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東南アジア地域協力としてのASEAN設立 : 設立過程分析とASEAN研究の現状

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Academic year: 2021

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(1)東南アジア地域協力としてのASEAN設立 一設立過程分析とASEAN研究の現状-. 敬. 危機感を煽り,地域協力構想の土台形成とその. はじめに. プロセスに摘草をかけ,それはASEAN設立の (バンコク宣言)によ. 1967年にASEAN宣言1). Nations,. ASEAN)は,今日まで多くの機能的・組織的 変化を遂げてきた.設立当初はインドネシア, マレーシア,フィリピン,シンガポール,タイ. という5カ国だった加盟国が,. 契機となった.そしてこの複雑な情勢の下で育 まれたASEANは,地域統合,もしくは地域協. って設立された東南アジア諸国連合 Asian (Association of Southeast. イ, 1995年にべトナム,. 介. 1984年にブルネ. 1997年にラオスとミャ. 力機構としての特殊性を有するに至る. ASEANの有する特殊性とは,コンセンサス 方式に基づく「ASEANWay」と表現されるル ーズな運営と意思決定に代表される行動原理で あり,この特徴は設立初期, 1980年代から展開 された経済協力,そして今日の諸計画に至るま. ンマー,そして1999年にカンボジアを加えて10. で,共通している2).そしてこれは複雑な加盟. カ国へと拡大. ASEAN産業協力計画(ASEAN. 国間関係の中でASEANとしての結束を今日ま. Industrial. Cooperation. Scheme,. ASEAN自由貿易地域(ASEAN Area,. AICO)千 Free. Trade. AFTA)に代表される経済協力の積極的推. 進. ASEAN地域フォーラム(ASEAN. Regional. Forum,ARF)に代表される域外ダイアログ機 能の拡充.これらASEANの拡大と変革は,域 内に抱える課題の克服,そして国際社会の情勢 変化への対応の結果として斎されたと言える.. で存続させ,途上国における統合体としての進 展を可能にした決定的要素でもあった. 途上国における統合は,. 1960-70年代にかけ. て,ラテンアメリカではラテンアメリカ自由貿 易逮合(IJatinAmerican Free Trade Association, American. LAm). ,中米共同市場(central Common Market, CACM) ,アフリカでは西ア Economique フリカ経済共同体(Communaut6 de l'ouest,. ASEANがそうした域内課題の克服と国際情 勢変化への対応を課せられてきたという点で. Afrique. は,その設立に至る過程においても同様である.. AhicanStates,. CEAO). 済共同体(Economic. ,西アフリカ諸国経. Community. of West. ECOWAS).近年では,ラテンア. 独立国家形成と国民統合,植民地支配の後遺症. メリカにおける南米南部共同市場(Mercado. とも言うべきモノカルチュア経済からの脱却,. Comli. そして冷戦構造とインドシナ地域の共産化と関. フリカ連合(African. 係諸国間対立.これらの域内外に存在していた. ている.戦後の途上国における統合形体として,. 困難な課題は,東南アジア地域における国々の. ASEANは長期間にわたり組織・制度的発展を,. del Sur,. MERCOSUR) Union,. ,アフリカではア. AU)がよく知られ. l'.

(2) 118. (430). 横浜国際社会科学研究. 第10巻第3. ・. 4号(2005年12月). そして政治・経済協力スキームの進展を遂げて. 見出した.また経済協力の展開と,. きた.そして,日本,. スの拡大についても言及し,岡部達味と同様に. ASEANは途上国統合の成功例として捉えられ. 一貫してアジア地域における政治的情勢との関 連に注視した政治学分析を行っている.これら. NIESと続く雁行形態的 な成長プロセスに組み込まれたこともあり,. ARFプロセ. は今日のASEAN研究において重要な政治学研. てきた.こうしたことから,途上国における統 合問題として,更には途上国における開発問題. 究として位置付けられるものである.これらの. としても,. 研究に関しては,貿易・投資自由化を含む経済. ASEAN研究の重要性は増している. と筆者は考えている.. 協力が積極的に展開されてきたASEANの現状. 本稿は先行研究評価であり,筆者の研究ノー トとして位置付けるものである.本稿の目的は,. から,経済的分析の不足は否めない.しかしな がら,近年のASEANにおいてはARFなどの域. 第一に,現在のASEAN研究において,政治,. 外ダイアログ機能の拡充が活発化しており,現. 経済,国際関係といった様々なアプローチが試. 在国際関係に比重をおいた両氏の研究は更なる. 行されている中,それらを分類し現在の潮流を. 重要性を増している.. 明示すること.第二に,. ASEANにおける経済協力についての研究は,. ASEANWayと表現さ. れるコンセンサス方式に基づく運営方式を重要. 清水-史(1998),小林英夫(1999,. な要素として位置付け,今日まで議論されてき. る研究が意義深い.清水は,. たこの概念と途上国統合問題との関連について. 力・経済統合に関する経済学的な研究の欠落を. の検討.そして第三に,設立以前の時代背景, 政治的混乱,そしてASEAN設立への収束過程. 問題視し, AIC・AIP・mを「集団的輸入代 替重化学工業化戦略」の柱として位置付け,. の検証を基に,そのASEAN設立へと至った決. 1980年代までの貿易・産業構造分析やBBCス キームの実証研究からこれらスキームの結果と. 定的要素の明確化を行うものである.. ASEAN経済協. 問題点を独自の調査も加えて指摘した.またこ. 1.先行研究の現状 これまでの日本におけるASEAN研究は,岡 部達味(1977, 1989)や山影進(1991,. 2000)によ. れに参加した多国籍企業の活動(主に日系企業) と1987年第3回ASEAN首脳会議において採択 1997,. された「マニラ宣言」における加盟国首脳陣の. 2003)に代表される国際間題研究所を主 体とした政治分析によるところが大きい.前者. 海外資本に対する姿勢変化をASEAN域内経済. はASEANの機能自体をそれまでの新機能主義. 代前半までのASEAN経済協力・経済統合の現. 的な統合理論で捕らえることの限界を述べ,. 段階を統合理論に即して明らかにした.また,. ASEAN独自のルーズな「コンセンサス・モデ. 政治・経済統合におけるいくつかの理論をパッ. ル」による域内紛争鎮静化・対域外集団交渉と してその機能を位置付けた.これは途上国にお. チワークとしてリンクさせ途上国における統合. ける地域協力機構としてのASEANを統合理論. 統合理論に現在の統合において決定的に支配的. との関連でアプローチした代表的な研究の一つ. な事実を組み込んだ統合理論の確立を提唱して. である.後者は多くのASEAN関連議事録や非 公式会合の記録による事実に基づいて,東南ア. いる4).また小林は清水と同様に実証ではある が,日本企業から見たASEANの工業化という. ジア諸国の独立,共産化に対する安全保障問題,. 観点から,日系自動車企業の東南アジア進出過. そして地域協力機構の構想はじまりから. 程とその結果について詳細かつ具体的な研究を. ASEAN設立に至る過程を詳細に明らかにし,. 行っている.この研究自体がASEANを中心に. 安全保障という政治的な事象にその設立意義を. したものではないが,. 2001,. 協力の転換点と位置付け3),全般として1990年. を捉えることの限界についても言及し,従来の. ASEAN工業化協力,特.

