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社会に問題解決型形態生成をもたらすソーシャル・イノベーション ―交通系ICカード導入の事例―

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一般投稿論文

社会に問題解決型形態生成をもたらす

ソーシャル・イノベーション

―交通系 IC カード導入の事例―

廣田 俊郎

(関西大学) hirota@kansai-u.ac.jp キーワード: ソーシャル・イノベーション、形態生成、構造、文化、エージェンシー、 交通系 IC カード 1 .序  発明家による技術革新や企業家による事業革新 によって創出された新たな動きが人々によって 徐々に受け入れられ、ついには社会的実践のあり 方が一新されることがある。その例として、宅配 便サービスの創出、マクドナルドなどのファース ト・フード店、SNS、交通系 IC カード導入、キャ ッシュレス取引、スマホの登場などが挙げられる。 こうしたミクロレベルでの新たな可能性の追求に 端を発し、社会全般の変化というマクロレベルの 変化として結実する現象をソーシャル・イノベー ションと呼びたい。ただし、その起点としての発 明家による技術革新や企業家による事業革新とい うミクロレベルでの取り組みについては、マクロ レベルでの構造的問題点を反映していたり、逆に その利点を活用していたりする面がある。こうし たミクロ・マクロ・リンクに基づきつつ、人びと の新たな行為によって社会の新たな姿がもたらさ れることがソーシャル・イノベーションなのであ る。このソーシャル・イノベーションは、従来の 社会システムに潜む問題点や矛盾を取り除き、シ ステム合理性を高めるだけでなく、人々に対し、 より豊かで意味のある生活世界をもたらすもので もある。こうしたソーシャル・イノベーションの 生成プロセスはマーガレット・S・アーチャーに よる「形態生成論アプローチ」の枠組みに基づい た理解が可能であり、交通系 IC カード導入の事 例を用いて明らかにできると考えられる。 2 . アーチャーの形態生成論アプローチ ( morphogenetic approach )  マーガレット・アーチャーは、ある社会構造の もとで繰り広げられる人々の相互作用の結果とし て社会構造のあり方が安定的に再生産される場合 がある一方、社会構造のもとで繰り広げられる人々 の相互作用の結果、社会構造変化がもたらされる 場合もあると主張した。そして社会構造と人々に よるエージェンシーとの相互作用の結果、社会に ラディカルで予見不可能な(unpredictable)再形 成がもたらされる可能性があることを、「形態生 成」(morphogenesis)なる用語で表現した(アー チャー[2007]: 107)。ここで形態(morpho)と いう用語は、社会には何らかの予めセットされた 形式(form)も、あるいは選好された状態も備え られてはいないのを示すために用いられ、生成と いう用語は、社会のあり方がエージェントによる

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活動の意図された、ないし意図されなかった諸結 果を踏まえて創出されるのを示すために用いられ ている(アーチャー[2007]: 7)。なおアーチャー は、社会構築主義論者や社会構成主義論者とは異 なり、個人のみならず社会も実在するという実在 論の立場から社会の変化をとらえようとする。そ して、実在する社会での変化を基本的に特色づけ るものは、社会の「構造」であり、具体的には、 技能、知識、資本蓄積、人口分布などについての 配分パターンで示されると考える(前掲書 : 109)。 さらにアーチャーは、経済・技術的な構造だけで なく、文化的な構造も社会の重要な側面だと考え る。ただし社会は、人々による相互行為なしには 存在し得ないので、その面をエージェンシーの働 きとしてとらえる。こうした構造・文化・エージ ェンシーのそれぞれについて、形態安定が達成・ 維持されたり、形態形成が見られたりすると主張 し、それらの形態生成が、条件づけ→相互行為→ エラボレーションというステップを経て生じると 主張している。ただし、各ステップでは数多くの ことが連続して生じているので、構造・文化・エ ージェンシーについての形態生成を示した図 1 で は、各ステップを線分として表示している。図の 横軸は時間の経過を示し、縦軸は各種変化の発生 領域を示している。ところで、社会や文化の構造 は、エージェントによる社会的相互行為に先行し て存在しており、そうした社会的相互行為の後に、 構造的エラボレーションがもたらされるので(前 掲書 : 108)、条件づけ→社会的相互行為→構造的 エラボレーションの順序で形態生成が生じると主 張している。  アーチャーが「構造」という言葉で示そうとす るのは物質的な側面について形成された経済・技 術的な生産や消費に関わる構造であり、それにつ いて形態安定または形態生成が生じている。また、 「文化」という言葉で示そうとするのは人々の観念 など精神的なことがらに関わるものであり、法制 度や教育システムに基づいて形成された人々の考 え方についての構造であり、この面についても形 態安定または形態生成が生じている。  こうした「構造の形態生成」は、図 1 で示され るように、社会構造が及ぼす「構造的条件づけ」 という動きにより、その生成が開始される。その 動きを踏まえて、何らかの方向づけ的ガイダンス がエージェントに及ぼされるのに基づき、エージ ェントは状況に立ち向かう論理(situational logic) を、①防御、②妥協、③排除、④機会主義(前掲 書 : 312)のなかから選び取り、何らかの社会的相 互行為を遂行する。それが「構造の形態生成」を もたらす次の動きである。そうした社会的相互行 為を通じて現状の構造の変革をもたらすような構 造的エラボレーションが図られ、「構造の形態生 成」が成し遂げられる。  社会の経済・技術「構造」は、さまざまな要素 (政治、経済、市場、技術など)から成り立ってお り、それらの要素相互に必然的補完性が存在する 場合、そのもとでの社会的相互行為は、防御的な 状況論理に基づくものとなり、既存構造の形態安

