためであろう.一つは産業的なス ポーツの発展である.ベーリンガーは「当時, スポーツイベントは観衆の広大な関心を引くイ ベントであり,スポーツの熱狂の渦中にある古 代ギリシア・ローマでは,スポーツ場の建設の みならず競技やトレーニングに必要な器具を生 産するスポーツ用品産業も発生した」 31)とい う.それはつまり,スポーツと産業の結びつき である.二つ目は,スポーツに熱狂する古代ギ リシア・ローマ人の関心ごととして,「賭け」 が存在した事実である.玉木によれば,「ギャ ンブルとスポーツの関連については古代エジプ トのピラミッドに彫られた文書や日本の『古事 記』にもその記述があるほど」 32)であり,古来 よりギャンブルはスポーツと密接な関係を持つ という.それは,「神々の姿(力)に近づこう として生まれたスポーツに対して,一方で神々 の意向(信託)を知ろう(予想しよう)という 行為から生まれたものがギャンブルであるた め,両者はコインの裏表のような関係である」 33)という.ここで注目すべきは,「アキレウス の時代におけるオリンピアの祭典ではギリシア 人としてのアイデンティティを得る神聖な競技 であったものが,帝政時代において見世物と化 した競技大会では賭けが日常となった」 34)ので ある. このスポーツと産業の接続と,スポーツと 賭け(ギャンブル)の結びつきは,ある種時代 の流れとともに,あるいはスポーツの成り立ち からして必然のものとして存在する「実利」な のである.ここでの実利は「経済活動」すなわ ち,今日での「カネ」に結びつくものである. 2.2.2 古代スポーツから見えるもの 一度,これらの史実を整理してみたい.ス ポーツに関する史学的見地としては「労働:マ ルクス」「遊び:ホイジンガ」「祈り:ハイデガー」 があげられる.また,ウォーラーステインの理 論モデルによる分類では,原初形態として「生 活」と「遊び」に分けられ,さらにルーツとし て「実用」「遊び」「祭祀」「闘い」に分類される. ここで,遊びとしてのスポーツ以外に,アキレ
38 ウスが葬送競技を行ったことや,古代ギリシア におけるオリンピア競技祭のような祭祀が存在 していた.アキレウスが葬送競技を行った場も 戦場であり,古代ギリシアにおける競技そのも のの多くが,闘いとしての実用と連関していた ことも示唆された.加えて,闘いそのものは権 力を伴う政治的諸関係と同値であり,帝政ロー マにおけるオリンピア祭では,権力に付随する 名誉以外の実利(実益)が競技者にもたらされ た時代である.その実利とは,具体的に,都市 の観光産業化や権力者(パトロン)の周辺で巻 き起こる「スポーツ」と「商業や賭け(ギャン ブル)」といった,経済活動である. これらの話は,決して古代特有のものでは なく,近代以降の今日的スポーツ世界において も別段珍しいものではない.スポーツにおける 政治利用やナショナリズムの勃興,スポーツと 商業主義の結びつき,それらに伴う過剰な勝利 至上主義の問題など,スポーツを取り巻く「何 かしら」の今日的意味合いは,すでに長い歴史 の中で脈々と受け継がれてきたのである.それ は,現代の子どもが,スポーツを始めたばかり の頃,純粋無垢な気持ちで遊びとして楽しむ姿 や,その子どもの両親が実用のために何かス ポーツを習わせる態度や,祭の一環として参加 する相撲など「原初形態」を含んでいるといえ る.そして,次第に勝利に付随する達成感や名 誉といった価値を子ども自身が見出していく過 程や,競技として結果を出し,競争相手が種々 の共同体,地域を跨ぎ,国境を超え始めると本 人の意図とは別の位相で政治的,経済的潮流に 飲み込まれることと同様であるだろう.ここに 現れるのは,何かしらの「実利」であり,そこ には自己愛やそれに伴う共同体への愛などが存 在するだろう. 樫永が指摘する,「それらの実利を求め,暴 走する人間を抑止するもの」とは一体どのよう なものであろうか.