(3) 東南アジア地域協力としてのASEAN設立(吉川). (431). 119. に比較的新しいBBCやAICOスキームにおけ. 取り巻く環境の変化に呼応するように浮き沈み. る日系自動車関連企業のネットワーク拡大の様. を繰り返してきた.ベトナム戦争やラオス危機. 相を実証研究に基づいて明らかにしている点で. といった冷戦構造に組み込まれた構図を象徴す. 重要であろう.. るインドシナ情勢の変化と,. 海外の研究では,シンガポールのISEAS (Instituteof. Southeast. Asian. ASEAN設立以前. の地域協力の枠組みにアメリカ・イギリスなど. Studies)やマレー. シアの国際戦略研究所(ISIS)により出版され. の西欧域外国が参加し政治経済的な影響力を行 使するという過程において東南アジア地域にお. た多くの研究文献はASEAN経済協力の実態を. ける地域協力の構想は育まれたと言える.. 探る上で欠かすことはできない. Chia. Siow. Yue. (1998, 2003). ,. ISEASでは, Mohamed. Ariff. ASEAN設立以前の地域協力構想は表1のよう にまとめることができる.アジア生産性機構. (1993, 1998, 2003) JosephL. H.Tan (1997)が 挙げられる. CbiaSiowYueは主にFDI流人と. 1959年に日本主導の下,東京で開催された第1. 産業との観点から,. ASEANの投資自由化政策. 回アジア生産性円卓会議,及び1960年にフィリ. の評価を行い,域内産業の競争力上昇に外資が. ピンのマニラで開催された第2回アジア生産性. 肯定的に寄与していることを明らかにした.. 円卓会議(マニラ)においてその設立が決議さ. Mohamad. れ1961年に正式に設立された.基本的に社会・. ,. Arifは統合という観点からAFTAを. (Asian. Productivity. Organization,. APO)は,. 検証し,関椀率引き下げと比較優位,またその. 経済分野における協力が核であり非政治的6)な. 対象品日の適用推移から,政策の有効性を論じ. 性格を有してはいるが,西側諸国の組織という. た.. イメージが強いものでもあった.. JosepbL.班.TanはAmに象徴される. ①1980 ASEAN域内経済協力の変化の背景に, 年代前半における競争的グローバル経済の発 生,. ②IT革命,. ③①による企業の嘩営革新,. 逆に政治色が前面に出され,最も冷戦構造に 組み込まれたことを表わしていたのが東南アジ ア条約機構(Southeast. Asia Treaty. Organization,. ④国民国家を超えたグローバルな社会・文化網. SEATO)である.これに参画しているフィリピ. の分散, ⑤地域主義の台頭を挙げ5),それまで. ンについては植民地時代の旧宗主国であるアメ. とは異なった観点でASEAN域内経済協力の転 換を捉えている.これらISEASの研究は,詳. リカと1947年に米比基地協定, 1951年に米比相 互防衛条約を結んでいることから自動的に組み. 細な実証研究が多く,結論が抽象的なものが多. 込まれたものと見ることができる.加盟こそし. く見られる.しかしながら,. ていないが同時期にマラヤ連邦7). ASEAN経済協力. (現マレーシ. の転換,そして近年のAFTA・AIAについての 詳細分析は多く,決して欠かすことは出来ない.. ア)引日宗主国であるイギリスとの間でイギリ. ISISではASEAN. Agreement,. Economic. Reserch. Unitという. ス・マラヤ防衛協定(Anglo-Malayan. Defence. AMAD)を結んでおり8),加盟せず. プロジェクト関連の論文や書籍が多く見られる. とも西側に属していた9).ある意味植民地関係. が,. が尾を引く形で組み込まれた背景には,当時東. ASEANの意思決定とコンセンサス・モデ. Thambipillai ルの言及に踏み込んだPusbpa (1985)の研究は,そのASEANの地域統合体. 南アジア地域は冷戦構造の中でも朝鮮半島と並. としての特殊性を検証する上で重要な役割を果. んで情勢が緊迫化していた状況が存在する.実 際1950年代末から1960年代初めにかけて緊迫化. たしている.. したラオス内戦はその構図そのものであり,そ. 2.. うした東南アジア地域における共産化による情. ASEAN設立以前の地域協力構想および背景 東南アジア地域における地域協力の構想は,. 勢不安定化は後の地域協力構想の大きな動機と なった.そして安全保障を核としたはずの.

(4) (432). 120. 横浜国際社会科学研究. 第10巻第3. ・. 4号(2005年12月). 表1東南アジア地域における地域協力機構(ASEAN設立以前). 1955年. 東南アジア条約機構. SEÅTO. フィリピン・タイ. 安全保障*2. 1961年. アジア生産性機構. APO. フィリピン・タイ*3. 社会・経済. ・961年. 東南アジア連合. ・963年. マフイリンド. APO規約. ASA設立宣言 岩t#*4'ii.%ff'& フ了言吉y.B;ィ -HILINDフィリ7to7/了苧'>Brl:ネシア軽 ASA. *2. ASEAN加盟国のみ表記. 「マニラ条約」と同時発表の「大平洋憲章」では経済・社会協力を強調.. *3. 1968年にインドネシア,. * 1. マニラ条約. 1969年にシンガポール,. 1983年にマレーシアが加盟.. *山影進(1991) PP.25-39,および黒柳米司(2003) P.12を基に作成. ,. 図1. ,. ASA構想の具体化過程. SEATOは加盟国間の意思不統一によりラオス危 機を収めることができず,そうしたSEATOの. し示した「ラーマン構想11)」とフィリピンのカル. 機能不全に対する不満と不信とが実質的に1961. ロス・ガルシア12)の政策方針である「ガルシア 構想13)」である.両構想において共通した認識. 年の東南アジア連合(Association. は,. of Southeast. 「経済・文化協力,地域協力」の必要性,西. Asia,ASA)設立への契機となっている.. 欧域外国からの経済・政治的脱却,経済発展に. 1961年に発足したASAの設立経緯は山影進 (1991),および黒柳米司(2003)によるところ. よる共産主義勢力の排除であり,先述した. が大きいが,それによるとASAに至る構想は. SEATOの状況と冷戦構造の狭間で東南アジア APO 各国の首脳陣が抱いた危機感と,. 図1の流れで構成される.根本はマラヤ連邦の. SEATOに共通する域外国からの影響力排除の. トウンク・アブドゥル・ラーマン10)が東南アジ. 認識は共通していたものだったと考えられる.. ア友好経済条約(Southeast and. Economic. Treaty,. Asian. Friendship. SEAFET)案によって指. この構想がASEANの設立へと直接的に結びつ く構想とならなかった要因には,加盟国である. と.