構造の形態生成

構造的条件づけ

社会的相互行為

社会的相互行為

構造的エラボレーション

文化的条件づけ

社会-文化的相互行為

社会-文化的相互行為

文化的エラボレーション

エージェンシーの形態生成

諸集団の社会-文化的条件づけ

集団的相互行為

集団的相互行為

集団のエラボレーション

T1 T1 T1 T4 T4 T4 T2 T2 T2 T3 T3 T3

文化の形態生成

図 1 構造・文化・エージェンシーの形態生成 〔出所〕アーチャー[2007]: 275

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定につながりやすい。また、社会のさまざまな要 素相互の間に必然的不協和が存在する場合も、そ のもとでの社会的相互行為は、妥協的な状況論理 に基づくものとなり、人々の間での不満を残しつ つも既存構造の形態安定に寄与するものとなる。  ところが、経済・技術構造の諸要素相互の間に 偶然的不協和が見られる場合は、排除的な状況論 理に基づき、既存勢力に最大限の打撃を与えるべ く、社会的流動性をもたらすような社会的相互行 為が遂行される。そうした社会的相互行為がいろ いろな社会集団によってそれぞれに追求され、そ れによる様々な結果の複合的産物として、それ以 前の構造的性質を修正し、新たな側面を導入する ような構造的エラボレーションがもたらされ、経 済・技術構造についての新たな形態生成が生じる ことになる(前掲書 : 128)。  「文化の形態生成」も経済・技術構造についての 形態生成と同様なプロセスを経て生ずる。ところ で文化とは、人々が保有するさまざまな信念や行 動様式の総体である。そうした文化システムによ る文化的条件づけが人々に及ぼされ、それを踏ま えて社会的・文化的相互行為が遂行される。ある 文化システムにおいて、たとえばキリスト教とギ リシア・ローマ文明との間のような不整合が存在 するにもかかわらず、共存的相補性がもたらされ、 文化についての構造が維持される場合がある。と はいえ、文化のもとでの各種信念・イデオロギー が競争的矛盾を生じさせているときは、不整合な ものを排除しようとする社会的・文化的相互行為 がもたらされ、そうした動きの結果、文化的エラ ボレーションがもたらされることがある。  ところで、社会と文化の形態転換には、「二重の 形態生成」が含まれる(前掲書 : 353 )。構造的・ 文化的エラボレーションがエージェンシーの働き に基づいて引き起こされる一方、エージェンシー そのものも、様々な相互行為を繰り広げるなかで エラボレートされるのである。人間集団は、生ま れながらに自らが引き継いだ社会―文化的諸構造 を維持しようとするか、さもなければ形態転換さ せようとするが、その取り組みのなかで自分自身 の集合的アイデンティティも維持しようとするか、 変化させようとする(前掲書 : 365 )。こうした諸 人間集団は、協働的エージェントと原初的エージ ェントとに区分される(前掲書 : 369 )。協働的エ ージェントとは、自分たちが疑問視する構造的・ 文化的な特性を変革するための行為に協調的かつ 能動的に関与する集団であり、原初的エージェン トとは構造的・文化的な特性に不平や疑問をいだ きつつ、冒涜や不服従あるいは個人的な隠遁とい った受動的で孤独な反逆を行う集団である。  以上で示したような構造、文化、エージェンシ ーのそれぞれについて進展する形態生成が相互に 影響を及ぼし合うことを通じて、社会全体のあり 方についての新たな形態生成が生み出される。  ところで、こうした形態生成の結果、社会のあ り方として常に好ましい状態が生じるわけではな い。たとえば日本経済社会において 1990 年代以降 長期停滞が持続し、それから脱却できないという 状況がみられたように好ましからざる状態が生成 され、持続することもある。とはいえ、形態生成 の結果、非常に好ましい状態が生じることも当然 あり、こうした多様な結果がもたらされることを 説明するべく、アーチャーが着目したのが、ロッ クウッドによる「社会統合」と「システム統合」 という区別である(前掲書 : 95-97 )。「社会統合」 とは、社会を構成する人々の間に秩序的な関係が 見られるのか、それとも抗争的な関係が見られる のかに関するものである。社会を構成する人々の 間に秩序的な関係が見られる場合、「社会統合」の 程度は高く、エージェンシーの動きは安定的であ るのに対して、抗争的な関係が見られる場合、「社 会統合」の程度は低く、エージェンシーの動きに は不安定性がともないやすい。他方、「システム統 合」とは、社会の諸要素(法システム、技術シス テム、教育システムなど)の間に秩序的な関係が あるのか、それとも矛盾があるのかに関するもの である。社会の諸要素の間に秩序的な関係があり、 相互に補完的なものである場合、「システム統合」