樫永は,「近代化するスポー ツが暴力や流血といったものを嫌悪し,その感 性を鋭敏化させていったものの所産であるとす るならば,それらを排除したものは人間の理性 であり,ルールを無視した暴力で敵を殲滅し, 流血と苦悶から嗜虐的快楽を得るのは,紛れも なく理性をもつ人間であり,同時に,その残忍 な欲望を抑制させ,ルール破りを禁じるのも人 間なのであるという.この点において,流血や 暴力性の排除を骨子とした近代スポーツは,理 性の所産であるといえるのである.」 35)と論じ る.確かに実利そのものは直ちに斥けられるべ きものではない.それ自体が樫永の指摘に従う ならば理性の所産であるためだ.しかし,実利 を追求したくなるような場面でその実利を抑制 することもまた,理性の働きなのである.この 点は,後述するカントのいう意志としての理性 の道徳的価値と類似する点が見受けられる. ここで,「理性」の一般的解釈を整理するため に,辞書的な意味を確認しておきたい.通覧し た五件の国語辞典や哲学事典の仔細を引用する. ① 概念的思考の能力.実践的には感性的欲求 に左右されず思慮的に行動する能力.古来, 人間と動物とを区別するものとされた36). (一部抜粋) ② 一時的な本能や衝動に左右されず,物事を 概念的・理論的に考える心のはたらき37). ③ 感情に動かされたりしないで,論理的に考 えをまとめたり,物事を判断したりする頭 の働き38). ④ 感情に走らず,道理に基づいて考えたり判 断したりする能力39).(一部抜粋) ⑤ 一般には見たり聞いたりする感覚的な能力 に対して,概念によって思惟する能力をい う.人間は 理性的動物である,といわれ る場合の理性はこの意味である.…中略… このように本能や衝動や感覚的欲求などに もとづく行動に対して,義務ないしは当為 の意識によって決定される能力をも理性の うちにふくめる40).(一部抜粋) 033-046_原著論文_水島氏.indd 38 033-046_原著論文_水島氏.indd 38 2020/06/03 15:25:442020/06/03 15:25:44
これらの共通事項をまとめると「理性」は 次のようにいえる.「理性」とは「一時的な本能・ 衝動・感情に左右されることのない,論理的・ 概念的思惟能力であり,義務や当為の意識に よって決定される能力」である.樫永のいう嗜 虐的暴力性を含みもつ理性は,感情的嗜好であ るとする主張も避けることはできないように思 われる.しかし,ここでの理性とは人間がもつ 暴力性は感情というよりも,元来の理性に深く 刻まれているものである.暴力性が理性に含ま れるかどうかの是非は棚上げした上で,確かな ことは,近代スポーツにおいて暴力や流血を排 除した人間の営みが理性の所産であることであ る. 本節をまとめると次のように示される.ま ず,古代という時代を通して確認した「スポー ツ」における「何かしら」には労働・遊び・祈 り以外に「権力」の発生に伴う諸要素が前提さ れていることが明らかになった.また,それら の権力の種類としては政治的・経済的権力が存 在し,「実利」がそれらの原動力となっている のである.そればかりか,その自己愛ともいえ る実利を抑制したり,膨張させるものとして, 人間の「理性」が関連することが示唆された. ここではスポーツにおける,種々の権力に付随 する「実利」と,その営みの中核に居座る人間 の「理性」について触れるにとどまり,本節の 結びとする. 2.3 カントの道徳論 本論第二節において,「スポーツがもつ何か しらの独自性」の「何かしら」の存在を,古代 のスポーツを通して歴史的見地から検討した. そこでは,労働・遊び・祈りという要素以外に 権力の発生に伴う諸要素が前提されており,政 治的,経済的「実利」が原動力となることが明 らかにされた.また, 樫永の指摘に従えば「自 己愛」を抑止し,あるいは膨張させるものが人 間の「理性」に他ならないのである.この実利 こそ,何かしらの「自己愛」に裏打ちされたも のである.本節では,「自己愛」や「理性」に ついてカントの著作である『基礎づけ』を通し て確認する. 