(5) 東南アジア地域協力としてのASEAN設立(吉川). マラヤ連邦・フィリピンの間でボルネオ島サバ をめぐる領有権争いが生じたことで設立後間も なく機能停止に陥ってしまったこと.そしてそ の間題に介入したインドネシアという重要国が 加盟していなかったということが挙げられる.. (433). 121. 変化に対する免疫不全,且つ経済・社会・政治 の安定を模索する途上国がそれら脆弱性を補う ための地域協力という枠組みの存在を必要とし ていたことを示しているのである. 3.. 1963年のマフイリンド(Maphillindo)14)につ. ASEAN設立以前の政治問題. いては,. ASA設立後に発生した上記の問題の解 決に起因し,その過程でフィリピンの現アロヨ. 3.1マラヤ連邦・フィリピンの衝突 第二次世界大戦で日本が敗戦し,イギリスに. 大統領の父で当時の大統領であるマカバガルが. よる植民地統治が復活したイギリス領マラヤ. 提案した「大マレーシア連邦」構想を修正した. は,. 枠組みである.詳細は後述するが,このマフイ. 果たす.マラヤ連邦は,後述するシンガポール. リンドは,基本的にはマラヤ連邦・フィリピン,. 併合によるシンガポールの共産化阻止と,その. そしてマラヤ連邦・インドネシアという対立構. 際のマレー人多数支配による優位性を確保する. 造の解決を背景に用意された枠組みであるた. ことを目的として,. め,設立宣言に位置付けられる「マニラ協約」 においては経済・社会・文化協力を明記しては. と,ボルネオ島のサバ,サラワク,ブルネイを 併合するというマレーシア連邦案を発表した.. いるが,紛争仲裁機能という性格を強く有して. このマラヤ連邦の発表に対しフィリピンは,サ. いるものであった.この「マニラ協約」につい. バはフィリピンの領土であるとしてマレーシア 連邦案にサバを組み込んだことに反発した.こ. ては合意内容の唆昧さが露呈し,同時期のマラ ヤ・インドネシア・フィリピン3カ国首脳会談 によって出された「マニラ宣言」および「共同 宣言」についても機構設立のための具体的決定. 1957年8月にマラヤ連邦として完全独立を. 1961年5月にシンガポール. のフィリピンのマレーシア連邦構想への反発に より,サバ領有権問題が表面化したのである. また,マラヤ連邦,フィリピン,タイによって. には程遠ぐ5),これらはフィリピンとインドネ. 結成していたASAは,この間題によって事実. シアによるマレーシア連邦成立延期のための合 意であると言える.またマフイリンド自体はマ. 上の機能停止に陥った.. レーシア連邦成立によって激化したマレーシ. ヤ連邦,そして植民地統治を行っていたイギリ. ア・インドネシアの対立で,機構として成立を 見ないままに崩壊している.. スが関わっており非常に複雑化している.フィ. このサバ領有権問題には,フィリピン,マラ. リピンは,. このようにASEAN設立以前の地域協力機構. 1878年にイギリスのアルフレッド・ デント社との間でサバ貸与の協定を結んだスル. の浮き沈みは,当時の東南アジア地域情勢を如 実に表わしていた.東南アジア地域の冷戦構造. ー首長国のスルタンの権利はフィリピン政府が 引き継いだとして,このボルネオ島サバに関す. への組み込みを裏付けるSEATO,非政治的で はあるが親西欧のAPO,西欧城外国からの経 済・政治的脱却と経済発展による共産主義勢力. る領有権を主張し,マラヤ連邦のマレーシア連 邦構想に反発した.このフィリピンの主張の礎. の排除に端を発したASA,西欧諸国による植民 地支配の後遺症である領有権問題をめぐる紛争. (2003)が,原文のマレー語にある`padjak'な. 解決の枠組みとしてのマフイリンドというよう. であったことが混乱の発端であった16)と指摘し. に東南アジア地域における地域協力の構想は 様々な政治的課題とその解決のために模索され. ているように,このサバ領有権問題の根本には. てきた.これは独立後の国家形成と,国際情勢. となる1878年の協定に関しては,黒柳米司 る語が「割譲」とも「貸与」とも解しうるもの. イギリスの植民地統治の影響が介在していた. 国際法上の議論は本稿の主題ではないので,.

(6) 122. (434). 横浜国際社会科学研究. 第10巻第3. ・. 4号(2005年12月). このサバ領有権に関する法的な是非については 省略するが,上記のフィリピンの主張に対して,. に武装蜂起し,北カリマンタン国民軍 Utara, TNKU)に (Tentera Nasional Kalimantan. マラヤ連邦はイギリスとフィリピン間の問題で あると静観しつつも,マレーシア連邦案を推進. よる反乱をブルネイ各地で起こした.これが. する17).結局フィリピンの抗議や,前述したマ. ルネイ政府の要請により介入したイギリス軍に よって1週間ほどで鎮圧され,ブルネイ政府は. カバガル大統領の大マレー国家連合案提案を無 視し,この提案により成立したマフイリンドの 枠組みを反故にする形で,マラヤ連邦は1963年 9月にマレーシア連邦を成立させる.これによ り,フィリピンとマレーシア連邦の対立が決定 的となり,更に後述するインドネシア・マレー シア連邦間対立の激化によってマフイリンド崩 壊へと至る.. 「アザハリの反乱」である.結局この事件はブ. マラヤ連邦との間でマレーシア連邦案への参加 を合意することになる.そしてこの事件を機に インドネシアは,マレーシア連邦案を提示した マラヤ連邦が反植民地主義ではなく西欧諸国に 変わる新たな植民地主義だと批判し,マレーシ ア連邦案はフィリピンとのサバ領有権問題だけ に止まらず,マラヤ連邦とインドネシアの対立. 構造をも生み出したのである.痕局こうした事 3.2. マレーシア連邦問題へのインドネシアの介入. 件が国内で生じてしまったブルネイは,連邦参. マレーシア連邦案が契機となったサバ領有権 問題において,前述したとおりマラヤ連邦・フ. 加におけるブルネイの地位や天然資源の取り扱. ィリピン間の対立が決定的となったわけだが, それ以外にも注目すべき動向が存在していた.. の参加を取り止める.. それは,組み込み対象となった地域におけるマ. ついて,成相修(2000)は,共産主義の影響を 受けた者による石油資源目当てのブルネイ乗っ. レーシア連邦案に対する反対運動である.そし てこうした反対運動は,マレーシア連邦問題に おけるインドネシアの介入を促すことになる. 特に代表的な反対運動は,. いなどの問題により,その後マレーシア連邦へ インドネシア介入の契機となったこの事件に. 取りという可能性を指摘した21).また山影進 (1991)はTNKUおよび反乱後アザハリらが独 自に結成した北カリマンタン統一国家(Negara. 1962年ボルネオ島 ブルネイにおいて起こった「アザハリの反乱」. Kesatuan. (ブルネイ動乱)である18).この「アザハリの. る「カリマンタン」がボルネオ島インドネシア. 反乱」は,マレーシア連邦問題拡大の契機とな. 領の事を指していること,そしてマラヤ連邦の. っておりASEAN設立以前の東南アジア地域に おいて重要な意味を持っている.詳細は次のよ. ラーマンの発言によってインドシナ領内に TNKUの秘密訓練基地が存在していたことが明. うなものであった.. らかになったと指摘している22).これらの指摘. 当時既に自治権を確立していたブルネイ内に おいて,ブルネイ人民党(partai. Rakyat. Brunei,. Kalimantan. Utara,. NKKU)に使われ. を勘定して,且つこの事件がマレーシア連邦問 題へのインドネシア介入の契機となっているこ. PRB)は左翼民族主義政党であり,ブルネイ成 人男子の約75%が加盟する19)人気政党であった.. となどを考慮すると,アザハリの反乱に対しイ. そして党首アザハリを中心にブルネイの早期独. で関与していたと考えられる.. ンドネシア(もしくはスカルノ)が何らかの形. 立を主張していたため,このPRBはマレーシ. ア連邦実に強く反対していた20).しかし,マラ ヤ連邦はこうした主張を認めずブルネイを含め. 3.3. シンガポール問題とマラヤ連邦のジレンマ. 既に触れたように,. 1961年5月,マラヤ連邦. たマレーシア連邦案を推し進めたことに反発. はシンガポールを,サバ,サラワク,そしてブ. し,アザハリを中心としたPRBは1962年12月. ルネイと共にマレーシア連邦構想へ組み込むこ.