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の程度は高く、構造は安定的であるのに対して、 社会の諸要素の間に矛盾がある場合は「システム 統合」の程度は低く、構造をめぐる動きには不安 定性がともないやすい。こうした「社会統合」と 「システム統合」との区別をおこない、しかもそれ らが時間においてそれぞれ独立に変容すると想定 することにより、両者は時間的に共変化的ではな いことが示される。こうした時間的にずれて生じ る両者の変化の歴史的組み合わせによって、社会 変動についての説明力の新しい源泉を得ることが できる(前掲書 : 96)。なぜなら、システム統合の さまざまな状態によって「構造」をめぐる動きに 影響が及ぼされるとともに、社会統合のさまざま な状態によって「エージェンシー」の動きに影響 が及ぼされるが、こうした構造とエージェンシー をめぐる動きが時間的なずれをともないつつ相互 作用することにより、さまざまな社会状態がもた らされるからである。そのなかには、当初は予見 できなかったような、しかし従来の問題状況を克 服しうるような構造・文化・エージェンシーの形 態生成が実現されるケースも含まれる。このよう に、社会でのさまざまな変化形態のなかでも特に、 従来の問題状況を解消させるような社会的変化を もたらすのがソーシャル・イノベーションなので ある。次に述べる交通系 IC カード導入がもたら した変化事例も、アーチャーの形態生成論アプロ ーチの枠組みが示す多様な社会状態の出現可能性 のなかの特定ケースとして実現されたソーシャル・ イノベーションであると考えられる。 3 . 交通系 IC カード導入に基づくソーシャル・ イノベーション  JR 東日本が導入した Suica カードは、全国の多 くの交通機関と相互利用が可能な交通系 IC カー ドである。JR のみならず多くの私鉄の交通運賃の 決済に利用されるとともにバス運賃の支払いにも 利用され、駅構内売店や各種商店での決済にも利 用されている。この交通系 IC カードの導入によ り、消費者は切符を買う手間が省け、小銭の支払 いに苦労することから解放された。このように交 通運賃の決済のために導入された交通系 IC カー ドであったが、駅構内売店での代金支払いもその 導入によって可能となっただけでなく、駅ナカビ ジネスとよばれる駅構内の各種商店の増大が見ら れるなど、当初は予見できなかった結果をともな いつつ「ソーシャル・イノベーション」が実現さ れてきた。ところで、こうしたソーシャル・イノ ベーションの実現には、既存の社会構造のもとで、 いくつかの動きが見られ始めていたからこそ可能 となったという面もある。つまり、交通系 IC カ ード導入に基づくソーシャル・イノベーションは、 経済・技術的な構造の面、文化的な構造の面、エ ージェンシーの面での形態生成に基づきつつ、ミ クロとマクロとの相互作用を通じて生みだされて きたものなのである。 ⑴ 構造の形態生成  首都圏では、JR と私鉄、地下鉄の相互乗り入れ が図られ、多くの乗客が複数の交通機関を乗り継 ぐようになったものの、乗り継ぎに際して別々の 乗車券を提示しなければならないなど不便を被る 状況が以前には見られた。つまり、社会経済シス テム全体について ICT 化の推進という構造変化が 生じてきていたが、交通運賃の支払いについての ICT 化はまだ十分に実現されているとは言えない 状況に留まっていた。従来の磁気式改札機は、駅 員の手作業による以前の改札業務を一気に自動化 した画期的なものだったが、乗車券・定期券と改 札機との接触部が多く、それにともなうメンテナ ンス・コストの負担がかなりのものとなっていた (椎橋[2008]: 23)。こうした種々の面での不便を 解消するべく、共通の交通系 IC カードで運賃決 済を行なうというイノベーションの必要性が生じ ていた。1996 年には、運輸・通産大臣の許可のも とに、NTT データ通信、沖電気工業、ソニーなど 9 社が、鉄道やバスなど様々な公共交通機関で汎 用的に使える IC カード開発を目指す「汎用電子乗 車券技術研究組合」が設立された。そこでの議論