2.3.1 カントの道徳論の概観 本稿では,カント哲学の道徳論を援用する が,「道徳性の最上原理の探求と確定」 41)を目 的とし,その予備的研究として著名な『基礎づ け』を手がかりに進めていく. カントの道徳論において,その中心概念 となるものがある.それは無条件に善いとされ る「善い意志 guter Wille」である. 世界中のどこであれ,それどころか世界の 外でさえ同様に,無制限に善いと考えられる 価値があるとするなら,それは善い意志だけ であり,それ以外には考えられない42).…中 略… 善い意志は,それが引き起こしたり成し遂 げたりするものを通じて善いのでもなければ, あらかじめ設定した何らかの目的を達成する ことを通じて善いのでもなく,善い意志は, ただ意欲するだけで善い.すなわち,それ自 体 an sich として善いのである43). 「善い意志は,それだけで比類なき価値をも つ」 44)ものであり,善い意志においては行為の 帰結は一切考慮されず,むしろ,その行為にお ける意志の善さが問題となるのである.ここに, カントの道徳論において,動機主義と言われる 由縁が垣間見えるように思われる.それは,行 為の道徳性の根拠を意志の働きに見出している 点である.そのような意志の働きの根拠になる ものとして,理性 Vernunft をあげている.カ ントは善い意志と理性の関係について,次のよ うに説明している.
40 理性に必要な真の定めが,よもや他の意図 のための手段として善い意志を産み出すこと にあるわけがなく,かえってそれ自体みずか らが善い意志を産み出すことにあるに違いな い45). 理性に関するこの主張から,最高善として の理性の行使は,無条件な意図のために要する 理性であることがわかる.しかし,それは同時 に「この世の生活において幸福の達成をさまざ まに制限するだけでなく,傾向性の諸目的を無 以下 unter nicht のものに引き下げることも起 こりうる」 46)という点には留意しておきたい. さらに,カントはこの善い意志の概念を解 明するために義務という概念を取り上げる.カ ントのいう義務とは「道徳法則に対する尊敬の 念にもとづく行為の必然性」 47)である.これら の善い意志,理性,義務の概念は理性の命令と して「…すべし」の形で記述される「定言命法 kategoricher Imperativ」の三法式を示す.また, カントは定言命法の対概念である「もし〜なら …すべし」という条件節を伴う「仮言命法 hypothetischer Imperativ 」 48)についても記述 している. また,これらの定言命法を可能にするもの として,意志の主体である,理性的存在者 vernünftiges Wesen としての人間は,二世界 にまたがる存在であるという.その二世界とは, 経験的な世界である「感性界」と感性界の根底 にある世界49)としての「叡智界」である.そ して,カントは「理性的な叡智界に属する存在 者である人間は,自分自身の意志の因果律を, 常に自由の理念の下でしか考えることができな い」 50)という.なぜならば,「感性界の決定さ れた諸原因から独立していることが自由であ る」 51)からである.ゆえに,カントはこのよう な意志の自律 Autonomie に基づく自由こそが 定言命法を可能にするという52).このように表 現されるカントの自由とは,先述した義務にも とづくものであり,同時にそれは「嫌々の念 ungern genommenen」 53)からなされることが カントの道徳において重要な概念である.この 点について『人倫の形而上学』 54)から以下の一 節を引用する. なぜなら,義務とは,嫌々ながら55)に採用 された目的への強要だからである56). つまり,カントは理性意的存在者としての 叡智的な自分が感性的な自身に対して道徳法則 に従うように強制することが義務であるとし, そこには「嫌々の念」があり,それを義務から 理性によって抑制する意志にこそ道徳的価値を 見出している57)のである. 2.3.2 『基礎づけ』の射程 カントは道徳性の検討に際して,『基礎づけ』 において次のことに留意せねばならないとい う.