(7) 東南アジア地域協力としてのASEAN設立(吉川). (435). 123. とを発表した.その背景には,マラヤ連邦が異. ガポール州において,旧マラヤ連邦側が危但し. なる行政単位でありながらも,シンガポールと. ていたマレー人優位の崩壊が明らかにされてし. 地理・経済・軍事の面において密接な関係を有. まうのである.. し,且つマレー系住民も少なくなかったこと, そして大多数の華僑によって形成されているシ. この出来事については,黒柳米司(2003)は 「全敗に激怒したラーマンは,シンガポールの. ンガポールに対し,中国の影響による共産化の 懸念が存在する.しかし同時に,この間題には. マレー人の裏切りを攻撃するとともに,華人系 PAPへの警戒心を募らせていった」と指摘し,. そうした華僑を組み込むことでマラヤ連邦内に. その後連邦政府とシンガポール州政府の摩擦問. おけるマレー人優位を崩しかねないというジレ. 題が相次いだことを説明している25).この指摘. ンマも共存していた.マラヤ連邦がシンガポー. にあるように,ラーマンはリーとPAPに対し. ルに対する葛藤を抱きつつも,それを克服しマ. て警戒していたわけだが,逆にリー自身も当時. レーシア連邦構想にシンガポールの組み込みを 決断したということは,ラーマンはじめマラヤ. ラーマン側がPAPを敵視していたことを認識. 政府が抱いていた「共産主義は脅威」という意. 両者の対立は確実であった.. しており26),マレー系と華僑系双方を代表する こうしてマレーシア連邦におけるシンガポー. 識の強さを表わしている. 一方組み込まれる側のシンガポールについて は,マラヤ連邦よりも2年遅い1959年にイギリ スから自治権を獲得し,その直前に行われた選 挙でリー・クァンユー(李光耀)が創設し書記 長を務める人民行動党(People's. Action. Party,. ルとマラヤの関係は,成立直後に問題点が露呈 し,その後急速に悪化した.そしてマレーシア 連邦の成立からわずか3年後の1965年には,リー が「マレーシア人のマレーシア」のスローガン を使ってマレー人優位を批判し始め,対するラ. PAP)が勝利していた. PAPの勝利により自治 国首相となったリーは,その後「合併を通じて. ーマンとマレーシア連邦政府もこうした人種対 立への危倶からシンガポール分離を決断する27).. の独立」をスローガンに掲げ,イギリス,マラ. 結局1965年8月にシンガポールは独立主権国家. ヤ連邦との折衝を行う23).最終的に彼は1961年. として成立したのである.. 8月にラーマンとの間でマレーシア連邦化に合 意し,シンガポールは翌月の9月16日に主権委. 3.4. 譲とともにマレーシア連邦に組み込まれる.か くしてマレーシア連邦は成立に至るわけだが, それから間もなく旧マラヤ連邦側とシンガポー ル側双方の温度差が明らかになる.. マフイリンドと対立構造変化. これまで説明してきた,サバ領有権問題,ア ザハリの反乱とインドネシア介入,そしてシン ガポール問題は,その間題の所在をマレーシア 連邦構想に置いていた.そしてこれらの問題に よって生じた紛争状態解決のために用意された. マレーシア連邦成立の5日後となる9月21日に 行われたシンガポール州総選挙では,リーが書. のが,マフイリンドであった.この枠組みは,. 記長を務めるPAPがこの選挙において圧倒的. フィリピンのマカバガル大統領が提案した「大. な支持を集めたことにより,実質的に連邦側が 懸念していたシンガポール州における華僑勢力. マラヤ連邦」構想28)が基になっているが,これ はフィリピンがマラヤ連邦と統合することによ. の強さが浮き彫りになった,また,その現状を 逆に証明してしまったのは,同選挙において連. ってサバ領有権問題を解決しようとする大胆な 提案であった.さらに,マラヤ連邦とインドネ. 邦首相となったラーマンが応援しクアラルンプ. シアの対立が明らかになると,マカパガルはス. ールに拠点を置くシンガポール連盟党の惨敗で あった24).この選挙によって,少なくともシン. カルノと協力し,インドネシアを含めた修正案 「大マレーシア連邦」構想をマラヤ連邦に提案.