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に基づいて、次世代型乗車券に求められるコンセ プトが明確化され、「非接触」「共通化」「サービス 向上」「コスト低減」などのコンセプトが最低限の 基本仕様であるとして、他社とも互換性をもつ交 通系 IC カードをスタートさせる必要性が指摘さ れた。このようにして、交通系 IC カード導入に 当たっての「構造的条件づけ」が図られた。この 「汎用電子乗車券技術研究組合」には、さくら銀行 が、第一勧業銀行、住友銀行、東京三菱銀行、富 士銀行、三和銀行などの代表として参加し、そこ での検討を踏まえて、これから導入する交通系 IC カードに対して物販、金融などのサービスを相乗 りさせること、つまり電子マネーを搭載させるべ きだとの「構造的条件づけ」も課せられた。  こうした構造的条件づけを頭に置きながら、ソ ニーは交通系 IC カードの技術開発に取り組み、磁 気ストライプ式の乗車券に代わる非接触型交通系 IC カードを開発した。そこで、JR 東日本はその ソニーのシステムを取り入れて 2001 年 11 月 18 日 の日曜日から交通系 IC カード「Suica」の運用を 開始した。サービス開始からわずか19日目にSuica の発行枚数は 100 万枚を超え、翌年の 2002 年 10 月、サービス開始から 1 年経たないうちに発行枚 数は 500 万枚を突破した。  Suica は、2001 年のサービス開始の段階では東 京 100 キロ圏の 424 駅でのみ使用可能であったが、 翌年には 100 キロ以遠も利用エリアに加わり、さ らに仙台エリア、新潟エリアと利用エリアが増え ていった。Suica 導入後の状況を見て、JR 各社 ( JR 西日本など)をはじめ日本全国で Suica と同 様な IC カードの導入が始まり、導入した各社の 間での相互利用が図られた。2007 年には、首都圏 の私鉄、地下鉄、バスの事業者による統合 IC カ ードの PASMO(パスモ)が導入され、Suica と の相互利用が開始された。その結果、交通系 IC カ ードを利用した「世界最大規模のシームレスな交 通運賃決済システム」が形成されることとなった。 JR 東日本は、さらに 2003 年 3 月に電子マネーを 「Suica 」IC カードに搭載した。このようにして、 交通運賃決済方式についての構造的エラボレーシ ョンが達成された。 ⑵ 文化の形態生成  従来、わが国の技術開発においてはガラパゴス 化の傾向が見られ、各社は自社固有技術標準の設 定にこだわる傾向があることが指摘されてきた。 ただし、交通系 IC カードのように複数社に関わ るネットワークについての技術開発においては、 そうした自社独自性にこだわる文化が発展の障害 となることが自覚され始めていた。そうした状況 下で、前述の「汎用電子乗車券技術研究組合」が 形成され、そこでの議論を踏まえて次世代乗車券 に求められる「非接触」「共通化」などの基本コン セプトが示されたが、そうした条件を満たす交通 系 IC カードについての標準形式の設定が望まし いとの「文化的条件づけ」が図られた。なお、IC カードなどのデジタル媒体の利用についても、人々 による受容が進んできていた。「文化」とは人々の 観念に関わるものであり、ICT 化を社会のさまざ まな局面に対して適用しようとする文化を人々は 受け入れ始めていた。  IC カードには、情報の記録や演算を行なう集積 回路( IC )が組み込まれている。IC への情報の 入力方法には、金メッキをした接触パッドを読み 取り機に接触させて情報交換を行うことにより取 り扱い情報量を磁気ストライプ式の数千倍とした 接触式と、カード内部にアンテナの役目を果たす コイルを内蔵させ、カードリーダーから発生され る磁界にカードを近づけて無線通信でデータのや り取りを行う非接触式がある。銀行キャッシュカ ードなどには接触式が用いられているが、交通系 IC カードとしては非接触式の方が IC カードを定 期入れから取り出すことなく利用できるので好ま しいと判断された。そうした非接触式 IC カード については、ソニーがフェリカ方式による IC カ ードを香港の交通機関向けに開発をまず成功させ た。ただし、香港向けのフェリカ OS(オペレー ティング・システム)は、香港のオクトパスとい