それは,「実例が先行して道徳性の概念を 提供することは決してありえない」 58)というこ とである. 理性概念によって自ら引き起こした「尊敬 Achtung 59)という感情によって,私の意志が 法則に服従しているという意識」 60)だけが,「ア プリオリ a priori に,一切の経験的なものから 自由に,まったくもって純粋な理性概念のうち に見出される意志である」 61)という.つまり, 経験に由来する人格(素晴らしい行いをする人 物)に対する関心やそれに基づく尊敬は,いわ ば,法則の実例を想起させるに過ぎず,「行為 =道徳法則」という構図には決してならないと いうことである. ゆえに『基礎づけ』においてカントは,一度, 道徳性の原理の探求のために「人倫の形而上学」 をあらゆる研究や通俗性から完全に独立させて いる.それは,「道徳法則という普遍的な理性 的存在者全般に妥当するものである道徳法則 は,経験から独立した普遍的な理性的存在者か 033-046_原著論文_水島氏.indd 40 033-046_原著論文_水島氏.indd 40 2020/06/03 15:25:452020/06/03 15:25:45
ら導出されねばならないという純粋な哲学(形 而上学)としての立場」 62)でもある. 2.4 スポーツ世界の道徳とカントの道徳論 これまでの議論を踏まえて,今日的スポー ツ世界の道徳を検討してみたい.はじめに,本 論第二節で確認した,スポーツにおいて古代か ら脈々と受け継がれる,政治的・経済的権力に 付随する「理性」と「実利」についてカントの 道徳論と照らし合わせる.カントの道徳論にお ける「理性」は「善い意志」をもたらすものと しての理性であり,具体的には,悟性界と感性 界の両世界に位置づき,普遍的な法則を導く, 自律的な立法者としての理性的存在者が,自ら 定めた法則を行為と一致させる意志の力のこと である. そして,スポーツの場面において,あらゆ る垣根を超えた人がスポーツ行為の中でみる行 為者のフェアな振る舞いなどを(陳腐な言い回 しではあるが)賞賛することは,さながら,道 徳法則の実例をみたような気持ちになるからで あろう.このことは,カントの義務論における 義務の命題で触れられた,「法則の尊敬」に値 するところである.人々が,スポーツ行為者の フェアな振る舞いを見たとき,普遍的に触発さ れるある感情を抱くのは,人々の固有の何かし ら(個人の経験,共同体,損得の発生など)の 感情とは異なる位相で生ずるのである.つまり それは,その行為や外形に起因するものではな く,その振る舞いを行う行為者が具現化してい る道徳法則そのものである.換言すれば,この ような事実が存在するとき,人々は行為そのも のに関心を抱くのではなく,行為の主体である 人格を通して「尊敬」という感情を抱き,それ は,まさに道徳法則の実例を目の当たりにする ことに他ならないのである.カントが言うよう に,道徳法則は個別の事例から立法されること は決してないが,このことは逆説的に,そのよ うな行為に触発される「理性」の働きが現代の 人々にも間違いなく備わることを示しているだ ろう.つまり,今日的スポーツ世界における個 人の道徳法則の立法という意志規定において, 理性の働きが道徳的に作用していることがわか る.この時,実利はまさに経験的な事物であり, 無邪気でいることのできない人間を簡単にたぶ らかすものとして,理性の前に立ちはだかるの である.その実利は,個人の必需や傾向性といっ た自己愛だけでなく,スポーツの周辺に位置づ く政治的・経済的権力が作り出すものも含まれ る. そのような今日的スポーツ世界に生きる人 間にとって,スポーツ行為において道徳的であ ろうとすることは,叡智界と感性界の二世界に またがる理性的存在者として,多くの実利(傾 向性)を「嫌々の念」から振り切り,義務から 道徳法則を立法することを要求する.