(8) 124. (436). 横浜国際社会科学研究. し,サバ領有権問題へインドネシアを直接的に 組み込んだのである.. 第10巻第3. ・. して成立させたために,マフイリンドは崩壊し てしまうのである.. 当時マラヤ連邦のラーマンはマレーシア連邦 構想に関して一切譲歩する意志はなくマカパガ ル試案は実現困難となっていたが,こうした状 況は1963年5月にインドネシアのスカルノとラ. 4号(2005年12月). マレーシア成立の僅か2日後である9月17日に マレーシア政府の方から,フィリピン・インド ネシア両国と断交を発表したため,それにより マフイリンド以前からの対立構図が復活する.. ーマンとの会談が実現したことにより改善され る.この会談で大マレーシア連邦に基づいた3. フィリピンに関しては,マレーシアヘの批判に 対して国内からの批判や,周辺国からの説得も. カ国による地域協力が合意されたことを受け,. あり35),比較的早期である1964年2月に開催さ. 1963年6月,マニラで開催された当該国の外相 会談29)で「マニラ協約」が採択される.さらに. れたマレーシア・フィリピンの両国首脳会談に. 翌月の7月には,ラーマン,スカルノ,マカパ. よって関係改善している36). -方のインドネシ アに関しては,マフイリンド成立以前からイン Komunis Indonesia, ドネシア共産党(Partai. ガルら3カ国首脳はマニラにおいて会談を行い, 「マニラ宣言」, 「共同声明」,そして既に採択し. PKI)が掲げていたスローガン「マレーシア粉. ていた「マニラ協約」を含めて合意に至った.. 砕」に基づいた対決姿勢を激化させ,宣伝と軍. この合意で,スカルノとマカバガルは,民族自. 事による活動を本格化させた.スカルノの対決. 決の観点からサバとサラワクにおけるマレーシ. 姿勢は明らかで,そうしたPKI勢力の増大と共. ア連邦参加を問う住民の意思確認を国連に要請. に共産主義に傾斜していく.さらに,. して実施すること,そしてマレーシア連邦成立. 1964年に はマレーシアが1965年からの国連安保理非常任. の延期30)を盛り込むことに成功すると共に,秤 組み設立に向けての協議を継続していくことを. 理事国に選出され,それによりスカルノはイン. 決定した31).. イリンドの崩壊は,マフイリンド以前のマラヤ 連邦・フィリピン・インドネシアという三角関. こうして実質的に「マフイリンド」という枠 組みが形成されたのであるが32),前節で述べた. ドネシアの国連脱退を表明する.こうしてマフ. 係から,マレーシアとインドネシアの対立激化. ように協議継続中に崩壊し設立までには至らな. という変化,そしてインドネシアの国際的孤立. い.原因は先の合意で決定された国連調査団に. を招く結果37)となったのである.. よる調査方法およびその結果,そしてラーマン およびマラヤ側の採った決断にあった.. 1963年. 9月,国連調査団によってサバ,サラワクの住. 3.5. 対立構図の軟化とインドネシア政変. 前節述べてきた東南アジア地域における政治. 民意思調査がその後実施されるが,それにはフ. 的混乱は,西欧諸国の影響を排除した独自の地. ィリピン,インドネシアのオブザーバー参加が 認められないなど,実施方法は不透明33)なもの. 域協力の枠組みとなったASAの機能停止,そ. であったこと.そしてラーマンとマラヤ政府は,. 壊へと追い込んだ.そしてマレーシア連邦問題. I,の調査結果が発表される9月14日以前に,サ. を中心にした関係諸国の関係も,それまでのマ. バ,サラワクを含めたマレーシア連邦を9月16. ラヤ連邦・フィリピン,およびマラヤ連邦・イ. 日に成立すると発表していたことが原因であっ. ンドネシアという対立構図から,より決定的な. た.この状況で調査の正当性が疑われていた上. マレーシア・インドネシアという2国間の対立 構図へと変化する.. に,発表どおりの日程でしかもフィリピンとイ ンドネシアの合意を得ずに34)サバとサラワクを 含めたマレーシア連邦構想を「マレーシア」と. して生じた紛争解決のためのマフイリンドを崩. 対立構図変化の背景には,フィリピンの対立 姿勢軟化とインドネシアの対立姿勢強行という.

(9) (437). 東南アジア地域協力としてのASEAN設立(吉川). 125. 逆行が存在した.フィリピンに関しては,サバ. そうした影響から軍の一部は,スカルノ以後の. 領有権問題の解決は本来平和的に解決すべき外. 権力継承において国内反共勢力と対立していた. 交問題として扱っており,対決姿勢の復活に対 しては国内でも批判の声が存在していた38).そ. pKIと通じ, 1965年に武装蜂起する.これが 「9・30事件」であり,この事件を平定した陸軍. うした事からも,このマカバガルのマラヤ連邦. 戦略予備軍司令部(Komando. に対する対決姿勢の復活は,インドネシアのス. StrategisAngkatan. カルノに歩調を合わせていたために採った方針. スハルトは,その後陸軍最高司令官に就き,. であると考えられる39).これに加えて1964年1 月にはカンボジアのシハヌーク元首,そしてタ. pKIを断行する42)と共にスカルノ政権の基盤を も崩壊させた.この出来事以降,依然としてス. イのタナット・コーマン外相がマカバガルの元 を訪れ,説得に当たった.これをきっかけにし. カルノの影響力は強かったが,インドネシアは 実質的にスハルト体制へ移行することになる.. て,翌月2月にマカパガルはラーマンと会談し,. そうしたスハルトの影響力を排除しつつも,. フィリピンとマレーシア連邦との関係が改善さ れた.黒柳米司(2003)によれば,実は前節述. 1966年3月にスカルノからスハルトへ権限委譲43),. べた1963年9月のマレーシアのフィリピン・イ. 「マレーシア粉砕」の早期終結を目指し44),よ. ンドネシアとの断行発表において,ラーマンは 断行した両国におけるマレーシアの利害を代表. うやくインドネシアの対決姿勢は軟化に向か. する役割をタイに依頼していた.この指摘から,. シア45)は和解協定に署名し,対立の構図は解消. フィリピンヘの説得にも見られるように,タイ. されたのである.. Darat,. Chadangan. KOSTRAD)司令官の. そして新たに就任したアダム・マリク外相は. う.そして1966年8月,インドネシアとマレー. がこの間題に関して積極的に関与したのだと考 えられる.実際,こうしたフィリピンヘの仲介. 3.6. だけでなく後述するASEAN設立においても, 当時解消されていなかった問題に対し仲介に入. マレーシアとインドネシアの事実上の和解が 進む中, ASEANへの歩みは現実的なものとな. り,タイはASEAN設立以前の政治混乱におい. る.当時,マレーシア・インドネシア間問題の. て最終的,且つ重要な役割を担った.. 解決と平行して,新たな地域協力機構への模索. インドネシアに関しては,前節においても触. ASEAN設立と外交努力. が始まっていたことなどから,それに対する必. れたが「マレーシア粉砕」の下,スカルノおよ. 要性の認識は関係各国それぞれに強かったと考. びインドネシア政府はマレーシアヘの対決姿勢. えられる.しかしながら,そうした動向は第1. を強め,実際に1963年にはボルネオ島北部へ,. 節で説明したそれまでの地域協力の枠組みに替. そして1964年にはマレー半島へ破壊工作部隊を. えて,新たな地域協力の枠組みを作るという発. 投入するなど40)直接的な攻撃を仕掛けるまでに. 想ではなく,. なっていた.また1964年には,国連を脱退した. の模索にすぎなかった.こうした模索において 浮上した問題は,インドネシアとシンガポール. ため国際的孤立状態に陥り,それに伴い国内に おいては政治と経済双方で混乱が生じた.その 最も顕著な現象が, 「9・30事件」に端を発した. ASAやマフイリンドの延長線上で. の取り扱いをめぐるそれまでの枠組みに基づい た参加国拡大問題である. インドネシア参加問題については,. ASAの拡. スカルノからスハルトという体制移行である. 当時,スカルノ政権はPKIからの影響を強く. 大によって新たな枠組みを模索するマレーシア. 受け,共産圏中国と接近するようになっていた. と,マフイリンドに基づいたものを推進しよう. ことから,それに危機感を抱いたインドネシア 軍中枢はPKIと対立するようになっていた41).. とするインドネシアの摩擦によって障害が生じ た.それまでの経緯と背景を鑑みれば,マレー.