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うシステムのみに対応するシングルアプリケーシ ョン対応のものであったため、「汎用電子乗車券技 術研究組合」の方から、OS をマルチアプリケー ション対応(たとえば JR 東日本のみではなく、私 鉄や地下鉄にも対応)のものとすることが求めら れ、ソニーは、マルチアプリケーション対応の第 2 世代フェリカ OS の開発に取り組んだ。  このように、ソニーとしては当初の考え方を切 り替えながら開発に取り組んだが、交通系 IC カ ードの開発と運用に関する考え方の転換が必要な 点がまだ存在した。それはシステムを中央で一元 管理するか、それとも分散処理とするかという問 題であった。銀行がシステム障害を起こして社会 問題となったことがあるように IT 化、ネットワ ーク化にはリスクがともないがちである。交通系 IC カードの運用を最終的にセンター・サーバーが 行なうという方式では、センター・サーバーのダ ウンによって致命的なトラブルが生じる可能性が あった。そこでセンター・サーバーと駅のサーバ ー、そして改札機端末の 3 階層のシステム構成に するというアイデアが示された(椎橋[ 2008 ]: 120)。この構成によるならば、センター・サーバ ーやネットワークの回線に不具合が生じても Suica システム全体に影響が及ぶことはない。一極集中 システムではなく、自律分散システムで対処する という文化の導入を図るとともに、マルチアプリ ケーション対応の OS とするというように考えを 切り替えることにより、交通系 IC カードに対す る考え方についての文化的エラボレーションが図 られた。 ⑶ エージェンシーの形態生成  構造的・文化的エラボレーションがエージェン シーの働きに基づいて引き起こされる一方で、エ ージェンシーそのものも、さまざまな相互行為を 繰り広げる過程でエラボレートされる。交通系 IC カードをもたらしたソニーや JR 東日本などのエ ージェント自体も、Suica の開発と導入への取り 組みを通じて、自社ビジネスに対してより進化し た考えをもつようになった。  ソニーの場合は、当初、交通系 IC カードの開 発を打診され、当面、技術的問題解決に専念した が、IC カードを開発した後、それについての広範 な市場を確保するには、国際規格の取得が重要で あることに気づいた。先進国では、国または国に 準ずる機関が 10 万ドル以上の調達を行う場合に は、国際規格があるものを優先的に採用しなけれ ばならないという WTO のルール(TBT 協定)が 課せられていたからである。ソニーは、そうした 大口取引の獲得を可能とするべく、IC カード製品 についての国際的標準規格取得を重視し始めた。 そして、香港交通システムについての IC カード 受注の後に、国際的標準規格の取得に成功した。 そのようにソニーは、技術標準についての国際規 格に対する考えを切り替えてきたからこそ、JR 東 日本の改検札システムへの競争入札に参加するこ とができ、結果として受注に成功することもでき た。またソニーは、JR 東日本のシステム受注とと もに、自社も加わって設立した電子マネー事業会 社であるビットワレットへの関与を始めるなど、 金融ビジネスへの関与も行い始めた。  他方、2001 年に Suica の本格運用を開始した JR 東日本は、その後 Suica への電子マネーの搭載を検 討し始めた。まず JR 東日本は、ソニーが共同設 立したビットワレット社に Suica への Edy の搭載 を打診したが、ビットワレット側はそれでは主導 権を握れない可能性があるとして、Suica への Edy の搭載を拒否した。JR 東日本と協力して「Suica」 IC カードを開発してきたソニーであったが、電子 マネーの搭載については、アーチャーの用語で言 うと、協働的エージェントとはならなかったので ある。  そこで、JR 東日本は独自の電子マネーの Suica への搭載についての検討を開始し、2003 年 3 月に 固有の電子マネーを搭載した Suica カードを発売 した。新しい Suica には、従来の Suica カードと 区別するため、ペンギンマークが付けられた。こ のようにして JR 東日本は、交通系 IC カードをプ