しかし, この事実はある種の矛盾を含む.なぜなら,そ もそもスポーツ自体が自己愛や政治的・経済的 実利に由来するためである.しかし,カントに よれば実利の追求自体が倫理的悪でもない点に は注意を払いたい.カントは『たんなる理性の 限界内の宗教』 63)において次のように説明して いる. 自然的傾向性は,それ自体において見れば 善である.すなわちなんら非難するべきもの ではない.それを根絶しようとするのは,無 駄なばかりか有害でもあり,非難もされなく てはなるまいわけで,それよりも傾向性がた がいに傷つけあわないように,むしろ幸福と いう名の全体における調和にもたらされうる ように,それを抑制すればよいのである64). カントによれば自然的傾向性自体は倫理的 悪ではないことが示唆されており,傾向性を直 ちに断罪することは適当とはいえないのであ る.つまり,このようなスポーツ場面における 行為者の実利(傾向性)と義務からの理性の命
42 42 令の間にある二律背反に目を向けることがス ポーツ行為者の行為に関する道徳において重要 な概念なのである.これらの二律背反を相剋す る道徳法則が希求されていないことが,今日的 スポーツ世界において倫理的問題が解決しない 理由ではないだろうか.一方で,先に述べたよ うに,フェアな振る舞いなどが,我々に法則の 実例を見たような気分にさせる点において,普 遍的な道徳法則を立法する意志の働きは間違い なく存在する.ゆえに,今日的スポーツ世界に おいても普遍的な道徳法則を放棄する必要は一 切ないばかりか,普遍的法則の立法を放棄する ことは,すなわち,スポーツの零落を示すこと に他ならない.この問題に立ち向かうにあたっ て,この二律背反を克服することは必至である といえるのである. ただし,このような道徳法則を検討するに あたり,川谷が指摘する次の点に留意しなくて はならない.それは,「改良主義的に改変され た方式は,競技者倫理と一般道徳規範とが対立 した場合は,できるだけ後者を尊重した方が良 いという主観的な推奨の原理に留まらざるをえ ず,それは,単なる常識道徳の勧めにすぎない」 65)という点である.このことは,単一に内面化 される個人の道徳と,スポーツに介在する多く の社会が必然的に作り出す実利としての法則 (今日的には憲法や民法が代表される)との関 連を無視できないことを示す.『基礎づけ』に おいては道徳原理の探求のためにあらゆる通俗 性を切り離してその議論が展開されるため,こ れらの前提に立った道徳を検討するために,今 後,カントの法論と徳論の議論へと踏み込む必 要があるだろう. 3. 結語 本稿では,今日的スポーツ世界の行為に関 する道徳を検討するための予備的研究として 「スポーツがもつ何かしらの独自性」を明らか にし,また,道徳的問題の検討にあたっては, 単なる観念的世界に耽ることのないよう,歴史 的事実として古代のスポーツを振り返った.そ こではスポーツにおいて,過去から現在に至る まで政治的・経済的権力による「実利」と「理 性」の働きが密に関係していることが明らかに なった.そして,スポーツ世界における道徳を 検討するために,意志の働きからそのような実 利を斥け,理性による道徳法則の立法を主張し たカントの道徳論を援用し,検討した.その結 果,個人や政治的・経済的実利に由来するスポー ツそのものと普遍的な法則は,ある種の二律背 反を含んでいる点が明らかになった.しかし, 今日の我々がフェアな振る舞いを見て,道徳法 則の実例を見たような気持ちになることは事実 であり,その点において,普遍的な道徳法則は 確かに存在するのである. これらの事実を踏まえて,今後,通俗性を 離れて議論された『基礎づけ』における道徳論 からさらに踏み込んでいく必要があるだろう. また,本研究では歴史的事実について古代のみ をその論拠にしたが,スポーツとそれにまつわ る歴史の仔細を詳細に検討することも求められ る.