(10) 126. (438). 横浜国際社会科学研究. 第10巻第3. ・. 4号(2005年12月). シアとしては和解によって当時ASAが活動を 再開していたためASAの拡大をマレーシアが. 新機構樹立における一連の情勢においても重要. 考えるのは容易であり,また,インドネシアの. SEAARC案はインドネシアの非同盟主義を加. な役割を担ったのである.. 推すマフイリンドはマレーシア連邦成立阻止の. 味したものであり,実質的にはタイ-インドネ. 意味合いが強く,和解後間もない状況でそれを 警戒するのは当然であった.また,インドネシ. シア案であり,インドネシアへの大きな譲歩が 存在した.このことや,先述したようにマレー. アとしては,. ASA拡大によって自国が他国より も後に加盟することには,それまでの歴史的経. シア連邦問題によるASAの機能停止の経験か. 緯からも容易に洞察できるように,東南アジア. 存在感は強く,新機構へのインドネシアの組み. 地域における主要大国としてのプライドが許さ. 込みは重要であったと考えられる.. らも,東南アジア地域におけるインドネシアの. なかったと考えられる.またシンガポールの参 加に関しては,それまでのマレーシア連邦問題. これら一連の関係各国による外交努力によっ て,. とシンガポールの独立において関係が悪化して. 1967年8月5日,バンコク郊外のパンセンに おいて最終的な意見調整を経て,同年8月8日,. いたマレーシアが賛成しないのは当然であっ. ASEAN宣言(バンコク宣言)によるASEAN. た.. 設立へと至る.そしてこのASEAN宣言に署名. こうした状況を外交努力によって各国は解決 するのであるが,その役割を果たしたのは関係. したのが,インドネシアのマリク外相,マレー シアのラザク副首相,フィリピンのラモス外相,. 各国の外相らであった.各国の外交努力に関す. シンガポールのラジャラトナム外相,そしてタ. る詳細は山影進(1991)によるが46),先述した. イのタナット外相という47),マレーシア・イン. インドネシアのマリク外相の動向がその契機と. ドネシア問題から新機構樹立へと至る一連の外. なっているようである.彼は1966年4月にフィ. 交努力に奔走した当事者達であった.. リピンのラモス外相と会談を行い,そこでは新 たな地域協力機構についても採り上げられた. そして同年5月にはマレーシアとインドネシア. 3.7. 政治問題の解釈とASEAN設立の要因 先述してきた東南アジア地域の政治的混乱と. は大きく分類して次の4つに集約できる.第1に,. の和解にむけてマレーシアのラザク副首相との 会談を行い,仲介役として同席していたタイの. ASA提唱後にマレーシア連邦構想問題で対立し. タナット外相がマリク外相に対し新機構へのイ. たマラヤ連邦・フィリピン間の衝突.第2に,. ンドネシア参加を呼びかけたのである.その後 同調したマリク外相はフィリピン,カンボジア,. その間題に対するインドネシアの介入とブルネ. ビルマを歴訪し,新機構への参加を呼びかける.. ヤ連邦のジレンマとシンガポールの独立問題.. タナット外相は,各国外相との調整を経て Asian 「東南アジア地域協力連合(southeast. そして最後に,マフイリンド崩壊とその後の対 立構造変化という4点である.図2に示すのは,. Association. それら政治問題の相関図,そして表2がこうし. for. Regional. Cooperation,. SEAARC)」案を策定,およびその関係各国へ それを送付した.また彼はマレーシアが加盟に 難色を示していたシンガポールのラジャラトナ ム外相との会談を実施し,その後のマレーシア の姿勢変化にも表われているように実質的な仲 介役となった.マレーシア・インドネシア開閉 題の解決と同様に,彼をはじめタイはこうした. イの混乱.第3に,シンガポールをめぐるマラ. た混乱の中で中心問題となったマレーシア問題 の推移である. 問題は基本的にマラヤ連邦が推進したマレー シア連邦構想が発端となって生じ,その混乱の 展開と終息過程は表2のマレーシア連邦構想の 推移と合致している.このマレーシア連邦問題 の根本は,サバ領有権問題という領土問題であ.

(11) 東南アジア地域協力としてのASEAN設立(吉川) 表2. (439). 127. マレーシア問題の推移と参加国・地域一覧. マレーシア連邦構想. 1961年. マラヤ連邦 サバ. サラワク シンガポール ブルネイ. 大マラヤ連邦構想. 1962年. マラヤ連邦 サバ. サラワク. シンガポール ブルネイ フィリピン. 大マレーシア連邦構想. 1963年. マラヤ連邦 サバ. サラワク. シンガポール ブルネイ フィリピンインドネシア. マレーシア(旧). 1963年. マラヤ連邦 サバ. サラワク シンガポール. 1965年. マラヤ連邦. マレーシア. 園2. サバ. サラワク. ASEAN設立以前の政治問題相開園. る.要するに,西欧諸国の推進した東南アジア. と至るそのプロセスによって決定付けられたと. 地域における植民地政策が,後遺症となって表. 言える.. 面化した問題であり,それが独立をめぐる国家. これら地域協力構想の歩みからASEAN設立. 形成期であった東南アジア地域に混乱を招いた. へと至る過程において,重要且つ決定的な影響 を与えた要因を導出することが出来る.第一に. と言えるのである.. また図2からも明らかな様に,マラヤ連邦,. 植民地化の後遺症.第二に共産主義問題.そし. およびマレーシア連邦構想によって成立したマ. て第三にサバ領有権問題である.植民地化が残. レーシアはこれら4つすべての問題に関わり, そしてインドネシアもシンガポールを除いた国. したものは,一次産品に依存したモノカルチュ ア経済であり,独立国家としての自立的発展へ. との問題で関係を有しており,全体的には実質. の模索は急務であった.そして冷戦構造の様相. 的にマレーシアとインドネシアという対立構造. が東南アジア地域に現れると,各国指導者は共. の様相が強い.そしてこれらの政治的諸問題に は,タイを除くすべてのASEAN初期加盟国と. 産主義の元凶を貧困に求め,同時に経済的に主. 1984年に加盟したブルネイが関わっており,設 立後のASEANが有していた政治的枠組みとい. ら共産化の影響が及ぶことを恐れた,独立間も ない東南アジア諸国は,国民国家形成問題と同. うイメージはこれらの問題によって生じた混乱. 時にそうした影響を考慮して地域協力構想に対. と,前節で述べた解決,そしてASEAN設立へ. する意識を強め,模索していくが,その障害と. 要な地位を占めていた華僑に対しても,中国か.