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ラットフォームとする新たなビジネスへの取り組 みを開始した。こうしたソニーや JR 東日本にお けるエージェンシーの形態生成をもともないなが ら、交通系 IC カードに基づくソーシャル・イノ ベーションが進行してきたのである。 4 .結論  交通系 IC カードの導入というイノベーション は、鉄道会社、乗客、バス会社、各商店など多く の関係者にメリットを与えるように交通運賃や各 種商品代金の支払い方式を変更したものであるた め、ソーシャル・イノベーションと呼ぶのに値す るものである。こうしたソーシャル・イノベーシ ョンの本質の第一の側面は、社会システムに新た な要素を導入して「システム統合」の再構成を行 い、新たなシステムを作りあげることである。交 通系 IC カードの場合は、首都圏の鉄道網におい て複数の交通機関が互いに乗り入れをする状況が 進展するなかで、社会全般で進展している ICT 化 を交通運賃支払いに適用し、キャッシュレス決済 を可能にするシステムを作りあげた。ただし、そ の本質の第二の側面は、現在直面する問題や悩み を何とか無くしたいという「生活世界」における 実感にねざした強烈な問題意識に基づいて、生活 実感の観点からも納得のいくように社会のあり方 を再構成することである。従来の切符や回数券、 定期券は利用者から見ると自動改札機への出し入 れが面倒であり、切符の購入に当たって券売機の 行列に並ばなければならないなど手間のかかるも のであった。こうした乗客が感じていた「生活世 界」上の悩みを、鉄道会社の側で十分、受け止め てはいなかった時期が続き、その意味で「社会統 合」の面で問題が存在していた。そういう状況下 で誰かが何かを望むことは、決してその通りに変 化が生じることはないとしても、変化への原動力 の基盤となる(アーチャー[2007]: 234)。あるエ ージェントのこうした取り組みが社会構造での問 題状況を反映したものであり、社会構造での動き を取り入れるようなものである場合、交通系 IC カ ード導入の事例が示すごとく、社会に問題解決型 形態生成をもたらすソーシャル・イノベーション の出現可能性が高まるのである。 【参考文献】

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Social Innovations as Problem-solving Type of

Morphogenesis of the Society:

The Case of the Introduction of the Transportation IC Cards

Toshiro HIROTA

Kansai University

Abstract:

Margaret S. Archer’s morphogenic approach has shown that evolving morphogenesis in each of the structure, the culture, and the agency are interacting with each other to create new morphogenesis in society as a whole. The result of such morphogenesis, however, do not necessarily guarantee that a favorable social state will be realized. Sometimes, unfavorable and stagnating social situations could appear. But, as a result of such morphogenesis, a very favorable and problem-solving situation could be brought forth. This paper tries to identify such type of morphogenesis as social innovations. Such social innovations can resolve the problems and the contradictions existing in the current social systems, and thereby be able to enhance the system rationality, but at the same time bring about a richer and more meaningful life-world to the people. The cases of social changes brought forth by the introduction of the transportation IC cards, which are discussed in this paper, can be regarded as an example of such social innovations.

参照

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