以上の点を今後の研究の課題とし,今回明 らかにされたスポーツと道徳という二律背反と いう課題を踏まえた上で,スポーツ行為者の行 為に関する道徳という問題に取り組んでいきた い. 注および引用・参考文献 1) 「今日的スポーツ世界」の意味するところと しては,現在のスポーツという「点」の概念 ではなく,いわゆる近代スポーツという概念 が形成され始めた過程から現代(いま)に至 るすべての過程を「線」として含み持たせる 意図がある. 2) 榊原浩晃(2012)スポーツの歴史と文化,道 和書院,p.31. 3) 稲垣正浩・谷釜了正 編著(1995)スポーツ 033-046_原著論文_水島氏.indd 42 033-046_原著論文_水島氏.indd 42 2020/06/03 15:25:452020/06/03 15:25:45
史講義,大修館書店,pp.74-80. 4) そのような実例は,たとえば 2018 年の日本 大学のアメリカンフットボール選手の悪質 タックル事件にも現れているだろう.また, 国際的な事例をみても,2018 年の平昌オリン ピックにも朝鮮半島における南北合同チーム 結成などに見られる政治問題が表出していた といえる. 5) ゼウスが初めて女というものを造り,プロメ テウス兄弟と人間に贈ったとされる.その女 が,かのパンドラである.その後,パンドラ はエピメテウスに与えられ,共に生活をする ことになる.その折,エピメテウスの家にあっ た一つの瓶の中身をどうしても知りたくなっ たパンドラは,ある日,その瓶の蓋を開けて 中を覗き込んだ.するとたちまち,瓶の中か らおびただしい禍(肉体的なものから精神的 なものまで)が世界の隅々まで広く散った. パンドラは慌てて蓋をしたが,すでに手遅れ であった.しかし,瓶の底にはただ一つのも のが残されていた.それは希望である.ブル フィンチ:野上弥生子 訳(1978)ギリシア・ロー マ神話,岩波文庫,pp.33-34. 6) 本研究においては,ヴァイシェーデル編の ズーアカンプ文庫版,カント著作集第 7 巻 と坂部・平田・伊古田訳の岩波書店,カン ト全集第7巻を底本とした.直接引用の訳 については,稚拙ながら,筆者が上掲書を 参考に翻訳し直したものである(Immanuel Kant(1785/1977)Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,Immanuel Kant Werkausgabe Ⅶ,Suhrkamp,S.11-102.).また, カント全集第 7 巻では,本著の表題でもある 「Sitten」を「人倫」としているため,表題と してはそのままにし,適宜,本文においては 「道徳」と訳している. 7) 『体育学研究』第 1 巻(1951)から第 62 巻 2 号(2017),『日本体育学会大会号』第 32 回 (1981)第 68 回(2017)『体育哲学研究』第 8 号(1977)から第 47 号(2016),『体育・ス ポーツ哲学研究』第 1 巻(1979)から第 40 巻 2 号(2018) 8) 友添秀則・近藤良享(1991)スポーツ倫理学 の研究方法に関する研究,体育・スポーツ哲 学研究,13-1:39-54. 9) 同上論文,p.39. 10) 同上論文,p.39. 11) 同上論文,p.41. 12) 同上論文,p.41. 13) 同上論文 , p.51. 14) 同上論文 , p.51. 15) 竹村瑞穂・近藤良享(2007)カント実践哲学 からみるフェアプレイの道徳性,体育・スポー ツ哲学研究,29-2:139-149. 16) 尹熙喆(2015)現代スポーツ文化に内在する 「倫理性」の哲学研究:カント「批判哲学」 を方法として,筑波大学博士論文(12102 乙 第 2751 号):Pp.221. 17) 竹村瑞穂・近藤良享(2007)pp.140-146. 18) 尹熙喆(2015)pp.162-163. 