(12) (440). 128. 横浜国際社会科学研究. 第10巻第3. ・. 4号(2005年12月). なったのは領土問題をはじめとする各国の衝突. 合理論だけでは論じ難いものである.しかしな. であった.これらの問題は強い相関関係を有し. がらASEANにおいて内政不干渉の原則にも象 徴される暖昧さやルーズさ,そしてコンセンサ. ており,これら問題の解決は同時にASEANの 設立へと結びついているのである.. ス方式こそが,統合体として遅々として域内協 力が進展しないながらも,過去の地域協力のよ. 4.コンセンサス方式と途上国統合. うに破綻・停滞せず,更には様々な協力計画推. 設立過程および初期の政治協力,そして現在. 進における加盟国間の利害衝突の緩衝材となっ. に至る経済協力の展開過程で共通して確認でき. たことを忘れてはならない.植民地支配による. るルーズな案件推進と各国間の意志折衝の暖昧 さを,本稿ではコンセンサス方式とした.この. 影響が残り,様々な民族,宗教が混在し,そし. 概念は,. Thambipillai. (1985). ,. Acharya. (2001). て開発独裁とも言われる強権的な政治体制を有 ,. しつつも,国家や地域におけるキャパシティ・. 岡部達味(1987)において説明された,機構の. ビルディングが不足していた途上国が多く集ま. ルーズさゆえに生ずるコンセンサス・モデルや Way49)とい 最大公約数方式48),そしてASEAN. る東南アジア地域において,そうした国々が結 束して地域協力機構を設立し運営していくこと. われる政策決定方式であり50),多様な表現が存. の困難を想像することは容易である.だからこ. 在する.そして山影進(2003)はそうしたその. そ,コンセンサス形成プロセスを通じての機構. 様を「交渉ではなく協議」51)と表現した.また. 設立・運営は,. 佐藤考-. であった.途上国における地域統合は,国民国 家形成と同時進行であり,複雑な事情を学んだ. (2003)はこれらの会議外交方式を. ASEANレジームとまとめて表現したが,こう. ASEANにとって決定的に必要. した方式は1980年代に活発化したASEAN域内 経済協力においても重要な役割を果たした.各. 地域一体の開発政策である.途上国統合問題を. 国間の利害対立が原因となって経済協力が停滞. 要性はより議論されていくべきであると筆者は. していった様は,過去の地域協力構想の失敗と. 考えている.. 検討する上で,こうしたコンセンサス方式の重. いう教訓を背景に,経済協力の推進よりも ASEANとしての結束を優先してきたことの表 注. われに他ならない.また前節で述べたASEAN 設立に至るまでの政治的混乱とその解決に見ら れる非公式的な「仲介機能」もコンセンサス方 式にとって重要な要素であろう.問題解決や計 画推進における交渉や協議という過程におい て,その当事者の間に時としてそれを仲介する 第三者の存在.特にマレーシア・インドネシア 間問題において働いたタイのように,その存在 はコンセンサス方式を円滑に作用させる潤滑油 の役割を果たしており,その機能の果たした役 割を認識することは重要である. 国際政治学的な見地からすれば,憲章や条約 ではなく,こうした方式に基づき,そして比重 を置き,今日まで統合形態を進展させてきた ASEANの事例は,新機能主義に代表される統. 1)諸研究では「ASEAN設立宣言」とされている ASEAN が,宣言の正式名称は「The Declaration (BANGKOK Declaration) 」である ので,ここでは直訳の「ASEAN宣言」とした. 2)詳細は後述. PP.93-106. 3)清水-史(1998), PP.189-192. 4)清水-史(1998), L. 冗.Tan, Joseph 5) ed., (1997), PP.1-18. 6) APO規約では「非政治的,非営利的かつ非差 APO 別的」な性格を持つと定められている. HP,. http://www. apo-tokyo. org/jpn/index.htm 7)現在のボルネオ島サバおよびサラワクを除い たマラヤ半島11州(スルタンにより統治される 9州と,ペナン,マラッカの2州を含む)から成 る.スルタンはマレーシア建国以前からその地 を治めてきた統治者のこと.. 8)マラヤ連邦は1957年にイギリスから完全独立. 9)山影進(1991),P40..

(13) (441). 東南アジア地域協力としてのASEAN設立(吉川). Rahman Putra 10) TunkAbdul alHaji.ラーマンは 健康上の理由で1959年2月-8月まで首相の地位 をトウンク・アブドゥル・ラザクに,外相の地 位をイスマイルに譲り独立後最初の総選挙に向 け力を注ぐ.同年の首相再任後,外相には1960 年8月までイスマイルが留任するが,それ以降 ラーマンは首相兼外相として1970年まで勤め た.. ①東南アジア地域 ll)ラーマン実の主要六項目. ②①をベースとした国 における経済文化協力, 内開発の推進, ③域外大国からの経済的独立, ④共産主義勢力の抑制, ⑤親西欧かつ非同盟諸 ⑥他国間条約機構の設立. 国による協力組織, P.26. 山影進(1991), 12) Carlos P. Garcia. 1957-1961年にかけて政権 を担当. 13)ガルシア構想の基となる基本方針は①対米従 属の軽減, ②アジア諸国への接近, ③SEATO の軍事的特徴の軽減,及び政治経済的協力の強 化, ④アジアにおける経済・文化協力. ①など は特にフィリピン国内における反米感情を考慮 したもの. ②・④からは,アジア地域における 協力の必要性をフィリピンが強く認識している P.27. ことが覗える.山影進(1991), 14)マレーシア・フィリピン・インドネシアの頭 文字. 15)山影進(1991),PP.70-71. 16)黒柳米司(2003),P15. 17)山影進(1991),P60. 18)事件の経緯,および当時の状況については Ranjit(1984)の研究によって,そしてこの事件 とインドネシア,及びマラヤ連邦との関連につ いては山影進(1991)により明らかにされている. 19) Ranjit (1984), P133. 20) Ranjit (1984), P132. 21)成相修(2000)は本文において「これは一説に よるとインドネシアのスカルノが仕掛けたとい う.共産主義の影響を受けた者が,石油資源目 当てにブルネイを乗っ取ろうとした.」として P125. 確実な言及を避けている.成相修(2000), 22)山影進(1991),P65. 23)黒柳米司(2003),P13. 24)リーの率いるPAPは全51議席中37議席を獲得. ラーマンのシンガポール連盟党は擁立した候補 P20. 者42名全員が敗北.黒柳米司(2003), 25)黒柳米司(2003),P20. P346. 26)リー・クァンユー(2000), 27)山影進(1991),PIO9. 28)山影進(1991) ・はこの「大マラヤ国家連邦」 構想を「大マレー国家連合」,そして本文の 「大マレ∵シア国家連邦」を「修正大マレー国 家連合」と解釈している.正確にはそれぞれ Malayan 「大マラヤ国家連邦」が「Greater. 129. 「大マレーシア国家連邦」が Confederation」, 「Greater Malay Confederation」とされているの で,本稿においてはそれぞれ直訳のものを適用 した.. 29)この会談では合意したのは①マレー系3国間 ②ボルネオ の定期協議や中央事務局設立計画, 人民の賛意確認を前提とするマレーシア連邦設 立支持,そして本文中にも記述した③サバ問題 の平和的解決などからなる「マニラ協約」を採 択した.黒柳米司(2003),P18,および山影進 (1991), P70. 30)延期される以前に決められていた成立日は 1963年8月31日. 31)この3カ国首脳会談における合意は次の2つ. ①マカバガル提唱の「大マレーシア国家連邦」 ②サバ領有権 を「マフイリンド」として実現, 問題を当地の民族に基づき,国際連合の介入に よって解決し,マレーシア連邦発足の延期とい うものであった.山影進(2001),P71. 32)先述したように,マフイリンドは機構として 設立する以前に崩壊へと至っていることから, 「マフイリンド」成立に関する認識は暖昧であ る.例えば,黒柳米司(2003)については「マ ニラ協約」を採択したマラヤ・フィリピン・イ ンドネシア3カ国外相会議が開催される直前か ら「マフイリンド」を使用.また山影進(1991) については, 3カ国首脳会議で出された「マニ 「共同宣言」と先述した「マニラ協 ラ宣言」 約」が揃った時点において「マフイリンド協議」 設立を認識しているようである.本稿において は後者に近い成立認識を有しているが,成立し なかったこの「マフイリンド」はいわゆる"概 念"としての要素が強いということを補足して おく. (1974), PP.170-176. 33)詳細はMackie ・. 34)マレーシア政府の立場は,マラヤ連邦を継承 しただけで新国家承認は必要ないというもので あった.山影進(1991),P76. 35)この説得に大きく貢献しているのはタイのタ ナット外相とカンボジアのシハヌーク元首であ った.詳細は次節. 36)フィリピンのマカバガルがスカルノの左傾化 を警戒していたことも要因のひとつ.山影進 (1991), P86. 37)ここで言う「孤立」とは基本的に本文中の国 連脱退を揖すが,当時のアメリカの反発や非同 盟首脳会議のインドネシア不支持という事象も 付随する. 38)山影進(1991),P86. 「マカパガルは, 39)黒柳米司(2003)によれば, マレー.系譜国の本来的盟主であり,アジア・ア フリカの新興国ナショナリズムの旗手でもある インドネシアに対して,ある種の憧憶の念を抱.