19) 佐藤臣彦(1991)体育とスポーツの概念的区 分に関するカテゴリー論的考察,体育原理研 究,22(別冊):Pp.12. 20) スポーツに関わるそれぞれの個人的思惑に左 右されることのない自立的・自律的疎外態で あるスポーツ構造原理を規定にした,選手の 行為における法則であり「スポーツ選手は, 自らを主体とし,スポーツ構造という法則的 客体に基づいてゲームを構成し,かつ成就さ せることを目的として行為すべきである」と 規定されるもの.尹熙喆(2015)p.183. 21) 尹熙喆(2015)p.11. 22) 稲垣正浩(2006)最新スポーツ科学事典,平 凡社,pp.449-450. 23) ギリシアの二大国民的叙事詩の著者であるホ メロスは前 9 世紀ごろ小アジアのキオスある いは,スミュルナに生まれた.『イリアス ILIAS』と『オデュッセイア ODYSSEIA』
44 の真の著者であるか否かの論争は現在にまで 及ぶが,今日では,再びホメロスの実在を認 める説が有力となっている.『イリアス』につ いては,アキレウスを主人公にし,悲惨な戦 場と武士道を扱っている.下中邦彦(1971) 哲学事典,平凡社,p.1311. 24) ホメロス:松平千秋 訳(1992)イリアス(下), 岩波文庫,p.334. 25) 稲垣正浩(2006)p.450. 26) ホメロス:松平千秋 訳(1992)pp.346-375. 27) 榊原浩晃(2012)スポーツの歴史と文化,道 和書院,p.22. 28) I. ウォーラーステイン 著:川北稔 訳(2013) 世界近代システム I,名古屋大学出版会, Pp.423. 29) 榊原浩晃(2012)pp.33-35. 30) 玉木正之(1999)スポーツとは何か,講談社 現代新書,p.50. 31) ヴォルフガング・ベーリンガー 著:高木葉子 訳(2019)スポーツの文化史 古代オリンピッ クから 21 世紀まで,法政大学出版局,p.51. 32) 玉木正之(1999)p.72. 33) 同上書,p.72. 34) 同上書,(1999)p.73. 35) 樫永真佐夫(2019)殴り合いの文化史,左右 社,p.71. 36) 新村出 編(1998)広辞苑 第五版,岩波書店, pp.2793-2794. 37) 守随憲治・今泉忠義 監修(1965)国語辞典, 旺文社,p.1124. 38) 金田一京助 他(1991)新明解 国語辞典 第 四版,三省堂,p.1355. 39) 尚学図書 編(1981)国語大辞典,小学館, p.2460. 40) 下中邦彦編(1971)哲学事典,平凡社,pp. 1462-1463. 41) カント:平田俊博 訳(2000)人倫の形而上 学の基礎づけ,カント全集 7,岩波書店,p.11. 42) Immanuel Kant(1785/1977)Grundlegung
zur Metaphysik der Sitten,Immanuel Kant Werkausgabe Ⅶ,Suhrkamp,S.18. 43) Ditto, S.19. 44) Ditto, S.19. 45) Ditto, S.19-20. 46) カント:平田俊博 訳(2000)pp.15-18. 47) カント:平田俊博 訳(2000)p.23. 48) (1) 自分の行為の信条が自分の意志によって 普遍的自然法則になるべきであるかのよう に,行為しなさい.Immanuel Kant(1785/ 1977)S.51. (2) 自分の人格のうちにも他の誰 の人格のうちにもある人間性を,自分がいつ でも同時に目的として必要とし,決してただ 手段としてだけ必要としないように,行為し なさい.Ditto, S.61. (3) おのおのの理性的存 在者の意志は普遍的に法則を立法する意志で ある.Ditto, S.63. 49) カント:平田俊博 訳(2000)p.97. 50) 同上書,p.99. 51) 同上書,p.99. 52) 同上書,pp.96-100.