(14) 130. (442). 横浜国際社会科学研究. 第10巻第3. 4号(2005年12月). 会. 山影進, 『ASEANシンボルからシステムヘ』, 1991,東京大学出版会. 山影進, 「第5章ASEANから見た東アジア地域主 義の意義」 ;財務省委嘱, 『東アジア研究会報 告平成15年2月』 2003年. リー・クアンユー, 『リー・クアンユー回顧録』 (上) 2000,日本経済評論社.. き,自らのアジア的アイデンティティをインド ネシアから評価されたいと切望していた.」と し,マカバガルがそうした意思の元にスカルノ の姿勢へ同調したと指摘している.黒柳米司 (2003) P21. 40)黒柳米司(2003),P22. 41)山影進(1991),P87,P89. 42)当時それまでのPKIの横暴に不満を抱いてい た国民は,数十万人とも言われるPKI党員とシ ンパを粛清したと言われている.またこうした 意見とは対極に,アメリカとスハルト派の仕組 んだ「陰謀説」も存在する.黒柳米司(2003)! ,. ,. ,. Amitav. Acharya,. Problem New Chia. 43)これは「秩序維持と回復に必要なあらゆる措 置を講ずる権限」であり, 「3・11命令」とも呼 ばれる.黒柳米司(2003),P24. 44)黒柳米司(2003)は,マリク外相は強大な発 言力を有していたスカルノを牽制しつつ,イデ オロギー的な「新植民地主義・帝国主義反対」 から国民重視の「人民受難の声」へと段階的に 変化したとしている.黒柳米司(2003),P25. 45) 1965年に既にシンガポールは独立している. PP.94-98. 46)山影進(1991), Secretariat, ASEAN Document Series 47) ASEAN. York, Siow. Security. 0yder,. ASEAN. "Foreign. Asia",. Direct. in Cbia. ASEAN. lnvestment. Siow. Yue. in the. new. Singapore, Chia. Institute of Southeast Yue, "ASEAN in the Age. Siow. Reinventiong. ASEAN,. Joseph. International. Mackie,. Economy,. Asian. S山dies.. Singapore,. Institute. Overview:. AFTA. Economy",. AFTA. L.H.(eds.)". alld Marcello Asia, 1998,. soesastro(eds.)リ. 2003,. Asian Studies. of Southeast Tan, Joseph L.H. "Introductory Changing. in. of Globalization S. C. Toy, Jesus P.. in Simon and Information", Estanislao, Hadi and. the. and the London and. 200l,. Routledge.. Pacini(eds.),. PP.ll-13.. in the. in. in Tan, Changing. 1997, ISEAS.. J. A., Konfy10ntaSi:the Indonesia-Malaysia. Dispute. 196311966,. 1974,. London,. Oxford. UniversityPress. Mohamed. Ariff, AFT4/. Trade. Agreement,. Mohamed. An. Siow. Yue. ASEAN. in the new Institute of Southeast Mohamed Ariff, "Trade, Estanislao,. Asian. Asian of Southeast Pushpa Thambipillai,. 2003,. Insights,. Singapore,. and S. C. Toy. ,. Jesus P.. soesastro(eds.)., Singapore,. Institute. Studies. "ASEAN. Negotiating. in Pushpab. Saravanamuttu,. and Two. J., ASEAN 1985,. Styles:. ¶1ambipillai Negotiations;. Singapore,. Institute. of. ,. Southeast. Ranjit. Asian. Singh,. PT10blems. Oxford ASEAN. of. Studies. S,. Brunei. Political. 183911983;. Survival,. 1984,. the Singapore,. UniversityPress. Secretariat,. ASEAN, ASEAN. D.. ,. Pacin主(eds.),. Studies.. Hadi. Hindrance?,". or. Liberalization". Investment,. and ASEAN,. Reinventiong. Free. Center.. aIld Marcello Asia, 1998,. in Simon. lnterdependence",. Asset. Outwa71d-looking. 1993, East-West. "Intra-Regional Trade. Ariff,. in Chia. 参考文献 1977, 岡部達昧編, 『ASEANをめぐる国際関係』, 日本国際問題研究所. 岡部達味編, 『ASEANにおける国民統合と地域統 合』, 1989,日本国際問題研究所. Way' 黒柳米司, 『ASEAN35年の軌跡`ASEAN の効用と限界』, 2003,有信望. 小林英夫, 『日本企業のアジア進出-アジア通貨 危機の歴史的背景-』, 2000,日本経済評論社. 佐藤考-, 『ASEANレジーム』, 2003,勤草書房. 清水-史, 『ASEAN域内経済協力の政治経済学』 1998,ミネルヴァ書房. 末贋昭・山影進編著, 『アジア政治経済論-アジア の中の日本を目指して-』 ,2001,NTT出版. 成相修, 「ブルネイ・ダルサラーム王国」,大蔵省 財政金融研究所:編『アジア周縁諸国経済の現 状と今後の課題-アジア外縁諸国の経済情勢研 究会・報告書』, 2000,大蔵省財政金融研究所. 山影進編著, 『転換期のASEAN一新たな課題への 挑戦-』 ,2001,日本国際問題研究所. 山影進, 『ASEANパワー』, 1997,東京大学出版. Asia;. Yue,. lnternational ,. a. Southeast Regional. of. Sou也east. P28.. 48) ¶1ambipillai (1985) (2001), P70. 49) Acharya 50)岡部達味(1987),P26. 51)山影進(2003),P49.. Constructing. Communityin. P23.. 1967-1988,. ・. History. http://www. Secretariat,. 1967-1988,. aseansec.. ASEAN. and. Evolution. of. ore/history. Document. Series. 1985.. [よしかわ けいすけ 横浜国立大学大学院国際社 会科学研究科博士課程後期].

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参照

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