53) Immanuel Kant(1797/1968) Kants Werke Akademie Textausgabe Ⅵ Die Metaphysik der Sitten, Walter de Gruyter & Co, S.386. 54) カント:樽井正義・池尾恭一 訳(2002)カ ント全集 11,岩波書店,Pp.452. 55) 岩波版のカント全集 11 において,文中で は「…不承不承に…」(カント:樽井正義・ 池尾恭一 訳(2002) p.250.)と訳出されている. しかし,該当箇所についてアカデミー版のカ ント全集(Immanuel Kant(1797/1968) Kants Werke Akademie Textausgabe Ⅵ Die Metaphysik der Sitten, Walter de Gruyter & Co, S.386.)を参照したところ,「ungern genommenen」の訳出が特に重要であると思 われた.「ungern」は「気が進まずに,いや いやながら」(近藤孝夫(2010)アポロン独 和 辞 典, 同 学 社,p.1412.) の 意 で あ り, 「genommenen」は「nehmen」の過 去分 詞 033-046_原著論文_水島氏.indd 44 033-046_原著論文_水島氏.indd 44 2020/06/03 15:25:452020/06/03 15:25:45
形であり,「選びとる,採用する」(近藤孝夫 (2010)アポロン独和辞典,同学社,p.940.) の意である.これらのことから,カントの義 務に関する記述において,それは,「嫌々」 に「採用」されたものと解釈することができる. そこで,本稿では岩波版の全集の訳出を参照 しつつも,「…不承不承に…」の箇所を「…嫌々 ながらに…」と拙訳ながら記述した. 56) Immanuel Kant(1797/1968)Kants Werke
Akademie Textausgabe Ⅵ Die Metaphysik der Sitten, Walter de Gruyter & Co, S.386. 57) カントのいう「嫌々の念」については,『基 礎づけ』における自己愛に関する記述からも みてとることができる.この点に関する説明 を『カント事典』から引用する.「…略…第 二に,道徳法則が自己愛に及ぼす影響につい てである.それは,唯一の意志規定根拠であ る道徳法則が,動機の中に入り込むすべての 傾向性を妨害し,苦痛を与えるためである. 有福孝岳 他編(2014)カント事典,弘文堂, pp.194-195.」ここでの,「動機の中に入り込む すべての傾向性を妨害し,苦痛を与える」も のこそ,自己愛に対する理性の命令であり, 「妨害・苦痛」という表現からも「嫌々の念」 を『基礎づけ』においても前提していること が見て取れる. 58) Immanuel Kant(1785/1977)S.36. 59) カントは尊敬 Achtung という語を隠れ蓑に して,不明瞭な感情に逃げ込んだわけではな いという.尊敬は,感情というものによって 影響を受けた,感受された感情ではないので ある.それはむしろ,理性概念によって自ら 引き起こした感情なのである.ゆえに尊敬は, 感受された傾向性などとは異なる位置づけに あるものなのである.このとき,尊敬の意味 するものは,ただ,自分の感官 Sinn への他 からの影響を媒介することなく,私の意志が 法則に服従しているという意識それだけであ る.つまり,法則によって意志が直接に決定 されていて,そのことを意識していることが 尊敬なのである.ゆえに,尊敬は主体に作用 した法則の結果とみなされても法則の原因と はみなされないのである.このとき尊敬の対 象となるものは法則のみである.この法則に ついては自己愛を参考にしてはならないが, 自分自身によって課される法則である以上, それは自分自身の意志の帰結であるのであ る.また,人格に対する尊敬は,すべて本来 は法則に向けられたものであり,人格は法則 の実例を人間に示しているのである.人間は 自分の才能を伸ばすことを義務と考えている ため,才能ある人に出会うと,法則の実例を 見たような思いになる.しかし,これは道徳 的な関心によって引き起こされたものであり, 尊敬ではない.そのとき,自分自身のうちに 自ら立ち起こる法則に対する意識が尊敬なの である.ゆえに,このとき起こる,すべての 道徳的な関心は,ただ法則に対する尊敬から 成り立っているのである.カント:平田俊博 訳(2000),pp.24-25. 60) Immanuel Kant(1785/1977)S.28. 61) Ditto, S.38. 62) カント:平田俊博 訳(2000)p.40. 63) カント:北岡武司 訳(2000)カント全集 10, 岩波書店,Pp.446. 64) 同上書 , p.77. 65) 川谷茂樹(2005)スポーツ倫理学講義,ナカ ニシヤ出版,p.166. 受付 2019 年 11 月 30 日 受理 2020 年 3 月 8 日